竜王の婿
一　序章
　
　　　　　　　　　　　今朝も太陽は分厚い雲の向こう側だ。
　　　　　　　　　　都遷りがあってから百と四十年余り。民は、都とは山城の国のこの都のことだと思って疑
　　　　　　　　　　わぬ。
　　　　　　　　　　何人にも煩わされぬように新しい地を求めた筈の天皇家は、代を経て、いつの間にか藤の
　　　　　　　　　蔓に絡み付かれている。
　　　　　　　　　　そんな地上を天は映したのだろうか。

　　　　　　　　　　小川のほとりの仮小屋を出て、おれは大きく伸びをした。もう一月というもの、陽の光を
　　　　　　　　　浴びていない。桜の咲くまでは晴れていたようだが、一夜、はげしい春の嵐のあとは、降っ
　　　　　　　　　ては堪え、堪えきれずにまた崩れるといったふうの天気が続いている。
　　　　　　　　　　雨の嫌いな相棒は毎日そわそわと落ち着かず、こちらまで気分が平らかでいられなくなる。
　　　　　　　　　　　だいたい桜は雨に当たってはだめだ。むしり取られた花弁が見苦しくそこここに張り付
　　　　　　　　　　いて、またそれも泥にまみれてゆく。そのうちに花弁を失った萼までもが濡れた土の上に
　　　　　　　　　　叩き落とされる。
　　　　　　　　　　　じわりとまだ寒いせいで、葉のほうもすぐさま生い茂って目先を変えるというふうにゆ
　　　　　　　　　　かず、それでまた無惨なさまが長々と続くように思われる。
　　　　　　　　　　　夜は夜で、じっとりとした中に、妙な熱気が籠って狂おしい。妙見の奴さえ、潤んだよ
　　　　　　　　　　うな眼でおれを見上げて、あぶないことこの上もない。時分に動かされるような情を持ち
　　　　　　　　　　　合わせぬ筈のこの相棒がだ。

　　　　　　　　　　　あいつはいったいなにをやっているんだ？

　　　　　　　　　　　五日の風、十日の雨という整った天候をあいつは約した。今までそれを違えたことはな
　　　　　　　　　　かったというのに。
　　　　　　　　　　　おれは小川の水で手を清めると口も漱いだ。ゆらぐ水面に映った自分の姿を、少しの間
　　　　　　　　　　おれは眺めた。十年前に旅立ったときとはかなり面がわりしているだろうか。
　　　　　　　　　　　肌はかなり焼けてしまった。あいつに比べればおれのほうが丸かった頬も、年相応に肉
　　　　　　　　　　が落ちた。
　　　　　　　　　　　烏帽子は、つけなくなって久しい。櫛を出して、適当に後ろへ撫で付けて襟元で結んで
　　　　　　　　　　いた髪を梳った。きちんと結い上げて髻を作る。頬から口の周りに生え広がったひげを久
　　　　　　　　　　しぶりにあたった。
　　　　　　　　　　　これで少しは元の顔を思い出してもらえるだろうか。いや、あれがおれのことを忘れる
　　　　　　　　　　わけがないのだが。
　　　　　　　　　　　首から提げた小さな錦の袋を取り出す。中は小さな真珠粒だ。立って行って川に投げ込ん
　　　　　　　　　　で、呪文を唱えた。

　　　　　　　　　　「大わたのみ神の宮の、真砂なす我が召しうどの、使いなるものいざや参れ」

　　　　　　　　　　　すぐさま川は波立った。白銀の、長い体をした魚が現れた。尾の辺りまで途切れなく連
　　　　　　　　　　なった紅い背鰭の始めの部分が、頭上に鶏冠のように伸びている。胸鰭も紅く長く、こち
　　　　　　　　　　らは鬚のようだ。
　　　　　　　　　　「少将さま、お懐かしゅうございます。白奴比めにございます。このような格好で失礼を
　　　　　　　　　　ば致します」
　　　　　　　　　　　飛び上がって川原を進む。口に含んだ、さっき投げ込んだ真珠をおれの手の中に戻すと、
　　　　　　　　　　慌てて小川に戻って息をついて拝跪した。よく見ると、鶏冠の部分が少しひしゃげている。
　　　　　　　　　　背鰭もところ々ちぎれているようだ。二又に分かれている筈の胸鰭が、一本途中から切れ
　　　　　　　　　　てしまっている。
　　　　　　　　　　「乙姫は息災か？」
　　　　　　　　　　　くだくだしい挨拶は抜きで、おれは尋ねた。竜宮の使いは、おれを見上げると大きな目
　　　　　　　　　　玉から涙を流した。
　　　　　　　　　　「おいたわしや……」
　　　　　　　　　　　いちど言葉を切って、身をちぢこめると、ようよう言葉を絞り出した。
　　　　　　　　　　「乙姫さまは、竜宮にはおられません」
　　　　　　　　　　「病で別宮ででも静養しておるのか？」
　　　　　　　　　　　おれは続けざまに問おうとした。竜宮の使いの常ならぬ様子も胸を騒がせる。が、昨夜
　　　　　　　　　　の仮寝に借りた小屋から起き出した相棒が、おれを探す気配がした。
　　　　　　　　　　「翼、早いね。今朝のおかずはそれ？　あんまりおいしそうじゃないみたいだけど」
　　　　　　　　　　　寝乱れた髪を両手でまとめながら、妙見が近づいて来た。
　　　　　　　　　　　薄紅の小袖が風で張り付いて、艶めかしい曲線を浮き上がらせている。その姿を見るな
　　　　　　　　　　り、竜宮の使いは飛び上がってわめき立てた。
　　　　　　　　　　「少将さま！　長くご帰還なされませなんだのは、こちらの女性を伴っておいでのせいで
　　　　　　　　　　ございますか？　あんまりではございませぬか！　この竜宮の一大事に！　
　　　　　　　　　　　乙姫さまを、あのようなご立派な方を妻としてお持ちでありながら、なんというなされ
　　　　　　　　　　ようで……」
　　　　　　　　　　　慌てておれは遮った。
　　　　　　　　　　「こいつは違う！　おい、妙見！　正体を現せ！」
　　　　　　　　　　　眼の大きい愛嬌ある顔をした「美女」は、あら、と呟くなりその場で飛び上がって宙で
　　　　　　　　　　　くるりと後ろ向きに回り、本性に返って地に降り立った。即ち、白地に黒と茶の斑のあ
　　　　　　　　　　る猫に。あとには中身を失った女物の装束一式が、ばさり、と落ちた。
　　　　　　　　　　「これは失礼を。少将、あらぬ疑いをかけられてしまいましたね」
　　　　　　　　　　眼を細めると、妙見は旨くなさそうな魚に歩み寄った。
　　　　　　　　　　「ね、猫！」
　　　　　　　　　　　天敵に出会って、なお悪いと言いた気に銀の魚は震え上がった。
　　　　　　　　　　「ただの猫ではない。百匹求めて一匹しかおらぬという三毛の雄だ。方角を見失うことが
　　　　　　　　　　ないゆえ案内を頼んでいる」
　　　　　　　　　　真珠玉をもとの袋にしまい込むと、妙見が悪さをしないよう襟首を掴んで抱き上げて、お
　　　　　　　　　　れは続けた。雄といっても半陰陽なので、なんとなく女臭いのは否定できないのだが。
　　　　　　　　　　「しかも、百年を生きた猫又でもある。美女に化けるのはそのせいだ」
　　　　　　　　　　　おれの言葉に、妙見は二股に分かれた尻尾を自慢げに振って見せた。
　　　　　　　　　　「猫は陰のものゆえ、陽のものに引かれます。女に化けて男と交わり陽の気を補うのは事
　　　　　　　　　　実ですが……」
　　　　　　　　　　　しゃべりながらごろごろとおれに擦り寄って、銀の魚をなおも震えさせておいて、猫又
　　　　　　　　　　は続けた。
　　　　　　　　　　「少将の貞操はわたしが保証しますよ。途中まではお教えしてさしあげましたが、どうし
　　　　　　　　　　ても乙姫さまとでなくては嫌だとそれはもう頑固なこと。
　　　　　　　　　　　それで道中の虫除けをしてさしあげていましたので。だいたい、女に恥をかかせるに忍
　　　　　　　　　　びぬといって弱冠十才で竜宮に婿入りされた方が、猫又には恥をかかせるというのは理屈
　　　　　　　　　　に合わぬことではありますまいか」
　　　　　　　　　　　顔を右の前足でこすりながら、猫はしれっとして言う。口をぱくぱくさせながらおれを
　　　　　　　　　　見上げる老齢の大使に、おれはどういう顔をして見せればいいのか分からなかった。

　　　　　　　　　　「……それで乙姫はどこへ行った？　舅どのはいかがなされた？」
　　　　　　　　　　　妙見のせいで忘れ去られるところだった要件を思い出して、おれは尋ねた。猫はおれの
　　　　　　　　　　手から飛び降りて、脱ぎ捨てた女の衣を畳んでしまいはじめている。次に変化をしたとき
　　　　　　　　　　に素っ裸のままだとおれが嫌がるからだ。
　　　　　　　　　　　おれの左手は地に置いた背負い袋を探しに動きはじめている。右手は錦の袋をまた握り
　　　　　　　　　　しめた。
　　　　　　　　　　「かどわかされておしまいに……姫さまのみならず、女どもはあらかた……」
　　　　　　　　　　　魚はそのまま身をくねらせてのたうちまわった。
　　　　　　　　　　「竜王さまには近ごろはお眼を開かれることも稀なれば、お耳に入れるに忍びなく……少
　　　　　　　　　　将さま、なにゆえ、なにゆえいま少し早くお戻りになられませなんだ？　今頃なにを仰せ
　　　　　　　　　　になろうとお思いです？」
　　　　　　　　　　　黙って魚を見下ろすおれは、こう言うしかなかった。
　　　　　　　　　　「案内せよ。いま戻る」
　　　　　　　　　　　お前も来い、と猫の襟首を捕まえると、妙見はじたばたと四つの脚を振った。
　　　　　　　　　　「わたしは水は嫌いです！　水底の都など御免こうむりますよーっ！」
　　　　　　　　　　「おくびが出るほど魚を食わせてやる。これまでの礼にな」
　　　　　　　　　　「少将さま、猫は困ります！」
　　　　　　　　　　　竜宮の大使も、身をくねらせて飛び跳ねた。
　　　　　　　　　　「爺、大丈夫だ。こいつは使えるぞ」
　　　　　　　　　　　二人に構わず、おれは帰り支度をはじめた。

　　　　　　　　　　　猫を右手に、袋を取り上げておれが水面に足を踏み出すと、川の水は二手に別れて巻き
　　　　　　　　　　上がり、先導する魚ごとおれを包み込んだ。水の膜が天蓋のように弧を描いた。浅い小川
　　　　　　　　　　のことゆえ水中には潜らず、そのまま水上を走って下るものと見える。
　　　　　　　　　　　すぐにおれ達は海に出た。
　　　　　　　　　　　波は、高くないとはいえ続けざまに押し寄せていた。岸の水は絶えずかき乱され、桑染め
　　　　　　　　　　の色に見えた。鈍色の雲は低く垂れ込め、真冬の越の海のごとく見えた。
　　　　　　　　　　　乙姫の心持ちは、確かに尋常でなく思われた。
　　　　　　　　　　　頭の先が海面より没した時点で猫はひっと息を呑んだ。しかし、水中に引き込まれなが
　　　　　　　　　　らも、泡かなにかのようにおれ達は丸く包まれていて、体が濡れることもなく、息もでき
　　　　　　　　　　るのだ。

　　　　　　　　　　「おれの妻をさらったのはどこのどいつだ？」
　　　　　　　　　　　おれは低い声で尋ねた。妙見はもう観念したのか手の中でぐったりとしている。
　　　　　　　　　　「北海の人魚どもでございます」
　　　　　　　　　　　おれに背を向けたままに、白奴比は言った。

　　　　　　　　　　　人間の形は神の形だ。人形をとることができるかが神通力の一つの目安になる。
　　　　　　　　　　　東海の竜宮のものどもは、乙姫をはじめ主立ったものは人形をとることができた。それ
　　　　　　　　　　　だから半魚の北海のものを、少し侮るところがあった。もとより、四海を治める神族の
　　　　　　　　　　うちでは東海竜王がいちばん上席なのだ。
　　　　　　　　　　　おれが北海の神族を見る機会があったのは自分の婚礼の席でだった。かれらは男も女も、
　　　　　　　　　　金の髪を結わずに解き放ち、衣は着ずに豊かな体を誇らしげに晒していた。淫心を少なか
　　　　　　　　　　らず刺激された竜宮のものもいたようだった。が、いかんせん半身が魚ではそれ以上のこ
　　　　　　　　　　とは望めない。それゆえにことさらに低く見ていたのかも知れなかった。

　　　　　　　　　　　魚の如く卵で産まれるそうな。
　　　　　　　　　　　それは無駄に美しきことよ。

　　　　　　　　　　　そんなささめき声をおれは記憶していた。
　　　　　　　　　　しかし、気が荒く半魚とはいえ、北海人魚は腹まで悪い奴らではなかった筈だ。
　　　　　　　　　　　角で作った、飲み干さねば下には置けぬ盃を結婚祝いにくれながら、成人するまでしまっ
　　　　　　　　　　ておかれよと磊落に笑った王の姿が思い出された。

　　　　　　　　　　「人魚どもが女をさらってどうするというのだ？　質に取って、宝剣とでも引き換えにし
　　　　　　　　　　ようというのか？　もっと南まで領海をくれとでも申すのか？」
　　　　　　　　　　　出奔する時に乙姫がおれにくれたのは、竜王の剣ではない。あれはまだ舅どのが持って
　　　　　　　　　　いる筈だ。境とて、それぞれの住める水の温かさで自然と定まったものだ。無理に越えて
　　　　　　　　　　も意味はなかろう。
　　　　　　　　　　「判りませぬ。あれは、あれは本当に北海のものでございましょうか、禍々しい体をして……
　　　　　　　　　　女どもにも無体を働いて……」
　　　　　　　　　　　途中、大使の言葉は意味不明となった。
　　　　　　　　　　「なんだそれは？　そなたら、一月も経ってそんないい加減なことしか言えんのか？」
　　　　　　　　　　「それが、激しい夜襲で、兵どもはあらかた殺されてしまい、あとは散り散りに。残った
　　　　　　　　　　ものがやっと別宮の竜王さまのもとにたどり着き、ただ今はお側のものとともに……」
　　　　　　　　　　声はすすり泣きになって途切れた。
　　 　　　　　　　　　　　妙見が二股の尾を大きく一度、動かした。おれはため息を吐いた。

　　　　　　　　　　　それでも一応は竜宮のほうに向かうと見える。濁った水を透かして見ると、進んでゆく
　　　　　　　　　　周りの景色は、十五年前の記憶に残る道と同じ岩や珊瑚の姿なのだった。
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