三 竜宮
一
竜宮への海中の道をたどるうちに、自分の身が濡れぬと猫には判ったらしい。妙見は機
嫌よく海中の景色を眺めていた。
「翼、竜宮というからには竜王さまや乙姫さまの本性は竜なのか？」
軽い気持ちでか尋ねてきた。
「いや。竜の血はもはや途絶えたときく」
逆におれのほうから尋ね返した。
「妙見、魚の王とはなんだと思う？」
「勇魚かな？ 鯛か？ まさか大王烏賊？ 烏賊は嫌だな。あ、あれは鮪の群か？ 旨そ
うな……」
目を細くして妙見は話題を忘れた。
おれはまた回想に戻った。
乙姫のことを想い出すのは心地好いことだった。
乙姫がおれの手をとると、おれの足は床を離れた。百官がうろたえ騒ぐ声を背に、その
まま宙を飛んで賀茂へ出た。川を下り海に入った。
「少将どの、妾が恐ろしいかえ？ 取って食いはせぬぞ」
少し固くなっているおれの左の手をかるく引いて、乙姫は笑った。
「恐ろしゅうはない。……官名で呼ぶのはよせ」
「なにゆえ？」
顔を近づけて来ると、さきほど香の香りに加えて化粧の匂いがした。
「おれはその官でもって公に仕えたことはない。空しい名で呼ばれようとは思わん。ただ
の翼でよい」
「よろしい。夫婦になるのじゃものな。したが翼どの、他のものにはそうは参るまいぞ」
身分あるものを本名で呼ばぬのは、どこにおいても礼儀であるらしい。結局おれは源少
将と呼ばれた。
ちなみに乙姫というのは竜宮において女一宮というような意味であって、忌み名は別に
あるようだ。屈んでおれの眼を覗き込みながら、乙姫はその名を教えてくれた。おれはそ
れを玉のように口の中に含んだまま、一度も出したことがない。そのときも、復唱せぬお
れに、忘れてはならぬぞ、と乙姫は少し怖い顔をして見せた。
唐において、皇帝の娘の夫をなんと言うか忘れた。竜宮において、おれは名誉の職でも
貰ってのらりくらりしておればよいのだとかるく考えて志願したのだが。
眼を細めて乙姫は続けた。
「御身はそのうち竜王さまと呼ばれよう」
そのときになっておれは少し慌てた。天皇家においては、女帝はあっても、臣下にして
内親王を娶っただけで皇位を継いだものはおらぬ。おれのような外から入ったものに王位
を継がせることがあるだろうか。
「なぜだ？」
「妾は父王の一人子ゆえ。父も老齢なれば、早晩代替わりもあろう」
「そなたに似合いの親王は居らなんだのか？」
「おらぬ。血が極まりしか、女ばかり、近ごろはそれさえも生まれぬ。それゆえ人界に求
めた。翼どののようないと貴き方をお迎えできて、妾は嬉しい」
先程からずっと繋いだままの手が、おれには急に熱く感じられた。
東海の果ての水底に、竜宮は在った。
「生日宮（しょうじゅつきゅう）とも申す。陽は東海より昇り、西海へと沈むゆえ。それ
ゆえに東海竜王は、海を統べる四つの神族のうちでも最も上席なのじゃ。未来をいち早く
知り、明日を築くのは東海じゃ……これからも」
おれを伴って海中を進みつつ、乙姫は胸を張って言った。
「竜宮は深海の底ゆえ、日中は日が差さぬ。その代わり、天に昇るよりいち早く海中を照
らす、その朝一番の陽の美しさは何ものにも代えがたいのじゃ。明日の朝を楽しみにされ
よ」
誇らしげに乙姫が言うと、その竜宮がやっと見えて来た。
竜宮はその域内は水が排されて、陸の上と同じように息ができる。緩やかに曲線を描い
て石を積んだ城壁と三層の楼門がその境界であった。遠くから眺めると、水の中で建物の
上に線を引き渡したようにそこで色が変わっている。おれが現在いるように、膜のような
ものが隔てているらしかった。
楼門の前、両脇には殿舎があった。
「竜宮に用のある魚どもはここで人形をとり、衣服を整える。魚のままでは逆に息ができ
ぬでな。人形をとる神通力のないものは竜宮には参れぬのじゃ」
乙姫は神族の階級についてかるく説明した。
人の形は神を象ったものであるから、最も尊いのは人と同じ形をして、通力のあるもの
になる。天上にある天帝をはじめとする、いわゆる神がそれらだ。
本性があって、通力をもって人間の形をとれるものがこれに次ぐ。
通力があり、半人であったり、またはいろいろなけだものの姿の混じっている神獣がさ
らにこれに次ぐ。
けだものであって年を経て通力を持つようになったものがその下になる。
また、人間にして修行を積んで通力を得たものも、これらの神族と接することができる。
乙姫の来訪を受けた賀茂の斎院がこれだ。
乙姫は第二の部類に入るのだが、そのときは明らかにはしなかった。
それで、その左右の殿舎の後ろにそれぞれ大きな建物が控えているのは、人間の姿にな
れぬものどものための訴訟や相談の受付らしい。ひっきりなしに大小の魚が出入りし、貝
や蟹が飛び込んではまろび出て来る。
それらが、乙姫の姿を見とめてざっと整列し、拝跪したのだった。乙姫はそれらにかる
く手を振って通り過ぎた。
門をくぐると、泡が弾けるように周りの水の膜が割れた。その水は無数の粒になって地
に落ち、涼やかな音を立てた。吸い込む空気は、確かに陸の上と変わらぬものだった。大
きく息をついたおれを見て、乙姫が少し笑った。
門を入ったところに、小川がめぐらしてあり、三つの橋がかけてあった。真ん中のもの
が少し広い。石の欄干には竜の踊るさまが切れ目なく浮き彫りにしてあった。乙姫は迷わ
ず真ん中を渡った。実際踏むのではない。乙姫とおれの足は、まだ宙に浮いたままだ。後
でよく見ると、その他のものどもは、避けて両側を渡るらしい。王族にだけ許される橋ら
しかった。
それよりおれは、この川の水はやはり真水だろうか、それとも海水だろうかとふと考え
た。川には魚はいないようだった。
川原や川底に敷き詰められた石は丸く、半透明で、翡翠や玉の類かと思われた。草木は
なく、石のわきのひとむらの草までが玉を彫った作り物であった。
橋の向こう側では、石畳の両側に官人や官女どもが控えていた。三、四十人ほど。皆、
唐風の装束の人間に見えた。おれは尋ねた。
「おれは歓迎されておらぬのではないか？」
「なにゆえ？」
乙姫の声は優しかった。
「これで皆か？ 不服のあるものは迎えに出ておらぬのであろう」
これだけで東海全てを統べるにはあまりにも少ないのであった。おれは、乙姫が独断で
人間界に婿取りに行ったのではないかと危ぶんだ。
「手が離せるものはこれで全部じゃ。言うたであろ、子が生まれぬと。若いものには別宮
や柵で軍役に就いてもらわねばならぬ。竜宮には年の行ったものがほんの少しおるだけじゃ。
正式の披露の宴には、いま少し集まって来るであろうの」
柵は陸奥沖と越の海に、別宮は南の端、八重山の珊瑚礁にあるとその後で教わった。
「年寄りばかりで大事ないのか？」
広い海を統括する竜宮の本宮がそのように手薄でよいものかとおれは思った。しかし、
乙姫は笑って首を振った。
「仕方のないことよ。生まれつき人形をとることのできるものは少ない。水底は時の経つ
のが遅いとは申せ、徳を積み、精進を重ねて通力を得る頃には若くはなくなってしまうの
じゃ。なに、妾が知る限りここ十数年は大きな戦などない。ときおり勇魚が物狂いをして
飛び込んで来るのを追い立てるくらいじゃ。兵は要らぬ。
じゃが、今見たであろ、細かな訴えごとやら困りごとを申して来るものは多い。そのよ
うなものを取り捌くのは、年寄りの方が得意じゃ。それゆえ、あまり困ってはおらぬ、実
のところはな」
乙姫はまともにおれに答えてくれた。が、おれは途中から考えが横へずれてしまってい
た。
「それでは、その姿のそなたは、それほど年が行ってはおらぬのか？」と、女に尋ねては
ならぬことと知りつつ、気になっていたことがらについて口に出してしまった。
「なんという……妾は、翼どのより確かに倍は行ってはおるが、三倍まではゆかぬ。年を
取るのが遅いとはいえ、そこまでばけものではないわ！」
乙姫は急に顔を赤らめ、握っていた手を離して忙しく指を組み合わせた。袖の動きにつ
れて、肩から腕にかけた領巾がおれの頬を数回ぶった。
見送る官人どもがいぶかって、不揃いに首をうごめかせた。
「悪かった。ばけものなどとは思ってはおらぬ。思ったより年が近いと知れて気易うなっ
た」
慌てておれが乙姫の手を取って言うと、機嫌はすぐに直ったようだった。
朱塗りの柱が十本も並ぶ真正面の建物に入ると、白髪の老人が出迎えた。やっと、おれ
達の足は、地に付いた。
「姫さま、この度は首尾ようお戻りになられて祝着にございます」
両手を前にして組んで一礼して言う。
「丞相、出迎えご苦労です」
乙姫は鷹揚に言った。よく見ると、老人は腰の前にひときわ豪華な綬を垂らしていた。
提げた佩玉も大きく、凝った細工がしてあるようだった。
「そちらが婿ぎみさまでいらっしゃいますか？ ……失礼ながら少しお若すぎるのではご
ざいませぬか？」
長い眉毛の下からおれを見つめて丞相は言った。もっともな言い分だった。
「今上帝のおん孫、源翼少将であられる。幼弱ながら王の器量をお持ちと拝見してお迎え
すると決めた。ご養育についてはそなたに任せよう」
乙姫は怒らずに言った。王の器量とは大きく出たものだ。丞相に恭しく頭を下げられて
おれは背がむずがゆくなった。
その後に控えていたのは官女どもであった。おれはこんなにたくさんの妙齢の女を見た
のは、生まれてはじめてであった。
「お帰りなさいませ」
先頭にいた女が声を発した。柔らかくうねりを持った髪を活かすように、ゆるく結って
いた。二本交差させて挿した玉の簪が黒い髪によく映った。上げた顔は乙姫同様、二十を
超えた落ち着きがあり、春の陽のような微笑みが浮かんでいた。それを見て少しほっとす
るものをおれは感じた。
「美岐波、源翼少将どのじゃ。しばらく寛いで頂くように。あとで父上にご挨拶に参る」
一礼した女はおれたちを案内して奥に向かう様子だった。石を組んだ床には毛氈がしか
れ、天井からは飾り紐のたくさん付いた灯籠が下がっていた。白い塗り壁のあちこちには
窪みがあり、玉の香炉で好い香りを薫じていた。
眼をあちこちにやりながら乙姫が進むのに合わせていると、急に手を引かれた。
「あなたさまはこちらへ」
手を引いた女は、おれだけを別の建物へ連れて行った。
「美岐波と申します。こちらでは尚官をあい勤めます。少将さまのお身の回りはこれから
紹介致しますものにさせまするが、お困りのことがございましたらなんなりとわたくしに
お申し付けくださいませ」
一礼して名乗ったあとは、おれの着替えを指示しながら官女どもを紹介しだした。
尚官というのは官女のうちで位の高いものを言うらしい。掌侍のようなものかもしれぬ。
とりわけその女、美岐波は官女どもを束ねる役にあるようだった。
袴というものは元来が騎馬のための装束であるとは聞いていた。馬のおらぬところでは
必要のない服となるわけである。
と、頭が解っても、紐をほどかれて抜き取られるととても心許ない気持ちになる。下袴
までは取られなかった。ほっと息をつくと、美岐波がふわりと微笑んだ。下襲の上には、
他のものと同じような上下の繋がった、裾を引いた広袖の服を着せ掛けられた。黒繻子の
帯をし、おれの片手よりも大きな玉をそこから提げた。髻さえほどいて結い返し、唐風の
冠に改めた。
おれの着て来た朝服が持ち去られるのを目が追うと、美岐波が微笑んで囁いた。
「処分は致しませぬ。大切にお取りおき致しますゆえ、ご安心を」
陸に未練はないと言って来たのに、執着を捨て切れぬ様子を見透かされたのが気恥ずか
しく、おれは聞こえなかった振りをした。
その後で、花の香りのする色の付いた湯を勧められた。茶というものを、それまでおれ
は知らなかったのだ。少し蜜が入っているようだった。
湯気を受けておれの顔は少し和らいだ。
そこへ簡単に王への作法を教えられ、おれは竜王に対面することになった。
正面の玉座は黒漆と金泥で飾られていた。四隅の柱に施された竜の浮き彫りがとりわけ
見事であった。その竜の四肢の指の数までおれは数え上げた。五本。
本朝、日の本の竜は三本指と聞く。大唐国において五本指である竜が、新羅を経て伝来
するうちに一指ずつ欠いたのだと。なるほど、ここは竜の本拠であった。
見上げた天井は格子に組まれており、その区画の一つ一つに色鮮やかに花が描かれてい
た。牡丹、と見定めた頃には、首が痛くなっていた。乙姫がおれの袖を引いた。竜王が出
座したのだった。
老齢の竜王は、娘の婿が決まったのをひどく喜んだ。乙姫の奏上にいちいち細かく頷い
た。おれを手招くと、手をとって顔を覗き込み、よい貌をしておられると呟いた。
おれにはそれが愛想であるように思われた。生母は美女ではなかったと聞いていた。研
いでおらぬ鏡に映る自分の顔は目つきが悪く、口もいつも不服そうに引き結ばれていた。
不遜な考えを抱いてまっすぐ見上げたおれの両の肩を、竜王は何度も抱いた。冷たい手
は乾いていた。髪はもう白く、顔は皺に埋まり、立ち居も大儀そうだった。だが、この老
人は、玉座から身を乗り出しておれを迎え入れてくれた。
おれは、もう逢うことのない貴人のことをちょっと考えて目を閉じた。
「神去る日も近く思われる……我らは少しずつ動きが止まり、岩と化すのじゃ」
乙姫は二人きりになったときにそう言った。麗しい顔を、憂いが過った。
「もっと頼りになる、すぐに指揮の執れる武人のほうがよかったのか？」
済まないような気になって、おれは乙姫を見上げた。
「いいえ。妾の婿ぎみは翼どの。そう決めた。言うたであろ、武人はそうは要らぬと。そ
れに人の子はすぐに大きゅうなる。楽しみじゃ」
乙姫の紅を塗った唇のはしがすぐに上がった。白い歯がこぼれた。
「ああ。すぐに乙姫より大きくなってやる。あの鴨居ほどに」
おれは乙姫の手をとって、大きく振ってやった。
「ほほ、頭をぶつけぬよう。竜宮など何度建て直してもよいが」
手を繋いで歩くと、乙姫の領巾がおれの頬に触れた。やはり不思議な香がした。
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