約束
その朝（３４）
「シニョーレ、こっから先は観光客は危ないよ！」
ひとの良さそうな親爺が、背の高い赤ら顔の客にジュースの紙コップを渡しながら注意
する。
「ありがとう。昔住んでたんだけど……そんなにヤバくなったのかな？」と、言うそばか
らその男の背をぐいぐい押していた若者がブルゾンの内ポケットの財布をすり取ろうと手
を伸ばす。
「なるほど、手口は荒っぽくなったかなぁ？」とその手を左の手で押さえ込んで男は優し
げな笑顔を見せた。よく日に焼けた、穏やかな顔だ。
「ここはカッシーニのシマかな？ トンマーゾは元気かい？ 帰ったら治療費はリーダー
に貰っておくれ」と、にこにこ笑いながら左腕はスリの手をねじ上げる。手袋をした右の
手は、紙コップを潰さないように持ったまま。
「おや、ひとは見かけによらないね。ああ、こっちは去年から下町のブチャラティが見て
るよ。秋にグリマルディーニさんが隠居して、ブチャラティがネアポリス一帯を見ること
になったんだ。……トンマーゾは部下にヤラれちまってね」と、ジュース・スタンドの親
爺はオレンジを切る手を止めない。
「へえ、ブチャラティって、あのブルネットのちょっときれいな子？ まだはたちかそこ
らだったろ？ 出世したもんだね」
現状把握の会話の背景には、下手を打ったスリのいてて、だの、もう勘弁してくれ、だ
の、この野郎、だのといった悪態が続いている。
「ああ、年はそうだね……だが、やり手だよ。ここ２、３年はよそよりはましになったか
な。美人になったよ」
「こんなのが商売やってて？」と、客の方は嘆かわしそうにスリを見やる。
「こいつは新顔だね。まだ駆け出しで腕も悪いのさ」と、とぼけた顔で親爺は言った。
「お、覚えてやがれ！」
なんとか腕を振り切って、スリが逃げ出した。お約束の捨て台詞を投げていく。
「あんた、ブチャラティに繋ぐかい？ あいつが仕返しに来るとまずいだろう」
「そうだなあ、美人になったかどうか見たいかな。手袋をした男と言って解るかな？ 金
庫番、の方がいいかな？」と、片目をつぶって見せる。その面影に店の親爺は声を上げる。
「ああーっ、あんた！」
だめ、だめ、といったふうに手袋をした右手の指先が動いた。
電話が入って、ブチャラティは翌日の会議資料を放り出してアジトを飛び出した。
……まさか、まさか。
半べそになって送り出した背の高い大好きな兄貴分。華やかな世界を、ブチャラティを
庇ったために引退して、田舎町に引っ込んだ。
懐かしい客は、ごひいきだったバールのテラスで、ブチャラティの噂を浴びせかけられ
ていた。
「……そこでアバッキオがテロリストの野郎を羽交い締めに引き留めて、
『この街でそんな真似はおれが許さねえッ』とばかりに窓に向かってぶん投げて、爆弾を
身体に巻き付けてたテロリストの野郎は窓をぶち破って外に放り出されたところでちょう
ど爆発して、ホテルは無事だったんだ」
「へえ、そんなことが」
「こけら落としの方は、テロリストの野郎どもが舞台裏にまで入り込みやがって、開幕直
前の隙を狙って毒ガスを撒きやがって、パニックになりかけたところを！」
「ブチャラティがパーティのドレスのまんま天井ぶち割って現れて！」
「凄かったぜぇ！ 天然のスポットライト！ 紫色の見るからにやばそうな煙がそれでた
ち消えて、そこへブチャラティが飛び降りて。
『毒ガスは紫外線によって無力化されました！ もう安心です！』って」
「きれいだったなぁ」
「もう一生もんの語りぐさよ」
「なるほどねえ」
目を輝かせて聞き入っている。地味な色のブルゾンで、少し背は丸くなっているけれど。
少し日に焼けたのか、髪は色あせてばさばさしているようだけれど。
ブチャラティはその背中をみとめると駆け足になった。
「フランチェスコ！」
背の高い元モデル兼ギャングは立ち上がって笑顔を見せた。その胸にためらわず飛び込ん
でいく。１５の小娘に戻った気持ちで。
「おいおい、そんな子供みたいな。シニョーラ・ブチャラティともあろうひとが」と、た
くましさを増した腕が抱きとめてくれる。
「うわあ、本当に美人になった。おじさんびっくりしちゃうよ。これはもったいないこと
しちゃったかな？」と、口が上手なのはもとから。
「変わってないね、フランチェスコ。奥さんは一緒じゃないの？」
「ホテルで待ってるよ。今日は懐かしいところを見て回るつもりで別行動さ」
「ああ、じゃあ『懐かしいところ』全部回っても大丈夫だ」
二人の担当していたシマは下町だ。観光客が入り込むには少し危険かも知れなかった、
とくに３年前には。ブチャラティは笑ってみせる。
「じゃあ、歩きながらにしようか」と、さりげなく手を貸す。意外や、フランチェスコは
身軽に立ち上がった。
「もう普通に立ったり歩いたりは不自由ないんだ。
すぐ子供ができちゃってね。それが双子で。大笑い、店番だけなんてもんじゃない、こ
の手でおむつも替えたよ、二人分！ ベビーカーも押して歩いたし！ みごとなリハビリ
だったね。おかげでさ」
「……そう」
屈託なく笑うようになった兄貴分の笑顔を、ブチャラティは見慣れない思いで見上げて
しまう。いつも静かに微笑んでいるひとだったけれど。右手を失って、歩行に支障を来す
ようになって、苦い笑顔をやっと浮かべて、この街を去ったはずだった。
「幸せなんだね」
「あはは」
笑って肯定する。
「でも、こんな美人にエスコートして貰えるんだから、遠慮なく腕組んでしまおう」
かろやかにそんなことも言う。
「フランチェスコ……」
「どうだい？ ぼく、おじさんになったろ」
茶目っ気のある笑顔がブチャラティを見下ろしていた。
「トンマーゾは長生きすると思ったけどなあ」
ケーブルカー乗り場から自分たちのシマだった下町を見下ろして、笑う顔のままにフラン
チェスコは呟いた。
「年が近かったから、結構行き来はあったんだ。二人してよくここへ来て仕事の話や、そ
うじゃない話を……よくしたよ。あいつ、ひねくれてたろ？ 回りくどいのろけばっかり
聞かされてたなあ」
「へえ、どんな？」
懐かしいひとの話題に、ブチャラティの顔も緩む。
「どんなって、具体的には思い出せないけど、ふつうの日常の話が、聞いていくうちにお
いおいっていうのろけになってるんだよ。堪らないよ、毎度毎度、あいつわかっててやっ
てたな」
「そうなんだ」
「マルガリータはいいコだったよねえ」
「うん」
フランチェスコの遠くを見る眼は変わらない。
「あんなの建っちゃったんだねえ。きれいだけど、景色変わっちゃったね」
「ああ、オペラハウス」
「やっぱりもう、ぼくにとってのネアポリスは思い出の中だけの街かなあ」
あっさりと言って、フランチェスコは身を翻して下りのケーブルカーに乗り込んだ。
「フランチェスコ、それで、思い出に浸りに来たの？」
一足で追いついて、ブチャラティは尋ねてみた。
「まさか。店に来る子たちに語って聞かせてた話が、本になるんだ。『おじさんは昔マフィ
アだったんだぞ』って、ありがちなホラ話がね」
「大丈夫なの？」
「まあ、やばいところは外してあるけどね。だから、ちょっと読んでみて欲しいと思って
ね。ゲラを用意してあるけど」
前のチームの中で、一番油断ならない男と認識されていた優男は、そう言って微笑んだ。
「フランチェスコって、お話も書けたんだ？」
「話をしたのはぼくだけど、彼女が構成を考えてくれてね」
「あ、じゃあ、書いたのは奥さん？」
「ホントはね。でも、『フランチェスコのぼうけん』だから、作者名はフランチェスコの
方がいいのさ。
フランチェスコは少年モデルで、いろんなショーに出てるんだけど、そこでいろいろト
ラブルに巻き込まれて、ガールフレンドのマフィアのお嬢さんと冒険をするんだ。外国の
スパイを退治したり、王室の盗まれた宝石を取り戻したり」
「面白そう！」
ブチャラティは目を輝かせた。
「一冊献呈するよ。冷静な眼でチェックを入れて欲しいんだけど、そういうのは……」
「フーゴならこの量は１時間もあれば読めると思う」
「うん、いい人選だ」
フランチェスコは大きく肯いた。
「いいんじゃないですか？ とくにマフィアに対して潔癖なほど批判的なわけでもないし」
アジトへ戻ってゲラを渡すと、一読して、フーゴが微笑んだ。
「癒着してる経済界とか、警察とか込みで威張ってる大人に一泡吹かせるって方向で。そん
なにバリバリの勧善懲悪でもなくて」
「そうそう」
フランチェスコが破顔した。
「そんなこと、どの口が言ってるんだって言われちゃうし」
「でも、フランチェスコは金庫番だから、そうそう手は汚してなかっただろ？」と、ブチャ
ラティがきょとんとする。
「血はついてないかもだけどね。いろいろ法律に触れることはそれなりにやってたよ。チー
ムの金を任されてたんだしね」
静かに笑う顔は、昔ながらの底知れぬ迫力をたたえていた。仕事の引き継ぎを受けたフー
ゴの方が、時間は短いがその顔には近く接したかも知れなかった。
「本が売れたら、少しは親らしいこともしてやれる」
ゲラの紙束に目を落して、ぼそりとフランチェスコが言った。
ぼく、喉が渇きました、と、フーゴがお茶を煎れに立った。
「ぼくの父も、ぼくが見てもため息が出るくらいきれいな顔をして、町のみんなにも褒め
そやされてたけど、事業に失敗してぼくらはかつかつの暮らしをしてた。毎日弁当に持っ
て行けるのがリンゴ１個とかでさ。ぼくがモデルをやってたのはそういうわけでね。きれ
いな服なんか、２の次３の次だったよ、ぼくには。自分の特技がスタンドだってことがば
れてポルポさんに声を掛けられても、断るなんて、思いもよらなくて……。
フロラ、ガマガエルみたいな顔をしてたって、家族にひもじい、惨めな思いをさせない
のが本当のいい父親ってもんだ。ぼくはちょっとその点、親父似でね」
「フランチェスコ……」
今となって聞かされる事情に、ブチャラティは胸を突かれた。
「だからちょっと、がんばってみたというわけさ」
屈託なく笑う兄貴分は、やはり爽やかな印象しか与えないのだった。
「フランチェスコ、すっごくいい顔してるよ」
「そうかい？ フロラもだよ。きれいになった。イキイキ、伸び伸びしてる。こんなに美
人になって！ 恋人ができたんだって？ 聞いたよ。ポルポさんが引くぐらいベタ惚れなん
だって？ 逢いたいなあ、逢わせてよ」
「ちょっと、それどこで聞いたの？」と、ブチャラティは照れてかぶりを振った。
「人間、どこからだって変われるんだって、ぼくは思ったよ。あの出入りで怪我をして、
田舎に戻って。彼女や町のみんなのお情けで生きてる厄介者になるんだって、そう思って
最初は辛かったよ。
でも、そのうちに、ぼくを目当てに店に来てくれるひとが出てきて、いろいろホラ話を
してるうちにみんながうっとりした目でぼくを見てくれるようになって。彼女にも頼りに
されて。出版社のひとから声を掛けられて。
またこの街に胸を張って来られるなんて、思っても見なかった！
フロラ、きみも変わったよ。だから、しょうがなく選んだ道だなんて、思うんじゃないよ？
きみは頭のいい子だ。勝てるよう最善の選択をして、毎日精一杯努力して、そしていい
未来をどんどん切り開いて呼び込んでるんだ。それがこの結果だ。
人生は鉄路の旅じゃない、航海だ。決まった外れられない道なんか無い。無理だと思っ
てた目的地にも、どんどん舵を切って近づいていけるんだよ、そう言ってあげたくて、こ
こへ来たんだ」
ちょっと自分にいい風が吹いたと思って偉そうに。こういうことがしたくなるんだから
ぼくってやっぱりおじさんになったよね、そう言ってまたウィンクをしてフランチェスコ
は笑った。
パトロールも兼ねて買い出しに出たアバッキオは、市場に人だかりができているのに目
を留めた。
「なんかあったのか？」
手間を厭わずそこに足を向けて、頭を突っ込んで声を掛ける。
「あわッ……レオーネ、なんでもないよッ」
「ブチャラティのことなんか、噂にしてたんじゃないからねッ」と、あからさまにオバちゃん
たちはバレバレなしらの切り方をする。
「あんたが心悩ますようなことじゃないってことさ」
「そうそう。いい甘藍が入ってるよ。もう春だからね、軟らかくって、サラダにいいよ」
忙しく口を動かして、背までぐいぐい押して去らせようとする。
これは、あからさまに怪しい。ブチャラティと自分に関係ある話だ。
「おい、それはこっちで判断することだ」と、首をねじってなおも言いかけるのを、
「レオーネッ！ ババァにかまってんじゃねーよッ」と、手を強く引っ張ってくるものが
いた。
「こっちこっち！」
少年たちが、まなじりを決して口々に言って、尊敬する年上の男性を引っ張って去ろう
とするのだった。
「気にすんなよな。ババァ連中のする話なんか、年中一緒だぜ」
「根も葉もねーってよ」
「ちょっと立って話してただけでいい仲にされるんだぜ」
口々に言ってフォローをしようとしてくれるが、おかげで噂話の内容が覗われる。
「でも、おれ、もーがっかりだぜ。ブチャラティがあんなオッサンなんかと」
「アーンーデーレー！」
慌てた少年たちが口を滑らせた少年をこづき回した。
「知らないオッサンと仲良くしてたのか？」
アバッキオは静かに問いただした。その様子に心を励まされて、アンデレはさらに言い
つのる。
「１メートルも飛んで抱きついたんだぜ！？ レオーネにだってしねーだろ？」
「バカッ！ ま、町中での話だぜ？ 二人っきりの時はもちろんやってるよな？」
「そりゃ、めろめろのいちゃいちゃだよな？」
微妙なお年頃の少年たちは、真っ赤になりながら上目遣いに、気を遣っているのだか傷
口に塩なんだかわからないことを言いかけてくる。
「ああ、まあ、二人きりの時にはな……」
少年たちに引っ張って行かれるままにアバッキオは短く答えて様子を窺う。
「オバちゃんが言うには、前のチームの先輩だってさ」
ニッコロが顔色を窺いつつ首をすくめたままで言った。
「ああ、なるほどな」
アバッキオは軽く肯いた。
「それじゃあおれにも勝てねぇ」
頭を振って、少し笑っても見せる。
「ええーッ！？」
少年たちは異議を唱えた。
「小さいころに優しくしてくれたひとは、特別なんだよ。おめーらだって隣のおねえさん
とか、近所の若奥さんとか、忘れらんねーひといるだろ？」
つい最近には、アバッキオ自身従姉に拉致られて公衆の面前で唇を奪われてもいる。
……いや、おれにとってマティルデはそんないいもんじゃねえけどな。
「ガキのくせに気ぃ遣ってんじゃねーよ」
少年たちの額にそれぞれデコピンをくれてやって、アバッキオは背を伸ばして凛々しく
夕日に顔を向けた。
小さなお節介たちのおかげで心の準備はできたわけだし。こんなことで、心に細波を立
てたりはしない。
買い物を済ませてアジトに戻ったアバッキオは、恋人からその前のチームメイトで心の
お兄さんを紹介され、友好的な態度を取ることができた。年が１０も違うと、お互い恋愛
感情は抱かないものらしい。じつに兄妹のような微笑ましさで、奥さん連中が騒いだのも
たしかに大きなお世話というか単なる娯楽としてのマッチポンプとも思われた。
夕方の船で帰るというフランチェスコ夫妻を港に送って、二人で桟橋に立つとブチャラ
ティが困ったように口を開いた。
「レオーネ……」
「どうした？」
「この国の男はみんな、その……年がいくとああなるのかな？」
すぐ南の港町への近距離のフェリーに目を留めて、ブチャラティは言葉を探している。
「ああって？」
「父さんは亡くなったときもまだ３０前だったから解らないんだけど。ずっと入院してた
し。村の男のひとたちは、身体の仕事だったし、そんなに裕福じゃなかったし。
ポルポさんだって、ムショにはいる前はいくらなんでもちゃんと街を歩いてらしたんだ。
そりゃいくぶん恰幅は良かったけど」
「あのひとは、細かったのか？」
「そりゃもう！ モデルだぞ！ 食べ物も節制して、甘いものはみんなわたしにくれてた
し、日にも当たらないようにしてたのに！ ……あんなになるなんて」
まったくらしくなく、消え入りそうな声でパッショーネのネアポリスの支配人代理は呟
く。なんだ、餌付けされてたのかよ、とアバッキオは意外なところに引っかかる。
「引退して結婚したんだからいいだろう！ 自分に惚れてくれてる女の料理を、見栄えを
気にしたり食通ぶっていろいろ文句をつけて食べ残したりなんてちゃんとした男のするこ
とじゃねぇよッ」
アバッキオは声を荒げた。この男はブチャラティが時々作るどうしようもない料理を残
したことはない。時々さりげなく横から口や手を出して、更にどうしようもなくなるのを
回避するにしても。
「そうか？」
泣きそうな眉はそのままだ。
「腹が出てちゃいけないのか？ あんたはそう言うのにこだわるのか？」
アバッキオはついつい矢継ぎ早に責めてしまう。フーゴがあのひとは面喰いだから、と
常々笑って言うのは冗談だと思っていたのに。
「おまえも、ぽっこりしちゃうのかなぁ」
視線は下がって、アバッキオの腹の辺りを見つめている。
「あァ、おれは３０になる前に死ぬよ。腹の出たみっともないオッサンになる前に死んで
やるよ。あんたはそしたらまた顔のきれいな細っこい小僧を拾って可愛がれよ。そんでい
いだろ？」
ため息を吐いて、顔をおおげさに背け、アバッキオは怒って見せた。
「それは困るッ」
瞬時に、理不尽な恋人は彼の顔を追って回り込んだ。
「わたしはおまえのきれいな顔やスタイルも好きだが、それだけじゃないんだぞ！ ほん
とうだぞ！ 厄介な頭の固さとか、信じられない要領の悪さとか、救いようのない律儀さ
とかッ」
「ああ、厄介で悪かったな」
必死で言い立てるその美点とやらは、全然褒めてる語彙でも修飾詞でもないだろう。ア
バッキオは渋面を作る。
「そういう、おまえは、ありようがきれいなんだから、絶対そのまんまでなくちゃいやだ！
大丈夫ッ、おまえは変わらないッ、ずっとカッコイイ筈だッ」と理不尽にこの女神様は
断言する。
生きて動いている人間が、変わらないでいることなどできようか。
「解ったよ」
アバッキオは、恩人で上司でこの街の守護者である恋人に、太く笑って見せた。
「来年また来る！ また会おう！ 絶対またびっくりさせてあげるよ！ だからフロラも
来年はまた少し変わってなくちゃダメだよ！」
だから生き急がないで。大きな夢を失っても、若い造形美を失っても、人生は美しい。
デッキに出てきたフランチェスコは作り物の手を大きく振って、日に焼けた笑顔をさら
に日にさらして、大きな声でブチャラティに訴えかけた。
「ああ、約束だ、フランチェスコ。来年また会おう！」と、ブチャラティも叫び返す。
「チャオ！ フロラ！」
「チャオ！ フランチェスコ！」
船が出る。大きく弧を描いて、次の港を目指す。日が長くなってきた。落ちかかる夕日
が辺りを黄金に染めてゆく。空と、海とが同じ色に燃え立ちながら接するその際を細かい
波が銀色を発して区切っている。そのただ中でシルエットになりながら、懐かしいひとは
ゆっくりと思い出の中へ帰って行った。
（２０−０８−０９）
おまけ。
数日後。
涙目のルカが変死した理由を調べに行ったブチャラティは、やや遅れたが、ゴキゲンで
アジトに戻ってきた。
「一人拾った。なかなか面白い子だ……ポルポさんの試験を受けさせる。たぶん通るだろ
うから、うちのチームに来たら仲良くしてやってくれ」
「そんなことより！ ブチャラティ、あんた、ヘタを打ったってことないですよね？」と、
明らかに顔に青あざを作ってきたブチャラティを見てフーゴが顔を青ざめさせた。
「ああ、大丈夫。ちょっと珍しい経験をしたな……そう、黄金の体験（ゴールド・エクス
ペリエンス）」と、ブチャラティは心配に取り合わず自分で自分の言葉に笑っている。
「ゴキゲンですねッ」
上司が自分の理解の枠を超えた状態にあるのを悟って、参謀は真っ直ぐ不機嫌になった。
別件の調べ物でミスタが訳の解らないことを言ってきたので、彼なりに上司のことを案
じていたのが空回りに終わったのがまた気に入らないのだ。
フラットに帰って、二人きりの時間になって、キスが深くなるとブチャラティはそっと
顔を背けた。
「そこはちょっと……」
奥歯が折れている。まだ口腔内は血の味がしていた。
「あんた！ ルカをヤッたのはそんなに手練れだったのか？」
アバッキオは狼狽えて問いただした。
「ああ、あの年で驚くほど頭のいい戦い方をする……まったく、参ったよ」と、またくす
くす笑う。ゴキゲンに。
「ちょっとエキゾチックな、きれいな子だよ。まだ１５だって。先が楽しみだ」
美しいギャングのチーム・リーダーは、そう言うと背を向けてシャワーを使いに行って
しまった。
アバッキオはその夜、ベッドの脇に自分のスタンドを呼び出して、ブチャラティを再生
しながら自問していた。
……ちょっとエキゾチックな、きれいな子だよ。まだ１５だって。先が楽しみだ。
眼をきらきらと輝かせて、少し頬を染めて、恋人は彼の見たことのない高揚感を示してい
た。
……顔を強か殴られて、奥歯をへし折られてもゴキゲンって言うのはどういうことなん
だ？
考えて、思い浮かんだ答えを打ち消して、さらにまた推理を積み立てて、戻って、最初
の前提を少し別方向から見直して演繹して、出たまったくさっきと同じ答えに絶望して。
プラチナの髪をかきむしったあとは長い長いため息を吐いて、
「……女の言葉を真に受けるほどうぶじゃあないと思ってたんだがな」と、独りごちた。
レスラーのように、いつもはほんの一瞬も背を下に着けさせないでムキになって身を入
れ替えてくる恋人が、組み敷かれたままぼうっと今夜はあらぬ方を見やってくすくす笑っ
ている。もともと即座に反応を細かく示してくる方ではなかったが、擦りつけても、突き
上げても、バックグラウンドで大きな処理を抱えているコンピュータのように、鈍い反応
しか返さない。
……なんだ？ もういいのか？ ああ、そうだな、時間の無駄だ。今夜はもうよそう……。
終いには、汗ひとつかかないでそんなことを言ってくる。
……無駄って！？
自分の胸を断ち割って心というものを出してみせることができたなら、無数に入ったひ
び割れで、さぞ細かくささくれていることだろうとアバッキオは嘆息した。
この恋人の率直なものいいにはいつも度肝を抜かれてきたが、なんの言葉も返せないの
は進歩がないと言われてもしょうがない。黙って「使わせていただいた」きれいな身体の
上からどいて、あと始末をする。ブチャラティはまだぽっかりとその青い眼を虚空に向け
て開いて、なにか彼ではない面影を追っているらしい。
信じたくないが、自分でついさっきまで目の辺りにしていたことだ。ムーディー・ブルー
スも記憶と寸分違わず再生して見せた。
アバッキオは認めることにした。
数日前にはたしかにあったものが、今、ここから失せてしまったのだと。
二人で見に行って、サイズを見て注文し、もうできあがったとジョルダーノの店から連
絡が入った指輪のことが頭に浮かんだ。花が咲いたら、などと悠長な期日を設定せずに、
引きずっても教会に行っておくんだった、とアバッキオは頭を抱えた。いや、どんな誓い
も、形のあるものも、心をつなぎ止めておくことはできないとは解っているのだが。
……わたしはおまえのきれいな顔やスタイルも好きだが、それだけじゃないんだぞ！
ほんとうだぞ！ 厄介な頭の固さとか、信じられない要領の悪さとか、救いようのない律
儀さとかッ……
ムーディー・ブルースがついほんの２，３日前のブチャラティの言葉を再生する。アバッ
キオは自分の静かな相棒に手をさしのべ、そのかりそめの姿に口づけた。もうはや見るこ
とのできない失われた美しいものへの愛惜を込めて。
「ジョルノ……おまえの……賭け……よう」
そのすぐ傍らで夢の世界に遊ぶ佳人が、うっかりと心の内を曝した。まったく、これま
ではなかったことだ。たしかに、人は変わる。
……ああ、フロラ。おれは変わらないよ。あんただけに、変わらぬ愛を誓うよ。そして、
あんたがおれを邪魔に思ったら、おれはきれいに死んでやるよ。
アバッキオはその顔を振り返って見て、覆い被さって、つくづくと見つめた。滑らかな
頬を手で撫でて、頬にかかった髪をそっと払いのける。そうして、名残惜しげに身を引い
て、その隣に身を横たえた。もう、唇を盗むことも彼にはできない。それは、まだ見ぬ少
年のものとなってしまったから。彼女の意識のないときにその身体を自由にすることは、
彼にはとうていできないのだった。
翌日、ブチャラティがその新入りを連れて現れたとき、アバッキオはらしくない暗い衝
動に駆られて、陰湿な歓迎をしてみせることになる……。
蛇足。
ブチャラティ、若い男に乗り換えたか……（ホロリ）。
ブチャラティにその気はなくても、アバッキオはそう解釈したんだと思います。色恋関
係なくても、自分にのし掛かってたストレスを解消するコロンブスの卵的なジョルノの提
案（＝ボスを倒して組織を乗っ取る！）を受けてしまったから。心身が解放されたような
高揚感を、ブチャラティは感じていたでしょう。そして、その画期的な秘密の同盟関係は、
それゆえ一番大切なパートナーにも告げることはできなかった。言っといてやれよ、幹部
（まだなってません）。その、ストレス自身も、ブチャラティはアバッキオには言ってな
かったでしょうね。身も心も許しあった仲だけど、ポルポの隠し財産とか、組織のややこ
しいところとか、麻薬に対する屈折した想いとか、そういう秘密は分かち合ってなかった
でしょう。ただでさえトラウマ持ちなのに、それ以上ややこしいことを言って苦労させた
くないって。そういう思いやりがまたアバッキオを追い詰めるんだよなあ。微妙にすれ違っ
たままヴェネツィアを経てサルディニアへ向かう二人でした。切ねえ。
ブチャラティが浮気をしていると聞かされて、「そんな浮ついたことができる性分じゃ
あねえ。あいつが人前でそんなことをするからには、それは本気ってことだろう」と渋く
キメるアバッキオを書きたかったのですが、なんか違っちゃいました（ほぼ同内容の台詞
で笑うブチャラティも、こっちは「困ったお客」でかな）。どうも、浮気とか似合わない
当人たちで、さらに、相手も深く内面を理解してる感じなので、罪のない軽い感じの騒ぎ
にはならなさそうで。難しいです。
変わりなさい、人間はまだまだ変われるとカッコつけて大人ぶって言ってみたら、ブチャ
ラティはちょうどジョルノと出会って麻薬を売ることに耐えきれず組織に反旗を翻しちゃっ
た。そして、変わらなければそれなりにネアポリスで生きて行けたかも知れないブチャラ
ティを、名誉ある（？）死へ追いやってしまった。事実を知ったらフランチェスコも切な
いだろうなあ。でも、山が動くからにはこういう小さいきっかけがあってもいいじゃない
と思って入れました。
わたしも、小説が書けなくなって、これでもう普通のおばさんになっていくのねと思っ
ていたら、大きな波が来て今こうしています。人間、どっからでも何からでも変われます。
マフィアじゃないし、命まで取られることはないと思うから。さあ、動こう。
カッコイイ大人としてアバッキオが街の少年たちの憧れになってればいいなと思ってま
した。取っつきにくいんだけど、そこをガマンして踏み込むと、大人として気配りしてく
れるということが解ってきて尊敬を受けるという感じ……（ｃｆ.「神様の思し召し」と
か、「困ったお客」とか）。
蛇足追加（ホントに余計なお世話な語り）。
思うに、この「その朝」シリーズはアバッキオが拾われてから、ジョルノが加入するまでの１年半
のアバッキオの癒しの時期の情景の数々なんじゃないかと。
その間に、アバッキオは自分が立ち直るだけじゃなく、ブチャラティとちゃんとした関係を築けて
いたら、ああいう結末を迎えたりはしなかったんじゃないかとも夢想するんです。自分は傷心から目
を覚まして、自分の真の望み、生きる方針を見つめ直して愛する人を見つけて良かったかも知れない
けれど、ブチャラティの心には影響を与えていない、つまり、ブチャラティは自分の心の矛盾、麻薬
を憎む心、ひとを傷つけたくない優しい心と生きるために割り切らなくてはならない、組織で巧く立
ち回ることによって自分の懐に入っている部下を大切にし失いたくないと思う心とのせめぎ合いに苦
しんで、見ないふりをし続けていた。それを、ジョルノに出会うことによって画期的な解決策を示さ
れ、それに乗ってしまったことによって、彼らの運命はああ帰結したのではないかと思うのです。
恋人として裏切られたのではないし、彼らは今は天にあって二人幸せかも知れない、アバッキオに
限定すれば、もう心を乱されることはなく幸せなのでしょうが、彼らを見てしまったこっち、現世で
の幸せを期待してしまった、祈ってしまったこっちがたまんないっつうの。
わたしは、とりあえずこの「約束」で、アバッキオの心は「ブチャラティのために死ぬ」と定まっ
たということにして、「だから悔いはない、彼らにとってあの結末は必然で、結果、彼らは今幸せで
もある」と言うことにしたいんだと思います。しかし、悔しいぜ。
（１７−０９−０９）