あらしのよるに
１
外はもう暴風になっていた。
アバッキオは必死に余弦定理を暗唱している。
……サインカッコアルファプラスマイナスベータカッコ閉じるイコールサインアルファ
コサインベータプラスマイナスのコサインアルファプラスサインベータ。
台風は珍しく新都直撃コースで、警報は朝１０時にはフルに４つ出そろった。強風・波
浪・大雨・洪水。雷注意報も出ているようだ。さっきから窓の外ではひっきりなしに稲光
が閃いている。この季節、北陸線が止まることはあまりないが、市内どころか県下からの
通学生もいる新都学園は２校時で休校を決め、生徒達はすぐ帰宅するように言い含められ
た……結果、レオーネ・アバッキオは午前中から婚約内定者のうちに直行していた。
弟たちにはカップラーメンやサンドイッチをあてがっておいて皆で揃ってお昼の後は、
ＮＨＫが各地の様子を中継するのを面白がっているナランチャとフーゴにはＴＶを見せて
おいて、２人は自室に引きこもっていた。
もう９月の末だった。
２
「おい、いい加減教えろよな」
夏休みが終わる頃から、アバッキオは顔を見る度にせっつく。
「べつに良いじゃないか」
それが面白くて、ブチャラティは話題を逸らし続ける。
去年、ほんのつきあい始めの頃、ブチャラティは言った。
「わたしは９月生まれだ、どうだ、おねえさんだぞ」と。
それきり、誕生日の話は出なくて、気を揉んでいるうちに秋は深まってしまっていた。
……９月の幾日なんだよ？ 誕生日祝ってやれないじゃないか！
途中から本人も気がついて、意地でも言わないことにしたらしかった。
「いいじゃないか別に」
「だってッ！」
「おまえの誕生日はちゃんと祝ってやるから」
「それならなおさらッ！」
「いいからいいから。それより休み明けの実力テストは大丈夫なのか？」
「頼む、英語……」
手の中で踊らされる。自分より頭が良くて、ものを遠くまで見据えている小癪なお猫様
に。
冬服に替わったら、ゴキゲンで。
「これからおねえさんだと思って敬えよ」なんて言ってくる。
「あねきなんかじゃねーよ」
ふてくされて頭を振ると、髪が伸びてまた男っぷりが上がったと笑って髪に手を差し入
れて梳いてくる。
「コイビトだもんな」と、真っ青な目が見上げてくる。
挑発されて、すぐに応じるのも癪だけど、無視しているとぐいと首を引かれてしまう。
「好きじゃないのか？ わたしが」
……そんなこと、ねえよ。
嫌々みたいに応じてみせる。
……おれのキスはヘタなんだって。すいませんね。
いつの間にか心に入り込んで、強烈に支配しながらも、自分のことは晒さない。それで
も逆らえない、イヤだとは思わない。恋ってこんなもんなんだろうか、アバッキオはいつ
も我に返って思案する。
生まれて初めての大好きな女のコの誕生日も知らない、祝ってやれないなんて男として
どうなのか、もしかして遊ばれているだけなんじゃないのかとぐるぐる悩むうちに秋も深
まって、ブチャラティの事情をひとから伝え聞いたりして、ぐっと惹きつけられて、真剣
に彼女を受け止める気にはなったんだけれど。
やっぱり細かいことは教えて貰えない。
イタリアのどこで生まれて、育ったのか。身寄りがないって、母親とはどう別れたのか。
記憶をなくしているのだから、聞いてはいけない、しょうがないのかも知れない。もし
かして、誕生日も忘れているのかもと思ったが、パスポートはあるはずだから、判らない
わけはない。しかし、そこまであからさまに身辺調査のようになるのも艶消しだ。
待って、受け止めるしかないのだ。
思い至って、アバッキオは覚悟を決めた。
覚悟を決めて、受け入れると表明した。
「うちの子になれよ」
ブチャラティはそれを解ってくれて、賛成してくれた……と思ったのだが。
「なあ、今年はちゃんと祝わせてくれよ」
夏休みが終わってから、顔を合わせる度に言っているのに、まだ教えてくれない。
「焦るな、ソウロウ」
「ソウロウって？ バ、バカッ！ 女がそんな冗談言うなッ」
「固いなあ……だがそこがいい」
お猫様は往年の痛快時代小説（とそのコミカライズ）にひと夏はまっていたらしく、自
分にだけ解るキメぜりふを言ってうっすら笑っていた。
「おまえはインド人か？ 生年月日時刻まで細かく申告させて、占いで相性ぴったりじゃ
ないと結婚許して貰えないのか？」
と、別の日には皮肉に笑って突っぱねるし。
「違うけどさ……」
お猫様はなかなか意固地だ。
「おい、もう敬老の日だぞ？ いい加減教えてくれよ、こっちも支度があるんだ」
「まだだ……なんにもしなくていいぞ、ただ一緒にいてくれればいいんだ。
……前は月半ばじゃなかったか？ 最近の敬老の日は遅いな」
あっさり言っておいて、変なところに引っかかって小首を傾げた。
「法律変わったんだ。連休になるようにスライド式に。お年寄りのことを考える日ってい
う趣旨からしたら日にちはどうでもいいのかも知れないけど、なんか複雑だな」
「具体的な記念日が由来じゃないからな。そんなに連休が欲しいなら天皇誕生日や建国記
念日をずらしてみろって所だな、インポジジイどもが」
「言いたいことはわかるがその表現はダメーッ！」
変な方向へ話題がいってしまってまた気を逸らされて。
絡め手から行こうとしても、フーゴは慎重だった。
「ああ、月末ですからね、気を遣ってるのかも。２０幾日でしたっけ、５？ ６？ こん
ど調べておきます」
解っていて口を割らないのかも知れない。
「えーべつに幾日だっていいじゃん？ 好きな日決めてやれば？ だーりんと相性のいい
日見繕って」
ナランチャは笑っていた。自分の誕生日も、そうやって自分で決めたらしい。
「彼はパスポートもありませんから」
フーゴが義兄の代わりに泣きそうな顔を一瞬して見せた。
たくましく生きている多胡―ポルポ―家だった。
麻美はもっとあからさまだった。
「ああ、３１日。イタリアはあるんだって」
平気で言ってのける。
「え？」
面食らって言葉を失うと、コロコロと笑う。
「信じるなよ。おかしい、こりゃチャチャがゴキゲンで弄ぶわけだ。
あの子、小学校の頃から、なんかこっちに遠慮してて言わないの。１０月になったら、
無事にひとつ年を取ったって申告して、それで、こっちもなんか奢ってあげたりしてたん
だけど」
「そうなのか」
「あたしの誕生日には、欲しかったものちゃんと覚えててプレゼントしてくれるんだけど。
それで自分の誕生日は言わないじゃん？ こっちも気に病むってのに、水くさい」
「ああ」
肯くと、麻美はにこりと笑ってみせた。
「まーあたしらクンシだし？
ほら、君子の交わりは水の如し、偉い人はベタベタしないんだってさ。つかず離れずで。
祝って欲しけりゃ言うでしょ。解ったらこっちにも教えてよ。頼りにしてるよ、ライオン
君」
「ああ……」
ブチャラティの複雑なところを思い知って、またアバッキオは考え込んだ。
３
連休が２つとも終わって、もう９月も終わりだというのに！ なにも！ 聞き出せてい
ない！ 祝わせて貰っていない！
可愛い小物がいいのか、背伸びしたブランドものがいいのか。どこかに出かけてイヴェン
トにしてしまっていいのか、クリスマスの時のように家族で祝ってやればいいのか。
全然、見当も付かない。こんなに、嫁にしようと思っている女の子のことが解らなくて
大丈夫なのか。
アバッキオはストレスでへとへとだった。
……もっと全身全霊で彼女のこと感じなさいヨ。
どういうものが日頃好きなの？ 何を見て可愛いって言ってた？ 一番楽しそうな
顔をしたのはどういうときなのヨ？
頼みの綱の父親は、そう言って説教した。
……わんちゃんと猫ちゃんとではどっちが好きなの？ 深い青と鮮やかな赤ではどっち？
それとも渋い色が好みなら、茶色系？ 灰色系？ クリームとチョコレートではどっ
ちが好きなの？ それともしょっぱい方がいいの？
あからさまに尋ねて解らないからって、それで諦めるんじゃないヨ。女のコっての
は一生掛けて解くミステリなんだから。もっと頭を使いなさいヨ。
周りの人間は期待してるかも知れないが、「イタリアーノの口説きの英才教育」はひご
ろ放って置かれたせいで、相手ができてから付け焼き刃だった。
……好きって。可愛いって。
思い出すのは、自分の頭を撫でながらカワイイカワイイカワイイと連呼する顔。弾ける
ような、一番いい笑顔だった。うぬぼれじゃなく、ね。
好きな色は、何だろう。身につけるものはモノトーン。茶色よりはグレイ系、いや、はっ
きり白か黒。小物ではマリンブルーかもしれない。やっぱり海が好きなんだ。ＴＶなんか
でも、海が映るとしばらく目を留めている。そういうとき、表情は消えている。
犬か猫かって……あんまりそういう好き嫌いはいわない。最近ライオンが好きになった
というのは、自分の名前に引っかけたんだろう。弟たちに聞いてみても、首を振るばかり
だ、とくに好きなもの、はまっているものはないようですって。
欲しいものはない、行きたいところもない。ただ、何もねだらず、側にいて、話を聞い
てというばかりで。
深く求められているのは解ったが、それはそれでアバッキオは困ってしまった。
……乙女座じゃないっていってたからとりあえず月末だ。去年も９月はじめはニヤニヤ
してるだけだったし。
プレゼントの心づもりだけはしておいて、注意深く様子を見ているアバッキオだった。
そして今日に至る。
４
うっかり招き入れられて部屋に２人きりになって。
秋の大会に向けて所属しているＪ２のユースは土日も練習試合が詰まっていて、あまり
逢えていなかったからお猫様じつは不満だったらしく。
すぐ首っ玉にかじりついてきた。
「こら」
引きはがそうとしても、恐ろしい力で放さない。
「なあ」
擦れた声が耳元でした。
「泊まってけよ」
「おいッ」
びくんと震えて距離を取ろうとする背を、そっと小さな手が下がって抱く。
「どうせもうバス止まるぞ」と、頬に頬をすり寄せる。
「歩いて帰れるッ」
「なんでそんなつれないこと言うんだ」
「だってッ」
「風邪引くだろ？ ずぶ濡れになって。怪我するかも知れない、大事な身体なのに」
「それは……」
「うちには電話を入れればいい。わたしが心配でついてるって言えば、許してくれる」
「ダメだッ」
よっぽど怒られる。
夏に泊まりに来たブチャラティが逆夜這いを掛けてきた上に、ちょうどアバッキオを押
し倒してことに及ぼうとしていたところを母親に見つかって、アバッキオはローズに布団
叩きでさんざんなぶり者にされた（その後一週間は二言目にはそこのスケベ、と声を掛け
られたし！）が、ブチャラティも膝詰めで延々説教されていた。お猫様ったらしれっとし
た顔で、おまえがでかい声出すから、とひとのせいにしていた。
「だって、もう婚約してるのに」
「してないッ」
「したようなもんだろ？」
潤んだような眼で見上げてくる。お猫様は実は甘ったれかも知れない。
「女子の間ではもうわたしたちはそういう仲だと思われてる。おまえは目立つからな、ど
うだったとかいろいろ突っ込んだことを聞かれて困ってるんだ」
「どうって……」
「スペック……具体的にサイズとか形態とか性能とか」
「ハァーッ！？」
アバッキオは絶叫した。慎み深い地方の文化都市だって女子高校生はこんなもの。
……女子って、七尾さんも？ そんなこと女の子同士では聞いたり言ったりするわけ！？
「夏休みもあったからな、もうすっかり行き着くとこまで行ってると思われて。もうかわ
しきれない。とりあえず見るだけでも」と、のし掛かってベルトに手を掛けてくる。
「よせッ」
やや本気で突いて、アバッキオはベッドから腰を上げた。
「だって、ふつうはそうだろ？ この年で婚約なんて、ヤっちゃったから責任とるんだ」
「違う！」
「そうじゃない学内カップルだって、中等部から４，５年も付き合って、親公認になって
卒業直前に決まるんだ。何もしてないのに、２年でもう婚約なんて」
露伴などは話をきくと幼稚園に入る前から行き来はあったようだが。
「よそはよそ！ うちはうちッ！！」
言葉に詰まったアバッキオは、小学生のおかあさんみたいなことを言っている。
「レオーネ、わたしを抱きたくはないのか？」
見下ろすと、女子にしては長身のブチャラティも、小さい女のコに見える。翳りを帯び
た表情で、切なく見上げてくる。
「だからってッ、なにか、おまえはともだちに良いかっこうして見せたいからしたいのか？
そんなの、許せねえ。
なあ、なんでそんな、他に何にも楽しいことのない可哀相なコみたいなこと言うんだ？
おまえみたいなきれいで頭の良い、金持ちで友達にも……兄弟にも恵まれてるコが」
……家族には恵まれていないかも知れない。
アバッキオは途中から辛うじて言葉を変えた。でも、両親とは別れても、あんな楽しい
弟たちがいるじゃないか。
「こういうのって、上っ面の言葉みたいに思えるかも知れねえけど、もっとじぶんを大切
にしろよ！
おまえは本を読むのが好きだろ？ 音楽も聴いてみろよ、今度持ってきてやるから。映
画とか見ないか？ ゲームも一緒にしよう。サッカーも観よう、こんどまた予選やるから。
教えてやる、戦術解ると見ててもっとぐっと楽しくなるから！ もっと、２人でいたって
楽しいことはいっぱいあるんだから！ そんなことしなくたっておれはおまえといると楽
しいよ！」
「いやだ」
「ブチャラティ！」
かなり真剣に怒った様子でアバッキオは声を荒げた。
「そうだよ、わたしは、他に何も楽しいことのない可哀相な女の子だ。おまえと出会うま
で。なんにも心を動かすものなんかなかった。
なんにも変わったことはしてくれなくていい。なにも買ってくれなくていい。ただ一緒
にいてくれれば、それでいいんだ」
「おまえ……」
アバッキオは思い当たるところがあって胸を突かれた。
「帰らないで。一緒にいて。……………………こわい」
僅かに顔を赤らめて、そっとブチャラティは言った。
このうちに、今、大人はいないのだ。気を張って、傷付いた心を抱えて寄り添う壊れそ
うな細い絆の家族をブチャラティは支えている。
そのことに思い至ったアバッキオは、足を進めて、立ったままベッドの上のブチャラティ
を抱きすくめた。
「……悪かったよ」
外はもうひどい吹き降りになっていた。
腰を下ろして、強く強く抱き込む。外の風の音が耳に入らないように。
「大丈夫、なんにも考えなくていい。怖くないよ……おれがついてる」
ゆっくりと、耳元で囁いてやる。
「うん……レオーネ、だいすき」
うっとり呟かれて、一瞬理性が飛んだ。
ぐっとそのままベッドに倒れ込んで、顔に掛った髪をよけてキスする。ヘタだって構う
ものか、質より量。柔らかい唇。潤んだ青い瞳。だいすきだいすきだいすき……優しい言
葉が耳に反響する。大丈夫、ここまで。高校生の身分で許される枠ははみ出さない……。
「ねえ……」
しろい喉が動いた。
ちょっと、そこの感触も知りたい、やっぱり柔らかいのか、薄い皮膚の下に、息づく血
管を舌で感じ取ることはできるのか……やはり理性は飛んでいた。
招かれるように唇を付けてみて、舌でなぞってみて、反応に興奮して。どんどん極め尽
したい気持ちが沸き起こってくる。
もう、外の物音は自分も気にしていなかった。
理屈っぽいことをいつも言って自分を小馬鹿にして、翻弄している小癪なお猫様が、今
は顔を赤らめて、意味のないことを、自分の動きに連れて口走っている。細かな反応を見
せる。
面白い。たのしい。
しろい肌がどんどん晒されて。前開きのシャツはもう下まで全開で。
ちょっとこれ以上はまずいんじゃないか。
そういう気持ちも少しは萌している。
でも、止まらない。止めどころが解らない。女のコってどこで終わりになるんだろう？
少しの逡巡を確実に察して、ブチャラティの手がアバッキオの手を捉えて招く。
「ねえ」
こっちも、と脚の付け根ぎりぎりに押しつける。
「や、ちょっと……」
そこでやっとためらいが出た。
「やばいよ」
やばいのは自分だ。下半身が苦しくなってきている。こちらはまだ制服だ、暴発すると
まずい。
「いいから」
「よくない」
「いいって」
これまで幾度かあった押し問答が、また始まる。但し、今日はかなりアバッキオも態度
が柔らかい。
「触るだけでいいから」
「いいからって……」と、押しつけられるままに手を滑らせると、また常にあらざる声が
して、自分も興奮のヴォリュームを上げられてしまう。
「……イイの？」
イヤまずいって。ここらで冷静に、冷静に、彼女を愉しませてあげるだけだから、自分
はそういうことしないから、彼女がしてあげたそうにしても断るんだから……絶対ッ。
初めて知る感触、初めて聴く声！ もっと、もっと、もっと！ まずいって、冷静！
冷静ーッ！！ なんか難しいこと考えないと！ ああ、数学の公式！ この際覚えてし
まおう、三角関数、余弦定理だ余弦定理！
最後の理性が数学の教科書を呼び出す。
……サインカッコアルファプラスマイナスベータカッコ閉じるイコールサインアルファ
コサインベータプラスマイナスのコサインアルファプラスサインベータ。
あ、大丈夫、これで少しは保つ……よく観察して、自分は冷静で……ああ、うっすら汗
ばんで、ブチャラティなんて可愛い。……おっと、だめだめ。
「この辺にしとこう。気持よかったか？」
余裕をなんとか作って、アバッキオは身を引いた。名残惜しくて、まだ手は肌の上に残
している。うわ、ちょっとこれ、汗だよな？ おれの手の汗！
「やだ」
「やだって」
ふと、苦笑が生まれる。
「もっと」
ぐっと腰を押しつけてくる。
「もっとじゃない」
「誕生日、今日なんだ。だから、おまえをちょうだい」
潤んだ眼でブチャラティが囁く。ああそうか、今日だったのか、じゃあいいか、一生の
記念になる、このまま……
アバッキオの理性が溶けかける。
「だめだ……今日、持ってない」
「いいから。大丈夫」
大丈夫って、そんなの判るもんか、だけど、もう手が引っ込められない、止められない。
「そこ」のことしか考えられない。身体の中心が熱を持って、もうそこが頭を支配している。
コサインのカッコ開くアルファプラスマイナスベータカッコ閉じるイコール……イコー
ルなんだっけ？ コサインコサイン？ サインコサイン、あれ、あれ、あれ……？
「苦しそうだ。……出してやってもいい？
……安上がりだろ？ わたしは」
ブチャラティが手をかける。ああ、頼むと言いかけて、遠縁のおじさんの顔が蘇る。こ
の冬、雪かきの手伝いに呼ばれたときの記憶だ。
……レオの嫁取りや、金に糸目は付けんって向山は言っとる。帯は西陣に頼んである。
こんな楽しいこと、一口乗りたくてみんなうずうずしとるんや……。
「だめだッ！」
アバッキオは立ち上がった。
みんな、大切に見守ってくれてるんだ、勝手なことはできない。
「待ってろ！」
そのまま、嵐の中を駆けだしていった。
５
３０分で戻ってきた積りだった。
泣き出しそうな顔で、ブチャラティは出迎えてくれた。
「まだやってた、こないだのケーキ屋！ これ、彼女の誕生日って言ったらシュークリー
ムおまけしてくれた」
「あ、そう」
おずおずと手を差し出して受けとった。
「それから！ 花と、プレゼント！ ダイヤじゃないけど、いいジルコニア入ってて良く
光るペンダント！ 高校生なんだからこの程度から！ 気に入らなくても一応もっとけ！
ともだちに見せるもの要るだろ！」
「あ、ありがとう」
「誕生日おめでとう。生まれてきて、おれと出会ってくれてありがとう」
「あ、はい、こちらこそどうもありがとう」
硬い表情で、ブチャラティは礼を言った。
「いくらもう約束したからって、最初はこれからやらなくちゃだめだッ！ な？」
戸惑ったようなブチャラティの顔が、泣きそうに歪む。
「ごめん、……ホントは誕生日明日なんだ」
「ハァ？」
思わぬ告白に、アバッキオは固まった。
「最後の一押しと思って……」
「ハァー？」
大声を出してしまった。大丈夫、この嵐で外には聞こえてないだろう……。
嘘って、やっと教えてくれた誕生日だから、予定通りちゃんとしてやりたくて、予定し
ていたケーキ屋と、アクセサリーショップ、もう店じまいし始めていたのを無理を言って
入れてもらって。高校の入学祝いに田中のおじいちゃんが買ってくれた高い傘、風で吹き
飛ばされて、骨も曲がったので捨ててきて、すっころんで泥水まみれになって、エアコン
の効いた店内で冷やされて芯まで震え上がって、彼女さん想いねなんて冷やかされてもう
消えてしまいたいぐらい恥ずかしいのをきれいにラッピングして貰うあいだ待って、大那
デパートの１階のお洒落な花屋で小さいけどきれいに作ってあるブーケを買って、またさ
らにすごい降りになったのをヴィニルを３重に掛けて貰ったケーキの箱を守りながら必死
に歩いて戻ってきて、もう濡れ鼠っていうか濡れ獅子になってしまったのをブチャラティ
の家の玄関を汚さないようにドアの外に立っているのに。
嘘だったって！
「絶交だ」という台詞は最後の理性で口から出さないで背を向けた。
６
それからなんとか歩いて向山の自宅までたどり着いて、アバッキオは熱を出して寝込ん
だ。
翌日は学校を休んで。
昼は抜きだな、と内心を反映できないつれない顔のまま昼休みを迎えたブチャラティは、
来客だと放送がかかって昇降口に呼び出された。
お弁当を持ってきたのはアバッキオの母で。
「融通が利かんのは親譲りやけど。まあ、昨日はちゃんと返してくれて偉かったね。やっ
ぱり、なんでも気ままにしたらいかんよ、慎むのも大事。
レオーネが譫言で、弁当、弁当言うから持ってきたわね、ちゃんと食べまっし」と、い
つものお弁当箱を差し出した。嘘を吐いて一線を越えようとしたのは伝わっていないらし
い。
「大丈夫なんですか……メイル打っても返事がなくて」
ブチャラティはさすがに目を見られなくて伏し目がちに言った。
「安静にさせとるし。夜ぐらいには返事もさせるわね。心配せんと待つまっし」
ほんなね、と金髪美人の中年女性は帰っていった。
ブチャラティにしては言葉を尽くしたメイルを何度も打ったのだが、その日は返信がな
かった。
さすがに、負けを認めてブチャラティは養父の書斎の金庫を漁った。
７
「おはよう！ 具合はどうだ？ この前は悪かった、ほんと、この通り、おまえの真心を
踏みにじるようなことをして済まない」
翌日は、顔を合わせるなり立て板に水で謝りたおした。そして、家から持ってきた小冊
子の該当頁を出して鼻先に押しつける。
「Ｂｕｃｃｅｌｌａｔｔｉ， Ｂｌｏｎｏ Ｄｏｎｎａ １９９＊−２７−Ｓｅｐ．」
白い五芒星の左右にオリーヴとオークがぶっちがいになってリボンが絡んだ国章入りの
正真正銘のイタリア共和国発行のパスポートだ。これに記載されているということは、正
真正銘の生年月日。ずっと秘密にして人には教えてこなかった生年月日を、やっと教えた。
……これでいいのか？
ブチャラティの青い眼はおののきながらじっとアバッキオを見上げている。
「解ったよ……バカ」
くしゃくしゃと頭を撫でてやって、アバッキオは困ったように笑って見せた。
「ホラ！ ホラ！ ちゃんと肌身離さず着けてる！ ケーキ美味しかった。花もまだ飾っ
てある！ ホントに、ホントにありがとう、嬉しかったよ」と、人目も憚らず胸元を広げ
てペンダントを見せようとするし。
「解ったって。ちゃんとしまっとけよ、無くすな」
アバッキオは焦ってそれを押しとどめる。
「ああ、うん」
「ほんと、洒落にならんな、おまえは」
「悪かったって」
いつもとは立場が逆転して、ふてくされたアバッキオの周りをブチャラティがついて回っ
て機嫌をとっている。
……なにかあったらしい。
周囲のものは察してアバッキオのために少しホッとしている。そんな台風一過の翌々朝
だった。
２７−０９−１１
蛇足。
雪辱戦スラ猫ヴァージョン。ブチャが誕生日を隠すのは単に祝って貰うのが照れくさい
から。妙に水くさいスラ猫版ブチャでした。
レオーネ君の正義感はどうも本人の為には役に立ってないことが多いような。それにし
ても、このままレオーネ君の貞操は結婚まで守られるんでしょうか……いやそんなことはない（ｗ
とりあえずＢまではいったと（死語！）。すいません１５禁で良かったでしょうか。ギ
リギリよね。昔は毎回良いところで邪魔が入る寸止め感が良かったわよねえ……。
ブチャラティの名前の欧文表記はこれで良かったんでしょうか、ちょっと不明。
そしてパスポートを発見したブチャは自分が養女になってないことを確認、真剣に将来
を危ぶみはじめると……。