タイム・キーパー
その朝（８３）
繊細で生真面目な男を父に持つと、娘としてはいろいろ忙しくなる。小遣いで買ったリ
ヴィングの置き時計と全く同じものを２通りの時間に合わせて、アンジェラはこの日を迎
えた。掃除より料理に心を砕く父の眼を盗んで、まずは５分遅らせておいた時計といつも
の時計をすり替える。
……ないない。
すり替えた時計は相棒に亜空間に隠しておいて貰う。もう彼女の使い方に慣れた。
「おい、アンジェラ、何時だ？」
「大丈夫、まだ５分前」
「そうか、随分時間が経ったと思ったが、まだまだだな」
目の前の海で上がった新鮮な魚介類のごった煮の味を見ながら、心優しい男が時間を気
にしている。離れて暮らす妻がやっと帰ってくる約束の日なのだ。
シンプルな煮込みの塩加減は満足行くものだったらしい。父親は蓋をして火を消した。
「おとうさん、ホタテはまだだよね？」
「それは昼になってからだ、おかあさんには焼きたてを出すからな」
オーヴン焼きの時には気をつけないと。この前はそれを焼いてる最中に時計をすり替え
たから、時間を掛けすぎて焦がしてしまった。おかあさんの大好物なのに！
「アンジェラ、パンを買いに行っておくれ。いつもの……」
「わかってる！」
アンジェラはバスケットを持って飛びだした。おかあさんが帰ってくる！ またネアポ
リスの街で、田舎にはないようなすてきな文房具をお土産に買ってきてくれるだろうか。
それとも、ローマの出張のお土産に、うっとりするようなボンボンやチョコラータの箱
を持ってきていくれるだろうか。もう小さなレディだもんな、なんて言って、ちょっとし
たアクセサリなんかくれたりしないだろうか。
都会でコンサルタントをしていろんな社長さんやお役所の人たちに顔の利く仕事をして
いるアンジェラの母親は、田舎の皆の憧れだった。
それに、文句なく父親の最愛の人だ。今週帰れる、と電話が入ると、ちょっとのことで
落ち込みがちのハンサムな料理人は、一気に気鬱を吹き飛ばして元気になる。もう、メニュー
は母親の好物一色、到着５分前には着替えて髪も梳かしてコロンまで振りなおして、もう
キメキメで出迎える。
大好きな父が嬉しそうにしているのを見るのはアンジェラにとっても楽しいことだ。
だから、ほんの少し、悪戯をする。
「よし、あと１０分だな？ アンジェラ、オーヴンはこのままにして、いじらなくていい
からな？ 水は冷えてるな？ もし、もしこの前みたいに早く着くようなら水出しておか
あさんにお給仕してあげられるな？」
「うん、大丈夫」
父親は頬を染めて部屋に引っ込んで大急ぎでドレスアップを始める。
……ごめんね、おとうさん。
だって、道が混んで遅れると、とってもドキドキして待ってるんだもん。事故に遭って
るんじゃないか、なにか事件に巻き込まれたんじゃないか、急に仕事が入ったんじゃない
か、それとも、あんまり逢いたい逢いたいと思ってるから無意識に「生き霊」を呼んじゃっ
て、自分で自分に夢を見せてしまったんじゃないかって、可哀相なくらいに悩み始めてし
まうから。
だから、アンジェラはこっそり時計を買い足した。５分遅らせた時計とすり替えて、嬉
しいけれど死んじゃいそうなドキドキの時間を切り詰めた。
……ほんとはもう１２時５分なの。
アバウトで豪快な彼女のマンマは今日も遅刻するらしい。
……お土産買ってて遅れるんだからしょうがないよね。いつもいつも、似たようなもの
をまたあとで買い足したりして被ってて。おとうさんのも、あたしのも。ご近所へも。
……もので補いが付くとは思ってないけど、これ、喜んでくれるんじゃないかと思った
らつい買っちゃってて。こないだはこれでよかったよな？
頭を掻きながら、いつも遅刻の美人コンサルタントは平謝りで現われる。
……あんたに金の心配をするのもお節介なことだが。
嬉しい気持ちを押し込めて、顔をまじめに取り繕ってむだ遣いをするなと説教しようと
する父親も可愛い。
……大丈夫だって、心配するな。それとも、なんだ、今度こそフェラーリを貢ごうか？
店をやるなら仕入れに車がいるんじゃないのか？
そうくると豪快に笑ってみせる。お金持ちで、立派な仕事をしていて、もちろん美人な
自慢の母親……。
サイレンが近づいてくる。この辺には珍しいカーチェイスの音。あ、どちらかがしくじっ
た、ぶつかる音がする。今まで移動していたサイレンの音が同じ場所に留まって鳴り続け
る。エンジン音は近づいてくる。二階の窓を開けて、父親が確認しているようだ。あ、停
まった。
「悪い悪い、今ちょっとそこでパトカー巻いてきたけど大丈夫だろ？ なんか曲がり損なっ
てたカンジだけど、ここいらの高速警察はそんな運転ヘタじゃないよな？」
ドアを開けて、待ち人が入ってきた。両手に荷物をいっぱい持って。
……さあ？ とりあえずまた一台パトカー呼ばれて、救急車も来たみたいけど。
アンジェラはそんなこと、一応考えはするけど、どうでもいい。関係ない。
「フロラッ！ でかい音してたぞ、あんたか？ 怪我はないのか？」
階段を駆け下りてきて、父親が食ってかかった。
「ただいま。わたしは別に。今日もめかしこんでるな。最高にいい男だよ、レオーネ」
ブルネットの髪をボブに整えて、こしゃくな「できる女性コンサルタント」は笑って夫
に抱きついた。
「おかえり。５分や１０分遅れても気にするんじゃねえよ、交通法規は守れ、自分や周囲
の人間の命を守るためなんだから」
さすがは元警官、くどくど説教を垂れはじめたその背にタイマーが鳴った。
「ほら、時間ぴったり。腹減ってるだろ？」
すぐに背を向けて、火を消しに台所へ飛んでいく。
「減ってなくても食べるさ。楽しみにしてたんだ。
アンジェラ、こっちへきてもっとよく顔を見せて。大きくなったな。また美人さん度が
増して大変だ。今度グリマルディーニさんのところに泊まるときにはタルティーニさんが、
若い連中には目の毒だから事前に全員よそへ使いに出すとか言ってたぞ」
「ナニソレ」
ネアポリスのギャングたちとは幼い頃から親しくしてきた。余計なお世話でも、お年頃
に入りかかったアンジェラはレディ扱いに嬉しくなって笑ってしまう。
「気を遣ってもらって悪いが……どうかな、やっぱそろそろ距離置いた方が良いかな？」
親ばかな石頭は真に受けて考え込んでしまう。
「だが、この子はこれであんた似なんだ。我慢させすぎないようようく見てやってくれな？」
「ほう？ そうかな？」
随分体型なんか娘らしくなってきてるみたいだけど、とお世辞にもグラマーとは言われ
たことのなかった女性は、アンジェラの胸元の辺りなんかさりげなくチェックした。
「いやこう……自信があって言うんじゃないが、なんていうか小さいのにおれより肝が据
わってるくらいだし……」
ホタテのオーヴン焼きや、煮込みを出して取り分けながら、アバッキオはしきりに首を
ひねって唸っていた。アンジェラはそれを手助けし、パンにナイフを入れて切り分ける。
「さ、めしあがれ！」
それからは、逢えない間の情報交換、結局フーゴは上院議員のお嬢さんに捕まって、い
ろいろ実家にややこしい交渉をやった挙げ句今度結婚式をネアポリスで挙げることになっ
たとか、ボスは最近なんとかいう女優にロックオンされて逃げ回っていて今は日本でヴァ
カンスだとか、ついてったミスタがナンパしまくっておかげで日本語がぺらぺらになった
とか忙しくふたりは口を動かしている。その間にも、やっぱりこれはおまえに作らせるに
限る、だの、ここの海の魚だとこういう簡単な煮物でも堪えられない味になるだの、こん
なところに長くいるにしちゃあ綺麗な髪をして、美容室は月に何回行ってるんだ、ネアポ
リスまで通ってるのかなんてからかったりいちゃついていて。笑ったり呆れたり、懐かし
い名前が出る度に両親の顔が華やぐので、アンジェラは目の保養と思って楽しんでいる。
食事の後も、アンジェラの成績表を持ってこさせてチェックしたり、一応出資してもらっ
てるからと帳簿を出して経営状況を説明しようとするのをうるさがってやめさせたり、ふ
たりはソファに移っても真面目に会話しながらいちゃいちゃして。食事の後片付けも夕食
の仕込みもなんでも２人でして、片時も離れるのを嫌がって。それでもアンジェラのこと
を邪魔には絶対しなくて。
娘としてもたっぷり幸せな気分にさせてもらったので。
２人が寝室に入ったあとで、今度はまた逆のことをする。
「マテリアル・ガール？」
自分の相棒を呼び出して、時計を元に戻してもらう。今度は、時間を遅らせて。
翌朝、寝室から母親の声が響いてくる。
「アンジェラ、今何時だ？」
「まだ８時、もうちょっと寝てたら？ お休みの日なんだし」
「アンジェラ、もう随分経ったと思うけど？」
「そんなことない、ゆっくりしてて」
「アンジェラ、まだ大丈夫かな？」
「大丈夫、もう１５分」
携帯や、ＴＶでチェックすれば正確な時刻は判るのに、たぶん母親は解っているのだろ
う、アンジェラに時間を聞く。
そうして、貴重な楽しい週末はどんどん過ぎていって、２人は、腰に腕を絡め合って階
下に現われる。もうあと数十分になってやっと。
「アンジェラ、おかあさんに嘘はつけないんだぞ」
父親はいつもそうやって叱る。ころりころりと騙される自分については都合よく無視し
て。
「おかあさんの目を見てご覧？」
笑い顔で、母親はアンジェラの顔を覗き込んでくる、いつも。
「嘘を吐けば判る。おかあさんに限らない、嘘なんてものはいつかはばれる。ばれたとき
に居心地悪い想いをするのはおまえだ。嘘つき呼ばわりされるのは辛いことだ。それから
先、信頼されなくなるしな。
それなのに敢えて嘘を吐くのは、損だと思わないか？」
「ええ、……はい」
「そこまで解っていて嘘を吐くなら、わたしは知らない。それほどのことなんだろう」
「ちょ、おい、フロラ、そんなこと言っちゃ」
真っ正直な父親は狼狽えていた。
だって、ほんの５分１０分のことだもの。幸せな時間は、長く続いて欲しいでしょ？
「アンジェラ、今何時だ？」
アンジェラは顔をまっすぐ母親に向けて、遅らせてある時計の文字盤を読み上げる。こ
れは２つめ。さらに１０分遅い。
「９時５分前よ、おかあさん」
「そうか。
レオーネ、たしかにこの子はわたしに似てるかもしれないな。
アンジェラ。おまえのおとうさんは、大切な人のためには自分がまっさらでピカピカじゃ
なきゃならないだと思ってるひとなんだが……おまえは違うんだな。
まあ、いいか。秘密を持つのは、心が強い証拠だ。大人の徴（しるし）だな。
でも、あんまり無茶をやらなくていいんだぞ、おまえはまだ子供なんだから。
持ちきれなくなって投げ出すほうが、よっぽど恥ずかしいんだからな？」
「何言ってるのかよくわかんない」
アンジェラは、笑って見返した。そうだ、母譲りの、しぶとい笑顔。
母親は根負けした。
「随分長い間おまえたちといたような気がしたが。今は日が短くなってきてるからかな？
すまない、明日は朝イチでローマなんだ。今夜中に荷物を作って、資料にも目を通して
おきたい……もう行くよ」
「ああ、うん」
まだぴったり抱き合ったまま、父親の言葉は口に出したとたん、地に落ちる。
「また来いよ。おれしかできない仕事なら、迷わずおれに振ってくれ。あんたの役に立つ
ならなんでもする。今も、これからも」
「解ってるよ。
きっと、また一緒に暮らせる時が来る。言ったろ？ 人間、どこからでも変われるって。
もしかして、ボスの気が変わって、春からネアポリスで私立探偵でも始めるかもしれない。
『迷い猫から老婦人の遺産の隠し場所までなんでも探します！』なんて」
「そいつはケッサクだ。おれの得意分野だな、心から協力させてもらうぜ」
俯きがちだったハンサムが、なんとか気分を引き立てようという思いやりを察して無理
矢理に笑顔を作って姿勢をたて直す。
「楽しみにしてろ。
さ、行ってくる。アンジェラ、じゃあな、いい子にして、お手伝いと勉強をしっかりな」
「ええ。おかあさん大好き」
胸がいっぱいになって、アンジェラは母に抱きついて頬にキスをする。
「はは、役得役得」
笑って、その頬を大切なもののようにそっと触れてみて、母親は父親の方へ手をさしの
べる。
「愛してるよ」
「わたしも」
夫婦の別れのキスは長くなる。その隙に、アンジェラはマテリアル・ガールを呼び出し
て時計をまたすり替える。
「おや、もうこんな時間だ。ほんとにもう行くよ。またな」
「安全運転しろよ」
「そりゃもう」
車はひと唸りで「美人コンサルタント」を連れ去った。その夫はじっと見送っている。
大丈夫、またすぐに逢える。逢えばすぐに自分たちは幸せな家族になれる。離れていたっ
てじゅうぶん幸せだし。アンジェラはそう信じている。
……マテリアル・ガール、あんたは、あたしのたいせつな相棒。
秘密を持つのは、心が強い証拠。
アンジェラは傍らの秘密の相棒を見やって、心で語りかけた。
２７−０８−１３
蛇足。
ｕｚｕさんのところで行くなと無言で服の裾を引っ張るデレッキオを見て漲ったので。
うちのアバッキオはでもそこまでデレないかなと。脇で見ていてお節介してくれるアン
ジェラたん１０歳の話になりました。
いや、時刻なんて携帯見れば一発なんだけどね。そこはマンマも解っててお芝居に乗っ
てくれてる話になっちゃって。ころりと騙されるアバッキオがバ可愛い話。ほんと、丸く
なっちまいやがって。
思いつきで出した勘違い女優にストーキングされるボスは、トリッシュの方が何千倍も
マシ！ と遠く日本に避難してやさぐれつつ思ってるといい。そんでもって護衛として付
いてきたはずなのにナンパに精出して幸せそうなミスタに全力で八つ当たりしてる。そん
でもって気の迷いでトリッシュに日本のお土産なんか買ったりしたのに渡そうとしたらト
リッシュ仕事で忙しくてすっぽかされてすっげー飢餓感感じて「遅れてきた客」に至ると。
生還パラレル１０年目辺りの彼らはこんな感じ。
お盆休みには書き上がってたんだけど、まだこないだ更新したばっかじゃん、と放って
置いたらもう秋も終わりかけになってて、今月更新ないわーと思ってたら思いだして、今
出します、ごめん。まだまだお付き合い下さい。