岸辺露伴は黙秘する。（露伴女性化スペシャル）
杜王町が平和を取り戻したあの年が明けてしばらくして、空條承太郎は手紙を受け取ることが増え
た。それは、杜王町の可愛いスタンド使い達からだったが、不思議なことには、特に、およそひとと
文通など望んで行わなさそうな人物からのものが多いのだった。
「スキーをするならどこよりも杜王町に来るべきですよ。是非ご案内します」
「北国の春も格別かと思います。杜王町の春を楽しみに来てくれればと思います」
「都内の桜はもう終わりでしょうが、東北の桜はまだこれからです。どうぞ花見に来てください」
「日本にお越しの際は是非当地にもお立ち寄りください。旨い酒を奢ります」
「相談したいことがあります。杜王町までご足労願えたら幸いです」
どんどんせっぱ詰まった内容になってくる印象に、承太郎は腰を上げた。
手紙の差出人は、岸辺露伴。
たしかに、彼女が自分の体格に芸術家としての執着と感嘆の視線を向けているのは認識していたが。
仗助には絶対内緒に、という指示なのに、待ち合わせの場所はトニオの店で、岸辺露伴は本当に困っ
ているのか解らなかった。もう４月、新学期に入っていて、桜前線はまだ到達していないものの、町
は初々しい輝きに満ちていた。
テーブル二つきりの小さな店を貸しきりにして、人気女性漫画家は待ちかまえていた。
一目で、その相談事というのがただごとでないのがわかる。
冴えた美貌の若い漫画家は、それほどに憔悴しきっていた。
「済まないが、立つのも辛い。どうぞこちらへ」と、店内から響いてくる声も、擦れて弱々しい。
客の体調を理解しているのだろう、この店のオーナーシェフが、露伴の代わりにいつも以上に愛想
良く承太郎を出迎えて案内した。
「ようこそ、承太郎サン、今日も体調万全ですネ。でモちょっと胃に軽いものに致しましょうカ」と
コートを受け取ってコート掛けに掛けてくる。
「余計なおしゃべりをやめろと言ったはずだ。医者なら守秘義務がある。君も客のプライヴァシーを
垂れ流す注文取りトークを控えないと訴えられるぞ」
いつにも増して凄みの効いた台詞に、イタリア人はちょっと肩をすくめて、
「失礼いたしましタ」と奥へ消えた。
「身体を損ねていて、お食事は一緒にできないが、気にせずやってください。もちろん勘定はわたし
持ちだ」と、指の細い右手を差し出す。
それを握って、承太郎は席についた。
「アルコールをお勧めしてもいいですカ？ 露伴サン」と、トニオが飲み物のメニューを持ってくる。
「ああ、わたしはお付き合いできないが……どうぞ、お好きなのを」と示す露伴は、いつもなら結構
いけるクチであったはずだ。テーブルの上には、億泰ならあやしげな比喩を並べ立てて賞賛しまくる
だろう、味と品質が保証されているオレンジジュースがもうグラス半分になっている。遠慮せず中の
下ぐらいの値段で好みのものを承太郎が注文すると、
「込み入った話になる。そうそううろつくな」と、ミネラルウォーターのピッチャーを持ってこさせ
て、露伴は椅子の背に身を投げ出した。
もともと生来の美貌を頼んで化粧には無頓着なほうだった筈だが、レストランにひとを呼びつけて
相談をするにはあまりにも無造作すぎる出で立ちだった。体調が悪いというのも理由かも知れない。
頬はそそけ、目は落ちくぼみ、色の白い滑らかだった肌は、恐ろしくひからびて荒れていた。
「どうぞ、遠慮せず」というのに、少し迷ったものの、承太郎は運ばれてきた料理に手を付けた。
どうやら露伴はコロンも付けていない。
この前この店に来たときは、こういう空調だっただろうか。やや肌寒く、風の流れも、こちらが風
下になるように加減してあるようだ。前なら海外の一流ブランドの、しかし一般には知られていない
独特なコロンを愛用してた筈なのに。漂ってくるのは、若い女性らしい、シャンプーの淡い香りぐら
いだった。
相談を持ちかけてくる筈の当の露伴は、ただ少し潤んだ瞳をして、手酌でミネラルウォーターを時
折すすりながら、タイミングを計るようにゴブレットを揺らしていた。
「露伴さンは、こちらはいかがですカ？ ズッパだけならすぐご用意できまスよ？」
「いらん」
「何か召し上がった方がいいでス」
「余計な世話を焼くな。引っ込んでろ」と、言った瞬間、こみ上げてきたらしい。
「……失礼」と席を立った露伴は、トニオに伴われて化粧室へ歩み去っていった。
個室内には立ち入らず、トニオは魚料理を承太郎に運んでくる。杜王港に今朝上がったばかりのス
ズキのポアレだ。と、背後の気配に振り向いて、笑顔をまた輝かせる。
「レモンのソルベがありまス。丁度承太郎さんにモお出しするところでス。きっと胸がスッといたし
まス」
「……それを貰う」
口元をハンカチで押さえて戻って来た露伴は、失態を晒してしまったことにさらに消耗しているよ
うだった。
「大丈夫なのか？」と、心配していることを表明するために声を掛けてみる。
「拒絶反応がひどい……そうだな、本題を出そう」
座り直した露伴は、ひどく怯えているようにも見えた。
「今年生まれて来るであろう、新しいスタンド使いがいます」
何度も水で口を湿らせて、露伴は小さな声で言った。
「そこにか？」
既に察していた承太郎は言葉短く確認した。
詰めていた空気を一息に吐いて、露伴はうなずいた。
「話が早い。……予定日は９月です。それで……」
妊娠していたのか、と表情を消した下で内心驚く。露伴はたしか未婚だったはずだが。それに、２
月に届いた康一からの手紙によると……。
「地元のタウン誌に、仗助くんが露伴先生と遊んでる写真がスクープされちゃって。「クリスマスデー
ト」って。露伴さんは『この岸辺露伴がスクープされるのが有名な写真誌でなくて杜王町のローカル
誌だなんて！ もう落ち目だ！ 許せない！ でも相手が仗助と思われるなんて一生の恥だから知ら
れるのはこの町限りで良かった！』とか訳のわかんない怒り方をしてて、ぼくたちその雑誌全部買い
占めさせられたんですよ。仗助くんの目には絶対触れさせるなって。でも、仗助くんしっかり見て知っ
てて、『うわーおれＪ君１６才だって。目線入ってるのが残念』とか嬉しそうにしてましたよ」という
ことだったのだが。
「杜王町のクリスマス・イルミネーションを見に行く頭の軽いカップルの取材ってことで露伴先生に
ムリヤリ付き合わされたんですって。でも本当に楽しそうないい笑顔でしたよ……ばれたら露伴先生
に殺されるけど、うちにおいといても荷物なんで１冊送ります。ジョースターさんと見てください」
と、雑誌もご丁寧に同封されていた。
胎児の状態で「スタンド使い」と断言する根拠は、父親が強いスタンド能力を持っているというこ
と……？
「ええと、父親探しが始まったとき、ご迷惑がかかるんじゃないかと思って。調べたら、承太郎さん、
この正月は帰省しておられましたよね？ アリバイを作っておいた方がいいかと」
「ジョースターの血を、継いでいるということなんだな？」
低い声で、承太郎は婉曲に尋ねた。
「ご結婚、しておられましたよね？」
ソルベの山をスプーンの先で削りながら、露伴は疑問文で返した。
「……このクリスマスで離婚が成立したところだ」
「それは、失礼しました」
「………………やれやれだぜ」
たっぷり間を取って、承太郎は若い頃からの口癖を口に出した。
「……仗助には言う気がないのか？」
「もちろん。……トニオにも口止めはしてあります。必要なら、今日『書き込』んでも」と、まだま
だ他人を信頼するということが身についていない孤高の芸術家は目を光らせた。
「いやそれはいい……やはりここで解ったのか？」
「はは……市販の検査薬は使いましたけど」
言ってしまったことで、胸のつかえが下りたのか、それともトニオのスタンド能力が発揮されたの
か、露伴はソルベに舌鼓を打ちながら話し出した。
そう言えば医者に行って薬を出して貰っておいた方がいいな、と思っていた。なにしろ相手はまだ
幼いし、バカだし。その気になったら止まらないし。その相手には自分のスタンドは通用しないし。
でも年末年始はどこもやってないし、と流されるというか乗ってしまって楽しい日々を過ごして、そ
のツケはすぐに来た。
強烈な身体の拒否反応。悪阻。
薬を使って確認して、まさか、となにも考えられずに訪れたトニオの店で、顔を見るなりトニオは
、 「刺激の少ないズッパ、ありまスよ？ ワタシの姉がそういうふうになったとき、母サン作ってくれ
た。栄養アリマス。それから、太陽いっぱい浴びタ国産のグレープフルーツ。輸入じゃないから農薬
つかってないネ。酸っぱいモノ、欲しいでしょウ？」
まず、その太陽のような笑顔に癒された。
ふらふらと席に着き、身体を癒す食事を振る舞われ、そして、最後に、いつも誕生日にこの店を訪
れた客用のデコレーションでパンナコッタを出された。
「今日は、おかあさんとしての誕生日でス。露伴サン、おめでとうございまス」と囁かれたとき、露
伴は我知らず泣いていた。
「……というわけで。本当に、あの能力は誰かが手綱を取らないとやっかいですよ」と告げ口する。
「まあ、本人も、失敗して学ぶところがあるだろうから」
承太郎の方の食欲は、まだ損なわれるまでには至っていない。
「で、産むつもりなんだな？」
「当然。人間の子供がこの世に生を受けてから生まれ出て、成長するさまをこの目で見て体感する絶
好の機会ですから。一度は経験しておかないと、とかねてから思っていました」
早すぎるけど……とのつぶやきは、勢いを殺しきれず承太郎の耳にも届いた。
「おまけに、誇り高いジョースターの血を持つ、能力の高いスタンド使いの血を引く子です。どのよ
うに能力が発現するかを見るのも楽しみです」
表情が、最初挨拶した時とは一変して、目を輝かせるが、しかし、それを育てる環境が整っていな
い。
「仕事は、丁度３部が終わりかけのところだったので、そのまま終わって当分休載にします。取材や
構想は済ませてあるので、感じがつかめたらすぐに復帰するつもりです。編集部とも、その方向で話
は進めてますし」
「責任は、取らさなくていいのか？」
「取れないでしょう。取って貰いたくありません」と、そこで少し偽悪的な表情になる。
「承太郎さん、お間違えにならないように。別にむりやりどうこうされたということじゃないし、逆
に将来誓い合ってのことじゃないですから。悪ふざけの結果です。出るところに出たら、こっちの方
が分が悪いってこともあります。今、日本は未成年に対する大人の性行為に対して風当たりが強くなっ
てきてます」
たしかに仗助は高校新２年生の悪ガキにすぎない。しかし、露伴だって、一人前の男以上に稼ぎ出
してステイタスも持ってはいるが、まだ２０歳の若い女性ではないか。
「一人で育てられると思います。その方がいいんです。大丈夫だと思います。シングルマザーでも、
気持ちの真っ直ぐないい子がちゃんと育つって、実例が目の前にありますから」と、その時だけは胸
を張って、いい顔で微笑む。
「……でもね、最近露伴先生がとても優しい顔をするようになったって、ぼくだけじゃなく、由花子
さんや、億泰くんだって言いますもん。きっとね、そう言うことじゃないかなと思うんですよ」と、
承太郎は康一の手紙を思いだしている。
本当に、いい顔をするようになった。
「ただ、人気商売ですし、これからのことはちょっと心配で、できれば、ジョースター家の方に話だ
けは通して置きたいし、スタンド能力の方もありますから、できれば、必要なときに支援が受けられ
るといいと思って、ご連絡したんです」
「それは、つなぎを取る分にはいくらでも力を貸すが。ジョースター家からでなく、空條の方から、
法律と経理……それから資産運用の方の専門家を今度紹介する」
「済みません。両親はいますが、わたしの才能の理解者というところが限界で、とても専門的なとこ
ろは当てにできないのです」
精神的にもきっと支援は無理なのだろう。スピードワゴン財団から、心療科のスタッフを回して貰っ
た方がよいかとも承太郎は思ったが、プライドの高い露伴はモルモット扱いを受ける印象をぬぐい去
れないだろうとも思ってそれは心中、却下した。
「仗助はあなたを苦手にしていたと思っていたんだが」と、端的に疑問を明らかにすると、露伴は耳
まで赤くして縮こまった。
「ですから悪ふざけで……ええ、あの悪ガキは、わたしを嫌っているくせに時々からかいに来るんで
す。いちどはうちを火事にされたし。あのときは……」
「よーよー露伴センセー、冬休み前だってのにまた金足んなくなっちゃったのよォー。アルバイトさ
してよ。またなんか壊れたモンない？」
あんまり下校途中に仗助達がやってきて無遠慮にのぞき込むものだから、そこだけセキュリティを
切ってある窓から身を覗かせて、仗助は憎めない笑顔を浮かべた。
また、というのは、いちどお茶を振る舞ってやって、億泰がとっておきの高いティーセットを割っ
てしまったときがあった。即座に出入り禁止を書き込んだ露伴に、まーまーそう怒るなって、と仗助
はクレイジー・ダイアモンドを出して瞬く間に修復して見せたことがあったのだった。この能力は使
える、と、ついでに彼らが来る度に少しずつ欠けたり、傷が付いたりしていた食器やら家具や調度を
片っ端から直させて、露伴は機嫌を直した。億泰の出入り禁止は、とりあえず制止役の康一を伴った
ときのみ解除と但し書きをさらに書き込んでやって解決した。康一が一緒でないときは、億泰だけ玄
関先で足踏みを繰り返すものだから仗助には解ってしまっていて、
「ヤナ女〜」と顔をゆがめて、二人帰って行かれてしまうことも多い。億泰本人は気づいていないの
が罪のないことだが。
「無いな、今日のところは。さあとっとと帰ってうちの手伝いでもしてろ」と、いそいそと紅茶を煎
れてやりながらも露伴は胸を張って見せた。
「ねーそんなこと言わないで。何でもやるよおれ。あ、ポーズ取ろうか？ 承太郎さんほどじゃぁー
ねーけど、おれもけっこーいい体してんのよ」
それを聞いて、露伴の目がきらりと光った。
「じゃあ、脱いで貰おうか。モデルと言ったらヌード！ 何でもやれるんだろう？」と、挑発的に見
やると、
「ええーっ？」と一瞬のうちに生意気な高校生は縮こまった。
「ま、お子ちゃまには無理だろう。いいよ別に、無理するな。お子ちゃまは郵便局で年賀状バイトで
もすればいいだろう」と素っ気なく露伴は小指を立てて紅茶をすする。
「それじゃ金入る頃には冬休み終わっちゃうんだよ！ 即金で、なんかおれにできる仕事チョーダイ！」
「じゃあ脱げよ。いい体してるんだろう？ 楽しみだな」
露伴の目は愉快げに細まっている。
「ひでぇ女……」
「女より先に芸術家だ。女の身体は見慣れているが、男のヌードモデルは初めてだから楽しみだな。
相場は２時間５万ぐらいだったかな？」と、口から出任せを言って煽る。
「でも仗助君は別にデートする女の子もいないようだから、要らないだろうな。億泰と仲良くカフェ・
ドゥ・マゴでお茶でもしてればいいじゃないか。コーコーセーらしくね」
「ぬっ、脱ぐよ！ 脱げばいいんだろっ！」
「え？」
決めたらそこから後は速かった。
「うおりゃーっ！」
学生服を脱ぎ捨て、その下のシャツやトランクスまで脱ぎ捨て、文字通り一糸まとわぬ……？
「……仗助」
「ど、どうだ、おれさまの見事なヌードに恐れ入ったか？」
「靴下が残ってる」
「あぁ？」
「靴下だけ残ってるというのもなんだかヘンだ。やるなら全部脱げ。今スケッチブックを取ってくる
から」
すっかりスイッチの入ってしまった岸辺画伯は、エアコンの設定温度を上げてやって部屋を出て行っ
た。
戻ってきたら、目が据わってしまっている。
「そこへ立て。光が一番良く当たる……こら、隠すな。堂々としてろ。大丈夫、その辺に興味はない」
「センセー……」
仗助の腕は情けなく震えている。
「黙ってろ」
ねーだりーよ、ポーズ変えていー？」
「だらしないな。５分と同じ姿勢が取れないのか」と言っても、ブリッジを５分というのは苦行のう
ちにはいるのではあるまいか。おまけに画伯と来たら意地悪く頭とは逆の方に陣取っていて。
「じゃーもっと楽な姿勢にしよーぜ」
「そうだな、クレイジー・ダイアモンドを出してみろ」
「あいよっ」と、ホッとした顔で仗助は立ち上がる。
「それで、ちょっと待て、コップを持ってくるから割ってみろ」
シンプルなタンブラーを１つ持ってきて、仗助に手渡す。
「いいけど、見えんの？ ヴィデオとかの方がいいんじゃない？」
「自分の目で見なくては意味がない」
「ま、いーけど」と、床に置くなり、
「ドラァ！」一撃する。
「痛っ」
抑えた声が響いて、得意げに露伴を振り返った仗助はそのまま床を蹴った。
「破片、飛んだか？ スマン！ どこ？ 見して！ 治すから！」
一歩で漫画家に迫って、傷を検めようとする。ところが当のけが人は、
「見たぞ！ 凄い、東大寺南大門の金剛力士像！ 運慶の境地だ」と、手は動きを止めないが、ざっ
くりと切れた頬からは血を流し続けている。
「うわ、顔じゃん！ ちょっと見せてよ、治さして！」
「触るな、邪魔するな！ 今見たものを描いてしまわないと！」と、煩わしげに左手を振りまわしな
がらも、目はスケッチブックから動かない。
「だめだよあんた女の子なのに！ すぐ済むから！」と、必死になった仗助はスケッチブック越しに
頬に手を伸ばそうとして、……バランスを崩して露伴を押しつぶした。
「重いぞ」
重なり合ったまま、露伴は憮然として言った。
「……治させていただきました」
「ふん、顔で生きてるわけではないからいいのに。直すならコップを先にしろ。２次被害が出る」
もっともな意見に身を起こそうとした仗助が無造作に手を突いたのは……
「うっ」
再びの声に自分がどこに手を突いたかを目の当たりにしてしまって、そこがどこだかを知って、そ
の手触りをまざまざ思いだしてしまって、血が身体の二方向に集中してしまって。……つまりは、頭
と、股間に。
「うわぁぁぁぁあ、ごめん！」
股間を隠してうずくまる仗助に、身を起こした露伴は溜め息を一つ吐いて、
「気にするな、青少年」と囁いてやって、きまぐれに頬にキスをくれてやる。
「きみがわたしを女の子だと思ってるとは思わなかった」
「や、だって」
どぎまぎする様を目で愉しんで、露伴はさらに指でも愉しむことにした。
「ナルホド、いいからだしているな」と、張り詰めた筋肉を撫でてやる……。
「……それからは、なしくずしのようになってしまって」
仔猫のようにじゃれあって、「２次被害」が出ては中断し。
小さくなりながら、ソルベを崩し崩し口に入れながら、それでも露伴の告白は止まらない。
（……そういえばこの二人は逢えば喧嘩していたんだったな）
そういうことを思い出しながら、承太郎は「悪ふざけ」の延長で子供ができてしまう事態について
事情聴取していた。
「それで、次にはあのバカはわたしの……をですね……」
（いやその辺りは飛ばしてもらって構わないから……）
「紙の上のことだけでいいなら、今そういうことでおれは空いているが」と、メインの肉を済ませ、
エスプレッソを飲みながら承太郎は口に出してみる。
「ええ、ですが、お断りします」
底光りする目をして、露伴は答えた。礼を失したかと、すぐさま言葉を付け足す。
「そんな、もったいない。スタッフを紹介していただけるだけで十分です」
それは、いつも自分にだけは恥ずかしげに真っ直ぐな好意を向けてくる時と同じまなざしだ。
瞬時に断られても、承太郎は唇を緩めてしまう。
「帰りの車は呼ばなくていいのか」
「いえ、歩きます……車酔いをしてしまうので」と、その足取りも危ういものだから、車を呼んで貰
うつもりの承太郎は付き合うことにした。
杜王町はまだ梅の季節。住宅地では、常夜灯や街燈に照らされて、そこここで白梅が匂いを放って
いた。沈丁花も少し。悪阻の重い露伴には、それも苦痛なのだろうか、と承太郎は考える。
「来ていただけて良かった。今までずっと……一人で考え込んでしまっていたので」
家の近くまで来たところで、露伴は口を開いた。
「まあ、あまり重くなるようならスピードワゴン財団のコネの効く病院を紹介するが」
「それも、首都圏に限った話。わたしはここで生きていくつもりなので。最後の切り札として取って
おかせていただくことにします」と顔に笑みが戻ったので承太郎はいじらしさに胸を突かれたように
なる。
（最ッ高ーに萌えってヤツだァーーーーーーッ！！）
若い頃に聞いたＤＩＯの声が脳裏に蘇っていた。
「一度向こうに戻って相談はするが。できるだけあなたの意向に添える形にする。絶対戻ってくるか
ら、あまり思い詰めないように」
「ええ」
「おれはこっちに詰めているわけにはいかないから、信頼の置ける友人にだけ、事実を明かしてお願
いしておく」
「康一くんですね。解りました」
「ゆっくり休め」と、降りてきた顔は、頬にぬるい感触を与えて去った。
「あなたがこんなにサーヴィス精神に富んだ方とは思いませんでした」と、その感触を手で確かめな
がら露伴。
「おれにイトコを与えてくれるひとだからな。敬意を表して。叔父貴を見捨てないでくれると助かる」
「好きとか嫌いとかの関係じゃないんですよ」と、まだまだ突っ張る。
「ジョースター家の男は、生涯１人しか愛さないそうだ……まあ、それが噂に過ぎないことを証明し
た男が去年見つかったが」
「愛まで行ってない場合もあります」
曖昧に笑って、露伴は右手の指を動かした。
「あのバカはわたしの芸術を理解しないんですが、承太郎さんは漫画はお読みになるんですか？」
彼女の作品の主人公の顔に似せた絵を空中に描いてみせる……
「ああ、あなたの作品も毎週楽しみに……！？」
「「ヘブンズ・ドアー！」ルドッ！」
承太郎の身体をめくってその余白に「露伴の子供の父親については」まで指が動いたところで、
露伴は動かなくなった。
「心配しなくても、口外しやしない……お休み」スタンドの技の発現は、スター・プラチナ・ザ・ワー
ルドの方が一瞬遅かったようだった。意地っ張りの女流漫画家の頭をちょっと撫でてやって、もう一
度頬にキスしてやって、承太郎はふと目を和ませた。
時間が止まっているうちに露伴を家に押し込んでドアを閉め、承太郎はホテルへと戻った。
「『ピンク・ダークの少年』の作者岸辺露伴（２０）、恋の相手は海洋生物学者（２９）？」という
写真誌の記事の見出しが全国紙の広告欄や電車の吊り広告に踊った翌週、杜王町の主立ったスタンド
使いたちはトニオの店に呼び集められた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれて不満そうにしながらも、ちょっ
とした同窓会状態で昂奮していた。
「皆揃ったようなので始めるが、今回の目的はこれだ」
呼びかけ人の承太郎が、背後にいた露伴を振り返ってみせる。まだ安定期に入り立てで、腹部は目
立っていないので、あからさまなマタニティは着ていないが、いつものへそを出すファッションはさ
すがに控えている。
「露伴が妊娠した。父親はおれだと思ってくれていい」
行儀悪くまだ私語が続いていた一座は、瞬時に静まりかえった。
「って、じゃあ、この前の写真誌の記事は……」康一が代表して尋ねる。
「先月逢ってたのを撮られた。おれのほうの離婚は成立したんだが、露伴は絶対結婚したくないと言っ
てきかない。おれも、その方がいいんじゃないかと思ってる」
ええ、だって、じゃああれはというささめきを、能天気な億泰の声がかき消す。
「今度は全国版の写真誌だ。よかったなー露伴センセー。相手は本命の承太郎さんで、こんで一気に
名誉挽回だー」
オイオイソレは違うだろうと、皆が内心で突っ込んだ。
「空條の方は認めるつもりはないが、ジョースターでは認めた。認知はしない」
「ちょっとそれって！」
さすがにいきり立った由花子が声を荒げて立ち上がった。
「由花子さん黙って」と、横に坐っていた康一がそれを押しとどめた。
「仕事はこの前３部が完結して、休載に入った。復帰の計画も準備中だ。これからマスコミにいろい
ろ騒がれるかも知れん。周囲の人間として、皆はいろいろ聞かれるだろうが、そういうことだと認識
しておいて欲しい。生まれてくる子はスタンド使いの可能性が高い。迷惑を掛けるかも知れないが、
頼む」と、必要最小限の情報公開をして、承太郎は頭を下げた。さすがの露伴も、主義に反して少し、
頭を下げて見せる。
「うわー露伴、そんで最近遊んでくんなくなったのか。ってことは、おれ承太郎さんと『兄弟』になっ
ちまった？」
全く無邪気に発せられた一言で、露伴を除く一同は皆血の気が引いた。当の露伴は首筋から耳まで
赤くしている。
「おれに子供ができようがどうしようが、おまえがおれの叔父さんであることには変わりはないよ」
じつに素っ気なく問題発言をスルーした承太郎の株は、一度下がりかけた分最高騰した。
場が解散して、連れだって帰りながら康一は億泰と由花子に解説してやっている。仗助は、少し話
していたが、途中、なにかを思いだしたらしく、一人で駆けだしてしまった。承太郎から事情を聴い
ている康一は、嫌な予感を隠しつつ見送って、せめてサポートに徹しようとしている。
「だから、空條家は認めないけど、ジョースター家は認めると言ってるんでしょ？ 数学の、集合の
ヴェン図を思いだして。
空條家には入らないけど、ジョースター家には含まれるひとがいるでしょう？」
「えぁ？」
億泰はまだ理解していないらしい。仗助が自分を置いて大人の世界を知ってしまったことの方がショッ
クなのかも知れない。
「……そういうこと？」
由花子は声を潜めた。
「そういうこと。承太郎さんって凄いよね。嘘は吐いてないし」
「仗助くんまだ学校あるものね」
「絶対隠し通すつもりかなあ……」
その翌朝、露伴の家を仗助が訪れた。
「やあ、早いじゃないか仗助。学校は行かなくていいのか？」
前日の失言に腹を立てていた露伴は、表向き友好的に、イヤミは声音に込めて声を掛けた。が、な
にやらうかされたようになっている仗助は、擦れた声を出した。
「ああ、元気か？ 腹、大丈夫か？ なあ、なあ、露伴、おれ昨日から考えてたんだけど」
もしかして、可能性に気づいてしまったのか。露伴は背を震わせた。
「今５ヶ月って、もしかして、子供つくったのって去年の暮れぐらい？ お袋に聞いたらもう少しあ
とかもって」
「どうしてそういう生々しいことを女性に面と向かって聞けるんだこのサルは？」と、顎を挑戦的に
上げて、露伴は心臓の破裂しそうな鼓動を支える。悪阻が激しくなって以来玄関に置くようにした小
休止用の椅子に、やっとやっとで腰を掛ける。
「だって、あんたって、おれとあんたって、冬休み一緒に遊んだじゃん？」
「ああ、遊んだな」
「昨日は、解ってなくって、あーおれ承太郎さんと一緒の女抱いたんだって、光栄な気持ちになって
たんだけど」
「思うのはいいが垂れ流すな、この脳みそきんにくんが。ひとがどれだけ恥ずかしい思いをしたと……」
「ってことは、あんた二股かけてたわけ？ かぶっちゃってるんですけどぉ〜？」と、仗助の声は裏
返ってしまっている。
ひとのうちの玄関先で何て話を始めるんだ、と、露伴はとりあえず招き入れて玄関の扉を閉めさせ
る。
「前後、は、した……かな？」
この辺は、承太郎の方のスケジュールとすりあわせをしたので、想定受胎日まで決まっている。さ
すがの露伴も少し引いたが、理系の科学者というのはある意味遠慮がない。
その後ろめたさの混じった声に、仗助は別なものを感じ取ったらしい。
「どおしてなんだよぉーっ！？ なんで承太郎さんとぉーっ！？ だったらおれはいったいなんだっ
たんだよ？ おれ、あんたと一緒にいられて楽しかったのに！ もしかして、おれ達付き合っちゃっ
てる？ って、思ってたのに！ 露伴先生、あんたおれのことなんだと思ってたの？」と、声の裏返っ
たままに仗助は叫びだした。
「思い上がるな、バカ。単なる遊び相手だ。……あのひととは違う」
露伴が承太郎の日本人離れした体格と知性に裏付けられた静かなたたずまいを思慕しているのは周
知の事実だ。
「だって、あんた、お、れ、に……」
「学校へ行けよ、仗助君。ガクセーはガッコ行くのが仕事だぜ」と、年の違いを残酷に思い起こさせ
る。仗助が何か言いだしたときのために、ずっと前からシミュレーションしていた内容だ。
「嘘だ！」
「そう思いたかったら思えばいい。さあ、もう帰れ。わたしは忙しいんだ。検診の予約が入ってる」
「ひでぇよ露伴……おれ、あんたのこと好きだったよ。ホントに好きだったんだよぉ！」と、仗助は
頭を振る。自慢のリーゼントが乱れかけている。
「ああはいはい。わたしも楽しかったよ。おまえは本当に愉しませてくれたよな」と、わざとらしく
脚を組み替えて見せる。若い肉体だけが目当てだったというように。
「う、おぉぉぉぉぉおっ！」
さあ、来た。飾り棚の食器類は避難させておいた方が良かったかな。さすがに少しは無傷で残るだ
ろう。被害総額はどのくらいになるだろうか。今回ばかりは本人に直させるのは無理そうだ。まさか
ジョースター家に請求するわけにも行かないし。
露伴はそんなことを一瞬の間に考えた。が、仗助が壊したのはそんなものではなかった。自分の左
腕に付けていた、露伴が買い与えたクリスマスプレゼントの腕時計。
「承太郎さんとおそろいの、タグホイヤーがいい！」
「高校生のくせに生意気な。どれがいいんだ？」
露伴の方は、そう言い出すことを見越して、カメユーデパートにそのブランドが入って
いることを調べておいてあった。しかし、普段見向きもしない宝飾・時計サロンに足を踏
み入れて、仗助はべそをかいたような顔になった。
「……分かんねえ。なんでこんなに種類があるんだよ」
「細かいところも観察しておけ。こちらの左のモデルで、このベゼルの部分の数字がアラ
ビア数字のものは？ ああ、そう、そちらの。文字盤は白だ。ベルトはこちらのと同様の。
……どうした？」
「なんであんたそんな詳しいの？」
「職業病だ。好きなものは細部まで観察して分析しないと気が済まない」
「ってあんた、これ値札の桁がスゲエ！」
「素っ頓狂な声を上げるな、ノータリン。この岸辺露伴がそれくらいの金が払えないとで
も思っているのか」と、クレジットカードを出す。ゴールドだ。
「うわーうわーうわー！ 承太郎さんとお揃い！ やったぁ！ 露伴サンキュー！ 大事
にするよ。ホントありがとー！！」
「これで当分おまえはわたしの奴隷だな」
「奴隷になりますぅー」
それからほんとうに爛れた冬休みを送ってしまったのだった。
仗助は、左腕から腕時計を外した。力任せにそれを床にたたきつける。サファイヤガラス、２００
メートル防水のカヴァーは、それくらいではびくともしない。それを、踏みにじる。大粒の涙を零し
ながら、クレイジー・ダイアモンドを呼び出し、両腕を交互に繰り出して叩き続ける。
「ドラララララララララァ！」
美しい思い出の結晶が、粉々に砕かれていく。それに、愛おしい真っ直ぐな少年の、ダイヤモンド
のような涙が次々に落ちかかる。
「おまえ、この先自分でそれが買い直せると思っているのか。もったいないコトをするな」
露伴の声は、冷え切っていた。
「うるせえ！」
「二度と顔を見せるな、このバカ野郎」
「こっちの台詞だぁーっ！」
扉を開け放したまま行ってしまったので、露伴は裸足のまま三和土に降りて、玄関の扉を閉めた。
「まったく度し難いバカ野郎だ。時期が被っていたなら、どうして自分が当たりくじの方だったと思
わないんだ」
それは承太郎への絶対的尊敬があったからだろうか。
上がりかまちに足をかけて、扉を振り返って露伴は言葉を継ぐ。
「おまえはたいした男だ。余人の持たない能力を持って、この杜王町を救った。それだけじゃない。
おまえは唯一の、この岸辺露伴を心身共に狂わせた男だよ。勢い余って人生も狂ってしまったが。……
まぁ、それぐらいでへこたれる岸辺露伴ではないがね」
玄関に仁王立ちして、見得を切って芝居がかった台詞を吐いてみても、壊れそうな心を必死で支え
るように自分の身体を両腕で抱きしめていることには代わりはなかったし、露伴の目からも涙は絶え
間なく流れ落ちているのだった。
それからしばらくは、康一が学校の行き帰りに由花子を誘って露伴を見舞ったり、承太郎が朋子に
「シングル・マザーの先輩」として助言を頼んだりしてなんとか危機を脱し、杜王町は梅雨を迎えて
いた。
その夜、杜王町付近を地震が襲った。マグニチュードは６．９。都市部を襲った久々の大地震だっ
た。住宅地方面は、震度は４程度で、地震対策をしているかどうかで被害は別れた。つまり、十年前
にもこの地を同規模の地震が襲っており、それ以来杜王町は耐震化が進んだ町になっていたのだ。東
京とは別に、地震の記念日には防災訓練が毎年実施されていて、住民の意識も高い。家具にはふつう
転倒防止装置がついており、ちょとやそっとでは皿や鉢が散乱したり、本棚が倒れかかったりしない
ようになっている……。
まだ皆が寝静まる頃ではなくて、電話で億泰と連絡をとりあっていた仗助は、廃屋寸前の虹村家の
被害がひどいらしいことを聞いて、朝になってから片付けを手伝いに行く約束をした。比較的海に近
い康一の家にも掛けてみて、繋がらないので無理に連絡をとるのはよそうと思い直して電話を切った。
ＴＶのニュースなどを見ても、揺れの方向にも拠るが、今回は、対策さえきちんと取っておれば怪我
をしたり大損害を被るほどではないようだ……？
「露伴ち、だめじゃーん！」
仗助は絶叫していた。
露伴は幼い頃にこの地を一度離れているので、くだんの大地震の経験がない。引っ越してきてから
も唯美主義にしたがって、地震のない国の高級輸入家具を並べて悦に入っていた。露伴の家が独自の
雰囲気を持っていると感じられたのには、日頃見慣れた実用本位の地震対策がとられていなかったせ
いもあったのだ。家主は、そんな無骨なものを噛ませるぐらなら、飾り棚の高級食器や本棚の画集に
埋まって息絶えた方がマシだと鼻を鳴らしていたものだ。
「仗助？」
母が声を掛けるより先に、仗助は走り出していた。停電して、真っ暗な町。梅雨空に星も隠れてい
た。
「露伴！ ろーはーん！」
ドアを叩くと、夜だというのに鍵は開いていた。
康一に誘われて、露伴の家を訪れるようになったのはいつ頃だっただろうか。女の一人暮らし、と
いうことで、セキュリティは厳重だった。いつも、インターホン越しに誰何されて、しぶしぶ、といっ
たようにドアを開けられていた。最初の頃は。
いつの頃からだろう。外から窓に触れてもアラームが鳴らなくなったのは。ノブを回せばすぐにド
アが開いて、
「うちをサ店がわりにするな」という不機嫌そうな声が聞こえてくるようになったのは。 素直でな
い露伴はそれなりに、仗助達を受け入れて、待っていてくれたのだ。
「ろはーん！ どこにいるんだ？ 生きてるか！？ 怪我してねえか！？」
勝手知ったもと「恋人」の家、懐中電灯片手に上がり込んで、まっすぐベッドルームを探した。果
たして恋人が昔語っていたように、ベッドの上には大きな本棚が倒れかかっていてとてもひとが無傷
でいられるようには見えなかった。
「ろはーん！ 死ぬなぁ！ 死なないでくれぇ！」
もう既に泣きながら、仗助はクレイジー・ダイヤモンドでそこら中を殴りまくった。瞬時に本棚が元
通りに立ち並ぶ。降り注いだらしい本の山まではもどらないから、ベッドから払い落としてあるじが
いつも横たわっていたあたりを探す。
「痛い」
不機嫌そうな声がベッドの向こうがわからした。
「おいちょっとそこの単細胞、もう少し周りを良く見て行動しろ」
独創的なデザインのネグリジェを着たただ今産休中の漫画家が、頭を抱えて座り込んでいた。
「露伴！ 生きてたか！」
「当たり前だバカ。あれくらいで死ぬか」と、顔をしきりに擦っていたのは、自分も泣いていたのを
隠すためらしい。
「すぐにベッドから降りて頭を低くしていたら、うまくベッドとの間にすき間ができてそこに隠れら
れたんだ。おまえが適当に放り投げた本が頭に当たったのが一番重い傷だぞ、ホラ。こぶだ……治せ
よ」
「あ、……はい」
停電が各地区順番に直ってきたようだ。１，２度点滅して、部屋の灯りが一気に点いた。
「まあ、これだけの本棚を自分で持ち上げるのは無理だから、助かったのは確かだな。ありがとう、
良く来てくれた」
素直に笑って見せた露伴は美しすぎて、仗助は泣けて仕方がなかった。
「ホント、良く来たよな。放っておけば良かったのに」と、年上女の素直は長続きしない。
「だって、承太郎さんが、あの後、振られたけど露伴はおれが尊敬してる女だから、どうかおれの代
わりに力になってやってくれって……」
「なんだ、承太郎さんに言われたからか」
雲行きがあやしくなってきた。
「だって、だって……あんたはおれの最初の女で、はじめて本気で好きになった女なんだよ？ すげー
ナマイキでヤナ女だけど、どうしても忘れたり嫌いになったりできねえ。おれだってジョースターの
男だ、そしたらあんたはおれの唯一の女じゃないか！
なんであんた承太郎さんの嫁にならないの？ あんなに憧れてたのに。あんたが承太郎さんの嫁に
なるなら、おれいっぱい泣いてそんであんたのこと忘れられたかもなのに」
「知るか、バカ」
冷えてきたのか、露伴は自主的に羽織るものを探して肩を覆った……いや、顔を隠したかったらし
い。
「なあ、言えよ」
「だってイヤだろう。あんな素敵なひとに、這いつくばって、どうか書類の上だけで結構ですからお
願いしますなんてみっともないことできるか？ 認知だけでもお願いしますなんて？ わたしはイヤ
だ。女と生まれたからには、あんな極上の男には膝を突かせて、どうか結婚してください、認知させ
てくださいと言わせにゃならんだろう！ それが醍醐味ってもんだ。女のプライドだ」
「難しすぎてワカリマセン……」
冬には一晩中仗助と「承太郎さんのカッコイイところ探し」ができたのに。
次々年上の甥の美点を数え上げて、ふと我に返って、
「おれもあんなふうになれんのかなァ」と下を向くと、露伴は、
「おまえは今でも時々、十分承太郎さんと同じぐらいかっこいいぞ」と言ってくれた。
「え？ ホント？ どこどこ？」とじゃれつくと、
「さあ、どこだったかな？」とはぐらかして顔を背けた。
たとえ同じレヴェルになっても露伴が振り向いてくれないなら、いったいどうしたらいいのだろう。
仗助は腰砕けにその場に座り込んだ。
「だって、承太郎さんの奥さんになったりしたら、おまえと遊んだりできなくなるだろう……？」
露伴の消え入りそうなつぶやきが溜め息と一緒に流れた。
「わたしはずっと、ああいうのが続けばいいとただ思っていたんだよ……」
頭を抱えていた仗助は、ゆっくり露伴を見やったが、露伴はもう立ち上がっていた。
「おい、座り込むな。他の部屋の被害状況を報告しろ」
「いや、見ない方がいいと思うよ……」
仗助は助言したが、露伴は構わずベッドルームを出た。作家ものの北欧家具や、その中の秘蔵の外
国一流ブランドのティーセットや高級クリスタルガラス類が全滅しているところを見た時には一瞬固
まっていたが、溜め息一つでそれを吹き飛ばして、スケッチブックを広げた。
「直すよ？」
「待て、この様を写してしまう。ここまで完膚無きまでにいってしまうと爽快感さえある……使える
ぞ」
「……おはやくお願いシマス」
しばらく無言の時間が続いて、
「おい。ここからこっちまではもういい」
もう言葉もなく仗助はご希望通りにしてしまう。すっかり元通りに片付いたリヴィングでお茶を煎
れて貰って、仗助は久し振りにいい気分になっていた。
「ついでにこれも」と、出してこられた金属片を元に戻してみれば、タグ・ホイヤーの腕時計になっ
たりして、それを黙って露伴が左腕に付けてくれたりして。
「女の子じゃないといいが」
ずいぶん大きくなったお腹を抱えて、露伴はつぶやいた。
「女はリスクが大きいから？」
あれから、シングル・マザー宣言をしてバッシングを喰らったり、休載中の「ピンク・ダークの少
年」の代わりに新しく連載になった新人作家の作品が大ヒットしたりして、もう岸辺露伴は終わった
と言われたりしてるらしい。
「何をバカなことを。さっきかなり腹を強く打ったから。
知っているか？ 妊娠中に火を見たり、血を見たりすると生まれた子にあざが出たりするそうだ……」
「迷信じゃん！ それに、前、あんた顔で生きてるわけじゃないって言ったくせに」
「わたしはな。だが、この子がわたしと同じように才能で生きられる子とは限らないし、だいたい、
そういう見かけの美にこだわる子に限って、微妙なところに微妙な大きさのあざが出たりするもん
だ」
「そうかなあ？」あんたの子だろ？ と言う台詞はなんとか飲み込む。
「わたしの年上の友人も、妊娠中に思いっきり転んで、生まれた子供にはお尻に赤いあざがあるそう
だ。ただ、彼女は『これでこの子はヌードになったりＡＶに出たりできないからこれでいいのさ』と
放言してる。『猟奇殺人の被害者になって、パーツでしかみつからなくってもここで本人確認ができ
る』とも言ってたな」
「たくましー」さすがあんたの友人、とも言わない。
「せっかく生まれてくるんだから、少しでも傷ついたり引け目に思うことが無ければいいと思うじゃ
ないか。
……まぁ、首に星のあざが出るのは確定なんだが」と、もうしっかり母の顔になっている。その顔
を見ていると、なんだか仗助は泣けてきて、そのままエコーズＡＣＴ３の技をを喰らったように床に
めり込んでいた。
「けっこんしてくださいぃ〜！」
泣きながら思わず叫んでいて、仗助は我ながら脈絡のなさに目が眩んだ。
「何やってんだバカ。さっきは承太郎さんの嫁になれって言っといて」
やっぱりそのたびごとに言うことがくるくる変わる、と愛しいひとはみごとにスルーしてブツブツ
言っている。
「なんかわかんないけど言いたくなった」
椅子に座って足を組んだまま、その組んだ足で露伴は土下座中の仗助の頭をつんつん蹴った。
「学校出てから言え、ガキが」
「出てからならいいの？」
上目遣いに見ると、なんだか嬉しそうな露伴は、
「わたしは一生結婚しないから、そうだな、おまえはまた好きなときに遊びに来ればいいんじゃない
か？」と言ってくれた。
「来ていいの？」
「おまえには『書き込め』ないから、おまえが好きにすればいいんだよ」
なんだか露伴の声は優しかった。
「じゃー、する！」
一瞬で飛び上がって、露伴を抱きしめて口づけた仗助は、露伴に急所をしたたか蹴り上げられて飛
び回ることになる。
「今はダメだ。このケダモノが」
ってことで、チャン、チャン♪
おまけ。
半年後。露伴宅の前で、通りがかりの主婦が仗助に声を掛けた。
「あら、産まれたの？ 女の子？ 女の子は育てやすいのよ、親孝行な子ねえ」
「おばちゃん、見る？ 露伴に似て美人だぜ」
今日も仗助がベビーカーを押して赤ん坊を散歩に連れて行っている。
「あら、外人さんみたいに彫りが深いこと。この子、仗助くんの子なの？」
「違うよ。去年名乗り出てくれたおれの父親の方の親戚の、承太郎さんの。承太郎さんはハーフだし。
承太郎さんは責任取る気はあったんだけど、アメリカ暮らしだから、一緒になったら漫画を描き続け
ることができないからって露伴は結婚はしないんだって。
そんで、承太郎さんの嫁になるよりおれと一緒にいたいって言ってくれてんだぜ」
「誰がそんなことを言った！ くだらない世間話をしてないでとっとと帰ってこい！」
家の窓から身を乗り出して、露伴が絶叫した。
５年後。
「ねーまたじょーすけとまりに来たの？ ははうえ、もうじょーすけとせき入れたら？」
「情歌、承太郎パパからの小遣いはいらないようだな？」
承太郎は替え玉パパライフを楽しんでいるらしい。
六壁坂の事件で破産した露伴は母娘して康一のうちに転がり込んだあと、仗助の家に回収されたら
しい。
「承太郎さん！ お願いします！ 養育費だけでも払ってやって！ あの女もう３シーズン自分の服
買ってないんですよ！ あのとんでもねえ服オーダーメイドでべらぼうに高いでやンの！ 化粧もし
ねえで！ おれもバイトして金入れてるけど全然足りねー。このままだと承太郎さんの恥になるから！」
困窮した露伴画伯は、ジョースター家の人々の肖像画を描くことを条件に無返還の援助を引き出し
たらしい。
「結局のところ芸術家はそれを支える大衆なしには存在し得ないのだ」などと憎まれ口を利きながら、
スージーＱの年輪をたたえた笑顔や、ジョースター家の豪壮な邸宅を描くことで普段得られない刺激
を得てきたらしい。
１５年後。
「だから、仗助があたしを犯せばいいのよ。そしたら母上逆上して、ぜったい『このケダモノが！』
とかいって口を割ると思うから。今年こそあたし真実を知ってやるわよ」
おおきな垂れ目と厚めのくちびるがチャーミングな露伴の娘は、母譲りの過激な性格と皆の期待を
裏切る役に立たないスタンドとで杜王町の一部の人々のアイドルだ。
「そんでおれ露伴に殺されるの？ やだよ。情歌ちゃんもっとおだやかな方法考えてチョーダイ」
もう誰の目にも明らかな子供の父親について、露伴はまだ黙秘し続けているらしい。
１３−１２−’０８