天使のプラトゥーン
その朝（２５）
……何が起きたのか解らなかった。
気がついたら、おれは腹をぶち抜かれて、エメラルド海岸の岩に身を預けていた。
腹の中を、風が吹き抜ける。これはどう考えてもやばいと悟った。
フロラ……おれの女神……役目を果たさなくては。
海のような眼が頭に浮かんだ。
海のような眼をした若い女……署内で有名な「ネアポリスの下町の守護女神」、おれだっ
て気にはなっていた。だから、その連れの「弟」が、膝から血を流していたのは好都合だっ
た。市民を助けるのが義務だとか理屈を付けて、かすり傷だというその傷の手当てをして
やった。じっとこちらの顔を見つめてくるのが解って、手元が狂いそうになった。わざと
失敗して、引き延ばしたりということができる性分ではなかった。
「あの……」
次の当番の日、彼女はちいさな包みを提げて現れた。
「この前はナランチャに良くしていただいて。お礼です」
「いや、そういうつもりでしたんじゃない」と、おれは手を挙げて遮って見せた。
お礼が貰いたいんじゃなくて。話しかける機会が欲しかっただけで。だから、一度声を
掛けて貰ってそれでもう十分……。
「でも、いただいて貰わないと困ります。ほんの少しですから」
困った顔で食い下がられて、それで受け取ってしまう。下町の店の、ちょっとした焼き
菓子。
「お酒の方が良かったですか？」
「よっぽど困るッ！」
慌てて大きな声を出してしまっていて、彼女はクスリと笑った。
なんてきれいに笑うんだ。
回数だけは見ているけれど、いつも通りを歩いているときは表情が固くて、美人だけど
惜しいなと思っていた。笑うとこんなに柔らかい感じになるんだ、同期のやつらはこの顔
を見ただろうか、得した。ラッキーだ……。
「弟さんは今日は？」
「置いてきました。お礼のことは内緒ですよ」と、恥ずかしそうに見上げてみせる。
「あ、ああ……」
彼女は、うまい具合に話を逸らして、自分のことはあまり語らない。よく考えれば、平
日の昼間に何度も街をうろうろして、まともな職業の訳はなかった。
……ほんとおれっておめでたいよな……。
当番の度に挨拶を交わすようになって、そのうち、立ち話が長くなって。犬の散歩のよ
うに、ナランチャがじれて先に行きたがるようになって。
「あの、おれ、このあと上がりだから、よかったらその辺でエスプレッソでも」
「あ、嬉しいです、じゃ、用事を先に済ませてきます……」
二人して真っ赤になって、なんとか約束を取り付けて、バールでがちがちに固くなって
コーヒーを飲んだ。
ナランチャのかわりに、フーゴが付いてくるようになった。
「……お目付役です」
彼女が手で示した先に、眼の据わった、天使の顔の少年が、腕を組んだまま距離を取って立ってい
た。
「ブチャラティはだいじな身の上ですから。あんたなんかと変な噂が立ったら困ります」
「フーゴッ！」
彼女は顔を赤くしてたしなめた。
噂。そう、署内でも、「ネアポリスの下町の守護女神」を射止めたのがおれだと判ってしばらくは
そうとう冷やかされたものだった。カラビニエリとの対抗戦があったのもこの頃で、おれの人生が一
番輝いていたのはこの春だった。
……そうだっけ？
今も結構いいと思うけどな、と自分で突っ込みを入れている。
なにかおかしいと、アバッキオも気づき始めている。
初めてのドライヴに海を選ぶと、彼女は海育ちだと言ってひどく喜んでくれた。ああ、ああいうき
れいな海の側で育つと、あんな色の眼になるのかもしれない。気の利いた話はなんにもできなくて、
ただ仕事の話ばかりをしたが、彼女はいちいち肯いて聞いてくれた……。
新任の部長が署長とそりが合わない話、署長が出張中だからなかなか「イヴェント」を起こせない
話。この「イヴェント」でマフィアに相当な打撃を与えられそうな話……。
「ちょ、ちょっと待っててくれ」
焦れば焦るほど計算が合わない。署内の自分のデスクの脇にまで迎えに来られて、なおさら頭に血
が上る。紙の上の数字にピントが合わなくて、なんにも見えなくなる……。
よく考えればつじつまが合わないどころじゃない。いくらうちの署がオープンだからって、オフィ
スにまで一般人を入れるわけがない。このあとデートなんだな、とすぐに納得するおれと、あせりま
くるおれが分離していく……。
「今日は彼ダメみたいですよ。帰りましょう」と、フーゴは素っ気なく彼女を促した。
「い、今やってる、もう少しだから」
手を挙げて、必死におれはそれを留める。
「一体なにを？ 精算？」と、彼女は電卓に眼を留める。
「彼は数字に弱いんですか？」
二人に問いかけられて、逆上寸前。いや、おれはそんなとくに数字に弱いとかいうことはないけれ
ど、残業時間の計算だから６０進数で。解っちゃいるけど毎月なぜか帳尻が合わないのだ。この勤務
時間の報告書を書いて帰らないとちゃんと給与が振り込まれない。実際、月末はこのせいでいつも気
が重かった。
「ブチャラティ、指を貸してあげたら？」
まったくこの天才児様は意地が悪い。違和感には答えがもう見つかっている。
「フーゴ」
彼女が海の眼に哀しげな色をたたえる。
「ぼくの専攻は社会科学だったんですが。……貸してください」
ため息を一つ吐いて、天才少年は勤務報告書を取り上げるなり、小計のミスをいくつか見つけ出し
て、正しい勤務時間数と残業時間との総合計を算出してくれた。
「すごいな。助かった」
「フーゴは天才だから。でも、だから、話す内容には気をつけて」
彼女は微笑んだ。が、妙なことを付け加えていた。だがおれは頓着せず、
「ばかなこと言っちゃ軽蔑されるってか？ いいさ、おまえみたいなやつは世の中の人間がみんなろ
くでもなく見えちまうんだろうな。
ありがとう、なんかおごるぜ」
「懐柔されませんよ」
天才児様はにこりともしない。
「かわいくねえなあ」
丁度パソコンが署内にも導入され初めの頃で、おぼつかないなりに新しいことを知った高揚感で、
なんでも彼女には話してしまっていた。
「すげえんだ、ひとりひとりの職員コードがアクセス・キーで、個人がそれにパスワードを設定する。
それを入力するだけで、指紋や血液型なんかの捜査情報にアクセスできる。国内警察の各署や、果て
はインターポールが蓄積した犯罪資料や調書も閲覧可能だし。これからの時代はすげえ調べ物が楽に
なるぜ」
「アバッキオ、そう言う話はわたしには……」
「それであんたはその操作がちゃんとできるんですか？」
フーゴも興味なさそうにしながら聞いていた。
「いやそれが、……えっと、ここでフロッピーを入れてなんてコマンドを入れるんだったかな？」
「フロッピーの内部を表示させるなら……」
専門外といいながら、やっぱり天才君は頼りになった。
「ごめんなさい、付いてくるって言ってきかなくって」
デートにも必ず付いてくるから彼女がすまながる。フーゴはテーブルの端に陣取って、話を聞くで
もなく眼を光らせている。
「別に、二人きりになってすぐ悪いことをしようというんじゃないんだが」
おれが苦笑すると、彼女はいたずらっぽい笑顔になる。
「アバッキオ、警察学校じゃあ尾行術は習うの？」
「まあ一応は」
「じゃあ、応用は？」
応用？ と問い返すと、さらに笑顔が弾ける。
「ちょっと、お化粧を直してきます」と、フーゴにも言いおいて席を立った。
「お化粧たって、ろくになにも塗っちゃいないのに……いや、最近それでも気をつけるようになって
きたかな？ だれかさんのせいで」
フーゴが聞こえよがしに呟いた。
「そんな。ただの婉曲話法だろう」
さりげなくポケットに突っ込んだ手の先で、携帯のアラームをセットする。３０秒後に。
「……あんたが遊び慣れたひとなら良かったんですけど」
憂い顔を作って、お目付役の少年はぽそりと言った。
「あいにくだな」
心の中でカウントダウンをしながら、おれは憮然とする。たしかに遊び慣れてない。こんなことま
で、彼女にリードされないとできない……。１，ゼロ！
電子音のアラームが鳴り響く。おおげさに携帯を取り出して耳に当てる。
「えっ！ おれ今非番……解りましたッ！ ただちに急行しますッ！
フーゴ、すまん！ あのひとにも謝っといてくれッ！」と、札入れからコーヒー代を掴みだしてテー
ブルに叩きつけ、バールを駆け出た。ベタな芝居。でも、実際にそれで休みがつぶれたこともあった
からすぐに行動に移せた。
１ブロックも走ったところで、伴走者に気づいた。
「さすが、手際がいい」
海の眼の彼女が、笑いかけてきた。それで、速度を落して、歩き出した。
「じゃ、尾行を撒いたところで、二人っきりになれるところに行ってみるか？」
冗談のつもりだったのに、彼女は笑わなかった。
「ええ……」
どちらからともなく手を繋いで、黙ったまま裏通りを選んで遠回りして、おれは自分のフラットに
彼女を招待した……。
ベッドに身を横たえておれを見上げてくる海の瞳を見たときに、おれは、これは夢だと実感した。
情けないことに。
この「世界」でも、事件は雨の日に起きた。
「アバッキオ、あのな、悪いことは言わない。あの女はやめておけ」
「スフォルツァさん！ なんであんたがそんなことを言うんだ！？ 彼女のどこがいけないんだ！？」
「みんな知ってることだ……」
叩きつけるような雨の中、彼女の部屋のドアを叩くと、扉を開けた彼女の隣に気まずそうな顔をし
たフーゴが立っていた。
「あんたについて少し意見をしていて。今帰るところです」
そして、招き入れようとする彼女の手を止めて、タオルを取りにやらせた。
「タオルを。とりあえずここで身体を拭いて、話を聞いたら、帰るか入るか決めてください」
「フーゴ！」
彼女の抑えた悲鳴が上がった。
おれはそれについて考えを巡らせる余裕はなく、ただ、彼女の顔を見ることができたことで気が緩ん
で、口を動かしていた。
「ひどい、中傷を、聞いた……」
「どんな？」
彼女は表情を変えずに聞いてくる。
「あんたが、パッショーネのギャングだって……ポルポの、愛人だって」
「とくに間違ってない」
海の瞳は見開いたままに、彼女は声を擦れもさせずに言った。
「ブチャラティ」
フーゴの方が遮った。
「ああ、ポルポさんは今ムショに入っているから。そう言う意味では『切れた』といっていいのかな？」
「ブチャラティ！……ええそうですよ。ぼくらはパッショーネのチームの一員です。あんたみたいな
まともな稼業の人間とは、住む世界が違うんです。付き合ったりなんて、できないんですよ、それを
言いに来てたんです」
フーゴは堰を切ったように言った。
「さあ。帰るなら今のうちですよ。……雨も小やみになってきた」
彼女はずっと眼を逸らさない。海の瞳は、潤んでいる。
ドアの閉まる音がした。
おれは足を進めて、彼女を抱きしめていた。
すごいや、おれたち「ロミオとジュリエット」だぜ。
アバッキオは、はっきり笑っていた。
デートは密会になった。おおっぴらに出歩けなくなった二人の時間は、濃くなった。二人が寝室に
入っている間、その隣の部屋でヘッドフォンをつけて音楽を聴きながらフーゴは面白くもなさそうな
顔でおれのラップトップをいじっていた……。
「情報が漏れている」
ミーティングは唐突に始まった。怒りを抑えた部長の顔。よそよそしい同僚達。おれは悪いことは
していない。そう信じて、背筋を伸ばして会議室の椅子に掛けていた。
「パスワードの管理はちゃんとしろと言っておいたはずだな！？ 上位者がアクセスを監視している
とも。変な時間に変なファイルを触ってると解るんだ。諸君、残念な事実が判明した」
おれには関係ない話と思っていた。その時まで。ただぼんやり、また彼女に海を見せに行ってやり
たいと考えていた。そのためには車を借りて、ネアポリスを出たところで落ち合って……。カブリオ
レに乗った彼女の笑顔が眼に浮かんで思わず頬を緩めていた。
怒声が降ってきた。
「パスワードを恋人の名前にした挙げ句がその恋人にコンピュータを触らせて、機密をごっそり持っ
て行かれたマヌケはお前だ！ レオーネ・アバッキオ！
自分のうちで謹慎してろ！ 辞表の書式をあとで知らせる！」
……そんな、そんな、バカな……。
目の前が暗くなる。場面はすぐに切り替わる。
「ブチャラティはちゃんと賢く、誠実に立ち回った。言ったはずですよ？ ぼくらはギャングだって。
ぼくにあんまり話をしちゃいけないって……」
「フーゴ……」
「やったのはぼくです」
そうだ、いつも彼はお目付役として横にいて。話も聞いていた。勤務報告書で職員コードも見たは
ずだ！ ブチャラティは哀しそうな顔をして言った、フーゴは優秀なんだ、あまり大切な話をフーゴ
の前でするなって……。この天才児が、ラップトップに向かってソリティアなんぞを黙ってやってい
るわけがなかった。
「ギャングって言っても、ブチャラティはただのポルポのお手つきのファミリーの下っ端というわけ
じゃない。これでキャリア７年で、チームリーダーで、立派な幹部候補生です。警官なんかと、純粋
な恋なんか、させて貰えるわけ無いじゃないですか」
白い顔のままに、天使の顔の天才児は言ってのけた。じつに冷静な口ぶりで。
「これでも手段は選んだんですよ……ベッドでの写真を、撮ることだってできたんだから」
「フロラ」
振り向いて見ると、彼女は震えていた。青ざめた顔をして、一歩踏み込んできた。
「だが、わたしはやっていない。フーゴが皆やってくれた。やっていることは解っていたけど、わた
しは止めることができなかった。黙っているだけ。
でも、自分から、教えてくれとは言わなかった。それだけがぎりぎりわたしにできたこと……。わ
たしも１２の時からファミリーには世話になっていて、裏切るなんて、思いもよらない。だけど……
レオーネ、わたしの誠は、これだ」
立ちつくすおれに、さらに一歩近づいて、背伸びをしてくちづけてきた。その左手が下がると、お
れが腰に提げた拳銃を抜いて飛び退る。
「愛して……」
最後まで言わずに、こめかみに当てた銃の引き金を、左の指で引いた。ギャングは両方の手で銃を
扱えるよう訓練するらしい……。
「フロラ！」
ばかな。
あんた、女のくせに、なんで頭を吹っ飛ばすなんてことをするんだ。
あんなにきれいな顔が、血にまみれて。
夢の世界でもあんたはやっぱりどっかおかしいぜ。
海のようなきれいな瞳が、開かれたままに虚ろに空を映している……
フーゴがその身体を抱き上げた。
「おい……返せよ」
「銃をですか？ それとも？」
天使の顔の少年も、真っ青になっていた。唇を震わせて、それでも減らず口をたたいた。
「大損害だ。こんなこと、ブチャラティ、あんたには傷を付けないように苦心したのに……」
力を失ったブチャラティの身体をおまえが抱き上げられるんだからな、夢ってのは都合がいいな、
フーゴ。ああ、失礼、おまえ現実でもあいつを抱き上げられる？ へえ？
「両方だよ！」
その腕から恋人の身体を奪い取って、自分の銃も取り戻す。
「ロミオとジュリエット」なら、もう弾は残っていなくて、「ひどいお方……」となるべきところ、
やっぱりおれたちはそういう悲劇の主人公ではないらしく、弾はちゃんとまだ入っている。
「勝手なこと、しやがって。おれもいくぜ」
おれは右の手でちゃんと構えて、引き金を……
……うわっ。
……ひでえ夢だった。
途中から気がついてたが、終いまで抜け出せないのが悪夢ってやつらしい。
笑っちゃうよな。おれたちロミオとジュリエットだぜ？
スフォルツァさんには説教されて。
……スフォルツァさんになら、さっき逢ったよ。
立派にやったって、言ってくれたよ。怒ってないって。
おれ、死ぬんだな。
でも、夢の中ではあんたのことちゃんと口説けたよ、おれ。
途中から、ちゃんとあんたのこと思い出せてたんだ。いつも、おれが張り番してると通ったよな、
日に３度も！ おれもパトロールするようになって、あの角は１日に１度通ればいいコースって解っ
て、あれって思ってたんだ。
こういう出会い方も、できたんだよな、おれたち……。
警官とギャングの恋なんて、みんな終わりはこんなものさ。同じ汚職で退職でも、あんた達に関係
なくおれがマヌケをやっただけの現実の方がましかもな。
この旅はどうだ？ カプリ島への船上といい、高速鉄道の中といい、サルディニア行きの飛行機の
時といい。
なあ、フロラ、おれはあんたの役には立ったかい？
ああ、ムーディー・ブルース、間に合ったか。
おい、ソリッド・ナーゾさんよ、あんた結構イケてるじゃねーの。顔出ししてくれてても、うちの
リーダーなら熱狂的に忠誠を誓ってくれたかもよ？
じゃあ、そのきれいな顔を、あいつらに解るように残さなくちゃな……
「ムーディー・ブルース！ その顔を、この台座に押しつけて残せ！ おれとおまえが塵となって消
えても、おれとおまえが探し当てたボスの顔、その姿をやつらが見失わないように！
それがおれたちの最後の仕事だぜ！」
「ですからッ！ それは間違いですッ！ ナランチャはそのとき学校にいてわたしが補習をしてやっ
ていたんです」
愛しい顔は、めずらしくまなじりを決して大声を上げていた。
「だが、被害者のばあさ……いや老婦人はたしかに盗みに入ったのはこの子だと証言したんだ」
おれはたじたじとなりながら、書類を前に反論している。
「濡れ衣を着せられているんです！ お巡りさんにはそれが解らないんですかッ！？」
「判断するのは検察だ。おれは訴えを受けて容疑者を捕まえただけで」
「先生、もういいよ」
今度はシチュエーションを変えてきた。フロラ・ブローノ・ブチャラティはギャングにはならずに、
苦学して中学の先生になったらしい。
「ナランチャ、もういいなんてことはありません！ やってないのなら断固として否認し続けなさい」
黒髪をボブにして、海の瞳はそのままに、ブチャラティは教師姿が様になっている。こうなるべき
女だったのだ。
結局ナランチャは無実の罪で少年院送りになり、しばらくは道で遭ってもブチャラティ先生はつん
としていた。
直接の担任ではないが、その中学の卒業生だとかでやはり正当防衛が認められずに収監されそうに
なったミスタの救済運動でまた出会い、最初はケンカばかりだったが結局また恋に落ちていた。フー
ゴはこんどは、いやみな優等生、でも心の底では先生に片想いの役どころ。
何度も何度も。幾通りもの出会いを経て、やはり二人は恋に落ちる。同じ役者を使った短い映画の
シリーズを見るように、繰り返しくりかえしおれはおれたちの恋を見る。それは平行世界というやつ
なのか、さっきの悪夢のようにたんなるおれの頭の中だけのことなのか。どんな出会いをして、どん
な選択をし、どんな経緯を経たとしても、今の自分のこの帰結が最善であったと自分を納得させるた
めの心の作用なのか。
「ねえ、とうさん、かあさんは街で何をしているの？」
小さな娘が手を引いて見上げてくる。二人して、夕暮れには遠くネアポリスを望むのが習慣になっ
ているらしい。
「街のみんなの役に立つことをしてるのさ」
これはなかなかなヴァリエーション。妊娠を機に組織を抜けようとしたら、フーゴに凄い顔をして
止められて。結局、おれがセミ・リタイアして田舎でリストランテを持たして貰って、子供を育てる
ことになった。いつか自分が暮らそうと思って買っていたという海辺の小さな家。潮くさい風にもじ
きに慣れた。
「あたしより街の人の方が好きなの？」
「そうじゃないさ」と、自分にも言い聞かせるように、娘を抱き上げておれは言う。
「とっても大事な仕事なんだ。あいつ以外にはできない仕事なんだよ……」
自分よりひとの心を大切にする優しすぎる性分だから。これだけは生まれ持ったもので、変えられ
ない尊い心だから。
ブチャラティという女を愛するからには、それも尊重しなくてはならない。
折れてばかりのような自分の人生だが、ときおりそうやって闘志のようなものを掻きたてて見方を
変えてやる。今もそうだ。
おれは大丈夫だから。
あんたがおれを見つめていてくれた時間には及ばないにしても、おれはこっちであんたを見つめて
暮らすから。
最後の審判の日が来たら、神様の右には無理かも知れないけれど、足元に侍るくらいは余裕ででき
るくらいの善行を施した人間だって、おれは弁護に立ってやるから。だから、これからはジョルノの
やつに生命エネルギーとやらを貰って、好きなだけ地上の世界を楽しんでくれ。ずっと、そのきれい
な海の瞳のままで。
ムーディ・ブルースの姿は完全に消えた。おれの生命エネルギーも、とうとう尽きたというわけだ。
腹の痛みはもう感じなくなった。身体がふわふわしてきたような気がする。視線がドンドン上がって、
おれの魂は天に召されるらしい。
じゃあな、ブチャラティ。あんまりおれのことで悩むなよ。
おれはこれから、ちょっとばかし忙しくなる。
もう少し後で、そう、１週間後か、１ヶ月後か、あんたの身体がほんとうに動かなくなって、あん
たの魂がこっちに昇ってくるときに、出迎えに天使の一個小隊（プラトゥーン）も出してやれって、
お偉いさんに交渉しに行かなくちゃいけないからな。
あんたはそれだけのことをしたんだよ。
おれの知らない、あんたの大切な誰かに出迎えられたいというなら、それは、向こうさんの方でちゃん
と手配はして貰えると思うから。おれは最後でいいから。
とりあえずはあんたの短くて激しくて綺麗な、稲妻のような生が賛美で迎えられるように計らって
貰ってくるから。
あんたはあんたで、悔いの無いように動いてくれ。
レオーネ・アバッキオと呼ばれていた人間の魂は、そこで思考を止め、さらに高みに登っていった。
（１８−０６−０９）
蛇足。
夢オチでスイマセン。要するに、キングクリムゾンに腹をぶち抜かれたアバッキオの走馬燈状態。
エメラルド海岸の最期を、アバッキオの方からやってなかったと思って。
ブチャラティの最期に迎えに来た天使の軍団が、アバッキオの手配だったりしたらいいなと思った
ので。
ゲームのエンディングでは、ブチャラティ昇天のときアバッキオとナランチャも一緒にいたように
見えたけど。いや、そりゃーお邪魔だろう。ナランチャに空気を読むなんてコトできるかな……心配。
悪夢では夢なりに途中からフーゴと交代した。悪夢でもフーゴはいい役どころ（これでも！）。
おまけ
「なんだ、もう来たのか……もっとゆっくりしてくれば良かったのに」
天上でブチャラティを出迎えたアバッキオが、目を逸らしつつ言うものだから、ブチャラティは久々
に特技を披露することになる。大胆に、舌を伸ばしてその頬を舐めてやって……。
「嘘つき」
「なにが嘘つきだ。この状態で汗なんかかくか」と、アバッキオはふて腐れる。
「おや、嘘じゃないとでも？」と、ブチャラティはとぼけた顔で聞いてくる。アバッキオは言葉に詰
まる……。その顔が、朱に染まる。
もう、邪魔をするものはなにもいないのだから、ゆっくりと、二人は楽しめばいい。
別解。
「もっと食べなさい」
目の前の皿に、なおも肉が重ねられた。ソースのべったり絡んだ仔牛肉。嫌いじゃない
が、そんなにもう入らない。あの日から、もう食欲なんてものはなくなっているのだ。
「腰が細いのはいいが、胸がないのは話にならない。女性の美は結局のところ、豊かな胸
に尽きる。男には持ち得ないものだからな。そうじゃないか、ブチャラティ」
「……はい」
この人に逆らうことは許されない。無理矢理にナイフとフォークを動かして、肉を小さ
く切ってゆく。なんとか口の中に押し込むために。
「それで、どうだ？ あの小僧とならトべたのか？ あのプラチナ・ブロンドの男より良
かったのか？」
「え……？」
「わたしはおまえを買っていたんだがね、まさか、幹部という枠を飛び越えて、自分がボ
スに取って代わるとまでは思ってもいなかったよ。そんな大それた夢が、結局はお前をい
ちばん燃え立たせたと言うことか？ やはりおまえはただの小娘ではなかったな」
眼を上げて見たかつての上司は、愉快そうにワインを飲み干していた。
「いい顔をするようになったな、フロラ。まさかおまえの心の底に、正義なんてものが残っ
ているとは思わなかった。いや、わたしはそれに気がついていたのかな？ だから、危なっ
かしいと思っておまえには肩入れをしてしまったのだろうか。わたしの金を使ったことな
ら気にしなくていい。そのつもりでおまえに任せたんだ。じつにいい判断だった。おまえ
らしいよ。
後に残るものにも心配りをして。
立派だよ。おまえは。わたしが思っていたのとは違ったことをだが、それでもおまえは
立派にやり遂げたんだよ」
「そんな、ポルポさん……！ ということは、ここは……！？」
ブチャラティは、椅子から立ち上がって２，３歩退いた。床は急に固さを失い、周囲に
は雲が立ちこめた。
一瞬のうちに雲は晴れ、頭上からはまばゆい光が射してきて彼女を照らした。一個小隊
ほどの天使の群れが、手に手に楽器を持ち、荘厳なメロディを奏でて彼女を迎えた。面食
らって周囲をキョロキョロと見回すうちに、彼女の身体はどんどん高みに登ってゆき、光
の中から懐かしい父親が現れて、両手をさしのべた。彼女は幼い頃の姿に戻ってその胸に
抱きついて甘えたが……。
「なんだ、もう来たのか。もっとゆっくりしてくれば良かったのに」
じらしまくった挙げ句にやっと出迎えたアバッキオが、格好を付けて目を逸らしつつ言
うものだから、ブチャラティはつと距離を詰めてとうとうその頬を張り飛ばした。
「なんだってこんなところで油を売っているんだ！ すぐに判るところにいてくれなくちゃ
困る！」
「困るって、おまえ、だから親父さんが最初ってのがお偉いさんの指示で、あとは天使を
一個小隊出迎えに出さすんでおれがどんだけ苦労したかッ！」と、頬を抑えてアバッキオ
は言い返す。そんな苦労自慢なんかして、やっぱり野暮天は変わらない。
「天使なんかに何十匹来て貰っても有り難くなんかないッ！ おまえは女心がなんにも解っ
ちゃいないッ！ 父さんだって？ 違うぞ、そりゃポルポさんには世話になったがどんな
悪夢かと思ったぞ！ おまけに若い頃ならまだしも、ムショに入ってからのご立派な体格
のお姿で！ どれだけ美辞麗句で労われても泣けてくるッ」
……二言目には「胸がない」だし。
ブチャラティはなんとなく鼻を啜っていた。
「おまッ！ 天使様を匹で数えるんじゃないッこの罰当たり！ それに、この期に及んで
ポルポに敬語を使うなッ！」
恐れ多くも神様のお膝元で天使を小鳥かなんかみたいに言って。ここへ来て信心深さが
増幅している真面目男は出るはずのない冷や汗をかいている。
「ああッ罰当たりで結構だこの朴念仁がッ！ 要らん焼き餅を焼くな！」
地上の労苦から解放された恋人たちは、地上においては決してすることのなかった盛大
な痴話喧嘩を始めてしまった。
「聖者にも匹敵する善行を為した」と推薦のあった佳人を迎えたはずの天上の人々は、思
わぬ事態にただ遠巻きにして見守った……。
……あー、えーと、ごゆっくり。
（１９−０６−０９）追加
別解蛇足。
愛する人ができたからには、天国で一番最初に出迎えて欲しいひとはそりゃパパじゃな
いでしょう。カッコつけるんじゃないよこの朴念仁。もっと自惚れてちょうだい。
ブチャラティもいつもの素直クールで
「てっきりおまえが最初に出迎えてくれると思っていたから哀しかった」ぐらい言え。ま
た大いに落ち込んでくれるだろうから（ドＳ）。
アバッキオにとっては殉職警官さんに赦して貰うことが必要だったとはいえ、ブチャラ
ティはポルポに赦してもらおう、まして評価して労って貰おうなんてさらさら思ってなさ
そうだし。やっぱりずれてる恋人同士でした。でもきっと幸せ。
一晩寝て考えたんだけど。やっぱりここでポルポさんは自分からしゃしゃり出たんだと思う。
「なに？ あの子がもう来たのか。もっとうまく立ち回ると思ってたんだがな。ここは、上司
で教師で初めての男であるわたしが行ってやらねば」なんつって。胸が胸がといいつつけっこー
本人は可愛がってたつもりなんだろう。あれだ、部下の女性に過剰に期待してかまう困ったちゃん
なおじさん。