セカンド・インパクト
１
なんとかブチャラティと同じクラスになれて、もうそれだけでほくほくの２年生、Ａ組
の入り口を入ると、新学期の慣例で出席順に指定されているおれの席は一番右の一番前だっ
た。五十音順だからね。まあ、親父に言わせるとアルファベットでもだいたいは一番だそ
うだけどど。小学校は生まれ順でビリだったから、中学に入ったときにはちょっとびびっ
た。
超法規的措置で特進クラスに編入だから、かえって端の席で良かった。目立たないよう
に席に着くと、しばらくして、背をつつかれた。
「ヨロシク、編入生。ほぼ同姓同名のよしみで」
眼鏡を掛けた、はしっこそうなやつが２番だった。黒髪に黒い目。とりあえずは日本人
に見えた。
「同姓同名？」
「ぼく阿部獅王。獅は獅子の上の字。やっぱレオーネってそれでしょ？ ジャングル大帝」
窺うように口の端を上げる。
「ディズニーのあれってそういう名前だっけ？」
「手塚の方。あれ白ライオンだよ」
にんまり笑われて、情けない気持ちになる。幼い頃から親戚や近所のオバチャン連中が
レオちゃんレオちゃんと呼んできた理由がやっと分かった。おかげで幼なじみ達はみんな
レオちゃん呼びだ。
「うちの親も頑張った方だけどね。まんまレオーネには負けるって。
帰化しないの？」
「親父は仕事の拠点まだ向こうにあるし」
自分はどうしようか。あねきたちは普通に日本で結婚して（できたら！）日本国籍を取
るつもりみたいだ。視線が自然と教室の窓際へさまよう。ブチャラティは五十音順なら最
後の方だ。あいつの意向も聞かないと……って、もう、おれの未来はブチャラティと切り
離しては考えられない。いいんだよな、嫁内定者だし。
「って自然に嫁の方見ない！」
いきなり言われて飛び上がる。
「なんで知っとる！？」
「え？ もう婚約してんの？ 早くない？」
阿部は自分で言っておいて眼を丸くした。
「いや、そんな、もう挨拶には行ったけど正式には１８になってから」と、もぞもぞ言い
訳してしまう。正月明けに、親父と入院中の向こうの親父さんに会いに行って、頭を下げ
てきた。学校も、学期末の三者面談には親父が出張ってきて、向こうもタコさんが病気で
複雑なので、何かあったらこちらが引き受けますからと真面目な顔を作って打ち合わせて
いた。このまま様子を見て、正式には１８になったら婚約させますから、早まったことは
させないようこちらも気をつけてみているけど、学校の方でも目に余るようだったら先生
方も遠慮なくご指導よろしくお願いしますって。大きな手はギリギリとこっちの頭を掴ん
で机にくっつくぐらいに押し下げていた。
「へー、ふーん」
ブチャラティは、なんでそんな早まるんだなんて言いながら嬉しそうだった。おまえが
いろいろ早まるからこっちがちゃんとしなくちゃイカンという気になるのだというのに。
もっとドキドキしろよなんていいながらもうヴァレンタインはすっごく機嫌良くチョコレー
トを用意してくれた。純日本産でもイタリアーノとしては、ヴァレンタインには本気の相
手には気合いを入れたカードとお取り寄せのチョコレートをプレゼントしたんだけど。い
やもう家族総出でやいのやいの言われて。学校でもちょっとした騒ぎになってもう公認カッ
プルになって。それで日本の高校生としてホワイトデーもちゃんとやったから、なんかブ
チャラティが済まなそうに、
「おまえ、広告業界に踊らされてないか？」と言った。貰ったものはしっかり掴んだまま
離さなかったが。
「注意しろよ、あんまりお幸せだと嫉妬されるぜ、みんなに」
ぽん、ぽんと背を叩かれて、言われた内容にぎょっとしていると担任教師が入ってきて、
第１回目のホームルームが始まった。
レオ２号は即決で委員長だった。いや、クラスの皆にとってはおれの方が２号なのかも
知れなかった。
２
春は北国の方が派手だ。
普通の所だと絵巻のように梅から水仙、沈丁花にたんぽぽとリレーのように咲く花が順
序だっているんだろうけど、雪に埋もれていた新都では、４月になってからやっと急ぎ足
で押し合いへし合いしながらみんな一緒に咲き乱れる。３月なんて、雪が降らなくなるだ
けで、足元は悪いし、全然春なんて感じはしない。４月、全ては４月になってから！
市の南東の丘陵地にキャンパスを定めた学園の創始者に感謝だ、と、高等部の正門脇か
らちょっと入った道路沿いの桜並木のところに、放課後２人して坐り込んで花見をしなが
らしみじみした。この並木は、春になると学内カップルが丁度話し声の届かない距離で等
間隔に場所を取るというので隠れ風物詩だったりするらしい。横を通る国道のバスの車窓
からは見下ろせるので、南東部の市民は春の訪れを学園の花見カップルの密度で知るのだ
そうだ。どういうふうに場所取りされて等間隔に落ち着くのかを調べに毎年公立の方の新
都大の社会学の教授がフィールドワークに来るという都市伝説さえある。
そんなようなことを、つっかえつっかえおれの嫁内定者に言ってやると、この大物な女
子高校生は、
「そうなのか？」と目を瞬かせた。
おれは胸を突かれた。ブチャラティは一般的な日本の春がどういったものかを知らない。
そりゃあ、普通にＴＶは見ているだろうし、本もイロイロおれなんかよりよっぽど読んで
いるから常識はあるだろうけれど、彼女の知るのはここ新都の春だけなのだ。
おれはそっと手を伸ばして、ブチャラティの頭を撫でた。
「記憶喪失の人間が記憶を回復するとどうなるか知っているか？」
ぼんやりと花の雲を見上げながら、お猫様はいつも唐突だ。
「ええと……話には聞くけど。記憶を失ってた間のことを忘れちまってるんだろ？ 逆に」
「まあ、そうらしい。……正確にその筋に問い合わせてみた訳じゃないが」
「配線が変わったカンジかな。今度はそっちの線が死に線になるのかな」
単にいつもの興味の赴くままのとりとめもない話だと思って注意を切りかけると、お猫
様は爆弾発言をした。
「わたしも記憶喪失らしいんだが」
なんと応えるべきか、真剣に迷った。その表情を読んで、お猫様も言葉を探して間を取っ
た。
「……フーゴ辺りからか聞いてるかと思った」
とぼけた顔には、桜の下で、翳りが落ちていた。
「あ、フーゴじゃないけど一応。おまえ有名人だから……噂話の線で押さえておけばいいん
だったらそういうことで聞かなくてもいいけど、本人がホントの所聞かせてくれるなら……
辛くないか？」
「そういう感覚はないが……おまえの方が、聞いていてどうかな？」
らしくなく視線を外してうつむくから、また手を動かしてそのおかっぱの頭をそうっと
撫でてやった。
「親父さん、亡くしてるんだってな？」
スタート地点を決めてやると、少し深く息を吸って、話し始めた。
「記憶喪失といっても、頭を打ったとかじゃない。ショックで封印しているんだと思う。
こっちに観光で来ていて、事件に巻き込まれたんだ。父は殺されたらしい。気がついた
らあのマンションにいて、オッサン……ポルポやナランチャやフーゴと暮してた。ポルポっ
てのはあだ名で、こっちのひとなんだ、本名は多胡信義っていう。向こうに観光に行った
ときに時化で難儀してたのをうちの父が助けてやったとかで縁ができて。タコはイタリア
語でポルポだからって、わたしの父が言ったんだって、そんなこと、言われても、全然知
らなかった。向こうに問い合わせたら、出るときわたしがタコさんに会いに行くって言っ
てたって。それで裏が取れて引き取られることになって……
ああそうか、なんだかそんなこと言って笑ってたな、あれが引き取られるときだったの
か、そうか」
自分で言って、自分で肯いている。おれはただ見守っていた。
「思い出そうとすると、医者や養父（ちち）は無理をしない方がいいって止めるから、そ
のうち思い出そうということもしなくなって。
イタリア語ももう話せない。自分がどこで生まれて、どう育ったのか、母親はどんなひ
とだったのか、全く覚えていない、知らないんだ。
……こういう人間でも、おまえはいいのか？」
「だって、しょうがないだろ」
おれは、いっそう手に力を込めて、しかしそれはブチャラティの身体には重くは伝わら
ないようギリギリのところで加減して頭を撫でてやる。ただ、大事にしたい、愛しいとい
う気持ちだけが伝わればいいのに。
「そういうおまえだから、おれのこと、構ってくれたんだろ？ じゃあ、好きになるしか
ないじゃないか。好きなんだよ、今のおまえが」
イタリア語でしゃべって、スカートを穿いて屈託なく笑うブチャラティなんか知らない。
今の、スラックスなんかひとりで穿いて、ちょっと引いて皆を観察している、小癪で大
物なブチャラティがいい。
ブチャラティは眼を上げて、
「へんなやつだ」とほんの少し笑った。
しょうがないから、少しはいいことも言ってやろうと頭を絞って、
「もしそんなことになっても、おまえはもううちの子なんだから……」と言いさすと、ブ
チャラティは目を落として、
「おまえのことも、忘れてしまうかも知れない」と被せた。
……忘れる？ ブチャラティがおれを？ そして他の誰かを好きになるんだろうか。
風が出てきた。やっと、制服の上に一枚着てこなくても良くなった背に、吹き付けてき
た。花曇りはいやな感じに冷えてきた。
「……そんなことになっても、大丈夫、大好きなあねきが、もう１人できるだけの話だよ。
もし、他の誰かを好きになったとしても、うちから嫁に行くんだ。うちの子なんだから」
おれは急に遠く見えたブチャラティの肩に手を伸ばして引き寄せて、おれの胸にその額
をぶつけるようにして頭を抱いた。
考えすぎのお猫様が、抗っていつものようにまた身を翻して、そうしてけろりと話を忘
れてしまってくれるように。
ブチャラティはそのまま、顔を埋めていた。
「……なんだってそんなバカな」
大きく息を吐くと、顔を上げた。
「あねきって。どうしてそこでもう一度恋に落ちるとか忘れるなんて絶対ありえないとか
言えないんだ」
……あ、外した。
ひやりとする間にブチャラティは表情を変えていた。
挑むような、獲物を前にした猫の目になっている。
「絶対忘れられないように身体に刻み込むというのはどうだ？」
呆けているおれの胸を突いて木に押しつけるとぐっと身を寄せて囁いてきた。
うわーッ、キターッ、お猫様それはダメーッ！
「えーと、先生びっくりするからそれ以上は自分のうちへ行ってやって貰えないかな、ブ
チャラティ」
咳払いが聞こえて、おれは慌てて姿勢を正した。数学者仕様ムーミンと陰で呼ばれる数
学βの担任教師が立っていた。この先のサッカー部の部室を覗くつもりらしい。顧問だか
ら。
「はいーッ」
「ここはうちの学校の公認いちゃつきポイントだってコイツが言ってましたよ、イシダ先
生」
ブチャラティは平然としている。ああ、その落ち着きを分けて。
「うーん、男女のは見慣れてるんだけどねー。遠目だとねー。おまえさんスラックス穿い
てるからねー」
男子生徒同士のラヴシーンと思われたと知って、さらにおれは顔に血が上った。郊外路
線とはいえ、ここは県道なので一応車通りは多いのだ。
「時代は動いているんです、先生。でもまあ、そろそろ風も出てきたし。帰ります。
レオーネ」
「お、おう。失礼します！」
立ち上がって一礼する。
「お墨付きが出たぞ。うちでなら良いそうだ」
お猫様は声を低めもせずに言った。
「違ーう！」
慌てて振り返ったが、大きな顔のマセマティック・ムーミンはにこにこと手を振って見
送ってくれていた。
「アバッキオ、コンドームなら大学生協に置いてるからな。制服着てても買えるぞ」
「先生ッ！ ぐえッ……」
振り向いて叫んだら、お猫様に襟首をひっつかまれた。
３
雨の多い年だった。露伴先輩が卒業して、美術準備室へは行けなくなったから、おれた
ちは行き場を失った。ブチャラティには菜種梅雨って言葉を教えてもらった。しかしその
日は氷雨といってもいいほどで、屋上への出口で溜め息を吐いたらそれが白く見えて、お
れは申し訳なくなった。
「教室で喰おう。べつに一緒じゃなくてもいいだろ」
「ああ、うん」
ブチャラティは異論も挟まずについてきた。と、教室に入ってすぐのおれの机におれが
弁当箱を置くと、
「空いてるじゃないか」と、隣の席に腰を掛けた。ががっと容赦なく机を寄せる。
「えっちょっと、それはまずいって」
おれが焦りまくると、お猫様は、
「なにが？ さっさと寄越せ」と、いつもの調子で弁当を催促した。
「べつに付き合ってるとばれたら退学になるって訳じゃない。って言うかもうばれてるし。
ばらしたのはおまえの方だろ」
「おれじゃない！ うちの親！」
「親に紹介したのはおまえだ。わたしの方から紹介してくれってせっついたんじゃない」
お猫様、今日はなにが気に障ったのかいじめっ子モードだ。おれはどんどん抑えていた
声が大きくなる。
「だって！ クリスマスだし！ おまえ弟さんとかいて事情複雑だからと思って！」
「ああ、余計なお世話だ……腹減ってるんだが」
お猫様の方は、いつものとぼけた顔に、穏やかな低い声を外していない。
「わたしは一緒に食べたいんだ。いけないか？」ってお猫様、真顔でそんなことッ！
心臓を押さえておれは弁当をブチャラティに押しやった。
「どうぞ召し上がれ！」
「いただきます」
露伴先輩が買ってくれた向山塗りの弁当箱は有り難く食器棚の肥やしになって、ブチャ
ラティの分はおれが買ったシンプルなプラスティックの弁当箱に詰めている。今日は鮭の
ホイル焼き。気に入るかな？ と蓋を取って１，２分は、毎日心臓が地味にバクバク言っ
ている。
「ねえそれ、レオちゃん持ってきてあげてるの？」
後ろの席から、阿部が伸び上がって覗き込んできた。
「えッ、あ、ああ……ついでだから」
「やっぱり同じイタリア系だと味付けの好みが合うんだ」
ブチャラティはそれだけ言って、飾り切りしたゆで卵には眼もくれないでホイルを開き
にかかっている。露骨に顔が輝く。ああ、ホントに猫。魚だとご機嫌で。
……お猫様ったらウソツキ。味付けがどうなんて、言ったことない。一番喜んで食べた
のブリ照りだったくせに。イタリア系だって事、意識していたとは知らなかった。
「うわ、凝ってるね。人参もお花で」
阿部が細かく中身をチェックしていた。
「え？ あ、そうだな」
ブチャラティは口に入ればいい方なので、ほんとにそういう小細工はスルーだ。誰かが
気がついてくれたのは嬉しいが、この場では微妙。ああ、ハートにしなくて良かった！
「レオちゃんのお母さん気合い入ってるねー親孝行しなきゃ」
「あ、ああッ」
ブチャラティが余計なことを言わないようにおれは必死で目で合図を送る……。
「切り落とした分が無駄だろ。次からはいいぞ」
ああ、そんな努力を無にすることを。
「余計な手間を掛けるな。帰宅部でも特進はきついぞ。早起きなんかして。睡眠時間を余
計なことに取られるんじゃない
……これってサツマイモ？ なんでこんな……きれいだ」
容赦なく話していたブチャラティの声音が変わった。きれいなオレンジ色になったサツ
マイモの輪切りをデザートというか箸休めに入れておいた。いや、ヴィタミンＣとか食物
繊維もちゃんと期待して。
「ああ、オレンジジュースで煮るのもあるって」
「美味しい！ この前のよりこっちがいい。これまた入れてくれ」
「ああ。いいよ」と、うっかり返事をしてから気がついた。
「なに、もしかして作ってるのもレオちゃんなの？」
「違ッ！」
ばっと背を伸ばして阿部の方を振り返って叫んでみたけれど、そんな反応を示してしま
えば、吐いたも同然だった。
「ああ。まんまと餌付けられちゃって」
ブチャラティはそう答えて、平然と弁当を食べ続けていた。
「そりゃ反則だろ」
阿部が笑って前を向くよう肩を押してくれたので、おれはもう食べるのに専念した。
「デザート……」
催促されて、保冷剤でガードした密閉容器を出す。オレンジとキウイを輪切りにして互
い違いに並べた盛り合わせ。隙間にイチゴ入れて。我ながらご苦労。
「うわー豪華！」
さらに寄ってきたのはその後ろの井上さんだった。
「だって、やっぱ女の子は美容にヴィタミンＣ……」
小さくなりながら説明すると、
「アバッキオくん解ってる！」
周囲は黒山になっていっていた。
「美味しかった！ ごちそうさま」
おれはどこに入ったのかわからない昼だったが。その日から、教室でブチャラティと並ん
で食べることができるようになったのは幸いだった。席が近いから、ちょっとした質問なん
かは阿部にするようになると、なんでわたしに聞かないんだってブチャラティがむくれて。
説明の仕方が違うと言ってブチャラティと阿部がおれを挟んで言い争いをしたり。クラ
スの人達も、遠慮なく冷やかしてくるようになって、なんだかとけ込めたような気になっ
てきた。阿部のおかげだろうか、と、少し感謝するようになってた。
４
「レオちゃん手伝って。部活ないからヒマなんでしょ？」
連休明けの放課後、ちょっと残っていたら、体育祭のパンフレットになる予定の色画用
紙の束を抱えて教室に帰ってきた阿部が声を掛けてきた。
「おう」
今はコピー機も高性能だから、両面印刷にした色画用紙を地図のように屏風畳みにして
おしまい。当日一日保てばいいパンフだから、無駄に金を掛けたりはしない。
「去年は岸辺先輩がいたから無駄に豪華だったんだけどね」と、表紙になるページを見て
阿部が言った。今年は今風の美少女絵だ。
「ああ、ミュシャ風の唐草だったな」
勝利の女神の掲げた月桂冠から伸びた枝が見事に表紙一面を飾っていた。
「一昨年はマグリットのパロディだったって。荒海の上を飛んでる鳥の形がシルエットに
なってる奴。
ああいうシュルレアリスムの方向が、性格的にもテクニック的にもあの先輩には向いて
ると思うんだけど、ここは保守的な街だから。でもただの風景画なんて絶対描かないし。
……そういう意味では苦労するかもね。
もうさんざんもったいを付けて、締め切りの一週間後ぐらいまでかかるんだけど毎年凄
くって、ファンの父兄が持って帰ってコレクションしてたとかで」
「あのひと凄いよな」
言ってることが半分も解らなかったので、短く相槌を打っておいた。
「その分今年は大学の学園祭パンフが楽しみとか」
「ナルホド」
エスカレーター式の大学には芸術系の学部はなかったのにと思ってると、
「学科は経営だって」と適切なフォローがあった。
携帯が鳴ったので検めると、ブチャラティからだった。先に出たが、あとですぐ追いつ
くと言っておいたので不審に思ったらしかった。
「ごめん」
阿部に断って、委員長の仕事手伝ってる、と打って送った。済んだらすぐ行くと。
真面目が二人して手を動かしていると、画用紙の束はすぐにパンフレットになった。阿
部はそれを教壇の脇のキャビネットの上に置いて、コーヒーでも奢るから、と１階の自動
販売機コーナーへ誘ってくれた。
やはり同じようにパンフ作りのために１年の女子が２，３人残っていたようで、おれ達
の１メートルほども後から同じ方向に歩いてきた。１年と判るのはジャケットの胸のエン
ブレムの下のリボンの色だ。３学年を赤と黄色と緑で回しているらしい。
「先にどうぞ」
顎で自販機を指すと、女子たちは齧歯類のように小さく固まって、こしょこしょ言いな
がら伸び上がって銘柄を確かめて、おのおのペットボトルを買っていった。
「アバッキオ先輩？」
２，３歩行ったところで、ひとり勇者が振り向いておれの名を確認してきた。
「ああ？」
「ありがとうございました、失礼しまーす」
あとは３人して脱兎の如し。つい癖で無意識に手を肩のところまで挙げて横に振ってやっ
ていた。
こちらは慣れている。もてるって言っても、遠目に見て勝手にキャーキャー言われるだ
け。
「すごいね。やっぱイタリアーノの英才教育とかされてた？」
阿部は笑っていた。
「なんで。おれこういうの悩む方だから、決断力なくて」
コーヒーを、と言ってくれたのだからコーヒーを買うべきか、それとも無理はしないで
いつも通り緑茶にしておくべきか。でも表で甘い飲み物を飲んでくるとオフクロが煩いし、
だからって１６にもなって（この前なったばかりだ！）オフクロの言うことをはいはい聞
いているのも子供っぽいし、またそういうことにこだわるところが子供の証拠みたいだし……。
と、目は見本を並べた窓のところをさまよっている。
「でも彼女らはきっと、レディー・ファーストとか、イタリアーノのスケコマシ・テクニッ
クとかで譲ったんだと思ったよ。
だめだよ。順番は厳守、校長先生でも、全国大会に出た先輩でも、譲っちゃダメって事
になってるんだから、初等部から。お行儀良く一列に並ぶ事って」
「……あ、すまん」
おれは慌てた。
「缶コーヒーって許せないタイプ？ じゃあ紅茶でも、なんでも」
すぐさま阿部は話題を変えてきた。とくに表情も変えずに。
「いや……」
あせってどれでも、とボタンを押すとオレンジ味の付いた清涼飲料水で、おれは心から
後悔した。
１年の教室の前を通ってもとの教室へ戻ると、中でひそひそ話をしていたのが突然、
きゃー！ という声に変わって、またひそひそになった。
慣れてるし。
首が落ちかかるのを必死に堪えて廊下を歩いた。
……ああ、ブチャラティに逢いたい。
残念ながらそういうのに期待はしない。こっちも清水ジャンプで１，２度は告白に応え
てみたけれど、すぐに女の子の期待はがっかりに変わるのだ。
「信じられん。もっと情熱的だったりするかと思（おも）とった」
これは初めて付き合った彼女の台詞。デイトは２回目だった。
ムチャ言うなよ。小中一緒にこの山で育ってきたんじゃないか。
おれは首をすくめていてその反論を口から出しそびれた。
「やめて、顔に合わんげんわ。せめて標準語しゃべって」
……次の彼女は、１ヶ月保ったかなあ。
無理やって。自分かって訛っとるやろ。
周りは勝手にこの容姿から期待する。ほんとのおれは鈍くさくて気が小さい田舎者なの
に。
腰の携帯がまた鳴った。ブチャラティだ。
「発信者：お猫様
要件：予習始めてる
内容：おまえ明日グラマー当たるぞ」
ああ、ちょっとイライラしてきてるな。すいません、先に予習進めといてください。
ふわっと、ブチャラティのコロンに包まれた気がした。ブチャラティは判ってくれてる。
こき下ろして、ばかにして、そしてふふんと笑って頭を撫でてくれる。
……でもそれがいいんだしなあって。
胸にくっつくほどに引き寄せて、髪をぐちゃぐちゃにしてくれる。
……カワイイ、カワイイ、カワイイッ！
実のあねきにもやってもらって事のない手放しな表現で。
俯きがちだった視線がゆっくりと上がってくる、ブチャラティのことを思い出すと。
あいつがいてくれれば、それでいい。伸び伸びいられる。この身体を窮屈に縮こめてい
なくてもいい。
ブチャラティと、ずっと一緒にいたい。
廊下を黙って歩きながら、おれの心は鎮まっていた。
５
「おまえはマレビトなんだなあ」
教室に帰って阿部と買った飲み物をちびちびやって、帰り支度をしながらしみじみと言
われて、おれは芸もなく問い返した。
「マレビト？ ナニ？」
「さっきの一年とか……ちょっと歩いただけできゃあきゃあ言われて。いや、そういうア
イドルって言う意味じゃない。
日本の伝統で、……あなた任せの国民性の象徴みたいなもんかなあ。
黄門様とか、坊ちゃんもそうかな、漱石のアレ。
悪代官とかを倒すのは、村のみんなじゃなくて、しがらみがない、通りすがりの空気の
読めない勇者。悪を倒して、人心を一新してくれるんだ」
「おれは、でもれっきとした……」
「ああ、イマドキ卒業式が『蛍の光』と『今日の日はさようなら』って、バリバリ田舎の
公立育ちで……だけど空気読めない。ふらっと紛れ込んで、不文律になってる事に気づか
ないで、『裸の王様』の子供みたいに、汚いなりに、危ういなりにバランスの取れてた社
会をぶっ壊すんだ」
「……すまん」
おれは首を縮めた。
「いいんじゃないか？ どうせ永遠にあのままってわけには行かなかったんだから。
外の……マスコミにでも嗅ぎつけられたらもっと大ごとになってた。内部告発って形だっ
たから一応最小限のダメージで済ませられたし」
「そうか？」
「あのひとだって……
あのひとが、お昼に誰かと差し向かいで弁当食べて笑うなんて、想像もつかなかった！
まさか、自分で弁当作ってきて貢ぐなんて！ そりゃだれも思いつかないって！ ケッ
サクだ！」
阿部は手を打って笑った。
「ああ、うん、笑えよ……」
おれはいよいよ汗をかいて背を丸めた。
「……あのひとは見てはいけないひとだった」
唐突に、阿部は語り始めた。
「魔法使いじゃあるまいし」
突っ込みながら、おれはそれが想像できた。大事件の後でおそるおそる受け入れられた
目の色のちがうひとりぼっちの少女。まだ心に傷を残していて、言葉も通じなくて。
あからさまに興味本位で見るには、ブチャラティは傷が深すぎて、そして、新都の子供
達は優しすぎた。
「ブチャラティさんに優しくしてあげましょう。でも、ブチャラティさんのことをあんま
りじろじろ見てはいけませんって。
無理だろ！？ だって、あんなに、別の世界の女の子みたいにきれいで。目なんてビー
玉みたいで。それなのに、あんなひどい目にあって！
胸が締め付けられそうだった……。ずっと！
初等部からの奴で、程度の差はあってもあのひとに憧れなかった奴っていないよ！ 中
等部だって、今だって！
どうしたらあのひとに話しかけられるんだろう？ どうしたらあのひとに笑って貰えるん
だろう……ずっと考えていたよ、みんな。ずっと、ずっと息を殺して、嫌な気持ちにさせ
ないように気をつけながら見つめてきた。あのひとにふさわしい人間になろうって、勉強
も頑張って……
それなのに、おまえ、高校から入ったような奴にかっさらわれて。
いいよな、似合いだよ、おまえみたいな奴とくっつくんだ、髪の色も、目の色もとても
この辺の奴とは違う、よく解ったよ……」と、悔しそうに声を絞り出した。
そんなこと言ったって。
小さいころは、よくからかわれた。なんで頭が白いんだって。名前がカタカナなんだっ
て。うちの家族はみんな明るい色の髪だったし、親戚も近くにいたから、それがここでは
少数派だなんて思ってなかった。向山はいいひとばかりだけど、子供がつまらないことで
からかったりはやし立てたりするのはどこでも当たり前の普通のことだ。
それが今、山を下りてブチャラティと出会うためだったのなら、それは嬉しい試練だっ
たけれど。
おれは阿部の白い顔をじっと見つめた。凹凸の少ない、滑らかな肌をした先祖代々新都
ですといった顔を。
気の優しい新都の少年は、思春期の入り口の少年が当然持つだろう気持ちさえ、相手に
は負担になると思って隠してきたのだろうか。
「なあ、どうやっておまえはあのひとの心を掴むことができたんだ？」
阿部は顔を振り上げて、睨み付けてきた。真っ黒な、腰の強い髪をナチュラルな七三に
して額を出して。眼鏡の奥の目は深い褐色で。新都ではそっちが多数派で、うらやましい
のはこっちだ。
「知らねえよ、そんなこと……」
なんにもしてない。
あの桜並木を見ながら、屋上で黙って一緒に弁当を食べただけだ。ブチャラティが勝手
におれを面白がって、構ってきたんだ。猫みたいな不思議な脈絡で、おれを構うと面白い
と結論づけて。
おれは、そんな複雑な事情の女生徒が隣のクラスにいるなんて、知らなかった。
スラックスを穿いた子がいるなと思っただけで。
凄いきれいな子が話しかけてくれたって、最初の頃は焦ってたけど。きれいな子ってい
うよりは、……いろいろ変わってるコっていう印象の方が強くなって。ブチャラティにい
ろいろ話しかけられるのが楽しみになっていったんだ。
そんな、努力して努力して報われなかった奴に、なんて言ったらいいんだろうとおれは
考えた。親からもらったヘンな色の目と髪のせいにした方が簡単なら、そのせいにしてし
まおうか。
「……あいつの目の色だったら、こういう髪の色の方が映りが良いのかもな」
だったら、大伯父さんがユダヤ系の同胞や、廃墟になったふるさとに心の中で両手を合
わせながら東の果てまで流れてきたことにも、くりすちゃんは純粋の新都美人とは言えな
いからと「新都桜むすめ」とかいうミスコンの選考会で門前払いされて田中のじいちゃん
が商工会議所に怒鳴り込んだのも、オフクロが昔悔し泣きしながら髪を染めたのにも意味
があったことになる。
残酷だけど。
なにが良くて、おれが選ばれたのか。
そんなのおれが得々としゃべる事じゃないと思ったから。
「そりゃこっちは出る幕ないよな。は、はは……」
レオーネ・アバッキオにあらざる阿部獅王は歪んだ笑い顔でぎこちなく手を振って背を
向けて、去っていった。
携帯がまた鳴った。しびれを切らしたお猫様は、ただ、オレンジページの今週号がすご
いと打って寄越した。明日の弁当にリクエストされるのかな、とおれは頬をやっと少し動
かせた。
６
１時間遅れで到着したブチャラティの部屋は、机の上に置いたもうペットボトルが空に
なっていた。
「ごめん、遅くなって」
「来たからいい」
ブチャラティは言うなりおれの腕を取ってベッドに引きずりあげた。色っぽい目的では
ない。オレンジページが開きっぱなしで付箋まで付いていた。
「これ。初夏のおすすめだそうだ」
「ああ、うん……」
さっとレシピに目を通して、頭の中で作業を再現する。チキンとトマトを炒めて白ワイン
を振ってさっと煮詰めたものだ。ちょっと汁気が心配だが、よく煮きれば弁当にできない
ことはないだろう。ハーブも散らせば、彩りがきれいだ。
「できるか？」
「だいじょうぶだろ、材料は普通に買えるものだし、そんな時間がかかるもんでもないし……
やっぱおまえトマト系好きだな」
「食べ慣れてたからな」と、お猫様は首をすくめて見せた。
あんまり好き嫌いがないから助かる。少しずつ出してみた和風の煮物やなんかもバクバ
クいってるし。ブリ照りは大好きでまっしぐらだ。豆だけはどうも苦手みたいで、しょう
がないからミックスベジタブルは一粒一粒より分けてる、ナイショだけど。この正月、フー
ゴが納豆に挑戦してたときは黙って消えていた。
「トマトは野菜だけどな、結構向こうの料理って、肉に果物合わせたりしないか？ ドラ
イフルーツのソースとか、ステーキの上にパイナップルとか」
「ああ、そういうのはもっと寒い地方だな」
「うちはメインのおかずにフルーツってもう拒否反応凄くて、酢豚にパイナップル入って
るともう大変、あねき、ローザのほうだけど、小学校の給食でいっぺん暴れてオフクロが
呼び出された」
おれは目をつぶって飲み下したんだけど。
「暴れるようなことか？」
「おれもそう思うけど、なんか無理矢理口に突っ込まれたとかで」
「まあ、それは人権上ヤバイかな。先生に？」
「班の班長」
「悪気はなかったんじゃないのか？ 好き嫌いを直してやろうとか」
「そこのところは、当人の関係が問題なんじゃないか？ そこまで親しいつもりじゃなかっ
たんだろ。
おまえはじゃあ、嫌いなものをおれが無理に勧めても食べないだろ？」
「食べるよ。嫌いなものなんてない」
きょとんと、ブチャラティは即答した。
自分が豆が嫌いなことに気づいてないのか？ あんなに嫌そうにより分けて、２度も３度
も持ち直して気合いを入れてから口に運んでいるのに。最初から３分は無視して箸を付け
ようとしてないのに。
それでも、コレは嫌いだから入れてくれるなとか、代わりに食べてとは言わない。「ダ
イエット」をしていたときも、他の好物と公平に食べ残していた。
……まだ遠慮があるのかな。
猫みたいに自由におれを構っていると思ったのに、余計なことに気づいてしまったよう
でおれはまた少し落ち込んだ。
７
「なあ、ブチャラティ……」
声を掛けてみても、言葉が繋がらない。
「なんだ？」
お猫様はじっとこちらを見つめてくる。心の中まで見透かすように。
おれのこと好きかって聞いても、なんにもならない。不思議そうに、すぐさま肯定して
はくれるだろうけど。
ブチャラティが、自分のよく解らない脈絡でおれを面白いと思って、構ってくれているん
だ。
記憶が戻ったりとかでなくても、その脈絡が変われば、お猫様は猫のあっさりさでおれ
を見捨ててしまうんだ、きっと。
うっかりそのことを忘れてひとりで突っ走っていたことに今更気がついて、おれはなん
だか寒い気持ちでいた。ああ、腕も自然に自分を抱いてる。
「ハリセンが要るかな？」
根気よく待っていたブチャラティが溜め息を吐いて言った。
「『ガリヴァー旅行記』は、あれはスウィフトの方は童話として書いたんじゃないらしい
な」と、お猫様はまた自分だけの脈絡で話を始めた。
「大人向けファンタジーってやつか？」
「風刺文学だ。バリバリ大人向けの。こびとの国は、こんな小さな人間の国でさえくだら
ないことで戦争をしている、ガリヴァーはそう見下しているが、我々大英帝国もやってい
ることは同じと言ってのけた。巨人国では、逆に見下されて愛玩される身になって、文明
国とやらの人間の思い上がりを曝いている。最後は馬の国にまで行って、馬の方が高潔で
理性的だと得心して、ガリヴァーはとうとう人間を見放して、大英帝国に戻ってきても馬
小屋に入り浸るようになって気が触れたと見なされた」
「そうなのか」
絵本でしか読んでないから意外な結末に驚いた。
「その前、ジブリ・アニメの元ネタのラピュタ国に行ったときには、文明が発展しすぎて
地に足が付かなくなった人間が出てきた。
ラピュタの人間には必ずお付きの人間がハタキを持って付いてきて、主人が歩きながら
高度な研究に没頭しすぎて我を忘れたときには、容赦なく頭をはたいたらしいぞ」
「え？」
「おまえもラピュタから来た人間なのかな？ しょうもないことに気をとられて足がもつ
れてる。一発はたいてやろうか」
「……いえ結構です」
おれは黙り込んだ。また思考がもとのぐるぐるに戻りかける……
「レオーネ、阿部にはあんまり深入りするな」
「え、なんで？」
心を読まれたかとおれはあせる。
「その辺は、あまり細かく説明したくないが……それよりもっと楽しいことをしよう」
「具体的に……？」
お猫様の目が異様に輝いている。おれの胸をついて転がした。そっとのし掛かってくる。
これはやばい。
「言って欲しいか？」
ゆっくりと顔が近づいて、唇と唇の距離がゼロになった。
「そんなに悩むんなら、もっと深入りさせてやる。おまえが一番だと証明してやる。何度
でも。ややこしいことは考えないで、とりあえず出すもの出したら余計なことなんか忘れ
るだろ？ ……な？」
白い手が下がって、へその横を通過した……。
「ダメーッ！」
おれは腹筋で起き上がってブチャラティを押しのけた。
「レオーネ、わたしたちはいつになったらできるんだ？」
お猫様が上目遣いになった。
「婚約したらッ」
おれは壁まで下がって距離をとる。
「いつになったら婚約するんだ？」
「１８になったら」
「おまえはいつ１８になるんだ？」
のそり、とブチャラティは四つんばいになって近寄ってきた。
「再来年の３月２５日」
「遅い。卒業式の方が先だ」
ブチャラティは恨みがましい顔になった。
「だって、しょうがないだろ」
「婚約してなくたってしてる人間はいっぱいいるぞ」
「そういうのおれは嫌なのッ」
「いしあたま」
そう言っておいて、ブチャラティは顎の所にヘンな皺を寄せた。
「ああ、ああもう、それでもそういうおまえがいいんだからなあ。解ったよ、ああ、もう、
多く愛した方が負けって言うよなあ、ちぇ」
上目遣いのお猫様はそのまま猫が獲物に飛びかかる前みたいなポーズになってぐんと両
手を真っ直ぐにして身を低くした。やや前のめりのスフィンクスみたい。
「何言ってんだ」
手を伸ばして、ブチャラティの髪をぐりぐりかき混ぜてやる。黒い前髪の下から、青い
眼が温かい光を放っているのが見えた。
「ごめんな、安心させてやれなくて」
そのままぎゅっと抱き寄せる。
「安心させたいのはこっちなんだけど……ハグはいいのか、じゃあ」といって、腕を背に
伸ばして抱き返して来た。
「おまえがハンサムで嬉しいけど、わたしは、おまえがそういうめんどくさい性格だから
好きなんだからな。そこんとこが良いんだけど、あんまり苦しんでるとこっちもなにかし
てやらなきゃって気になるんだ」
「じゃあ悪いのはおれか？」
「そういうこと」
笑う顔になって、頬を寄せてきた。白い、滑らかな肌が……ッ。
「ちょ、ごめん」
ある部分に血が集まったのが判ったので、おれは慌ててブチャラティを引きはがした。
「別にいいのに」
お猫様はクスリと笑った。
８
それは去年もやったから記憶にあった。梅雨に入って植物は生き生きと光合成と細胞分
裂を繰り返し、結果、プール裏や道路脇の並木の根本はうっそうとしていた。ブチャラティ
は、
「中学の理科の時間にやっただろう、植物は気温が上がって二酸化炭素濃度が上がれば上
がるほど光合成が活発になるんだ、地球温暖化詐欺に引っかかった奴は中学の理科をちゃん
とやってませんでしたって言ったようなもんだ」と吐き捨てていた。
「え？ あれ嘘なのか？」
「インターネットはエロ画像を見るためにあるんじゃないんだぞ？」
「見てねえッ！」
「最初からちょこちょこ反論はされてたが、とうとうアメリカの研究員とやらがデータを
かなり盛ってたと白状した……大手の新聞とかではスルーされてたみたいだな。珊瑚礁の
島が沈んでるのは自然沈降、北極の氷山が融けてるのは太陽活動が活発期に入ってるから。
温暖化してるんじゃない、四季が派手になってきてるんだ。２１世紀になってからこっち、
ヨーロッパも北米も冬は記録的に降ったり冷えたりしてるじゃないか。……化石燃料の
使用が増えてるから排出量自体が増えてるのは常識で考えて嘘じゃないみたいだがな。
あれは排出量枠で商売をしたい投資筋と落ち目の国がタッグを組んだＢＲＩＣＳいじめだ」
「ああそうか、途上国が永遠に途上国ならそんなに燃料使わないもんな」
「素直に苛められてない強かさんばっかりだったから、とばっちりを喰ったのがお育ちの
いいニッポンだ。どうするんだろうな？ 景気も悪いのにまじめに削減枠引き受けて」
「……節約を心がけるのはいいんじゃないか？」
「やるなら電気の垂れ流し生活をやってるアメリカさんだろうと思うがな。こっちもＴＶ
で見た程度の印象で言ってるが」
「うちもクリスマスはもういい加減規模縮小しないとな」と、首を縮めると、
「あれはあれでいい」
お猫様はクスリと笑った。
６月半ばのある日の午後は草刈り奉仕のために充てられていて、内部生は慣れきってい
るようだった。
翌年から業者を入れて生徒には草刈りをさせないことになったので、おれは貴重なイケ
ニエのアバッキオ様として密かに崇められることになったらしい。
身体を張ったんだから当然かも知れなかったが。
「Ａ組はこっちからあの街灯まで。鎌はクラスに５本しか割り当てがありません！ 熊手
は２本！ 箒３本！ ちりとりひとつ、あとは自前の手！ 軍手持ってくるように言った
よな！？ じゃあさっさと終わらせて帰ろう！
暑くなってきたから給水注意して！ さぼってると思われるとあとで自分が損するから
な？ 草は後でまとめて裏山へ持ってくから」
委員長の阿部はてきぱきと仕事を割り振っていた。
「去年は袋に詰めてなかったか？」
ジャージに着替えて屈み込んだブチャラティの横へいって同じように屈み込むと、いろ
いろ情報網を持つお猫様は説明してくれた。
「今年から、堆肥にして校内の花壇やなんかで使うようにしたらしい。時代はエコなんだ」
「まあ、土に返すのが一番だしなあ」
「土地は余ってるから、一応。初等部の総合学習でやるらしい」
ひとクラスの人数を減らして形を整えて見せているが、少子化のあおりで名門新都学園
も生徒が微減して、５クラス維持がやっとだ。サッカー部の不祥事のおかげで今年の１年
生は受験者が１００人単位で減ったと聞くともう張本人としては亀になるしかない。
ブチャラティは手際よく目の前をきれいにしていって、気がつくと１メートルぐらい離
れたところへ行っている。
「別にグラウンド整備をしようってんじゃない。ある程度は手を抜け」
そう言って戻ってきて脇に立っていて、おれは一心不乱になりすぎていたことを恥じて
場所を移動する。もう汗をかいていて、ジャージの上は脱いで腰に巻いた。
「暑くないか？」
聞いてやっても、お猫様は頭を振ってまた腰を落として草を引き始めた。威勢良くヌー
ドにもなったというのに、普段はムキに露出を避ける。きれいなのに、もったいない。フー
ゴが言っていた「一流ブランド子供モデル」でなくなったのが自分で許せないんだろうか。
高校生としては、今だって十分モデルクラスなのに。顔だって全然残念なこともないし。
むしろ目立ちすぎるくらいにきれいなのに。
ブチャラティとデイトのときに店に入ったときのことをおれは思い出す。一瞬でそこは
静かで、格上の場所になる。客も店員もうっとりと見とれ、そして、知らん顔をしなくて
はと心を乱す。コーカソイドの血の入った人間には慣れているはずの新都の人間にしてか
らが。
ああ、見てはいけないひとって、そういうことか。
おれは納得して、また作業に専念する。
とくに会話がないのはいつものことだ。黙って草むしりに集中して、ただお互いが近く
にいるだけで安心する。ブチャラティもそうならいいんだけれど。
女子も男子も、適当に気の合うもの同士で楽しそうに話しながら作業していると思って
いたのに。
随分時間が経っていて、皆、飽き始めていたらしい。
青臭い匂いが辺りには立ちこめていた。
おれが見る分には、隅っこなどまだ手を動かすべき部分は残っていたが、もうこれ以上
やる必要はないと思う人間がいてもおかしくない程度ではあった。
「危ないって！」
阿部がやや声を荒げた。
「……ブチャラティさん、こっち」
クラスの女子がブチャラティの手を引いて、脇へ避けさせた。
「鎖鎌って言うのはー」
声を高くして、鎌を振りまわしながらふざけているのは髪を立たせた背の高い男子。ま
だ名前は覚え切れていない、特進クラスにもこういうお調子者はいたんだ。
「振りまわさなくても蘊蓄は語れるだろ？ やめろよ、危ないって」
阿部は声を落として言った。
「だいじょーぶだって。委員長、ムキになるなよ」
「ムキになっていない。寄越せ。飽きたんならもう上がって良いから」
「もうあっちも大丈夫だって。彼氏がちゃんとついてるから。おまえの出る幕ないって」
挑発するようなもの言いに、ひやっとした。
「関係ないだろ」
阿部は、流石委員長だ、心を全く動かされていないように言った。おれは、心配でその
背に近寄った。
余計なお世話だった。
「いくつからだ？ もう６年？ 長（な）っがー！ 残念だったなー。やっぱ男も顔？
新入りに横からかっさらわれて。
ねえ、今どんな気持ち？ どんな気持ち？」
見苦しい顔で、そいつは鎌を振りまわした。
見苦しい。聞き苦しい。
いたたまれない。
「レオちゃーんって、猫なで声出して構ってやって。たまにお情けで彼女に声かけてもらっ
て。良かったね」
「飽きたんなら帰れ。もういいから」
静かな声だった。
だから、その瞬間、みんなは委員長をとっても尊敬していた。
「どんな気持ち？」
「帰れ！」
手を伸ばして委員長がやつから鎌を取り上げても。
勢いよくそれを背後に引いても。
それが、おれの二の腕をかすめて皮膚を破っても。
「え？」
左腕の、上の方が、熱かった。
瞬間、血煙が立ったとあとで誰かが言っていた。
ひぃっ。
おおきな吐息のような、いや、吸気か？ とにかく、悲鳴と言うにはとげとげしさのな
い声がした。
どさっ、と。
なにかが地に倒れた。
「レオ……？」
振り向いた委員長の顔が歪んでいた。
「ブチャラティさん！？」
女子たちが叫んでいた。
「え？」
そんなことより。
ブチャラティが倒れていた。海老茶のジャージが長々と地に横たわっていた。
ブチャラティは刃物がダメなんだ。見ただけで貧血のようになってくたくたと坐り込む
ぐらい。調理実習は洗いもの係で、図工は免除……。手伝わせたうちのお節も、田作りの
下ごしらえで延々煮干しの頭を取っていた。
おれはひとっ飛びでブチャラティの横に戻った。
「ブチャラティ、ブチャラティ！」
抱き上げようとして、制せられる。
「アバッキオ、おまえの方がやばいって！」
「血が付いちゃう」
「清潔なタオルかなんか！」
「保健の先生呼んでくる！」
「誰か、委員長にもフォロー！」
皆、寄ってきて口々に叫んでいた。
おれは、次の年から貴重なイケニエのアバッキオ様として密かに崇められることになっ
たらしい。
切れたのは大したことのない静脈で、騒ぎで草刈りは中止になったからほんとに申し訳
ないことをした。委員長はしばらく呆然としていて、これはカウンセリングとかがいるん
じゃないかと皆思っていたらしい。おれに謝りに来たときも、わざとじゃない、わざとじゃ
ないと済まない済まないがランダムにループするばかりで目が死んでしまっていた。気に
すんなよと、おれもその時は軽く言うことしかしなかった。
ブチャラティがまだ目覚めていなかったので。
保健室で、包帯を巻いて腕を固定したおれはさっさと椅子に移動したが、ブチャラティ
はずっとベッドにいた。
ああ、眼を覚ました。
「ブチャラティ」
目が、いぶかしげに瞬いた。
「どうした？ 驚かしたか？ 大丈夫だぞ、大したことないって」
「キ……エ？」
擦れ声が唇から出た。
「なんだって？」
「Ｄｏｖｅ ｓｏｎｏ？」
言葉の連なりは、あからさまに、聞き慣れた日本語ではなかった。
「ブチャラティ？ おまえ……」
「Ｐａｄｒｅ？」
「Ｃｈｉ ｅ？」
「Ｐｅｒ ｆａｖｏｒｅ Ｖｅｎｇａ！」
顔を歪めたブチャラティは、他人を見る眼でおれの手を払いのけると矢継ぎ早に叫んだ。
その日が来たみたいだった。
通り魔が、刃物を持って暴れた。父親が刺されるのを、ブチャラティは目の辺りにして、
記憶と、言葉を失った。
……記憶喪失の人間が記憶を回復するとどうなるか知っているか？
ブチャラティの顔が曇っていたのは、春の日。
記憶が戻って、代わりに、おれのことを忘れたと言うことだ。
保健の先生が戻ってきて、おれは入れ替わりに外へ出た。
９
あれから６年経っても、イタリア語をしゃべれる人間は新都にはいないようだった。結
局呼び出されたのがフーゴで、おれはすこしホッとした。
「おまえがイタリア語できたとはな」
「ネイティヴじゃないです。一応ヨーロッパ主要言語は会話だけ」
「おまえがエリートで助かったよ」
「立ち話してる余裕はないです。詳しいことはあとで」
右手を軽く挙げて短く打ち切って、保健室に入っていった。
「Ｓｅｉ ａｎｎｉ？ Ｓａｒａ ｕｎａ ｂｕｇｉａ？」
激しく驚いた声が響いてきた……。
「あのひと、ぼくのことも覚えてませんでした。当然ですが……やっぱり、多少はへこみ
ますね」
大して時をおかずに、フーゴは硬い表情で出てきて言った。
「あんまり刺激を与えるとまずいですから。今日のところはうちに帰るでしょうけど。
……あんたのお父さん、今どこに出てます？ 日本に戻ってきてませんか？」
「東京の方の事務所に出張ってる筈だけどな。どうした？」
「とりあえず事情の解ってるネイティヴの方についててもらった方がいいかと。新都じゃ
あやっぱりしゃべれるひとが手配できないみたいで。ぼくだと突っ込んだ内容は話せません
し……あのひと、訛ってるんですよ、かなり。どこの出なんだろ、聞いたことなかったか
ら、正直まごつきました」
フーゴがここまであっさり負けを認めるとは思わなかった。
おれは、イタリア語が全くできない。向山で育ったし、親父の仕事が忙しくて、幼い頃
は全く構って貰えていなかったのだ。使えないおれ。ずしりと胸に応える。親父には、正
月むこうの親父さんに挨拶に行ってから、イタリア語を話せるようにしておけって言われ
てたのに、チョコレートの本を買ったりクッキーを焼いたりばっかりしててまるきり忘れ
ていた。
「あねきも日常会話程度かな……」
「ローザさん？」
「サクラあねきの方」
球蹴りしかできない息子は見放されて、小さい頃からイタリア語もちゃんとしゃべれて
たあねきが跡を継ぐ気まんまんで経営学なんかやっている。
「神戸から帰ってきて貰うわけには」
「遠慮すんなよ」
おれは頭１つ小さい天才君の盛り上げた前髪をぽふんと押さえた。
「もううちの子だって、言ったろ？ おまえも、あいつも」
「ちょーッ！？ ねーちゃん！」
廊下を盛大に駆け抜けて、ナランチャが絶叫しながら現れた。
「ナランチャの母国語って？」
「今となっては日本語だそうです」
おれたちは肩を落とした。
なにかあったらうちが引き受けると言ったのはカッコ付けでもなかったらしい。いつも
はバスを使っているオフクロが、車で乗り付けてきた。これは本当の非常事態だ。
「当分はうちで預かります。娘にも知らせを入れて帰って来るように申しつけましたし」
オフクロはビシッと言ってのけた。おれがいちばん役に立たないのだった。
１０かそこらの女の子に戻ってしまったブチャラティは、青い顔をしてただ立ちつくし
ていた。フーゴがなにかその耳に囁いて、ほんの少し青い眼が光を取り戻した。
「なんて言ったんだ？」
「こっちの親戚だと言っておきました」
「そんなの……ないんだろ？」
「その辺はなんとでも。生き別れだとか、行き来がなかったとか。
養父（ちち）に会わせて混乱させたくないんですけどね……会わせるしかないのかな？」
フーゴはおれに解らない脈絡で頭を悩ませて前髪を掻き乱していた。糖尿で入院する程
度となると、昔とは容貌が変わってしまったと言うことかも知れない。
そんな中、かりそめでも、血縁だと言われると安心するのか、ブローノと呼んで頭を撫
でるとにこりと笑った。手を繋いで引くと、逆らわずに従った。
「くれぐれもよろしくお願いします」
マンションまで一緒に乗せて行ったが、フーゴの顔は青いままだ。
「あんたらも支度しまっし。中学生だけでうちに置いとけんわね。サクラが着くまではフー
ゴくんに通訳してもらわんなんし」
オフクロに言われて、２人ともすっ飛んで部屋へ消えた。
うちではローザあねきがお泊まりの準備を整えて待ちかまえていた。
１０までイタリアで育った身では、やはり髪の色はともかく多少は青い眼の人間が応対
した方が心が和むみたいだった。
「Ｂｒｏｎｏ，ｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘｘ……」
夜遅くになって、すっ飛んで帰ってきたサクラあねきがブチャラティを抱きしめて、お
れに解らない言葉で言い聞かせていた。親父は最終の飛行機に間に合わなかったらしい。
朝一で帰ると言って寄越した。
「言葉が解らなくても、付いててあげなさい。ずっと」
電話口の声は、いつもの親父らしくなく厳しかった。
「解ってる」
「あんた、怪我たいしたことなくて良かった」
夜、お客を寝かしつけて台所で２人きりになると、オフクロは頭をがしっと掴んで２、
３度かき混ぜて言った。
「そんな顔せんと。ちょっと混乱しとるだけやって」
「ああ、……うん」
おれはふと疑問に思っていたことをぶつけてみることにした。
「なあ、なんで親父こんな乗り気なん？ オフクロも。ふつう高校生で嫁にしたい子がで
きたって言ったら怒られるんと違うが？ まだ早いって」
上目遣いに尋ねると、オフクロはああ、と笑った。
「だって、ブチャラティちゃんはもともとうちで引き取ろうかって話があったもの」
「なッ！？」
初耳だ。
「本国の方にももう親戚がおらんとかで。役所の方でも困ってしもて。少しでもイタリア
に関係のあるのがうちやったし。多胡さんは独身やったしね。
でも、うちに同い年の男の子がおるっていうがと、ステファーノが忙しぃてほとんどう
ちにおらんで、あたしがイタリア語しゃべれんがで多胡さんの方にひきとられるがになっ
てん。どうなったんか、少しは気にしておったんやけど」と、オフクロは手を休めずにジャ
ガイモの皮を剥きはじめた。明日の朝の仕込みだ。
「そんな……」
「それが、うちには男の子がおるさけって言われたら、あのひと、
『将来恋に落ちると素敵ですネ』って言ってしもて。
そんで、ふざけとると思われてだめになってん」
「あー」
おれは天を仰いだ。お茶目なイタリア人を意識して演じているようなところもある親父
なら、やりかねない。ちょっとウィンクしてみせる顔まで思い浮かんでしまう。
「まさかほんとになるとはね」
オフクロは、ちょっといい話を聞いた時みたいな顔をしていた。
「だからうちの子やと思っとるよ。いい子やがいね」
「ああ」
おれは顔を上げて、ボウルに水を汲んだ。むき終わった芋を晒すために。
「でも淫らなことはしたらいかんよ」
「しねえッ！」
１０
翌日は、おれは医者。
鎌はある程度手入れがしてあったので、傷口は比較的きれいだったようだった。応急手
当も申し分ないし、すぐにきれいにくっつくだろうと言われて返された。だいたい、命に
関わる怪我なら、もう外来が閉まった時間でも当然病院に担ぎ込まれていたはずだった。
感染症がこわいので、抗生物質だけはしっかり処方された。
弟どもは、心配でブチャラティの傍に張り付いているのをオフクロが叱りつけて、車で
学校へ送り届けていた。彼らにもオフクロはちょっと気合いを入れてお弁当を持たせてい
た。病院は途中にあったのでおれも一緒に乗せてってもらって。
「写真とか、見せた方が良いんじゃないが？ なんであんたら写真がないが？ 動物園、
まだお山にあった頃やろ？ 連れてってもろてないが？ お魚ランドは？
多胡さんはいったいどんなつもりであんたらを引き取ったんやろ？」
運転しながらオフクロが声を荒げていたが、後部座席で弟どもは身を小さくして押し黙っ
ていた。
義侠心とか、英雄的行為のつもりで引き取ってみたけど、幼稚園の子供とはまた違うか
ら、そういうところに連れて行く必要はないと思ったのかも知れない。あとは、単純にビ
ジネスとか。世間が解ってきたころの子供だから、多少の遠慮もあって。モデルだもの、
日焼けも避けたかったのかも。 ２人、いや、３人して息をひそめてあのマンションの最
上階に閉じこもっていたのかも知れないとおれは胸が痛くなった。街の人間の方でいくら
コーカソイドを見慣れているからって、見た目も新都の大方の人間とは違うし。
この夏はみんなでいっぱい外に遊びに行こうとおれは心に決めた。
この夏があるんだろうか。
病院は市立の総合病院で、待ち時間は長かった。
ずっとおれは考え込んでいた。
フーゴはパレンテと、言っていた。
しんせきだから。
心から心配に思って、できる限りのもてなしをする、それを受けるだけの理由にしてすっ
と信じて貰えた。今朝はほんの少しだけど笑ってボン・ジョルノといってくれた。
ああ、自分で言ったんだ、あねきが一人増えるだけの話って。
あねきだなんて、思えない。
こうなってつくづく見ると、華奢なからだ、肉が付いたと本人も随分気ににしていたけ
ど、それでもクラスの子たちと比べたら細い。
ほんの昨日までは、油断しているとぶつかって抱きついてきた、手を伸ばして頭をガシ
ガシやられたり、でこぴんをくらったり、キスされた同じ女の子が、今日は遠い。心の中
身が変わってしまったから。
１０の女の子にとっての親戚のお兄ちゃんとして、親密さを越えないように心がけなが
ら、そっと、触れてみるだけになる。
なんて、せつない。
おれにとってのブチャラティは、そんな、ただきれいなクラスメイトなんじゃなくて、
自分に近づいてくれて、アクションを起こしておれにいろいろなことを経験させてくれる
どきどきする生きたマッチみたいな存在なんだ。いつもどきどき、ひやひやさせられるあ
の刺激がないと、もう高校生活が楽しくない。考えられない。
だからブチャラティとずっと一緒にいたいと思ったのに。
これから、おれ達はどうなってしまうんだろうか。
うずき始めた左腕を押さえるようにして、おれはうちに帰る路線のバスに乗っていた。
１０
さすがにその翌日には学校に行った。
少し心配だった阿部の方は、一日休んだ後、思い切り髪を短くしてきた。周りはさらに
対応に困った。なにを考えたのか、金髪に染めてきたのだ。クラスで一番の理性の行動の
意味を計りかねて、みんな担任に投げたんだけど、暢気な担任は、
「あは、あるうちにいろいろ試しておきたいよなー。なくなってからじゃなんもできない
しな。でも、だいたいは年取ってから後悔するんだけどな。あれをやらないでちゃんとケ
アするか、せめて髪に悪いことはしなきゃ良かったって。
あとは、うちはリベラルなのが売りなんでごちゃごちゃ言いたくないんだが、あんまり
酷くなって、もう見逃せん、抜本的に取り締まるってふうになったら反動で少しの乱れも
許さなくなるってのが人情っていうか世の習いだから。そうなってから、先生にガタガタ
言わせないように自律しときゃよかったって思っても遅いからな。何年後の後輩に恨まれ
ないように行動しろ。そんだけ」と解ったような解らないようなことを言った。それはそ
れで教育者として正しいスタンスなのかも知れないが、あからさまに危険信号を出してい
る教え子を真っ直ぐフォローすることもした方が良いんじゃないかとおれは思った。
暢気なふうを見せながら、白鳥は水面下で必死に水を掻いてるってたとえを実践してい
るのかも知れなかったが。
家に帰ると、客間にした下の座敷で、フーゴは思い詰めた顔をしてブチャラティになに
か言っていた。病院の親父さんに会いに行ってみたが、多少懐かしそうな顔をするだけだっ
たらしい。
「リコルディ……」
フーゴが囁いていた言葉で、聞き取れたのはそれだけだった。
「思い出してくださいよ。ぼくらのことまで忘れてしまうなんて。
あんたには、少なくとも、忘れてしまいたいような忌まわしい記憶はないはずです。嫌
なことも、耐え難いこともあったでしょうが、あなたは乗り越えて、うまく切り抜けてき
れいに生きてきたんだ。
これから、その連続でもっと楽しくてきれいな日々があったはずなのに。どうして彼の
ことを忘れてしまったんですか？」
ブチャラティは、日本語になってしまったフーゴの言葉を取りかねて、ぼんやりその顔
を見つめていた。
フーゴはもう言葉が出なくなっていて。
「思い出して……」
それだけを言って、顔を伏せてしまった。
困ったようにブチャラティは目を瞬いていた。
本人が所在なげにしているので、少しは刺激になるかもと学校にはその翌日から行くこ
とにした。
「あんた、手は大丈夫なんかいね？ 明日のお弁当はわたしが作るさけ。ブローノの分も」
オフクロはなんだかんだいってフーゴやナランチャの弁当を作るのが楽しいらしい。戻っ
てしまったブチャラティは、本人が呼ばれ慣れている名前、ということでブローノと呼ぶ
ことになった。フーゴはこっちが見てられないくらいにまごついていたが、ナランチャは
一瞬だけヘンな顔をして、あとはそのシチュエーションを楽しんでいるようだった。
「カジキとマカロニサラダでいいげんろ？」
「でも、味覚も戻っとるみたいからイタリア風に。カジキはバジリコとオリーヴオイルで。
マカロニはコンキリエ用意しとったけどペンネ・アラビアータで。サツマイモは栂尾煮じゃ
なくてオレンジ煮にして。御飯じゃなくてパンつけて。
箸使えんさけ、ピクニック用のナイフとフォーク出してやって」
付きっきりで夕食はみてやっているが、ほんとうに中身はイタリアの女の子になってし
まっているようだったから。
オフクロはしばらく目を見開いていたが、言った。
「……あんた、利き腕は生きとるんやし、やっぱり自分でやるまっし。切るがだけやって
あげる」
「うん……？」
……一応スカートは作ってたんだな。
どこから出してきたのか、朝、制服を着て現れたブチャラティはちゃんと指定のスカー
トで、フーゴやナランチャも少し赤くなってちらちら見ていた。
「ブチャラティ、いいのか？」
揃って登校すると、担任は声を掛けてきたが、ちょっと小首を傾げただけで、おれが事
情を話すと、解った、先生達にも言っておく、と引き下がってくれた。ちょっと心配だっ
たが、金髪になった阿部を見てもブローノはとくに反応はしなかった。
授業中は大人しいものだった。普段の授業態度もそんなものだから、対して違和感はな
かった。しかし、この分のブチャラティのノートが期待できないのだから！
おれは必死に授業に集中した。
たぶん阿部に助けを求めることももうできないだろうし。
午前中は無事に終わって、イタリア風にした弁当をブローノは嬉しそうに平らげてくれ
た。
少し、疲れが飛んだ。
「チャチャ」
昼休み、静かに声を掛けてきたのは、ああ、七尾さん。家庭科部の。ブチャラティの親
友だ。
「マドレーヌを食べて記憶が蘇る話があるんだって？ 昔言ってた。あんまり大河だから、
自分で読んだんじゃなくって読んだ人のエッセイで見たって」
「それで？」と、その手の物におれは目を留めた。
「あと、まえにちょっと悪戯したから……」と、七尾さんはお菓子をプレゼントするとき
の、フィルムでできた小袋に入れた焼き菓子を差し出した。
ブチャラティは受け取りはしたがただまっすぐ七尾さんの顔を見つめていた。
「ええと、ボナペティート？」
まったく知らないひとに対する様子におれがいたたまれなくなって、食べるよう声を掛
けてやった。
「Ｇｒａｚｉｅ」
にこりと笑って封を切った。いつもはそんな手放しな笑顔なんか見せないのに、と、同
じことを思ったのか、七尾さんの顔が曇って、そしてなお食い入るようにブチャラティの
顔を見つめる。
ブチャラティの顔は、怪訝そうになっていた。
「これって？」
漂ってきた香り付けの柑橘類の香りにおれも戸惑う。
「ああ、うん。日本風にって柚子で香りを付けるの、前にやってみたんだけど……受けたん
だけどなあ。今はホントに忘れちゃってるんだ」
ちょっと微妙な顔をして、それでもブチャラティは一口かじると、また少し笑って、口
を付けていない方を半分割っておれに差し出した。
「Ｄｅｌｉｚｉｏｓｏ！」
「あ、え？」
「美味しいって言ってるみたい。良かった」
七尾さんは硬い表情のままに言った。
「これ」
「食べれば？ 分けてくれたみたい」
「あ、ありが……グラッツエ」
片言のイタリア語で言うと、またにこりと笑ってくれた。少しはずかしそうに。
「チャチャ……って言っても判らないんだ？」
静かな声がした。ほんとうに、感情を抑えた声だった。
一応口は付けたが、柚子味マドレーヌは味わう余裕がなかった。
「こいつのことか？」
おれは七尾さんが泣いたらどうしようと思っていた。
「小学校の時に、付けたの。ブローノって、あんまり言いにくいから。結局定着しなくっ
てあたしだけだけど。……アバッキオくんはなんて呼んでるの？」
「名字で」
ちょっと溜め息を吐いて、七尾さんは笑った。
「でもカタカナだよね。発音が向こうっぽくない」
「おれネイティヴ・向山人で」
「聞いてる」
「チャチャ、……ブローノ、あたしのことも判らないのね。それを食べても」
「でも美味しいって……」
七尾さんが言ってるのはそういう事じゃないんだけど、おれはそう言うしかなかった。
「チャチャ、どうなるの？」
「親父さんのことはわかるらしいから、このまま」
「アバッキオくんは？」
「あはは……」
笑うしかなかった。
「大丈夫じゃない？ 一応懐いてるみたいだから」
「そうかな？」
ブローノ、と名を呼んで、小さい子、そう、小学校４年生くらいの、にするように頭を
撫でてやると、ブチャラティはくすぐったそうな表情をした。子供みたいな表情。おれは
胸のあたりを氷がかすめたような気がした。七尾さんも、そうかも知れなかった。
「アバッキオくんは、大丈夫。なんか繋がってる。
そうなのかも。
前世で添いきれなかった恋人同士。
身分が違ったり、仇同士だったり。……同性だったのかもね。
生まれ変わって、違う世界に来て、恋におちるために巡り会って」
「女の子の考えることって」
おれは笑ってやる。
「だって、ほんと、謎が解けるみたいに、お似合い、いろいろ。
記憶がなくなっても、また思い出す。そうじゃなくても、今からでも十分恋ができるよ」
そこまで言いさして、七尾さんは黙った。喉に何かがせり上がった感じ、身に覚えがあっ
て、おれは解った。
「またともだちになればいいだろ？ 七尾さんも」
おれは七尾さんに言ってやった。
「なれるだろ？」
重ねて言う。
「さあ。あたしイタリア語って全然だから」
堤防が切れるように泣くタイプらしい。七尾さんはやや顔を俯かせて、涙を落として隠
そうとした。
無理だって。
反射的に、おれは抱き寄せていた。
「覚えてやれば良かった。いつだって、自分の勝手で構って……」
「それでいいんだ、無理をしちゃいかんのやって。それでもちゃんとともだちになれてた
だろ？ おれも聞いとったもん。家庭科部の七尾さん。あんたのこと話すときすっごい楽
しそうな、自慢げな顔になっとった」
「そう？」
「また仲良くしてやってくれ。女の子は女の子同士の話が必要なんやろ？」
「アバッキオくん詳しい……」
「おれ上姉２人で」
「あは、ナルホド」
ようやく泣きやませて、振り向くと、ブチャラティはなんだか曇った顔をしていた。
「ブローノ、七尾さんだ、仲良くしようって」
「Ａｈａ……」
やっと少し笑った。
「お礼も言わなきゃだろ？」
空き袋を示して、七尾さんのほうを手で示すと、いい発音でＧｒａｚｉｅと言った。ま
るで別人みたいに。
１１
ブチャラティは、やっぱり大物なのは変わらない、４日目にはもういつもの顔つきで朝
飯の場に出てきた。おれの横に自然に坐るが、自分からはしゃべらない。言葉は解るとい
うより、雰囲気にふさわしい行動を選び取っているだけのようだ。
サクラあねきは、あまりゼミを休めないと言って、親父に引き継いで、念押ししながら
帰って行った。ナポリの訛りより、まだキツイらしい。会話の相手をしてもらってた留学
生にそっちのがいたから、聞き覚えがあってなんとかなったとか笑ってた。フーゴは素直
に兜を脱いでた。
学校でも、もう前と同じに振る舞っていた。おれについては、親戚のお兄さんという雰
囲気は崩していなかった。崩していないというか、かえってその年なりの懐き方で、片言
の日本語で（さすがブチャラティだ！）おれに話しかけてきたりするのもそれはそれで和ん
だ。
「Ｌｅｏｎｅ……」
ちゃんと正しい発音で呼ばれるのもなんだかくすぐったい。
「Ｂｒｏｎｏ」
こちらも、ちゃんと呼んでみる。すっかり信じ切った顔で、ブローノは見上げてくる。
ブチャラティじゃない、ブローノが。
去年と同じ屋上で、蒸し暑い、空の低い昼休みに。
結局、今年の合唱コンクールは参加しなくて良くなったんだけど。
……たった１年前のことだったんだなあ。
今年はおれが、抜け出して大学生協でアイスキャンデーを買ってきて、二人して食べた。
美味しいけれど。彼女は笑ってるけれど。抱き寄せても、黙って見上げているばかりで。
「Ｔｉ ａｍｏ」
ブローノは顔を輝かせて、頬を寄せてきた。
「Ｎｏ」
だめだよ、と、頭を撫でて距離を取る。
やっぱり、無理に進めなくて良かったんじゃないか。
ブローノが、これから本当に好きになるひとに、まっさらの彼女を託すことができる。
いつも、彼女に慰めてもらうことしか考えていなかったちっぽけな自分なんかより、もっ
と立派な男に。
「アバッキオくん……」
クラスの女子がかわるがわるこっそり言いに来てくれたことによると、ブチャラティの
方向からは、まともに見えてしまっていたらしい。ほんとうにいつものやつらしくない阿
部の引きつった怒りの表情と、悪魔のようなタイミングでおれの二の腕にぶつかってきた
鎌と。おれの心臓に刺さったように見えた人もいたらしい。
「だから、表面だけでも普通にしててくれると助かるわぁ。あたしまでトラウマになると
ころやったって、あれ」
辛そうに笑んで、その子は手を振って去った。ええと、松本さん。口に出せるなら大丈
夫だって。でも、そういうふうに心の傷への対処に慣れてきているのかも知れない。この
小さな世界も、いろいろあったみたいだから。
その阿部へのおれの態度は、普通に見えているのだろうか。
金髪だから、ブチャラティの心を捉えることができたんじゃないか、なんて、やけになっ
てこじつけただけのに、まさか、自分も金髪にしてしまうなんて。あの髪、おれはうらや
ましかったのに。
似合ってないよ、阿部。
あの日より前なら、真っ直ぐ言ってぐりぐりかき混ぜてもやれたと思うのに。
わざとじゃないという阿部の言葉を、おれは今だって心から信じてやれるのに。
ブチャラティがショックを受けて、おれのことを忘れてしまったせいで、おれは阿部と
まともに顔を合わせることができなくなっていた。にらめっこは、いつも阿部の方から視
線を外してしまうのだが。
金髪になって。コンタクトを入れて。
それでも背は頭ひとつ阿部の方が小さい。顔立ちも、新都そだちののっぺりとした顔だ。
見間違いようもないのだけれど。
中身はあっちの方が優秀だ。ブチャラティをずっと想い続けていて。先生に受けも良い
し、成績だってトップクラスだ。似合う似合わないなら阿部の方がブチャラティにふさわ
しい……。
そう思うおれの劣等感が、阿部をまともに見られないのだった。
いつもは、そういうぐるぐるはブチャラティが払ってくれていた。
面白そうに、青い眼を煌めかせて殴ったりつねったりのし掛かってきたりして、おれを
鬱の谷間から引きずり出してくれた。
そのブチャラティが、もういない。
スカートを穿いて、屈託なく笑っておれを見上げてくれるけれど、それはもうブチャラ
ティじゃない。
おれの好きだったブチャラティはどこにもいなくなってしまったのだろうか。
ブローノを他の男に託すことはぼんやり覚悟ができてきたけれども、寂しさは堪えられ
なかった。
１２
時間を食った。ブローノをほったらかしだ、慌てておれは昇降口に向かった……。
いない。
おれは泡を食って下足箱の林を尋ね歩いた……いた！
おれは聞こえてきた声にすぐに顔をひっこめた。阿部獅王あらためレオ１号がブチャラ
ティを壁際に押しつけてなにやら言っていた。
「ブローノ、思い出せないのか。……おれたち付き合ってたんだぜ」
レオ１号はしれっとそう言ってブチャラティの頬に手を掛けた。
……やめろ、おまえ、そんなこと。
盗み見している立場なので声には出せなかった。でも、そんなことを言ってしまう阿部
の胸の中を思うと、止めてやらなくてはとも思った。
胸が苦しい。
ブチャラティは少し考える顔になった。
「Ｈｏｒａ？」
周囲を窺って、もう一度阿部に問いかける。
「Ｈｏｒａ ｃｏｓａ ｄｉｓｓｅ？」
困ったように見上げる顔は、いつもとほんの少し違っていて、それも魅力的だ。同じこ
とを考えたのだろう、阿部はブチャラティの肩に手を掛けて、顔を近づけていった。ブチャ
ラティの顔が、迎えるように近づいて……途中から動きは急になり強烈な頭突きを喰らわ
した！
「おい！ いい加減気付けよ！ レオーネ！」
軽く額をぬぐっておいて、ブチャラティはまっすぐこちらを見て声を尖らせた。いつも
の甘さのないきびきびした……え？
「委員長、混乱してる人間につけ込んじゃいかんな……騙されやしないけど」と、ブチャ
ラティは阿部の方にも言葉を叩きつけて。
「悪かった」
痛みやら、羞恥やらで顔を隠してしゃがみ込んでいる阿部は、擦れた声で言った。
「お、おまえ、思い出してたのか？」
おれは駆け寄った。
「ああ、しんせきのレオーネ君。２，３日した頃には。寝て起きたら元に戻ってた。元っ
て、おまえと付き合ってた記憶はみんなある」
「なんで！？」
「さあ。意外と人間たくましいもんだな。昔の方の記憶も戻ってきたし。これはお得だ。
……やっぱり胃袋かなあ、今日も弁当美味しかったぞ、ありがとう」
大物のお猫様はもう用はないと言いたげに阿部を置き去りに歩き始めている。
「言えよ！」
「ああ……うん、ちょっと、面白かったから。親戚って、なんで恋人って言わないんだ、
おまえのうちの子にしてくれるんじゃなかったのか。おまえの家族ばっかり盛り上がって」
「だって」
「おまえがわたしをおまえのものにしておいてくれなかったから、ほら、うっかり火事場
泥棒されるところだった。あのまま押し倒されてたらどうするつもりだったんだ？」
「あ、そんな、阿部はそんなつもりなかったと思うぞ」
「甘い……やっぱり近いうちに済ませておこうな」
「だめーッ！」
もう次の日には全開で、授業中誰も答えられなかった問題に手を挙げて正解を出したり
して。
「ブチャラティ……すごいな、もう繋がったのか？」
ムーミン・イシダも舌を巻いていた。
「愛の力で思い出しました」
極上の笑顔でそんなことを言ってのけるから、もう、教室は静まりかえってしまった。
「負けたよホント」
阿部は頭を抱えて机にぺったりと伏せていた。
お猫様、オネガイだからおれの心臓にも配慮して。
「なんかこのガッコに来てから毎年５，６月は悩んでるような気がするぜ」と言うと、来
年は５月になったらお祓いに行こうと、もう学校公認のおれの嫁は笑うのだが。
「だからそういうことは、もう昭和の時点で小林秀雄が指摘してるわけだろ？」
「そんなの、評論家が適当に書き流しただけのことで、その概念がバブル前の人間に浸透
してたとは思えない」
「それを言うなら、小林秀雄だけが突出した観察力を持ってたわけでもなくて、似たよう
なことは皮膚感覚であの時代の知識人は気づいてただろう、そういう時代の共有感覚が……」
今日も弁当を食べた後、阿部とブチャラティは楽しくディスカッションしている。もう、
内容は高度すぎておれにはついて行けない。
「なあ、いいの？」
クラスの連中が恐る恐る聞いてくるが、おれは頭を掻くだけだ。
「いいんじゃね？」
弁当箱をしまいかけると、お猫様は視界の隅にそれをみとめて、自分の分に蓋をして、
弁当用の小風呂敷を引き寄せた。
「ごちそうさま」
話の途中でも、ちゃんと眼を合わせて言ってくれる。
「ああ、うん、お粗末」
そんなことをしてるから、阿部も調子に乗っちゃって。
「ブチャラティ、……今度休みの日にどっかいかないか？ レオちゃん抜きで」
ちょ、待て、公認旦那の前でなんてこと言うんだ！？
おれが頭と顔に血を上らせてる間にブチャラティは向き直って、残酷な笑みを浮かべた。
「阿部、おまえはおもしろいからしゃべる分には良いが、おまえの嫁にはならないぞ」
「あ……いや」
あっさり振られて、阿部は伸びて半分もとの黒が出てきた髪を右手で掻き回した。
「だって、おまえみたいなまともなうちのやつは、料理は嫁がするもんだと思ってるだろ？」
「それは、練習すれば……」
無意識にムチャを言ったのに気づかない。
「レオーネは、うちは母親がいなくて料理は家政婦さんがしてくれるって言った次の日に
自分で弁当作って貢いでくれた」
「あ……そ……」
頭の良い阿部は、自分が言ったことにようやく気づいた。
「だから、このうちの子になってやることにした」
ブチャラティはおれの腕を取って晴れやかに笑う。
「こいつはこれで落ち込むときは真剣に考え込むから、あんまりいじめないでやってくれ
ないか？ サルヴィジするのも大変なんだ」
委員長は息苦しいような顔になっていた。
「だいたい、頭だけ金にしたってダメだぞ。マリリン・モンローみたいに全身真ッキンキン
に脱色してから来い。そしたら相手してやってもいい……いや、レオーネの後でだけどな」
「ブチャラティーッ！ おまえ、女がそんなこというんじゃねえッ！」
我慢できなくなって叫ぶとブチャラティは愉快そうに笑った。
ホントに、心から楽しそうに。
ブチャラティが、クラスのやつとこんなに楽しそうに笑うなんて。
こんな日が来るなんて。
ああ、梅雨が明けたな、こんなに空が明るくなって。朝までの垂れ込めた雲を、断ち割っ
て見せたような青空。こんなに熱い風が吹いて。
今年の夏は、いい夏だろう。
さあ、県民プールにでも、お魚ランドにでも、連れてってやらないと。ナランチャも、
フーゴも一緒に。そうそう、七尾さんも誘わないと。
いい夏になりそうだ。
０５−０５−１１
おまけ。
「ＸＸＸ！」
事件が落ち着いた後、マンションのリヴィングでは記憶の融合したブチャラティが、心
配を掛けた「弟」のフォローのために珍しくゲームを付き合ってやっている。複雑なコン
トローラーの操作に慣れていない彼女はまたしくじった。
「Ｃａｚｚｏ！」
頭を振って叫び声を上げる。そのさまも、今までは見せたことのない姿なので、彼らに
は新鮮で少し好もしい……？
それを見るともなく見守っていたもう１人の「弟」が紅茶を盛大に吹き出して立ち上がっ
た。
「ブチャラティッ！ 日本で女性はそういうこと口に出しちゃダメですッ！ 本国でだっ
て公の場ではダメでしょうッ！」
「え？ ああ、つい……」
かなり下々の言葉が身についていたことが判明したイタリア育ちの美少女は頭を掻いた。
「なんて意味なの？ 鰹がどうかした？」
ナランチャは曇りのない目をフーゴに向ける。
「ナランチャ、きみは知る必要がありませんッ！」
「ああ、ええと、チクショウとか、しまったとか……そんなカンジ？」
ブチャラティは６年ぶりに配線の繋がった頭をフル回転させて２つの言語の概念をすり
合わせた。
「直訳しないでくださいね、お願いですから」
「べつにそれくらいイマドキ女でも言うだろ？ フーゴの育ちがお上品なんだって」
ナランチャはそう言ってゲームを再起動した。
しばらくまたゲームが続いて、手加減をしないナランチャがまたじわじわとブチャラティ
のマシンの邪魔をしはじめた。
「Ｃｈｅ ｐａｌｌｅ！」
「ブチャラティッ！」
またフーゴが総毛だった。
「なに？ 今、タマって言った？」
ナランチャもぼんやりとした記憶が蘇りかけている。
「直訳禁止ッ！
お願いですから自重してくださいッ！ アバッキオはあれでお坊ちゃんなんですよ！
ちょっと検索しましたがかれのうちって小さいけど昔からの商社で、今のクール・ジャ
パンのおかげで相当業績良いです。ぼくら３人まとめて引き受けるって言うだけのことは
ありました。……あんたがそんなだとばれたら破談になりますよッ！」
フーゴは真っ赤になってまくし立てる。
「親が止めたら駆け落ちでもしてやるさ」
なにやら吹っ切れた感じのある大物女子高校生は、不敵に笑って見せた。
「やめてくださいーッ！」
おまけその２。
ブチャラティは親友のフォローにもちゃんと行った。
「やっぱりいざというとき頼りになるのは女の友達だ。助かったぞ、麻美」
「何言ってんの。まるっきり知らないひとを見る目で見ておいて」
対する麻美はまだちょっとぎこちない。
「でも、おまえのおかげで繋がったんだ」
「え？」
「やっぱ鈍くさくても根っこはイタリアーノだな、目の前で女の子が泣くと何があっても
なぐさめにかかる。まあ、あの時はこっちのことは親戚って言ってたしな」
「そこは万国共通じゃないの？ ああ、ごめんね、チャチャ」
「いや、そのときなんかムラーッと嫌な気持ちになって。理由は分からないけど。なんで
このお兄ちゃんがよそのお姉ちゃんに優しくすると嫌な気持ちになるのかなって、考えな
がらベッドに入ったら、翌朝バッチリだった。ジェラシィってのはなかなか役に立つ感情
だな」と、こっそり記憶が戻った裏事情を明かす。
「チャチャ、……あんたたくましくなってない？」
「もとからだろ？」
ふてぶてしい笑顔はこの少女にしか見せないかも知れない。２人は顔を合わせて笑い合っ
た。
「今後とも宜しく、親友」
「こちらこそ」
蛇足。
すんげえ難産だった記憶喪失篇、ゴールデン・ウィークに間に合いませんでした。ごめん
なさい。
相手が記憶喪失か何かで自分のことを忘れてしまったら。
身を引く気満々のレオーネ君でした。Ａ型カップルはこれだからめんどくさい。
「その朝」のブチャはぶん殴ってでも止める気でいると思いますが。「スラ猫」のブチャ
は過去のこともあり、逃げる気満々なのでどうなるか不明でした。それが難産の理由かな。
自分が逃げる分には良いけど相手が逃げるのは許せない？ なんですかそれは。結局なん
だかしらない運命の糸は繋がっていて、相手が自分以外の女の子を構うのは許せないとい
うところで赤い糸をぎゅっと巻き取りなおして戻ってきたみたいです。
日本の高校生活にぶちこむためにいろいろ小細工を弄しました「スラ猫」シリーズ、なん
とか小細工が生きてきたようで。ほんとこのおばはん困るわ。獅王ってなによ、キラキラ
ネーム？（実在しそうで怖い）
「ねえ、高校パロディで女体化って、ほぼオリジナルって言わない？」（娘談）
ええそうですよッ。誰得よッ。どうもお付き合いいただいてありがとうございました。
「そんで今回も無駄に長いし」
おかあさん泣いてもいい？
その人しか呼ばない呼び方萌えです。
ナチュラルに腹黒いブチャラティは、携帯チェックは当然している。レオーネ君が陰で
はお猫様と呼んでるのを見てにんまりしている。自分では、ブローノと呼んでくれたらい
いなとは思ってるけど、べつに呼ばないならそれでいい。チャチャという呼び名は気に入っ
て、密かに嬉しく思ってる。でもそれは麻美（七尾さん）専用とも思っていそう。
レオーネって名前は（軽自動車にもあったし）まだ日本人には耳なじみがあるので、
ジャングル大帝とか、森本レオとか、ウルトラマンとか、いろいろレオだけでも普通に呼
びやすそうだけど、ブローノはちょっと呼びにくい、レオーネ君は照れもあって、それま
では呼べないできましたが、さて、このあとどうなるか。なんも考えてません。
お代わり！
冗談じゃねえッ 帰る