沈黙
その朝（７６）
「アバッキオ！ なー！ あんた顔に出るタイプなんだから無駄な抵抗はすんなよな！
話がややこしくなるだろ！」
ナランチャが厨房のアバッキオにまとわりついている。
「……いや、べつに」
対するアバッキオは仏頂面だ。
「じゃーなんであんたブチャラティの好物ばっか作ってんの、３連チャンで！」
「おれはまだ新前で、レ、レパートリー少ねえから」
「そんなことねーって！ アニタの友達が一人暮らしはじめたけど、トマト煮とハーブ焼
きとワイン煮しかできなくて、それで鶏肉と子牛肉とラムと魚でジュ、純血食い合わせで
とりあえず３ヶ月回したって言ってたぜ。イタリア料理はそんなもんだってさ」
「順列組み合わせな」と、不機嫌ながら色男はきまじめに訂正する。
「フーゴが文句いわねえで喰ってるもん、あんたの料理旨いんだぜ。おれも今毎日すっげー
食事楽しみ！」
「それは、……ありがとう」
「ブチャラティも喜んでるぜ、いつも、旨い旨いって！」
「……そうかな？」
「ああ！ ……ああ、そーいえばここ1、２日、何も言わねえよな」
「そうだろう！？」
つい、賛同を得た気になってアバッキオが反応した。
「ああ、そんで気にしてるわけ？」
「……………………ああ」
「もしかして、週あたま、グリマルディーニに会議に行ってから？」
「…………………………ああそうだ」
色男は少しずつ口を割りはじめた。
「そーだよな、ブチャラティあんときもなんかヘンな顔して帰ってきたよな」
さすが、この世の太陽とチームリーダを崇拝する少年はその辺りに敏感だ。
「おまえもそう思ったか！？」
勢い込んで尋ねて、それを恥じてアバッキオはまた顔を調理台に戻して、マジメにタマ
ネギのスライスを作っている。
「あんたいつものカッコでグリマルディーニ行ったろ？ そんで怒られたんじゃね？ グ
リマルディーニはスーツ着てねえと入れてくれねえから。フーゴはギリ、セーフ。おれは
門前でアウト、いつも外で待たされるよ」
「ああ、それは言われた、行く途中」
……あは、あそこは一応スーツ着ていかないと入れてくれないんだけどな、イケてるか
らいいだろ。今度からってことで。アジトの屋根裏に洋服掛けがあるから、今度からジャ
ケットだけ用意しとけ。いちいち着替えに帰るの面倒だろ？ 暮れにローマに行ったとき
作った奴あったろ、それを。
そう言いさしたのを聞くなり、そのジャケットはジェノヴァのあの金髪の怖い女が抱き
しめていたことをアバッキオは思いだして、なんだかそれは嫌だという気持ちが腹の中に
もたげてきて黙った。
ブチャラティも同様だったのだろうか。
……まあ、今度合い物を作ろう。もうすぐ暖かくなってくるし。
いいよ、なんてやや甘い会話をしながら、グリマルディーニに着いて、ブチャラティは
定例会議のために会議室に入って、アバッキオは、控え室で茶菓を振る舞われていた。自
分はちょっとそこのメイドと必要な情報交換をしたりして。１時間ほどの会議が終わって、
控え室に姿を見せたブチャラティは、もう、顔が強ばっていた。
……強ばっていたって、そんな、あのひとの顔がそんなに見分けが付くほどにもなじん
じゃいないんだが。
ジャポネの仮面劇のような、白い、整った小さな顔。笑ってみせるのは、大きな駆け引
きで必要な時で。いつもは、どんな悲惨な状況でも、どんな心ときめく瞬間でも、同じよ
うなとぼけた顔をしている。ギャングの身に不釣り合いな善行を行うときも、年若い女性
が知っていてはならない（と素朴なお育ちのアバッキオが信じている！）きわどいプレイ
を仕掛けてくるときも。
堂々としていて、物事に動じない、それはギャングのリーダーにふさわしい彼女の資質
なのだけれど。
そして、それ以来、彼女は彼を無視し続けている。
あからさまな叱責や罵倒は無いにしても、今までの温かな配慮も眼差しも、全てが消え
失せてしまってはその意味は明らかだ。
……なにか、やっちまったんだろうな、おれ。
アバッキオは自覚して、そして、参っている。
年下で、チームの先輩でもあるナランチャには、全て語るわけにはいかない、途中から
口を閉ざして自分の思考にはまりこむアバッキオに、根負けしてナランチャは立ち去った。
チェッ。
カルロ・タルティーニは舌打ちをして、そして、そんなことをしてしまった自分にまた
忌々しく思っていた。
子供の成長するのは早いものだ。ほんの去年までは、自分たちが目配りしてやって、下
に見ていた川の向こうの子供達のチームのメンバーが、今になっては生意気に、無視でき
ない筋を使って頼み事をしてくる。
……お願いしますよって言ってたわよ？
どこで尻尾を掴まれたのだろう。仕事には関わらせないできた女房が、朝、出がけにフー
ゴの名前を出してきた。
……なんだか、川の向こうの下町の子ですって？ リーダーが、彼氏と喧嘩しちゃって
大変なんですって。川の向こうって女のひとなの？ リーダー。
……アァ？
スーツの襟を両方引っ張って鏡を見ながら角度を確かめつつ、タルティーニは聞き返し
た。
……ああ、そうだ。おまえにまでそんな話を持ってくるなんて。
……はしっこいコだわね。
微笑んで応じて、ヘンリエッタはキスを求めてきた。それでは玄関先のこのちょっとい
い花は、フーゴの手みやげかも知れない。そんなことまでしてきたのだから、川向こうの
シマは相当大変なことになっているようだ。
……解ったよ。今夜は遅くなる。
……お願いね、若頭さん。
仕方なく、いろいろ考えた末にそのリーダー様をバーに誘っている。しかし、こういう
ことには慣れていないから、話のきっかけが掴めないままに、グラスだけが重なっていっ
ている。
「遠慮するな。……と言っても、口説いてるんじゃあねえ。おまえさんがザルだってこと
は解ってる。とりあえず俺の方の踏ん切りが付くまで適当にやってろ」
「ありがとうございます」
ブチャラティはありがたがりもせず、ごくごくふつうの顔で飲んでいる。全く酔いを見
せない幼い愛人に呆れて、ポルポが開発を命じたという彼女向けのオリジナル・カクテル
を、夏休みの小学生のような勢いで空けている。まったく空恐ろしい。
「話ってのは、そうだ。この前の会議のあと、おまえの様子が妙だったって、うちのもん
が言っててな。
……うちのメイドがなにか失礼なことをしたんだったら、と、その、社長が気にしてら
してな」
ブチャラティにとって無視できない筋、ということで、グリマルディーニの名前さえ出
してきて、口を割らせようとする。
「いえ」
話を振られた責任上、タルティーニも向いていないなりに調査はしてきた。
会議から戻ってきて、控え室にアバッキオに会いに行くまではふつうだった。それは、
タルティーニ自身が横にいたので見覚えがある。気がはやってか、ほんの少しの微笑みさ
え浮かべていた……！ この娘がこんな顔もするものかと思ったものだったのに！
控え室のドアの前で別れて、しばらく後、タルティーニがグリマルディーニの本部ビル
のエントランスで見送ったときには、もう顔が強ばっていた。そう、いつもの表情の乏し
い顔が、それと解るまでに！
「……そんな、なんでもないですよ」
女ギャングはしらをきった。
……そう来るだろうと思ったよ。
タルティーニは止まり木に背を丸めて、心中独語した。
……なんていっても猫だから。
撫でてやろうとしても身をかわす。いつも、ひとと違うものをぼんやり目で追っていて、
薄気味が悪いほどだ。
……盛りの時期が来たと思ったらこれだ。ああ、ああ、トンマーゾ、マルガリータ、なん
でこいつのことをほっぽって死んじったんだよ、おれには色恋のフォローは無理だぜ。
また、我知らず舌打ちをしてしまっていて、タルティーニは背をゆすって姿勢を正した。
「おまえ、まさか、あの男が浮気したとかそういうくだらねえことでおまえのところの坊
主どもに心配を掛けてるんじゃねえだろうな？」
「ハッ！ 浮気ですって？ タルティーニさん、いきなりなにを」
意外や、若き幹部候補生はかまかけに引っかかった。笑い飛ばそうとして、声がうわず
り、青い眼があやしいまでに瞬きをくりかえしている。
片や、タルティーニは、アバッキオの控えていた部屋に、新入りのメイドがうっかり置
き忘れた掃除道具を取りに入っていって、かなり長い時間出てこなかったことを掴んでい
て、ようやく引っかけたトラブルの原因を、容赦なく曝きに掛かっている。
「『ブチャラティの姐御』、恋しい男がメイドとちょっと話し込んでいただけでおまえさん
は目の色かえんのか？ そんなシャバい女だったのか、ポルポさんもお眼鏡違いだった
なァ？」と、かさに掛かって言ってのける。当のメイドは、ただの田舎くさい小娘、麦わ
らのような髪の。ブチャラティは光り輝くほどではないが、そこは間違っても美人の範疇
を外れることはないので、どう見てもブチャラティが負けることはない。
「違うッ！」
カウンターに手を叩きつけて、色をなしてブチャラティは立ち上がった。
「へえ？ 違うってか」
精一杯つめたい目をしてそのさまを見やって、タルティーニは間を取った。
「……失礼しました。
タルティーニさんや、グリマルディーニさんにまでご迷惑をお掛けするつもりは。
……フーゴがご相談に行きましたか？ 済みません」
すぐさま頭を冷やして、ブチャラティはうなだれた。
「そんな、顔に出てましたか？ そんなつもりはなかったんですが。
……あのとき、ドアを開けて入っていったとき、やつはおたくのメイドと話し込んでま
した。ええ、なんの話かは聞き取れませんでしたが。可愛いコでしたね、きれいというわ
けではないんですが、自然な笑顔でした。やつも、ほんの少しですが、顔を綻ばせていて。
いつもは今にも死にそうな顔をしているのに、恥ずかしそうな、嬉しそうな顔をしてい
て。
わたしには見せたことのない顔だったので。
なんというか、負けたような気がして
……すみません。こんな下らない話にお付き合いしていただいて」
堰を切ったら、一気だった。ポルポの猫と呼ばれたできのいい幹部候補生が、心細げに
恋の悩みを打ち明けている。
目で合図をするより先に、バーテンダーがお代わりを準備していた。
「あァ、くだらねェ話だ」
タルティーニは手を伸ばして、天国にいるはずのトンマーゾやマルガリータの代わりに、
ブチャラティの編み込みをした頭頂部を押さえつけて、止まり木にまた腰を掛けさせた。
「なにくだらねえこと言ってるんだ、その他大勢が知らねえようなイイ顔毎晩拝んでるく
せに。バカ野郎、ポルポさんには黙っておくからな、社長にもご心配かけるんじゃねえ」
柄でもないのは承知の上だ。タルティーニは早口に言って、自分もマティーニをあおっ
た。
「すみません」
「面白がっておいでかも知れねえがな」
ブチャラティは黙ってカクテルを味わっている。おや、これはノン・アルコールのよう
だ。柑橘系のフルーツ・ジュースの混合。仔猫ちゃんとでも言う名前だっただろうか。眼
を上げてなじみのバーテンダーを探すと、唇を少し歪めて見せた。まだおまえさんは、こん
なものの似合う仔猫ちゃんなんだぜと言わんばかりに。
みっともない告白を、聞かれただろうか、また、頭が上がらなくなってしまったとブチャ
ラティは自己嫌悪がこみ上げる。
「ほんと、くだらねえ、今この時にもコリオリのがここのシマを狙ってるってのに」
タルティーニが、肩の荷を下ろしてことさらにオトナぶって言うのにも、ブチャラティ
は気づかない。
「気をつけます」
「出入りはおまえらでやれよ？ うちはそんなに兵隊出せねえぞ？」と、かさに掛かって、
若頭は肩をそびやかす。
「はい」
と、あまりにもしおらしいのに毒気を抜かれて、タルティーニは口を滑らせる。
「………………なんだ、あのな、ここにしか行き場がねえ、ここでボスやリーダーのため
に命を張るしかねえって鉄砲玉も、組織には必要だがな？」
言いにくそうに、タルティーニは間を取って言った。
「はい？」
「守るもんがあって、どうしてもここは引けねえってやつも、それはそれなりに使えるっ
て、社長は仰ってらしたよ。しごとが丁寧になるからってよ。
……おれが女房を兄貴のところから連れ出したときに、そう言って、笑って下すったよ。
おまえさんは、もとから丁寧なクチだったがな、いっそう、丁寧に、上手に立ち回るよ
うになる、それでいいんじゃねえの？」
「はい、ありがとうございます！」
半べそにしょぼくれていた猫は、伸び上がって、いつものような凛々しい笑みを見せた。
いいや、あからさまに笑ってはいないけれど。
「チェックしてくれ。おい、勘定はブチャラティんとこのぼくちゃんに回してくれ」
「タルティーニさん、いくらなんでも未成年に勘定回すなんてことできませんや」
不敵な会計係が鼻を鳴らして見せた。
「チェッ、言ってみただけだ。
ブチャラティ！ みっともねえ真似してんなッ！」
名残惜しげに立ったまま残りのカクテルを一気飲みしていたブチャラティは、照れ隠し
に叱られた。
ブチャラティがへそを曲げていた理由が判って肩の荷を下ろしたのは周囲だけの話で。
本人はそれを自覚しても、事実を把握してなお居直ってしまって、わたしというものが
ありながら、とか、わたしではだめなのか、などとブツブツ言いながら家路をたどってい
た。かなり飲んでいても、尾行よけに歩道をランダムに渡って歩く側を変えたり、行き止
まりに入って様子を窺って、また戻ったりを忘れないのは天晴れなことである。
そうして、自分の部屋の前にたどり着いたときに、闇の中から人影が現れた。
「……遅かったな」
彼女の愛しい情人が、暗い目をして待ちくたびれていた。
「野暮用だ。チームを任されているんだ、ちょっとした打ち合わせとか、あるんだ、いろ
いろ」
今日は自分の部屋に行っていろと命じた筈なのに。「飼い主」の機嫌を損ねていること
は察して、それなりに機嫌を取りに来たというわけか、と、その顔を見て嬉しいはずなの
にブチャラティはふて腐れる。
……おまえの恋人はわたしなんだぞ。
タルティーニなんかに口出しされる羽目になるとは。
八つ当たりがこみ上げる。
表情は一層凍り付き、無言のままにドアの鍵を開け、ブチャラティは部屋に足を踏み入
れた。アバッキオも従う。
「入るな」
短く、ブチャラティは言い捨てた。
「え？」
「何の用だ？」
向き直ると、冷ややかに、問いただした。
「自分の部屋に帰ってろと言った筈だ。なにか用でもあるのか？」
用って。
今までは、一晩も離れるのを嫌がっていたのに。体調のせいでだめなときも、すまながっ
て、でも多少は照れくさそうに、そして、もしも是非にというならといくらでも彼のため
には譲歩してみせたのに。
「用、用はないといえばないが、あるといえばあるッ」
汗をかいて、アバッキオは追いすがってきた。
「ナンセンス」
ブチャラティは、切り捨てると背を向けた。毎晩、知る限りのテクを駆使して愉しませ
てやってきたというのに。なにが不満だというのだろう。いや、この理想の高い男には、
全てが不満で自分にふさわしくないものかも知れないが。ブチャラティはもう、自分の中
の憤りを御しかねている。スタンド能力者たる彼女の情人には、それが視（み）えている
のだろうか、狼狽えて、いっそう言葉を詰まらせる。
「ハッ、毎晩愉しませてやってたからな、３日お預けをくったらもう我慢できなくなった
のか、サルかおまえは」
彼の残酷な支配者は手厳しく挑発した。返す刀で自分をも傷つけているのには無頓着に。
「ブ……フロラッ」
言葉に詰まった彼は、実力行使に出た。肩を突いて身体の向きを変えさせると、そのま
ま抱き上げて大股に奥へと進む。ベッドルームへ。
そのまま目的の場所へ投げおとして、体勢を整える間を与えず、のし掛かる。
青い眼は動じずに彼を見上げていた。
噛みつくようなキスで言葉を封じ、烈しさで情熱の深さを伝えようと手は髪をかき乱し、
頬を、首筋をかき撫でる。
が、彼女からの反応はなかった。
確かめようと目を向けると、目蓋さえ開いたままで、彼のなすわざを冷静に検分してい
るようだった。
完全に拒むでもなく、唇は少し開いて舌の侵入を妨げはしないけれども、どうぞご自由
に、と、彼女の雄弁な器官は冷たくニュートラル・コーナーに落ち着いていて、応えては
来ないのだった。
……やはり、いつもとは違う。
アバッキオは焦りながらも、次のステージに進むことにした。
胸元をくつろげる。レースを傷めないように気をつけながらインナーをめくり上げて。
現れるのは、本人は大きさを気にしているが、べつに小さすぎるということはない、引力
に負けておらずかえってきれいな乳房だ。
いつもはあんまり執着を見せないでいる、やっぱり男はおっぱいが好きだとか面白くな
さそうなもの言いをするので。
でもやっぱり触れてみたい。母性の象徴だし。それに関係なく、柔らかくてすべすべし
たものは誰だって好きだろう。その中心にそっと触れれば、女の方だって官能を導かれる
はずだ。
……筈なんだけど。
息も乱さずに、ブチャラティは身を固くしていた。
「あとは？」
冷たい声がして、彼女は脚を立てた。腰を少し浮かすと、自分で最後の一枚を膝まで下
ろして、曲げた脚を抱え込むようにして、冷たく乾いたその部分を見せつけた。
「こっちもいじってみるか？」
荒んだ声だ、とアバッキオは感じた。男というものを見下した、これから起こることに
夢を全く抱いていない乾いた感性を、ブチャラティに見た。
……おれに興味を失ってしまったのか。
自省的な男は、そこまで短絡した。絶望は彼にとって親しい友だ。呼ばれてすぐに駆け
つけ、彼の心にたやすく入り込んで支配した。
「それで？」
冷ややかな青い瞳が、動きを止めてしまった彼を見上げていた。
レオーネ・アバッキオは自他共に認めるハンサム・ガイである。幼い頃から、女にはま
とわりつかれるもので、その手を振り切る苦労しかしてこなかった。
初めて愛しいと思う女性ができた今日この頃にしても、彼女の方から惚れ込んで、彼を
家に連れ込んだのだ。最初はほぼ同意のない行為だった。それ以降だって、男に身体を自
由にされることを許さない彼女は、自分が主導権を握ってことを行ってきた。
ということは。
まるっきり、自分に興味を持っていない、その気になっていない状態の女には、全く手
が出ないのだ。
無理強いするようなことは、もて男のプライドというより、ごくごく真っ正直な田舎者
の良心が許さない。
無言の対峙のあと、欲望の中心がうなだれるのと相似形に彼自身も首を垂れて、黙って
ベッドから下りた。
「何も。……おれに出来ることは何もない」
黙って身支度をすると、声を掛けて去った。
「おやすみ」
「……」
ブチャラティは、言葉を返さなかった。
彼は感知していなかったが、彼女のスタンドがひっそりとその背後に控えていて、無理
に押し入ろうとした瞬間、「狼藉者」の首を切り落とすべく９９％の臨戦態勢で身構えて
いた。
……タルティーニはもう大丈夫って言ってましたけど。
……なにがだよ？ より悪くなってるじゃねーか。あてんなんねーなあのヒト！
……男女の喧嘩は夜を迎えると一発で収まるって言ってましたけどねェ、いいえ、あの
ひとじゃなく、男女間に聡いヒトが。
……ああ、山の手の？ あのオッサンそういう訳知りなとこあったよなァ。
……困りましたねえ。ぼくなりに最上の手を打ったつもりだったんですけど。
翌朝になって、アジトでは内緒話が続いている。もう、一触即発の雰囲気が、少年達に
は耐え難いストレスになっている。そして、浄（きよ）い少年達のことだから、男女が仲
良く（？）ベッドに入って、さらに険悪になってしまうことがあろうとは思いもよらない。
「済まねえ……」
料理だけが虚しく豪華になっていった。
その店を選んだのは、ほんの偶然。彼は店の名前までは覚えていなかった。ただ、しつ
らえのどこかが彼の心に安らぎを与えるだけのことで。「ディドロの店」と、看板にはた
だ書いてあった。それは、彼が荒れた日々を送っていた頃、「最後」に迷惑を掛けた店。
そして、ネアポリスの旧市街、川のこちら側の下町の繁華街で、「彼」のものでない店
は少なかった。
「あァ？ また来てるのかよ。一人で？ そんでなんか様子おかしいって？ やりやがっ
たかな、フロラの奴。まあ、もう二月三月となりゃ、喧嘩の一つや二つもしようってもん
だ、そうでなきゃおかしいって。
おう、奴に飲ませてやんな、どうせ勘定はあいつ持ちだろ？ いつもあいつに出すよう
にしてやんな」
ブチャラティの幼なじみを自任する遊び人の若社長が、報告を受けて人の悪い笑みを浮
かべた。
「社長？」
「ああ、『ブチャラティさんのお好み』で」
心得た店長が退出すると、そのプラチナブロンドのいい男に、銀の盆が恭しく供された。
今まで瓶のまま出されていた、気軽にがぶ飲みするクラスの白ワインが、しゃれたカラ
フェに入って。
「なんだ？」
「『アバッキオさん』にお出しするならこのようにと。社長のご指示で。
『ブチャラティさんのお好み』だ」
「洒落めいたことしなくってもいいさ。なんだ、その水差しは？」
「この方が、気持よく酔えるんだってさ。……女だもんよ」
「彼女はいっしょじゃねえんだ、いいよ、気を使わなくても」
アバッキオは居心地悪そうな顔になる。昨日の今日で、ブチャラティのところへしらふ
では顔を出せないのだ。
「まあ、やってみろって」
何気ない、しかし逆らえない態度で店長は彼に新しい飲み物を勧めた。
「ありがとうよ」
アバッキオは、手酌でその酒を飲み干した。ほんの少し、トパーズがかった色、心なし
か、さっきより色が淡く見える。ブチャラティの好みと言うことで、もしかして、少しな
にかで割ってあるのかも知れない。なかなか酔った様子を見せない酒に強い女性だが、隙
を見せないためにいろいろ裏で小細工をしているのかも知れない。そういうところも、見
せて貰っていない。頼って貰っていない。昨夜は完全に拒まれてしまった！
……考えてゆくと、どんどん自分の至らなさが２人の間に溝を作っているように思える。
彼女を護ってやってくれと言われているのに。彼女の心の安らぎにならなくてはならない
と思うのに。自分はへまをやって、彼女に負担を掛けるばかりだ、情けない自分、男らし
さを見せてやれない自分。
嗚呼、待たせてはいけない、男らしく立っていって、彼女を今夜こそ愉しませてやらな
くてはいけないのに！ どうにも踏ん切りが付かないでいる。
アバッキオはまた自虐のループにはまりこんでいった。
……なぜだか今日は酒が回る……。
たいして時をおかずに眠り込んでしまったのを、社長が確認に来た。
「どうだ、効いたか？」
「それは。なにせスピリタスで割ってありますから」
店長が恭しくカラフェを下げる。
「こんなのをくいくい開けるんだからフロラは恐ろしい奴だぜ……。まあ、同程度にザル
でも面白かったんだがな。まあ、恋しいライオンさんを逃がしちゃフロラに泣かれるから
な、さて、連絡を入れろ、またすっ飛んで拾いに来るぜ。
……あいつの泣き顔もおがんでやりてえなあ、いっぺんぐらいは」
「社長……」
連絡を受けて文字通り飛んできたブチャラティは、ディドロの店で、眠り込んでいる白
いライオンを見つけた。
「おい、……おい起きろ」
それでも、顔はいつものとぼけた顔だった。声を掛けて、大きな背に手を掛けて揺すぶっ
た。
「フロラ……すまねえ。
おれは、あんたの側しか居場所がねえんだよ、いさせてくれよ」
そればかりを頭の中に思い描いていたように、言葉が漏れ出た。
「なにを自分ばかりが地獄のような顔をしているんだ」
この世の苦悩を全て背負った、神話の巨人のような顔をして。
……泣きたいのはこちらだというのに。
ふと、意図していない言葉が浮かんできて、慌ててブチャラティは左の手で口元を押さ
えた。
……ああ、でも、よかった。
今まで感じたことのない、温かい気持ち、信じられない惑乱、狂おしい想い、いろんな
気持ちを味わわせてくれて。恥までかいて。自分でも認めがたいことだけれど、この男が
あっての新しい自分だ。それは、今まで自分が目指そうとしていたものとは違うけれど、
否定して排除すべきものとも思えない。
……やっぱり、この手の中にいて欲しい。
酔いつぶれた男は、ころりとブチャラティの腕の中に収まった。
「ラウル、借りておくぞ」
「ハハッ、たまには２人で飲みに来いよ。夜が燃えるカクテル用意しておくぜ」
「要らん。ディドロさん、どうも迷惑掛けて。ありがとう」
ネアポリスの下町の女神は、想いびとを軽々持ち上げて、自分のフラットへ連れ帰った。
そう、彼らにとって最初の夜のように。
翌朝、あの朝のように、深い眠りから目覚めた彼は、知らないうちに恋人の機嫌が直っ
ているのを知った。そこは、女きょうだいが多く、彼女たちの男には理解できない論理で
イロイロ振りまわされてきた身なので、なにかが彼女の中でうまくおさまったのだと感じ
取ることはできたものの、いよいよ聖ヴァレンティヌスの日には思いの丈を示さねばなら
ないと精神的重圧を感じるようになった。
１４−０２−１２
おまけ。
若頭の「尋問」に、当のメイドはおっとりと答えた。
「ええ！ あの下町の、……アバッキオさん！
彼女さんに、聖ヴァレンティヌスの日のためにカードを買いたいんだけれど、こっちの
方でいいお店はないかってお尋ねで。シマの方だと、寄ってたかってみんなが煩いからっ
て。ご予算とお好みをお尋ねして、知ってるところを教えて差し上げましたけど？
ほんと、照れくさそうに、でも幸せそうで、目の保養でしたぁ！」
蛇足。
……それではじめてのヴァレンタインは神経性胃炎になったんだな。
＞川向こうの会議についてったアバッキオがブチャラティが会議終わって出てきたらグ
リマルディーニのメイドさんと延々話し込んでたのが気に入らないとかいって３日もアバッ
キオのこと無視したおしてアバッキオが見てらんねーほど焦りまくったりとか（ｃｆ．Ｂｕｏｎ
Ｎａｔａｌｅ！）
やっと回収できました。力技でヴァレンタインに絡めて、ギリギリセーフ？
久々にシリーズを最初から読み返してみたら、タルティーニの性格が最初（「神様の思し
召し」＠アレッシーモード）と最後（「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」）でかなり
違う！ これはデレはじめる頃だと思ってください。女房いることにしちゃったしな。ど
うも川向こうもみんなお人好しだなあ。パッショーネのネアポリス支部、大丈夫？
カクテルについて調べてたら、「ブルー・ヘイズ」ってのありました。
ウオトカ・ベースで。コアントローとか、ベルモットとか入ったカンジなので、柑橘系
なのかと思いますが、ここは紫色になるリキュール入れて貰って、ミントを効かせて「パー
プル・ヘイズ」を作ってもらいましょう、どっかのジョジョ・バーに。もうあったらごめん
なさいよって、あったよ〜！ レシピはどういうのか解らないけど。グーグル恐るべし。
とうとう書いちゃった怒ったブチャのマグロ・モード。これはもう誰もどうもできない
でしょう……でも、そこで強引に行けないアバに少し萌えたと思うよ。