変身
その朝（４２）
１
アラームは昔ながらのベルの音。それを彼は３秒ほどで止める。心優しい恋人の眠りを
破らないよう。身を起こしたアバッキオは恋人の姿が傍らにないことに気づいてしばし放
心した。
ここはいつもの恋人の部屋。昨夜はちゃんと二人してやすんで。別に仲違いもしなけれ
ば別行動の予定もなかった。それだけ思い出して毛布をめくりめくってゆくと、のそりと
温かいものが動き出して彼の膝にのし掛かった。すぐさま力を抜いて彼に体重を預ける。
「うわ、なんだ？」
ミネラルウォーターの大瓶２本ほどの重さの小動物が、彼の顔を見上げて鳴いた。
「ナーオ！」
もう春とはいえ、情事のあと換気のため窓を開け放ったままやすんだのはブチャラティ
の悪い癖だ。それを注意する間もなく意識を手放した自分も情けない。ちょっと落ち込ん
で、アバッキオはそれを猫に八つ当たりすることで後ろめたくも発散させることにした。
「おい、こら、勝手にひとのうちに入るな。どこの猫だまったく」
アバッキオは立ち上がる。
「フロラ、起きたのか？ あんた、猫をどかせよ。いつも用心深いのに、窓開けたままに
する癖直せよ」
声を掛けながら、部屋の中をうろうろと主を探す。バスルームには水音がしないのを確
認した後、２度も声を掛けてから覗いたが無人だった。
ちいさなキッチン、玄関入ったすぐの部屋、奥の寝室。たいして広くもないフラットを、
クローゼットの中まで頭を突っ込んでくまなく探したのに、恋人の姿はなかった。
「どこへ行ったんだ？」
自分を置いて。
途方に暮れるアバッキオに、いちいち彼に従って歩いて、足元に顔を擦りつけていた猫
が鳴いた。
「ナーオ！」
くるくると脛の周りを顔を押しつけながら回って見せる。その背の模様を見て、アバッキオは抑え
たうめき声を上げた。
「おまえ！ その模様！？」
白い背に、恋人のお気に入りのスーツの模様と同じ、感嘆符のかたちの斑が散っていた。
「おま、じゃないあんた、あんたもしかしてブチャラティ……なのか？」
「ナーオ！」
猫は青い眼を輝かせて嬉しそうに鳴いた。
２
「あの嬢ちゃんにやられたのか？ あの嬢ちゃんが動物に変えるのは男だけじゃなかった
のか？ 今は親元に呼び戻されて……連絡先はオフィスだったか？」
少女趣味の能力者に自分が猫にされてしまったのはほんの先週のこと。アバッキオはあ
の時の情けない気持ちが蘇って猫を抱き上げてほおずりしていた。
「ちょっと待てな、いますぐ元に戻してやるから……まずは腹ごしらえだ。腹減ってるだ
ろ？」と、身支度してキッチンへ入った。
「はは、やっぱり魚が好きか。ほんとあんた猫だよな……ミルクはいらないのか？ そう
か。コーヒーはダメだぞ。人間に戻ってからな」と、猫をダイニングテーブルにあげて自
分の分も惜しげもなくスモークサーモンを食わせる。
「結構丸顔になったな。いや、そういうあんたも可愛いけど。ああ、ちゃんと身繕いはす
るんだな。そういうしぐさなんか猫そのものだ……」
アバッキオは眼を細めて、全然自分の食事は進んでいない。
「あの嬢ちゃんはもう安全なんじゃなかったのか？ 昨日どっかで遭ったのか？ それと
も別の能力者か？ やっかいだなあ、今こっちを片付けたらあんたの昨日リプレイさせて
もらっていいか？」と、背中の猫に語りながら後片付けをやっと始める。猫は悠然と毛繕
いをしたり、風に揺れるカーテンを追ったりしている。
「全然しゃべれないってのも歯がゆいだろ？
……あんたがしゃべらないとすごく不安だ。あんたにいろいろ自分のうっとうしい頭の
中を言語化してスッキリしてもらってたんだな。……ちょっと大胆すぎる整理の仕方でびっ
くりすることも多いけどな」と、片付けを終えたあとは猫を抱いてベッドに腰を掛ける。
「なあ、戻るよな？ 今フーゴに繋ぐから。あの天才なら、あんたの今の状況どうかする
策をすぐに考えついてくれるよな？
あんたがおれだけのものになってくれるのは嬉しいけど、それだけじゃまずい。あんた
はみんなのリーダーだから。やっぱりおれのことなんか二の次三の次でバリバリ動いてて
もらわないと。
な？ 元に戻ってくれよ」
迷惑がる猫を抱き上げて、真っ正面から眼を見つめて言い聞かせ、その口にキスをする。
「だめか？」
猫はじたばたと暴れ始めた。
「あの時はどうやって元に戻ったんだっけ？ あの嬢ちゃんがいないとだめなのか？ やっ
ぱ別の能力者なのかな？ なあ、頼むよ、フロラ、あんたももとの身体に返りたいだろ？
あんたは好きじゃないかも知れないが、おれはあんたの身体、好きだぜ？
なあ、愛してるよフロラ。またおれのこと愉しませてくれよ」
もう一度くちづけても「魔法」は解けなかったが、彼はその行為を繰り返し続けた。
「フロラ、おれの想いが足りないんだろうか？」
声が湿ってきたところで、背後から声がかかった。
「それはないと思うが、根本的なところが間違ってるだろう」
部屋の主が、実にいつもの出で立ちで立っていた。
３
「フ、フロラ、あんた！？ ホントにブチャラティ？」
狼狽えながらも白皙の顔に朱を上らせて、中腰になってアバッキオは問いを発する。よ
りにもよって一番即物的なことを言ってるときに、と女性に対して最低なことをやってし
まった気になっている。
「おまえのフロラ・ブローノ・ブチャラティだ。スタンドを出して見せようか？」
実に素っ気なく言って、近寄ると、彼女はアバッキオの手の中から猫を奪って床に放り
投げた。
「だってあんた、起きたらいなくて、代わりにこの猫が、てっきりあんた猫になっちまっ
たと」と、アバッキオはしどろもどろ。
「たいしたロマンチストだな。そんなことがあるか」
ブチャラティは真面目な顔のまま切り捨てる。
「だって、まっすぐおれにまとわりついてきたし、背中の模様が一緒……」
「それくらいで！？ 背の模様だって？ 立って歩いたらふつうの黒斑にしか見えないぞ。
乳牛とおんなじような」
「スーツの模様と一緒に見えたんだって！」
「レオーネ」
ブチャラティは哀れむような眼で遮った。
「サンドラの店で、お客が揉めたんだ。よく眠っていたから起こさなかった。場所柄あん
まり大事にもしたくないし。
２時４０分だ。時間のメモだけ書いておけば判ると思ったんだが」
「メモ？」
「テーブルの上に置いたぞ……やられたな」と、くしゃくしゃにされて床に落されたメモを拾い上げ
てブチャラティはつめたく猫を見やった。
「ムーディ・ブルース！」
アバッキオはそれを見ないふりでスタンドを呼び出した。
……２時４０分。よく眠っているから起こさない。疲れが溜ってるんじゃないか？ 日
曜は完全にオフにしてやるから。自分のうちでゆっくりしろ。
サンドラの店でお客が揉めてるらしい。ちょっと行ってくる。窓を開けておくけど帰っ
てきたら閉めるから。風邪引くなよ。
……いい夢を。だが、わたし以外の女の夢を見たりするんじゃないぞ。
額の髪をちょっとよけてキスを落すと、夜用の紺地のスーツに着替えたブチャラティ’
は足音を忍ばせて出て行った。
アバッキオは真っ赤になって縮こまった。
「おまえ、たるんでるんじゃないのか？ ちゃんと靴も履いて出たし、紺の方とはいえい
つものスーツもちゃんと着て出たってのに。警察じゃなくてもちょっと注意力のある人間
なら気がつくだろう！ 携帯を鳴らしもしないで。
……わたしはおまえを料理人としてチームに入れたつもりはないんだが」
アバッキオを突いてベッドに腰掛けさせておいて、遠慮なくその膝に乗って顔を近づけ、
ブチャラティは言った。
いや、あのワードローブの中身から何を着て出たって気がつくわけはない！ アバッキ
オはそこのところだけは反論したかった……できはしなかったが。
「なにを以てあの肉のたるんだ小動物とわたしを同一視したのか聞かせてもらおうか」
まっすぐ眼を覗き込みながら、ブチャラティの追求は続いた。
「あんた……猫嫌いなのか？」
「別に。聞いているのはわたしだ。さあ、言え」
「だから、あんたっていつも身のこなしが猫っぽいし。おれはこのまえ猫にされるなんて
目に遭ったところだし。もし、あんたがそういうことになるとしたら、なるなら猫だろう
なと思ってた……。
そんで、前から知ってるふうにおれにじゃれついて、おれが、あんたなのかって聞く度
に返事するから、つい……」
「ほう、おまえが猫の言葉が解るとは思わなかった」
「解らねえよッ」
アバッキオは激して髪を振り乱して叫んだ。
「だろうな」
ブチャラティは澄ました顔で応える。
「だって、あんたはおれにまっすぐ近づいてきてくれたじゃねえか。あんなに汚れて、暴
れて、突っ張ってたおれを、構わないで抱いてくれたじゃねえか。あんただけだよ。だか
ら、まっすぐおれにじゃれついて、おれの目を真っ直ぐ見上げてくれたら、あんただと思っ
たんだ。
この前猫になっちまったとき、あんたはおれを判ってくれた。だからおれもあんたのこ
とが判んなきゃダメだと思ったんだ……
……そんな怒んなよ」
非論理的と自分でも思ったのだろう。やっとやっとで言い終えると、アバッキオは最後
に目を逸らして言い添えた。それをいつもと変わらぬとぼけた顔で見下ろしていたブチャ
ラティは、つと立ってキッチンへ歩き去った。
「朝は向こうで貰ってきた。水だけ飲ませろ……ッ！
レオーネ！ あの猫に食わせたのか？」
冷蔵庫を開けたブチャラティが声を荒げた。
「ああ、あんただと思ったからあんたの分の……」
「あのスモークサーモンをッ！？ 全部か？」
「済まねえッ」
ちょうど魚屋のホルへから注文をキャンセルされた高級品の横流しを貰っていて、ブチャ
ラティは楽しみにちびちび食べていたところだった。ブチャラティが振り向くと、間の悪い
ことにまた戻ってきていた猫がアバッキオの膝に乗ろうとしていたところだった。
ブチャラティは大股に近づくと猫を掴みあげ、窓を開けて放り出した！
「ちょ、あんた、ここ３階！」
アバッキオが慌てて窓から身を乗り出して安否を気遣う。
「大丈夫、下のヴェランダに着地した。全く文字通りの泥棒猫だ」
ブチャラティは冷静に言って背を向ける。
「そんな、怒んなよ」
アバッキオは気弱に同じ言葉を繰り返してしまう。
４
「寝入りばなを叩き起こされて深夜からばかばかしい用事で働かされて！ へとへとになっ
て帰ってきてみれば恋人は猫に愛を誓ってるし！ これでへらへらしていられるほどわた
しは徳高くないぞ！」
「悪かったよ……そんな傷付いたか？」
おろおろとアバッキオはブチャラティの顔色を窺う。自分だってあれこれ悩んで大変な
寝覚めだったということはけろりと忘れてしまっている。
ブチャラティの方は、ちょっと視線を外し、いよいよ真面目な顔を作って口を開いた……。
「……こんなことを言うのはなんだが。
おまえが、半べそで猫を抱いて大まじめに愛を誓っているのを見ているのは、本当に……
笑えた」
「フロラッ！」
アバッキオは身を揺すって叫んだ。
「常識で考えろよ、なんで猫なんかに。いくらスタンド攻撃を受けたからって、先に携帯
掛けるなり理性的な手段をまず取ってからにしろ、ロマンチストすぎる！ いや、おまえ
はほんとうにロマンチストだよ」
涙を零しながらケラケラ笑い続ける恋人に、アバッキオは黙って拳を握りしめることし
かできなかった。
「おや、機嫌を損ねたかな？ じゃあ、今日の迷惑な客がどんなアブノーマルなプレイを
店に持ち込んでくれたか実地で説明してやろう」
すぐさま身を翻したブチャラティは、しなやかな腕にアバッキオの首を絡め取ってほとん
どくちづけんばかりの距離で囁いた。
「いいッ！」
アバッキオは身の危険を感じて暴れ始めた。
「それは喜んで聞くということか？」
愉快げにブチャラティは聞いてくる。
「違うッ」
「遠慮するな。とっても刺激的だったぞ」
と、そのとき玄関のドアが思いっきり蹴上げられた。
「あんたら朝からなにいちゃついてるんですかッ！？ さっきから携帯鳴らしてるのにガン
無視でッ！
４階に入ったばっかのドニゼッティさんちの猫が今朝から行方不明なんですって！ ナ
ランチャ呼んでいいですか？ あんたらもちょっと自分ちのヴェランダに迷い込んでない
か見てやってください！ 背中に大きな黒斑のある中くらいの猫！ 雌猫です！」
フーゴのギリギリの怒声が聞こえてきて、二人は固まった。
「とりあえず、正真正銘の猫だったようだな」
「新しいスタンド使いじゃなくて良かったよ」
「そんな心配してたのか、そりゃご苦労だったな」
「放っとけ」
と、一瞬置いて二人は笑い合って、ご近所に頼りにされるパッショーネのチームのギャン
グ達は、身支度を整えて猫探しに出かけることにした。
「言ってもいいか？ リーダー」
「なんだ？」
「やっぱあの猫うちに居させてりゃよかったんじゃ？」
「……うむ」
ナランチャが到着して、エアロスミスのレーダーで探し当てた猫は、満腹したところで
地上３階から放り出されて、なんとか地上にたどり着きはしたが目を回して胃の中のもの
を吐いて転がっていた。
なんてもったいないことを、と魚好きのリーダーがさらに逆上したのは内緒の話。
０１−１１−０９
蛇足。
ブチャラティが猫みたいというネタで立て続けに３本書けた。これはお得。
おまけ。
「それでケッサク、あの猫の名前フロラだってさー」
アジトではナランチャが全身で笑いを表現しながらミスタに顛末を話して聞かせている。
「ドニゼッティさん真っ青な顔してましたね。別に変える必要はないって言っておきまし
たけど」
フーゴも笑いを噛み殺している。
「なるほど、声を掛ける度に返事をするわけだな」
ブチャラティが憮然としてアバッキオを見やった。
言葉もなく昼食の仕込みに入ろうとキッチンに逃げかけたアバッキオを、リーダーが呼
び止めた。
「アバッキオ、おまえは当分賄いはやらなくていい。地回りからリハビリだ」
「えーッ？ じゃあおれたちのめしはどうなんの？」
サイコロを転がしてピストルズにイカサマを仕込んでいたミスタが慌てて眼を上げた。
「わたしが持とう。使える捜査員をぶったるんだ賄いにしてしまった責任があるからな」
ブチャラティがまじめくさって言うと、
「わーい、じゃあ今日の昼アルジンヌね！」と、ナランチャがすかさずワルノリする。
「ちょっとッ！ いきなりそこは贅沢でしょうッ！」
「いーねいーね！ なんかあったの？ ねーさん」
「別にたいしたことはない。寝不足なんだ、あんまり大きな声を出さないでくれ」
「あの……」
そこへ、もじゃもじゃ頭のエッセイストが顔を出した。この週にブチャラティのフラッ
トの４階に越してきたドニゼッティだ。
「今朝ほどはありがとうございました。越してきてすぐパッショーネの皆さんにご面倒を
掛けてしまうとは……これを機会によろしくお願いします」
「ああ、いいんですよドニゼッティさん、わたしたちは基本、かたぎには関わりませんか
ら、ほんの、ご近所のよしみということで」と、ブチャラティが鷹揚に相手する。静かに
アバッキオが立って、コーヒーを煎れにいった。
「こちらはほんのお礼のしるしです。それで、誠に申し上げにくいのですが、すぐさまま
たお力をお借りしたいことが起きてしまいました」と、ワインのボトルを差し出しながら
首をすくめて言う。
「なんです？ まさかまたフロラが逃げたとか？」
冗談のつもりなのだろうが、いつもの通り真顔で言うものだから、哀れなエッセイスト
は震え上がった。
「いいえ！ ……ですが、似たようなものです。実はわたしはもう一匹猫を飼っておったん
ですが、その、新しい方の行方も知れなくて……」
「ほほう。じゃあ、フロラはそいつを探しに出たのかな？」
「かも知れません。ここへ来て拾った猫で、まだ懐かないし、二人もそんなに仲良くして
る感じではなかったんですが」
「それは心配ですね。それで、新しい猫はどんな？」
「白い猫です。名はレオーネ。ペルシャが入ってるんでしょうか、ちょっとすごい長毛で」
「「「「「！」」」」」
一同が一斉に笑いを堪える顔になったので、依頼人は面食らってひどく怯えた。
「レオーネ〜！ レオーネや〜い！ フロラが待ってるよ〜ぉ。早く出てこ〜い」
ミスタとナランチャが面白がってはやし立てながら猫を探したものだから、「４階のドニ
ゼッティさんのところの猫」の名前は町中に広まってしまった。