テンペスト
リヴァースモード生還篇（８）
１
カレンダーに印を付けるなどと言う野暮なことはしない。一度、記憶すれば、かれには
十分だ。
……本当？ 嬉しい！
氷漬けの花が一瞬にして綻ぶような彼女の笑顔が一緒に思い出される。
……一式見立てますからね。あなたも気合いを入れてドレスアップしてくださいよ？
……もちろん！
手を打って喜んで、彼女は使用人たちとの打ち合わせのために、詰め所へと身を翻した。
久し振りのデイトだ。
フーゴは胸を躍らせていた。
演目は彼女の希望で、
「あれの間奏曲、とっても綺麗なんですって」なんて言うから。いつもならＣＤを探して
おいてあげます、というところを、ちょうど小劇場の方でそれがかかっていたのを覚えて
いたので、チケットを取ってデイトを持ちかけたのだった。もしかしたら、のことを考え
て毎日こまめにローマ市内の各劇場でやっているプログラムをチェックしていた努力が報
われた。……まったく涙ぐましい。あまり人目を引かない端の方の席を取ったから、もし
かして暗がりで彼女の手を取ったりできるかも……などと考えてウキウキしていたりして。
年商１億の企業の社長かつ一児の父にしては彼のその方面は、年齢相当、初恋を実らせた
うぶな学生から大して離れていない。
ロイヤル・ブルーのカクテル・ドレス、髪に挿す飾り櫛にはサファイア、珍しく大きく
デコルテを出したデザインに合わせてネックレスも新調して！
大きな商談を１つまとめた。これはその自分へのご褒美。焦がれ続けたひとは今、自分
の妻になってくれているけれど、それはほぼ周囲からの強制で、彼女の心を本当に捉えて
いるかはいつも信じられないでいる。
だから、最大限努力して彼女の心をつなぎ止める。
いや、恋人らしいことをなにもできなかったから、せめて、今からでも世間の恋人同士
らしいことをしてみたい。
だって、まだ自分たちは若いのだから。
ふと、フーゴは鏡に目を留める。目の前に長く垂らしていた前髪はもう切ってしまった。
あの頃とは、随分面差しも変ってしまった。もう、天使のような美少年とは言えないだ
ろう。
内面は、もとから天使などではなかったが。
天使でなくなった少年は、なにになってみせればいいのだろうか。
とりあえず、妻に対してかける金は惜しまないつもりの若社長だった。
「今日は５時に迎えに来ます。軽くなにか食べてから行きましょう。そして、舞台が終わっ
たら、ゆっくり」
「ええ」
その日、朝食の席で、かれは最終確認をした。妻はもう頬を紅潮させて、気もそぞろに
なっている。昨日届いたはずのドレスは気に入っただろうか。聞いてみたいが、我慢がまん、
と気を引き締める。
「マレーナをお願いしますよ？」
背後の執事に声を掛ける。
「ええ。どうぞ、お任せ下さい」
「お嬢ちゃまは体調万全ですわ。どうぞ、楽しんでいらしてくださいな」
ナニーのマリアが請け合った。
訳ありの夫婦に、使用人達は好意的だった。
時間通りに帰宅したフーゴを出迎えたのは、額に青黒い痕をつけた執事だった。
「おかえりなさいませ……」
「彼女は？ 仕度はまだできていないの？」
家の雰囲気がなんだか暗い。
「いえ、あの」
モリスは口ごもった。珍しい。
ふと目を止めた玄関扉の脇の観葉植物に、贈った今夜のための飾り櫛が刺さっていた。
「彼が、来たんですね？」
微かに、かれは青ざめた。
立ち回りがあったのだろうか、飾り棚の花瓶が、よく似ているが違うものとすり替えら
れている。主の帰宅に、いつもなら駆け寄ってくるはずの愛犬が、脚を引きずりながらお
ずおず寄ってくる。
主人の精神世界の天候が急に気圧を下げ始めているのに気づいて、執事の声が悲壮さを
増す。
「奥様は、奥様はわたしどもを庇って、言うことをお聞きに……ッ！」
黙ってかれはアバッキオの部屋へ大股に進むと、ドアを開け放つ。
大きく胸元から引き裂かれたロイヤル・ブルーのドレスが、虚しく掛かっていた。
……ムーディ・ブルースを、ぼくも出せればいいのに。
かれは一瞬考えたが、それを直視する勇気がないと思い直して、使用人達の証言を聞く
気になった。
２
「奥様」はもう昼食を採った頃からソワソワしだして、娘が昼寝に入ったらもう自室に引っ
込んで仕度を始めていた。下着から整えて、メイド達に手伝って貰って念入りに化粧をし
て、ドレスを前に珍しく頬を緩めまくって、こんなのもう似合わないかもなのに、無駄な
ことをして、でも、嬉しい、大丈夫かしら、悪目立ちしないかしら、あのひとナニって思
われたらどうしよう、なんて１人でブツブツ言いながら、もう蕩けるような笑顔で５分お
きに時計を見ていた。
……あのひと時間には厳しい方だし、ちょっとでも待たせるとほんと容赦ないイヤミが
飛んでくるし、早めに行動しないとね、なんて、言い訳をして。
もう４時には着替えてしまっていた。
明るくて、でも、それなりの深みもある青。真っ白な肌に映えたことだろう。髪も、ちょっ
と手の込んだアップにして貰って。
……お綺麗ですわ、奥様。
……ほんと、お世話をするのも目の保養。
メイド達に、心からの賛辞を受けて。
……いやよ、あなたたち。ほら。
照れくさそうに、心付けを与えたり。
そういう、ウキウキするような時間に、その客は現われた。
……奥様をお借りしたい。
案内も乞わずに、いきなり玄関扉を開けて足を踏み入れてきた。セキュリティの厳重な
このアパートメントで、ありえないこと。
しかし、彼にはありえる。
「いらっしゃいませ、シニョーレ・ジョバァーナ。お約束はおありでしたでしょうか？」
モリスが、進み出た。
「ぼくのこと、聞いているでしょう？ 無駄なことはしないほうがいい」
肉食獣の笑顔を閃かせて、フーゴの「ボス」は静かに言った。
「ただいまお呼びします。こちらでお待ち下さいませ。コーヒーの準備をさせます」
モリスは慇懃に言った。
「必要ない。すぐに出る。
手間取るようならぼくが連れに行こう」
勝手知ったる他人の家で、危険な間男は真っ直ぐアバッキオの部屋へ押し通ろうとした。
２人きりにして貰えるか、と数年前の訪問のときに、まだ「客間」だったアバッキオの
部屋に通したあとの事件については、この家に勤めるものは皆知っている。その時はまだ
アバッキオは表向きは「ボスからお預かりしているお客様」だった。
アバッキオが死にかけたその夜を期に、全員一致でアバッキオは「ご主人様の奥様」に
なった。
モリスは職業上表情を変えないように訓練を受けているが、命がけの勇気を振りしぼっ
たのが見て取れる顔つきで、客の行く手に立ちふさがった。まだ２０歳に達していない美
しい青年、と見える客に、歯の根も合わぬほどの精神的重圧を感じさせられながら、それ
でも。
「あなたさまがどなたであるかは存じておるつもりでございます。しかしながら、当家に
おきましては我が主はパンナコッタ・フーゴ。主の指示なしにお客様を応接室より先にお
通しすることはできませんッ。
ご婦人のお仕度に時間が掛かるのは周知の事実。今しばらくお待ち下さいませ」
全身を冷や汗で冷たく濡らしながら、モリスはそう言い切った。
「ふうん？」
琥珀の目を愉快そうに輝かせて、ジョルノは唇のはしを吊り上げた。
その時廊下の奥から走り出てきたものがいた。
石張りの床にチャッチャッと爪音を立てて、真っ黒い小さな犬が、来客を目指して駆け
寄った。
「ナランチャ！」
その名にわずかにジョルノは驚いた。その隙に、黒い小犬は招かれざる客に向かって飛
びかかった。
「ナランチャ！ やめなさい！」
モリスは一応制止する。ジョルノは間一髪、小犬の牙からその手を遠ざけて守ることが
できた。しかし、剣呑な気を発してモリスとやり合っているという時点でナランチャは客
を排除対象とみとめたようであった。なおも歯を剥いて、激しく吼え掛かる。
「面白い名前を付けたものですね」
ジョルノははっきり笑みを浮かべていた。
「飼い犬が人間を噛むとあとが大変ですよ？ 繋いでおいたらどうです」
ジョルノは容赦なく黒い小犬の後頭部を平手で叩いて床に這い蹲らせた。
「ナランチャッ！」
メイドが悲鳴を上げる。執事は低い声でたしなめて、指示を出した。
「奥へ連れて行って寝かせてやりなさい……失礼いたしました。お怪我は？」
振り返って一応客に問うてもみせた。
「ないよ」
琥珀の目を微かに細めて、ジョルノはまだ微笑（わら）っていた。
ドドドドドド
恐ろしい重圧感が、文字のかたちをとってかれらの前に立ちふさがっているようだった。
３
「あのッ、お嬢様とご面会なさいませんか？ たいそう可愛らしくお育ちで、お話も上手
です……」
必死に間を持たせようと、ナニーまで出てきて声をかける。
「ぼくはペドフィリアの趣味はないんです」
客はつまらなそうに言った。
一同は、意味を取りかねた。
「どんなに綺麗な子でも、高校生、……せめて中学生にまで育ってないと食指は動きません。
彼女の代わりにはならない……別に会う必要はありません」
……ご自分の実子でいらしても！？
マレーネが生まれてから雇い入れられたナニーはともかく、メイドや執事達はかれらの
事情を知っている。心の底からボスに対する好意を失った。
その時、廊下の奥から人声がした。
「なあに？ フーゴがもう帰ったの？ 機嫌でも悪いの？」
いえ、そうではなく。申し訳ありませんがお早く、とメイドに急かされて、アバッキオ
が現われた。青いカクテルドレスをひらひらさせて、艶めかしくイヤリングに手をやって
確かめながら。
「やあ、お久し振り、奥さん（シニョーラ）」
ジョルノは唇を歪めて挨拶した。
「ボス……」アバッキオの表情が一瞬で強ばった。
「久し振りにちょっと遊んでくださいよ」
「あの、今日は、ちょっと……」
蛇に睨まれた蛙さながらに、言語能力のほとんどが凍結されてしまう、フーゴと結婚し
てからもう３年も経った現在でも。
「お客様、奥様は今宵はご主人様と予定がございます。出直していただけますよう、お願
いいたします」
モリスが後ろからジョルノの腕を捉えた。それを、軽く振り払って、ジョルノは一歩前
に足を踏み出す。振り払われた執事は部屋の隅に飛ばされて、壁に突き当たって 床にそ
のまま崩れ落ちた。反動で、横の飾り棚の上の壺が落ちて割れた。
「シニョーレ・モリス！」
押し殺したメイドとアバッキオの悲鳴があがる。
「解りました。お誘いに従いますから、うちのものには手出しをしないで下さい」
アバッキオが震える声で言った。
「べつに、あなたの部屋でいいんですけど、ぼくは」
ジョルノが廊下の先に眼をやった。
「後生ですから、ここではないどこかで。……お願いします」
「そんなに震えなくても……その格好に時間が掛かったんですか？」
「……いいえ」
「そんな虚飾は必要ないんです、ぼくには。
ただ、男と、女として、あなたとの時間を愉しみたい」
そう言って、ジョルノはおろしたてのドレスの胸元を引き裂いた。
「奥様！」
アバッキオは人形のように立ちつくしていた。
「大丈夫」
スタッフ達が怖がらないように、アバッキオは笑みを浮かべようと努力していた。
「こんなものがなくても、あなたは綺麗でしょうに」
時間を掛けてセットした髪から、飾り櫛を引き抜いて、無造作に観葉植物に向けて投げ
た。それは真っ直ぐ飛んで突き刺さる。
「これも、邪魔」
無造作に、サファイアのネックレスも引きむしった。
「では、お借りしますよ」
引き裂いた胸元から無造作に右左とドレスを滑らせて落とすと、包装をはがしたワイン
ボトルでも持ち上げるようにアバッキオを抱え上げて、ジョルノは出て行った。太腿の辺
りを左の腕で抱え込んでそのまま持ち上げ、上体を自分の肩のところに沿わせて二つ折り
にして。
……せめて抱きあげていってさしあげればいいのに。
まさに「もの扱い」だった。
「お早めに返して差し上げてくださいますよう」
去り際に、追いすがったモリスの額の真ん中を、長い腕を伸ばして、
「きみの忠実さにご褒美」と、人差し指で弾いていった。モリスはくらりと脳しんとうを
起こして倒れた。
「……そうですか」
一部始終を聞き終えて、フーゴはきびすを返した。あろう事か、帰宅した主人に椅子を
勧めることも一同は忘れていた。
「ぼくが待ちかまえていたんじゃあ彼女が帰って来づらいでしょう。大丈夫、かれは危害
を加えたりはしません、一応彼女のことを大切に……ええと、得難いとは思っているよう
ですから。帰ってきたら、お風呂に入れてあげて、ゆっくり休ませてあげてください。あ
あ、かれはそちらに気が回りませんから、入るようなら食事を採らせてやって。
マレーナは騒ぎには気づいてないですか？ 良かった。あの子にそういう所は見せたく
ありませんからね……皆さんどうもありがとう。
シニョーレ・モリス、本当に良くやってくれました。手当てをちゃんとしてください。
医者に早めに診せて、請求書はこちらに。もし後遺症が出るようなら、相談してくださ
い。絶対ですよ？」
「恐れ入ります、過分のお言葉ありがとうございます」
「ナランチャも、どうもありがとう。きみはいつも彼女の味方ですね……」
屈んで、親友の名を与えた小犬を撫でて労ったあとは、
「じゃあ、皆さんどうもありがとう。解散してください。ぼくはちょっと出てきます……
別に、コンサートは今日だけじゃありませんし。気にしないで下さい。いつものことです
よ」と、作った笑いを見せて、そのままフーゴは家から出た。歩いて、組織のオフィスに
出向いた。
４
フーゴの荒んだ顔を見て、職員達は恐る恐る近寄ってきた。
「フーゴさん、今日は……？」
「ああ、うん。ちょっとね」
歩きながら、フーゴは考えをまとめている。一度同様のことがあって、どうにも狂おし
い情念に頭が支配されたときには、仕手戦をやって対抗組織の関連会社をひとつ潰してし
まった。それはそれで相手の資金源を絶ってその後の攻勢が楽になったとはいえ、パッショー
ネの名と金を使ってのオペレーションだったので、パッショーネは株にも強いという噂が
広まってしまって、あまりやりすぎないでくださいとやんわりボス・ジョルノから釘を刺
された。あなたが余計なことをしなければしませんでした、組織の利益になったのですか
らいいでしょうと、喉まで出ていたがただ射殺せそうな視線で睨むだけに留めた。
さまざまに謀（はかりごと）を巡らせてひとつの作戦を遂行する背中がぞくぞくするよ
うなスリル、１つのものを完全に叩きつぶしてしまったときの一種切ないような達成感、
そういったものが、今の自分には必要だ。このやりきれない怒りや悲しさ、狂おしい嫉妬、
メンツを潰された無力感を癒やすためには、日頃の仕事の延長のような作業ではダメだ。
しかし、ただ激情のままにものに当たるようなことは、新パッショーネの最高幹部の１
人としてプライドと立場が許さない。
せっかく取ったチケットを無駄にせずに、ホールで大音響の中に身を委ねて、アバッキ
オのように芸術的カタルシスが心を癒やしてくれることを期待しようかと思ったが、そう
いう受動的なものではとても発散しきれないと思われる。
別に酒場に入って、朝まで飲み明かしても、単に親とケンカして家を飛び出してきた学
生にしか見えないだろう……自分はまだ、と思うに付けやるせなさがこみ上げる。
「ロッソさんを呼んでもらえますか？」
猫なで声で、ローマを任せてある支配人を呼ぶようにかれは告げた。
「フーゴさんが直接行かれることはありませんです！」
インサンギナート（血まみれの）とあだ名されるたたき上げの幹部は脂汗を額に浮かば
せていた。
「ううん、別にあなたの日頃の治め方がどうこうって言うんじゃないんです。ただちょっ
と、ひとに迷惑を掛けないで暴れたいかなって。ぼくも若いんですから、デスクワークばっ
かりじゃあ身体がなまってしまって。いろいろ。あは。
どうせ暴れるなら、……組織の役に立ちたいでしょ？」
笑って見せながら、顔を近づけて、３０前の支配人に無言の圧力を掛ける。
「そんな……幹部が直々に片付けなくてはならない案件なんて、ないです、うちには」
首都ローマをめぐる武力抗争のいろいろ、組織の中の権力争いなどを巧く泳ぎ渡って支
配人に登りつめた男は、忙しく目玉を動かしながら言葉を選んでいた。もちろん抜擢して
くれたボス・ジョルノに恩義を感じている。いろいろ任せて安心な将来の大幹部だ。
「うん、そうだろうね。あなたが良くやってくれてるという話はいろんな方向から入って
きてるよ。そういうんじゃなくて。
解らないかなあ……じゃあ、ぼくがそんなに忍耐強くないって話は？」
妖しい笑みを煌めかせながら、フーゴは上目遣いになった。
「い、いえ……」
他ならぬローマの支配人だ。肌で知っていないわけはない。ボスの愛人を下げ渡されな
がらその当のボスを最大限罵倒しながらボコリ倒したとか。妊娠中のその「妻」に手を出
されたからといってよその組織との大切な誓約書をシュレッダーに掛けて切り刻んだとか！
「べつにここで暴れたっていいんだぜ？ 手っ取り早くスッキリできれば。表に出て、誰
彼構わずぶっとばしても。
でもそれじゃあ組織が乱れるし、あんたの顔も潰すしってんで、下手に出てるんじゃねェ
か。解れよ！」
すっと距離を縮めて、フーゴはロッソに頭突きを喰らわした。
「フーゴさん！ 解りました、では、やつらを片付けに行って貰って構わないでしょうか……」
ようやく、ロッソは口を割った。
「うん、ぼくはね、いざというときにはこうピッと要求を出したらパッと答えが返ってく
るようなのが好みですよ。地道に日頃のことを間違いなくこなしてくれるのも助かります
けどね」
にっこりと締めておいて、フーゴはオフィスを出た。
５
……観光地ってコトになってますがね、コロッセオの辺り、今はひどいんでさ。夜にな
ると、仕事にあぶれた若いのがたむろって。それが、奴らひとりで粋がることもしません
で、自然に小人数のチームに別れます……そんで、いい具合にカメラの影になって悪さを
しやすいところ、雨の凌ぎやすいところなんかを取り合ってケンカになるんでさ。いいや、
暴れたい年頃のことですから、なにも理由なんざなくてもケンカになるんですがね。
それが、気の利いたやつなら声を掛けて組織に引っ張るんですが、これが、箸にも棒に
もかからねえ。コンピュータとか、ゲームの使い方ばっかり得意になりやがって、まとも
に読み書きも算術もできやしねえ。刺激の強い映画だのゲームだのばっかり見てやがるか
ら、実際ひとを殴ってもやりすぎてすぐ死人が出るし。殺さないまでも、無駄に知恵が付
いてやることはえげつないし。
……そんなこんなで、持てあましてるんでさ。そのうち馬鹿同士殺し合いでもやってスッ
キリ行ってほしいってとこだったんですが……フーゴさん？ いえ、これほど本音じゃね
えですけど報告は上げてましたぜ？
……ああ、うん。そういうことだったんだね。抽象的すぎて、そのうち具体的に聞かな
いとって思ってたんだけど。じゃあ、いい機会だ、そいつらをやって来ましょう。
ご機嫌で即決したフーゴに、ロッソは寒い顔を隠さなかった。
……まあ、これも巡り合わせだから。
フーゴはもう怒りを収めてコロッセオへ歩いていった。
夜のコロッセオ。
あの地獄の旅の最終局面だったらしいけれど。
自分にはもう関係がない。
べつに正義の味方面するつもりはない。
単に、自分が暴れて大量殺戮をやっても世間に迷惑を掛けない相手というだけの話。
……ほんと、すっかり黒くなってしまって。
溜め息を吐く頃には、それらしい連中に取り囲まれていた。
６
「坊ちゃん、こんな時間に観光か？」
相手をなめきった威圧的なしゃべりだった。
「いえ、別に」
観光にはアバッキオともう来ていた。アバッキオは田舎育ちだから、ローマは初めてと
いって喜んでいた。もちろん、彼の終焉の地としても理解していた。
「帰ってママのおっぱいしゃぶってた方がいいぜェ？」
「そんな子供ではありません」
挑発に乗らずに……いや、別の意味で乗ってみせる。
「ありませんだってよォ！」
不良少年どもが笑い崩れた。
「あなたたちはここでなにをしてるんですか？」
無用な対話を試みる。無駄だ、無駄だ、どんな隠れた聖人でも、市井の哲学者でも、今
宵ここにいたというだけで、今から彼らは虐殺の被害者となる……。
……ぶるってますかねえ。
フーゴはかたちだけ、正当防衛の要件を満たさせるために動いていた。
「おまえみたいなカモを探してるんだよォ！
さあ、有り金置いていきやがれ！ 坊ちゃんはカードか？ じゃあ暗証番号を言いな！
他に金目のものがあるなら出しな！」
歩み寄ってきたちんぴらが、フーゴのポケットを探った。
……そういえば。
帰宅して、いつも通りモリスに懐中物をみな出して見せて、そのまま回収せずに家を出
てきてしまった。
……ハンカチ一枚も持たないなんて、ヤキが回ってますね。
「なんも持ってないんかよ！ 携帯ぐらい持って出るだろ普通！」
苛立ちを隠さずに、ちんぴらはフーゴの身体を探った。そして、腕時計に目を留める。
「いいものしてるじゃねえの！」
反射的にフーゴは腕を振った。ちんぴらは吹っ飛んだ。
……おや、まだタイミングは身体が覚えてますねえ。
フーゴは内心感心した。
「てめえッ！」
やる気なさそうに遠巻きにしていたちんぴらたちがいきり立った。
「こいつ、指輪してるぜ！」
立ち上がったちんぴらが、自分の頬に当たった感覚から、フーゴの手を見て叫んだ。
「坊ちゃんのくせに生意気な」
「結婚指輪か？」
「冗談！」
「なんのお遊びだ？」
「彼女にねだられたか？」
「だっせえ〜」
不良少年どもはゲラゲラ笑った。
それで、かれらの処刑同意書にサインはなされた。
「パープル・ヘイズッ」
静かに、フーゴはスタンドを呼び出した。
「殺（や）れッ！」
ふうううううううああアッ！
久々に呼び出された必殺のスタンドは、歓喜の叫びを上げて拳を振るい歩いた。
「ぎえええええッ」
「なんだ、なんだこれ……」
「おいッ、おまえッ……たすけてくれッ」
「死にたくないッ」
断末魔の叫びの中で、フーゴは立ちつくしていた。
「ごあ？」
気づいたスタンドが、能力者本体を害しないように、その袖を摘んで引いた。
「ああ。ありがとう。いいんだよ」
薄まった紫の靄は、フーゴの周囲にも漂っていた。
「ごああ」
パープル・ヘイズが、フーゴを抱きかかえて、常夜灯の下に案内した。
「いいんだよ、あのまま……ぼくも消えてしまえば良かった」
肩を落とした本体を、パープル・ヘイズは強く抱いた。
……そういえば、アバッキオがぼくのスタンドを初めて見たときも、抱きしめてくれたっ
け。
フーゴはふと回想していた。
７
……遅いですねえ。
ふと呟くと、親友は簡単に笑った。
……迷ってんじゃね？
聞こえているとは思わなかったので、フーゴは狼狽えた。夕食の買い出しに出たアバッ
キオが、もう１時間も戻らない。
……アバッキオだろ？ なげーよな。
……迷うような距離じゃないでしょ。
抵抗せずに、フーゴは本題にはいることした。ムキになると余計に注意を引いてしまう。
アバッキオのことが気になって仕方がないなんて、ナランチャに気づかれでもしたらも
う憤死ものだ。
……けっこー噂になってるからな、おばちゃんどもに質問攻めにされてるかもな。
暇な主婦達にならいいけど。
……ちょっと見てきます。夕食の時間が遅れると予定が狂うじゃないですか。
……まーそーだな。
２人で別れて探すことにした。念のため、柄の悪い連中のいる方をフーゴがみることに
して。
……奥さん連中と盛り上がってて欲しいけど。
それはそれで、ブチャラティの好きそうな格好をしろだの、もうちょっと素直に可愛く
振る舞ったらなんてダメ出しを延々されてへこんでいる姿というのもちょっと楽しいかも
知れない。
だから、これは念のための確認、かたぎが入り込んでは行けない路地に、アバッキオが
紛れ込んでいたりはしない、あのひとだって、警官だったのだから解ってるはずだ、そん
なにどじなわけが……。
８
……いたよ！
薄暗くなってきた路地の奥に、この辺では珍しいプラチナ・ブロンドが地に引き倒され
て光を放っていた。
……イヤだッ！
くぐもった声は、必死にそれを拒んでいた。
……言うこと聞けよ、ほんのひと月前には誰とでもヤってたって言うじゃねえか。
……誰とでもじゃないッ！ 今はイヤだ、あたしを拾ってくれた人がいるんだ、あたし
でもいいって言ってくれたひとがッ！
そのひと以外には、もう、やらせないんだよッ！
アバッキオは、必死に脚をばたつかせて、のし掛かった男を排除しようとしていた。
……この状態でそんなこと言ってられんのかよ？ そおーらッ
……いやーァッ！
絶望の響きに、フーゴは地を蹴って駆けつけた。のし掛かっていた男に肩からぶちかま
して、その勢いでアバッキオの身体の上からどかした。そのまま襟首を捕まえておいて、
スタンドを呼び出す。
……ヤってしまえッ！
パープル・ヘイズは、驚喜して拳を振るった！
……フーゴ！？
身を起こしたアバッキオは、呆然とその様を見守っていた。
……近づかないで！ 奥に行っててください。
フーゴはそれを背に立って、自分のスタンドのウィルスから庇った。まだ、パープル・
ヘイズのウィルスのしわざには自分でも慣れていなかった。自分がひとの命を奪っている
という事実を目の辺りにして、がくがく震えて、立ちつくしていた。
不埒な男がウィルスに冒されて死んで、フーゴはふと緊張が緩んで、膝を突いてしまっ
ていた。
……あんたの、スタンド？
アバッキオの擦れた声が、背後からした。
……そうです。
……すごいのね。
……黙っててください。
……助かったわ、ありがとう。
……黙って！
……フーゴ、
……うるさ……
背後から抱きつかれて、フーゴは驚いた。
……ありがとう。ホント……あんた、イヤだったでしょうに、助けてくれて。
そうだ、自分では嫌いな自分のスタンド、なんだってこんな女（ひと）のために。そう
思いながら、結果に嘔吐しそうになりながら、でも、彼女を守れて良かったと思っていた。
でも、抱きつかれて、その胸の柔らかさを愉しんでしまっている自分にまた自己嫌悪し
て、最悪だった。アバッキオは知らない振りをしてくれたが、泣いてしまっていたのも見
られていただろうし。
だからその時の記憶は全力で忘却した……はずだった。
９
ふと、目の前にスーツ姿の青年が現われた。荒んだ顔をして、ただ相手の目を見ずに会
話していた。
……いえ、別に。
……帰ってママのおっぱいしゃぶってた方がいいぜェ？
……そんな子供ではありません。
……ありませんだってよォ！
……あなたたちはここでなにをしてるんですか？
……おまえみたいなカモを探してるんだよォ！
思わず見守ってしまう、ついさっきの自分の姿。痛々しい、虚勢を張っている頭でっか
ちのまだ子供、いや、自分に見えるこれがここに現われたということは！？
そこまで考えいたるに時間が掛かってしまって、慌ててフーゴは周囲を見回した。
「ちょっと、ちょっとムーディ、早送り！ なにバカやってるのあのコ！？」
あせった声が響いてくる。近づいてくる、胸を締め付けるような、愛しい低めの声。あ
のコって、まだ自分は子供扱いなのかとそこに引っかかる。
パープル・ヘイズのヴィションが現われる。
「ああーッ、出しちゃって！ もう、早送り！ どうなったの？ フーゴはどこ！？」
足音が響く。外出用のパンプスにスウェット・スーツ姿のアバッキオが現われた。
「あなた、なんですその姿は……」
「ああ、フーゴ、良かった！ あんた携帯も持たずに出かけて！」
走り通しだったようなアバッキオは、勢いのままフーゴに飛びついて、そのままフーゴ
を押し倒すように抱きしめた。
「ちょっと、あなた」
フーゴは面食らいながらも、腹筋に力を入れてなんとか抱きとめる。
「下着姿で帰るわけにも行かないから、ミスタに言って買ってきてもらったわよ」
「そうですか……」
ミスタに密かに感謝した。
「あんた心配してると思ったから即行で帰ったら出てったって言うし！ 携帯も持たない
で！ ちょっと、トチ狂ってるんじゃないわよ、ホント、どっかで身投げとかしてるかと
思っちゃったじゃない」
「しませんよ」
いや、心理的にはそれに近い状態までいったかも知れない、とふとついさっきの自分を
振り返ってみる。
「こんなやばいことしといて……心配したわ」
アバッキオはいっそう力を込めて抱きついてきた。
「あなたは大丈夫なんですか？ ひどいこと、されてませんか？」
「ああ、さすがに今回は頭に来たから。とりあえず大至急１回抜いてやって、隙を見てみ
ぞおちに一発叩き込んでやって帰ってきたわ」
「え？ ……ちょっとその表現は女性としてどうかと」
「いいでしょ別に。そこは一番無防備な隙を突くために、駆け引きとして……スタンドな
しなら今でもあたしの方が強いわね」
アバッキオは顎を上げて見せた。
「……意外です」
フーゴは、まじまじと妻を見上げて喘いだ。いつの間にこんなに心身ともに回復したの
だろう。蘇生して以来は、ただ、蹂躙されるばかりの存在になったと思っていた。
「ばーか。あのドレス、あんたに見せられなかったじゃないの。弁償して貰うからね。ホン
トひどいわ」
「それは、女性を怒らせるに十分な暴挙でしたね」
「あの櫛も！ 見つかった？ 観葉植物の辺りだったと思ったけど？ ネックレスはぶっ
ちぎるし！ あいつ花瓶も割ったわよ！ いっぺん躾け直さないと！」
さすがにフーゴは笑い出した。声を立ててみてはじめて、今まで表情が硬く強ばってい
たことを思い出させられた。
表情が伝染したかのように、アバッキオも優しい笑顔になった。
１０
「フーゴ、あたしは今じゃああんたのことを全身全霊愛してるわよ」
「え？ は、はいッどうもありがとうございますッ」
突然の言葉に、フーゴは慌ててマヌケな返事をしてしまった。
「でも、ごめん、その有り余る気持ちの残り滓で、時々ジョルノに優しくしてやってもい
い？ ほんと時々だから。……かれはほっとくとやばいわ」
「今の時点で十分脅威です、ぼくらにとって」
「うん……ごめんね。でも、一応命の恩人だから」
「……解ってますよ」
フーゴが譲って見せたので、アバッキオはもうひとつ提案を出してきた。
「ねえ、それで、明日にでもあれ、チケット取れないかしら？」
「チケット自体はまだ席に余裕があるようでしたが、今日明日でドレスの作り直しは無理
ですよ？」
「ドレスの方は、ごめん、手持ちの服でなんとかするから、行きましょうよ、『カヴァレ
リア・ルスティカーナ』。チケット代あたしがおごるから」
「何言ってるんです、ぼくが払いますよ」
「でも、あんたのこと泣かせちゃったから」
「泣いてませんッ」
「バーカ」
笑ってキスしてくれる妻は、すっぴんで、髪は洗い髪を１つに括ったままの無造作なス
タイルでなんにも身を飾るものを付けておらず、おまけにスウェット姿だったが、史上最
高に美しいとフーゴは心に刻んだ。
それから身１つで出てきてしまった２人は仲良く手を繋いで歩いて家まで帰って、久し
振りのデイトになるはずだった夜はボス・ジョルノのせいで大変なことになってしまった
が、それなりに心の通い合ったいいものになった。
１８−０９−１２
蛇足。
で、その幻のデイトの演目って、「カヴァレリア・ルスティカーナ」。これ、短いオペ
ラなんで１時間ぐらいで終わっちゃうから、同様に１時間ものの寝取られリアリズムもの
の「道化師」とカップリング上演されるのが普通って、そんなの今回の状況でフーゴ１人
で観たら心臓潰れちゃう！ いや、オペラってどれもこれもある程度寝取られだよね。
「フィガロの結婚」は未遂だし、「カルメン」も寝取られてるし。「椿姫」も、途中男の
こと捨てて逃げたってことはそうだろうし。「蝶々夫人」も、ピンカートンがアメリカ女
性と結婚して帰ってくるってことは蝶々さんは寝取られてる。……いろいろ大変ですね、
オペラの中のひとも。
おまけ。
コロッセオに処置に困る若いのが屯って困るという報告はボスにも上がっていた。
「放っときましょう」
ボス・ジョルノは聞くなりあっさり言ってのけた。
「うちの組織にスカウトできそうな人材はいないんでしょう？ 退治しろとはどこからも
言われてないことだし。組織のひとや、ご近所のひとたちには近づかないように言い含め
ておくことにして。
無理に対処しようとして組織に被害が出たらイヤでしょう？ そういうのは奴ら同士に
殺し合って貰いましょう。手を出すだけ無駄無駄。
あ、そうでなければ、誰かさんが青春の血がうずいてどうしようもなったときにお掃除
しに行って貰うことにしましょうか。組織の人間に当たり散らされても迷惑ですし」
にっこり笑った指示に従ったロッソは、フーゴがコロッセオの連中を始末してきたとい
う報告を受けて背筋に汗を禁じ得なかった。