飴と鞭
その朝（５４）
１
シニョーラ・ブチャラティに拾われたもと警官の大男は、賄いを引き受けることになっ
て自虐の無限ループから抜け出し、ギャングとしての第２の人生を歩み始めたかと思うと、
持って生まれた気性はなかなか変えられなくて。
「くぁｗせｄｒｆｔｇｙふじこ！」
「あァ、解った、解ったからシニョリータ、そろそろ離してくれねえか？」
「ｐぉきじゅｈｙｇｔｆｒですぁｑ！！」
「そんなたいしたことじゃねえよ。な？ もうあんたこの辺は切り上げてホテルへ戻った
方がいいぜ」
ナターレはもう終わったが、その余韻の残るままにカレンダーの残り１週間を過ごして
しまおうという季節。自分の胸にも届かない小柄な外国人の女性にひしとすがりつかれ、
なにやらまくし立てられて弱り切っているのはアバッキオ。下町の中心、フェデリコ広場
に近い辻の真ん中でそんなことをされて、いい見せ物になっている。
「なあ、やばくねえか？」
「ブチャラティを呼んできた方がいいかな」
若いのがひとり、駆けだした。
２
ブチャラティが参謀を連れてやってきた。いろいろに冷やかされながらアバッキオが心
から困り顔で女性を引きはがそうとしているのを見て、青い眼を輝かせた。
「アバッキオ、もててるな」
その場は急に静まりかえった。
「どうしたんですか？」
フーゴが進み出て、旅行者と見えた女性に英語で話しかけた。少し、といった消え入り
そうな限定の言葉のあとで、日本人、パスポート、盗まれた、スリ、と言った単語がつっ
かえつっかえ出てきた。
それはよかった。でも、彼も仕事がありますから。ここは治安の悪いところなので、観
光客の方は長居しない方がいい。ホテルまで送りますから、そのようなことをフーゴは言っ
て、女性を落ち着かせると向き直った。
「パスポートをスリにやられそうになったのをアバッキオが取り戻してやったそうです。
それで感激したと。ジャポネの観光客だそうです。送っていきますが構いませんね？」
「ああ、頼む」
短くブチャラティは容認した。
芝居がかった仕草で女性をエスコートして、フーゴはその場を立ち去ろうとする。
「シニョリータ、いい旅を！」
「ネアポリスを嫌いにならないでくれよな！」
「またおいで！」
集まっていた街の衆から口々に声がかかった。それににこにこと手を振りながら、女性
は去っていった。
３
アバッキオと並んで手を振って見送って、２人が見えなくなってから、ブチャラティは
鋭い声を発した。
「コルヴォ！ 済まなかったな。フーゴの言ったとおりでいいか？」
「ブチャラティ、ひでえよ。おれ先月ちゃんと金は納めたぜ？」
ハンチングを被った小柄な男が陰から現れて、ブチャラティに文句を付けた。右腕をこ
れ見よがしに押さえているのは、アバッキオにねじ上げられて傷めたとアピールしたいら
しい。
「解ってる」といいざま、アバッキオの顔にストレートを叩き込んだ。
まったく油断していた色男は、２メートルほども吹っ飛んで角の果物屋のワゴンに半分
埋まった。
「なっ……」
呆然と顔に手をやる情人を、ブチャラティは冷たく叱りつけた。
「おまえの個人的なええカッコしいのためにファミリーのシノギの邪魔をするな」
ブチャラティがお仕置きモードに入ったことを察して、集まっていた街の衆はぱっと散っ
た。
「シノギ、だと……？」
頭をひとつ振ってのろのろと顔を向けたアバッキオが問い返した。
「パスポートは金になる。とくに、ジャポネーゼのはな。イタリア語どころか英語もろく
に話せないのにこんな下町までウロウロ入り込むようなマヌケはパスポートぐらい無くし
ても当然だ。
ところが、そういうマヌケぞろいのジャポネーゼのパスポートは世界中で一番信用があ
る。どこの国の国境でもほぼフリーパスだ。ジャポネーゼは行儀がいい。金も持ってる。
ボヘミアンを気取った若いのが時々歌ったり踊ったり絵を描いてみせるぐらいで、住み着
いて違法就労したりなんてやっかいはまずないからな。
わたしやナランチャが使うには無理があっても、訓練を受けたチーノやコレアノが使う
分にはまずばれない。ということで、高く売れるのさ」
「ブチャラティ……」
「忘れているようだが、わたしはパッショーネのギャングだ。このわたしに拾われてチー
ムに入ったからには、おまえもな。
ボスに忠誠を誓うと言ったのはあれは口から出任せだったのか？」と、歩み寄ったブチャ
ラティはアバッキオの襟元を持って立たせた。
「それとも、落ち着いたらもう他の女にちやほやされたくなったのか？ ……ジャポネー
ゼの女は可愛いよな？ 肌がつやつやしていて。
わたしは哀しいぞ、アバッキオ」
いっそ爽やかに言い捨てて、ブチャラティはもう一度、アバッキオの頬に拳を叩き込ん
だ。
「毎晩心を込めて尽くしてやっているつもりだったのに、足りなかったのか？」と、今度
は左からフックを決めた。
「不満があるなら言ってくれないと。わたしはこの道には疎いんだ。なにせおまえが初め
てだから」と、次は右。
「それとも、なにかわたしにおねだりしたいものがあって、こういう手の込んだことをし
てくれたのかな？ それは気がつかないで悪かったな」
左、右と交互にパンチを食らってもうアバッキオは言葉を吟味するどころではない。
「だが、やっていけないことは弁えて貰うぞ？ おまえはもう警官じゃないんだから、こ
こでの不法行為を取り締まったりできる立場なんかじゃないんだ。解るな？」と、最後に
はみぞおちに叩き込んだ。
「解っ、た……済まねえ」
うめき声を上げて、アバッキオが地に倒れ伏した。
「こんなところで、コルヴォ、許して貰えるかな？」
「あ、ああいいぜ。ブチャラティ、済まねえな」
「いいや。こっちこそしつけが行き届かなくってすまない。あとで見舞いの果物でも届け
させるよ。今月も頼んだぞ」
「解ってる！ 耳を揃えて用意しておくぜ」
小柄なスリの男はそう言って小走りに姿を消した。
「手間を掛けさせる……」
溜め息を吐いて、ブチャラティは警官気分の抜けない恋人を抱え上げて連れ帰った。
４
アジトのオフィスにまで引き入れたら、今度はブチャラティはいきなりひざまずいてか
き口説き始めた。
「さっきは済まなかった。あんな町中で殴ったりして。きれいな鼻が潰れちゃいないか？
ああ、フーゴがもどったらちゃんと手当てして貰おうな。
言ったことは撤回しない。どんなにおまえを愛しているといっても、わたしにはパッショー
ネのチームリーダーという立場がある。構成員のシノギは守ってやらないと。ただでさえ
このところ色ボケしたと評判になっているんだ、ここでファミリーにまで迷惑を掛けるよ
うになると首どころか命が危ない……おまえもな。
おまえの尊い心はわたしの愛するところだが、残念ながらこの暮らしではそれは控えて
貰いたい。弱いものを守るというその美しい精神を発揮するのはこの先はほんのちょっぴ
りにしてもらって、わたしの愛する男としてチームのみんなのことだけ考えて貰うわけに
はいかないだろうか。
美しいレオーネ。さっきは気が揉めた。わたし以外の女にあんなに密着されて。
東洋系は若く見えるからな、あれでも２０代……後半ぐらいは行ってるだろう、ナター
レの休暇に自分の金でひとりでイタリアまで来られるぐらいだ。そんなに親身になってや
ることはない。自分のことは自分で面倒を見させなくては。まあ、いい旅の思い出をつくっ
てやったということで大目に見てやってもいいが……いや、やはり許せん。
なんであんなに優しい顔をしてやったりするんだ、みんなおまえを狙ってるんだぞ。わ
たしを恐れて遠慮してるんだ、だからわたしのことを知らない女は堂々とすり寄ってくる
んだ……ああ、これからずっと！ どうしよう！？」
カウチの上に放り出されたアバッキオがあっけにとられている間に一気に短絡したブチャ
ラティは、そのままアバッキオの上にのしかかって来た。
「レオーネ、お願いだから聞き分けておくれ……」
あとはもう実力行使しか思いつかなかったらしい。情熱的な口づけが始まった。ようや
く事情を飲み込めたアバッキオの手が、そろそろと背に回される……。
「……ッ！ せめて屋根裏に行ってやってくださいッ！」
復命の挨拶にやってきたフーゴが悲鳴を上げた。
まだまだ警官ッ気の抜けない情人を飴と鞭でしっかりしつけて、２０００年を迎えても
シニョーラ・ブチャラティの権威は揺るぎないのだった。
（７−２−１０）
蛇足。
「アバッキオが観光客のおんなのひとにきゃーきゃー言われてたっていってブチャラティ
が爽やかーに笑いながらアバッキオの顔を延々殴ったり」する話。爽やかなヤキモチ話じゃ
なくてちょっとダークなしつけの話になっちゃった。
ついつい時代劇のめ組の皆さんみたいな、ちょっとヤンチャだけどご町内の治安のため
に頑張る仲間みたいな感じになってしまうパッショーネのブチャラティ・チーム、ちゃん
とマフィアなんだよという話も書いてみたのですが、やっぱりレオーネ君は浮きまくり。
その辺はどう対処してたんでしょうねえ。やっぱり賄い専任にした方が本人も楽かな？
いやいろいろもったいないぞそれは……。どうでしょう？