我が胸に憩え
その朝（７１）
１
「だからなんでまたあんたたちはこの忙しいのに懲りもしないで……ッ！
５分だけ！ 聞いてあげます。何があったんです？」
ミスタとナランチャからすがるような目を向けられて、フーゴがとうとう乗り出してき
た。どうもアバッキオがまたなにかに引っかかっているなと思って昨夜ははやめに２人で
帰してやったというのに、今日になったら２人はもう決定的にケンカしていた。ブチャラ
ティの方がへそを曲げてしまって、完全に無視して目も合わさない。
「いや……なんでもねえよ」
１０時のコーヒーを念入りに支度して持っていったアバッキオが、オフィスを気にして
そわそわしていたが、３０分後、堪えきれずに下げに行ったら、手つかずの冷め切ったカッ
プを手に肩をがっくりと落として帰ってきた、それを捕まえて、フーゴはまくし立てたの
だったが。
「そういう時間の無駄は許しません。どうせあんた達のことなんだからまたしょうもない
ことなんでしょう。解ってますから。
今はいちばん大事な時期なんですよ？ デスクワークは山盛り、月末の集金も始まって
ます。例のことが末端へも伝わり始めていて、街はざわついてます。ちょっとした野心を
刺激されたバカが事を起こしたりしないように、気合いを入れて締めていかないといけな
いってのに、肝腎のあんたたちがしっくりいってないんじゃ困るんですよ！」
「………………すまん」
アバッキオは頭を垂れて身をよじり、キッチンへと去ろうとした。
「……ミスタが持ってきたアレ、まだあるんですけど」
フーゴは低い声で剣呑なことを言い出した。
「アレ……？」
「ぼくはああいう機械を使うのは得意じゃないんですが。ことは支部の士気にも関わりま
すし。グリマルディーニさんやポルポさんのお耳に入ったりしたらややこしいことになり
ます。
なにがなんでも、あんたには吐いてもらいますッ」
言うやいなや、フーゴはスタンドを呼び出していた。
「フーゴッ！？」
道化のようなモチーフを全身に描き出したフーゴのスタンドが現れ、恐るべき瞬発力で
一回り身体の大きい男を抑え込んだ。
「ミスタッ！ ナランチャッ！ 捕まえましたッ！ 椅子と計器の用意を！」
「ま、待て、話す、話すからッ！」
真剣におびえの表情を見せて、アバッキオが声を絞り出した。
２
羞恥に声を途切れさせながら、女神の愛を受ける男が語ったことには。
……最初がなんだったのか、もう思い出せない。自分がしでかしたことをまたつくづく
思い出して、いろいろと、子供がお気に入りのキーホルダーをいつも手でいじくっていて、
しまいには彫りがすり切れて丸くぼんやりしてきてしまうようにあの事件のことを思い返
していたりして。
そういうときは、無意識に、もうやめてくれ、おれを殺してくれ、おれこそがそれにふ
さわしいのだと口走っていて。
自分はもう慣れきっていて、心を落ち着かせるための呪文のようなもので、自分にとっ
てはお祈りの言葉と大差なくなっているのだが、傍にいる人間にはそうではないのだとそ
の時思い知らされた。
「そりゃそうでしょうとも。横にいる人間が、大して親しくなくってもそうです、死にた
いだの殺してくれだのと口走ってちゃ、誰でも驚きます。
ましてや、自分の恋人がそんなことを延々やってたら、心をすり減らすに決まってます」
「ああ、済まん……余裕がなくて」
だから２人きりにしてやったというのに、この朴念仁は何をやったというのだろう。ミ
スタも、ナランチャも、光を失った目で、黙ってアバッキオの両腕を押さえ込みながら忍
耐強く話を聞いている。
それで、久し振りにちょっといい所へ飲みに行って、とりとめもない話などしながらグ
ラスを空けて……アバッキオの心も少しはほぐれて、微笑みを返せるくらいにはなってい
た、と思う。ブチャラティ（ザルを通り抜かして枠！）も、例によってオリジナルの自分
専用カクテルで少しは酔ったような気分を楽しんでいて、２人はいい気分で部屋に帰り着
いた。
目的が果たせたと見て取って、ブチャラティはかなりご機嫌だった。らしくなく、上気
した顔で。目には慈愛ともつかぬ優しさを溢れんばかりにたたえて。
「お願いだから一人で悩まないでおくれ。ここはおまえのためにあるんだ」と、恋人の首っ
玉を捕まえて、力任せにその胸に抱き取ろうとした。
恥じたアバッキオは一瞬、腰を引いた。
冷静に、物理的に計測して、ブチャラティのそこに隆起が存在しないことはありえない
のだが。
すかっ。
アバッキオの頭部はそこを通過して、ジャポネーゼが最大限の謝意を表わすときのよう
に、直角に上体を折った状態になってしまっていた！
「……そうか、足りなかったか」
ブチャラティは感情を抑えた声で呟くと、きびすを返してドアを閉めた。
「ちょ、フロラッ、違う、そんなことねえって！ ちょっと一歩引いちまったから間空い
ただけで！」
彼女の一番気にしているところを傷つけてしまったと知ったアバッキオが蒼白になって
ドアを叩きまくる。
「引くよな。こんな、貧弱な身体でいい女ぶって……すまなかったな」
短い言葉が切々と響いて、アバッキオは胃が磨りつぶされそうになった。
「ちょ、開けろ、開けてくれッ」
「おまえは、ひとりで、大丈夫だな？ ちょっと、考えさせてくれ。いい気になっていた
かも知れない、済まない」
「ちょーッ！」
結局のところ、翌朝、定刻までドアが開くことはなかった。
３
「と、いうわけだ」
顔を覆ってへたり込んでしまったアバッキオが、またこんなことをチームのみんなに言
いふらしてしまって、男として最低だと自虐の淵を覗き込んでいる。それを察して、フー
ゴは襟首をしっかりと掴んで……そして、それ以上何もできないでいる。
……くだらないぃぃぃぃぃぃッ！
「悪魔だ。悪魔がおまえらに嫉妬してる」
笑っていいのか泣いていいのか、表情に困ってミスタが言った。アバッキオがちろりと
見上げたフーゴの顔も、なんて言ったらいいものか、顎を落としたままになっている。
「そんでアバッキオはやっぱ胸はでかい方がいいわけ？」
ナランチャがごくごく普通の声で問いかけて、３人は震え上がった。
「そんなことねえよッ」
「今はそういう問題じゃないんですッ！」
「言えねーよ、この期に及んでそういう本音はッ！ ほんとビミョーなとこ突いてくるな
あ！ どーゆー悪魔よ？」と、また男達は脱線する。
「いやおれはほんとあんまり大きいのは品がない感じがしてッ」
「そういう問題じゃないって言ってるじゃないですかッ」
「アバッキオおめー、そーゆー本能を偽るようなこと毎度毎度各方面やってたらハゲるぞ！」
「いーんじゃんだからアバッキオが巨乳好きじゃないんじゃ」
「だーまーれッ！」
フーゴが絶叫してテーブルをひっくり返したので、３人は口をつぐんでソファーの上に
並んでしゃちほこばった。
「不幸なタイミングが重なって、ブチャラティがせっかく思いやりを見せてくれたのにそ
れに応えられなかったと、そして、それがブチャラティの女性としてのプライドを傷つけ
た、これでいいんですね？」
「あ、ああ」
「そーゆーことだな」
「だからそれって！」
「だまれッ」
「それで、フーゴ、どうしたらいいんだ？」
たっぷり５分、天才の作戦検討時間を待って、アバッキオが上目遣いに声を掛けた。
「ほっときましょう」
溜め息をひとつ吐いて、フーゴは結論を口に出した。
「おい」
「あんたに悪気はなかったんだし。ぼくらちょっと最近あのひとを甘やかしすぎかも知れ
ません。そのうちけろっとしてお腹がすいたとかいって来るかも知れませんし」
「そんな……」
「お願いですから。ぼくらほんとにそっち方面は経験値低いんです。純粋に年齢を考えて
くださいよ、辛うじて成人してるのあんた達だけなんですよ」
……あ、珍しい。
ナランチャがフーゴを見上げた。この負けず嫌いの天才坊やが真剣に白旗を掲げている。
これは別口に頼んだ方が良いかな、とナランチャも珍しく考えを巡らせる。彼にとって
頼りになるのは、サンドラ、ルイサ、マリア……。
その時、オフィスのドアが開いてブチャラティが顔を覗かせた。今入った情報らしく、
携帯を握りしめたままだ。
「アバッキオ！ グリマルディーニさんの配下の商事会社で金庫破りだ。今月の上がりが
ごっそりやられた！ ムーディーブルースを出してくれ！ 警察なんか呼べるか、組織の
恥だ。犯人が分かったら直接締めに行っていい！ ……ミスタとナランチャに応援を頼め。
怪我するなよ」
「承知！」
アバッキオが生き生きとして立ち上がった。
「ちゃんと連絡入れろよ？ 車で待機してるから」
ミスタはもう車を回しに飛び出していった。
フーゴは我知らず大きな溜め息を吐いていた。
……ああもう、ほんとに。
忙しいんですから。あんたたちはくだらないことでケンカなんかしてるヒマはないんで
すから。
緊張を解いて、その顔は、微かに微笑んでいた。
ムーディブルースの活躍で犯人はすぐに割れて、事件は即時解決、大それたことをやっ
てのけた事務員は即刻病院送りにされた。金もすぐに取り戻せたので、退院後も一生最低
賃金で飼い殺しということで処分も決まったらしい。
「だから怪我するなって言ったのに」
ブチャラティは包帯を巻いてやりながらふくれている。久々の出番で張り切ったアバッ
キオは張り切りすぎて犯人をたたきのめして突き指。
「おれ達のめしはどうなるんだよー？」
ナランチャは文句を付けながら面白がっている。
「ああ、すまねえ、おれのつけでみんななんでも喰いに行ってくれ」
「全治何日です？ 食材の無駄はあんたの給料からさっ引きますから」
フーゴが冷静に質した。そんな、包帯を巻くほどの怪我ではないはずだ。
「今日明日で処分しなきゃならねえものはねえよ……たぶん」
「ホントにバカなんだから」と、ブチャラティはアバッキオの背を撫で回している。
……ああ、またこれでブチャラティはアバッキオに甘くなって、料理以外させなくなっ
て、小僧どもに出入りをさせるな、おれを出せといってアバッキオがふて腐れてまたケン
カになるんだよなあ……。
フーゴがつめたい目で見ていると、ミスタがにっかりと笑って袖を引いた。
「邪魔じゃん、おれたち」
「そうですね」
フーゴは眉を開いて見せた。
「じゃーアバッキオさんの奢りでいいもん喰いにいこーぜ！」と、ミスタが出口へと背を
向けた。
「行っちゃお！ じゃ、久し振りにカルダーノの２階！」
ナランチャがはしゃぐ。
「え、ちょっと待て」
慌ててアバッキオが身を起こすのを、ブチャラティが羽交い締めにした。
「いいから行ってこい」
密着されて、アバッキオが暴れる。
「ちょ、フロラ、あんた……当たってる、当たってる！」
「おや、一体何が？」
「なにがって……」と、純情な大男が顔に朱をのぼせる。
「わたしにそんないいものは付いていないはずだが」と言いながら、確信犯でスレンダー
な女性は胸を押しつける。
「いい加減にしろ、昼間ッからッ！ 怒るぞッ」
「……ほんとに迷惑なひとたちです」
戸外まで響いてくる声に耳を留めて、フーゴが独りごちた。
０３−０６−１１
蛇足。
わたしがアバッキオに肩入れするのは、身に覚えがあるからです。いえ、先輩に身代わ
りに死んでもらったことはないですが。
昔やったちょっとした失敗、朝会でちょっとしたスピーチをすることになっていて、ちゃん
とメモも作ってあったのにそれを壇上に持って上がるのを忘れて全校生徒の前でしどろも
どろになったとか、気の利いたことを言おうとして滑ったとかを執念深く覚えていて、な
にかあるとそれがフラッシュバックして、ぎゃあ！ と呻いていたりするので。……なに
その脳内ムーディブルース。これが総天然色リアルだったら死にたくなるよなあって。
でも日頃の行いと顔の良いアバッキオにはちゃんと癒しの女神が現れるのですが……ちょっ
とアクションが男前過ぎたかな。ちゃんと頭は両手で優しく抱えてゆっくり誘導してやっ
てください。あと共用廊下ではやめろ。おうちに入ってから。
今誰得な長編また書いてますが。ブチャねーさんも小ネタならまだ出そうな雰囲気。よ
ろしければまだお付き合いください。伏線の落ち穂拾いもしましょう。なんか見つけたら
アレはどうなった？ と振ってみてください。何か出るカモよ。