ロイヤル・ストレート・フラッシュ ＜前篇＞
その朝（５５） サイト開設１周年記念作品
１
「サンドロ！ アレッサンドロやーい！ 可愛い可愛いサンドロ坊やはどこへ行ったーッ！？」
ネアポリスの市長公邸、２０世紀初頭のモダンな様式を取り入れようとして失敗して、
市中心部の歴史的景観からすっかり浮いてしまっている中途半端な姿を晒していたみじめ
な建物は、新世紀を機に建て替えられ、簡素ながら最新の情報戦に対応した機能的な建物
に変わっていた。その、築２０数年のネオ・ロマンティックな公邸に、張りのある男性の
声が響く。市長にプライヴェイトでも近しい警備担当主任だ。
「こっちには来てませんよ」
厨房のスタッフがテーブル・リネンを回収して通り抜けざま声を掛けた。
「グラッツェ。まーどーだろーね、いつまでもガキみてえに」
「まだ遊びたい年頃でしょうに。あ、お着きになったんですか？ お茶はどちらへ？」
聡い給仕係は彼が少年を捜し回る理由に思い当たって重ねて尋ねる。
「おーそーよ、ちゃんと３人。庭でいいって。積る話もあるから。秘書にＳＰの合わせて
５人は入り口ででも立ち飲みさせとけや」
「承知しました」
「あそこんちの嬢ちゃん……」
「タルト・カプレーゼですね？ 承知してます。シニョーレが朝から腕によりを掛けてま
した」
「頼まぁ」と、にこりと手を振って、男はさらに足を進めた。
「サンドロ〜？ いい加減出てこねえとミスタさん怒るぜ？」
男はテラスに出て、出逢った男性に声を掛けてみた。
「カルロじいさん、そっちはどーだぁ？」
「うんにゃ、今日は坊主は来てねえな」
この公邸の主（ぬし）とも言える初老の庭師が首を横に振って見せた。
「じゃあいったいどこだっつーのよ？」
バタンとフランス窓を閉めて室内に戻った彼は、ふと目を見張った。
「へヘッ、しゅにーん、この時間人間のいるはずのない所に二酸化炭素の反応あるんだけ
ど、この情報どーよ？」
スーツを着崩した、まだ２０代に見える男が愉快そうに立っていた。
２
「みぃつけたぁ〜」
警備課情報担当の進言により、コンピューター・ルームのラックの陰に坐り込んで携帯
型ゲームをしているブルネットの少年を見つけて、彼、グイド・ミスタはにんまりと笑っ
た。
「……坊やはやめてよ」
「今朝確認したよな？ おれ。２時にフーゴんとこが一家で来るからちゃんときれいな服
に着替えて下に集合って。おい、そのニンテンドーの最新機には時計ついてねーのか？」
「付いてるよ」
アレッサンドロ少年は決まり悪げに目を落とした。絶対いつも寄りつかないところと思っ
て、敢えてこの生暖かいプラスティックくさい部屋にしたのだ。本来の彼は、日の光の下
で庭を駆け回る方が好きだ。
「今何時だ？」
「２時……１５分」
「合ってんな。おまえのためにみんなの予定が狂ッてんだよッ。他の誰よりおめーの親父
さんは時間とかに厳しいんだからよ、ちゃんとしなきゃダメだろ？
おまえには、あそこんちの嬢ちゃんの相手っていうじゅーよーな仕事があるんだからよ」
「だって……」
「とりあえず立て。だだっぴろいここんちのおかげで移動の間におまえさんから事情聴取
をする時間ってもんが取れる」
一応はスーツ姿に着替えていた少年の襟首を持って、ミスタは立たせた。年のわりに背
が高い。いつもちょこまかと動いているから体も均整が取れていて、１０代の頃には小遣
い稼ぎにモデルをやっていた姉同様、ちょっと事務所に来てみないかと誘われている。まっ
たく外見の整った一家だ。もちろん、顔立ちも魅力的だ。天使の頃を脱して大人になろう
という一種バランスの崩れたこの時期でこれなのだから、落ち着いたらきっと父親のよう
にちょっとした買い物にも交通渋滞を起こす美形になるだろう。
「ミスタ、おれ、やっぱ行かなくちゃダメ？」
大きな青い目をくるくるさせて、じっとアレッサンドロはミスタを見上げてくる。そう
いう生れつきの整った姿形がなくても、まっすぐ素直な気性と行動は周囲のものに愛され
るのだった。
……あー誰かを思い出すね。ねーさんちょっといたずらしたかな？ なんて、冗談、冗
談。
ミスタは、地獄の旅のあと、希望通り学校に戻ったが結局高校をひとの倍かかってやっ
と出て、ブチャラティの事務所に出戻った少年を思い出している。今は仲良く警備の部署
に着き、情報収集を担当しているナランチャを。まったく特殊能力の使い方も巧くなって、
さっきといいサンドロ捕獲にはいつも役に立っている。忙しい両親の代わりに彼らが構い
倒したから、お坊ちゃまのわりにアレッサンドロは庶民派だ。
「おまえさんはここで生まれて育ったんだから、公人ってもんの義務があんの。そうでな
くても、親の友達が来てるんだから、顔出して挨拶すんのは当たり前。
ま、おまえさんももう１５だからなー女の子の相手なんかやってらんねーッてのは解る
ぜ」と、ミスタは厳しいことを言いながらも、少し、理解を示してやる。
「だ、だろ？」
少し、目に光が戻った。
「ガブはどっちかっつーとオフクロさん似だしなー。目の保養って感じじゃーねーし。お
めー、ねーさん似だろ？ いや、どっちに似てもふつー面喰いだよな？ あれだけレヴェ
ル高い家族を見てたら要求水準高くなる」と、ミスタは無責任に問題を単純化した。
「ブスじゃねーよ！ ブスじゃねーけど、あいつ、あれなんだよ、えっと、……高慢ちき？」
と、すぐさまアレッサンドロはムキになって口を割った。
「ほほー？」
ミスタは横に立って歩きながら、愉快そうに少年を見下ろした。……いや、もう見下ろ
せない。
……やだなーアルプスの向こうの血って。こいつも親父みたいに約２メートルに育つの
かよ。
ミスタは舌を巻いている。
「『あたしのお母様は大学でお父様と出逢って、恋に落ちたのよ。そして、急に事情で大
学をやめられたお父様を探して探して探し当てて、お父様に想いを告げて、結ばれたの！
あなたのお母様だって、お父様をずっと慕ってらして、お父様が不遇のときに救いの手
をさしのべて２人は結ばれたと伺っているわ！ ２１世紀になったからには、女性の方か
ら求愛することには何ら障害はないんですからね！』って、なにいってんのってカンジ」
「……へえ？」
「頭いいのは解ってるけどさ、いっつも意味不明で。なんかわけわかんねーこと一人でしゃ
べってて、おれが付いていけなくて、適当に返事するとすぐ真っ赤になって怒鳴り散らすん
だよ。そんで怒られんのおれなんだぜ？ ……やだよ」
「あーあるよなー。男は辛いぜ」
ミスタはにしゃにしゃ笑った。
「ミスタ解ってくれる？」
「ああ。だがな、男は女性を泣かしちゃいかんのだよ、サンドロくん」
「えー！？ 泣かねーよ！ あいつ」
「いやいや、あとで絶ッ対泣いてるから。畜生、いい男はこんなガキの頃からもててんの
か。うらやましいぜ」と、ミスタは少年のさらさらの黒髪をくしゃくしゃかき混ぜた。
「わーっ、よせよミスタ！」
いやいやのわりにはアレッサンドロは赤くなりながらも廊下のそこここにある鏡を通り
すがりに横目で見て身なりを気にし始めた。もう、廊下の端には庭への扉が見えている。
１０月の庭は、薔薇をはじめ、花々がまだ美しく咲き匂っている。
「ねーちゃんは？」
「学会の準備で抜けられねーってよ」
年の離れた彼の姉は大学院で政治学を専攻している。
「じゃあおれ絶対出なきゃダメじゃん」
「そーゆーことよ」
「もう皆さんお揃いですよ」
ワゴンを下げてきた給仕係の男性が、にこやかに声を掛けてきた。
覚悟を決めた少年は、庭へ小走りに出て行った。
３
「どうしてちゃんとお客様をお迎えしないんだ！」
まず、父親が雷を落とした。美しい銀の髪を背中に垂らした美丈夫。市長公邸の動くギリシャ彫刻、レオーネ・アバッキオ。
もとオーナー・シェフのかれの表向きは公邸料理人の主夫だが、驚異的な「記憶力」・「調査能力」と危機にあたっての行動力
はそのパートナーである市長の危機を何度も救ってきた。石頭の彼は、センツァ・クラヴァッタなどという洒落めいた格好は頭
の端っこにも入れていなくて、旧知の人物の私的な訪問にもきっちり三つ揃いを着てネクタイで首を締め上げている。ヴィジュ
アル系のぞろりとした格好で市場を闊歩していた過去など消し去ったかのようだ。
「まあまあ、お客様の前でなんだ。アレッサンドロ、今度からちゃんとお迎えできるな？」と、その美しきパートナーがたしな
める。白い小さな顔の年令を感じさせないネアポリスの美しき女神。４期１６年の任期をそろそろ終えようとしている有能な女
性市長、ベアトリーチェ・ブガッティ。もとの名を、フロラ・ブローノ・ブチャラティという。昔からネアポリスの下町のテー
ラーで、とんでもない柄のスーツを誂えてくるのは変わっていない。今日も胸元を開けて黒いレースのインナーを覗かせている
が、そのジャケットは目も眩むようなロイヤル・ブルーで、それがまた不思議に似合っている。市長の一種独特なファッション
は市民の噂のたねで、遠くイギリスの賭け屋では「ネアポリス市長の今月の定例会の最初のスピーチの時のスーツの色」が掛け
の対象として十分成立しているらしい。ちなみに今月は「青：白：マゼンタ」がそれぞれ「２倍：３倍：１７倍」だった。ちな
みに珍しくスカートだったりすると「インターネットの掲示板にスレッドが立つ」そうで、ものの１０分で市会議場には傍聴、
もとい見物人が押し寄せる。
「生まれる前からのつきあいですもの、そんな、お客様扱いしなくって結構ですわ。でも、親戚のような近しさを感じているの
は解って頂戴ね、アレッサンドロ。大きくなったこと。もう、ガブリエルのような子の相手は詰まらないんでしょうね」
にこやかに会話を誘導するのは、客の貴婦人、ルチア・フェリーニ。ブランドもののスーツをごく自然に着こなしている。父
親は上院議員だが、自身も地元カンパニア州から政界進出を果たしている。華やかな顔立ちではないが、身のこなしの一つひと
つがきびきびとした中にも上品さを漂わせ、輝く目が知性を表わしている。
「いえ、いらっしゃいフェリーニさん。お会いできてウレシイです。ガブリエルも、ようこそ。おれ……じゃない、ぼく、ガブ
リエルと遊んだりするの別にイヤじゃありません」 アレッサンドロは気をつけしてちゃんと挨拶することができた。
「ルチア、きみは本当にひとがわるい。そんな言い方をしたらアレッサンドロもいよいよイヤだとは言えないだろう……ほら、
ガブリエルも、ご挨拶なさい」と、爽やかな笑顔で毒を吐いて見せたのはその夫。この街で昔パンナコッタ・フーゴと呼ばれた
男だ。今は勘当を解かれ、もとの名を回復し、その家のコネも活かして妻のブレインを務めている。後継者のいなかったグリマ
ルディーニの表の商売も引き継いでおり、市長の治世を表裏の経済面からバックアップしている。天使の美貌と才知も今は地上
に落ち着いて、黙っていれば穏やかな知識人となりおおせている。もちろん、今はきちんとしたクラシコのスーツを着こなして
いる。
「ごきげんよう。あなた、我慢はよくなくってよ。あたしとお話をするのがイヤなら正直に言ってもあたし気にはしなくってよ」
つんと横を向いて虚勢を張って見せた娘は、母親似の明るい栗色の髪をしていた。艶やかなその髪だけが印象に残る……たし
かに父親の遺伝子をあまり感じさせない面差しだった。シンプルながら品のいいドレスを身に纏っている。それでも、姿勢良く
膝の上に揃えた手が、心の乱れを隠しようもなく震えている。
「おめーがそんな気取った話し方したり、回りくどい言い方しておれがバカなの見下したりしなきゃイヤじゃねーよ」
「見下したりなんか！ ……しないわ」
「じゃあ２人仲良くできるな？ 結構だ。お茶にしよう」
完爾と笑んで、美人市長が場を纏めた。
「こちらへ来るとこの秘伝のお菓子が食べられるから楽しみなのよ」
ルチアが目を輝かせた。カプリ島の門外不出のタルトは、アバッキオの得意料理だ。
「ブチャラティの二十のお誕生日にって、彼が街の奥さんに弟子入りしてレシピを聞き出したんですよ、それなのに、ちょっと
したトラブルがあって、完成する前に連中が食べてしまって、しょうがないからってこのひと、自分も残りをそのまま手づかみ
で食べて！ アバッキオには『腹が減ってたから食べてしまった』ってごまかして！」と、昔を知るフーゴがもう時効だろうと
ばかりに暴露した。
「え？ そんな、リーダーのお誕生日のケーキを？」
ルチアが目を輝かせた。犯人とおぼしきミスタとナランチャを目が探す。
「だって、その時はまだミスタも入り立てで、ここで大げんかが始まったらチームが崩壊すると思って。全部食べてしまってい
たらさすがのわたしも一発喰らわせたと思うが、とりあえずこのくらいは口に入ったし、まあいいかと……おまえにもやっただ
ろう？」と、握り拳を振って見せながらフーゴを見やってブチャラティが苦笑した。
「アバッキオさんはそれで怒らなかったの？」
「怒るって言うよりもう力が抜けて。完成する前に眼を離したのは自分のミスだし」
客に背を向けたままアバッキオが呟いた。
「まったくお心が広いのね」
「その後のフォローには苦心した」
ブチャラティが肩をすくめてみせる。まったく、二十のあのころと同じ仕草で。
「あんたのことだからまた子供の前で言えないようなことなんでしょう」
目を伏せて紅茶を楽しみながら、フーゴがすかさず言った。
「バッ……フーゴッ！」
タルトを切り分けていて言葉を挟む隙もなかった料理人がいきり立つ。あれから四半世紀。美しくも地位ある人々は笑いさざ
めいた。
４
和やかな大人達をよそに、小さい人たちはまた少しもめていた。
「喰えよ」
切り分けられたタルト・カプレーゼをさらに自分のデザートフォークで半分にして、崩れた方の半分を一口で頬ばっておいて、
アレッサンドロはガブリエルの方へ差し出した。
「あら、なによ？」
そちらを見ないようにしながら、ガブリエルは反応した。
お金を出しても絶対口に入らない秘伝のお菓子。チョコレートと、ナッツの香りが天国のようで、そして、ふんわりとした口
当たりにずしんとくる甘さだ。
じつは、ガブリエルはネアポリス市長公邸を訪ねるのが楽しみで堪らない。父母は心を打ち割って話せる相手に会えてご機嫌
だし、珍しい美味しいお菓子や素朴だが味は確かな家庭料理でもてなして貰えるし、おまけに、きれいで優しい元気な少年に逢
うことができるし！
「おまえ、これ、好きだろ？ おれこんな甘いのそんな喰えねえから、やるよ」
「あら、気を遣っていただいてどうも！ でも、そんな切り分けていただいた分以上にいただくなんてお行儀の悪いこと、しま
せんわ！」
「いいから喰えよ。ダイエットとか、してるんじゃねえんだろ？」
「まあ！ それ以前の問題だわ。あたしのどこにそんな必要があると言うの？」
「ねえよ！ もっと太った方がいいぐらいだよ！ だから好きなもんぐらい自由に喰えよ。父さんのタルトはホントうまいんだ
からよ！」
「アレッサンドロ！ お客様にはもっと優しくお勧めしないか。
ガブリエル、良かったらお代わりしてくれないか？ まだ幾らでもあるんだよ。おじさんは、きみが喜んでくれると思って張
り切って朝から一番大きな型で焼いてしまったんだ。これは日持ちがしないから、今日ここにいるもので食べてしまわないとい
けないから、どうか遠慮しないでおくれ」
見かねたアバッキオが席を立って、皿をもう一つ持って近づいてきた。
「アバッキオさんのタルトはいつもあたし楽しみにしてるんです。ホスト自らお勧めしてくださるなら、喜んでいただくわ」
ギリシャ彫刻のような美丈夫に声を掛けられて、ガブリエルはうっすら頬を染めた。母譲りの面喰いなのだ。
「ああ、だが、うちの息子の顔も立ててやってくれ。まずはこっちをきれいにしてから、な？」と、２人の中間に置かれたまま
の皿を、ガブリエルの方へ寄せてやった。
「ええ、いただきます。ありがとう、アバッキオさん、アレッサンドロ」
そんなに美人というわけではないが、笑うとやはり年頃なりの輝きを見せる。日頃澄ましているから、その笑顔は貴重品だ。
実は、アレッサンドロはその笑顔がとても好きだった。
それで、アレッサンドロはホッとして息をついた。
アレッサンドロは母が市長に当選してから生まれた。本当に、公邸の中で大人達の中で育ったのだ。学校の友達とも普通に遊
ぶけれど、やはり、父母の内緒の話で盛り上がったりできるガブリエルは特別な友達だった。これで天才同士の親をもつサラブ
レッドだ。いつの間にか学年は追い越され、今年中に高校課程を修了するという。
目立たないように周囲に散っていたＳＰ連中も、内心安堵の息をついたようだった。
……うちのお嬢さんは素直じゃないから……。
しばらくは昔話やら、近況報告やらで盛り上がって、頃合いを見計らってブチャラティが口を開いた。
「アレッサンドロ、ガブリエルに庭を見せてあげておくれ。仲良くできるな？」
「できるよ！」
「じゃあ頼む」
大人達は、今日の訪問の本題に入ろうとしていた。
「首相の方からの内々のはなしなんだけど、うちがホストになってる来年のサミットを、ネアポリスでやります。それがあんた
の引退の花道ってことで、ブチャラティ……」
フーゴが持ってきたニュースは重かった。
「ばかやろう！」
父親の怒声が聞こえた気がして、アレッサンドロは足を止めた。ものの壊れる音もした。
「どうかした？」
ガブリエルが振り返る。
「なんでもねーよ」
アレッサンドロはポケットに手を入れたまま、足を進めた。庭の散歩道は、丹精されていてどうルートを取っても目を楽しま
せてくれるようになっている。
「ブチャラティさんは任期が終わったら引退するんですって？」
「しらねーよ」
「どこへ行くの？ ここは出るんでしょ？」
「聞いてねーよ」
「アレッサンドロったら！ ねーよばっかり！」
また天才少女は怒り出した。アレッサンドロは慌てて機嫌を取る。
「だって、あのひとら秘密主義でってゆーかいっつも出たとこ勝負で。すっげえウソ平気で吐くんだぜ？ 青息吐息でなんとか
取り繕っておいて、
『全て想定の範囲内です。計画に何ら支障はありません』って、しれ〜っと」
「でも有能でいらっしゃるわ。ネアポリスって、昔はひどい犯罪暗黒都市だったんですって」
「あーなんか聞いたなー。観光客とか一人歩きできねー街だったって」
「あなたのお母様がこの街を建て直したのよ」
「しらねー」
「アレッサンドロったら！ また！」
「うちにいるときは強烈ワガママおばさんだぜ？
『レオーネ、おまえの淹れてくれる茶はネクタル（神酒）にも勝る、いや、エリクシール（延命の秘薬）かな？』なんつって舌
先三寸で自分じゃ茶の一杯も淹れねー」
エリクシールというのは当たっているかも知れないとガブリエルは考えた。まったく、美人市長は年を感じさせない容貌を保っ
ている。
「お仕事をしてらっしゃるんだから。うちのお母様もお茶なんか淹れないわよ」
「おめーの母さんお嬢様じゃん」
「あ、あたしはお茶ぐらい淹れるわよッ！ 結構巧いってお父様も褒めてくださるんだからッ！ うちへいらっしゃいな、ご馳
走してあげてよッ！」
……また叫び出す。脈絡おかしいし。
面白いけど時々参るんだよなあ。アレッサンドロは肩を落とした。
「いーよおまえんち堅苦しいから」
適当に言うと、震える声が返ってきた。
「……マキーシーのおうちに帰るの？」
「ハァ？ なに？ マキーシーって、海のとこ？ セカンドハウスじゃん」
広い公邸で育つと、もとギャングの親を持つ闊達な子供も感覚はお坊ちゃまになる。素で答えて、事情をよく知る天才少女を
呆れさせた。
「だって、市長になる前は、離れて暮らしてらしたって。アンジェラさんはマキーシーで育ったっていつも聞いてるわよ？ い
つも海の香りがしていて、時化の時はとっても怖かったって」
「そりゃねーちゃんはな。母さん一人でこっちで仕事してたらしいし。引退っても完全にリタイアできるほど金貯めてねーから、
こっちでなんか細々とやるんじゃねーの？ えーと、何でも屋」
「コンサルタント業」と、すぐさまガブリエルは言い直した。
「なんもねーとこだよ？ 車で３０分離れただけであれだけ変わるもんかね？ おれはイヤだな。学校あるからつってこっち残
らしてもらおう」
「そうなさいよ」
少女は顔を明るくした。
「お勉強なら教えてあげる」
「ちぇ、おまえ、おれより年、下なんだからな？」
「あら、でもお勉強はあたしの方が進んでいてよ？ あなたに微分方程式がわかるかしら？」
「あー、ガッコで習ったことなんか世間じゃあ役に立たねーっていうやつが必ず例えに出すやつね」
アレッサンドロはせせら笑った。
「役に立つか立たないかで学問をどうこう言うのは心の貧しい人のすることよッ！ それじゃあクイズやパズルの存在意義も問
われてしまうわッ！」
ガブリエルはいきり立つ。
「おめー、金払って学校でパズルやってんの？ 贅沢」
ブルネットの少年は虚心に尋ね返した。
「それは言葉の綾よッ！ 思考の訓練を行うことによっていかなる問題にも論理的に対処できる思考能力を鍛えているんですッ！」
天才少女はなおもいきり立って彼につっかかる。目は涙ぐんでいるし頬は紅潮して、取り澄ましたお嬢さん然とした姿からは
一変してしまっている。けれど、この顔を見たくてアレッサンドロはいつも言葉を選ばないで話すことにしている。結果として
いつも大人達に叱られてしまうのだけれど。
「ああ、また喧嘩して帰ってきましたよ。ほんとうに彼らは」
くすくすとフーゴが笑って迎えた。
「うちのお嬢さんは母親似で困ってしまうな。
ガブリエル、どうしたの？ きみは感情を抑えることを学ばないといけないよ」
どの口が言う、と過去を知るものたちは心中突っ込んだ。
「お父様、あたしたち喧嘩なんかしてません」
ガーデン・チェアの脇に引き寄せられて、ガブリエルは顔を俯けて立ちつくしていた。
「ホントだよ？ デ、ディスカッション。意見のソーイがあっただけだって」と、アレッサンドロがこわごわ言い添えた。と、
テーブルの上に目を留める。
おや。
歩き始める前と、テーブルのしつらえが変わっている。クロスは同じ白地にネアポリスの市章を織りだしたものだけれど、畳
み皺の入り方がさっきと逆だし、茶器が変わってしまっている。タルトが片付けられたのは時間的にいいとしても、盛り花まで
なくなっているのは不審だ。おまけに、かれの父親が、椅子の背に身を預け不機嫌に顔を背けている。
……父さんなんか怒ることあったのかな？
視線をその秀でた額に刻まれた皺に止めていると、アバッキオは立ち上がった。
「茶、淹れ直そうな」
「うふふ。先だってうちでもリモージュが一式、修理に出ましたわ」
ルチアが含み笑いをした。
「ルチア！」
フーゴが小さく叫んだ。
「ほんとうに、感情を抑えることを学ばなくてはいけませんわね、誰もが、いくつになっても」
見回してくる青く輝く目が怖い。
「掛けなさい、２人とも」
なんだか首をすくめてアレッサンドロは母の声に従った。
５
サミットは夏だ。まだ半年、準備期間がある。
「昔はサー頂上会議って言って本当に７ヶ国で、文字通りこれが世界の最高峰ってカンジだったけどよー、ロシア入って中国も
入れろって言い出して、そしたら途上国も混ぜろとかもう収拾付かなくなって。困るよなー」
ミスタが実に軽く言ってのけた。
ドルチェが片付くと、近しいもの達の夕食の席は、一気に作戦会議の議場に変わった。
「おれたちはベルリンの壁が崩れたのが小学生の頃で、全然実感なかったけどな、冷戦崩壊って」
アバッキオがグラスに残ったワインで口を湿しながら言った。
「艦長が、これから東側のマフィアがどんどん流入するから気をつけろって言ってたけど、そういえば。今になってこそ解るけ
ど、当時はそんなの全然」
ブチャラティが昔を懐かしむ目を一瞬して見せた。
「やっぱブチャラティそこんとこが英才教育だよな」と、ナランチャが笑った。
「今は２０ヶ国内外が入り乱れる一大イヴェントになってしまいました。その分、散漫としたものになったきらいはありますが、
だからといって警備のレヴェルを落としていいということにはなりません！
２００１年以降のテロ対策の必要性は現在においてもなんら変化していないからです。更に今回、わざわざ舞台をネアポリス
に選んだ理由はですね……ちょっと、言いにくいな」
妻子を帰しておいて、フーゴは昔同様参謀の席に着いた。
「あたしたち、部屋に帰っていた方がいい？」
アンジェラが母に尋ねた。スタンド能力でその母の治世の初期にネアポリスのゴミ問題の解決に協力した少女は、成長して、
母の片腕となるべく政治学を学んでいる。裏でも表でも既に市長の戦力であるのだが、今はまだ少年の弟を憚ったらしい。
アレッサンドロにはまだスタンド能力の発現が確認されていない。
ただ、自分たちを目で追っている様子がある、とピストルズたちが報告しているので、潜在能力は認められている。今年で１５
の彼が、そろそろ能力者として目覚めることを一同は期待し、恐れもしていた。
「そうだな……アレッサンドロも残りなさい。アンジェラは当然だ。これは総力戦になる。相手はテロ組織や対立ファミリーなん
てもんじゃない。国家権力だ。わたしたちはイタリア共和国政府を相手に闘って生き延びる覚悟が要る」
厳かにブチャラティが宣言した。
「ねーさん？」
「お母さん！？」
父がお茶のテーブルをめちゃめちゃにした理由がアレッサンドロには理解できた。
「ローマのじいさんどもはわたしを使い捨てにする積りらしい。サミットでやらかして失脚してくれと。
できるだけ市民の皆さんには迷惑を掛けない積りだが、わたしたちは聖人じゃないからな、それで自分たちの身を危うくする
つもりはさらさらない」
あっさりと、もとギャングの有能市長は言ってのけた。
「サミットを花道にというのは誘い文句です。まあ、あのヨハネスブルクで曲がりなりにもサッカー・ワールド・カップを開催
できたんだし、ネアポリスの状況が劇的に改善されたってのは有名ですからここらで大々的に取り上げてもらってどさくさ紛れ
に首相の功績にしてしまおうって魂胆ですね」
フーゴが解説する。まったくこの参謀はこういうとき露骨に生き生きし始める。
「ずりい」
短くナランチャが応じた。
「今回危ないのは海外要人よりあんたです。国の威信がかかってますから、サミット自体は無事開催を狙ってくると思います。
……まあ、失敗したとしても泥を被るのはあんたという筋書きで」
「頭のいいやつらの考えることってな！」
アバッキオが鼻を鳴らした。なるほど、まじめな正義を志向することこの上ない父なら、話を聞くなりテーブルをひっくり返
すくらいはするだろうとアレッサンドロは痛感した。
「ま、あんた巧くやりすぎましたしね。目立っちゃダメですよ。ぼくがついてて加減してやれば良かったんですが、ぼくも最近
はルチアの方に付きっきりになっちゃってたし」
「自分の奥方を優先するのは当然だろう。気にするな」
ブチャラティが短く遮る。まるで、彼女が市長になってから集まってきた今のかたぎのブレインたちが能なしとでも言いたげ
だったので。
「せめてもっと早いうちから副業をおおっぴらにしてれば良かったのに。アパレルとか、ええと、農場を買っておくとか」
思いつきで言っているから説得力がない。だいたい、ブチャラティにその方面への関心や商才はない。
「要するに、ローマのじいさんたち、あんたがネアポリスでの成功をひっさげて中央政界に出てくるのを恐れてるんですよ」と、
フーゴがズバリと言った。それを察したフェリーニ上院議員方面からの情報のリークということだろう。この国は、まったく
コネで持っている。
「だって、カンパニアから出たんじゃルチアやそのお仲間と競合するだろう。その辺は、おまえ経由でその気がないってことは
もう申告済みだ。
それに、わたしはネアポリスまでは目も行き届くが、それ以上の規模まで面倒を見るなんてことはできないぞ」
もともとが、犯罪都市ネアポリスの大掃除のためのボス・ジョルノの指示だ。ブチャラティ本人に政治的野心はない。まじめ
なブチャラティが仕事に専心した結果、マフィアとの関係が次第に薄れていっただけのことで。結果で判断する市民達は、今や
ブチャラティの市政を支持している。
「能力のないおっさんたちの嫉妬ってのは根拠もなければ果てもないもんです。あんたも、若い頃からその辺は解ってると思っ
てましたよ」
若くしてネアポリスの代理人になった時から、ブチャラティはファミリーの幹部達から様々な視線に晒されてきたのだった。
「毎日仕事を片付けるのに必死でそれどころじゃなかった。まったく、あの頃の方が気楽だったよ」
若さと運だけでどんな苦境も乗り切った頃。
一同は、何度も生命の危機に瀕したあの地獄の９日間のことを思い出していた。
「小さいころから働きづめだからここらでゆっくりリタイア生活を送りたいと思ったんだがな。もっとマイホーム主義を強調し
ておくべきだったかな？」
やや薹は立ってきたが、まだまだ美しきネアポリスの守護女神は、とぼけた顔で言ってのけた。
「あんまり余裕を出して見せるなよ」
背後に立ったアバッキオが、肩に手を置く。
「……あのひとに連絡を取ってもいいですか？」
フーゴが声を低めた。
今やイタリア中央政界にも顔の利く、若く力のあるマフィアのボス。地獄の旅の勝利者にして、彼女を政界に送り込んだ黒幕、
ジョルノ・ジョバァーナ。
旅の途中で脱落したように見せかけて密かに後方支援を行ってきたフーゴは、まだ彼と繋がっている。
「総力戦だと言ったはずだ。使えるものはなんでも使う。……タルティーニさんにも繋ぎを取ってくれ。フーゴ、おまえの本業
にも差し支えない程度で。
ナランチャ、スミスさんはまだ現役だな？」
ブチャラティがネアポリスの海の色の瞳を煌めかせた。
「当然！」
ナランチャが両腕を肩の高さで開いた。ラジコン飛行機の姿のスタンドが食堂の天井付近を旋回する。
「ミスタ」
「ブチャラティ、ヒドイゼェー！」
「パーティにはヨンデクレナキャダゼェー！」
本体の代わりにスタンドたちがキーキー声を立てた。
「レオーネ、おまえの妖精さんは」
「もうすっかり動くメモ帳だがな」
すぐさま青い人影が背に浮かんだ。
「アンジェラ！」
「オオセノママニ」
金髪グラマーのマテリアル・ガールがその側に立ってハイ・ヒールのブーツの踵を踏みならした。
「ぼくも呼んでもいいですか？ 彼、もう出ないかも知れませんが」
「言ったろ、フーゴ。パーティに仲間はずれはなしだ」
その言葉に、フーゴの背後からも紫色の靄が立ち上る。なんとかヘルメットを被ったような人影を取った。
「久し振りにもとパッショーネのブチャラティ・チーム、いや、新生ブチャラティ・チームが一暴れしてみせようか。最後に立っ
てるのがどっちか、賭けないか？ 諸君」
トゲを頭にいただいた青いプロテクターつけた人影が現れる。半身になって、格闘家のように右手を前に出してかかってこい、
とばかりに指を立てて手前に向ける。
「こっちに決まってるぜ、リーダー」
一同は愉快げに声を合わせた。
隅っこでそれを口を開けて見守っていたアレッサンドロは、訳の解らない高揚感を、それなりに感じていた。
……おれにも出るんだろうか？ ああいうカッコイイスタンドが。
６
「いいか、軍も警察も信用するな。ファミリーもだ。一応愛想良く利用だけして、致命的な情報は絶対渡すな。……かえって外
国の情報機関の方が使えるかもな」
「ジャポネの内調とか？」
「あそこは情報がダダ漏れだからだめだ。……伝統的に諜報が弱いんだな、あそこは」
サミットは初めてだが、国際会議はこの１５年の間に何度か経験がある。ネアポリス市長の側近たちは忙しく方針の確認をし
た。
「女一人潰すのに外国からテロリストを呼ぶようなら死んでもらえ。世の中のためだ。
場所を設定できるなら、古いホテルや劇場のひとつやふたつ潰しても構わん」
有能という言葉は要るものと要らないものの切り分けが的確にできるということだ。ブチャラティはそれをいつも瞬時にやっ
てのける。
「上策は、テロリストをぶっつぶして、サミットを成功させて、ついでに裏で手を引いてたおじさん連中には破滅してもらって、
堂々の拍手喝采を受けてリタイアです。これを全力で目指すことに違いはありません。
でも、物事に１００％はありませんから。
優先の１位は、まずブチャラティの安全です。サミットなんか潰れても構いません。オリンピックの最中にテロリストに乗り
込まれて選手が殺されても先進国の顔をしていた国だってあったんです、単なるお祭りと化したサミットがぶっ潰れても、この
ご時世『イタリアだから』で済むでしょう。済ますはずです。それくらいの覚悟もなしにサミットを持ってきてたら軽蔑します
よ、まったく」
フーゴの舌鋒はとどまるところを知らない。
「次は、人命含むネアポリスの社会基盤の保持です。テロリストをぶっつぶして、頭のおかしいおじさんどもを追い払えたからっ
て、サミット会場が火の海、ネアポリスは灰燼じゃあ困ります。その辺は、ブチャラティの今までの方針とも矛盾しないと思い
ます」
「じゃーサミットは３番手？」
タイミング良くナランチャが先を促す。
「サミットより人命です。一応、外国要人たちの命が優先。それから、サミットを一応平和に終わってもらって帰ってもらうと。
……報道の人たちも含めて。
ああ、サミットで有意義な声明を出すとか、世界平和に貢献するナニゴトかを決めるとかはぼくらの関知すべきことじゃない
ですから。まあ、足を引っ張らない程度に。絶対こっちの足は引っ張らせないということで」
「厳し〜」
ミスタが肩をすくめて見せた。
「とりあえずは情報収集、ですかね？ 会議場所の設定なんかは政府レヴェルだと思いますから、フェリーニの方から直結で流
れてくるように計らいます。
テロリストの動向については、あのひとの方で裏世界の情報網を使ってもらいましょう。ええ。今回も全面的に協力してくれ
るそうです。
ああ、伝言です。
『今もあなたを心から愛しています』だそうです」
「ジョルノの冗談はいつも過激だな」
ブチャラティは実にあっさりと流した。
……どーよ？
……ねーさんって相変わらず肝太いな。
ナランチャとミスタが視線で会話をしている陰で、アバッキオは密かに胃の辺りを押さえていた。
「愛を口にしながら人のうちに波風をたてるあたりの感覚はぼくにはついていけません」と、フーゴは自分の判断を示しておい
た。
「ついていけねーとか理解不能とかいいながら阿吽の呼吸なんだよなー、いつも」
「頭のいいやつの感覚ってわかんねー」
ミスタとナランチャが嘆息した。
「次元の違いというやつです。あのひとの判断が正しくて行動が理にかなっている限りはお付き合いするというだけの話」
もはや地上の参謀となりおおせた堕天使は、そう言って冷たく笑って見せた。
そして、ジョルノが覚悟を決めたときの発想とその実行力はフーゴの天才の思考の次元を超越している。それがこの天才をし
て犯罪組織の首領に心服せしめている。
７
場が解散した後も、参謀はぐずぐずと食堂に残っている。茶器やグラス類を下げて、カーテンを引いて回っていたアバッキオ
が、静かに尋ねた。
「それで、奴らの狙いはどこまでなんだ？ 恥をかかせて終わりか？ あいつが悔しがる顔が見たいのか？」
「あんた顔に出る質だからいやですね」
短く言ってフーゴは間を取った。
「総力戦ってことは、やつら、命を取りに来るってことか？」
アバッキオは重ねて問うた。
「ジョヴァンナ・ダルコって、知ってます？ １００年戦争期のフランスの」
フーゴは一段と声を落とした。
「聖女だろ？ 最後はイギリスにとっつかまって火あぶりにされた」
「彼女は最後は味方であるフランス側からイギリスに売られたんですよ。あんまり奇跡の聖女として人気が出すぎたから。貴族
どもの権威を危うくしそうだってんで。勝手な話です」
あとはお手盛りの魔女裁判で、魔女として火刑にされた。
「だが、復権した。名誉回復して、ちゃんと列聖されたし」
唸るようにアバッキオが言う。
「何百年後ですよ。だから、やり過ぎちゃいけないんです。とくに、女性はね。
あのひとの政治的生命を奪うのが目的です。
……『魔女裁判』があるかも知れません。若い頃ギャングをやってたことぐらいしか、あのひとには弱みなんかないでしょう
が。あとは、つきあいで賄賂の少しぐらいですか？ それとも、あんたが潔癖にみんな断ってました？ トラウマで。
……最悪、本当に命を狙われることも覚悟してください」
ひっそりと、フーゴが告げる。アラブ世界にはいるらしい、そのひとに死を告げに来る天使が。もうはやこの天才は天使では
ないと思ったのに。
「なんとか、ならないのか！？」
アバッキオが声を絞り出した。端整な顔は、彫像そのものの色になっていた。これは自分の道楽だが、ネアポリスを建て直し
たい、それができるのはあなただけだ、そう言って、ブチャラティを政界に送り込んだのはジョルノだ。
「生き残れても、傷は大きい。落としどころを、今、あのひと……ボスの方です、と２人で探っているところです。ですから、
あんたたちがすることは、手落ちなくサミットを成功させて、生きて要人達をサミット会場から送り出すところまでです」
「……解った。ややこしい工作は任せた」
「ええ。昔からそうだったじゃないですか。ぼくは頭脳労働、脚で情報を探るのはあんた」
フーゴは不敵な笑顔を顔に浮かべて見せた。
「あんたのその能力、フル活用してもらいますよ。なにが動くメモ帳ですか、耄碌しちゃって。昔はジェットまで飛ばしたって
言うのに」
「いや、その」
「すっかりタレントになっちゃって。イタリアで一番有名な主夫ですって？ 偉そうに。本を出さないかなんて言われてるんで
すって？ ばかばかしい」
「絡むなよ」
「あんたが得意そうに露出するからまた不細工なオジサンどもが焼き餅を焼くんでしょうが、ホントに、脚引っ張ってるんじゃ
ないですよ」
「……済まん」
歩くギリシャ彫刻が、次々責められてぺしゃんこになった。
「車が来たようです。じゃあ、あんまりショックな顔をさらして歩いてあのひとに心配掛けないでくださいね」
「解った」
気のいい男は自分の顔に手をやって肯いて見せた。
車に乗り込んでフーゴは溜め息を吐いた。最後は結局自分がアバッキオに当たってしまった。あの男はいつも大人しくやり玉
に挙げられることで周りの人間のガス抜きの手段になってくれている。それで周囲の役に立っていたこともあるのだが。この年
になってもそれをやってしまうとは自分でも思っていなかった。
あれからもう２５年も経ったというのに。
自分はあの頃から何も変わっていないのだろうか。
自分を取り巻く環境は激変したというのに。
ナランチャはまだブチャラティの周りをうろうろしているし、ミスタは飄々と好き勝手にしながらジョルノの命令通りブチャ
ラティを守っているらしい。
彼らもまた、時々にスタンスを変えつつも心は分かちがたく寄り添っている。
自分たちは正義でもなければ英雄でもなかった。
ただ、生き続けたいと思って最善を尽くしてきただけだ。あの２５年前の、悪夢の旅の間も。
ならば、また、最善を尽くすだけだ。
弱いものを踏みつけにすることを憎むブチャラティ・チームの黄金の精神をもう一度輝かせて。
はて。
その中で、まだ未確定要素のブチャラティの息子、アレッサンドロの役割はなんだろう？
彼はまだスタンド能力が発現していない。それを見てからのことだが、とフーゴは若い頃のブチャラティ、というよりナラン
チャを偲ばせる少年のことを少し胸に思い描いた。なに不自由なく育った彼は、黄金の精神を胸に宿しているだろうか？
８
「シニョーレ、いい月だな」
その夜、庭を黙って見下ろしていたアバッキオは、カルロじいさんに声を掛けられた。
「ちょっと一杯付き合っちゃあくれねえか」
「ああ」
アバッキオは一枚羽織って庭へ下りた。ラップを掛けておいた皿を持って。
カルロはテラスの縁に腰を下ろして、スキットルの酒をあおっていた。その彼に、取り分けておいたタルト・カプレーゼを差
し出しながら、アバッキオはまずは謝った。
「余りもんで悪いが、摘み代わりに。……今日は済まなかった」
それを受け取っておいて、庭師はさらりと言った。
「いい大人がご婦人の前で茶をひっくり返したりしちゃいけねえな」
「ああ、そうだな」
「ドレスに染みがついちまうだろ」
「うむ」
「火傷したらどうすんだ。お嬢ちゃんだっていらしたのに」
「悪かった」
「人間は逃げられるからいいが、あいつらには足はねえんだからな？」
じつは、これが本題である。彼はプロ意識のある庭師だ。公邸に生えている若木の１本まで自分の子供のように思っている。
アバッキオ管理のハーブにまで勝手に世話を焼いて喧嘩になるくらいだ。熱湯を浴びせられては植木や芝が傷むと言っているの
だ。
「全面的におれが悪い」
アバッキオはぐうの音も出なかった。
「気をつけてくれよな。治るにも時間がかかるんだ」
「解った。以後気をつける」
「サミットがあるならここのうちにもお客がいっぱいいらっしゃるだろうに」
「そうなのか？」
「ネアポリスでサミットをやるのはこれが初めてじゃあねえ。３０年ほど前にだってあったんだ」
「じいさん、そのときも？」
「バカ言っちゃいけねえ。まだ駆け出しで、郊外のお屋敷に出入りさしてもらってただけだが、高官クラスじゃなくて、荷担ぎ？
とかいうあだ名の下っ端の役人どもが下準備でしきりに出入りすんのは見たぜ。会議がやたら増えて、夜は車が混雑したもんだ。
晩餐ってほどじゃないが、シニョーレ、あんたも毎週ご招待の夕食会の覚悟をしといた方がいいぜ」
「まさかだろ」
公邸の厨房を取り仕切る男は頭を抱えて見せた。テロ警戒で毎晩の見回りをフーゴに指示されているというのに。
「あんたなら大丈夫だよ……ネアポリス中の三つ星リストランテのシェフが震え上がってるってな？ いちど公邸に出張して晩
餐の手伝いをすると、一切合切技を盗まれるって。あの彫刻みたいなシェフは天才だって」
「それで最近はどこも出張してくれなくなったのか。手前で全部晩餐仕切らなきゃなんなくなって、鍛えられたぜ」と、アバッ
キオはふて腐れた。
完全再生のスタンドを、もっぱら動くメモ帳呼ばわりするわけである。見本が目の前にあったからといって、それをそのまま
再現する技術は本人の努力の賜（たまもの）なのだが。
「……あんたら来年限りなんだな」
感情を見せない声でカルロは言った。
「ああ、ずっとここに住めるわけはないさ」
「寂しくなる。ヤンチャ坊主どもがいなくなると」
「はは、あんたにもよくしてもらったしな」
アバッキオの色の淡い眼が遠くを見透かすようになる。
最初に公邸スタッフとして市長一行とぶつかったのはこのカルロだった。
９
「おはよう、いい朝だな」
ブチャラティの市長就任を期に別居は解消し、１０年ぶりに２人は毎晩一緒に過ごすようになった。ブチャラティは露骨にゴ
キゲンで……、一方アバッキオはなかなか生活のリズムを作れないでいた。また寝坊してしまって、もうはや生ゴミを出す日と
か洗濯機を回す手順とかに頭を悩ませる身の上ではないとはいえ、ちょっと自己嫌悪が募ってきていたところへ。
「これで少しは元気を出してくれ。今夜は市の役職を招いた晩餐が入ってる。頼んだぞ」と、新市長閣下は大きな白い薔薇を一
輪、ぽいと枕元に差し入れた。香りが強い。蜂蜜のようだ。朝露が頬にかかってアバッキオは飛び起きた。
「どうしたんだ、こんな……買いに行ったのか？ 高かったろ？」
「いや？ 散歩してたらその辺に咲いてた。いいだろ、ここんちの庭だから」
「ここんちって、……たしかに今はあんたのうちだが……ああ、きれいだな、ありがとう」
もそもそ言って、アバッキオは身支度を始めた。
「そろそろおまえの焼いたオムレツが食べたいんだが、市長とはいえ妻が厨房に立たないとスタッフに陰口をたたかれるかな？」
「おれの立場がいよいよなくなるからやめてくれ。今日の所はプレーンでいいか？」
「なんだかあのバラのせいでハニートーストが食べたいな」
「任せろ」
２人がいちゃいちゃ話しながら食堂へ移動していると、スタッフ同士が揉めているのに出くわした。
「いったいどこのどいつだ！？ おれの温室からいちばんよく咲いたフェアー・ビアンカを持って行きやがッたのはッ！？ そん
なふざけた真似をするやつはいままでいなかったのに！」
顔を真っ赤にして怒っていたのは庭師のカルロだった。
「だから今までのスタッフでそんな大それた真似をするやつはいないって」と、厨房の助手が困り顔になる。
「そうですよ。そんなことしたらどんな目に遭わされるか、知らないものはいませんもの」
メイドが頭を振ってみせる
「じゃあ一体誰がッ！？」
「だから新しく入った人たちなんじゃ……？」
旧来の公邸スタッフは、一応は公務員だ。ギャングの使い走りをしていた経歴を隠さないマフィアの紐付き市長とその子飼い
のスタッフを軽く見る気持ちがあった……。
「どうしたんだ？」
そこへ、愛する夫を伴った美人新市長が声を掛けた。おはようございますという口々の挨拶は手を振ってやめさせる。
「おれが管理してる温室の花を盗んだやつがいるんだ、シニョーラ」
「温室の、花？」
ブチャラティが時間稼ぎをしている間にも、アバッキオの顔から血の気が失せた。
「今夜の晩餐でお客様のテーブルに飾る盛り花に使うんだったのに！ いったいどこのどいつだ！？ シニョーラ、あんたのお
嬢ちゃんにここの花はいたずらするんじゃねえとちゃんと言っといて……」
「それは、白い、蜂蜜の匂いのするでかいバラ、だったりするか？」
じつにとぼけた白い顔のままに、ブチャラティは詳しく尋ねる。
「そうだよ！ このうちの花はただ楽しみで育ててるんじゃねえんだ、晩餐やら午餐やらお茶の会やらでお客さんをお呼びする
ときに飾る花を考えて準備してるんだからよ、遊びで持ってかれたんじゃ困るんだよ！ シニョーラ、あんたの子分の手癖の悪
い小僧どもにキッチリそう言って締めてくれなきゃ困るぜ」
「済まねえッ！」
新市長の愛する専業主夫がすっ飛んで消えたので、一同は犯人は彼だと断じたのだったが。
グラスに挿して平身低頭提出された薔薇を検分して、カルロは居丈高に言った。
「あァ、萎れちゃあいねえみてえだが、シニョーラ、こんなに茎が短くなっちまっちゃあ盛り花にできねえだろうが。花瓶に挿
すんだから、花は茎が３０センチはないと。ご婦人の胸に飾るんじゃねえんだ。
シニョーレ、やっちまったもんはしょうがねえが、今後はこういうことがねえようにしてくれ。まったくよ、朝っぱらからい
ちゃいちゃしやがって、子供ももう大きいんだろうによ」
一同はもう直立不動でお小言を聞いている。
「ああ、済まなかった。だが、やったのはわたしなんだ」
しれしれと言ってのける美人市長の陰で、身の置き所もなくしているその夫を見比べてみたら、絶対彼女が夫の不始末を庇っ
ていると見えたが。
「アリバイってのはないんだが、こいつは無実だ。昨夜からわたしが無理をさせたから、とても朝そんな余裕はなくて」とうっ
とり下からその夫の首に白い腕を絡めて見上げてみせる。
「お、おい……」
夫の方は腰が引けている。引っ張られて少しはだけたシャツの襟元に紅い内出血痕がひとつ、ふたつ……。
スタッフ達は思わず目を逸らした。
「今朝わたしが庭を見せてもらっていたら、あんまりきれいなんで。そうか、お客様にお見せするバラだったのか、それは済ま
ないことをした。茎が長ければいいのか？ ちょっと繋いでみるが、直ったらいいか？」
「シニョーラ、折っちまったもんが繋がるわけが……」という間に行動的な新市長閣下は温室に行って、正しく折られたもとの
茎に白い大輪のバラを繋いで鉢ごと持ってきた。
「カルロさん、これでいいか？」
スティッキィ・フィンガーズ大活躍である。
「テープかなんかで繋いだのか？ そんなんで夜まで保つわけがないだろう。まったく、今時のの若いのは恐ろしいことをしや
がる」
細かく検分しながら、カルロは口だけは厳しく言った。
「ホントに済まなかった。いつもはこんな手癖の悪いことはしないんだが、こんなすてきな屋敷と庭が自分のうちだと思ったら
浮かれてしまって。彼とはずっと離ればなれだったから今はなにをしても喜ばせたいんだ。大きくて、色も形もきれいで、香り
も良くて！ ほんとにいいプレゼントだと思ったのに……お客様用だったとはな。残念だ」
「ああ、シニョーラ、お客様がお帰りになるまで咲いてたらあとは寝室に持ってっていいから！」
うんざりしたようにカルロが手を振って立ち去って、スタッフ達も頬を緩めて解散した。
アバッキオは顔を朱に染めて立ちつくしていた。
「……ばかやろう」
１０
午後になって、アバッキオはちょっとした焼き菓子を焼いて庭師に差し入れに行った。
「今朝は、女房がみっともねえ真似して済まなかったな。これ、摘んでくれ」
パリパリに焼いたパイ生地の中に甘いクリームを詰めた地元の焼き菓子だ。
「ふん。イタリアーノが、女に花を貢がれるってあべこべじゃあーねーかよ。恥ずかしくないのか、色男。それとも、ほんとに
おまえさんは女に庇ってもらッてんのか？」
「いや……おれはネアポリスは１０年ぶりで、ちょっと調子がでねえからあいつも気を遣ってくれてるんだ。ほんと、だらしな
くて済まねえ。うちの子にも、花は勝手に摘むんじゃねえって言っといたから、この通り」と、頭を垂れた。
「へっ。でかい図体して、専業主夫ってのはなんだ、男のくせに。女房働かしててめえは遊んでたのか？」
「いや、田舎で娘を育てて。一応店も持ってたから。……若い頃仕事でしくじって荒れてた時にあいつに拾ってもらったんだ。
その頃からおれが料理をやってたから。
摘んでくれよ、近所の奥さんに習ったんだが、一応お墨付きはもらってるから」
「男がちまちまスフォリアテッレなんか焼いてんじゃねーよ……へっ…………甘いぜッ」
渋々手を伸ばした庭師は、一口かじって言い捨てた。
「ああ、口に合わねえか。ちょっと甘めだったかな？」
リモンチェッロで香りをつけたカスタード・クリームは、アンナの直伝だ。
「今はもう少し甘みを抑えたのが流行りだろうがよッ……ほんとに甘いぜ」
カルロは次第に遠くを見る眼になった。
「ああ、いやだったら無理にとは言わねえ」
「……隣のババァが焼くスフォリアテッレがこんな味だったぜ、こんなのばっか喰ってるからあそこんちのババァはドアにつっ
かえるほども胴回りがあるんだってガキの頃ダチと言ってたもんだ」
「ああ、あんまり甘いのは身体に良くねえな、済まなかったな」
「ホント、おまえさんはなんでこんなもん作るんだよ、もっとちゃらちゃらした菓子とか作るのかと思ったぜ。そんなアタマし
て、なにがシェフだ、冗談じゃねえ」と言いながら、手はつぎつぎパイ菓子を口に運んでいる。かりかりと、薄いパイの皮が一
口ごとに散る。雀が来てそれをつつき始めた。
「いや、おれは教わったとおりにしかできねえから。厨房にはいるときは髪はちゃんと括ってるし……おっさん嫌なら無理に食
べなくていいんだぜ？」
「おれに持ってきたんだろうが？ おれがどうしようと勝手だろ」
「あ、ああそうだが……」
「おまえさんは今夜の支度があるんだろうが。さっさと仕込みに入らねえか。気を抜いた料理を出してシニョーラに恥をかかせ
るんじゃねえぜ」と、皿を抱え込んで庭師は急に居丈高になった。
「あ、そ、そうだな。じゃあ、皿は詰所にでも出しといてくれ」
「ああ」
訳が解らないが、とりあえず、スフォリアテッレは気に入って貰えたとアバッキオは認識した。そういういう昔の話。
１１
アバッキオが回想に入っているのを感じて、カルロも同じ事件を胸に呼び起こしていた。かれの記憶ではまだ続く。
「おっちゃん、アバッキオをいじめんなよ」
デビュー戦間際の公邸料理人兼市長の夫が慌てて立ち去ってすぐ、木の陰からブルネットの青年が出てきてカルロに声を掛け
た。
「おめえは……シニョーラの腰巾着だよな？」
「いちおー警備情報担当だよッ」
ナランチャが声を荒げた。もう２５，６にはなっていると聞いたはずだが、街で賑やかに遊んでいる少年達とどうも印象が変
わらない。……高校に６年も行っていたせいかもしれなかった。
「……坐れよ」
「アバッキオのスフォリアテッレそんなに喰ったら喉乾くぜ？」
「構わねえ」
ベストの懐から、スキットルを取り出してあおって見せた。
「あ、ずりぃ」
「シニョーラやスタッフには内緒な？」
庭師はにやり、と笑って見せた。
「おめえも喰うか？」
「うん！」
残り３つほどのスフォリアテッレを見せられて、ナランチャは嬉々として横へしゃがみ込んで手を伸ばした。
「アバッキオは、そんな、チャラい男じゃねーよ。どっちかっていうと、暗くてうっとーしー男」
「はぁ？ あれが？」
「真面目でさ。ちゃんとした立派な大人にならなきゃってずっと思ってたのが、仕事でしくじって、思い詰めて落ちぶれまった
の。それをブ……Ｂ．Ｂ．が拾ってさ。それまでホット・ミルクも自分で淹れたことなかったってのに、おれ達にまともなもん
喰わせようって賄い引き受けてくれてさ、近所の奥さん連中に料理習ったんだよ。芋の皮もホント剥いたことなくって。最初は
手を傷だらけにしてたけど、痛いとも辛いとも恥ずかしいとも言わねーで、おれたちにちゃんと飯喰わしてくれたんだ。そんな、
小さいころからマンマのそばを離れないで料理教わってたとか、チャラチャラして女にもてたくて料理習ったとかじゃーねーん
だよ」
「こんなもん焼いて持ってくる男がか？」
「そうだよ。
Ｂ．Ｂ．も、ギャングって、遊びたくって、カッコつけたくて入ったんじゃねーんだ、うちのじじょーで、もうそこしか行き
場がなかったんだ、おれたち。高校もいかねえでおれ達を喰わせるために下町の集金やトラブル処理にかけずり回って。やっと
一息つけるようになったころ、角んとこに立ってる新人の警官に惚れちゃったんだよ」
「警官？」
「そう。ただ毎日パトロールのついでにぽーっと見てるしかできなかった片想い。おれもしばらく気がつかなかったぐらいの。
それが、賄賂を取るにも泣きそうな顔するような世渡りの下手なお巡りで。とうとう、相棒が自分を庇って死んだっつって再起
不能になってやめちまって。Ｂ．Ｂ．あからさまににしょげてて。やっと見つけて拾って、一緒に暮らし始めたと思ったらすぐ
赤ん坊できちゃって。もう、ファミリーの偉いさんにばれないようにおれたちメッチャ苦労してなんとか産ませて。
どうするよって言ってたら、ファミリーのボスの代替わりの事件あってさ、おれたち新しいボスにちょっと恩が売れたわけ。
そんで、無理言ってアバッキオだけ抜けさしてもらって子供育てながら田舎に住んでたわけよ。そんな、ちゃらちゃらしたギャン
グごっこやってた不良が１０代で子供産んで飽きて喧嘩して別居してとかそういうんじゃないの、あいつら」
「……そうかい」
「おれやミスタはそりゃ、チンピラも同じに見えるかもだけどさ、アバッキオのことはあんまりそういうふうに見ないでやって
くれよ？ 今は結構常識人になってるはずだぜ？」
「常識のある料理人があんな頭してるかよ」
「あーそれはＢ．Ｂ．が長いの好きなんだよ。拾った頃すげー荒んでて、髪も伸びちゃってたのを軽い気持ちで、なんかカッコ
イイって言っちゃたらお互い引っ込みつかなくなって。いっぺん刈り上げたらＢ．Ｂ．すっげーガッカリしてたっけ」
「まあ、仕事の時ちゃんと括ってるならおれが言うべきことでもねえな」
スキットルからウィスキーをちびりちびりと飲みながら、カルロは咳払いをして言った。
「おっちゃん、イイヒトだね」
「何いってやがる。
あのな、小僧、作ったもんに人間の本性が出るんだ。スフォリアテッレは、パイ皮がそこら辺のちゃらい折りパイとは違うん
だ。手にラードを付けて、思いっきり力を入れて捏ねねえとこんなふうにぱりぱりの生地にならねえんだよ。昔ながらのスフォ
リアテッレってのは、脂まみれの粉塗れになるんだ。それでなきゃあんなかりっかりの巻き貝みてえな皮はできねえんだよ……
野郎、ホントに教わったとおりのやり方で作ってるんだな。中のクリームも、気持ち悪いダイエット甘味料なんか使ってない、
昔ながらの甘みの。懐かしい味だった……今時あんなスフォリアテッレ、焼くやつがいたんだな……」
と、その時なにか超自然の声を聞いたようにナランチャが身を震わせた。
「やべえ！」
「ナランチャ！ 打ち合わせあるって言っただろ！ なにさぼってんだよ！」
芝生を踏んで、かれの上司が現れた。彼女の後ろ盾のファミリーから派遣された、警備担当主任。ごく普通の明るすぎるネア
ポリスッ子にしては、時折ぞっとするほど冷たい眼をすることもある若い男。
「行きな。おまえさんの言いたいことは解ったよ。ありがとう」
庭師は青年の背中を押した。
「オッサン！ 晩餐の食卓にあんな香りの強い花を持ってくるってのはなんだよ！？ 料理がまずくなるじゃねえか！ あんた
鼻詰まってんのか！？」
その翌朝、怒り狂った料理人に今度はこっちが責められたのは予想外だった。本当に、仕事には一所懸命な男だった。
本当に、気持ちのいい連中だった。楽しい１５年間だった。離ればなれの年月の埋めあわせをするように愛し合っていた２人
はすぐさままた新しい家族を得て、公邸を賑やかにしてくれたし。皆、呆れながらも笑い飛ばして喜んで彼らの力になった。そ
れでも有能な美人市長はゴミ問題をすぐに解決し、恐れられたほどマフィアの介入を許さずに諸問題をどんどん解決していった。
市民は清潔で健康な生活を保障してくれた市長を支持した。再選は圧倒的勝利で、そして、３期目もほとんど信任投票だった。
今や市民は美しき女神の治める街としてネアポリスを誇りに思うようになっていた。観光客も戻り、ネアポリスは観光都市とし
ての昔日の姿を取り戻しつつあった。それにつれて、景気も緩やかに回復してきていると市民は感じている。
根が真面目なもと警官はほんとうに主夫を立派にこなしてイタリアで一番有名な主夫になるし。遠慮がちで表情に乏しかった
娘は両親の幸せな様子を見て暮らして美しく立派に成長するし。皆に見守られて育った赤ん坊はもうやんちゃな少年だし。
だが、美しい花もいつかは散るように、楽しい日々は長くは続かない。
「もう、終わるんだなあ」
声に出して呟くと、横で黙って思いを巡らせていた美しい男が、黙って肯いた。
１２
１２月に入ったばかりの週末の深夜、サンドロの部屋の窓が小さく叩かれた。
「おめー電話ぐらいしろよ、どーやって入った？ うち、今セキュリティきびしー筈なんだけど？」
迎え入れてやって、サンドロは一応カーテンを閉めた。ドアは開ける。来客は若い女性なので。
「入れたわよ？ 正門から堂々と、ご挨拶して。あなたのお母様まだ市庁舎で会議中なんじゃないかしら」
正門を入ったところで道を逸れて、庭を突っ切って直接ヴェランダから入ったらしい。勝手知ったる市長公邸、なのはガブリ
エル。ヴェランダからの出入りは、幼い頃ミスタやナランチャの指導の元、「お邸に住まうものの嗜み」として２人とも訓練は
受けている。おっこちかけたガブリエルを庇って一緒に転げ落ちたサンドロは、てっきり叱られるかと思ったが、父は黙って頭
を撫でてくれた。あとでこっそり後頭部の古傷を見せられて、２人、目と目で頷きあった。
「げえ。週末ぐらい休めよもう若くねーんだから」
「まだお若いわよ」と、突っ立ったままのガブリエルはコートを取らない。
「あ、坐れよ……ベッドの上ってやっぱ失礼？ じゃ、おれのデスクの椅子で」
「ありがとう、でもこちらでいいわ」と、コートの胸元を押さえたまま、ガブリエルはベッドに腰を掛けた。
「どした？ またなんか新情報？」
「サミット関連ではないわね」
「あっそ。なに？ 今度はアップルが据え置き型ゲーム機出すって？」
寒いのかな、とサンドロはエアコンの設定温度を上げようとリモコンを操作した。
「ありえないこと言わないの。
……ねえちょっと、助けて欲しいの」
「めずらしー。なんだよ？ おれがおまえの助けになることなんかあるか？」
「あるわ。あたし、結婚、させられそうなの」
しばらく、少年は静止した。
「だって、おまえまだ１４じゃん？」
「大昔じゃあるまいし、今すぐじゃないわ。でも、話だけはって。３０近くまでぶらぶら遊んでるセレブレティって、もう過去
の遺物よ。へんなスキャンダルを振りまいて一族の好感度を下げるばかりなら、さっさと結婚させちゃえってのが今からの流儀
なんですって」
「しらねーよ」
フーゴってそういうひとだったかな？ サンドロは考えを巡らせてみる。上院議員の方の意向かも知れない。ルチアの恋は、
フーゴがじつはお坊ちゃまだったから実った奇跡だとかれの父は眉をひそめて言ったものだ。
……夢、見るならそれなりに努力しろよ？
意味不明な釘の刺し方を、かれは既にされていた。その時どうかれは返答したか……覚えていない。
「アレッサンドロ、あなたって、そればっかり」
ガブリエルは泣き笑いになった。
「だから、お願い。あたしをあなたのものにしてしまって」
「へッ！？」
「お母様は１５でお父様と出会ったわ。あたしだって春には１５だもの、全然早すぎない」
いやだってあのひとら結婚したのは２０代後半じゃん、アレッサンドロは突っ込もうとするが果たされない。
「言ってる意味、解るわよね？」と、ガブリエルはコートのボタンを外した。その下は、天使のような白いネグリジェだ。
「ちょ、待てって」
恐ろしい力でしがみついてくるのを必死で押しとどめて、アレッサンドロは忙しく頭を働かせる。
「してしまって、あとはどーすんだよ？ 既成事実ってやつか？ 今日ヤったらできんのおまえ？」
「そんなの、……解らないけど、とりあえずあたしがあなたを好きだってことは解って貰えると思う……」
「わかんねーよそんなの。おまえの自己満足じゃん。あーいうジョーリューカイキューのひとたちってそんなのもみ消すの上手
だし。もしできちゃっても病院連れてかれて終わりだっつの。無茶言うんじゃねーよ。おまえ、頭いいのにバカ」
「バカって言わないで！ あたしだって自分がバカやってるって解ってるんだから！」
「解ってるんならおれを巻き込むんじゃねーッつの！ 今うち大変なんだからな！」
「アレッサンドロ、ひどい……あたしのこと、嫌いなの？」
お嬢様はとうとう泣き出した。
「今嫌いになった。おまえがあんまりバカだから。
調子乗ってんじゃねーよ、ブス！ 利用するためにだけおれんとこ来んな！
アクア・パッツァのひとつもうまく作れるようになって、家を捨てておれの嫁になる覚悟ができてから抱かれに来いっつの！
おれの童貞は高価（たけ）ーんだッ！
ミスタ！ 聞いてるんだろ？」
心配げに飛び回っていたｂTを見とがめて、サンドロは声を高くした。
「あーやっぱ気づいてた？」
にしゃにしゃ笑いながらカーテンの陰から警備担当主任が顔を覗かせた。
「このバカうちに送ってやって。お願い」
「Ｓｉ！」
笑いを引っ込めて、ミスタの目のいろが深くなった。
「アレッサンドロ！」
「ほーい、お嬢ちゃん大人しくしてねー。フーゴ怒ると怖えーよ？ 知ってる？」
「イヤよ、イヤ……」
「ミスタ？」
急に静かになったのでサンドロがいぶかった。
「うん、ちょっと大人しくなってもらった。だいじょぶ、あとで息吹き返すから」
ごく自然にミスタは説明した。
「痛くしないでやってくれよ……」
「坊やは優しいな」
よいしょっと無造作に肩に担ぎ上げて、ミスタはヴェランダから飛び降りて行った。
すいません、あんまり長いんでここで分けます。
ブガッティ市長、波乱のネアポリス・サミットをうまく切り抜けられるでしょうか？
＜予告＞
＞「こっちはハートの女王にキングからエースまで揃ったロイヤル・ストレート・フラッシュです。負けるわけがありません」
＞フーゴが胸を反らした。
自信満々なフーゴですが。
＞「遠慮するな。きみのマンマよりは若いだろう？ まだまだ現役のつもり……今時の素人の小娘なんかとはテクニックが違うと
＞思うんだが。ちょっと楽しませてやったらしゃべるか？ ……夫には内緒だぞ？
＞ それとも、もうしゃべりたい？」と、ブチャラティは立場を逆転させてテロリストに頬ずりした。
ブチャ大おねえさんテロリストと「取引」します。
「今度はおれが代わりにあんたに仕える！ ムーディ・ブルースをあんたの為に使う！
だからこいつを助けてやってくれ！ がきの頃から苦労し続けで、やっと、やっと肩の荷物を下ろして休めるところだったん
だ！ あんたももう組織の仕事はいいって言ってくれてたじゃねえか！ 頼むから！」
「別に要りません、あんたなんか」
アバッキオ涙の懇願に「黄金のジョーカー」（フーゴ談）つれないです。
「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」後篇（原稿用紙１５０枚相当！） 近日公開！ 請うご期待！