たとえばこんなサヴァイヴァル
その朝（６）
脱落後フーゴ
「行っちまった……バカな……バカばっかりだ……なんでこんな……」
フーゴはサン・ジョルジュ・マジョーレ島の船着き場で、今は寄る辺ないお尋ね者となっ
た仲間達を一人見送った。自分は正しい判断をした。常識で間違ってはいない。彼の生き
てきたマフィアとしての常識では。
実の父に命を狙われた少女を護る、それは、ハリウッド映画の文脈では正しい。きっと、
一般大衆の正義感としても正しいだろう。しかし、マフィアたる自分たちがやることじゃ
ない……確かに自分たちは、口の悪いガール・フレンドに「クラブ活動みたい」と言われ
るようにマフィアらしくないマフィアだったけれど。
へたり込んでいる間はない。
彼は、きびすを返すと、まず銀行に駆け込んだ。支部の金は彼が握っている。裏口座ま
で駆使しで動かせる金を、まず全部引き出す。今後の活動資金だ。
……まあ、これまでの恩もあるしね。
２，３の口座を通して洗って、ブチャラティの隠し口座に移す。その際、ついでに少し、
自分のへそくり口座にもらっておく、……フェラーリが買えるくらい。危ないのはこっち
もだから。
真っ先に、裏切り者狩りの刺客に選ばれるのは自分だ。ほんの今朝まで一緒にいた仲間
をこの手で葬るのも御免だし、ここ数日で凄みを増した彼らに返り討ちにされるのもまっ
ぴらだ。
ジョルノ……あの覚悟の決め方はただものじゃない……。
ここへ来て彼らと自分との運命は大きく分かれてしまった。
……ぼくの方も覚悟を決めなきゃね。
「タルティーニ？ ぼくです。一度しか言わないから良く聞いて、利口に立ち回って。
ブチャラティがボスに反逆した。アバッキオ、ミスタ、ナランチャとジョルノが付いて
いった。今、ヴェネツィアを出たと思う。支部の金は封鎖されると思うから、しばらく立
て替えといて。当分街はあんたが締めて。ぼくは身を隠す。くれぐれも、無駄に死ぬなよ。
……あいつらは、バカだ」
通話を切った後も、携帯を開いたまま忙しく操作して、必要なデータを頭に叩き込む。
重要なものは削除する。その上で、石畳に叩きつけ、部品を海に蹴落とす。これで、デー
タを吸い出されることはない。
「サッパリしてこようか」
うつむいていた顔を上げると、理髪店に飛び込んだ。年相応の、真面目な少年のスタイ
ルにしてもらう。トラッドのお坊ちゃん服がまた似合うように。服もそれに合わせて替え
る。懐かしいアイロンの利いたシャツ、パンツ。ネクタイもちゃんと締めて。豊富な資金
を使って、お坊ちゃんの旅姿を整える。ブランドもののトランク、小物。１３の年まで身
の回りにあったものを揃えてゆくだけ。成り上がりが形だけ見習うのとは違って、尻尾を
出す恐れはない。
……パスポートの写真、もう少し大人しめにしておけば良かった！
頭を抱えるのは一瞬。一応持って出たパスポートを使う。せっかくヴェネツィアまで来
ているんだから、ミラノ経由で国境を越えてスイスに逃げる。
「観光ですか？」
電車での国境検問は緩やかだ。キレたファッションも、写っているのは襟元だけなので、
注意を引かなかったらしい。
「ええ。学校が休みなので、保養所の祖母を訪ねるところです」
天使の微笑みで騙す。
……ぼくってもしかして顔でトクしてるかなあ？
無事にスイスの陽光を拝んで、フーゴはホッと一息ついた。４月３日が終わろうとし
ていた。
「きみって花嫁学校行ってるんだ？ 退屈しない？」
その夜、チューリヒ近くのペンションから、脳裏に刻み込んだ番号に掛けて、フーゴ
は笑った。いざとなったらすがる、彼だけの守護女神。今はスイスのフィニッシング・ス
クールに入っていると、頭の中に引っかかっていた。
「まあ、フーゴ、あんたたち今どこにいるの？」
「微妙なこと聞いてくるなあ。天国からじゃないよ」
「質問が悪かったわ。その電話大丈夫？」
盗聴の危険性について聞いている。情報は素早く伝わっているようだ。さすが、２１世
紀は情報化社会。
「大丈夫じゃないかも。原始的な方法の方がいいかな？ じつは近くまで来てる」
「それ以上言わないで。明日買い物に出るからルツェルンまでたどり着いて。『時計屋さん』
の前のカフェーでお茶してるから」と、ツウらしい謎を出す。ルツェルンの「時計屋さん」
といえば、有名なギュベリンだろう。
「待ってるよ、ぼくの女神」
「まあ！ あんたってば！ ……ホントにあんた本人でしょうね？」
「ちょっとおめかしはしていくけどね。一人だから。まあ、心配ならセキュリティを付け
てきてもらった方がいいかもね」
ルチアとの関係は、ガール・フレンドというレヴェルでしかチームには伝わっていない。
建設会社のお嬢さんで、オペラハウスの設計図を流してくれたという言い訳も、あの時
のどさくさでそのまま通ってしまったようだ。ルチアの方の事情であんまりおおっぴらに
もしていないはずだから、組織に嗅ぎつけられてはいないだろう。そのための、自分一人
の切り札だ。
まさかこんな時に役に立つとは……。
ポケットの中の白い布きれを、フーゴは自然、握りしめていた。
ルツェルンは、スイス中部の交通の要所だ。観光地としてもよい。日中は軽く汗ばむほ
どの陽気になった。それでも、日光を気にせず外のテーブルで待っていてくれる辺りが思
いやりを感じさせる。
「ちょっとお使いを頼まれてくれるかな？」と、通りがかりの少女にフーゴは話しかけた。
「あそこの、栗色の髪のお姉ちゃんが、このハンカチを忘れたんだ……届けてくれる？
ぼくは、向こうの噴水のところにいるからって」
少し頬を染めて、恋しい少女を誘いたい少年の面持ちを作って、少女にお願いする。ア
イドルのような美少年に、そんなお願いをされて、少女は真っ赤になって、奮起する。
「ええッ！ 任せて！」
「あの……」
詩集に目をやっている振りで、さまざまな情報をもとに作戦を立てていた天才少女の前
に、少女が立った。コーヒーは、もう冷め切っている。
「なあに？」
待ち人が来たか、とルチアは目を上げた。
「おねえさん、これを落したでしょうって、向こうで、男の子が……」
「まあ？」
広げてみると、自分で刺した覚えのあるイニシアルの刺繍をした白いハンカチ。Ｐ．Ｆ．
凝った意匠は、自分の家に代々伝わるもので、他人には絶対使わせない図案だ。本物。
「お礼をしなくちゃね。どこにいるのかしら？」
「向こうの噴水のところにいるって」
「どうもありがとう」
はじけるように笑って、ルチアはウェイターを呼んで勘定を済ませた。
やっと巡り会えた二人は、とりあえず笑った。
「なにその格好！」
「前よりまともな格好をしてるってのに、笑うことないだろ！」
「変な格好っていう自覚はあったのね！」
「形からはいるんだよ、ぼくは！」
「それで、今はお坊ちゃんのかたち？ 実家に泣きつく気？」
「まさか！ とりあえず見た目から変えないと。組織の手を逃れるためにはね……」
急に声をひそめる。
「やっちゃったんだって？ あんたたち。グリマルディーニの方から情報入った。とりあ
えず、荷物どこ？」
「駅前に預けてあるけど」
「取ってきて。あんた一人？」
「ひとりさ」
あら、あんた、背が伸びちゃったこと、なんて言いながら、ルチアは４ヶ月ぶりのボー
イ・フレンドの頭をポンポン叩いた。
「車取ってくるわ。駅前で拾うから」
もう車の運転もできるガール・フレンドは、２才年上だっただろうか。
「今日からあんたの名前はラファエル・ヴァレンチノ。覚えて。うちのパパの知り合いの
どっかの社長さんの我儘息子。気管支が悪くて田舎に閉じこめられて育ってたんだけど、
自由が欲しくて家出してきたの。でも、残念ながら箱入りでそれ以上どうにも身動き取れ
なくなってあたしにＳＯＳ出したの。いい？」
「ラファエルって……」
「ミケーレはイヤなんでしょ！？ あと２年は天使でいけるわよ、あんた。髪切ってくれ
て助かった」
さりげに問題発言をされて、フーゴはへこむ。まあ、大学で出会ったなら本名を知って
いるのは当然だけど。
「顔も整形してもいいんだけど。もっと、目立たない感じに」
「絶対やめて！ ダニエル・ラドクリフとあんたの写真と並べたら、うちの寄宿舎ではあん
たの方が勝ったんだから！」
「……ルチア、花嫁学校でなにやってんの？」
「社交術。詩の暗唱、音楽鑑賞、手芸。クソ食らえだわ！ そんなものが世界を救うわけ
ないでしょう！ ヴォランティアがやっと去年科目に入ったけど、大昔の慈善と大差ない
通り一遍のことを習うだけだし」
「上流階級の普通のレディーってそういうところが量産してるんだねえ」
「あんたのママみたいな、ね」
恐るべき情報網で、フーゴの素性を調べ上げているらしい。フーゴにはマフィアより怖
い。まあ、ヴェローナの大学から実家はたどれるわけだが。
「あたしはそうはならない」
そう言って、ルチアはアクセルを踏み込んだ。
「あたしはあたしの手であの国を救うわ。ネアポリスだけじゃなく、イタリア全土を。こ
こであんたに手を貸すのは色恋じゃないからね。絶対生き延びて、あたしのブレインにな
りなさい。いいこと？ あんたがここで組織を抜けたのは都合が良かったわ。そう思うの
よ。あんたまだ１６じゃないの」
「ああ……」
途中、ルチアは車を駐めた。
「事情、聞いとこうか。
あんた、おねえさんを組織の大幹部にしてみせるって言ってたじゃないの」
「幹部にはなったよ……３日前、かな？」
「めまぐるしいこと。ポルポが死んだってのは聞いたわ」
「その前にいろいろあってね。直接の原因は……彼女が一人スカウトしてきたことかな？
金髪の、物事に動じない眼を持った１５の少年だった」
「また！？ あのおねえさん本当に子供ばっか拾って……」
「アバッキオだって拾ったよ」
「それは別勘定！」
「彼はなんというか……独特だった。彼のせいでブチャラティが変わってしまって……こん
なことに。ぼくは、ブチャラティが幹部になって、少しはましな治め方をしてくれるよう
になればいいとは思ってたけど、ブチャラティがボスを倒して、組織全体を乗っ取ればい
いとまでは思ってなかった！ そんなこと、無理なんだよ、夢物語だ！」
「あんたって、意外とたいしたことなかったのね。自分で枠作っちゃって。なにが無理、
よ。限界を超えるのが天才でしょうが。あんた、大学やめて正解だったわね」
他でもない、その同じ大学を２年で出た天才に言われると、一言もないフーゴである。
「そんで、ついていけなくて別れたの？ あんたにとって、おねえさんってその程度の存
在だったの？」
「だって、アバッキオが付いていった。ブチャラティにはそれで十分だろ？ ジョルノが
当然みたいに横にいた。なんというか、そこまでの３日で、解ったんだ。ジョルノの判断
の方が正しくて、合理的だ。能力的にも、優れている。もう、ぼくの居場所はない。ミス
タは独自の嗅覚で、勝ちのこったら得るものが大きいと思って付いていった。そういうギャン
ブルの才能があるんだ、彼には。ナランチャは情で選び取った。この二人がついていれば、
攻撃力は大丈夫、ぼくは、冷静に判断した。ぼくは足手まといだ。ぼくが側にいてあのひ
との役に立てることはないんだって判断した。それでも、ぼくが必要だって言ってさえく
れたら、力を振り絞ったのに……ぼく……
ひどい旅だった。眠っている間に殺されかけてた。朝、昼、晩それぞれ別の刺客に次々
襲われて……もう神経が保たなかった。
ああそうさ、ぼくは逃げたんだ……」
黙って、ルチアは持っていたハンカチを差し出した。さっきの、ルチアが刺繍したいつかの
クリスマス・プレゼント。
フーゴは気づいて、それをポケットにしまい、別のハンカチを出して涙をぬぐった。
「今日まではいいわ」
ルチアは、フーゴの頭を抱き寄せて、胸に抱えた。
「今日までは許す。でも、明日以降、あたし以外の女のことで泣いたら殺すわよ」
「ルチア……」
「抱いてなんかやらないんだから。あたしはあんたのおねえさんみたいに優しくないから。
隠れ家だけ探してあげるから、あとはなんとかしなさい。
２日めであたしを頼ってきたのは上出来。こっちも、情報もらってすぐ張ってたし、そ
れなりに根回しもしといたから。
あたしは結構いい気分だから。あんたに頼りにされて。そんで、あのハンカチなんか出
してくるから。……ぐっと来たわよ。なんで持ってたの？」
「白いから包帯代わりになると思って……ウソだよ。お守りさ、他の人間には絶対使えな
いコネへの鍵だろ？」
「まあいいわ」
「……お守りだよ、ぼくだけの女神。死ぬ前にきみの顔見ときたかった」
フーゴはぼそりと言った。輝く瞳の彼だけの守護女神。あのテロの時から、何度陰なが
ら力を貸して貰ったことだろう。
「それが模範解答ね。あたしも、スプラッタ趣味はないから、血で濡れたあんたの死に顔
は御免だわ。そのお坊ちゃんスタイルもいいわよ」と、顔を上げさせて、頬にキスをする。
「そのうち役に立つことをお約束するよ、女神様」
フーゴは身を離してシートに坐り直した。
「よろしい……ちょっと泣かしておく必要があったんだけど、ちょうど良かったわ。あん
たの顔」
「なに？」
「パニック起こして泣いちゃったお坊ちゃんにちょうどぴったり。うまくお芝居してね、ラファエル」
フーゴは黙ってハンカチをたたみ直してポケットにしまった。
車は湖を望む山荘にたどり着き、ルチアはフーゴを連れて中に入っていった。
「おじさま！ 話しておいた彼です。どうぞお願いします……」
中からは、初老の温
厚そうな男性が、出迎えた……。
引きこもりのラファエロ少年は、ネット環境を整えてもらって、日がなガール・フレン
ドとチャットをしている。
「ネアポリスだけど、グリマルディーニが分裂したわ。タルティーニが、姐さんが帰って
くるまでここを守る！ とかいって、子飼いを連れてあんたたちの前からのシマの方へ移っ
ちゃったらしいの」
「……バカだなあ」
利口に立ち回れと言ったはずなのに。
「意外といいかもよ？ もしおねえさん達が勝ち残ったら、一気に恩を売れるわよ。それ
でも、全部が反旗をひるがえすには危険な賭けだしね。鎮圧されても、一応筋を通しただ
けってことで、裏切り者呼ばわりも避けられるし。グリマルディーニのおじいちゃまも、
そういうことで黙認なんだと思う」
「あの日の午後、ヴェネツィアの空港で、個人ジェットが一機盗まれてる。サルディニア
に行く途中、何かの事故で墜落してるけどね。組織は、それにみんな乗ってたんじゃなかっ
て判断したみたいよ」
「墜落、か」
「でも、翌々日、エメラルド海岸に、身元不明の死体が見つかってる。身長約１．９メー
トルの長いプラチナ・ブロンドの２０才ぐらいの男だって。死因は腹部を強打して内臓破
裂らしいわ……」
「アバッキオ？」
「さあ、死体には名札が付いてないし。死体安置所（モルグ）には話は通してあるけど、
盗みに行くのはほとぼりが冷めてからにしてね」
「ああ」
「迎えに行くひとがいるかも知れないから」
「ああ……」
彼は満足しただろうか。死に場所を探していたようなところもあるから、彼にとっては
それで良かったのかも知れない、フーゴはそう思った。
ブチャラティの嘆きは、深かろうと思った。
外は春で、皆、生の輝きを楽しんでいるというのに。
「ちょっと、あのひとたち、やっちゃったみたいよ！ パッショーネのボスが替わったら
しいの！」
「まさか！」
「でも、落ち着いて聞いてね」
「なんだよ？」
「結構大変だったみたいで。
あんた、おねえさんにはもう逢えないわよ」
「……ああ、そう」
フーゴは、落ち着いてキーボードに指を走らせた。
「ナランチャも、だめだったみたい」
「ふうん」
「ミスタが残った。ジョルノが新しいボスだって。……あんた達、利用されてない？」
「そういうことは、流れの中で決まったことだし」
「明日、逢いに行くから」
「どうしたの？」
「決まってるでしょラファエロ、あんた今夜死ぬほどの熱が出て、あたしが心配して様子
を見に行くのよ！」
その演技をいまからしろということなのか、フーゴは困惑した。
「ラファエロ！ 大丈夫？ せっかくリカルドおじさまにご迷惑かけて、こんなに良くし
てもらってるのに、ここで死んじゃあ、あたしあんたのおとうさんに顔向けできないじゃ
ないの！」
本当に朝一番で現れたルチアは、本気でフーゴを抱きしめた。
「お墓はミスタが知ってるし、グリマルディーニもお葬式を大々的にやってたから、その
うち墓参りはできるわよ」
と、囁く。
「行けないよ」
フーゴは弱々しく言った。
「そうね」
ルチアは短く言った。振り返って、確認する。ドアは閉めてある。
「半分が死んで脱落する大変な修羅場を乗り越えて掴んだボスの座ですもんね。あんたが
のこのこ現れて、おめでとうございます、また仲良くしてくださいねなんて、言えるわけ
ないわよね」
「そうだよ」
「自分は国外でぬくぬくと、女の子と爛れた生活してたんだものね」
「ルチア？ ぼくそんなことしてないよ！」
「これからするのよ」
ルチアは、フーゴの服を脱がせにかかっている。
「ちょっと、ルチア、花嫁学校に行ってるひとがなにするの！？」
「気にしない、気にしない。よくもまあここまで我慢したものとあたしは自分を褒めてや
りたいところよ」
「ちょ、待って……」
「逃がさないんだから」
「死んでしまったひとはもう無理だけど、そのうちおとうさんやおかあさんには逢わせて
あげるから」
「いいよ、もう」
フーゴは顔を覆ったまま仰向けになっている。
「大学も、相応の年になったら行かせてあげる」
「いいって」
いわゆる賢者の時間が、彼には訪れている。
「あんたのあの選択が、間違ってなかったって、証明してあげるから」
「いいよ」
「あたしはあの時、あんたが頼ってくれて、本当に嬉しかったのよ」
「ああ、ぼくは間違った選択をした筈はないんだ。いつもそうしてきた。だからこうなっ
た」
「ふてくされて……」
彼だけの女神は、笑ってキスをくれた。
「ネアポリスには、絶対連れてってあげる。そのうちサミットがあるでしょう。ファース
トレディーとお茶をさせてあげるわよ」
彼女は本気でイタリアを救うつもりらしい。
ジョルノのギャングスターになる夢にあのひとが賭けたのなら、自分はこの娘がイタリ
アの女性首相になるという夢に賭けてみるのも悪くないとフーゴは思った。
１０年後。
「ミケーレ！ ミケーレ！」
それが自分の名だという自覚が、とうとう彼にはなくなってしまった。
「ラファエロ？」
天使の名も、未だに違和感がある。
「フーゴッ！ あんた、この期に及んで逃げる気じゃないでしょうねッ！」
ドレス姿のルチアが、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。
６月のネアポリスは快晴。教会の控え室の窓からは、あの新オペラハウスの特徴的なアー
チの連なりが遠くに見える。
「ううん……ただ、懐かしくて」
「式が終わったら自由時間取ってあるから。……しばらくぶらついてきていいわよ。あん
た、あたしと違って化粧直しとかないんだし」と、ルチアは声をひそめて言った。
「うん」
「セキュリティは連れてってもらうわよ！ 当然！」
「解ってる……あ」
フーゴは、来た道を帰ろうとするルチアを呼び止めた。
「きれいだよ、とっても」
「当たり前でしょッ！」
ルチアは、白いドレスの裾を蹴立てて帰って行った。
クスリと笑って、庭を見下ろすと、裏手の墓地へと続く小道に、見覚えのある黒髪が過
ぎった。キッチリと撫でつけた髪はタルティーニ。金の巻き毛と、毛糸の帽子が続く。
……まさか……。
フーゴは、庭に降りていった。
……あれはいったい？
……マフィアがどうしてこの晴れの日にこんなところへ……？
参集した客がひそひそ話しているのが聞こえる。
……パッショーネの！
……まだ若いじゃないか。
……１０年前の抗争で、わずか３日で当時のボスを倒したという話だよ。
急いではいけない、目立ってはいけないと表情を繕いつつ、歩調も気をつけて、努めて
ゆっくりと追っていく。自分はもうパンナコッタ・フーゴではない。あれから大学へ行き、
フェリーニ上院議員から実家へも取りなして貰えて、もとの名を回復した。今や、上院議
員の娘のブレインとして、なくてはならない存在になっている。マフィアとの関係など、
あってはならない。
あってはならない。
輝く金髪が、頭を垂れていた。
墓は三基。
命日が、あの年の、４月に集中している。
……わずか３日で当時のボスを倒したという話だよ。
囁き声が脳裏に蘇る。
あの３日で、彼らとフーゴの人生は致命的に別れてしまった。
「どなたのお墓ですか？」
努めて冷静に、何気なく尋ねた。花嫁の支度を待ち疲れた花婿が、興味本位に参拝客を
邪魔しているように。
「友人です」
かたぎにはむやみに権威をひけらかさない。ジョルノはいいボスのようだった。横に立
つミスタが、気づいてか、口を開けたまま絶句している。
「若くして亡くなられたようだ」
「それでも、満足だと、心が死んでゆくよりはましだったと、言ってくれました」
「そうですか」
フーゴは、一礼して、それきり背を向けた。
「お幸せに、フーゴ」
ジョルノが呟いた。花嫁を待たせてはいけない。真っ直ぐ、控え室に戻らないと。ああ、
外の紫外線にやられた。廊下が霞んで見えない……。
「フーゴ」
ルチアの声が聞こえた。
……あのひとの人生は、無駄ではなかった。
「泣いてない。泣いてないから……」
……挫折を胸に寂しく死んだのではなかった。
フーゴの声が自身を裏切っていた。
「泣いてないから、殺さないで……」
「ばか……」
手袋をした手が、彼の頭を抱き込んだ。
「許すわ。今日は許してあげる。だって、タイミングが悪すぎじゃない……」
「きみに一生の愛を誓う。片腕となって尽くす。だから、今だけは、あのひとのために泣
かせて……」
「いいのよ。あんただって、あの日から懸命に生き残ろうとしてきたんだから。解ってる
から」
血みどろの、精神と肉体の限界を超えた戦いの裏側には、たとえばそんな、小さなサヴァ
イヴァルがあってもいいじゃない。
１５の初恋が実る日には、１３の初恋が、やっときれいに昇華することがあっても。
介添人が探しに来て、彼らはひととき引き離された。
次に出会うのは、祭壇の前。
彼らは二人でこれから、彼らの戦いを始める。
＜１７ー０２ー０９＞
＜別解＞
「ボス、大昔の、ブチャラティの隠し財産を送ってきた手紙の差出人洗ってたんだけど……
ミラノの名家にヴィスコンティ家ってのがあるんだが、そこの末っ子が、飛び級して大学
に入ったとたん白血病かなんかをやって。それが４，５年前にドナーが見つかったとかで
やっと社交界とかに復帰して」
「なんの話ですか？ ミスタ」
「最後まで聞けよ。今はフェリーニ上院議員のブレインをやってる。顔はこれ」
「若いじゃないですか。……要するに、１３，４年前から１０年ほど経歴に空きがあるん
ですね？ このひと」
「そ、そゆこと！」
「迎えに行きたいんですか？ ミスタ」
「……いや……」
「きれいに足を洗ったんですね、彼」
「６月に、ネアポリスの教会で、結婚式するんだって。それが、あの教会」
「おや」
パッショーネの２代目ボスは小さく声を立てて笑った。
「これは、挨拶に行ってあげないとね……」
「ああっ」
蛇足。
とうとう結婚までさせちゃった。
１回だけの脇役のつもりだったのに。裏ヒロイン大出世。
フーゴのガールフレンドとして、じつはグリマルディーニにちょっとパイプを繋いでい
て、情報を流してもらってるといい。タルティーニまで大物でなくても。かえって、頭の
悪い下っ端にごろごろ甘えて、こんなただの女の子に流すぐらいいいだろう的に。
１５の女の子が１３の子供に恋をするかというと……その辺は個人の好みということで。
じつは車を駐めた時点でフーゴがその気だったらそのつもりもあったルチア。ただべそ
べそ泣いたので機会を逸してしまった。でもそれでかえって好感を持ったらしい。災い転
じて福。ショックなときに女に逃げる男は信用できない。
フーゴのその後については、しれっと戻ってきてジョルノの片腕説が根強いが、逃げお
おせて家出少年として市井で生きてく説も見たので。これは、一気に実家返り咲き説で。
本名とか、結構プロフィールねつ造した。
ナランチャが生きてたら、絶対探しに行きそうだけど、ミスタはあっさり諦めそうで。
ジョルノとのニアミスも、偶然か、計算か、どちらでもいいかと。
別解蛇足。
結局ジョルノ計算説に落ち着いてしまった。
（２０−０２−０９）