二 平安京、春
おれが十才の春のことだった。
年が明けてから雨が一滴も降らなかった。地は乾き切り、賀茂の流れすらも干上がった。それは京
だけのことではなく、淡海の湖も底が見えはじめ、淡路や讃岐も陸続きになるかと思われた。
おれは天下国家のことより、自分の食い扶持のことだけを心配した。
おれの父は聖帝と呼ばれた優れて英明な帝の皇子であった。が、その母は身分が低かった。まだ即
位したての若い頃、摂関家より妃が入内するより先に身籠らせたのだ。親王宣下がされただけましだっ
た。父は、その妃の兄である左大臣により匿われ育てられた。政敵に利用されぬよう取り込まれたの
だ。妻も、その大臣の身内から貰わされた。後には帝位のかわりに名誉職があてがわれる筈であった。
おれの生母は産後すぐに死んでしまったらしい。父は、さらにまた身分のない女に生ませたおれの
将来を憂えた。それで、生後すぐ源の姓を貰ってくれていた。父がおれにしてくれたのはそこまでで、
無品親王佳明（よしあきら）はおれが五才になる前に世を去っていた。
おれはただ、来る日も来る日も空きっ腹を抱えてぼんやり庭を見て過ごしていた。おれを大切にし
てくれるものどももいはしたが、そういうものに力がないのは世の理であろう。
この国でいちばん尊い血を引くみなしごを生かしておいてくれたのは、その祖父帝の妃であった。
この女人は、失脚した右大臣の祟りとやらで、少なくない親族を失っていた。一族の期待を集める
皇子を育てるにあたって、ほんの少しの障りもないように心を配ったものらしい。おれが育つに必要
なものは、この妃の私費で贖われていた。ゆめゆめ我が子に仇をなしてくれるな、という想いを、お
れは息苦しく感じて育った。みなしごに対する純粋な憐れみの情が、その中に一毛も混じっていなかっ
たわけもないだろうとは思う。が、それを認めたくないのを孤児根性と言われても、おれは引く気が
ない。表向きは第一皇子たるこの妃の生んだ東宮が早死にし、その遺児である新東宮さえもが幼児の
うちに亡くなったときに、この女人の使いが吐き捨てた言葉が、まだ胸の中にあるからだ。
「おられても意味のない方ばかりが、お健やかにおはします！」
そういうわけで、異常な渇水の理由を皆が怪しみ、占わせたりもしはじめた頃に、そのものは賀茂
の斎院の前に姿を現したらしい。
「帝に申し上げたき由がありて、これらの水は全て妾（わらわ）が止めしものなり」
唐風の衣装をまとい、豪奢な玉の歩揺を鳴らせて現れた女人は、竜王の娘と身分を明らかにした。
「妾は竜宮にありてなに不自由のない身なれど、語らう夫というものがない。恥ずかしながらこれを
人界に求めんと参った。かしこきうちに仕えるもののうちから、妾に一人賜るわけには参るまいか」
そこで言葉を切ると、少し恥じるふうを見せたという。
「願いの聞き届けられし暁には、止めし水を出すばかりか、五日の風、十日の雨を、吹かせ降らせて、
五穀の実り、国の栄えを約するものなるぞ」
慌てた斎院は、直ちにその旨を奏上した。
慌てたのは内裏の内もだった。
竜宮の婿となればいい加減な身分のものをやるわけにもゆかぬ。かといって、水底の都に具し去ら
れて二度と戻らぬ身の上だ。第一の能吏を出すにもしのびぬ。大唐国へ行って帰る公の使いすら、辞
退するものが相次ぎとうとう廃止される時世だ。志願して出るものはいない。まるで男王昭君のよう
に皆思いなしていた。
王昭君というのは、漢の後宮の美女で、夷（えびす）を安んじるためにその王に遣わされたらしい。
自らの美貌を誇る余りに下手を打って、国を出される仕儀に相成ったと聞くが、詳らかには知らぬ。
だいたい、竜王家との縁組みという格を思えば、親王を出してもおかしくないのだ。伊勢や賀茂に
は内親王を捧げているではないか。祖父帝の皇子は、両手両足の指をもって数えても余るほどもいた
のだ。が、ふつう身分ある男は元服のときにこれまた良家の娘が添い伏しにつく。既に妻帯した男を
出すのもまずかろうと、どんどん候補が減ってゆくのだった。
皆が首を縮こめたままに十日が経っていた。おれの住んでいた二条北の古びた屋敷に、例によって
妃個人づきの用人が現れた。邸を与えられていたのはおれを尊んでのことではない。これは妃がその
母から相続した使わない屋敷で、住むものがおらぬと夜盗やら犬やらが入り込んで来て荒らすからだ。
じじつ、おれがいてさえもそれらのものはときおりこの家を侵した。彼らがおれを害することを、妃
たちは望んでいるのかも知れなかった。
それで、ほんのいつもの様子見にやって来たついでの冗談のように、竜宮の婿のまだ決まらぬことを
そのものは口にした。
「こちらの若君は、お血筋と言いご器量と言い丁度釣り合いが取れていらっしゃるのですが、少しば
かりお若すぎますな。このように、まこと物事はうまくゆかぬもので……」
おれは待ち構えていて言ってやった。
「竜宮のものならおれの倍は長生きするだろう。それなら少しくらいおれが幼くてもあとで十分追い
付ける。たれもこの名誉の機会を活かさぬなら、おれが行って竜宮の婿になってやる」
厄介払いが思いの外簡単にできたことを知って、そいつは眼も口も丸くした。
「それは、それはご立派なお志で……」
体裁を調えるためにすぐさまおれは元服させられた。従四位下左近衛少将に叙任。今上帝第一皇子
（第一皇子が二人いることになるが、後でどうにでも辻褄を合わせることだろう）佳明親王が一子、
源翼朝臣（みなもとのたすくあそん）の出来上がりだ。父にまで三品が追贈されるおまけ付きだった。
真名でやっと自分の名が書けるようになったばかり、太刀など持ったこともないおれが少将とは大笑
いだった。
祖父帝とは生まれてはじめて対面できた。御簾の向こうの貴人は、こんな大きな息子のいる皇子を
持った覚えがやはりないようだった。
「国を憂い、民を思い、幼弱の身ながらこの度のことに自ら願い出でし志は尊きものにて、かくのご
とき麗しい心掛けのものが我が血の内から出たことは喜ばしいことである」
と、ごく表向きの言葉を呟いた。
そのほうがいい。
おれは、ただ次の飯がちゃんと出るかどうか、死なずに次の春の桜を見られるかどうかばかりを心
配する暮らしが嫌だっただけだ。
どうせ女のお情けにすがって生きるなら、竜宮の婿としてかしずかれてみたい。
あんたがくれた血のお陰で、おれはこの機会を得られた。
そのことにだけは感謝しよう。
おれは表情を消したままに一礼して、この国でたったひとり血の繋がった肉親のもとを辞去した。
こういうわけで、晴れて婿が決まったと逗留先の賀茂に使いが行った。十五日も花嫁は待たされて
いたことになる。
おれは花嫁に対面することになった。思えば、使いを立てず、女の身で自ら乗り込んで来るとは思
い切ったことをしたものである。おれにはその直截さが好もしかった。たいそうな美女という話だっ
たが、見かけの美しさは問題ではなかった。
正装しておれは宮中に呼ばれた。年の割にかなり小柄のおれのために朝服を仕立てるのは大変だっ
たらしい。
「もったいないことながら、これが最初で最後と思うと感慨もひとしおでございます」
乳母やは泣きながら針を進めていた。縫い上げが多すぎて立ち居の障りにならぬよう、しかし、あ
まりにも小柄で衣に埋まるごとくには見えぬよう、心を配って仕立てられていたようだ。
その、佩いた宝剣の重さによろめくようなおれを見て、役人どもは顔を見合わせた。しかし、だっ
たらおまえが行くか、とばかりに小さい黒目でおれが睨んでやると、慌てて眼を伏せて一礼し、去る
のだった。
その女、乙姫が足を進めると不思議な香りが漂った。懐かしいような、はじめて聞くような、花の
ような、そうでないような香だった。
その貌（かお）を見て、おれは女の素性を信じた。また、確かに、夫を持つには早すぎない年頃と
見えた。
額には紅で点を置き、眉を濃く太く描いていた。唇の紅も濃い。
女の装束のことは解らぬ。薄紅の広袖の長い衣には、衿から裾回りと袖口に錦の縁取りがしてあっ
た。胸高に締めた帯からは玉や珊瑚玉を貫いた飾り紐が垂れている。手にも首にも珊瑚や白珠を貫い
た輪をかけていた。歩みにつれてそれらがかち、かちと鳴った。ごく薄い不思議に光る布が、背から
両の腕の前に回って垂れている。これが領巾（ひれ）というものであろう。裾を引いた裙は鮮やかな
紅だった。
「御身が妾が婿ぎみと申すか」
ほんの少し、女は眉をひそめて見せた。当然だろう。それにつれて天が暗さを増したようだ。殿中
に、女の装束の金糸や髪飾りの螺鈿ばかりが光った。周りの大人たちが息を呑むのを見た気がする。
「おれが気に染まねば食い殺すがいいさ。そうすれば奴らも、もっと身を入れてそなたの婿を探して
くれるだろう」
おれは少し息をついて、言い足した。
「ただし、三日の猶予をやって、その間だけは降らせてやってくれまいか。
だいたい国じゅうを干上がらせて民を困らせることはない。そなたの神通力を示すなら、都の中だ
けで十分ではないか」
女は眉を開いた。
「これはしたり。が、地は乾き切っておる。三日ではほとびもすまい」
おれはさかしらを言ったことを少し恥じた。女は眼を光らせて、続けて問うた。
「なにゆえ志願なされしや？」
「誰も出ないのではそなたが恥をかくと思った」
「それだけかや？」
「おれは二親とももう亡く、係累が恋しくなることはない。憐れも解さぬゆえ、都の景色にも執着を
覚えぬ」
精一杯の虚勢を張って見上げると、女ははじめて笑った。そして、隅に縮こまる役人どもに向き直っ
て言った。
「よき夫を下されしものよ。礼を申します」
細波のように役人どもの吐息が続いた。
婉然というのはこういうのを言うのだな、とおれはぼんやり考えていた。
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