Ｓｌｅｅｐｉｎｇ Ｂｅａｕｔｙ
その朝（２６）
ノックはしたのだが、フーゴがアジト２階のオフィスに足を踏み入れたとき、あからさ
まにアバッキオは狼狽えて姿勢を正した。見ると、デスクに突っ伏して、ここ数日徹夜続
きだった彼らの敬愛するリーダーがうたた寝している。
「べッ別にッおれはなにもッ……」
そのさまは逆に何かしていたと言っているようなものだ。指を一本立てて唇に当てて見
せ、フーゴは彼を落ち着かせた。
……眼を覚ましちゃいますよ。
頬を染めたアバッキオは、それでやや理性を取り戻して、足音を殺してデスクから離れ
た。
「お茶煎れてきたんですけどね。ぼくらで飲んじゃいましょうか。ブチャラティには、起
きたら煎れ直すことにして」
ティーテーブルにトレイを置いて、ドアに背をもたせかけて立ったまま二人で小休止を
することにした。アバッキオがなにか言いたげだったので。
「……やっぱり、寝ている女性に勝手に触ったりするのは強制わいせつのうちに入るんだ
ろうな」
元警官様はやっぱり言うことが違う！
「そうですね」
少し呆れたので、フーゴはわざといたぶってみた。案の定、落ち込むそぶりを見せたの
で、救ってやる。
「でもあんたら恋人同士じゃないですか」
「あ、ああ、まあ、な」
その言葉に、堅物男は心持ち顔を上げて、頬を緩める。
「でも、今は夫婦でも相手がいやがってるときはやっちゃいけないそうですし」と、さら
にフーゴは遊んでみる。
「やっぱそうか……いかんよな、そうだな」
いちいち真面目に考え込むのが可愛い。
前払いでお礼を貰った参謀は、本格的に悩みを聞いてやることにした。
「触るって、部位にも拠ると思いますよ。……首から上ならまあいいんじゃないですか？
髪とか、頬とか。……唇はちょっと微妙かと思いますけど」
オフィスの中で、恋人の寝込んでいる間に、この男ならそんなに凄いことはしていな
いだろうと思っての言葉だ。
「あ、……ああ」
「手なんかも、いいでしょう。あとは、限りなくグレーですかね」
「おまえは結構いい育ちしたんだろ？ 社交界で普通におおっぴらに女性に触っていいっ
てのはどの辺までだ？」
「ダンスの時も含めて、手と、背中は肩胛骨から上程度で、腕は上腕部の外側辺りまでで
すかね。特に親しい場合でなければ頬とかもまずいんじゃないかな？ ああ、ベルトより
下は厳禁ですよ」
「当然！」
アバッキオはおおげさにかぶりを振ってみせる。
「……おれは寝顔を見るのも申し訳ないような気がするよ。無防備で」
「まあ、今はぼくたちでここを塞いでますから、滅多なことにはならないですよ」
初冬の昼下がりだ。日は短くなってきたとはいえ、夕食の買い出しで市場がにぎわう時
間帯にはまだ早い。ナランチャとミスタはパトロールに出ているし、何かと心悩ませるこ
との多い女神の眠りも、もう少しは守られるだろう。
「まあ、寝ている間ぐらいは、自由に触れさせてもらいたいって気持ちはあるな」
唇をゆがめて見せて、それでも、恋人を見やるアバッキオの色の薄い眼は優しい。
……おや、まだそんなことを言っているのかこのひとたちは。
フーゴはブチャラティに向けていた眼をゆっくりとまたアバッキオの顔に戻した。
ブチャラティがこの男を拾って数ヶ月ぐらいした頃に、なんだかそんなことを言って騒
いでいたような気がしたが。もう一年も経つというのに、まだブチャラティはベッドでの
主導権を握って離さないらしい。
「別にはしたないとか思ってるんじゃないんだが。おれが一番乗りをしたかったとかそう
いう話でもなくて。
あんなきれいな女が、自分の身体をゴミみたいに思っていて、自分からいろいろ『奉仕』？
をしなくちゃ相手にして貰えないと思いこんでるってのは、…………どうかと思うぜ」
最後は、絞り出すような声になった。
「可哀相」と、
そういう言葉を使ってはならないと、寸前で止めたような。
彼らの痴話喧嘩の仲裁を持ち込まれる度に窺い知ることのできた事情を継ぎ合わせてみ
るに、ブチャラティは、アバッキオがさすがに引いてしまうようなすごい「サーヴィス」
はやってのけるくせに、自分の身体を触られるのにはどうやらまだ抵抗があるらしい。
「軽んじられたり、食い物にされそうになったり。……あのひとは女性であることであん
まり楽しいことはなかったんだと思います」
女性らしいファッションも封印して、父親のであるらしい男名前を使って。フーゴの見
てきたブチャラティは、きれいと言われるより強いと言われた方が嬉しいように振る舞っ
ていた。
「別に、若くてきれいな女だからってそれだけでなんでも自分の思い通りにならなきゃっ
て思いこんでる女は、それはそれでどうかと思うがな」と、アバッキオがかぶりを振る。
背中までのプラチナ・ブロンドが、さらりと流れた。
そう言えば、その素朴すぎる気性を裏切る出で立ちをして日々を送るようになって。自
分の望まない相手から欲望をあからさまにして見つめられる不愉快さは、彼も肌身に感じ
ているのかも知れなかった。
「それは同感ですが」
ブチャラティの場合は、余りにも、自分というものを大切に思っていなさ過ぎるような
感じがするのだった。
「あいつの昔の上司とかが、そういうふうにあいつをしたんだったら、それは許せないと、
そういうことを思ってるのさ」
……具体的には、それはポルポであると、ブチャラティが語った言葉の端々から二人は
推察しているのだが。
幼いブチャラティが自分の好みからかけ離れているからと言って、無遠慮に、しかし執
拗に、少女の心をえぐる言葉を浴びせ続けたのだろう。それはこの理性的な少女から、根
こそぎ女性としてのプライドを削り取ってしまった。
今はまだ、物理的にも、社会的にも、ポルポを殺すことはできない。ポルポは刑務所に収
監中だがネアポリスを締める立派な幹部で、アバッキオはその下の更に下の取り替えのき
く部品に過ぎない末端構成員だ。
せめて、つかの間無防備な様を見せる恋人の頬を撫でてやることぐらいしか彼にはでき
ないのだろう。
「キスまではいいとしましょう」
雰囲気を変えるために、ことさらに明るくフーゴは言った。
「あんたがそんなに飢えているんだとしたら、可哀相ですし認めてあげましょう。
偉い女性の権利の運動家とかがこむづかしいこと言ったって、街の男衆なら、恋人が寝て
るうちに唇を盗むぐらい何が悪いって、きっと味方してくれますよ」と、笑ってみせる。
「フーゴッ」
そんなに軽々しく言うな、と言いたげな顔に、フーゴはさらに言ってやる。
「ブチャラティに知れたって、怒られるのも、嫌われるのも、お仕置きをされるのもぼく
じゃあありませんから」
いつもの不敵な天才児の顔で不遜に言ってやる。
「その代わり、服の下までなんてバカな考えは起こさないでくださいね？ ナランチャや
ミスタの見てる前でもやめてくださいよ？ あんたたちは街の幼稚園児まで憧れる『似合
いの二人』なんですからね？ みんなの夢を壊さないでくださいよ」と、調子に乗って延々
ダメ出しする。
「フーゴ、あのなぁ……」と、その耳に、ナランチャとミスタが競い合うようになにか叫
びながら駆け戻ってくるのが聞こえた。
「バカッ、静かにしろッ……」
すぐさまアバッキオはドアを開けて階下に降りていった。
「ヘンなやつだ。『あんたはおかしい』とひとこと言えば済むことを、なにを気を回して
いるんだ」
アバッキオから受け取ったカップをティー・テーブルに戻していたフーゴは、ブチャラ
ティのため息混じりの声に慌てて眼を上げた。
「起きてたんですか？」
「途中からな。
……こんなからだ、触ってもしょうがないだろうに」
手ぐしで髪を整えながら、ブチャラティは身を起こして薄く微笑んでいた。本当に、こ
ちらが言葉を失ってしまうくらいに率直なひとだ。
「その辺は、ぼくに聞かれても困ります。
……たぶん、付加価値がついたってことでしょう。『惚れた女の』って。あんたもそこん
ところ理解してやってください。
あんただって、そういうヘンなところが好きなんでしょうが」
違和感を感じつつも、その原因をいろいろ思いやって、尊重してくれるきまじめな優し
さを持つあの男を。
腕っ節が強くて、それでいてため息が出るくらいにきれいな顔をしているのに、心の中
は単純で純粋な正義への強い志向と、内省的な静かな知性を持ち合わせている。そのバラン
スの取れてなさが、ごった煮のような存在そのものがなんとも面白いのだった。
静かな想いに胸を満たされているフーゴを置き去りに、目覚めた佳人はとんでもないこ
とを言い出した。
「それで、寝ている恋人の身体ってのは勝手にいじっちゃいけないものなのか？ 知らな
かったぞ」
「ブチャラティ？」
「いや、興味があったから。せっかく手の内に入ったことだしこの際と思って。いろいろ
実験もしたが面白かった……いやほら、リハビリというか。ポルポさんともほとんどご無
沙汰だったし。自分の知り得た知識が一般的なものかどうかちょっと試しておかないとと……
あ、内緒にしといてくれ、嫌われると思うか？ やっぱり」
「ブチャラティ〜〜〜〜ッ！ あんたってひとはッ！」
……このひとやっぱり変です。
と、フーゴは心中結論づけた。
（２３−０６−０９）
蛇足。
うちのブチャラティは、おねえさんだけど攻めだよ。
ポルポに仕込まれたのもあるけど、けっこー押し倒されたりしたのが心の傷になってる
みたいよ。アバッキオが時々頑張って押し倒してみてるけど、その度にスタンド無意識に
出して威嚇したり地味に硬直したりしてるからアバッキオ諦めたっぽいよ。でも時々つい
ていけなくて、泣いて懺悔しに行ってるらしいよ。
でも、トラウマなんかなくっても年が上でなくっても女の子の方がリードしていいと思
うよ、そこんとこは全然構わない。
おまけ
初めてのケンカがうまく終結した翌朝のこと。朝、アバッキオがオフィスに入ってくる
なり、フーゴの背を思い切りどついた。
「ちょっとッ！ やつあたりはやめてくださいよッ……って、なんです気持ち悪い」
アバッキオを見上げて、フーゴの怒声は途中からいぶかしげになった。
１年に１度あるかないかの上機嫌！ 眼は輝いているし、頬は上気しているし、あろう
事か、唇が締まりなく緩んで頬が痙攣している。
「いや、いやッなんでもねえッ！ 紳士としておれはなんも言えねえッ！」と言いながら、
手はバンバンとフーゴの背をどつき続けている。顔は薔薇色に笑み崩れて、いっそう不審
だ。
「だれが紳士ですか。ああ、できたんですね。それはおめでとう、良かったですね」
「できたって、そんなおまえあからさまにッ！」
ぎょっとして、アバッキオは語るに落ちてしまう。
「え？ 仲直りじゃないんですか」
素で口にしてしまって、フーゴはまったく考慮のうちから漏れていた彼らのある懸案事
項について思い当たる。
……ということ？
……てことだ。
紳士たる彼らは、あとは目と目で会話して。黙って心から頷き合った。
「良かったですねえ」
「か、可愛かったあーーーーーーーーーッ！」と、アバッキオは髪を翻して腰を落とし、
ガッツポーズを取って見せた。
……あーあ、ブチャラティ頑張ったんだなあ、フーゴはそう考えて書類に眼を戻したが。
「でもな、フーゴ、雷でパニック状態なのにつけ込んでヤるってのはじつはやばいんじゃ
ないかとおれは思うんだが」
ふっと顔を起こして真顔になって、アバッキオはそんなことを口走った。
……またーッ！ そういう余計なこと考えないで今日一日ぐらいほけほけ喜んでりゃい
いんですよこの精神的マゾヒストッ！
一気に醒めた眼で根っから苦労性のチーム・メイトを見やったフーゴは、冷たく言い捨
てた。
「あのね、アバッキオ。昨夜のアレは神様からのプレゼントです。日頃行いのいいあんた
が困ってるときに、神様がさしのべてくださった救いの一手です。有効に利用しないでど
うするんです」
「そうかッ！ いやもうおれはフロラをああいうふうにしてやれただけでもう死んでもい
いような気分だったんだが、時間が経ってくるとあれだな、もう一度、いや、二度でも三
度でもああいう時間が持ちたいよ……人間欲張りだな」と、また急に喜色満面になる色男
は、話している間にもまた良心というものが頭をもたげてまた顔が俯きになる。まったく
忙しい。
「大げさな……まあ、あんたの場合お預け長かったですから」
「ああ。とりあえずまた今度雷の時にでも試してみる……おい、天才君、天気図ってのは
どうやって見るんだ？」とまた前向きになって。
「ちょ、困りますよ、本気で雷呼んだりしないでくださいね」と、あの激しい自然現象を
苦手にしている天才は逃げ腰になる。
「呼んで来るようなものかよ。いつ来るかわかったら心づもりができるだろう、それだけ
だ」
「そんな、素人が見て判るようなもんじゃありません」と、フーゴは軽くいなした。
そのうち、皆が揃ってきてもう一度フーゴは釘を刺した。
「そんな、皆が何があったか聞かずにおれない顔なんかしないでくださいよ？ なんでも
ぺらぺらしゃべって歩くなんて男として最低ですからねッ」
「解ってる！」とアバッキオは凛々しく肯いて背を向けて、それでいて急に振り向いて、
「……なあ、とりえあず今日は雷来なさそうか？」と上目遣いになる。
「や、め、て、く、だ、さ、い、ッ！！」
フーゴは絶叫していた。
なんとか二人が仲直りしたことがチーム・メイトたちにも知れて、久し振りに平和な朝
がはじまってしばらくして。
フーゴがそわそわしだした。
いつもなら一目で合計を書き入れる単純な帳簿の計算を、電卓まで持ち出して延々やっ
ている。それも、ミスタッチが続いて２度も３度もやり直して。
「彼女はそんなんじゃないぞ。違うぞ。……立場が違うんだ。そういうことには決してな
らない……ただの友達だ、利用し合ってるだけなんだ……」などと、ボソボソ呟いている。
果ては携帯を取りだして、どこへ掛けるということもなく弄んでいる。
と、着信があって、フーゴは文字通り飛び上がった！
「な、なんだよ、なにか用？」
「あら、フーゴ、ご挨拶ね。用がなくって電話しちゃいけないの？」
彼の秘密を握るネアポリスの影の女神からの電話だった。
「いや……ホント、きみって毎度タイミングが良すぎだよ」
「なあに？ 何があったのかしら……」
「ねえきみちょっと、明日にでも時間作れない？」
内緒の電話はボソボソと、しかし楽しげに続いた……。
ａｎｃｏｌａ（もういっちょ）。
それで、ブチャラティはうまれてはじめて天国を見たらしい。
「これが話に聞くクライマックスというものか……本当に腕も上がらないぞ」
「な？ な？ だから今度からおれが」
達成感に高揚しているアバッキオの方は、疲労など振り切っていろいろ世話を焼いてい
る。
「冗談だろう。こんな恐ろしいこと、もうたくさんだ」
上気した顔のままに、ブチャラティは言葉を被せて言い切った。
「なんだってぇーッ！？」
ミネラルウォーターのボトルが足の上に落ちたが、アバッキオは気がついていない。
「トンマーゾさんはマルガリータさんとベッドにいるときに踏み込まれて射殺されたんだ
ぞ？ この稼業、いつ何があるかわからないってのにそうそう腰を抜かしていられるか。
おまえが足腰立たなくなってもわたしが守ってやれるが、わたしが足腰立たなくなったら
守ってやれないだろう？ ポルポさんのところみたいに警護が十分整ってるわけでもない
し。そんなマヌケなことができるか。なにかあったらいい笑いものだ」
「だって、そんな、あんた……」
またポルポ おまけに、なにげに役立たず扱いもされている。
「愛してるよ、レオーネ。本当によかった。もうおまえと以外は考えられない。だから今
後もちゃんとコントロールして、おまえのことは毎度毎度きっちりイかせてやるからよそ
見をしないでそばにいておくれ……」と、ベッドから手を伸ばし、細い指を動かしてなん
とか絡めてくる。
「わたし以外の女とこんないいことをしたら、ころ、す……」と、満足したブチャラティ
はあっけなく眠りに落ちた。
「違うだろうそれは！」という言葉は何とか呑み込んで。
……だれがあんたをこんなにしたんだぁーーーーーーーーーッ！！
魂の叫びはアバッキオの胸の中だけにこだました。
それからしばらく、アバッキオは真剣に雨乞いというものをした。変われば変わるもの
である。