雪辱戦
その朝（３７）
１
「そんなことおれだって解ってるッ！」
怒号に驚いたのは、それを発した本人のようだった。一瞬のうちに紅潮した頬からは血
の気が引いて、本人、レオーネ・アバッキオは羞恥を通り越して自省、自虐へと感情のエ
レヴェーターを重力加速度に従って沈下させていった。
「あの、アバッキオ……？」
フーゴが取りなそうと声を掛けたが、
「済まねえ……大きな声出しちまって」と、擦れ声を返して、アバッキオはキッチンへ引
きこもってしまった。
「……なんであんな急に怒ったの？ なんかヘンなこと言ったっけ？ そんで、なんでま
た急にしょぼくれちまったの？」
瞬間冷凍にあっていたナランチャが、深い息を吐いてから矢継ぎ早にフーゴに問いかけ
る。予想できたそれをフーゴは聞いている振りをしながら、先回りして忙しく思考を巡ら
せる。
「ぼくが、口に出して言ったのは、『そういえば』だけだったよね？」
時間稼ぎのための前提条件の確認だったのに、
「ああ」と、ナランチャは一言で済ませる。
カレンダーを確認するまでもなくなんとなく陽射しも和らいで、風にもなんだか花の香
りが混ざっている気がしてくる３月１日の昼下がりだった。
２
ちょうど、昼食の片付けがあったから良かった。アバッキオは自分より小さいものに八
つ当たりをしてしまったことを大いに恥じながら、ストレスに満ちたこの２週間、いや、
１ヶ月、いやもっと……を反芻していた。
……おれだって、ままごととはいえ婚約者のいる生活を５年も送ってきたんだ、女にとっ
てこの時期がどんなにだいじかってことぐらい知ってるッ！
この街では新参者で、なおかつ、みんなの憧れのひとを恋人にしたということで、彼の
動向は町中の関心事になっているのだ。あまつさえ、ここは下町だ。お節介な街の衆が、
自分こそがこの街で一番の恋人同士の役に立ってやらなくてはと勢い込んでいる。
そして、年明けからこっち、レオーネ・アバッキオは行くところ行くところで、
「聖ヴァレンティヌスの日の準備はしているだろうね」と声を掛けられ続けていたのだっ
た。
しかしながら、お節介どもの言うことは当てにならない。
……ま、ブチャラティはあんまり年頃の娘っぽいところはないからな。別になんにもし
なくたって、いつも通りしれっとしてるかもしれないがな、一応。なんか形だけでもやっ
とけよ。と、これはブチャラティがチームに拾われてからの幼なじみと称する、酒場を幾
つも経営する若旦那。
……あの子はファミリーの仕事に追いまくられて、そういう女の子らしいことをなんに
もやってこなかったんだよ。きっと、自分だってカードのやりとりぐらいやってみたかっ
ただろうに。絶対、絶対！ 忘れるんじゃないよ？ 一生の思い出に残るようなロマンティッ
クなことをしてあげるんだよ、いいね？ と、真面目な顔を作ってほとんど説教なのは八
百屋のおかみ。
……えーっ？ いいんじゃね？ ブチャラティがそんなのってヘンだよ。そこら辺の女
みたいにそんなぐじぐじしてないよ。レオーネのことだって、ちょっと来いつって酒場で
拾ってイッパツでものにしたんだろ？ そこんとこがブチャラティなんだよ。カッコいー
よ。ブチャラティがうちのねーちゃんみてえににやにや笑いながらカード選んでるなんて
考えたくもねえ。レオーネもなんもしなくていーよ。それでもあんたらビシーッと似合い
だし。いい大人がカードやらチョコレートやらで一喜一憂すんのおかしーって。あんたら
ギャングなんだから。もっとクールでいてくれよ。と、ガキ大将のニッコロは、警官の頃
に風に飛ばされた宿題プリントを拾ってやって、ほとんど白紙のそれを埋めるのをうっか
り手伝ってやって以来の顔なじみだから、アバッキオがブチャラティのチームに拾われて
も全然臆することなくずけずけと言ってくる。
……あら、うふふ、外せば？ きっと期待してるわよ。とっても気合い入れて準備して
るわよ、ブチャラティは。だから外しちゃえばいいのよ。あなたってばいっつもブチャラ
ティに頭押さえ付けられて、気を遣いまくりで。たまにとってもヒドイコトしてみればい
いのよ、知らん顔で。気がつかなかった、あんたでもそういうことするのか、なーんて。
いっぺん外して、落すの。あはは、いい気味。あのひとあなたにくびったけだから、１回
ぐらいは許すわよ。あなたって、いろごとに疎そうだもの。かえって惚れ直すかもよ、あ
あ、忌々しい。そうして、思いっきりへこましたところで、思いっきり優しくしてやるの。
そうよ、次の、ミモザの日あたりに倍ロマンティックにしてやるの。これでガッチリ心を
掴めるわよぉ。と、恐ろしいことを囁きかけるのは化粧品屋の年増の女店員。油断してい
るととんでもない色の口紅など差されて、おまけに似合うわよなんて言いくるめられてい
つも買わされている。
……などなど。みんな親身になっていながらも、最大の娯楽として楽しんでいる。それ
もまた、この街の有名人に惚れられた有名税のようなものとアバッキオは思うようにして
いるが。
……しかし、なにせ、この下町の皆が、毎日入れ替わり立ち替わりなのだから。
真心だけ受け取って、内容にいちいち心を悩まされたりしないようには心がけているが、
根が真面目なものだから、どの意見にも採るべきところがあるように思えてきて混乱して
くるのだ。
……なんか、食いもんがうまくねえな……。
気がつくと手は身体の中心を庇っていて、アバッキオのストレスは極限に達していた。
しかしながら、当のアバッキオも義務からではない。このきれいで強くて優しい女を愛
しいと思う心が心の中に芽生えており、そのためには、恋人たちの日に彼の思う最高のも
のをブチャラティに贈ってやりたいという結論にとうに達していた。
自分の思う最高のものを。
自分のフラットで机に向かい、アバッキオは何度も何度も下書きをして、手紙を書き上
げた。
親愛なるロメオ、元気でやっているか？
おれは今、いろいろあってネアポリスの下町にいる。仕事を辞めたあと、やさしい女に
拾ってもらって、ちょっとした仕事を任されている。
それで、もう２月だから、おまえも店の仕事が忙しいだろうが、頼まれて欲しい。おれ
が世界で一番美味しいと思うおまえの店のチョコレートを、ひと箱、おれの彼女のために
送って欲しい。同封の金で足りなければまた送る。
この季節、おまえの店の菓子で幸せになる恋人たちがたくさんいることを祈っている。
親父さんによろしく。
レオーネ・アバッキオと署名をして、幼なじみの家のやっている菓子店の、看板商品の
チョコレート菓子の代金に添えて封筒に入れて封をした。
差出人の住所も丁寧に書いて、アバッキオは十分日程に余裕を持ってそれを郵便局に出
しに行った。
果たして、オフクロさんには内緒にしとくよ、という走り書きのメモとともに、幼なじ
みからの小さな包みが２月のはじめに届いた。幼い頃の憧れのおとっときのお菓子の包み
紙が、まったく同じ姿で彼のもとにやってきた。懐かしいカカオの匂いが包装紙の隙間か
ら零れている。
少しの安心と、誇らしいような高揚感が彼を包んだ。
味に不安はない。きっと、きれいでやさしいかれの恋人は喜んでくれるだろう。あとは、
気持ちをロマンチックに届けるためのカード……。
気の利いた文句が浮かばなくて、堅物男はペンを片手に頭をかきむしった。なんだか腹
の真ん中が重いような気がしている。
「ええと、『あんたの優しいまなざしに見つめられていると……』？」
その脳裏をかすめるのは、幼い頃の記憶。
Ｗｅｎｎ ｓｏ ｌｉｎｄ……
口ずさんでいたのは、ドイツの生まれの祖母だっただろうか。一度尋ねてみたその歌詞
は、たしか恋の詩だった。
「あなたがそんなにやさしい目でわたしをみると、ってね」
祖母は簡単に意味を解釈してくれた筈だ……。
うろ覚えの歌詞を紙にメモって、アバッキオは辞書と格闘し始めた。
そんなにも愛らしく、そしてやさしく あなたの瞳がわたしを見れば
わたしを悩ませる全ての影は すぐに消え去ってしまうよ
こんなすてきな愛しいときめきを あなたはむげに捨ててしまわないで
こんなにあなたを愛するものは きっといはしないだろうから
唸りながら言葉を調えていくと、意外や、自分の今の心境にぴったりな気がした。
「これでいくか」
小間物屋をこそこそと冷やかしながら、やっと好みのものを探し当てたヴァレンティヌ
スの日用のカードに、アバッキオは几帳面な字で詩を書き写していった。
一応の支度が済んでしまったアバッキオは、もう自信満々だった。カードとチョコレー
トは、きれいに包装して自分のフラットの冷蔵庫の中に隠してある。もう、誰にプレッシャー
を掛けられても、胸を張って支度は調っていると言える。自分のできる最善の準備がもう
整っている、あとは１４日を迎えるだけ……。
だから、気持ちに隙があったのだろうか。
３
「ナランチャ、待て、おれが行く！」
麻薬の密売人を追い詰めていて、ナランチャがエアロスミスを出した。もう夕まぐれ、
倉庫街には人気はなかったが、スタンドを使わないに越したことはない。体格もたいした
ことない男がひとり。アバッキオは、いいところを見せようというつもりもあって、ナラン
チャを制して密売人に向き合った。
「この街では、そういうことやられると困るんだ。……出せよ」
右手を出すと、顔色の悪い中年男は忌々しそうに右手を出した。麻薬を掴んだ右手を手
首ごと掴むと、その手首に、時計が引っかかっている。腕時計を右手……？ とそれに目
を留めて、その意味に思い当たったときには、男は身体ごと左手にナイフを握りしめてぶ
つかってきていた。
「野郎、左利きか……」
焼けるような痛みが腹部に走る。
「アバッキオーッ！ 畜生ッ！」
エアロスミスが爆撃を叩き込む音を聞きながら、アバッキオは気が遠くなった。
「いや、たいした傷じゃなかったそうだ。皮一枚の話、鍛えてたからな。ただ、胃に穴が
空きそうだったそうだ……内側から」
医師から説明を受けたブチャラティが廊下に出てきて、ため息を吐いてフーゴに伝えた。
「胃潰瘍ですかッ？」
フーゴは大きな声を出しそうになって、慌てて自分の口を自分の手で押さえた。
アバッキオが目覚めると、白い病室に、白いスーツの女が微笑んでいた。
「良かった。傷はたいしたことない。気疲れで寝ていたんだ。なに、薬で治る病気だそう
だし。もしかしてずっと痛かったのか？ ……気づいてやれなくて済まなかったな」
だって、根が真面目な男は、拾った当初から、身体の中心を庇おうとする姿勢が癖になっ
てしまっていた。通奏低音のような胃痛をもう慣れるほどに抱えていたなんて、誰が気づ
いただろう。
「寝ていたって？ 幾日？ おい、今日は何日だ！？」
慌ててアバッキオはカレンダーを探した。
「２月１６日だ」
ブチャラティは、端的に答えた。
「……ッ！」
アバッキオは、両手で顔を覆った。
一生一度の、つきあい始めて最初の聖ヴァレンティヌスの日がもう終わってしまった。
冷蔵庫の中の渾身のプレゼントが、虚しくなってしまった。町中の恋人同士が幸せ一杯の
日に、愛する女に病院で不安な時間を過ごさせてしまった！
「済まねえ……」
絞り出すような声で、アバッキオは謝るしかできなかった。
「レオーネ」
ブチャラティの声は、穏やかだった。
「悪かった」
「レオーネ」
「準備はしてあったんだ。おれも、あんたに出会えて、拾って貰えて、幸せだって、あん
たは最高の恋人だって、言おうと思ってたのに……情けねえな……」
「レオーネ、聞いてくれ」
ブチャラティは、強い調子で遮って、アバッキオの両手を引いて顔を自分に向けさせた。
「プレゼントなら、ちゃんと冷蔵庫から見つけた。入院の支度を取りに入らせてもらった
からな。そんなものはいいんだ。プレゼントはもうもらった。
今おまえがここにいて、生きてちゃんとわたしと話をしてくれている。
それだけでわたしにとってはこの上ない贈り物だ。それを解っておくれ。
チョコレートならわたしも準備してあるが、当分刺激物はいけないそうだから。見るだ
けな？」と、脇のキャビネから、きれいにリボンを掛けた小さい箱をちょっと出して見せ
る。
「そんなことより、おまえが胃に穴が空くほど悩んでいたのに気づかなかったことの方が
問題だ。どうして相談してくれなかった？」
……いや、それは。
切ない顔で問い詰められて、アバッキオは困ってしまった。
退院してすぐ、冷蔵庫から出してきたプレゼントをブチャラティに渡すと、ブチャラティ
は静かに頬を染めていた。つめたい、と包みを胸に抱いて、しみじみそれに頬を寄せてい
た。カードを開くと、その明るいタンポポ色の印刷のせいだけでなく顔が明るくなった。
何度もその文面にキスをして、胸のポケットにしまい込んで、その上からそっと押さえる。
そしてくすぐったそうに上目遣いに彼の顔を見上げる……。
子供の頃から、この世で一番の味だと信じていたチョコレート菓子を、ブチャラティに
も味わってみて欲しかったのに、もったいない、これはずっと飾っておく、なんて言って
そのまま持って帰ってしまった。
……ロメオにもうひと箱送ってもらわにゃいかんな。
しぜん、アバッキオも口元を緩めていた。もう彼は胃を庇わない。
４
……というふうに、数日遅れで聖ヴァレンティヌスらしいことはじゅうぶんやったのだ
が。
雪辱の機会はすぐにやってきた。
３月８日はミモザの日。女性は一切の家事から解放され、女性同士で飲食店や酒場に入っ
て盛り上がることを許される。恋人や家族からは、春を告げるミモザの花を贈られる。イ
タリアーノなら幼稚園児だってマンマや女友達にミモザを贈る。女性を大切にする英才教
育なのだそうだ。そして、アバッキオに限らない、聖ヴァレンティヌスの日にヘタを打っ
た男が名誉を挽回するチャンスとして認識している日だ。
街のおかみさんたちは、ブチャラティには恋の経験がないと断言していた。中学へもま
ともに通えず、ファミリーの下っ端をやってやっとやっと生きてきたのだと。
ミモザの日には、糸色 文寸 失敗できない。
アバッキオの覚悟は、街の衆に伝わったのかどうか。
胃を痛めた話まで伝わっているのか、退院してからのアバッキオは遠巻きにされて、せっ
かく街になじんで声も掛けられるようになっていたのが、また、腫れ物扱いに思われた。
「レオーネ、あの、ミモザは」
花屋のマリアがこわごわ聞いてくるのへ、
「両手で抱くほど！ 当然！ あいつの眼の色と同じ、濃い青のリボンを掛けて」と噛み
つくように注文する。
「ええ、確かに！ 任せといて！」
マリアは輝く笑顔で受けて、帳簿に書き入れる。これで確実だ。アバッキオは胸を張る。
サバンナを支配するライオンのように。
それでも、２月が終わりに近づくと、皆が心配げに寄ってくるようになった。
「アバッキオ、解ってるだろうな？」
「今度は怪我しちゃダメだよ」
「３月８日だよ？」
「ミモザだよ？ 間違えるんじゃないよ？」
「マリアに言っといてやろうか？」
「大丈夫、当日になっても、噴水のところと、辻辻に屋台が出るからね」
「でもやっぱり買うならマリアのところだね。花のイキが違う」
「フーゴに相談して置いた方が良くないか？ あの子なら抜かりなく手配してくれるよ」
……やっぱりお節介だ。
それらのひとりひとりに、仏頂面ながら一応は丁寧に返事をする。大丈夫、解ってる、
ありがとう……アバッキオはまた胃の辺りを庇い始めるようになっていた。
そこへきて、とうとう３月に入り、カウントダウンが始まった思いに身をひきしめてい
たところで一番の味方と思っているフーゴが「そういえば」とまたしても注意を促すよう
なことを言いかけたのだ。
アバッキオは忍耐の限界だった。
「そんなことおれだって解ってるッ！」
……なるほど、そういうわけか。
フーゴはようやっとアバッキオの心境を理解した。
叫んでしまったことで一応の心の整理がついて、また我慢強く当日を待つ心構えができ
たらしい。
フーゴの方も、アバッキオがプレッシャーに耐えつつブチャラティに想いを示すこと自
体を放棄するつもりがないことを察して喜ばしく思った。
「解りました。彼はミモザの日に絶対失敗できないと思って今からピリピリしてるんです」
「えーっ、考えすぎじゃね？ あ、わかった、じゃ、おれなんとかしてやるよ」
ナランチャが弾けるように笑って請け合った……。
５
３月８日。珍しくアバッキオが泊っていかなかったので、ブチャラティはひとりでゆっ
くり自宅を出てアジトへ向かった。この日は街の衆が日頃の感謝を込めて花を捧げてくる
ので、アバッキオが一緒にいなくて、余計な気を回される恐れがないのはかえって気楽だっ
た。
フラットから表に出たところで早々と隣のビルのテナントの店主が声を掛けてくる。
「これは、レオーネから頼まれて預かってたんだ。あんたに」と、ミモザの花束を出して
きて、手渡す。
「先月はホントに済まなかったって言ってたよ」
ブチャラティは礼を言って、歩き出した。と、３歩も行かないうちに、おかみが慌てて
店の中に引っ込んだ。と、走り出てきて、黄色い固まりを差し出す。
「ブチャラティ！ レオーネがこれをって！」
戸惑いながら手を差し出すと、ミモザの花束が、こんもりとアレンジされている。
「ヴァレンティヌスの時にはうっかりしたからって。あたしが言って預かってたんだよ。
怒っちゃダメだよ？ レオーネはあんたのことをほんとに大事に思ってるんだよ」
「あ、ああ、ありがとうアンナさん」
ブチャラティは両手に花を抱えて歩き出した。
「ブチャラティ！」
「ブチャラティ、おれの花も持って行けよ。それと、これ」
「ブチャラティ、これはうちから、それと、ナイショだが、レオーネがこれをって」
「おはようブチャラティ、これを持っていきな。こっちはその、なんだ、アバッキオに頼
まれたんだが、おまえにって」
例年のことで、街の衆が顔を合わせる度にブチャラティに花を貢いでいく。それが、必
ず小声で小さな花束を別に託すのだ。
「これはアバッキオから」
「アバッキオに頼まれたんだが」
「アバッキオからももらってるぜ」
アジトにたどり着くまでに、ブチャラティは黄色い花に埋まりそうになっていた。
「おはよう……」
ドアを開けると、また、まばゆいばかりにミモザが山盛りになっていてブチャラティは
目を瞬かせた。
「おはようございます、ブチャラティ」と、ミモザの花束を整理していたフーゴが振り向
いた。両手を伸ばして新しい花束を受け取る
「いったいなんなんだ？ 今年は。マルコが発注を間違えたのか？」
ブチャラティはやや野心家の花屋の主人の陰謀を疑った。
「違いますよ」
はい、これはぼくから、と花束を渡しておいて、フーゴが微笑む。
「あんたはアバッキオの胃の心配をしてやってください。もしかして、今日中にもう一度
ぐらい爆発するか、さもなきゃ神経性胃炎で倒れると思います、彼」
「物騒なことを言うな。理由はなんなんだ？」
「今日はうちのシマにはアバッキオの偽者が１００人ぐらい出ると思います。あんたも、
その様子じゃもう２０人ぐらいは偽アバッキオに遭ったんじゃないですか？」
珍しく温かい光をたたえた青い眼にいたずらっぽく見上げられて、ブチャラティは何と
なく事情を察した。
「そういうことか？」
リーダー様のご出勤の気配を察して、エスプレッソを煎れてきたアバッキオが、実に不
機嫌に現れた。
「おはよう」と、カップを置き、そして、大股に脇の部屋へ行って、抱えるほどのミモザ
の花束を出してきた。
「とりあえずは、これが正真正銘おれが用意した分」向こう向いてろ、とフーゴに顎で指
示して、どさりと花束を席に着いたブチャラティの膝の上に落して、なにごとか囁いて軽
くキスをして背を向けた。
……とんでもねえ日になりそうだけど。まぁ、気持ちだけは受け取ってくれ。……愛し
てるよ。
聞き取れた内容にブチャラティが頭を傾げていると、元気な足音が響いて、ナランチャ
が駆け込んできた。
「おはよーブチャラティ！ これ、おれから！ それと、アバッキオまだ来てねえか？
しょーがねえな、おれが預かってるから、あいつの分のミモザ！ な？ ちゃんとあいつ
ミモザの日忘れてねえからな！」と抱いてきたふたつの花束を順にブチャラティに押しつ
けた。
「あ、ああ、ありがとう」と、ブチャラティは微笑みを作ってそれを受け取る。
「今日はパトロールもデスクワークもなんもしなくていいですよ。サンドラさんとゆっく
りお茶してきてください」と、フーゴが新聞を手渡して微笑む。
「ああ、うん」
「帰る頃には足の踏み場もなくなってると思います……フラットの方にも。今晩寝る場所
があるといいですね。ミモザって、トゲないですか？ 気をつけてくださいね……」
にこにこ話しているうちにも、川向こうのグリマルディーニのチームからも、近郊のチー
ムからもどんどん花束が届く。刑務所に収監中のポルポからも、きれいなケースに入った
花束が届けられた。
「毎年のこととはいえ、今年はすごい量です。……予想では１．５〜２倍になるはず」
「それって……」
それは、花束に添えられた口上で察しがつく。花束はほとんど２つ届けられ、ほとんど
と言っていいほど必ず小声で言い添えられるのだ。
「これはアバッキオからあんたにと預かったんだけど」
かくて、午前中の早いうちにネアポリスの下町の守護女神のオフィスはミモザの花で埋
まりそうなのだった。
「ブチャラティ！ この街はなんてお節介が多いんだ！？」
雪辱戦に街の衆総出で助太刀をされて、堅物男は苦り切っていた。
「ああ、いい街だろう？」
ブチャラティは笑いを噛み殺しながら済まして言った。
（１９−０９−０９）
蛇足。
季が違っているが、しかたない。
（もはやＴＶではやれない横溝ミステリの有名な決めぜりふ）
そういえば、ヴァレンタイン・デーをやってなかったと思って。
今回思いついたから、あと半年寝かすなんてへろいことはしないで出してしまおうと。
ブチャラティじゃないけど、「半年後に生きているかどうか解らない」から。
９月ならブチャ誕生日、そうでなくてもハロウィンネタでしょうが！ ……季節感なく
てどうもすいません。
ヘタレカッコイイアバッキオさんは、マッチョ志向があるけど、男が女の機嫌なんか取
れるかという方向じゃなく、真面目に、強い男として恋人の夢を叶えてあげたいと努力す
るし、そのセンスというか感性も間違ってないんだけど、いかんせん運がないからハッピー
な結果にたどり着けないという方向です。過程すっ飛ばしていきなりきれいなおねえさん
に拾ってすぐ抱いてもらってるという反則やってるし。それでも、挫けずにごく真っ当な
ハッピーエンドを目指し続けるので、きっといつかはたどり着けるんじゃないかな、そこ
らへんどうでしょう、殉職警官の先輩？
作中、アバッキオがおばあちゃんに教わったラヴソングはブラームスのリーベスリーダー・
ワルツァー（愛のワルツ集）。１ページぐらいの短い歌詞のついたワルツが１８曲集まっ
てて、もう、歌詞が神です。
「この気持ちが恋だとわかった時ってなんて素敵！」とか、
「ため息を吐くことを知らなかった者が、そこで恋を知ってため息を覚える」とか。Ｊ−
ｐｏｐふだん聞かないんで、あんまりブチャアバソングって思いつかないんですけど、なん
かヴァレンタイン・デーのカードに書くような甘〜い詩って知らなかったんで、もうアタ
マしぼりました。