この世の理
九月の末の嵐は、アメリカ中西部のある老人の命を奪った。その都市（まち）にとって
は大統領よりも有名で影響力のある男だったが、全米的にはごくごくどこにでもいる百万
長者の一人に過ぎなかったし、まして、日本に住む少年にとっては、なんの関わりもない
はずだった。
１
十月に入って一週間も過ぎたある昼前、この時間にしては珍しく、駅前のバスターミナ
ルには高校生がたむろっていた。
「このまえ夏休みが終わったばっかだってのに、また休みがあって、新学期ってなによ？
夏休み前の試験がなくなってこっちは楽だけどよー」
年頃らしくすこし着崩したブレザー姿は、地元の名門私立。幼稚園に入ってしまえば、
あとは大学院まで揃っているので親も本人達も受験の心配がない。人間の出入りの多い土
地柄、初等部や中等部、高等部でも少しとはいえ募集があるので、人間関係が息苦しいと
言うこともないようだ。のびのびしたお坊ちゃん校と周囲は見なしており、この彼らも髪
型にも髪の色にもそれぞれ心を配っている様子が見える。
「秋休みって言っても短くってさ、意味ないよね」
「ダッセ、あれって観光客？ こっちはバス専用だって、邪魔、邪魔！」と、話をまった
く聞かずに一人が迷い込んだ乗用車を指す。
「見んなよ、かわいそーじゃん。県外ナンバーだし」と、気のいい少年が手でバツ印を作っ
てドライヴァーに合図してやる。
「あーだめだめそっちはタクシープール！」と、お節介なのは約一名のみ。
「放っとけって翼」
「ショーヤ、休みの間なんかした？」
「ううん。寝て終わりだよな」
「でも今日始業式で半ドンでよかったじゃん」
彼らの手にするカバンが薄いのは、学業に関心がないからばかりではなかったらしい。
「イッコーとかニコーって、今日からもう授業らしーぜ」
「うわ。進学校ってスゴ」
「われらが仙台学院（ガクイン）がのどかってことに感謝しときましょー」
「ねーねー半ドンのドンってなに？ 牛丼のドン？」
のんきな声が上がる。
「なわけないでしょー亮ちゃん」
「じゃあ解るのかよ？」
「アキラ、知ってっか？」と、一人が振り返って、ブロンドと見えるまでに色の薄くなっ
た髪を風になびかせている友人に話を振った。
「わかんねー。でもさー今前期後期に変えても、結局またアメリカ様が九月はじまりだか
らって、次には九月はじまりにまた変えるわけでしょ？ グローバル・スタンダード？
無駄だよね。なんでそこんとこわかんないのかなーエライひとって」
ひときわのんきそうに、アキラと呼ばれた少年は答えた。
「輝（あきら）細けーなー」
「それは、結局アメリカさんに従う気はないよってことじゃないの？」
眼鏡を掛けた少年が訳知りげに笑う。
「そーかなー？」
「アキラってさー頭悪くないよね。そんで先生受けもいいし。その頭でそんでその青のカ
ラコン、いくらうちでもやばいっしょ？ どーやってごまかしてんの？ なー教えて？
やっぱ幼稚園から十二年も通うとその辺なあなあになるの？」
危なそうな色を目に浮かべて、探るように声を掛けた眼鏡の少年に、友人達の方が震え
上がった。すぐさま、何本もの腕が声を掛けた少年に絡みついて引き戻した。うち二本は、
口をしっかりと押さえている。
「こいつ高等部からなんだよ」
「もう半年一緒にいて！？ 誰も教えてないのか！？」
「知らないで済むかよ、バカ！」といった小声のやりとりが短く続いている。
当の本人は、
「え〜？ うちもひとの出入りがはげしーんだなー？ いーよ、おれ身の上語っちゃうよ？」
と、碧い目を細めて人なつこい笑みを浮かべたままだ。
剣呑な雰囲気だけは解るのか、眼鏡の少年が冷や汗を額に浮かべはじめた。
「いや、おれ達アキラがその頭キープするためにまだオリンピック強化選手並みに泳いで
ること知ってるし！」
「お袋さんに恥かかせないように、英語だけはかんっぺきに予習して来てんのも！」
「幼稚園以来の仲間じゃねーか！」
「小坊の時にダイキが飾りたての藤崎のクリスマスツリーに突っ込んでぶっ壊したのをお
まえが引っかぶって、院長先生まで出てきたのに口割らなかったのみんなソンケーしてん
だぜ」
藤崎というのは今も一番町に店を構える地元老舗百貨店だ。毎年商店街のアーケード側
入り口に飾られる巨大なクリスマスツリーは、仙台がクリスマスシーズンを迎えた象徴の
ようなものだった。
「最低ヤローの酒井が免職になったのも、おまえがボコリ倒してくれたからだっての、みん
な黙ってるけど中等部じゃー知らないやついねーよ」
口々に、必死にアキラと呼ばれた少年の機嫌を損ねることのないように訴えかけている。
「よせよ」
いっそう無邪気に、彼は笑った。
「こいつにはよく言っとくから！」
「な？ タカシ、あやまっとけ」
「あ、ああ、わり、かっ、た……」
「また明日な、数学の宿題、写さしてやるから」
「おれ、古文調べとくから」
「あの曲、落としといてやるし」
「歴史の暗記にチョー効くラップのＣＤ、焼いといてやるから」
それを捨て台詞に逃げ去って、バスプールは、とたんに静まりかえった。
と、その時、ひゃっという悲鳴のような声とともに、彼らがいた辺りの後ろのベンチの
ところから、大きな丸いものが次々転がり出た。いくつもの、グレープフルーツ。それが、
バスプールのカラーブロックの上を、弾んで転がっていく。
「あーあ」
毒気を抜かれたように一声発して輝は動き出すと、すぐさまきびきびと動いて果物をみん
な拾い集めた。最後の一つが車道にまで転げ出たのを見とめるや、腕の中にグレープフルー
ツを抱え込んだまま駆けだした……
「危ない！」
さっきからバスプールに場違いに迷い込んでウロウロと三周もしていたと見えた乗用車
のドライヴァーが、はじめて自分の間違いに気づいて慌ててアクセルを踏んだものか、急
発進してロータリーを抜け出そうとした、それにグレープフルーツを追った輝が真正面か
ら出くわしてしまった。
けたたましいクラクション、悲鳴、タイヤのきしむ音。とっさに二つ三つとんぼを切っ
て歩道に戻った輝がさすがに尻餅をついた情けない音が続いた。
「君、あぶなかったぞ」
「グレープフルーツに命掛けけちゃダメださー」
「おねえさんにいいとこ見せようとしすぎださねー」
「若いってことよな、ふぉ、ふぉ」
「グレープフルーツだからどうせ皮食べないし、大丈夫、大丈夫、ねーおねえさん」
半都会らしくその場に居合わせたものでちょっと盛り上がった後は、さっと場は解散し
て何事もなかったようになる。
「あはは、なんか派手になっちゃった」
輝は照れ笑いしながら、最後の一個のグレープフルーツを落とし主に差しだした。
「ありがとう……」
その姿から目を離せずに、手探りでグレープフルーツを白いポリエチレン袋に入れ直し
たのは二十才ぐらいの女性だった。その袋から、またグレープフルーツは顔を出して、転
がり出て行く。輝がそれを拾って、また手渡す、また受け取って、そのまま手探りで入れ、
また落ちる。
「エコバッグにしなよ」
とうとう輝が言った。顔はまだ笑っていた。
「え？」
「エコバッグ使いなよ。それ、破れてる。ポリエチレンのレジ袋って、裂けやすいんだよ
ね」と、シャンプーの詰め替えパックの端で縦に十五センチほども裂けてしまっている脇
のところを指で指し示した。
「え？ あら、あら」
それを聞いても、女性はおっとりと両手を交互に見るだけだ。
「ごめんなさい、持ってないの。思いつきで出かけて買い物をするものだから、いつも……」
見ると、本当にワンマイルウエアのジャンパースカートにパーカを引っかけただけのお
散歩スタイルでハンドバッグも提げていない。輝は仕方なく、カバンの中からスポーツタ
オルを出して、端同士を結び合わせて輪にした。その中に、落ちないようにグレープフルー
ツを詰め込んでいった。
「まあ、こんで何とか持って帰りなよ」
「どうもありがとう……」
そう言いながら、女性は、まだ輝を見上げている。
「おれの顔、変？」
彫りの深い、陰影の濃い顔だ。眉が濃く、唇も愛嬌よくぽってりとしている。よく泳い
でいるとさっき友人達が言っていたが、全く日に焼けておらず、あやしいほどに白い。か
るくそばかすさえ散っている。虹彩は、なるほど、あり得ないターコイズ・ブルー。
「いいえ……どうして、親切にしてくれるの？
お友達も逃げ出すほどに、怒っていたんでしょ？」
「あは、聞いてたんだ」
輝は、また笑った。
「おれ、そんなにキレやすくないよ。ま、筋力はあるから、暴れたら凄いらしいけど。
それに、おんなのひとには、親切にしないとね。これ、うちのオフクロの教育」と、胸
を張る。
「いいおかあさん」
女性も、にっこりと笑った。際だつ美人ではないが、丸顔で、感じのいい笑顔だ。
「教えてあげる。半ドンのドンはドンタク、休日よ。オランダ語なの」
「オランダ語……？」
「訛ってるの。明治時代だから。ホントはゾンタクなのかな？
正午の時報に大砲を撃ってた頃だから、大砲の音のドンだと思ってるひともいるみたい。
お昼のドンが鳴るまでお仕事をして、その後休日だから、半分だけの休日で半ドン。バ
ブルの頃までは土曜もみんなお仕事したり学校行ったりしてたんだから」
「へえ……」
「借りていくわね。どうもありがとう」
立ち上がると、女性はまぶしそうに輝を見上げた。百八十はあるんじゃないの？ と口
の中で呟いている。
「いいよ、やるよ」
「大丈夫。仙台学院の、１年生の、みんなのヒーローでハンサムのアキラ君。きっと返せ
るわ」
化粧気のない顔で、またにっこりと笑う。ポケットを探って、なにか黒いフィギュアの
ようなものの付いたストラップを出して、輝の目の前にかざして見せた。
「おまじない。良く見てね……お友達に誘われたら、断れない。いい出会いがあるわ」
囁くような声で言った。
「ホクシンがあなたを導く。ワン、ツー、スリー！」と、急に調子を変えて良く響く声で
宣言した、芝居のように。
「なに？」
あっけにとられて輝は言った。
「これ、猫？ くれるんなら貰うけど」
「あら、残念。わたしとは相性が悪いのかしら。でもなんとかなるわ」と、かまわず小首
をかしげてみせる。黒い長い髪をゆるく耳の下のところで二つ結びのお下げにして、片方
は前にたらして、もう片方は背に。ちょっと手を挙げてそのまま歩き去る女性を、輝は見
送ってしまっていた。
また会う気があるなら、名前ぐらい名乗ったらどうだよ。
輝はそんなことを考えていた。手には猫のフィギュアのストラップ、それにグレープフ
ルーツの香りがまだ残っていた。
「五月待つ花橘の香を嗅げば 昔の人の袖の香ぞする
柑橘系は、記憶中枢に効く香りなんです。きみたちも、試験勉強の時に使ってみたらど
うかしら」
東京のすんごい名門の国文科を出たという古典の先生が、ちょっと気の利いたことを言っ
た顔になっていたっけ……。
２
次の日には、もう忘れて輝は学校に行っていた。帰りに同じクラスの生徒に声を掛けら
れて。
「あの、松本くんって、うち、泉の方だよね？」
「ああ。地下鉄乗って終点だよ。どした？」
田辺浩樹というその生徒は、普段なら輝には声も掛けないような目立たないヤツなのだ
が。
「パークアベニューってマンション解る？」いつもと違った目つきをして、粘ってくる。
「あー！ うちの近所をすっかり日陰にしやがった高層マンション！」
「じゃあ、近いんだ？」
ぱっと顔が輝いた。
「近いもナニも。なんか用か？」
「うん。あのね……『オペラパンプスを履いた猫』って、知ってる？」
「はあ？ 猫が履くのは長靴だろ？」と輝が素で答えると、やっぱり、とかるく失望しな
がら、浩樹は粘り強く説明した。
「アニメにもなってるんだけど……少女漫画でね、結構単行本出てるんだ」
「おまえ、しょーじょ漫画読むんか？」
「掲載誌が『ワンダフル・ドリーム』なだけで、『オペ猫』は大人が読むに足る作品だっ
て！」と、浩樹は声を荒げて訂正する。
「おまえ、そーゆー趣味のひとね、ああ。じゃ、こんど見して。
そんでその猫がナニ？」
輝はあっさりと笑って肯いて、先を促す。
「その、作者の水口ゆうき先生が、……そこ住んでんの」
「あ？」
「だから、水口ゆうきが、泉パークアベニューに住んでるんだって！ ぼく突き止めたん
だよ！ 電話番号も！ アポも取れたんだ、今日！」
「へえ」こーゆーとこで得意げになるのね、その趣味のひとって、と、輝は感心していた。
「それで、松本くんちょっと案内してくれない？」
「ああ、そう？ そういうこと？」
やっと話が見えてきて輝はホッとした。
「うん。松本くんは女の子に受けがいいから、水口ゆうきもきっと喜んで相手してくれる
と思うし」
「えーっ、おれってエサなの？」
悪びれず、にやにやと笑って見せる。これだから、輝は友だちには事欠かない。
「大丈夫、ちゃんと手みやげも用意するから」
すっかり話もまとまって、二人は水口ゆうき宅を訪問することになっていた。
良かった、噂通りだ……松本くんって本当に頼りになるんだ……。
田辺浩樹は胸をなで下ろしていた。高等部からの入学生である浩樹が内部進学組にちょっ
と相談してみて、頼りになる男ナンバーワンとして複数から名前が挙がったのがこの輝な
のだった。
……顔は派手だけど、ひとの役に立つことが大好きだから、どんどんこき使ってだいじょー
ぶだぜ。
翔矢は胸を張った。
……あれで曲がったこと嫌いなんだよね。悪いことに誘ってもダメだよ。
翼は屈託なく笑った。
……女の子にもまんべんなく優しくて、抜け駆けとかもしないから、コンパの時には必
ず混ぜとくんだ。
亮は愉快そうに声をひそめた。
……昨日バカがうっかりやっちゃったらしいから言っとくけど、あのハーフ顔のことは
気にしてるんだから絶対言うなよ！ 人並みに想像力あるなら解るだろ！ 十二年間、学
校行事にお袋さん以外が出たことないんだよ！ そうでなくたって、仙台だって都会なん
だし、うちはミッション系なんだから、いまどき一学年に一人どころじゃないよ！ 国籍
が日本じゃないヤツなんか！
続いて、クラス委員長の佳宏が険しい顔をして釘を刺してくれた。
今日のところは先生のリクエストだけど、仲良くなれたら結構楽しそう……。
「『オペラパンプスを履いた猫』ってのは、まあ要するにあのペローの童話の翻案なワケ
だけど、もう、舞台は日本で、猫版の『家政婦は見た』みたいな感じで。最初は、華族の
うちにいた猫がその家のご主人のためにいろいろお節介を焼いて幸せを呼んでくるって話
だったんだけど、第二部のペルシャ猫の兄妹の話がアニメ化されて、対象年齢以上の大き
いお友だちとか、単に猫が好きな普通の社会人とかにも人気が広がって。……もう普通に
有名人だと思ってたんだけどなあ」
地下鉄の車内でレクチャーが始まった。
「おれ少……漫画は読まないし、猫そんなに好きでもないし」
「出身は静岡だったかな？ 高二でデビューして、仙台には去年越してきたらしいんだ。
母方のおじいさんちがあるとかで。アニメは去年終わったけど、まだ第四部が連載やって
て……ホントに聞いたことない？」
「ごめん」
表情筋が発達しているのは親譲りらしい。時々母親が泣きそうな顔であの人に似ている
と言う済まなさそうな笑顔を輝が作ってみせると、浩樹も困ったような笑顔を返した。
「今は二十歳かな？ 感じのいい人だったよ。電話で話したんだけど、気さくで、優しい
感じ。作品の感じって、やっぱり作者の人間性が出るんだなあ。ひとの善意とか、希望と
かが信じられる、信じたくなるそんな感じの……」
「ふーん」
地下鉄の駅を出て少しして、そのマンションが見えてきた。
「それで、漫画家って儲かるでしょ？ あのマンションの最上階全部が、水口ゆうきの家
なんだって」
「えーなんだよ！ そんなの許されんの！？」
「お金があったらできるんじゃない？ 去年は仙台市長より税金払ってたみたいだよ」
「え、ウソ、マジ？」
「最近は長者番付って発表されないけどね。その辺は、裏で」
マニアなひとって怖（こ）えーっと、笑顔の裏で輝は考えていた。
「いらっしゃい。どうぞ」
そう来るとは思わなかった。開けたドアの中からは、昨日と同じグレープフルーツの香
りがしていた。
「し、失礼しまっす！ こちらは、今流行ってるって情報番組（バンデス）で言ってた……
召し上がってくださいっ！」
がちがちに緊張して、デパ地下スィーツを差し出しながら浩樹は挨拶したが、それにちょっ
と微笑みかけただけで、
「仙台学院の、一年生の、みんなのヒーローの松本輝くん、ようこそ」と、芳紀二十才、
猫が立って歩いて人助けをする漫画の作者は、やっぱり化粧気がなくてホントにどうしよ
うもない地味な服を着て「ファン」を迎えてくれた。昨日と同じ、美人過ぎないホッとす
る笑顔で。
真っ直ぐな黒い髪だけはきれいだ。
あのシャンプーのＣＭモデルになら一も二もなく推薦するのにな、と、輝は昨日見た国
内有名メーカーの一番どこにでも売っているシャンプーのことを思いだしていた。
あんな普通ので洗っててもこんなになるんだ。
自分がコンプレックスがあるから、髪がきれいなだけで十分正統派の美人に見えるよ。
あとは別に欠点と言うほどのものもないんだし、磨けば十分に光る光る……。
それにしても、あんなほんとのちょっとそこまでのお散歩スタイルで地下鉄に乗って仙
台駅前まで出てきちゃったんだな。やっぱり漫画家って浮世離れしてる……。
浩樹が熱心に作品について自分の思い入れを語ったり、最近の作品について感想を述べ
たりしている間、ただ輝は自分の中で考えをめぐらせていた。
「昨日はどうも。ちゃんとお返しできたでしょ？」
最高にハイになってしまっていて、カラー原稿だ、愛読者プレゼントの試作品だと何を
見ても吠えまくる浩樹に仕事場を自由に見させておいて、水口ゆうきは輝の脇にきて、そっ
と昨日のタオルを入れた紙袋を出した。
「ちょっとしたお土産付き」と、少し髪を揺らせて微笑む。
「驚いたよ」
正直に、輝は笑って見せた。
「どういうトリック？」
「わたし、ちょっとした魔法（チャーム）が使えるの」
「魔法（チャーム）？」
輝は目を剥いた。
「思ったことがホントになるって言うか。ひとにお願いを聞いて貰いやすいって言うか」
「怖いな」
「でも、役に立ったでしょ？ 輝くんは相性が悪いみたいだったけど、うまく行ってよかっ
た」と、水口ゆうきはまた笑った。
「なんか、複雑……相性いいとどうなの？」
「うふふ、そのうち判るわ」
「うわーっ、広い！ せんせー！ こっちのお部屋はなんなんですかーっ？」
ばたばたとひとの家を探検し続けている客を放っておけずに、漫画家は身を翻して行っ
てしまった。
「ああ、そっちはアシスタントのひとに来てもらったときに寝て貰う部屋なの……」
「なーっ？ 水口ゆうき先生って、いいひとだろーっ？
お茶もお菓子もさすがに高級だったよね。カップもあれきっと、輸入物のたっかいやつ
だよ。あのイチゴの模様、輸入ブランドのチラシで見たことある。
松本くんみたいな読者でもないひとにもサインとお土産くれて。ぼくは原稿のコピー貰っ
ちゃったよ！ あの、二部のヒロインの姫子ちゃんの登場シーンの！ もうぼくファンク
ラブ作っちゃおうかな。松本くんも今度単行本貸すから読みなよ。副会長させてあげるか
ら」
浩樹はもう心酔しきって、駅までの道も声高になっている。
「ああ……サンキュ」
輝の方は、なにか気分ががさがさして仕方がない。お茶のおかわりを、水口ゆうきが浩
樹を優先して、なにかというと目を合わせてにっこりにっこりしていたとか、帰りがけに、
あの猫のストラップをかざして、
「また来てくれると嬉しいわ。大丈夫。ホクシンがあなたとわたしを繋いでくれてる。
今度は同じ趣味のお友達を。ワン、ツー、スリー！」とよく響く声で言っていたのとか。
聞き耳を立てたんじゃない。響きが違うから聞こえてしまったんだ。
輝は自分の心に言い訳をしている。
「美人ていうか、かわいいよねー。ぽっちゃり系で、気さくで。あの笑顔がたまんないよ
なー。東京からこっちに来るぐらい、二部から三部になる頃に結構いろいろあったらしくっ
て、サイン会で見た人が可哀相なくらいやつれてたとかネットで言ってて、心配してたん
だけど、よかった。絵柄もあの頃ちょっと変わってさー、より哲学的になったって言うか、
シンプルで奥行きを感じさせるようになったんだよね……」と、浩樹はまだ勝手なことを
言い散らして歩いている。
「なあ、ホクシンってなに？」と、輝はつい聞いてしまう。
「わー！ 関心持ってくれた？ 北辰って、主人公の猫の名前だよ。額に白い星のある黒
猫。
これが、『ワンダフル・ドリーム』の全員プレゼントのフィギュア・ストラップ。出来
がいいでしょ？」と、ポケットから、輝が貰ったのと同じ猫のストラップを出してきた。
いつも持ち歩いてきたらしく、黒猫は角が取れてところどころ白くなっている。
「北辰ってのは、北極星のことらしいよ。ぶれないで、方向を指し示してくれる星って物
語の象徴なんだって。そういう設定とかちゃんと考えてあって。凄いよねー」
「ふうん」
さらに蘊蓄が広がりそうなのを、地下鉄の駅の灯りが見えてきたのを指さして、冷静に
させる。
「もう判るな？ 気をつけて。じゃあまた明日」
「ああ、ありがとう。明日絶対１部から持ってくから読んでよ！ アニメ放送開始直前編
集のファンブックも付けるから！ お宝情報満載なんだよ！」
「うん」
大きく手を振って、嬉しそうに浩樹は改札の中へ消えた。
本人が大ファンの、キャラクターのストラップを間近に出して見せて。
ちょっと変わった感じのしゃべりでなにか「お願い」をして。
数を数えてみせて。
それって、なんか……じゃない？
イヤな感じを振り切るように、輝は家への慣れた道を帰った。
３
それから、田辺浩樹は学校に来なかった。
三日目には、ホームルームの時に担任が何か訳を知っている者はいないか、と真顔で皆
に尋ねだした。どうやら、家にも帰っていないらしい。
まさかなあ……。
輝は頭をかいて、それきりにして歩き始めた。スイミングスクールのプールで、毎日三
時間は泳ぐ。それが、この町で浮かないためのノルマ。塩素の海で漂白してもらって、輝
はやっとこの町の一員になっていると信じている。幼稚園で、水泳を始めたという幼い友
だちから、プールで泳ぐと髪の色が薄くなると聞いて以来だ。子鬼のよう、と言われた生
まれつきの髪の色を、彼はもう忘れたかも知れない。ただ、それを隠さなくてはいけない
ということだけを覚えている。
「松本……アキラ？」
スイミングスクールの外階段の暗がりから、確かめるように声は響いた。
「なんだ、カイか」
「まだ泳いでるんだってな」
近寄ってきたのは、小学校時代のライヴァルだった。駅向こうの別のスイミングスクー
ルの生徒で、県代表をいつも争った。
「もし、おまえが、うちのコーチがトチ狂って言ったことを気にしてるんだったら、おれ
が謝るから、また大会出ろよ」
カイの顔には影が落ちたままだった。
……ハーフならアメリカ国籍もあるんでしょう？ だったらその子はアメリカ代表を目
指せばいいじゃないですか。うちのカイはメダルが取れる子になりますよ！ 次の全国大
会にはカイを出すべきです。
なんかいろいろ勘違いしてるひとだった。国籍を二つ持っていて、オリンピック代表に
なれそうな方の国籍を選んでオリンピックに出た、バレーボールの選手にはそういうひと
もいたらしい。
おれはアメリカ本土で産まれてないし、私生児だからアメリカ国籍なんかないんだよ。
正義に燃えるひとが過去に頑張ってくれてなかったら、日本国籍すらもなかったところ
だった。自分が微妙な存在だということを思い知らされて、輝はスクールの記録会にも出
なくなった。幼い頃からのつきあいだから、スクールには便宜を図ってもらっていて、「健
康増進コース」ということでレーンを一つ空けてもらって、放課後の決まった時間にいつ
も泳いでいる。
「はあ？ ……ああ。何気ぃ回してんだよ。中学入って背ぇ伸びたらなんか手と足がかみ
あわなくなって記録落ちたんだよ。誰がおまえなんかに気ぃ遣ってせっかくのチャンスの
がすかよ」と、輝はもう言い慣れた言い訳をよどみなく口から出す。
「ホントにぃ？」
「ホントだよ。それに、遠征費結構負担でさ。うち母子家庭だし」
一生懸命輝は浮かべる。相手を騙す困った笑顔。ああ、なんて上手になってきたことか。
「ま、今はおれ、おまえなんかぶっちぎって速いけどな」
必死でのぞき込んでいたカイの顔が、急にほころんで笑顔になった。
「うん。国体出たって？」
「今度カラオケしようぜ。うちの高校の女の子誘うから」
「いーのー？ カイったらよゆー」
「だっておまえムッチャ固いじゃん！ 安心あんしーん！」
心からの笑顔になって、ふと思いついて言いかける。
「あ、そーだ、いっぺん行ってみたかったんだけど、おまえ、この辺で……」
主義を曲げて、寄りつきたくない向かいのマンションのインターフォンを押したのは、
さらに二日後だ。浩樹は漫研の生徒にも声を掛けていたらしい。彼も家に帰らなくなって
四日だという。
「今度は同じ趣味のお友達を」という声が耳に蘇る。
チャームって、言ってた。
あれって、暗示、じゃないの？
今は催眠術って、あんまり言わないらしい。うさんくさいから。ちゃんと研究して、練
習した学者が、心の病気を治すために、使ったりする……。
最上階、二五〇一室は応答がなかった。しばらく待ってるうちに住人が帰ってきたので、
何食わぬ顔で続いてオートロックのフロントを通って、エレヴェーターで最上階に上る。
玄関ドアの横のインターフォンの方を、押してみる。さすがに出た。
「誰……？」
「あの、こないだ呼んでもらった、松本輝。
……浩樹来てない？ こないだの、田辺浩樹。もう五日もガッコ来てないんだ。漫研の
ヤツも」
「知りません！」
そんなにすぐ切らなくなって。疚しいって言ってるみたいよ？
輝は頭をかいて、そしてまた乱れた髪をなでつけて、非常階段への出口を探した。
あんまり飛んだり跳ねたりは最近してないんだけど。
一遍やってみたかったから、明るいうちにちょっとトライしてみる。
ご近所中を日陰にしてくれたマンションは、一応日照権には気を配っているみたい。北
側は階段のように上に行くほど痩せている。九階までは一フロアにつき十五室あるけれど、
そこからは、角部屋にはルーフガーデンって言うんだっけ、どんどん下の部屋の天井の上
が露出してついている。ゆうきの部屋も、教室並みの広さのコンクリートの庭がついてい
た。この前呼んでもらったときに、何気なく外を見て、感じていた。
「非常階段のとこから、飛び移れるじゃん、ぶよーじんだな」
まあ、地上二十五階でそういう冒険するやつもいないと思ったんだけど。
ちょっとした巡り合わせで、冒険野郎になってみる。
ドアを開けて非常階段へ出ると、十月の空はどこまでも青くて、いいカンジに風も少な
かった。
これでビュウビュウ吹いてたらたぶんブルって諦めてただろう。
まー死なないでしょ、たぶん。運動神経は、いい方だし。無茶は若いうちにやっとかな
いとね。
なんてことを考えながらほんの一メートル先に見えるゆうきの部屋を見る。カーテンが
閉めてある。
「こんないい天気なのに。もったいないよな」
下を見ないように意識しながら、輝はかるくストレッチをはじめた。
……こんなことまでして、外れで、浩樹や漫研の子は来てなかったら？
そんときは、ロミオとジュリエットごっこでもすればいいじゃん。命がけで、あなたに
逢いにきましたって。
あの笑顔は、それくらい言っちゃってもいいかもよ。
すっごい色っぽい事態になってて、「真っ最中」だったら？
いいじゃん、混ぜてもらっちゃえ。
とっても緊張してた浩樹。今年は五人きりの編入生、いつも小さくなってて。学院のヌ
シみたいな輝に声を掛けるために、どれだけ勇気を振り絞ったことだろう。浩樹をここに
連れてきてしまったのは自分の責任だ。
……ときどきこういう無茶をやるから、ヒーローにされちゃうんだな、おれ。
ダイキのママは、キレイだけどえぐいひとだった。ちょっと元気すぎるダイキの服の下
にはいつも生々しい傷があった。あんな派手なことをやらかしたら、まじで殺されちゃう
と思った。
……ああ、大変なのはおれだけじゃないね。みんな、おぎょーぎよくしてないと見放さ
れると思って、必死。
「中等部から、高等部に、上がれなかったヤツはいない。これまではな。だが、今年は、
ヤバいヤツがいる！ あってはならんことだがな。これから返す答案をよく見て、自分が
ヤバいかどうか解ったら、おとうさんおかあさんにお願いしなさい。わたしが相談に乗っ
てやる」
具体的に、誰が、どのくらいヤバイのかは酒井は言わない。どうしろとも言わない。そ
うやって、毎年何人も、親に迷惑を掛けたヤツがいたらしい。
酒井は最低だ。誰言うとなく広まって、三年になったらとにかく理科だけはみんな頑張っ
た。
一コ上の遠藤さんのママはすっごい美人だった。幼稚園の時から、ほんとに天女のよう
に優しくしてくれた。遠藤さんも、「鬼の子のよう」だった当時の輝に、いつも手をさし
のべてくれて、砂遊びもブランコも、最初はいつも二人だった。
やさしい遠藤さんは、少し、頭がとろかった。たぶん、ママさんも。天女のようにきれ
いなママさん……。
相手が死んでも構わないと思ってボコったのは、たぶんあれが最初で最後。
院長先生は、とっても悲しそうだった。
幼稚園だっけ、キリスト教の教えのもとに設置された学院で、私生児を受け入れるとは
何事かと文句を言ってきた親がいた。一目で判ります、あの赤い髪、ありえない青い色の
目！ 仙台で、日本で生まれ育った子ならありえない姿の子が、学院の子に混じれば悪い
影響を与えます、……そんなこと言ってたなあ。
……この子が生まれたと言うことは、それだけで主に赦されているのです。あなたは主
のお赦しになった子をなんの了見があって咎めるのです？
院長先生は、輝をしっかり抱きしめて、そのヒトに言ってくれた。けれど、輝は知って
しまった。自分は、悪い「特別」なのだと。
必死なのは浩樹だって。それなりに名門の仙台学院に、高校からはいるなんてすごい勉
強してないと無理。その、せっかく入った学校を、さぼったりなんて、するわけない。
あのひとには、絶対なんかある。
そこまで考えて、輝はストレッチをやめた。
高さは忘れる。ふつーに、横断歩道の最後の二歩を、省略して向こうの歩道に飛び移る、
そのぐらいの距離。大丈夫。できる。
「死なない死ななーい！」
緊張をほぐすため、無理に笑って、輝は非常階段の柵を蹴った。
セーフッ！
ぎりぎりで向こうの柵に取り付いて、ぞわっとする足の裏の感覚を切り捨ててなんとか
身体を二五○一号室のルーフバルコニーに落とし込んだ。
さすがにしばらくはへたり込んだ。手の指ががくがくして、こんな日差しの下なのに冷
たい。
「だいじょーぶ！ おれって運強いし！」
無事にアメリカから日本に渡って来て、なんとか産んでもらえたし。
挫けそうなときに自分を励ますネタを思いだして、気合いを入れる。掃き出し窓をめが
けて歩き寄って、中をのぞき込む。鍵は開いてる。
「ぶよーじん！ 入っちゃうよ」
声を掛けて、スニーカーを脱いで、一足踏み入れたとたんに、本人に見つかった。
「誰？」
「あ、えーと、こんにちは」
輝は芸のない挨拶をしてしまって、ややへこんだ。
「輝くんね、どこから入ったの？」
水口ゆうきは、やっぱり今ではホントの妊婦さんだって着ないようなぞろりとしたジャン
パースカート姿だった。袖口にはカヴァーを掛けてるし、髪は前髪はクリップで左右に留
めてるしあとは首の後ろでひっつめていて、全体にものすごく……作業中の雰囲気。
「ここの窓、いつも鍵掛けといた方がいいよ。ちょっと命がけだけど、飛び移ろうと思っ
たら来れた」
「どうして来たの？」
「逢わなきゃと思ったから。もっぺん聞くけど、田辺浩樹、来てない？ 漫研のヤツも」
「知らない……」
こんな顔、見に来たんじゃない。水口ゆうきは泣きそうな顔になって、顔を横に振った。
「そう……」
ばかなこと、しちゃったかな、と思った瞬間、脇の部屋から声が上がった。
「先生、できました！ 次は？」
しわがれた声、振り返って、ドアの中をのぞき込むまで、浩樹だとは解らなかった。
奥の部屋には、事務机が四つ置いてあって、それぞれ卓上燈がついて、なにか描いてあ
る画用紙を照らしていた。もちろんそれぞれペンや筆やカッターナイフを握ったその趣味
の少年少女が、忙しく手を動かしている。
女の子にまで声掛けたのか。
輝は舌を巻いた。
「なにやってんの？」
「なにって、お手伝い、してもらってるのよ」
表情が硬いのは、本人も、無茶だと認めているのだろう。
「それって、プロのひとがいるんじゃないの？ 田辺もあっちのヤツも、まだ学校あるん
だからさ、学校休ませてまで使うのやめなよ」
「ちゃんと、アルバイト料、払ってるんだから。本人も、いいって、言ってくれてる、ん、
だから」
短い言葉を畳みかけて、自分にも言い聞かせるように言う。
「なんでだよ。親や学校に怒られるって。なんであんたこんなことしてるの？」
「だって、ホントはちゃんと描けるのよ。一人で毎月四十枚、ちゃんと描けるんだから。
今月はちょっと風邪を引いちゃっただけなんだから。わたしの絵は軽いから、プロのアシ
さんなんかいなくても大丈夫なんだから。トーンなんか全然ないんだもの、パースも考証
も、全然緻密じゃないんだから、一人で描けるんだから。
締め切り守らないと、また東京に戻らなきゃならなくなるの。プロのアシさんに付いて
貰って、ごめんなさいごめんなさいって仕事をしてもらわなきゃならなくなるの。だから
締め切りだけはちゃんと守らないと……」
癒し系の丸い顔はどんどん赤くくしゃくしゃになっていって、自分の身体を抱きしめる
ように見えていた両手は、気がつくと胃の辺りを守るように押さえていた。
「ゆうきちゃん！」
もう黙って見ていられずに、輝は手をさしのべてゆうきを抱きしめていた。
「先生、ぼくの分終わりました。次は何を？」
目の焦点の合っていない浩樹がひび割れた声を出す。
「待って」
ゆうきがぽろりと声を発した。
「先生」と、他の声も催促した。
「待って、待って！ 今描くから待って！！ 見放さないで、お願い！」
次には身をよじって、叫ぶようになった。
「ゆうきちゃん！」
輝はゆうきの両肩を持って強く押さえつけた。
「だれもあんたを見放さないって。ちゃんと一人で描いてきたんだろ？ 今までずっと。
変なマジックなんか使わないで、プロのちゃんとしたアシスタントのひと呼んで手伝っ
てもらったらいいじゃない」
「だって、ちゃんとしたアシのひとって、怖いの……」
ずるずると廊下に坐り込んで、喘ぎながら、ゆうきはぽつりぽつり語り出した。
「はあ？」
「連載の始まった頃、付けてもらったけど、わたしは一人で描いてきてたから、バックの
処理の仕方とかの専門用語も知らなくて、バカにされて、背景の方が絵がきれいとか、トーン
とかを重ね張りするような高度な処理も少ないから原稿が軽くって風で飛んだとか、陰で
笑われてて、そう思ったら手が動かなくなって、わたしより年上のひとが何人も後ろで待っ
てて、先生まだですか、そんな単純な絵に何時間かかってるのって、言われて……」
「ひでーな」
輝は漫画家の世界は知らないが、単純にそういう感想だけは出た。
「それで仙台に逃げてきたの。東北に引っ込んでるから、アシさん来てもらわなくていい
ですって言うために。絵もどんどん単純にして、ごくごく少しだけの手助けで描けるよう
に変えたの。
あんな、知らないひとの家庭にどんどん入っていって、触れあって幸せを届ける話を描
いているのに、ひとが怖いの。ばかみたいでしょ？
きみはどうして暴れないでいられるの？ 弱点だって分かってることをみんなの前で言
われて、どうしてキレないで笑っていられるの？ そのすぐ後に、人に親切にするなんて
ことができるの？ どうしてそんなに強くいられるの？」
涙を溜めた目で見上げられて、輝は胸を突かれた。
「あーよかった、やっぱやせ我慢ってやっとくもんなんだ」
そして、間をおいて、照れくさそうに笑った。
「だって、おれ、他人様の中で生きてきたもん。そりゃ、ハハオヤはいたけどさ。シング
ル・マザーでさ。
生まれてきただけで他人様に迷惑掛けてんだから、せめておぎょーぎよくしとかないと、
さ。
でも、いい加減しんどくなってきてたから。あんときも。やつらみーんな申し訳ない顔
にさせちゃっても、この際面白くもない身の上話ここで上書きしとくかって、そんな気に
もなってたんだけどな」
「事情が、あるのね」
「んー、でも、今時アリアリだし。おれたち幼稚園から組なんか、十二年で半分は名字変
わったな」
あくまでもあっさりというその精神の強靱さこそが、輝のとりえかもしれない。
「でも、あんときゆうきちゃんが笑ってくれたから、すんごく尊敬した顔してくれたから、
なんか楽になっちゃった。助かったんだぜ」
顔の両脇を掴んで、目を見て言い聞かせる。
「浩樹が言ってた。作品には、作者の人間性が出るんだって。ひとの善意とか、希望とか
が信じられる、信じたくなるそんな感じって。おれも、漫喫行ってちょっと読ましてもらっ
たけど、なんかこの辺が温かくなった」と、自分の胸の辺りを右手で押さえた。
「だから、大丈夫。あんたのことは、みんな好きになるから、お友達として、助けてって
言って助けてもらえばいいんだ。こんな無理に働かしちゃいけない。あんたのためにも」
「さっきはプロのひとを呼べって言ったわよ」
涙をぬぐいながらゆうきが笑った。
「あれ？ そうだっけ？」と、輝は我知らず頭をかいた。
「目を覚まして！ あなたは今自分の意識を取り戻す！ ワン、ツー、スリー！」
声に合わせて輝はカーテンを勢いよく開けた。外はよく晴れていて、地上二十五階の高
層マンションの最上階からは、泉が岳がはっきり見えた。机に向かっていたアシスタント
有志一同は一瞬、びっくりして瞬きをしていた。
「どうもありがとう。がんばってくれて。ちょっと休憩しましょ」
ゆうきを手伝って、輝が人数分コーヒーを淹れて配った。浩樹たちは、机を離れてゾン
ビのようにがくがく動きながら隅のティーテーブルに集まった。
「みんな、無理させちゃってごめんなさい。もういいわ、大丈夫。疲れちゃったり飽きちゃっ
たひとからおうちに帰ってもらっていいのよ」
ゆうきが、震えながらぺこんと頭を下げた。しばらく返事はなくて、輝も気が揉めた。
「それって、おれたち使えねーってことですか？」と、漫研から引っ張ってきたという鉢
巻少年が、絞り出すように言った。
「そうじゃなくて。わたし、結構強引に、みんなにお手伝いに来て、もらってるから。学
校……も、お休みしてもらっちゃったし」
ゆうきが視線をさまよわせながらなんとか言った。
「ゆうき先生の生原稿のお手伝いが出来るなんて機会はこの先ないかも知れないのに、ガッ
コなんて行ってられませんよ！」浩樹がガッツポーズを作って力説した。
「わたし、この三日でいっぱい勉強になりました！ ちゃんと終わるまでお手伝いさせて
ください！」と、そばかす顔の女の子が熱っぽく言う。
「うーん、やっぱイっちゃってるファンは強いわ」
当てが外れて輝は頭をかいた。
とりあえず、輝もお茶汲みと食事の支度ぐらいは手伝ってやって、なんとかその日の夜
には原稿を仕上げて、有志アシスタント軍団は解散した。
「ちゃんと親に謝っとけよ」と、輝がちょっと恐い目をして見せたので、ゆうきはそのあ
と一時間ぐらい電話を掛けまくって、電話越しに頭を下げまくった。
それで締め切りには間に合ったのかって、明後日だというからもうみんな拍子抜けする
ことったら。
「だって、宅急便に一日掛かっちゃうし、余裕見て出すのが礼儀だし」と、ゆうきは汗を
かいてうつむく。
「そりゃ編集のひとも絶対信頼してくれるよな。大丈夫。なんかあったらまたこのメンバー
に来てもらえば？」
輝は呆れたけれど、
「みんな、ホントにごめんなさい」と、涙を溜めた目で謝られると、
「そんな！ 素晴らしいプロ意識です！」
「漫画家って締め切り破るのが普通だと思ってました！ 尊敬します！」と、ファン集団
は口々に感動を表現するのだった。
「またいつでも来てね。社交辞令じゃないからね」
みんなそれなりのバイト料の入った封筒をもらって笑顔で送り出されて、笑顔で駅まで
帰った。
みんなこれではまっちゃうのかなあ。
輝はなんだか不安な気はしたけれども。
結局なんとなく浩樹やハチマキ少年と誘い合わせて翌日様子を見に行って、締め切り明
けの恒例「自分へのご褒美」のデザートブッフェにお供したり、奥の資料ルームに坐り込ん
で蔵書のジャンプ黄金時代の単行本を黙々と読破しているそばかす少女（近所の聖母の薔
薇女学院の生徒らしい！）にビックリしたり、「今どきの男子高校生のカバンの中身」を
取材されたり、ひとりひとり違う手の形を面白そうにスケッチされたり。
「手の形でキャラクターひとりひとり描き分けられたら最高なんだけど、そんなに手間暇
かけてられないのよねえ」と嘆息してみせるのは、理解すべきなのか呆れるべきなのか。
スタンスを決めてからでないと表情が作れないのは育ちのせいと恥じるべきところだろう
か、と輝はらしくなく考え込んでしまったり。
結局連れ立って一週間も通い詰めてしまって、放課後、
「今日、行くだろ」と、浩樹に追いついて肩を掴んだら、微妙な笑顔を返されて本気で途
方に暮れた。
「え〜？ いいよもう」
「いいって……？」
さすがに締め切り明けも一週間過ぎたら、次の仕事にはいるのだろうか。漫画に詳しい
浩樹やハチマキには分かることが、輝には分らなかったのだろうか。
「オタクだからって、空気読めないと思うなよ？ もうお邪魔はしないから、おまえ一人
で行ってあげろよ」と、横からハチマキが来て、腕のところに浩樹の顎を引っかけて遠ざ
けた。
「邪魔って、おい」
「いいよもう。二人の世界作っちゃって毎日にこにこにこにこ。いや、いーもん見せて貰っ
たけどさ」と、浩樹は晴れやかに笑って見せる。
「泣くな。所詮我々は二次元の世界に夢を追うものだ」
ハチマキが胸を張って訳の分らない宣言をすれば、
「どーせ食えない餅なら二次元も三次元も同じだよな」と、頷き合う。
「食えないって」
「ゆうきちゃんが警察の世話になるようなことはするなよ、ちょっと前、少年誌に連載持っ
てた漫画家が、中学生に手ぇ付けて捕まったって。おまえだって未成年なんだから。『オ
ペ猫』が打ちきりになったら全国五〇〇万読者がおまえを呪い殺すからな」
「いやそんな……」
「長谷川氏、それは言い過ぎでしょーよ」と、浩樹が笑ったけれども。
具体的なことはなんにも考えていなくて。と、口の中で言い訳を考えているうちに、なん
だか足かせができたようになって、それからほんの眼と鼻の先のゆうきのマンションには
行かなくなってしまった。
４
無事に原稿が提出できて十日後。夕方のラッシュにさしかかりはじめた頃、地下鉄仙台
駅に泉中央駅行きが入って来た。ゆうきが何気なく先頭車両の方を見ると、人影がホーム
から直線で線路に吸い込まれていった……。
「誰か、落ちたぞーッ！」
続いて飛び降りる誰かの靴音、悲鳴、怒号、急ブレーキの音、排気される空気の音、鳴
り響く緊急ベル……。
ゆうきの目に焼き付いているのは仙台学院の紺のブレザーと、塩素に晒されて金色になっ
た髪の色……。
違うよね、違うよね、輝くん……人違いだよね……。
ゆうきは手を握りしめて祈り続けた。知らせを受けた駅員が、新聞紙を持って集まって
くる。客たちは見ないようにホーム中程に誘導される。
「いたかー？」
「こっちは何ともないみたいだが……」
「本当に飛び込んだのか？」
「引っかけた音はしなかったみたいだけど……」
駅員達の声が、次第に怪訝そうになる。
「だいー……だいじょーぶー」
しばらくして、車両の下辺りから擦れ声が響いた。息を潜めていた客の間で、溜め息が
さざ波になる。
「あいてー。ミスったなー」
間一髪、潜り込むことができた線路の下の退避スペースを這い進んで、車両がなくなっ
た辺りから顔を出したのはやはり輝だった。
「気を抜かない方がいい。今のは運が良かったぞ」と、続いて飛び降りた男性が、膝の辺
りをはたきながら続いた。命の恩人だ。
「よかった！」
ホームに這い上がるなりゆうきに抱きついて泣かれて、輝は困りながらも顔がにやつい
てしまっていた。
「この子は自殺なんか考える子じゃありません！ 事故ですって！」
「しかしですねえ」
駅事務所に呼ばれても、ゆうきの方が昂奮して事情説明をしている。ラッシュ時に掛かっ
ていたから、市の交通局も遅延の責任を取らせようと必死だ。
「おれは後ろから見てたんだが、誰かが明らかにこの子の背を押した。それで、ヤバイと
思っておれも追ったんだ。まちがいない」
大聖寺と名乗る男は証言してくれた。
仕事場から輝の母も駆けつけ、謝るところは謝り、はねつけるところはきっぱりとはね
つけたものだから事件はたちの悪いイタズラと言うことになり、輝たちは解放された。ま
だ残って仕事があるという母親から十分お礼をしなさいという言葉とともに輝はカードを
預かって、皆で食事に行くことになった。
大聖寺は三十前の、体格のいい男だった。キャップを目深に被って、目元は覗かせない
けれど、最近増えた、モデル出身の俳優のひとりに感じが似ている。寡黙で、飾ったとこ
ろは何一つない。しかし、言葉やしぐさの端々に、男らしいやさしさがにじみ出る。
きっともてるんだろうなあ……。
なぜか惹きつけられる彫りの深い顔を、輝はついつい盗み見てしまう。
ゆうきは漫画家として興味を喚起されたのか、指の形、耳の形を観察しては昂奮してな
にか細かく呟いているが、大聖寺の方はそれに気づいていて不愉快そうなそぶりを見せな
い。
「大聖寺さんは、じゃあおうちはお寺なんですか？」
「いや。北陸の方にそういう地名があって、そこの出なだけだ。親父は日本画家をしてい
る」と、そこまで聞いたところでゆうきが割り込んだ。
「じゃあ、もしかして大聖寺雷峯？」
「そうだ」
「うわあ、本物だ！ あの、じゃあ、『少年』の連作はもしかして」
「よく知ってるな、おれなんだ、あのモデル」
「きゃあ！ ……すいませんミーハーで」と、はしゃいだ後、行儀良くしてみせるのが輝
には気に入らない。
「いや。いい経験だった」と、大聖寺が渋く返すのも、カッコつけすぎ、と突っ込んでや
りたくなる。
「はぁ、大人ですねえ。あれは幾つぐらいの時の絵なんですか？」
「十八……から十九にかけて。ちょっと悩んでる時期に」
「解ります。見てるのも辛くなるような迫力でした」
「親父は真正面から向かい合ってくれたから、おれは立ち直ることができたんだ……」
「大聖寺さんお仕事はなにー？」
二人だけで深刻な話になっていかないように、輝がわざと能天気に話を逸らす質問をし
た。
「日本美術の、研究者をやってる」と、思いだしたように大聖寺は名刺を出した。ヨコモ
ジばっかりの。
「大聖寺、陽一さん。ネヴァダの州立大学の研究員って、じゃあ、お仕事は向こうで？」
ゆうきは輝の気持ちを知らぬげにはしゃいだままだ。
「ああ。今はちょっと家の用事でこっちに来てる」
「じゃあ、お泊まりは？」
「ワールドカップでイタリア代表（アズーリ）が泊まったところだ」
「近くじゃないですか！ これは運命だわ！ ね、輝くん」
なんの運命なんだよ。その左手よっく見ろよ。輪っかはまってるだろ、結婚指輪が。な
にのぼせあがってるんだよ。
輝はなんだか不機嫌になってきた。トイレに一度立って戻ってきたら、ぴったり顔を寄
せて、あんまりいいカンジで話が弾んでいるからもうテーブルに戻らない方がいいんじゃ
ないかと思ったぐらいだ。
こんな弱気、あり得ない。
「こっちがーあたしのうちのマンションでー、向こうのマンションが輝くんのおうちですー。
最近は毎日遊びに来てくれてたんですよぉー！ って、ううん、ちょっと最近お見限りか
なー。だから今日は偶然でうれしかったー！ 大聖寺さんありがとー！」
食事が終わって、泉にまでみんな移動して来る間に、ゆうきはご機嫌になってしまって
いる。招いた側として輝はちゃんとワインを勧めて、結果、大人二人はわりあい飲んだの
だ。
「輝くんはそれで泊まっていったりはしないのか？」
なにげなく問題発言をされて、輝はぎょっとして振り返ったが、
「そうなったら嬉しいんですけどー現時点ではあたし捕まっちゃいます、あはははは」と、
ゆうきはばんばん大聖寺の肩を叩いている。大聖寺はかがみ込んで、ゆうきの耳になにや
ら囁いている。
「そんな……そうですね。気をつけます。はい。じゃあ、明日から？……」
急にシリアスな会話になったわけは、輝は考えたくなかった。
大聖寺をホテルまでのタクシーに乗せておいて、ゆうきはまだいいじゃない、とマンション
まで誘った。
「ちょっとお話しましょうよ」
「別にフォローしてもらわなくってもおれ平気だって」と、言葉にすればなお不快が際だ
つようで、輝は黙り込む。
だいたい、母親の懇意の結構ちゃんとしたレストランに連れて行ったのに、ゆうきはい
つもの限りなくマタニティに近いワンマイルウエアだし、大聖寺はくたびれたキャップを
取りもしなかった。おれこれでも結構周りに気を遣って生きてんのよ、と言わずもがなの
ことを言いたくなる。
「あのひとの右耳、見た？ 上の方、ちぎれてなくなってた。キャップね、上ってくる前
にちょっと直してたんだけど、そのときチラって見えた。そのあたりからきれいに一文字
に髪が生えてないところがあって。拳銃自殺の痕だと思うの」エレヴェイターの中で、声
を低めてゆうきはつぶやいた。
「大聖寺雷峯の『少年』の連作、見たことない？ 衝撃的よ。だから覚えてたの」
気圧されたようになった輝に、にこりと微笑んで、ゆうきは部屋へ案内した。奥の、本
棚を天井まで作り付けた資料ルームに招き入れて、「ジョジョ」も天野喜孝も東山魁夷も
「ＦＳＳ」もいっしょくたの画集の中から大聖寺雷峯のものを取り出して、開いた。
「ぐ……」
本から飛び出して、迫ってくるような苦悶の表情。涙を滂沱と流しながら、なお目を見
開いてこちらを見据えてくる少年の頭部。頭を抱え、のたうつ若い肉体。自らの胸を自ら
の爪でもって引き裂き、かきむしった跡。地面に額を打ち付け、打ち付け、額が割れて血
を流すまでの連作。その後頭部には、なまなましい横に走る一条の銃痕。
一分と正視していられない青春の苦悩の姿があった。
なるほど、簡単に、この作品のモデルであろうと指摘するのははばかられる。
「なにがあったのかしらね。今も、黒ずくめだわ、あの人の服装」
この連作の色調は抑えられていて、現実の色合いとは別のように見えた。そういえば、
キャップの奥のあの目のいろは碧かった……？
「大丈夫？ フル・コースの後にはきつかった？」
ゆうきの温かい手が、輝の背を優しく撫でていた。
「あのひと、最初、死神かと思った……」
ゆうきの目を見られずに、輝は呟いた。
「大丈夫。そんなことはないわ。見て解らない？」
ゆうきは笑って見上げてくる。
「なんで？ 今日逢ったばかりなのに。そりゃ命の恩人だけど」
「うーん……鏡を良く見てみることね。それと、大聖寺雷峯の奥様って、アメリカ人らし
いわよ」と、ゆうきは意味深に笑った。
「おまじない。安心して眠れるわ。ワン、ツー、スリー」
ちょっと背伸びをして、唇を押しつけてきた。
「え？ ちょ」
「おやすみなさい。ほら、あんまり長くいるとわたし警察に捕まっちゃう。もう百メート
ルほどだけど、車に気をつけて」
笑って、ゆうきは送り出してドアを閉めた。
「ああ……」
拳を唇に当てたまま、輝は家路についた。
５
「輝くーん！ 学校終わったー？」
放課後、学校の最寄り駅の前で、大聖寺と一緒にゆうきが待ちかまえていた。仙台駅か
らひとつふたつ、高等部キャンパスが移転して、もう、仙台学院の生徒のためのような駅。
いつもの仲間達から、冷やかす声が起る。それを手で制して別れて、輝は二人に歩み寄っ
た。
「ああ……なんだよ」
今日のゆうきはギリ、セーフ。大聖寺と一緒だからだろうか、やっぱりジャンパースカー
トだけれど、質もデザインもちゃんとしたトラッドものだ。小花柄のブラウスを合わせて。
おとめちっく。もしかして体型カヴァーで、ほんとに妊婦さんみたいなぽっちゃりさんだっ
たらどうしようと輝は少し考えた。
「陽一さんとデート。輝くんに早く逢いたかったし」と、ひとも無げに腕を絡めてくる。
嬉しいけど、学校の近くは困る。それに、昨日の今日で「陽一さん」か。輝のときも、出
会った翌日にはもう学校名から学年、クラスまで突き止めて誘いを掛けてきた。積極的な
のはいいけど、単に緩いだけだったらどうしよう。
輝は面白くない思考にとらわれていった。
「陽一さんは仙台は初めて？ どこ行きます？」とゆうきが愛想良く話を振ったら、
「やっぱりお勧めは青葉城なのかな？」と言われ、
「ダメっ！」と二人異口同音で却下していた。
「仙台城址なんて行くの、騙された修学旅行生だけだって！」
「三大ガッカリスポットって言われて久しいのに、なんのてこ入れもしてなくて！ わた
し十年ぶりに行ってこないだボー然ってなったとこだから！」
「杜の都だから木は切っちゃダメって、アタマ硬直化してるんですよ！ それでせっかく
の展望台から何も見えないって、主客転倒しちゃってます！」と、二人して力説して行き
先を変えさせた。
「定義如来なんか、ちょっと変わってていいんじゃないの？ あそこのあぶらげおいしい
のよね」と、やっぱりゆうきは食い気。当たり前に大崎八幡とか輪王寺とか言わない辺り、
こちらになじみがあるようだ。
「水道記念館は、煉瓦系好きなら行っとけって言われますよ」
輝も負けずにその近くの裏名所を繰り出す。
「じゃあ、行っちゃいましょうか」と、ゆうきが陽一を振り返って見た。今日も黒のター
トルにハーフコート。黒ずくめの大男は、やっぱり死神、てゆーか疫病神に見える。
「もう日が短いから、明日ね、土曜だし。１１時にホテルにお迎えに行きます。えーっと、
温かくして、ある程度地面に坐ったりとかしてもいい格好で。
輝くんは、仙台市民なら解るわね？ マイ七味があるなら持ってきてもいいわよ」と、
こういうときにはゆうきもてきぱきしている。
ああ、そんで山に行く訳ね。それより、このひとが山にはいる時って、いったいどんな
カッコして来んだろ。まあ、仲間はずれにされなくて良かった……。なんてことを輝はに
こにこしながら考えている。
とりあえず今日のところは、アズーリも楽しんだという泉の高級ホテルのスィーツを各
種食べ尽くしながらおしゃべりして過ごした。帽子を取らない疫病神は、微かに口元を緩
めてほとんどしゃべらなくても機嫌は悪くなさそうだった。
「奈良の薬師寺も、バブルの前頃に五重塔を片っぽだけ新しくしたんだけど、修学旅行生
がそれを見て、『キレイになったじゃん！ なんでこっちも建て直さないの！？』って言っ
たって」
ゆうきが済まなそうに言った。ちゃんと今日はデニムのパンツに、ブーツを履いている。
仏閣に詣でるのにそれは正直微妙だが、メインは別なところにあるからいいのだろう。
「あーそれ解るかも」と、輝も頭をかいた。なんで止めなかったんだろう、と、ちょっと
思っている。だって、陽一は日本美術の研究家なんだもの。
「でもやっぱり、普通は『有り難みない』って思うわよねー」と、二人して肩を落とす。
皆で訪れた仙台郊外、平家の落人が創建したという縁起で有名な寺は、近年建て直して
バリバリに明るく華麗になっていた。
「陽一さんは、どーすか？ アメリカでも、やっぱり仏像はくすんでる方が受ける？」
「いや、これはこれで」と、陽一は困っている二人を眺める方が楽しいようだった。
「でも、ここの如来様は、一生に一度の大願を、叶えてくれるそうよ」と、ゆうきがパン
フレットを広げた。
「へえ。おれはいーや」と、輝は本殿に背を向ける。思い詰めた目をした命の恩人の疫病
神が、財布を取り出したのが見えたので。十八まで日本で育った男なら、ちゃんと参拝の
作法ぐらい心得ていると思ったので。一文字はげを曝すのを見ない思いやりだ。
案の定、キャップを被り直しながら陽一は出てきた。
「いっしょーにいちどのタイガンって、三十で使うには早くね？」と、明るく輝は聞いて
みた。
「いや、今ここで使わなくては意味がない」
「そーなの？」
十八で死にたいほどの苦悩を知ったら、問題を先延ばしにするようなぬるい生き方はで
きないのかな、と輝は考えた。仙台中の悲劇をみんなかき集めたつもりでいても、自分の
出生の秘密なんて、軽い軽い。プールで毎日三時間も泳げばごまかせてしまう程度のスキャン
ダルだ。ゆうきと出会ってからは、それも一日おきぐらいになっているし。輝は自分の金
に近い色の髪を両手でかき回した。
「だいじょうぶ、陽一さんの願いは叶うわ。うまくいく。あなたは二度と……」
ゆうきが帽子の下の眼を覗き込んで、魔法を発動させていた。
「さーて本日のぉーメーンエヴェントォー！ 仙台に秋来て、芋っこせんでよかっぺかー！？
ねー輝くん！」と、門前町の名物の三角油揚げを入れた白いポリエチレン袋を振りまわし
ながらゆうきが声を張り上げた。わざとらしい訛りが痛々しい。今時そんな言葉、若者は
使わないって。
「そーだサねー」と、輝は弱々しく相づちだけは打ったけど。
「芋？」
陽一が呟いた。
「おじーちゃあん！」ゆうきが駐車場に向かって叫ぶと、目立たないワンボックスカーか
ら小さなご老人が手を振った。いや、顎のところまで手を挙げただけ。
「わたしのボーイフレンドの輝くんと、その命の恩人の陽一さん！」と、弾んだ声で紹介
しても、
「……よろしく」とだけ。
これは口の重い愛想のない、いわゆる「東北のご老人」でいいのかなと、輝は判断して
お行儀よくしておいた。助手席にゆうきが坐ったら、後部座席は陽一と二人で。
気詰まり。
また、こういうとこだけ日本男児で、陽一さんたら腕組みしちゃって。
それって、無意識に他人を拒否するボディランゲージなんだよ。
ハンサムなんだから、もう少し愛想良くすればいいのに、と、愛想だけで人生を渡って
きた輝は他人事なのに気が揉める。
だけど、いざとなったら、他人のために命を懸けられる。無口でも、無愛想でも。他人
が怖いと言っていたゆうきが素直に心を開いているのは、ハンサムだからじゃなく、そう
いう誠が伝わるからだ。
このひとはこれでいいのかな、と輝は思った。ちゃんと奥さんいるみたいだし。そんな、
三日前に会ったばかりの大人の世話を焼いても仕方ない……。
水道記念館は車中からその童話のようなたたずまいだけ鑑賞して。
「入らなくていいのか？」
「陽一さん、仙台の水道事業に興味ある？」
「いや、いい」
少し車を走らせて鍋ポイントに着くと、手際よくおじいさんと孫は荷物を下ろして、竈
を作り始めた。野菜やなんかは、もう切って密封容器に入れてきている。火が起きたら、
肉に火を通して残りの材料を湯にぶち込むだけ。仙台風は、豚肉で味噌味。
「要は野外豚汁パーティなわけ。昔は冬にはいると東北じゃ里芋が腐っちゃうから、雪が
降る前に全部食べちゃうための行事なんだって。収穫祭としての性格もあるって」と、輝
は解説係。とりあえず、ポットのお茶をもらって。
「詳しいな」
「ウィキペディアの中のひとが言ってた。昨日調べたんだ」
松本輝くんの九割は気配りできています。
「なるほど」
「ひとと飯食うと仲良くなれるよね。あと、その土地のもの食うのも。
弱ってるときには、ソウル・フードがいい。うちのハハオヤ、十八のときにアメリカに
留学したんだけど、西海岸どころか、すんごい田舎町。みんな仲良くしてくれたけど、歓
迎されすぎで、あちこち連れ回されて、とうとう三ヶ月目ぐらいでダウンして、気を遣っ
て日本食食いたいって言わなかったんだけど、親父が、こっそり車飛ばして隣の州の、駐
在員向けの高っかいスキヤキレストラン連れてってくれて、食わしてくれたんだって。そん
でほろっと来てやらせちゃって、おれができちゃったんだって。バッカ。それ以上は絶対
口割らないんだけどね」
「そう……か」
「半年で留学帰って来ちゃって。うち、先祖は仙台藩士で由緒正しいヤソ会系ローマ・カ
ソリックよ？ じじいは怒り狂ってお手討ちもんだったってよ。で、カソリックだからで
きたら産むし」
「藩士でカソリック？」
「そーよ、天隣院様づきのお女中が洗礼受けててさ。貞山公様がもう幕府への面当てに匿っ
てくださって。すごいよ？ 踏み絵なんか、ホント形だけで、絵がないの、硯みたい。で
も一応は踏むのね。そんで、形だけとはいえ済まないとか言って甘酒出たらしいよ。噂だ
けどね。
長く隠れてたせいでほとんど異端くさいけど、三百年信仰を守ったからって、明治の頃
にヴァチカンにお墨付きもらって表に出てこれたって。その辺十五軒ぐらいの特別教区に
なってて。ああ、うち、在所はもっと栗駒の方。さすがにいられなくて仙台出てきたの。
イエヤスの息子の妻で隠れキリシタンの姫君の家来の末裔でもう四百年カトリックって
言ったら向こうじゃ受けたって。アイリッシュ多いとこだったのかな？」
「それは、受けるな、きっと」
ああ、こういう口数少ないひとって、聞き上手なんだ。すらっと、身の上話できちゃう。
露骨に済まなそうな顔しないから、こっちも負担がない……。
火が燃えるのを見ているのも、悪くない。今はどこも、管理されていない炎を見ること
がなくなっているから。温かな非日常。
「非日常、だな」
え？
考えを読まれたようで、輝はびっくりした。
「輝くんはここに。動くな」と、言いおいて陽一が足を進めた。ハーフコートが翻る。
「おじいちゃ……」
ゆうきが擦れ声を出した。おじいちゃんは黙って火の点いた薪を手を伸ばして取り上げ
る。
「動かないで。火の側には近づかない」
言い捨てて、二メートル近い長身が、木立に近づいていく。赤黒い固まりが、そっと姿
を現していた。
犬にしては大きい。
小学生ぐらいかな。最近は体格もいいしね。
でも、言葉は分からないみたいだ。
お腹が空いてるのかも知れない。いや、普通そうだ。
威嚇の声を上げながら、四つ足で歩いてきて、今、立ち上がった！
「熊だよ！」
輝は情けない声を上げてしまった。
「解ってるッ！」
大学は西海岸だったと言っていた。陽一は見事なダッシュで熊に近寄り、左肩で思い切
りぶちかました。アメリカンフットボールの選手みたいに。吹っ飛んだところに、仁王立
ちして、王者の叫びを放つ。
「うををををををををををををッ！！」おまえは敗者だ、ここを立ち去れ、それ以上の抵
抗は許さん、その辺の類似概念全部ひっくるめて。全身全霊で吠えた。
……負けたよ。
熊は多分そんな意味の情けない声を上げて、来た方向へ引っ込んでいった。
『いるんだろう！？ そこに！ この子に手を出すな！ この子はおれが絶対守る！』
なんだか変なスイッチが入ったように、陽一は格好を付けて英語で叫び続けていた。なん
だか訛ってるみたいとまで何となく解るのは……母親のやってる英会話学校のスタッフた
ちに育てて貰ったからか。金髪碧眼じゃないけど、アン＆マリー・イングリッシュ・クラ
スの教授陣はみんな英語教育の資格を持った熱意のある英会話教師だ。
輝は、腰砕けに膝を突いた。思っていたよりゆっくりだったのは、ゆうきがいつのまに
か彼にしがみついていたからだった。
「ああ、ゆうきちゃん、大丈夫……陽一さんが守ってくれたから。強いね、彼」
「お兄ちゃん立派だね」
持っていた薪を竈に戻して、おじいちゃんが言った。
「いえ」
仁王立ちしたまま呼吸を整えていた陽一は、肩のところ、少しコートが破れていた。
「こんなことを聞くのは非常識なのかも知れないが……仙台って、熊がそうそう出るとこ
ろなのか？」
頬に少し血が飛んでいたので脱がせてみたら、陽一の右の肩は爪で少し裂かれていた。
ゆうきがきゃーきゃー言って手当てした。車には救急箱があって、まったく用意がいい……？
「出るよね。一昨年は青葉区も真ん中、貞山公様のお墓のとこにまで出たって。ゴメンな、
痛い思いさせて」と、輝は謝った。
「それはいつ頃？」
「十一月一日！ 幼稚園の願書を出す日だったから、そこのお寺の幼稚園がてんてこ舞い
になったって」
母親の仕事仲間がパニックになっていたと聞いた。
「一昨年のことは知らないけど、……まだ山に熊が降りてくる季節じゃないわよ」と、ゆ
うきが擦れた声で言った。
「だって、うちのハハオヤ言ってるよ。毎年毎年、今年は異常、今年は異常って」
「はいはい！ でも違うの。こんなのおかしいの！ おじいちゃん！」
「この山でこんな時期に熊なんか、見たことはない」と、おじいちゃんは断言する。
「っておじーちゃん山の持ち主なわけ？」
「この山はゆうきの山だ」
「はぁ？ ゆうきちゃんお山買ったの？」
そこはアニメにもなった人気作品を持つ漫画家だから、輝もそうそう驚かない。
「マンションとかだと値下がりするから、この際値段が下がってもあきらめが付く買い物
をって……アニメ化でお金が入ったときに。小さいころからよく遊びに来てたし、ここ仙
台市の水源だし、ゴルフ場にされちゃうより自分のお山でタケノコ取ったり芋煮できたら
楽しいなって……」
「あーやだ漫画家って。若い女ならダイヤとかバッグとか買おーよ」
輝は腹の底から溜め息を吐いた。なんでこのひとずれてるんだろう。
「輝くん！」
陽一がよく響く声で一喝した。
「話を聞くんだ。あの熊の手足の毛並みには乱れがあった。ついさっきまで、拘束されて、
準備されていたような。向こうには、人の気配もあった。何者かが、悪意を持って熊を我々
にけしかけたんだ！」
輝はびびった。目で、ゆうきを促す。
「三度目の正直って言葉、知らないの？」と、ゆうきが凄みのある声で言った。
「三回目には本懐を果たすんだよね？ なにが三回？」
「バスプールの車、一昨日の地下鉄、それから、今日の熊」
陽一が低い声で数え上げた。昨日、ホテルのロビーラウンジで、ゆうきが二人の出会い
について嬉しそうにしゃべったのだ。まるで騎士様の活躍を語る吟遊詩人みたいに脚色たっ
ぷりで、ちょっと恥ずかしかったけど。
「狙われてるのはきみなんだから！ あの車、ブレーキの音全然させてなかった、本気で
轢こうとしてたんだから！」
ゆうきが、輝の手を握って揺さぶりながら言った。
「え？ なんで？」
「これで、解って貰えるか？」
陽一が、キャップを取った。出てきたのは、燃え上がるような赤い髪と、ターコイズ・
ブルー・アイズだった。
「おれの、父親がらみなんですね？
陽一さんって、……兄さん、なのかな、イトコ、なのかな。親父だったらちょっとイヤ
かな。
その髪と目の色を見れば解る……こっちは、全身漂白なんで、パンツ下ろしても地の色
のところはもう残ってなくて、スイマセン。一ヶ月後ぐらいならなんとか気合いで証明で
きるかと思うんですが。
って、そんな大物なの？ もしかして大統領選出てた？」
混乱してるのか、気の利いたことを言ったつもりなのに支離滅裂。
キャップを取って、真正面から見れば、それは毎日見慣れた自分の顔に、顎の線も鼻筋
も激似だったから。
最初ゆうきが黙って昂奮していたわけがやっと解った。
「心配ない。こちらは調査済みだ。
九月二十七日に、ウィリアム・ヤコブソンという男が死んだ。ネヴァダの田舎町、ヴェ
ナレスの市長を長年勤めた男だ」と写真を出してくる。赤毛だったのが、もうずいぶん白
髪に負けて、ロマンス・ベージュ。
「それが……」と言いさしたところで、おじいちゃんが鍋をごんと叩いた。
「お兄ちゃん達、食欲は、まだあるかい？」
あつあつの芋煮を腹に入れながら、込み入った話を聞くことになった。おじいちゃんは、
竈の前でひとり火の番をしている。
「うちの母親の方に先に行くべきなんじゃーないですか？」
「うちの弁護士がもう行った。完全にしらを切られた上に塩を撒かれた。わざわざ顔なじ
みをやったのに、たいしたひとだ」
「さすがうちのハハオヤだぜ」
ああ、だからここ数日、ヤケに懐いてくると思った、と輝は腑に落ちる。事故に遭った
からかと思ってた。
「さすがマリーと、彼も笑ってた」と、陽一の頬も少し緩んでいた。
「おれも別にいいよ」
「良くない」
短く言い捨てて、陽一は続けた。
「十六年前の話をしよう。
宮城から、一人の女の子がアメリカ中西部にやってきた。十八才の元気な留学生だ。サ
ムライの末裔だというので田舎町は大歓迎で、市長はとくに彼女を気に入って、どこへで
も連れ回した。じじつ、その女の子、マリーは元気で、勉強熱心で素直で、みんな生まれ
て初めて見る日本人が大好きになった。
問題は、その市長も、いい年をして夢中になっちまったことだ。
田舎町だ、ヘタをすると合衆国大統領より有名で権力もあるその男のスキャンダルに、
周囲は生きた心地もしなかっただろうな。
そんな頃、マリーは病気になった。市長は気が気じゃない。だが、妻子も立場もある。
何もできないでいるうちに、マリーは留学期間を半年残して無理に日本に帰ってしまった。
それきり、行方不明」
それが、松本万里子。輝の母というわけだ。
「ビリー、市長のことだが、は解ってたのかも知れない。自分のやったことが、アメリカ
に憧れ、ヴェナレスを愛してくれた若い女の子の人生を変えてしまったと悔やんでいた。
死ぬ前に書類を作っておいた。まあ、ばあさんの親族が必死に弁護士を雇ったから、攻勢
を掛けてくると思うけど、全財産の十パーセントを切ることはあっても、五パーセントを
切ることはない」
「それって」
喉を通らなくなった芋煮の椀を持ったまま、輝は呟いた。
自己満足だよ。おれたちは、そんなの望んじゃいない。
「具体的に言うと、今為替はどうなっていたかな……一千万円は下らないが、慌てて現金
化しない方がいい。ちょっと向こうも今パニックだし」
「いらない。陽一さんは、結局叔父さんなの？ そんで、おれのこと憎いですか？ 殺し
に来たの？」
「輝くん！ 陽一さんは！」
ゆうきが声を上げたが、陽一が制した。
「いい。
輝くん、おれは、ビリーの娘が生んだ子だ。叔父さんなのはきみの方だ。
ワンクッションあるせいで、そんなに強い感情はない。ああ、じいさんやっちゃったん
だな、ぐらいだ。この二日、きみと過ごして楽しかったせいもある。
問題なのはグレイス、おれの母親の方だ。たった五パーセントでも、きみに財産が行く
のは許せないと思うタイプで、自分の父親を崇拝しているから、そのスキャンダルも許さ
ないだろう。そして、問題なのが、この女、魔女なんだ」
「また？ どんなの？」
つい輝は気を抜いてしまう。ずずっと汁を啜って。あ、結構おいしいこの芋煮。しっか
りさっきのお土産の定義のあぶらげ入ってるし。さっきの手際も良かったし、ゆうきちゃん
いいお嫁さんになれるよと無責任に思っている。
「これなんだが」と、出してきた写真がきれいな熟女。親しみやすい赤毛のメリル・スト
リープといったところ。
「恐ろしいことに、今までに殺した人間は十人を下らないはずなのに本人に自覚がない。
手口も解っているのに司法は手を出せない」
「なんすかそれ？」
ゆうきの魔力（チャーム）より強力なのだろうか。
「なにもしない。単に、彼女にとって邪魔な人間が、不審死を遂げるだけだ。ピアノのコン
クールのライヴァルとか、テニスの大会の対戦相手とか。まだ若い頃は当日事故にあった
り、腹が痛くなったりするだけだったんだが、大人になってエスカレートした。
確実におれが知っているのは、二人。おれの父親の母親と、おれの……恋人だ」
「祖母の方は、結婚を反対してたらしい。それを聞いて、たった一言言ったそうだ。
『長生きしすぎかしら』
微笑んで、ただそれだけ。三日後には、相手は交通事故死してた。
超自然な力があるんじゃない。それを聞いて、何かを実行する誰かがいるということだ」
風が出てきたのだろうか。ゆうきが襟をかき合わせた。
「恋人の方は、駅の階段から突き落とされた。母じゃない。アリバイがある。
救急車はもう呼んであるから、と誰かが言って、自分が付いていますからといって皆を
遠ざけ、そして放置した。そいつの素性も行方も解らない。
彼女が妊娠してるって、相談した翌日のことだった。
田舎のお嬢様ってのは恐ろしいという実例だ。
普段のグレイスは、アメリカの真善美そのものだ。おれにもいい母親だし、ヴォランティ
アも熱心で見てくれもこの通りに気を配ってる。
ただ、我を抑えることができない。影響力のある自分が気に入らないものを気に入らな
いと言って、そのあとどうなるかを深く考えることをしない」
おじいちゃんはもう諦めて、鍋を仕舞いに掛かった。せめてお湯を沸かして、熱いコー
ヒーを煎れてくれようとしている。手伝いに行こうといつもなら腰が上がるのに、どうに
も輝は身体を動かすことができない。
ゆうきが見せてくれた「少年」の連作が目の前を過ぎった。
苦悶、慟哭、自傷。
このひとは、たった十八で地獄を見たのだ。
「最後の最後でぶるっちまってね、情けない話だ」と、人差し指を銃身に見立ててこめか
みに当て、指を曲げながら後頭部側にずらす。そうやって、拳銃自殺は失敗したらしい。
「きみはおれが命に替えても守るから、安心しろ」
「はい」
「ビリーは市長を引退した後はちょっとした会社をやってたんだが、あの女はその会社の
経営にも口を出して問題視されてる。今までは娘だから、で済ませてきたが、これからは、
相続者としてもっと干渉が強まるかも知れん、そう会社側が心配したら、きみを対抗馬に
立ててくることも考えられる」
「おれ、そういう難しいことまだ解りません。てゆーか、解りたくない」
「おれもなんだ。母が相続したら、次にはおれに回ってくる。回す気満々だ」
あれ？
「というわけで、これはおれのための戦いでもある。勝って命と自由を手に入れような」
陽一が、笑った。
利己的なことを言ってないか、と思ったのも一瞬、輝は嬉しくなって、
「はい！」と大声を出していた。
６
ゆうきの部屋が基地になった。
もともと調べ物のためにインターネット環境ができていたところへ、陽一がインターネッ
トＴＶ電話のソフトと機材を持ち込んだ。
「でも、光じゃないから、結構夜とか混雑するみたいですよ？ わたしはあんまり大きな
データを落としたりしないから別にいいけど、下の階の奥さんが、遅くって大変って」
マンションでもちゃんとご近所づきあいしてるんだこのひと。と、輝は感心している。
「いいんだ、その程度の方が」と、てきぱきと陽一は環境を作り始めた。
「うち宛に宅急便届きましたけど、取っても良かったの？ 爆弾とか入ってない？」
ゆうきが平たい箱を持って来た。
「それは大丈夫。友人に手に入れて貰った」と、中身は防弾チョッキ。
「いやそれは……おおげさじゃないすか？」
引いてしまった輝の代わりに、ゆうきは歓声を上げた。
「きゃー！ こんなの触ったりできる機会ないわ！ 触っちゃお！ 内側どうなってるの
かなー？」と、身を乗り出してなで回している。
「たくましーなー」
溜め息を吐くしかない輝に、陽一も唇の端だけで微笑んでみせる。
「着て見せてー」
満面の笑みでリクエストされたら、断れない。
「スケッチしちゃおー！ スケブ取ってくるから待ってて！」
「念のためだから。暑い季節でなくて良かった。しばらくは着てて貰う。用が済んだら彼
女の資料にしてもらって」
「ガッコへも？」
「当然だ。行き帰りはおれが見張るつもりだが……体育祭はもうあったのか？」
「こっちは春やるんだよ。……寒いから」
「文化祭は？」
「夏休み明けにもう……もしかして、もう人混みには出るなってこと？」
「だがそれではらちがあかない」
「そーだサねー」
なんて言ってるうちに九時になって、
「若い女性のうちに長居するもんじゃないぞ」と、襟首をひっつかまれて退散することに
なった。歩いて帰るというのに、ほんの百メートルをタクシーに同乗させてくれて。
「いつもは何時だ？ 登校時間のことだ」
「七時半……だけど」
「三十分早く出よう。地下鉄は危ない」
「ねえ、ほんとに、……おれ殺されるの？」
タクシーの後部座席で身じろぎしながら輝は呟いた。特殊繊維でできたヴェストはなん
だか変な匂いがするような気がする。着慣れるまで時間がかかりそうだ。
陽一はそっと背に手を回して言った。
「そうならないようにおれが来たんだ。きみを守ることでおれも過去と決別できる。ベス
トを尽くさせてくれ」
「解った。七時ね」
「ちょっと！ 陽一さん！ ここ日本！」
陽一が膝の上に広げていたものを見て、ゆうきが悲鳴を上げた。分解掃除って、結構マ
メにやるものらしいけど、ひとんちでやる？ ソレ、模型やエアガンじゃないよね？
「ああ、友人のつてで持ち込ませて貰って……ヴェナレスだと、男は十八の誕生日に銃を
贈られるものらしいぞ」
ゆうきと輝が二人して凍り付いているのを見て、陽一が付け加える。愛おしげに撫でる
手つきは、さすが、堂に入っている。
「おれも母親からプレゼントされたんだが、日本の、中野の自分のうちで学習机の上にリ
ボンを掛けて置いてあったときにはさすがにたまげたな」
ああ、陽一さんてうちは東京だったんだ、とムリヤリに輝は脳味噌を動かした。
「それくらい非常識なんだ、うちの親。どこから調達したかなんて、怖くて聞けない。……
大丈夫、向こうで免許は取ったし、的と自分しか撃ったことはない。それも、ヴェナレス
のじいさんちでだ」
笑えない。全然笑えない。銃を手にした陽一は、じつに手慣れていて、言っている内容
がはったりでないことがよく解った。それより、気がついたらゆうきがベルトの所にかじ
りついていて手を離してくれないことの方が輝には重大。
「お願いだからその辺に放置しないで！」
ゆうきが悲鳴を上げていた。
「安全装置かかってるから大丈夫だ。できれば触らないでくれるといいが」
命綱のそれを、陽一は無造作にパソコンデスクの上に置き去りにした。
「陽一さんッ！」
嫌も応もなくこのひとを頼るようになってしまう。たった一人の肉親の危機だから。
「ねえ、うちのオフクロの事務所、襲われたって！ 強盗！ ねえ、オフクロもヤバいの？
ねえ、おれはいいから陽一さんオフクロの方ついてて、レディー・ファーストだろ？」
訳が解らなくなって、とりあえず、携帯は一番新しい番号に繋いでしまった。昔から親
身になってくれていた英会話学校の講師陣や、事情のある母子を温かく迎えてくれた学院
長ではなく、自分を殺そうとしている女の息子だというひとに。
だって、立て続けだから。
自分が、車にはねられかけたのはほんの二週間前だ。地下鉄の駅で突き落とされたのは
一昨昨日（さきおととい）？ 自分の父親について詳しく知ったのは一昨日で。
自分の命が狙われているっていうだけでも実感がなかったのに、母親が襲われた。友達
のお誕生日会に持ってくプレゼントが買えないとか、学校で苛められたとか、そういうレ
ヴェルの「困った」じゃない！
「落ち着いて。病院はどこだ？ すぐに行く。それまでは警察の人と一緒に行動を」
「公済病院。鉄砲持ってきて撃たれたって！ 国分町つって判る？ ど真ん中、すぐ判る」
「了解した。くれぐれも妄動するな。大丈夫だ。人間はそうそう簡単に死にはしない。き
みは運が強い。大丈夫だ」
繰り返して断言してくれる。温かい声が心にしみいる。このひとは、信頼できる人だ。
「ゆうきちゃんには言わないで。そろそろ来月号の原稿に入るらしいから」
「判った。……男だな」
「いまそーゆー言い方はやばいよ、いろいろ」
輝は軽く流した、余裕があるフリで。
鏡の中の自分と同じ色の目をした男を思い出して、顔を洗うと輝はタクシーを呼んだ。
大々的にＣＭを打っている大手だって自転車操業がならいの英会話学校に、強盗なんて
あり得ない。犯人はアジア系みたいなことを言ってたけど、きっと雇われもの。
十六年前に、たった一回やそこら過ちをおかして、それっきり別れて日本に帰って逢っ
てもいなくても、殺したいくらい憎いんだ？
留学先で妊娠したせいで、このひとは人生を狂わされてたいへんだったのに。
妊娠して留学途中で帰ってきて、親から勘当されて。留学仲間や仙台でフリーで活動し
ていた人たちと興したちいさな英会話学校は、母の苦労の人生の象徴だった。そこで事件
を起こしてくれて。
学校の授業はすぐ再開できるだろうか。
生徒はちゃんと来てくれるだろうか。
講師だって、怯えて来てくれなくなるのじゃあないか。
輝は母の心配を肩代わりして頭を悩ませた。そうして、仙台でなんとかやってきていた
母子を押しつぶそうとする遠くの「魔女」に対する怒りが静かにこみ上げてきた。
おれたちは、積極的に悪いことはなんにもしていない。
直面する事態に精一杯考えて、誇りを持って立ち向かってきただけで。
わるいのは、妻子がありながらたった十八の留学生に手を付けた市長だ。
逆恨みで太平洋の向こうの虫けらのような母子を殺そうというなら、虫けらだって悪あ
がきをしてくれる。
陽一が東北公済病院に着くと、眼の据わった輝が待ち受けていた。
「重傷と重体の違いって知ってる？」
さりげない口調に、陽一は真面目に答えた。
「命に別状がないのが重傷だ」
「ああ、それそれ。かすっただけらしいよ。血はいっぱい出たけどね、なんか鼻血だって。
オオゲサ」
輝は肩をすくめて見せた。笑おうとしたらしいが、まだ表情筋が動かない。アドレナリン
はまだ出っぱなしということだ。
「大ごとにならなくて良かった」
陽一が、控えめに肩に触れて落ち着かせようとした。
「それはお互い様。警察沙汰にしちゃってさ、大丈夫？」
仙台も都会だから、発砲事件もたまにはある。近頃はやりの、どこからか拳銃を調達し
た外国人の犯罪、そういうことで、収まりが付くかも知れない。
「さあ、痛い目に遭えばいいと思っているが」
「あんたのお父さん、偉い画家なんでしょ？ スキャンダル困らない？」
「さあ、どうかな……次は泣き叫ぶ女房の顔でも描いてみるかもな」
「たくましー」
「本当に、尋常じゃない母で済まない」
「陽一さんも被害者じゃん。
ホント、子供は親を選べないんだよねー」
やっと力が抜けて、ずるずると病院のベンチをずり落ちながら輝はへらりと笑って見せ
た。
７
「輝、仙台ってのはこんなに国際的な街なのか？」
のんびりと広瀬川の河原の遊歩道を散歩しながら陽一は尋ねてきた。もう十月も下旬で、
ゆうきはパソコンを置いて基地にしている部屋が冷えるだろうと昨日趣味の悪いラグを買っ
てきていた。
「えーっ、百万都市だよ？ いつもこのくらい外国の人はいると思うな。きっとなんか学
会とかやってるんじゃない？ そういうのよく誘致してるらしいよ。うちに同時通訳の助っ
人頼みに来たりとかしてるし」と、訳知りがおで答える輝だが、いつもプールに入り浸り
で泳いでばかりで、実際のところはよく知らない。
「だからって、こんなに白人ばっかり？ それもおれの聞き覚えのある中西部訛りの」
「そうかなあ？」
深刻に受け止めないようにしてさりげなく目を配る。皆、普通のビジネスマンや、留学
生に見える。たしかに、アジア系やアフリカ系、ヒスパニックはいないようだけれど。
「ヴェナレスって、白い人ばっかりなの？」
「アフリカ系すらほとんど見かけなかった。まあ、十年前の話だがな……フィル！」
叫ぶなり、陽一は手を伸ばして、追い抜いていこうとする自転車に乗った人のベルトを
掴んで引き留めた。
『うわっ！』
『フィル、どうしたんだ？ 仙台になんの用だ？』
自転車ごと引き倒され、真っ赤に頬を染めて顔を背けていたその人は、陽一に厳しい声
で問い詰められて観念したように顔を上げた。
『出張と、ついでに観光サ少し。ヨーイチこそ、こんなとこサ何しに？』
気をつけて聞くと、そう言えば耳に慣れた標準米語とは、少し違う。
『おれは私用だ。
輝、こいつはヴェナレスでの友人で。母親同士が仲がいいんだ……フィル、紹介しよう
か？ この子は』
『ビリーの隠し子だべ？ 判るよ、一目で』
『判ったら、どうする？ フィル、おまえも……』
『ああそうだよっ！』
やけになったように、フィルは立ち上がった。
『グレイスが言ったんだ、許せないって。それサ聞いたら、ヴェナレスにおる人間は、逆
らえん。グレイスはヴェナレスのプリンセスだ。グレイスの心を乱すものがあっちゃいけん、
そう言うことサなってんだ、昔から！』
「……輝、こういうの、なんて言うか知ってるか？」
「クレイジー」
遠慮せずに、輝は言ってやった。
『来年五十のババアをつかまえて、なにがプリンセスだ、ばかばかしい。お前も、そんな
頭のおかしい女の言うことを真に受けてどうする！』と、陽一はフィルに向き直って激し
く言いつのった。
『ああ、おれは頭がおかしいんだ、グラスやってるよーッ、だから悪魔のいうことを聞い
ちゃうんだッ、こいつだな？ こいつがこの世に禍をもたらす宿命の子だなッ！？』
フィルはいきなり変な調子で叫ぶと立ち上がって輝に飛びかかり、シャツの首のところ
をしっかり握りしめて引きずりながら川へと転がり落ちていった。水位の低い季節だから、
そのまま飛び込んでも溺れはしないが、川の中央へ引きずっていって、なんとか頭を沈め
ようとする。
……うわ、おれ、ハリウッド映画のヒーロー？
立て続けの命の危機に、覚悟を決めていた輝は死にものぐるいで抵抗する。オトナの白
人相手で体格の差が大きい……と言いたいが、憎たらしいスケベ市長の血のせいで、体格
の差はそんなにない。もしかしたら、お勉強好き系と見えるフィルの方が、鍛え方が足り
なかったかも。
「ぶはぁ」
なんとか手を振りきって顔を水面に上げ、呼吸をすると、フィルの腹を力一杯蹴上げた。
「スイマーなめんなよ？ これでも１０年以上ほぼ毎日泳いできてんだぜ」と、言いかけ
て、がんばって英語で言ってみる。せっかく母親たちが仕込んでくれたんだから。
『あなたはスイマーを見くびってはなりません。わたしは１０年以上、毎日泳いできまし
た』って、それはどうよと言ってから輝はとっても後悔した。
陽一が手際よく警察を呼んで、フィルは連れられていった。
「なりふり構わなくなってきたな」
陽一も、覚悟を決めたらしかった。黒いコートを着せかけてくれながら、硬い表情でずっ
と立ちつくしていた。
「スカイプっていうのー？ すごいのね。電話線が繋がってたら顔が写るの？ ＴＶ電話っ
てもう実用化されてたんだー？ さすが二十一世紀」
無理にゆうきはのんびりした雰囲気を盛り上げている。
「電話線の他に、インターネットの設備要ると思うよ」
ついつい輝は相手してしまう。だって普通にカワイイし。
「そうなの？ ＩＴってすごーい。じゃあ、あたしも静岡のおかあさんちに入れてもらっ
ちゃお、心配してるみたいだから」
「それはそうだよね、女の子の一人暮らしだもんね」
「でも、これでもけっこう元気になった方なのよ？ 仙台が合ってるのかしら。東京にい
たときは咳とか凄かった」
「やっぱストレスじゃね？」
「それもあると思うけど、好きなひとと毎日いっぱいおしゃべりできるのって効くわよねー。
わたし、最近朝目が覚めるだけでもうれしいもの。今日はどんなお話聞けるかなーって」
と、にっこり笑われてしまって。
あの、あんまり天然だとこっちは疲れますから。その辺で。輝はひとりで赤くなってし
まう。陽一がにこりともしないのが、また堪える。
……ねえ、どーよ、おれうぬぼれちゃってもいい？ そこんとこ、オトナとして冷静な
意見お願いしますよ。
生きるか死ぬかの瀬戸際でこんなことに気を取られているなんてとお説教されそうで、
実際はどうしても口から出ない。
いろいろメイルを送ったり携帯を掛けたりして陽一が呼び出したのは、ヴェナレスの自
宅のようだった。
「陽一さん、西日入るからこっちの窓カーテン引くけど、暗かったら言ってね」
ゆうきが早口で言った。陽一は黙って肯いた。
「この位でいい」
『……マム』
陽一は母親としゃべるのは英語らしい。何気なく耳を傾けている輝に、ゆうきが聞いて
きた。
「なんて？」
判る範囲で輝は通訳する。ああ、オフクロありがとう、と輝はフルパワーで英語力を振
り絞る。
そんな、父親のわからない子なんて、汚らわしい、生まれてこない方が皆の幸せよ、そ
うでしょう？ 留学に、勉強に来ておいて、父親のわからない子を身ごもるなんて、そん
な間違った了見の娘も。おかしいんじゃない？ わたしは間違ったことを言ってるかしら？
ごく普通の、良識ある平凡な女性の感覚よ？ ……そんなことを、ネットの向こうのアメ
リカの普通のおばさんが言ってる。
そうだよね、おれたちはいちゃいけない人間だった……ついうっかり、輝は説得されそ
うになって顔が下を向く。ゆうきの手が輝の手をぎゅっと握って、輝ははっとしてまた胸
を張った。陽一が声を荒げたので。
『もういい加減にしろ！ あんたの『女の平凡な幸せ』はコストが高い！ お膳立てさせ
られる方の身にもなってみろ！ あんたに見込まれたばっかりに好きでもない男と結婚さ
せられたキャシーが可哀相だとは思わないのか！』
『なんのことかしら？ キャシーは、あなたが選んだのよ？ あなたが打ち明けられない
でいるから、わたしがちょっといろいろな方にお願いしてみただけじゃないの』
『おれは！ ……おれは巻き込む気はなかった！ 見ているだけで良かったんだ！』
『まあ、なんてシャイ・ボーイだこと。だからわたしは気が揉めて』
『違う！』
おぉう、という声が、ネット経由で聞こえてきた。
『望美を殺させたね』
輝は血相を変えて陽一に近寄った。陽一は、カメラに写る範囲に来させまいとして手を
伸ばして振った。
『……ノゾミ、誰だったかしら』
『……おれの恋人だよ』
「おれの恋人だよ」と、輝がゆうきに短く通訳する。
陽一は、キャップを取った。
『……そんな子、いたかしら？ あなたはキャシーと結婚するまでおくてで本当に心配し
たものなのに。本当にあなたはわたしの言うことをよく聞くいい子……』
『彼女のお腹には、おれの子がいたんだよ』
手を後ろに伸ばした陽一は、調達したピストルを探している。それが、指に、掛かった。
たぐり寄せている。
「アイ ニュウ」
どういう意味だったっけ？ 考える前に目が意味を察した。
陽一は、今度こそ正しくこめかみに銃口を突きつけていた。
「マム」
微笑んで、陽一は引き金に指をかけた。
「グッバイ」
「陽一さんはもう自分で死んだりしないわ！ ワン、ツー、スリー！」
ゆうきがカーテンを引いてチャームを発動させた。部屋がいきなり明るくなる。陽一の
指が動かなくなる。
輝は必死で自分より大きな男の右腕に取り付いて引っ張った。
ずどん！
「オー！ ノー！」
８
「うっ……」すぐに、陽一はうめき声を上げた。部屋は派手に赤く染まっていた。
「陽一さん！」
「大丈夫！ 大丈夫かすっただけ！ かすっただけだから！ 陽一さんだいじょうぶだか
ら死なないで！」
ゆうきが大声で元気づける。こんなに血が出ててかすっただけって、あり得ないだろ、
と陽一を見ると、その顔には派手に赤いものが散っているだけで、とくに穴が空いていた
りということはない……？
「はは、あの女、魔女のくせして、オー！ ノー！ だって。ジャクリーン・ケネディと
同じこと、言いやがった……」
仰向けにひっくり返ったまま、血糊で顔を染めた大男が、満足そうに笑っていた。
ネット電話の向こう側では、大変な騒ぎが起きているようで、英語で呼びかけてくる声
がひっきりなしに掛かっている。
「陽一さん、向こうから安否問い合わせてますけど、なんて言います？」
輝は声を潜めて尋ねた。
「そんなもん、『死んだ』に決まってる」
愉快なのか、陽一の腹筋は小刻みに震えている。
「あんたのお袋さん気絶したらしいけど、どうします？」
「病院入ってもらって。できれば一生出てこれなさそうな精神系の」
輝はさらに脳味噌をフル回転させて、詳しいことはあとでと言い通して回線を切った。
「陽一さんこれってお芝居用のピストルでしょ？ 持ち込めるはずよねー
あ、タオルそこ。顔洗うなら洗面所どうぞ」
ゆうきが雑巾で床を拭きながら言った。
「ああ、綺麗にならなかったらハウスクリーニング入れてもらってくれ、費用は出すから」
「言っといてくださいお願いだから」
輝も這い蹲って床を拭いている。
「そこは、敵を欺くには味方から？」
「ほんとおれ寿命縮んだんですけど」
スカイプを入れたところからもう計画していたわけだ。
「済まん……遅い回線の、粗い画面でなら騙せるかと思ったんだ……こっちは一度やって
るからな。あのときも相当参ったらしいし。……とんだ鬼子母神だぜ」
憑き物が落ちたみたいに爽やかな顔をしている陽一は、真っ赤になったラグを剥がして
粗く畳んでいた……やけにのっそりと。
「輝。さっきからおれ一生懸命動かそうとしてるんだが、右手の筋がいってしまって動かん。
……思いっきりやってくれたな」
「やー命を粗末にするような甥っ子には、叔父さん渾身の力でおしおきしちゃうぞ」
思いっきり明るい笑顔で言ってやると、陽一は思わず吹き出していた。
「ははは」
「はははははは」
「うふふ、ふふふふふ」
みんなして笑って、イヤな空気を追い出した。
「終わった！ 終わった！」
「終わったんだよね？ おれ、もう大丈夫だよね？」
「オフクロさえ排除すれば、あとはまともだ。おれが向こうでまともな連中と話を詰めて
くるから、……まあ、今年中にはサインしてもらう」
「わっかりましたーあ！ ほんと会社とか要らないからね？ 金はオフクロにやって。入
院費用とか、ガッコなおしたりとかに要るから多分。そこら辺は頼んだ。信頼してるよ」
輝が笑顔を見せた。この秋はじめの、秋休みってなんだとぼやいていた頃の、なんにも
明日を疑っていない頃の笑顔。
「良かった。でも、わたし絶対悪いことにはならないって思ってたの！」
ゆうきがお茶を煎れて持ってきた。秋だから、とこの前出してきていた兎の模様の煎茶
セットだ。
「ゆうきちゃん、なに？ それもチャーム？」
「ううん、だって、それがコノヨノコトワリってもんじゃない？」
「なにそれ、何語？」
「この世の理、れっきとした日本語だ」
陽一が呆れたように低い声で言った。
「なんて意味よ？」
輝はゆうきの顔を見る。おっとりと輝いている、いろいろ傷付いたり、悩んだりしたの
に、ひとを恨んだりとか、心に澱んだものを少しも持っていないような顔を。
「この世界はこういうふうになってるんだーっていう無敵の法則。
だって、輝くんは悪くないもの！ なんにも悪いことをしてない子どもを、恨んで、死ん
でちょうだいって思うひとの方が間違ってるもの！ 間違ってる人の道理が通っちゃおか
しいわ」
そのオンナの息子を目の前に言い切った。ちょっと、ゆうきちゃん自重して。
「だって、結婚してる男が若い女の子に手を着けちゃダメだろ？」
「でも！ それは奥さんが怒るならいいけど、お嬢さんじゃない！ どんな理由があったっ
て、死んでちょうだいって願いが叶っちゃいけないわ、そのひと、次にも似たようなお願
いをして、そしてどんどん心が汚れて行っちゃうわ！」って、猫が立って歩いて人助けを
してまわる少女漫画の作者は力説する。
ああほんと、作品って、そのひとの内面が出るよね。ファンタジーを信じてる、人の善
意とか世の正義とかを信じちゃってる愛すべき魂。
そうじゃない大聖寺グレイス様は汚れた結果こうなったんで。困った顔で陽一を見ると、
「まったくだ。ヴェナレスにはあなたみたいなひとがどうしていなかったんだろう」
陽一がゆっくり肯いた。帽子を取った顔は穏やかに輝いていて、今日は年相応に見えた。
まだ三十にもなってないのに。
自分の母親が魔女だと知ってしまった男。その魔女を、自ら葬り去った男。
「陽一さんも、幸せになってよね」
輝は、背伸びをして、大きな自分の甥の背を抱いた。
「ああ、うん」
「望美の墓参りに、……やっと行ける」
陽一が、声を詰まらせた。
「うん」
それからしばらくして、望美さんの墓参りから帰ってきた陽一に、アメリカから来客が
あった。金髪美人と、小さな女の子。
「ヨーイチ！」
ああ、奥さんいたんだっけ。娘までいたのかよ、輝は少し引いている。ヴェナレスの家
は、死んだと伝えたらそのまま信じて、弁護士がすっ飛んできただけだったのに、ちゃん
と奥さんは来たんだ、東京じゃなくて、飛行機乗り継がなきゃならない仙台まで。
陽一さん、良かったじゃない、と、空港で出迎えて輝は顔を綻ばせた。三人はもう五分
も抱き合ってる。
「陽一さんは大丈夫みたいだね。ゆうきちゃんはどうする？」
「えーっ？ わたし？ わたしはこれからまだ北辰のお話を描きついで行かなきゃならな
いし。九部までお話のイメージはあるのよ？ あら、あしたからでも作画に入らないと、
輝くん、ちょっと遊べなくなるけどごめんなさい」
「あ、そーなの。稼ぐね」
オンナの方が逞しいってこういうことかな、と輝は思っている。もう仕事のこと考えて
る。
「さあ、アニメの人気はそろそろ落ち着くだろうとは思ってるけど。
ＯＬをやってるより稼がせてもらったから、これから地味な生活をしてればなんとか生
きていけると思うの。
あとは、すてきなカレとリアルでいろいろしたいかなー」
にっこり笑って見上げてくる。いや、これ以上地味な生活ってどんなよ？
「ああ、うん、ゆうきちゃんもっと遊んだ方がいーかもね」
まとまったお金が入ったら山じゃなくブランドのカバンとか買っちゃって海外旅行とか
エステとかも行っちゃって、もう少しお化粧もお洒落も頑張って。
それって相手はやっぱりスーツ着ない系の仕事の男かなー三十前の、と輝は悲しいよう
な気持ちになる。大丈夫かな、ちゃらい男に騙されて金持ってかれたりとかしないかな。
「がんばって貢いじゃうから、輝くんわたしとお付き合いしてみない？」
ゆうきは真顔になって、輝の目をまっすぐ見たまま言った。
「さらっと言うなよーもー！」
一瞬絶句して、輝は怒って見せた。うわーおれ顔赤くなってね？ と、キョロキョロ辺
りを見回してしまった。
「だって男らしいし、パワフルで。優しくて、そしてハンサムだわ。もう最高。
とりあえず帰りのタクシーおごるから、霊屋（おたまや）の方の隠れ家レストランにご
飯食べに行かない？ たしかフレンチ」
にっこり笑って、そんなこと言ってくる。仙台空港の、到着ロビーのはじっこで。
「行ってもいいけどその前にちゃんとしたカッコしろよ！ もう！」
輝は泣きそうになって言った。
「え？ だめ？」
ゆうきは素でそんなことを言う。化粧気のない顔で！
限りなくうちでゴロゴロするためのカテゴリのグレイのスエットに、シンプルな、おれ
でも縫えちゃうよというスカートだという形だけのジャンパースカート、暖かいかも知れ
ないけどごっつい黒のスパッツで。光り物なんてもうどこにも見あたらないし！
「クリスマスには絶対ごっついアクセサリ買ってやるから！ 着けろよ絶対！ もっとちゃん
としないとデートしないからな！」
「わーい！ 嬉しい！ 絶対よ、約束よ？ これで地獄の年末進行にモチヴェーションが
できたわ！」
ゆうきはきゃっきゃと喜んでいる。素直で。心に暗いところを少しも持たなくて。まあ
まあ美人だし。なんて奇跡的な優良物件。……お金持ちだし。そんでもって魔女だし。
「うん。約束。だから、常識的な範囲で貢いでくれよな」
おれも、ゆうきちゃんのきれいなところを守れる男になるから、と、輝は心に決めてい
る。
「十六才になったらオートバイ？」
「学院はバイク禁止！」
「えーじゃあ現役高校生はいったいなにを上げたら喜んでうっとりさせてくれるの？」
……口に出して言えません。つかまっちゃうし。
「考えとくから」
輝はもうそのやりとりだけでどっと疲れた。肩が落ちる。
「絶対よ？ チャームを使うわ。さあ、これを見て？」
止める間もなくゆうきが北辰のストラップをかざして見せた……。
「陽一さーん、とりあえずホテルに戻りましょ！」
ゆうきが声を掛けて、とりあえず三人を落ち着かせた。
『アキラ、初めまして。お目にかかれて良かった。大変でしたね。これから家族としてお
付きあいできたらうれしいです』
キャシーに笑いかけられて、輝は心から笑った。
『こちらこそ、よろしく』
簡単な、そして最強の法則。心を開いて、温かい、明るいことだけを考えるんだ。
ゆうきの笑顔が蘇る。
……ワン、ツー、スリー！ 輝くんはこれからとっても幸せになるのよ！
この魔女は、最強だ。
２８−０４−１２
やっと完成した大物、いかがだったでしょうか？
「４部だといわれてみれば４部だけど、別物でしょ？」なのか、「これはカンペキ黒！
表に出さない方がいい」のか、「これで坊ちゃん文学賞狙ってみれば良かったのに」か。
よろしければ感想をお聞かせ下さい。
２００８年といえばリーマン・ショックの頃でしょうか。「向こうも今パニック」とい
うのはそういうことで。その頃はオバマさんは大統領候補でした。４年放置か、きついな、
もう次の大統領選今年ですよ。
タイトルが決まらなくてすっげーだせータイトルになりました。ほんと珍しい。やっぱ、
オチが決まらないで書き始めたからかな。話のテーマとか、こういうことが書きたいの！
ってのが絞れてなくてただ書き始めたからタイトルが決まらなくて、オチもうまくまと
まらなくて結果書き終わらない、コレですね。反省。
舞台はＳ市杜王町じゃなくて仙台！ だからかなりローカルネタ入れました。うふ。
２００８年の設定で書いてたので、震災の影響はまるきり入ってません。まあ、仙台市
北東部の内陸を想定してるので、じっさいあんまり被害は出てないと思いますけど、お近
くにお住まいでもうそれってないよ、という方には、失礼しました。ごめんなさい。
縦書きにしてちゃんと紙に出すつもりで書いていたので、漢数字になってます。横書き
で見づらかったらごめんなさい。