雨
昼過ぎから急に降り出した雨は、もう道路の向かい側を見通すのも困難なくらいだ。
昨日からぶっとおしでカラー原稿の彩色をやっていたから、そろそろゆっくり入浴したかった。ドイツ製の入浴剤を落として、昼風呂というのも自由業ならではの楽しみだ。もう秋も深まってきているから、湯上がりには油断せずジンジャーシロップを垂らした濃いめの紅茶で暖まろう。それとも、この際腰を落ち着けてココアでも練ろうか。
この前新調した大判のバスタオルも、このぐらい大きい方がこれからの季節はいいだろうと思っただけで全然他意はないし、編集者が置いていったノベルティのＴシャツを処分しなかったのはただの怠慢だ。
断じて他意はない！
さっきから窓の外ばかり見ているのも、長時間の作業に疲れて気が散っているからだ。最近作業効率が悪いのは真剣にどうにかした方がいいけれど……。
窓の下を、足音が近づいてくる。教科書が入っているのか疑わしい薄いカバンを頭の上にかざして雨よけにして、大切なリーゼントを守りながら近づいてくる。
遅いじゃないかッ。
作業はまだ終わらない。邪魔されてなるものか。
わたしは机に目を落とし、背景に色を乗せていく。雨の日はやはりインクのノリが悪い。丁寧に、丁寧に……。色が混じらないように、一色が終わるとしばらく待って乾燥させる。
待つ間だけだ。
窓の下を覗くと、うちの屋根に雨宿りをするでもなく、悪ガキはただ窓を見上げている。
そのまま真っ直ぐ帰宅しろッ。わたしの仕事の邪魔をするなッ。
心の中で吐き捨てながら、わたしはドライヤーを探す。
別に急いでいる仕事ではないが、ノっているときに間が空くのは面白くないものだ。
ドライヤーの温風を当てて、インクを乾かす。焦らないように、乾かしすぎないように……。何気なく、何気なく身を反らして、窓の外を眺める。なに、ほんの確認だ。
丁度その時、あのクソッタレが身を翻して立ち去ろうとしていた。
「こら！ 仗助！ なんでそこで帰るッ！ 待て！ ゆるさんッ！」
気がつくと、上げ下げ窓から身を乗り出して、わたしは忌々しい悪ガキを呼び止めていた。
「やー、だって、センセー仕事中みたいだったし。おれもうずぶ濡れで、こんな格好で中入れてって言ったらぜってー怒ると思ったから」
「だからって、そんな濡れ鼠の人間をこの雨の中放り出すなんて！ わたしが人非人に思われてしまうじゃないかッ！ このバカがッ」
玄関先でかしこまるバカを引きずり入れて、風呂場に押し込める。
「丁度今入ろうと思って風呂を沸かしておいた。クソ忌々しいが、うちで風邪を引かれるよりはましだ。入れ。たっぷり肩まで浸かってて暖まるんだ。いいな。その辺のシャンプー類は適当に使え。タオルも新しいのを出してあるから。絶対遠慮なんかするなよ！」
ぴしりと言いおいて、キッチンにはいる。
本当に、ココアを本式に煎れるのは手間がかかるのに。お子ちゃまなんだからしょうがない……。
ベルギーの純ココアをミルクで練ってペーストにして、あとはミルクで延ばすだけにしてしまうのは、結構いい気分転換になった。まだ雫のしたたっている仗助の制服は、タオルで挟んでプレスした方がいいだろう。除湿器をランドリーモードにしてフル回転させることにして……ああ、本当に忌々しい。
「センセー」
頭からバスタオルを被った仗助がバスルームから顔を出した。
「センセーポマードなんか持ってないよね？」
「女の一人暮らしだぞ！ あるか！」
「じゃージェル貸して」
「そんなの、わたしは使わない」
「えーっ？ ……じゃーどすっかなこれ」
タオルをずらして現れたのは、かなり長い洗い髪だった。頬のあたりまで前髪が落ちかかっている。手ぐしで後ろへ掻きやりながら、眉根を寄せて唇を突き出している。
その表情が、なんだか。
とても貴重なもののように思われて、我知らず心臓がズキュゥンと打った。
「……いいじゃないか」
「えー？」
「そのままでいいじゃないか。別にこれから学校へ行こうと言うんじゃないんだから」
「だって、センセーんちからうちまでまだ１０分ぐらいあるぜ？ この仗助さまが頭キメないで歩くなんて、ありえねーでしょう？」
「そろそろ暗くなってくるし、誰も歩いてないから大丈夫だ。さあ、ココアを入れてやるからこっちへ来て暖まれ」
「えーやったあ。ゴチになりまーす」
露骨に破顔して仗助は寄ってくる。
「Ｔシャツこれ着て良かったの？」
「ああ、どうせもらい物だ」
「しかし、ホントに男っ気ねーなー。こんないいうち住んでるのに。もったいねー」
「男っ気なんか、あってどうする。わたしは漫画を描くことにしか興味がない。無駄なことは嫌いだ」
「恋人と会ってる時間も無駄なの？ すげー」
「ああ。無駄だ」と、これはいつも言われ慣れている言葉なので、肩をそびやかす。
帰れ、帰れ、早く帰れと胸の中で呟き続ける。
「センセー、もうちょっといてもいい？」
仗助が済まなそうに尋ねてくる。
「はぁ？ おまえ、これ以上何を」
「今日オフクロ職員会議で遅いんスよ……ただでさえ雨の日って嫌なのに」
「何言ってるんだこの甘ったれが！」
「お願いッス！ 静かにしてるから！」
口を開けようとするのだが、なにも言うべき言葉が見つからず、わたしは背を向けた。
「いいか、静かにしてろ、汚すな、壊すな。壊したら直ちに直せ。コーヒーメイカーをセットしておくから勝手に飲め。わたしは２階の仕事場にいる」
「はーい」
仕事場に逃げ込んで、思わず汗をぬぐう。本当に、厄介なものを呼び込んでしまった。 幸い、たっぷり時間が空いたので絵はもう乾いていた。次の色を入れる。
熱中していると、廊下に気配がした。
「センセー」
「なんだッ！？」
「なんか聴いてもいい？」
階下にはステレオセットも置いてあった。
「適当に出して聴け」
「ごめん、小さい音にするから」
「この岸辺露伴が、多少の物音ぐらいで気が散ったりというような半端な仕事の仕方をするかッ！ ものにはそれにふさわしい音量があるッ！ うちは防音をキッチリやってあるし、隣との距離も十分取ってあるからへヴィメタでもオペラでもガンガン鳴らせッ！」
「やったぁ」
何となく気になって、大きな背を追いかけて階下に降りる。脈絡なく集めたＣＤの山を掘り返すのを見守ってしまう。
「あれ、へー」
「なんだッ？」
「シャンソン。雨の日ってなんかシャンソン合うよね」
「こんな吹き降りの日になにがシャンソンだ」
「小降りになってきてるよ、ほら」と、外を指さしてみせる。西の空は雲が切れて、夕日が紅葉しかけの街路樹を照らしてもいる。
わたしが外の景色に見とれている間に、仗助はそのＣＤをセットしてしまった。
仗助は、一番大きなクッションをソファーから持ってきて、床にそれを置いて胡座をかいて、女性歌手の、鼻に抜けるフランス語独特の続いた音に耳を傾けていた。わたしは、つい２曲もそれを立ったまま見守りながら聴いてしまっていた。
「センセー……」
「返さなくていい！ そんな安っぽい傘、もう使わないから！ さっさと帰って家の手伝いをしろ！」と、ヴィニル傘を持たせて、もう日も暮れてから送り出した。本当に迷惑な。今日は仕事にならなかったじゃないか。
恨みがましく見上げると、クソガキの顔は思っていたより上にあった。
「おまえ、また、背、伸びたんじゃないか？」
恐る恐る言うと、また嬉しそうに笑う。
「えーっそう？ やっぱり？ 承太郎さんみたいになるかなおれ」
その笑顔がなぜか悔しくてわたしは目を逸らす。
「センセーありがとな。今日のお礼に、今度は露伴先生の寂しいときに、おれいくらでも一緒にいてやるから」
「それは永遠にあり得ない」
わたしがひと恋しいなどということが、あるものか。
「はははッ、そうかもな」
軽やかに笑って、疫病神は去った。
明日は晴れるだろう。原稿も進むはずだ。なんだかスッキリもしているし。本当に忌々しい悪ガキだ、仗助というやつは。
わたしは唇の端を上げながら、今日やつが出して散らかしていったものを片付けるために家に入った。
１９−１２−’０８
帰る