ヤマアラシのスコール
その朝（２９）
１
さすがにチームが壊滅したもとのアジトを使い続けるわけにはいかなかった。
「こんなとこでどうだ？ フロラ、いや、ブチャラティ」
面倒見のいい山の手のリーダーが、チーム・リーダーとなったブチャラティに新しいアジトにする
物件を見つけ出してくれた。
「２，３年前につぶれたリストランテなんだが。１階が客席と厨房、２階にオフィスがあって、その
上に大きめの屋根裏部屋」
「ああ、うん、これでいいと思います。ありがとうございます、カッシーニさん」
「いいってことよ。ああ、やっぱやめようぜ、フロラ、おまえにカッシーニさんなんて呼ばれるとなん
かくすぐってえ。今まで通り、おまえはフロラ、おれはトンマーゾで行こうや」
笑うとえくぼが浮かぶ気さくな顔で、少し屈むと、前と変わらずに先輩はブチャラティに目線を合
わせてくれた。
「はい、トンマーゾさん」
まだぎこちないけれど、笑顔も少しは浮かぶようになってきている。それを確かめて、またトンマー
ゾは愉快そうに背を揺すった。
「ま、気楽にな。なんかあったらおれと、それから川向こうのカルロがすぐにすっ飛んでくることに
なってる」
「カルロ？」
「グリマルディーニの若頭だ。黒髪の、おれには負けるがちょーっといい男、かな？」
「ああ、タルティーニさんですね」
ブチャラティも、すぐに納得した顔になって肯いた。
「川向こうは、カルロにやらしちゃどうかって一応言ってみたみてえだがな。……なんだったら、お
まえもカルロに面倒見て貰おうとか」
「面倒……？」
彼らの文脈においては「面倒を見る」、「お世話をする」とは愛人契約のことだ。
「おれにはマルガリータがいるからよ。なんだかんだいってこの街はおまえが一番解ってるから。ゆ
くゆくはおまえとカルロを一緒にさせて……なんてこともおっさんたちは考えたみてえだがな。失礼
な話よ、女のおまえじゃあ抑えがきかねえと思ってるのさ」
「だめなんですか」
ブチャラティの顔がほんの少しうつむく。ジャポネの仮面劇のようだ。表情に乏しい顔は、ほんの
少しの向きの違いで表情をにじみ出させる。今の局面は、憂い。
「カルロのやつ、断りやがった。いろいろ、もっと育ってる方がいいとさ」
それがまた、可憐な少女ギャングの心の傷をかすめたらしい。いよいよ、哀しげな風情が白い顔に
落ちかかる。
「なんだぁ？ へこむなよ、せっかくカルロがおまえにチャンスをやったのに。
これがチャンスだ。おまえは、たったひとりでサントゥッツァの残党からポルポさんを護ったんだ
ろ？ ポルポさんが、おまえを指名なすったんだ。おまえがこの街を仕切れ。そこらへんの男どもよ
り使えるってことを証明しろ、これからも。
一緒になる男ぐらい、ひとに決めさせんなよ？
できるさ。時代は変わってきてるし。おまえは幹部になる女だからな。
おれにだってできたんだぜ？ 知ってるだろ？ おれが親父からシマを引き継いだのはほんの一昨
年だ。艦長には世話になったからな、おまえにも。今度はおれが恩返しする番だぜ」
大きな手で背中をどやしつけて、トンマーゾは明るく笑った。
「シニョーラ・ブチャラティ、女学生みたいなカッコしてパンツ見せて歩いてんじゃねーぜ。グリマ
ルディーニのオフィスに顔出すときにはスーツ着用がルールだ。月初めにはもう会議があるぞ、とっ
とと行っていっちょビシーッとしたスーツ作って来い！ チームの金はフランチェスコが引き継ぎし
てったろ？」
「は、はい！」
「ほれ、部下も付けて貰ったことだし。
どうだ？ やつは。スタンド能力者なんだってな？」
部屋の隅に直立不動で彼らを見つめている怜悧なすがたの少年を見やって言う。
「ええ……もう２，３人ヤったみたいです。スピードがあって、威力も強いです」
「もうか……」
自身はスタンドを持たないトンマーゾは寒そうな顔つきになった。対するブチャラティはまったく
気にするふうはない。
死んだのはスタンド発現の時のとばっちりだ。彼、パンナコッタ・フーゴ本人はかなりショックを
受けていたようで、１週間ではまだ食欲もないようだ。自らも、スタンドの使い方をいろいろ試して
いて「繋がらなかった」犬猫をこっそり葬った経験のあるブチャラティは、命の重さの切り分けを迷
わない。仲間が使い物になるかの瀬戸際では、一般人の命にまで配慮をする必要を認めない。
「頭のいい子です。力になってくれるとは思うんですが……」
まだ遠慮がある。
育ちの良さそうな、まだジャケットにネクタイ姿の少年を見やって、トンマーゾが足を奥に進めた。
「いつ越してくるんだ？」
「荷物なんてほとんどありませんから。明日にでも」
付き従いながら、ブチャラティが答える。
「あの小僧は？」
「今はグリマルディーニさんのところに預かって貰っていますが。部屋を見つけてやらないと。でも、
まだ小さいから一人暮らしは心配で」
自分は使い走りの小僧達とアジトの屋根裏だった。そのうち、艦長専属の雑用係になって艦長の隣
の小部屋になったのは一応配慮してくれたのだろう。
「家主も嫌がるだろ。屋根裏は広いぜ。二人でも何とかなるだろ」と、案内して階段を登る。
「え……？」
案内された屋根裏部屋は、確かに、少し天井は低いがけっこうな居住空間だった。ええと、３ｏｎ
３のバスケット・ボールができるぐらい？ 置かれているベッドはひとつだが、確かに反対側にはも
う一台置けるスペースが十分ある。
「ああ、こっちにベッドを入れられますね」
「うん、手配はしてやるから。あと２，３日だけなら一緒でもいいだろ」と、トンマーゾはこともな
げに言う。
「ちょっと、トンマーゾさん」
ブチャラティは慌てた。生意気で、つい１週間前会ったばかりで、自分より頭が切れそうな、少年！
男の子だ。いくら色気に乏しいとか前も後ろも判らないとか言われている自分だって、男の子と一緒
のベッドで寝起きなんて……！
「なんていったっけ、パンナコッタ？ おまえは紳士だよな？ おまえを信頼しているリーダーとほん
の２，３日一緒に寝起きしても大丈夫だな？ このねーちゃんはこれでも幹部候補生で、けっこー他
のチームからも命狙われてるから注意してやんなきゃなんだけど、おまえ気をつけてやれるな？」
「もちろんです！」
気負いこんで答えた少年の姿に、トンマーゾは得たりと笑った。
２
「しばらく使ってなかったって、トンマーゾさんは言ったけどッ」
「ブチャラティ、どうします？」
引っ越してきたその日の夜、気詰まりにベッドに入って灯りを消した後、闇の中に浮かぶ無数の目
の煌めきに、二人はベッドの上ですくみ上がっていた。なにかの気配は感じていたのだが、数が多す
ぎる！
「ここは一旦放棄して、トンマーゾさんのところのひとを借りて明日大々的に退治して、それから、
かな？ これは猫を１匹２匹連れてきて片付く問題じゃなさそうだ」
ベッドのヘッドボード側は外に通じる壁だ。スティッキィ・フィンガーズで切り開けば、脱出はた
やすい。
「それって、あんたの立場が悪くなりませんか？ ネズミふぜいに一晩でアジトを追い出されたって」
と、フーゴは先を読んでみせる。
「多勢に無勢だろう」
感情を見せずにブチャラティは言った。
「わたしの立場より、今は身の安全を考えろ」
なんの気負いもなく、正しい選択を、１７才のリーダーはして見せた。
一瞬、パンナコッタ・フーゴを名乗る少年は、自分の上司である少女の小さな、整った顔を見つめ
た。
距離はじりじりと詰まってきている。一斉に飛びかかられたら、もうはや人間の種としての優位は
なくなる。
「脱出の手段はお任せするとして、ひとつ、試させてもらっていいですか？」
フーゴが静かに切り出した。
「なにを？」
「ぼくのスタンドです」
紫色の、もやを発する凶悪なスタンド。それに巻かれた人々は溶けて消えたとフーゴは言っていた。
「ひとを相手に実験するには危険すぎるんで」
背筋を伸ばした姿は、もうはや怯えてはいなかった。
「パープル・ヘイズッ！」
見たまま即物的な名を付けられた道化のようなスタンドは、すぐさまかたちを取って現れた。
「ぼくたちに被害を及ぼさずに、やつらを始末しろ！ その禍々しい煙を撒き散らせ！」
「うばっしゃあ！」
雄叫びを上げたスタンドは、本体の許可を得て誇らしげに拳を振るった。
「ブチャラティ、一応鼻と口は覆ってください……」
フーゴの青い眼が冷静にその能力を観察する……。
「……毒ガスと言うよりはウイルスみたいです。相手に取り付いて発症から３０秒で全身に毒が回っ
て溶解・死亡。スタンド本体には毒はきかないようですね、当然」
腕時計を片手に冷静にスタンドの能力を検分していた少年は言った。
「もうネズミはいませんか？ 結構。お掃除は明日回しにします？ それとも、気持ちが悪いからも
う片付けちゃいましょうか？ とりあえず換気を」
実に気軽に言ってベッドを降りたフーゴに、スタンドが襲いかかった。
「ぐるる」
勢い余って一人と一体は壁まで吹っ飛んだ。
「なにをするッ」
「ごああ！」
瞬時に立ち上がったスタンドは、首を忙しく横に振って、本体を押しとどめようとする。彼が拳を
振るって紫の靄のたちこめたあたりに、立ち入らせまいとする。
「フーゴ、彼はおまえを止めようとしてるんじゃないのか？」
ベッドの上から、ブチャラティがそれを見て言った。
「え？」
「パープル・ヘイズ、あれは危ないんだな？ 本体のフーゴでさえ、あれに感染したら溶けるんだな？」
と、重ねて尋ねる。
「ごあ！」
パープル・ヘイズは表情を緩めて肯いた。
「バカな！」
起き直っていたフーゴが叫んだ。
「そんな使えない能力があるか！？ スタンドを使ったらぼくまで死んでしまうなんて、意味がない
じゃないか！ 毒物なんてものは敵にだってただ使うもんじゃない！ 解毒剤が付いてないと、駆け
引きできないだろう！」
「意味がないなんてことはない。これから考えるんだ。おまえにはそれができるはずだよ、フーゴ」
静かな声に、フーゴは恐る恐るスタンドに手を伸ばした。本体に激しい言葉で否定されて、少し頭
を垂れて、身を縮めるようにしている。
「パープル・ヘイズ、よくやった。おまえのウイルスは、どうやって消したらいいんだ？」
本体から頭を撫でられ、屈み込んでいたスタンドが右手をさしのべた。ベッドサイドのランプを真っ
直ぐ指さす。
「光？」
フーゴが灯りを点した。と、僅かに部屋の隅にわだかまった紫の靄が揺らめく。
「光で消えるのか？」と、フーゴはランプの覆いを外して手をさらに靄に近づける。長いコードがし
なやかに延びて従った。さらに靄は薄くなって、ほんの１０秒ほどで消えた。
「光だな。こんな普通のベッドサイド・ランプ程度で消えるなら、日中、戸外ならすぐだろう」と、
ブチャラティがホッとした様子を隠さずに言った。
「いいえ、実際に試してみないと」
短く、だが満足げにフーゴは言った。
「ありがとう、パープル・ヘイズ。わが伴侶よ。これからもぼくの側にいて（スタンド・バイ・ミー）、
また役に立っておくれ」
道化のような模様を身に纏ったスタンドは、淡くなって消えた。
「助かったよ、フーゴ。使えるスタンドじゃないか」
「そう言って貰えると嬉しいです」
「後始末は、明日でいいか？ なんだか緊張がほぐれたら眠くなった」
「そうですね」
二人して微笑み合って、互いにおやすみの挨拶を言いあってそのままシーツの間に潜り込んだ。大
きなベッドに華奢な少年少女では、とくに身を縮めなくても触れあわずに寝られた。
３
「ブチャラティ、どうしたことだね？ もうひと月経ったのだから、代替わりが知られてないなんて
言い訳は聞かないぞ」
「済みません」
翌月、月初めのグリマルディーニ邸の会議室で、ブチャラティは小さくなった。期日までに上納金
が集まらなかった。いつもの店を残らず何度も回ったのに、艦長の引退やポルポの収監が知れると、
たくましい下町の連中はのらりくらりと金を出し渋り始めたのだ。
郊外や近隣の街を締めるチーム・リーダーたちが、冷ややかな目で見ている。
「立て替えてでも、決まった額は納めて貰う。これからも続くようなら、手だてを考えねばならんが」
キャリアの長さから、ポルポの留守を預かる役に指名されたグリマルディーニが厳しくブチャラティ
に注意する。
「ちゃんとお金は揃えてみせます！」
ブチャラティは必死に抗弁する。
「そうしてくれ。それでは、あとの議案は……」
短く打ち切ると、グリマルディーニはてきぱきと次の議案に入っていった。
場が解散して、会議室には山の手のリーダーと、議長とが残った。
「それでベッドはまだ入らんという訳かね？ 強引な手法は親父さん譲りじゃな、トンマーゾ」
「まあまあ。これで上手く行ったら、儲けもんじゃないすか。まだまだ子供だから間違いは起きっこ
ねえし。ま、起きたら起きたで面白れーけど」
トンマーゾは暢気な笑顔を見せている。
「まあ、確かにあの娘はいちどそういう年相応の色恋の騒ぎを経験した方がいいとは思うがな。
あのフーゴという子もなかなかひと交わりの巧くない子のようじゃで、案外と強引なやり方が合っ
ているかも知れんの。
ヤマアラシのジレンマというやつじゃ」
「なんスか？ それ」
「ヤマアラシという動物がおるじゃろ？ 背中に針のようなトゲをびっしり生やした。あれが２匹おっ
て、寒い、お互い近づいて暖を取りたい。じゃが、自分たちの背にはトゲがあって、ただ身を寄せ合っ
たのではかえって傷つけてしまう。それでも寒くて近寄らずにおれない２匹は、つかず離れずの距離
を心得て、お互い都合がいいようにやっていくという訳じゃ」
「なるほどねェ。さすが、おやっさん、言うことが違う」
トンマーゾは率直に賛同して笑った。
「それより、やはりもう１人、しっかりした大人を付けてやるべきじゃないかと思うんじゃが」
「フロラに変な気を起こさないで、そんであの２人のスタンド能力者の手綱をしっかり取れる大人ね？
いますか？ そんなん」
たとえいたとしても、そんな有能な部下は手元から離したくない。勝手なようだがこちらも命がけ
の仕事で手一杯なのだ。
「一応タルティーニに目配りするようには言っておいたがな」
「ああ、それね、おやっさん」
椅子の背に身を預けてゆっくりカップを干して、トンマーゾは言った。
「カルロの女房ってならまだしも、フロラをチェーザレの妾になんかしたら、おれ、暴れちゃいます
よ？」
ハハッと、笑いに紛らわせてはいるが、目は笑っていない。ほんの少し口元を緩めるだけで浮かぶ
えくぼは、気さくそうな顔に見せかけるこの男の武器だ。
女と遊ぶことしか考えていないグリマルディーニの不肖の息子。艦長の引退で下町のリーダー職に
空きができたとき、事情を知る皆はこのチェーザレが指名されるという不幸な事態を一瞬は考えた。
「あの娘はたしかにきれいな子だが、あいにくそういう考えはない。チェーザレがそんなことを言い
出したとしても、やめさせる。
……もったいないからな」と、グリマルディーニは白いふさふさした眉の下の目を光らせた。
「そう、ポルポさんも、艦長も、フロラをそのつもりで育ててた」
「トンマーゾ、それより、わしやおまえ自身があの娘の下に入る未来について、考えておいた方がい
いぞ」
皺の中からグリマルディーニは厳かに言ったが、
「ハハッ、さすがだ。おやっさん、伊達に年くってねーや。ああ、覚悟はしてますよ。シニョーラ・
ブチャラティがあの街を仕切れるようになるまでおれが長生きしてたらね」
陽気な山の手の２代目はかろやかに笑い捨てた。
４
「フロラ！ じゃない、シニョーラ・ブチャラティ！ 景気はどう？」
ジェラートをなめなめ歩いていた女学生の集団が、ブチャラティに声を掛けて笑い崩れた。中学の
同級生達だ。半分はいやがらせ。高校に行って、男子と遊びに行ったり、映画スターや歌手の話で盛
り上がったり、買い食いをして歩いたり。そういう楽しみは、とうにブチャラティの手からすり抜け
てしまっていたのだが。
「おかげさまでな。広がって歩くな、後ろの通行人に迷惑だぞ」
特に感情を動かされた様子は見せずにブチャラティは相手する。
「まー、ガッコの先生みたいなギャング！」
「やっぱりフロラだもんねー」と、笑いさざめく。
「あんたに出入りができるのかしら」
「やっぱほら、……だから」
「やーだ！ ウソッ」
「でも……」
「そーんな！ あんな色気のない子が……」
ひそひそ話が始まった。１７才のチーム・リーダーの裏事情は、尾鰭付きで若い子たちにも広まっ
ているらしい。
「やめなさいよッ、フロラが見てるわよッ」
「じゃーねー、ギャングの仕事がんばってねー」
唐突に女学生達は口々に別れの挨拶をして行ってしまった。
「行きましょうッ！」
フーゴが怒ったようにブチャラティの袖を引っ張った。
「ああ、そうだな」
ブチャラティは、微かなため息を一つ吐いて歩き始めた。
「フーゴ、おまえだってまだ中学に行ってる年だろう？ 学校には戻りたくないのか？」
フーゴが家を出されるに至った事情を、ブチャラティはまだ聞かされていない。ただ、家を出され
たと、それだけだ。
「学校！？ もうじゅうぶん行きましたよ。高校卒業までの単位はもう取りました。大学入学の資格
だってありますッ」
天使の顔の天才少年は鼻を鳴らして見せた。
「頭の血の巡りの悪い、品性も下劣なやつらと同じ空間にいるのはあれ以上耐えられませんッ！ ぼ
くはもう学校なんかごめんですッ」と言いきった。
「ブチャラティ、近代の公教育における学校なんてものは、為政者の役に立つ兵士、納税者を作り出
すためにあるんですよ。子供は箱に放り込んで、大人の言うことを聞くように粒を揃えておけ、てな
もんです。そんなところにご機嫌で通うなんて、ちょっとものの解った人間ならできませんよ」
「そうなのか？」
辛辣なもの言いに、ブチャラティは目を瞬いた。
「ブチャラティ、あんたは人の上に立つ人間です。そう言われてますし、そこんところはぼくも納得
してます。あんたはもう学校なんか行かなくていいんですよ。いまさら高等教育なんか受けて、役に
立たないラテン語や古典文学やユークリッド幾何なんかやってもしょうがないでしょ？ あんたはギャン
グの幹部候補生として、実地でエリート教育を受けてる。それでいいんです。あんな頭の空っぽな連
中と底の浅い楽しみをしてる暇があったら、今後どうやって上納金を集めるかについて算段した方が
いいですよ」
「そうか、そうだな……」
圧倒された１７才のギャングは、あとはただ黙ってパトロールを続けた。
５
「カッシーニさん！ ぼくのベッドはいつになったら入るんですかッ！？」
山の手にまで乗り込んで行ったフーゴが、トンマーゾを捕まえるなり小声でまくし立てた。
「あ、ああ、なんか業者の方で行き違いがあったみてえだな」
トンマーゾの方は、余裕で頭を掻いてみせる。
「困りますよッ、２，３日って話だったじゃないですか。もう余裕で１ヶ月経っちゃってますでしょッ」
「あーそーだな。やっぱ嫌か？ フロラは寝相悪い方だったか？ それともいびきとか？ 寝小便は
したって話は聞かなかったがな？」
「違いますよッ！ ひとの寝息が聞こえると寝付けないんですッ……慣れてなくて」
「お坊ちゃんだなァ、おまえ！」
愉快そうにトンマーゾは笑った。とくに叱りつけられなかったので、フーゴは調子を落とさない。
「すいませんねッ。……それに、あの、やっぱりいけないと思うんです。護衛も兼ねてるとはいえ、
男と女が同じベッドってのは」と、やっと途中からしおらしげになった。
「へええ？ フロラは気にしてねーぜ。おまえみたいな子供」と、トンマーゾはまったく気づいてい
ないふうで言う。
「子供じゃありません……ぼく、もう……はありましたし……
だからって、あのひとをを女性として意識してるとかそういうことじゃ全然ないですからッ！
でもやっぱりあのひとももうそれなりの年頃だし、やっぱり着替えとか気を遣うじゃないですかッ！」
頬を上気させた姿に、トンマーゾは策が効いてきたのを感じ取って、
「ああ、だから、お姫様みてえな天蓋付の注文してるんだが、やっぱイマドキそういうの時間がかか
るみてえだなあ。ま、新しいのが入ったら、そっちをフロラにやってくれ。周りにカーテンが掛かっ
て、中見えないようになってるやつだから」と暢気に言う。
「……他に部屋を借りてくれませんか？」
目を落して、フーゴが小声に恥じらった。
「おまえ、なに甘ちゃんなこと言ってんだ？ 上納金ちゃんと残らず集めてから言えよ？ 先月は１０
日も遅らせといて。おれの代替わりの時だって、そりゃ気分の悪いやつはひとり二人はいたが、月ア
タマにはぴっちり耳を揃えてポルポさんにお出ししたもんだぜ？ 今月もみっともない真似してみろ、
新年からはカルロが乗り込んでくるぜ？ そんで、フロラはめでたくチェーザレの妾だな」
両手を挙げて、頭の後ろで組み、何気ない身振りをしてちょっと揺さぶってみる。
「めかッ！？ なんですそれはッ！？」
案の定、天才少年、しかし世間ズレしていない、は乗せられた。
「だって、チェーザレにはちゃんと本妻がいるし。妾ってな、正式の妻の他に飼っとく女だよ。当然
ベッドの相手をさせるために」
「語義をお尋ねしてるんじゃありませんッ！ だって、あのひとはまだ１７で、そんな、幹部候補生
だってッ……」
「幹部候補生だろうが、しくじったら年相応の仕事をさせるさ。娼館に叩き込むところだが、フロラ
はけっこうあれで顔のつくりはいいし、チェーザレが引き受けるなら相手するのは一人でいいし、結
構な暮らしはできる……おまえもな、フーゴ。おれんとこで引き取ったら、使い走りからこき使うぜ？
こんなきれいな格好、してられねえぞ？
それともなにか？ きれいな男の子のする商売、興味あるか？」
つと手を伸ばして、ネクタイを締め直してやる。頬にはえくぼを浮かばせて、目は笑っていない。
口元はきれいな弧を描いているが、笑っていない。笑っていない！
「わ、解りました」
背筋をしんから冷やしてフーゴはあたふたと帰って行った。
「あら、今お茶が入ったのに、パンナコッタくん、ちょっと……」と、マルガリータがその背に声を
掛ける。
「いーよ、あれで」
トンマーゾはにやり、と笑って恋人を抱き寄せる。
「うふん、トンマーゾ、あんたってばウソツキ」と、マルガリータは紅茶を載せた盆をデスクの端に
載せて、トンマーゾの首に両手を回した。
「あーそーだろ？」と、トンマーゾはその頬にキスをする。
「そんでもって、親切」
いたずらっぽく笑って、マルガリータはキスを待つ顔になった。
６
「どこへ行ってたんだ？」
ブチャラティはアジトの２階のオフィスにぽつんと坐っていた。アームチェアに、やせっぽちの身
体が今にも倒れそうに収まっている。まだ陽が落ちるには早いが、フーゴは灯りを付けて暗い雰囲気
を追い払った。
「カッシーニさんのところです。ベッド、まだかかるって」
「ああ」
やっと、白い顔に微笑みが浮かんだ。まぶしそうに目を瞬かせる。
「しょうがないな」
「嫌じゃないですか？ ぼくと一緒で」
「だってしょうがないだろ」
闇雲に追求したい気持ちを、フーゴは引いてもう一つの自分の意識を創り出して分析する。
どうしてぼくはこのひとに一緒に居たくないと言わせたいんだろう。はやく一人になりたいと言わ
せたいんだろう……。それは自分の欲求で、それを自分から出したら負けになるからか……？
それはいつもの癖だ。ひとに構われたくない。バカは嫌いだ。バカはぼくに近づくな……このひと
はバカだろうか。
「わたしは嫌じゃないよ、フーゴ。おまえはきれいな子だし。清潔だし。
窮屈かも知れないが、このところ冷え込んできたことだし、少し我慢しておくれ」
油断していた。立ち上がったブチャラティは、手を伸ばして、フーゴの淡い亜麻色の髪に手を差し
入れて、掻き撫でていた。
「やめてくださいッ」
反射的に、フーゴはその手をはたき落していた。
「……ああ、すまん、子供扱いは嫌いなんだったな」
実際の間は、フーゴが感じたより短かったかも知れない。ブチャラティは、本当に感情を顔に出さ
ないひとだ、とフーゴは舌を巻く、いつものとぼけた顔でかるく謝った。
「湯たんぽ扱いに、しようとしたでしょ？ ひとのこと。だめですよ、ぼくだって生身の男なんだか
ら。……結構我慢してるんですよ？ ……窮屈なのを」
らしくなく、フーゴは言葉が途切れがちだ。きわどい本音を、どうにかまとめ上げた。
「でも紳士だろ？ まだそんなに身体がぶつかるってこともないし。大丈夫、大丈夫」
また、微笑みを浮かべて席に着く。二人して相談して、付けることにした日誌に、パトロールで感
じた街の様子を書き入れていく。
ため息を一つ吐いて、フーゴは日誌の内容を肩越しに読み始めた。
７
「あァ？ なにひと仕事片付けた顔してるんだ？」
黒髪を撫でつけた、ちょっといい男のカルロ・タルティーニは目をすがめてブチャラティを見下ろ
した。ブチャラティがチーム・リーダーになって２回目の月初め。札束を数え終わった会計係が、確
かに揃ってます、と顔を上げたのを見て、ブチャラティとフーゴがため息を吐いたすぐその瞬間だっ
た。
「こんなのは、当たり前のことなんだからな？ 毎月ちゃんちゃんと上納金は持ってくる。手前のシ
マはちゃんと手前で締める。これをやってはじめてパッショーネのギャングですって言えるんだから
な？」
「はい……」
僅かに視線を落して、ブチャラティが返事をした。フーゴは胸が締め付けられるような気がした。
「立て替えは、何度も通用すると思うなよ？ １０年遡ってもちゃんと取り立てろ。艦長から幾ら引
き継いだか知らんが、無限ってことはないだろ。おまえが無一文になるのは勝手だが、その後でシマ
を預かるものが困るんだからな」
さすが、ブチャラティが立て替えたのを見抜いている。
「行きな。もう皆さん揃っていらっしゃる」
顎で会議室を示して、タルティーニは会計係の方へ向いて指示を出し始めた。
「失礼します」
ブチャラティは一礼して、会議室へと向かう。フーゴがドアを開けてやる。
「がんばって」
「ああ」
小声で送り出して、フーゴは随員の控え室へ戻った。
……あれを、出した方がいいだろうか。
フーゴはフランチェスコから引き継いだ通帳のことを思い出していた。
「ベアトリーチェ・ブガッティ？ 誰です？」
５年も前から続いている積み立ての預金残高は、ちょっとした車が買えるくらいにはなっていた。
「ああ、これ、フロラに積み立てておいた隠し口座。前のリーダーがね。上の学校へ行かせるための
学資のつもりで」
「学校、行かせてくれなかったって聞いてますよ？」
「ああそうだね。艦長結構がんばったみたいだけど、ポルポさんにはお考えがあって。学校の勉強だ
けできる秀才になっても困るからって。
どう？ パンナコッタは学校の勉強以外もわかるって自信ある？」
「とりえあず、簿記は今初めて勉強しました」
天才児は率直に認めた。彼の受けた英才教育は、そういう実学をきれいに無視していた。
ははは、と笑ってチームの元会計係は偽名の通帳を彼に握らせた。
「まあ、そうでなくても、ウェディング・ドレスぐらいは買えるようにってね」
……ああ、可愛がられていたんだな、あのひと。
優しく微笑む生き残りのこのひとと言い、ブチャラティの前のチーム・メイトは年若い女の子を口
には出さないまでも大切にしたのだろう。フーゴは「七匹めの子ヤギみたいに生き残った」と伝え聞
いたブチャラティの、壊滅した前のチームの雰囲気を正しく推察した。
「口じゃあ小娘が生意気なとか、まるきり色気というものがないとか厳しいこといろいろ言ってたの
になあ。大人の男ってのはああいうややこしいことをしなくちゃいけないんだったら、ぼく、大人に
なんかなりたくないねえ」
のんびりと言って、フランチェスコは笑った。
「何かあったら使って。まあ、今日帰ってすぐフロラに渡しちゃってもいいよ。そしたらとりあえず、
生きてる間に艦長も感謝されるだろうし」
「そ、そうですね」
「ま、良心が許すなら黙って使い込んでもいいんじゃない？ ぼくらもう二度と逢わないと思うし」
あっさりとそういうことを言うあたり、やはりこのひともギャングなのだとフーゴは唾を飲み下し
た。
結局そのままフーゴが握りこんでしまって、ブチャラティのあずかり知らぬ隠し財産は今もイタリ
アの某銀行の金庫に眠っている。ブチャラティが自分の貯金をはたいてしまう前に、この金の存在を
明らかにしておくべきだ。
まだ上納金を払わない不届きもの達は何とかするにしても。
８
「や……めろッ」
押し殺した声が、路地の奥から聞こえてきた。フーゴは猛然とその方へ駆けだしていた。余りにも
戻りの遅いリーダーを案じて、迎えに出たところだった。
路地の奥では、信じられない光景が繰り広げられていた。
上半身の衣服をほとんど失って、ブチャラティが地面に引き倒されている。白い隆起が目に入って、
フーゴは逆上した。
いや、下半身も、もうなにも付けていないようだ。
「おいおい、ルチアーノ、なに余裕出してんだ、さっさと突っ込んじまえ」
ブチャラティの背後に陣取って、両手を押さえ込んでいる男がせせら笑っている。
「おまえたちッ、こんな真似をして……ただで済むと思うなよッ」
ブチャラティは必死に身を起こそうともがいていて、上半身だけ呼び出された彼女のスタンドとお
ぼしき青い人形が、渾身の力で、のし掛かろうとしている男の身体を押し返している。
「さっきからやってるッ……なぁーにが、シニョーラ・ブチャラティだ、こんな小娘に仕切られるほ
ど川のこっち側はぬるいのかって、おれ達までなめられてんだぜ？ ゴキゲンだぜぇ。ちょっと愉し
ましてくれよ、な？ フロラ。目ぇつぶってりゃすぐだから。もう諦めて力抜けって」
「嫌だッ！ ……フーゴッ！？」
ブチャラティが、フーゴに気づいて顔をゆがめる。羞恥に急激に意識を支配されたように。
「貴様らぁぁぁぁぁあッ！ 命で償えッ！ パープル・ヘイズッ！」
「うばっしゃあ！」
「ブチャラティ！ 街灯の下へ！」
叫ぶなりフーゴは恐ろしい力を奮って彼女の身を暴漢どもの腕から奪い取って、灯りの下へ避難さ
せた。殺人ウイルスに彼女を冒させないために。脱いだジャケットですぐさま彼女の身体を覆い隠す。
振り向いて、スタンドの首尾を確かめると、恐るべきウイルスは潜伏期間を終えて発症したようだっ
た。恐怖に顔を引きつらせながら、弱い女を力で思うままにしようとした男たちはウイルスに身体を
溶かされていった。
「下郎がッ！ 恥を知れッ」
激しい怒りの感情にまかせてスタンドの力を振るったフーゴは、その無惨な死に様に満足を覚えつ
つも、またそういう自分に生理的嫌悪感を覚えて激しく嘔吐した。
「フーゴ、済まない。嫌な思いをさせたな」
恐怖がまだ身体を縛っているのか、ブチャラティの声はいつになく震えていた。
「いいえッ！ あんたが無事でなによりですッ。ここはほんとに腐った街になりかけてますよ。女性
の一人歩きもできないなんてッ。あしたッからもっと締めていかないとッ！」
「だが、フーゴ、ひとの命と引き替えに守るようなものでもないぞ」
……らしくないッ！
フーゴは怒りさえ感じて振り返って彼の上司を見た。フロラ・ブローノ・ブチャラティは、今は本
当に、年相応の、１７才のきれいな少女でしかないように見えた。
目に涙さえ溜めて。
……心が折れかかっている！？
「なにをバカなッ！ しっかりしてくださいッ！ そんな、あんたはパッショーネのチーム・リーダー
なんですよ？ そこらへんのチンピラなんかにからだを自由にされていいわけないでしょうッ！」
「だって、弱いんだから。しょうがないだろう。ここはそういう街だ。弱いリーダーには、だれも金
を払わない……そのうち川向こうからちゃんとした大人が来て締めるだろう。わたしはもう……」
「なに言ってるんですかッ！ いいですかッ、まともな街ならどんなに弱い女性だって暴行されたり
なんかしませんよッ！ もっと自分を大切にしてくださいッ！ あんたがここでヤケになったら、こ
の先出逢う、あんたのことを好きで好きでしょうがない男が悲しみます！ あんたのためにウエディン
グ・ドレスの金の積み立てをしてくれてたひとがいたじゃないですか！ そのひとの親心も裏切るつ
もりですかッ！
ぼくはあんたを幹部にしてやります。あんたが幹部になる女だから、ぼくは側近をやってやるんで
す。絶対ね。
とりあえずは、あと５年のうちに、あの年末恒例の全国会議にあんたをネアポリスの代表として送
り出してやりますから。
とっとと気合いを入れ直してこの街をちゃんと締めましょう！」
フーゴは、４つも年上の少女ギャングを叱りとばしていた。
９
「服が欲しいんだけど。一目で、こいつはヤバイって判る服。ある程度、金に糸目は付けない」
翌朝、憑き物が落ちたような穏やかな顔でブチャラティにおはようを言われ、フーゴはきまりが悪
かった。別行動を取って街のかなり尖った服を置いているブティックに出かけ、いつもの彼に似合わ
ぬことを店主に言いかけた。
「へえ。きみ、ブチャラティのチームの新入りだろ？ なるほどね」
上から下まで彼をじろじろ見た若い店主は、肯くと、こう言った。
「いいよ、ウィンドウの服、持ってけよ。ちょっとした遊び心で作ってみたんだが、きみなら着こな
せるだろ。サイズもまあだいたいいいと思うし」
指さして見せた服は、スーツのようだが、ジャケットは胸の辺りから大胆に切り落とされ腹を露出
し、残った部分も、所々に穴が空いて素肌を見せるつくりになっている。
「身体に自信がないと着られない服だよ」と、ニヤリと笑った。
「贅肉は付いてないと思うけどね」
受けて立って、フーゴも笑って見せた。
きちんと撫でつけていた髪も、伸びてきていたのを機に、自由な感じにセットすることにする。あ
とは、ピアス。トンマーゾに穴あけをお願いした。
「気合いを入れるッてわけか？ 思い切ったな」
トンマーゾは感嘆する。
「どうぞ、ご遠慮なく」
「ああ」
文字通り遠慮なく、トンマーゾはピアッサーを突き立てた。フーゴはそれを、呼気一つで堪えて見
せた。
「ホント、年さえ近けりゃおまえで手を打つところだぜ」
トンマーゾは、低い声で呟いた。
「フロラを頼んだぞ……」
「ブチャラティ……」
「黙って戴くんだ」
壊滅したチームの幼い生き残りの食事の面倒は、世話になっている街の連中が回り持ちということ
になっていた。これも、あるものは家族の食卓に客として迎えてくれ、あるものは、露骨に残り物を
犬や猫にやるかのように、裏口から面倒そうに与えた。
この店はまだテーブルを用意してくれるだけました。
冷め切った、野菜屑ばかりのミネストローネ。残り５センチばかりのグリッシーニ。なんだか嫌な
匂いのするペパロニ。
「フーゴ、おまえは頭のいい子だな？」
感情を覗わせない声で、ブチャラティは言った。
「そう言われてきましたけど」
「記憶力もいいな？」
「？ ええ……！」
「今はそれでいい」
あとは黙って、少年少女のギャングは栄養を摂取した。
「ありがとう。ご馳走になった」
すっきりと立って、後片付けをして去る。今は力がなくて、食い物にされるばかりだが、受けた仕
打ちは決して忘れない。それが、ギャングとして生きていかねばならない彼らの矜持だった。
１０
この日もブチャラティは、粘り強く滞納分の集金に行っていた。
「エドアルドさん、お願いだ。もう月が改まったんだから金はできた頃だろう」
「ブチャラティ、済まないね、まとまった金ができる頃には行き先が決まっちまうんだよ。月末まで
待ってくんねえか」
赤ら顔の食堂の主人は、またも同じ言い訳を繰り返す。
「この前もそう言ったじゃないか。あんたの店はもうずいぶん組のフォローを受けてると思うんだが。
このままだとわたしもポルポさんに叱られてしまう」
ブチャラティは泣き落としにかかったが、あいにく表情に深刻さがたりない。この辺りの人間は、
欧州の中でもとりわけ仕草やもの言いがおおげさだというのが定説になっているのに。
「大丈夫だよ、ブチャラティはポルポさんのお気に入りだもの。どうしてもダメでしたって言えば解っ
てくださるさ」と、笑っていなされてしまう。
「そんなことないんだ、頼むよ」
「小さいころから見てきたが、ブチャラティ、あんたはほんとによく気がついてよく働くいい子だっ
たよな」
「昔話はいいから」
ブチャラティが弱り切る。と、フーゴが食器棚を蹴飛ばした。
ガチャーン！！
ぎっしり詰まった皿が全て床にぶちまけられる。
「フーゴ！」
「何をするんだこの悪ガキ！」
店主が顔を真っ赤にしてフーゴを怒鳴りつける。
「まともな頭をしてないみたいですね、このひと」
フーゴは大学の教授を怒らせた無敵の目つきをして見せた。己以外のものの思慮や算段の存在を許
さない、個性的でもそれなりに美しく構築された論理の展開に自分が驚嘆できる存在があればそれは
好ましいとは思うのだが。今はとてもそんな状況ではない。
「このままだまくらかしたまま永遠に上納金をごまかし続けられるとでも思っていたわけじゃないで
すよね？」
「そ、そんな！」
「この街でパッショーネのお世話になってる店は、みんな帳簿に載ってるんですよ？ どこが毎月ちゃん
ちゃんと払うもん払ってるとか、どこが我儘言って面倒掛けたか、ちゃあんとね。あんたらがブチャ
ラティに恥をかかせると、もう来月には川向こうの恐ろしいお兄さん達が出張ってきます。
このお兄さん達は、あんた達に義理はなんにもないですからね。おまけに荒っぽいし。……仲間の
ぼくだって、これだ」と、頬に薄く残った赤みをちょっと灯りの下に出して見せる。
「ブチャラティが優しく言ってる間に、さっさと出すもん出した方がいいですよ」
前髪の奥から、青い眼をきらめかせる。天使のような顔だからこそ、得体の知れない凄みが底光り
して見える……。ブチャラティがリーダーとして落ち着くまで半年ばかり様子見がてらちょっとした
貯金をするつもりだったエドアルドは、次第に脂汗をたらし始めた。
「おいッ、かかあッ！ 例の金を持ってこいッ！ すぐにだッ！」
とたんにばたばたと足音がして、髪をひっつめたおかみが首をすくめて現れた。
「フーゴ、数えて」
受けとった札束を、ブチャラティはすぐさまフーゴに回す。
「じゃあ、確認してくださいよ？ ウーノ、ドゥーエ、トレ……
足りませんよ、あと１０ユーロ」
「ちょッ！ 今２枚もッてったでしょッ！？」
抜け目なく目で札束の動きを追っていた店主が抗議の声を上げた。
「エドアルドさん、世の中には利息ってもんがあるんですよ？」
フーゴは動じない。
おかみの方が怖じけて前掛けの下から１０ユーロ札を出した。
「フーゴ、まあいいじゃないか」
ブチャラティは、とぼけた顔で間に入った。
「そうですね、１０ユーロは高かったかな？」と、その場で１０ユーロ紙幣を引きちぎって、小さい
方を返して寄越す。
「あーッ！ あんた、お札を、お札をちぎるなんてッ！」と、おかみの魂ぎる悲鳴が上がる。さすが、
商売人はお札を尊ぶ心がある。
「銀行に持っていけば換えてくれますよ。この大きさなら２，３ユーロにはなるでしょ」
フーゴはうそぶいた。
「エドアルドさん、確かに先月分は貰ったよ。この調子で月末も頼むな」
にこやかに言いおいて、ブチャラティは店を出た。
「……まったくへんな口上を覚えて」
少し行って、ため息とともに呟いた。
「少しはお役に立ちましたでしょう？」
「その顔、今朝わたしがぶつかってつけたんじゃないか」
心労で足元も危うくなったかと、いよいよフーゴは胸を痛め、考えに考えていた脅しを実行に移す
ことにしたのだった。
「力で負けるんなら、ここを使ってみようかと思いまして」と、頭を指さしてみせる。
「上出来だ。さすが我が参謀」
ブチャラティが、芝居がかった声を出してちょっと笑った。
「そう来なくては」
フーゴは胸を張って見せた。
「……エドアルドさんもそんなこといってましたっけねえ？ いいですよ。ぼくがブチャラティに叱
られればいいんですね？ ブチャラティは優しいから、口で叱るだけですけど、あんたは痛いからあん
たの方が損だと思うけどなあ。１回２回ごまかしただけのお金で、全身にガラスの突き刺さった痛み
が消えると思うのかなぁ、大人って、案外バカですね。いいですか？ 行きますよ」と、クリスタル
ガラスを積み上げたショーケースを背後に庇った老店主に向かって、フーゴは一歩を踏み出した。
「やめてくれぇえ……！」
ある日を境に、下町のシマの上納金は急速に集まりだした。
１１
……ああ、始まった。
アジトの戸締まりをして、彼らが屋根裏に上がってきた午後９時すぎから、なんとなく、空はその
気配を漂わせていた。オリオンを、シリウスを覆い隠す水蒸気の固まり。大気は急速に冷やされ、嫌
な風が吹き始めた。
遠くから、蹄の音のようにそれはやってくる。
今はもう遠い自分の生まれ育った家を、一瞬、フーゴは記憶に探った。
天蓋のついたベッド、母親の香水の香りのする白い手。
……ほほ、おかしいこと。ミケーレは賢い子だから、あんなもの怖くはないでしょうに。
掻き撫でてくれた手は、そういって彼を突き放した。広すぎる子供部屋の中で、彼は一人で恐怖と
闘った……。
光った！
フーゴは身を固くする。
まだ遠い。雷鳴は稲光よりふた呼吸ほども遅かった。遠くの部屋で椅子を引いたような判然としが
たい音だ。
また光った！ 目を奪う青白いひらめき。天から大地を目指す大いなる電気のエネルギー。
「うわッ！」
耳ごと頭を覆ったフーゴをあざ笑うような地鳴りがすぐさまとどろいた。なおも天上では、制御さ
れない莫大な自然の力が、続けざまに光と音とを地上の生物どもに見せつけている。
醜態を見られてはいなかったかと、フーゴは肩越しに振り返る、今はベッドに坐って、髪にブラシ
でも掛けながら明日の仕事の段取りを考えているはずの彼のちいさな上司を。
「……ッ」
声を押し殺して、ため息に見せかけようとしたものが彼の耳に届いた。
「ブチャラティ？」
まだ１７の少女ギャングの、膝の上に置かれた両の拳が、ぎゅっと握られたまま震えている。稲光
のタイミングに合わせるように、細い肩があからさまにすくみ上がる。
……怖いんだ、このひとも。
フーゴの意識の中に、ほんの針の先ほどの余裕が生まれた。
「……ブチャラティ、あの」
巧まずして、擦れ声が喉を這い出た。
「あ、ああ？」
「あの……もしよかったら……」
「どうした？」
１７才のチーム・リーダーは、なんとか顔に微笑みを作った。
「もし嫌じゃなかったら、……手を握っててくれませんか」
おおげさに、耳に手をやって、眉を寄せて憐れっぽい顔を作る。これは演技だ。リーダーを、騙すん
だ。フーゴは自分に言い聞かせてプライドを眩ませる。
「ああ、大丈夫だ。おいで、フーゴ」
ぎこちなく手をさしのべて、ブチャラティは懐へ招いてくれた。
「いえ、あの、手を握っていてくれるだけで、いいんです……」
「大丈夫、怖くないぞ。隣のビルの方が高いからな、避雷針も付いてる、絶対ここへ落ちるわけがな
い」
「解ってます」と、フーゴはいざり寄った。
待っていた彼女は、左の鎖骨の辺りに額を受けて、背に両手を回してくれる。
「ブチャラティ、あの、近くないですか？」
「大丈夫だ」
大丈夫と繰り返すうちに、少女の息は整ってゆく。身はこわばりが解けて、しっとりとした娘らし
い肌の匂いが立ち上ってくる。温かい。
これでいい。
自分はこのひとに守られてやろう。そうすることで、このひとが強くあれるのなら。
フーゴは自分の胸の中だけでこの少女ギャングに忠誠を誓った。
「……人類はまだ雷を克服していないんです。
ギリシャ・ローマのゼウスやユピテルにはじまって、雷神というのは各神話に於いて必ずと言って
いいほど地位を占めています。最高神であることも多い。それだけ、雷の破壊力を人類は恐れてきたん
です。北欧のトール、インドのインドラ。日本では、讒言により失脚した反主流派の大臣が雷神になっ
て、自分を追った政敵を宮廷、天皇の眼前で直撃によって殺したとか。
あれだけの膨大なエネルギーを、活用することも、うまく避けて無害化することもできていないん
です。それは、根源的な恐怖を覚えてもしょうがないでしょう……」
アスリートのような、細いけれど、必要な筋肉はじゅうぶんついている腕に抱え込まれて、視線を
白いシーツの上に落としながら、フーゴは照れ隠しのように蘊蓄を傾けた。稲光のタイミングに合わ
せ、たびたび力の入っていた指先も、笑いを誘うようにフーゴが話題を選んだのもあって、話が進む
につれ、自然と力が抜けて来ている。自然なテンポで、赤ん坊をあやすように温かい手のひらが彼の
背を打つ。
「そうか、なるほど。フーゴはさすがだな」
とぼけた顔で、彼のちいさな上司は頷きながら聞いていた。
「だいたい、どうしたら雷を避けられるか、これはまだ決定的な研究結果が出ていません。昔は金属
がいけないと言われていましたが、最新の研究では、必ずしも金属を狙って落ちるというわけではな
いようです。ちょっとでも高いところ、というのは一般的ですが、平地では必ずしもそうとも言い切
れないという結果もあるとか……」
「じゃあどうしたらいいんだ？ 怖いじゃないか」と、ブチャラティも一般化して尋ねることができ
るようになったようだ。
「室内がとりあえず安全なようです……」
話題はいつしか危機管理に移っていった。
１２
「カルロ、なんか下町の方はいいカンジになってきたんじゃねえか？ 残念だな、独立が先延ばしに
なって」
グリマルディーニのオフィスに顔を出したトンマーゾが、紅茶のカップを手ににしゃにしゃ笑った。
「おれは別に、グリマルディーニさんに命を預けてるんで、一生お側でお仕えさせて貰う以外のこと
は考えてねえぜ」
紅茶のカップに目を落したまま、テーブルの向こう側に坐ったカルロ・タルティーニは表情を変え
ずに言った。
「へー？ そんでさ、この前の嵐の夜っからなんか変わってきたんだと思うんだケドよ、やつら、ヤッ
たと思う？」
「なに考えてんだこのお気楽野郎。ブチャラティが聞いたら幻滅するだろうよ、あれだけ真っ直ぐ慕っ
てるってのに、ああ」
黒い髪を撫でつけたグリマルディーニの若頭は、嘆かわしいといったように天を仰いで見せた。
「そんで、天蓋つきのベッドはやっぱ注文した方がいいかな？ いっちょダブルサイズに変えた方が
いいかねえ？」
タルティーニは目を剥いて、したたかな山の手のリーダーの顔をまじまじと見つめた。
「おい、トンマーゾの言うことをあんまり真に受けるんじゃねえぞ」
その後、機を捉えてフーゴを陰に呼んで小声でタルティーニは注意してやり、むきになったフーゴ
は春を機に自分で簡素なシングルベッドを注文して、断固として同衾を拒否するようになった。夏を
迎える頃には立て替え分の回収も済み、まずブチャラティがちゃんとしたフラットに移り、フーゴも
続いて同じ建物の空いた部屋に移った。ブチャラティのチームは、なんとか１年目を乗り切れそうだっ
た……。
人間、余裕が出てくると、余計なことをしてしまうものである。
「こいつにスパゲティを食わせてやりたいんですが、構いませんねッ！？」
フーゴが拾ってきた少年は、ブチャラティをヒーローと認識した……。
「ブチャラティーッ！ おれ試験に合格したんですッ！ あんたのチームに配属になりましたッ！
おれなんでもやるよッ！」
喜色満面なナランチャは、残り１メートルの距離を跳んで詰めた。頭っからブチャラティの胸に飛
び込んでいって、ブチャラティは一瞬息が詰まったようだった。そのままナランチャは首っ玉にかじ
りついて頬ずりをしている。
「ちょッ！ もうギャングの上司と部下なんですから過剰なスキンシップは慎んでくださいよッ！」
フーゴが立っていって引き分けた。
「ああ、フーゴ、ほんとにあの時はありがとうな！ おまえのおかげでおれ、一生を預けられる相手
に出会えたよ！」と、今度はフーゴにじゃれついて耳元でがなりたてる。
「ははは、フーゴ、いいじゃないか。ナランチャ、ギャングになりたいなんて言っちゃいけないって
言ったはずだぞ」と、ブチャラティも困りながらもまんざらでもない様子だ。
……ひとがあれだけ苦労して詰めた距離を一瞬で……。おまけに、ぼくもまだ本人に言ってない台
詞を配属初日から……。
フーゴはなんだかとっても自分が苦労しそうな予感に震えた。
（２７−０７−０９）
蛇足。
「媚態」で出した雷の怖いフーゴ裏話。どっちも、本当は雷が怖いんだけど、「ああ、このひと／コ
雷が怖いんだ」と思うことによって、自分が怖がっていることを忘れることができる、自分が守って
いる気になって、相手より上な気分になっているけれど……という関係が、……上手く書けませんで
した。ヤマアラシのジレンマを解決するのは雷雨、ってタイトルは、「媚態」書いてたときからでき
てましたが。
「ヤマアラシのジレンマ」はホントの心理学用語。これをタイトルに、心に傷を持った高校球児がも
う一度心を開く話で、「立ち上がって抱き合えばいいのさ」とコロンブスの卵な解決策を出してきた
のは遠藤淑子。このへんの爽快感はこのひとの持ち味。立ち上がる＝腹を見せる、無防備な自分をさ
らけ出すという暗喩があるんだかないんだかの深さが「深イイッ！」でしょ？
ブチャチーム発足時の辛い日々はいつか書く気はあったんだけど、なんかこのタイミングで入れた
ら盛りだくさんになって、恐る恐る抱き合う雷雨シーンが霞んじゃいましたよ。パープル・ヘイズで
ブチャの危機を救うエピソードとか、最初はひとつベッドで寝起きとか、手のひら返しに上納金を出
し渋られて切ないとか、思いつくまま。
トンマーゾさんはホルマジオにほぼイメージが同じです。親父さんが山の手のリーダーで、普通に
ガキ大将からチンピラたちの兄貴分を経て、親父さんの早死に（たぶんガンとかの病死）でリーダー
昇格。開けっぴろげでイイ兄貴だったけど、下克上でこの翌年ぐらいに……（その１２「笑わぬ情人」
へ）。今回、意外と黒い人になっちゃいました。
グリマルディーニ老は、目の確かな頭の切れるマフィアなんだけど、いかんせん昔のひとだから、
女の子のブチャラティが幹部になるのは無理だと思ってる。だから、しっかりした男と縁組みさせて
脇に付けないと、と口癖のように言う。まあそれは周りの頭の古い連中を黙らせるには必要なことだ
から、あながち間違ってもいない。そのうちじいさん本人も、ブチャラティ一人で幹部になれるかも、
と思うようになってゆく……この時点で２００１年はまだまだ先です。そして女に幹部は無理だと言
われてホントに悔しい思いをするのはルクレツィア・ガラヴァーニお嬢さん。いや、あんたの場合単
純に能力が不足してます。