遠足
その朝（５２）
１
土埃の混じった空気は乾燥して、空は白く霞がかって見える。見上げたヴェスヴィオ火
山の頂には、まだ雪が少し残って見えた。直射日光が当たっているところは暑いくらいだ
が、日陰に入ればまだ空気はひんやりとしていて困ることはない。
しばらくここでぼんやり時間をやり過ごそうと少女は思った。
遠足の小学生達の歓声も、今は遠い。少しずつ、少しずつ遠ざかって、彼女は一行から
離れた石造りの遺跡の陰に身を潜めていた。うっかり石畳の縁でひねった足首はさっきか
らじんじんしている。今引率の教師に言っても気を遣わせるだけだ。もう少し独りでいて、
点呼の前ぐらいに出て行って、ついさっきやったといって手当をして貰っても遅くないだ
ろう。
今は陽光が降り注ぎ、若草がもう萌えだして輝く季節を迎えてはいても、ここは死の気
配に満ちている。もう２０００年ほども前の悲劇の地。
いつもの漁師町から離れて広い平地に来たからといって、外の児童達と一緒になっては
しゃぐ気分にはとてもなれなかった。それは、家族との別れを経験したからかも知れない。
大人びたところがある、と時々彼女は指摘されるようになっていた。
２
ザ、と土を崩す音がして、ふいに目の前に人の気配がした。
「おい、大丈夫か？ 具合悪いのか？」
野球帽を被った、体の大きい、けれど同じ年頃とわかる少年が屈み込んでいた。
「あれ？ うちの学校のやつじゃないのかな？ どっから来た？ ムカーイじゃない？」
「ああ、あたしはマキーシーの小学校。今日は他に２つほどの小学校が遠足に来てるって」
そのガラス玉のような薄い青い眼の色にびっくりして眼を逸らせないまま、彼女は答え
ていた。彫りが深い！ 真っ直ぐな高い鼻！ 王子様みたいなきれいな少年だ。
「マキーシー？ どこ？ 海の方だっけ？」
「そっちこそ。トスカナ州？ もしかしてもっと北部？」
北の方は、髪の色や目の色の薄い人間が住むと聞いていた。少年の肌はもう今日半日で
焼けてピンク色になっていた。きっと肌も白いのだろう。アルプスの向こうの血がはいっ
ているのかも知れない。
「ちぇ、一緒！ カンパニア州だよ！ 山の方！ 田舎だけどな」
きっと言われ慣れてるのだろう。うるさそうに頭を振って見せて、少年はなおも顔を覗
き込んできた。
「はぐれたのか？ どうしたんだよ？」
続けざまに言ってくるから、困ってしまって正直になることにする。
「足、ひねった。動けないからしばらくじっとしてようと思って」
「なんだ！」
少年は、安心したように笑った。
「レオーネ！ どうだったー？」
頭上から声がかかる。遺跡の、彼女の背にしていた石垣の上には少年達が鈴なりで、こっ
ちを見下ろしていた。
「よその学校のやつだ！ 足ひねったって」
「なんだー」
「だからほっとけって言ったろー」
「こっち来いよー」
気の早いものは、もう背を向けて芝生の広場へ駆けだしている。
「そんなわけ行くか！」
叫んでおいて、レオーネと呼ばれた少年は屈み込んだ。背を見せる。
「手当てしないとダメだろ？ おれに負ぶされよ」
「いいよ別に。じっとしてれば大丈夫だ。友達と一緒に遊んでなよ」
「だって、そっちの先生もきっと心配して、探してる。見つけて貰えなかったら帰れない
じゃないか」
「大丈夫だって」
「いいから！」
押して言うので仕方なく彼女はレオーネ少年の背に負ぶさった。
「重いなんて、言うなよ？」
「大丈夫だ」
とりえあず、自分の学校の先生のところまで連れて行くつもりらしい。街の紋章をアレン
ジして作った小学校の旗を目指してレオーネは歩き出したようだった。
「レオーネ、こんなところに。そんな子ほっといて遊びましょうよ。おやつもあるわ。
あたし、ビスコッティを焼いてきたのよ。一緒に食べましょう」
艶やかな黒髪を耳の上で二つに結んだ少女がまとわりついてきた。少年と似合いの、目
を引く華やかな顔立ちの子。
「だめだ、アナベラ。怪我してるんだ。せめて先生のところまで連れて行かないと」
レオーネは短く言って退けた。
「あなた、降りなさいよ。歩けるんでしょう？ ひとの婚約者に迷惑を掛けるんじゃない
わよ」
アナベラは甲高い声で、今度は背負われた少女に向かって言いつのった。
「アナベラ」
レオーネは向き直って、静かに口を開いた。考え考え、自分の意見を言った。
「怪我をしてるんだ。ひどいことを言っちゃダメだ。
おれは、世界一の男になりたいんだ……おまえのために。怪我をしてる子をほっとくなん
て、できない。
おまえだって、自分が友達とはぐれて怪我をして心細いときに、そんな仕打ちをうけた
ら悲しいだろう？」
アナベラはぐっと詰まって、顔を伏せるとか細い声でごめんなさいとつぶやいて走り去っ
た。
溜め息を一つ吐くと、レオーネはまた向き直って進み始めた。背に負った少女に向かっ
て呟く。
「気を悪くしないでくれ。アナベラはおれに一生懸命になりすぎるんだ」
「ハンサムだものな。もう婚約してるのか。……親が決めたの？」
「そうじゃない……自分のせいでおれが怪我をしたからそう思いこんでるんだ」
「ふうん」
いろいろお節介な質なんだな、と少女はレオーネの広い背を見つめながら思った。
３
「マキーシーの５年、フロラ・ブローノ・ブチャラティです」
ようよう集合場所に着くと、片足立ちで教師の前に立って、少女はちゃんと所属と姓名
を述べた。
「ああ、いいよ、診てあげよう。大丈夫、遠慮するんじゃない」
ムカーイの教師は気安く言って、その足元に屈み込んだ。
「随分ひどいねんざだなあ。痛かっただろう？ 動かさない方がいい」
「え？ そうですか？」
痛覚の鈍いフロラはなんともなさそうに言ったが、レオーネは自分が痛そうな顔になっ
た。
軟膏を塗ってちょっとしたテーピングをして引率の教師はきょろきょろと辺りを見回し
て、
「ああ、見える？ マキーシーは向こうだ。まだ時間はあるし、弁当にも間に合うだろう。
悪いが、レオーネ、連れて行ってやってくれるか？」
「はい」
アナベラが何かと言ってまとわりついてレオーネも周りも迷惑しているので、教師はこ
れ幸いとレオーネに自由になる時間を与えてくれた。
「いいの？」
いよいよけが人と一目で判る姿になった少女、フロラは当惑げに頭を傾げた。
「実は、助かる」
短く言って、レオーネはまたフロラを背負って歩き出した。
「足元、気をつけてね」
背から、フロラは耳に囁く。
「あァ」
ゆっくり、ゆっくり少年は歩き始めた。
「フロラ、友達、いないのか？」
「どうして？」
「怪我したとき独りでいるなんて、寂しいだろうに」
「ああ。いるけど……だって、せっかくの遠足なのに、こっちに気を遣って遊べないのは
悪いし。
……それに、ここで騒ぐのはあんまり良くない気がして」
「どうしてだ？」
「だって、たくさんのひとが亡くなった場所だから。怖い思いをして、苦しくて引きつっ
た顔をして死んだ姿をそのまま型で取って見せ物になるなんて、可哀相だから」
「……そうだな」
レオーネは黙って足を進めた。そして、しばらくして言葉を選びながら言った。
「でも、研究のためだから。昔のさまが、そのまま残ってて、調べものの役に立ってるか
ら。見せものって、軽々しく思ったりしなければ、おれはいいと思う」
「そうだね。ごめん」
「いや……おまえ、フロラは優しいんだと思う」
「レオーネも、優しいよ」
「そうか……」
また、２人は黙った。
４
「重くない？」
「大丈夫。おれは、強い男にならなきゃならないから」
「アナベラのため？」
「あ……うん、それもあるけど、ずっと、小さいころから、おまえは男の子だから、強く
て立派な男にならなきゃいけないって言われてたから」
「それって、辛くない？」
フロラは自分の父を思い浮かべていた。離婚で傷付いたことも隠して、強い海の男を演
じ続けている父。父一人子一人の生活で苦労を掛けまいと、休日も釣り客の案内の仕事を
はじめた。大丈夫、自分は街に憧れたりしない。楽な暮らしをしたがったりしないと口で
言う代わりに、フロラはスカートを穿くことをやめた。女らしくなったりしない。あの女
（ひと）みたいに父さんを置いていったりしない、と全身で訴えた。その気遣いを、父は
負担に思っているらしい。気遣われることは弱いことと思っているようだ。
「そうかな？」
深く認識していないらしい。それでも、あのアナベラはきっと彼の静かな努力を無にし
続けているだろう。
きっと、傷付いている。
知らず、フロラはレオーネの背にしっかりしがみついていた。
「レオーネ、アナベラと結婚するの？」
「あ、ああ、大人になったらな」
「じゃあ、あいじんになってあげる」
「……ッ！？」
レオーネはつんのめった。２，３歩足並みの乱れたままに行って、立ち止まり、背中の
少女を振り落とした。
「だいじょうぶ？」
フロラはきょとんとレオーネを見上げた。
「そういう冗談、やめろよ！」
真っ赤になっているのは、怒気が８割のようだ。
「じょうだんでも、ないんだけど……」
離別や死別を言わなかっただけフロラの心中では穏便に済ませたつもりだった。
「あいッ……じんなんて、そんな、乱れたこと考えるなよッ」
「ごめん」
彼女の育った漁師町では、もう相手がいると断られたときには、引き下がるにしても
「じゃあ２号でいいから」と軽口を言うのは礼儀のうちなくらいなのに。
山の方は固いんだなとフロラは興味深く聞いていた。
「乗れよッ」
それでも、そこで放り出すことは思いもよらないようで、また屈んで背を見せてくれた。
なんだか胸がいっぱいになって、いっぱいに重みを掛けるように、すき間なくぴったりくっ
つくようにフロラはその背にしがみつく。よろめくようにレオーネが立ち上がって、また
歩き出す。
「なんでそんな、今日逢ったばっかの人間にそんなこと言ったりできるんだよッ」
「だって恩人だし」
ムキになって声を荒げるレオーネにいろいろ言って、怒ったり、昂奮したりするさまが
なんだかこちらの心をうきうきさせる。もっと見ていたい。声を聞いていたい。
「こんなのふつうだろッ」
「だってハンサムだし」
「ふつうだッ」
「優しいし」
「黙れッ」
そう言いながら、レオーネは息を切らしながらもフロラを振り落としたりしないでちゃん
とマキーシーの角笛を吹く人魚の旗の下に近づいていっている。
「そういうのはァッ、ちゃんとよく知り合った相手とッ、お互い相手ひとりだけを想い合っ
て教会に行って神様の前で宣誓しなきゃだめだッ。
……そうじゃないと、悲しいだろッ」
「悲しい？」
「いつも一緒にいてやれないから、おまえが悲しい。
そんなおまえを見てる父さん母さんが悲しい。
……一緒にいてやれないとおれが悲しい。もしそんな間柄になったとしてだけどな。
おれがそんなだとアナベラも悲しいだろう。
な？ みんな悲しいんだ。だから、そんなのはだめだッ」
レオーネは、考え考え、諭すように幼いながらも自分の意見を言った。
「レオーネ」
「なんだッ？」
「ちゃんと宣誓した夫婦だって離婚（わか）れるんだぞ」
「そういうのはァッ！」
そこまで叫んで、ふと、事情を察したのかまた言葉を探している雰囲気になった。
「訳があったんだよ、きっと。２人の間にしか解らないわけが。
……そんでおまえそんなに寂しそうなのか」
返事を聞かずに、レオーネは背中のフロラを揺すり上げた。
「おまえは、違うよ。絶対いいひとと出逢うよ。カッコよくって、おまえのことだけを大
切にしてくれるひとと出逢えるよ。だから、そんなせっかくポンペイまで来ておいてひと
りで石垣の陰に隠れてたりなんかするなよ。おまえの友達は、おまえとここで楽しく遊び
たいと思ってるよ」
くやしいので、フロラは返事をしなかった。
大人しいがいつも目配りの行き届いた少女を頼みに思っていたマキーシーの小学校の教
師は、その「小さなおかあさん」が見あたらないので忙しく辺りを見回していたが、大柄
な少年に背負われて来たのがそのフロラだと知って安堵のため息を漏らした。
「どうもありがとう。ムカーイ？ の小さな騎士さん。フロラ、お礼を言いましょうね」
「ありがとうレオーネ」
フロラはとっておきの笑顔で礼を言い、そして、少しのふて腐れた気持ちで言い添えた。
「アナベラとお幸せに」
「あァ」
それでちょっと気分を害したレオーネ少年は、ブルネットの背の高い少女の顔はよく見
ないままに背を向けて自分たちの集合場所へ駆け戻ってしまった。
時間を取られたレオーネはそのあとべったりアナベラに貼り付かれて遊ぶどころじゃな
かったし、フロラは先生の側で坐ったままできる雑用をいろいろ言いつけられて帰るまで
の時間を過ごした。荷物のいろいろある先生は背負ってなどくれず、フロラは足を引きずっ
て家まで帰った。
それで２人はその遠足の日のことを忘れた……。
時は流れて。ネアポリスのマフィアのチームがひとりの少年の野望とともに大きな陰謀
に巻き込まれていった……。
「ポンペイか……ガキの頃遠足で行って以来だぜ」
ボスからの指令にアバッキオがつい独りごちた。
「ハンサムなレオーネ、足をくじいた女子小学生が落ちていても構うなよ」
普段通りのとぼけた顔でブチャラティが応じた。
「あァ？」
新入りがブチャラティと２人だけの雰囲気を作っているのでこのところ苛ついていたア
バッキオが、いぶかしげに振り向いた。
「愛人でもいいなんて言われても突っぱねるんだぞ？ 今は殺すぞ」
物騒なことを言ってブチャラティが晴れやかに笑ってみせるので、小学生の時の記憶を
蘇らせたレオーネ・アバッキオは顔を朱に染めて部屋を出て行った。
（５−２−１９）
蛇足。
「ヨゴレてないレオーネとヨゴレてないフロラでは永遠に出会わない」（ｃｆ．後夜祭）
って、はい、出逢わせてみました。いろいろ書きすぎて最近物語を入れる隙間がないから
大変。
「あいじんになってあげる」って、フロラたん小学生のころから積極的ですね。結局やっ
ぱり一目惚れなのか。ハンサムは得じゃのう。いえ、相手を一応受け止めながら考えて自
分なりの意見を出すところに着目して欲しいんですが。
「おまえのために世界一の男になりたい」なんて素で言うし。１０才でもイタリアーノ。
いや、アナベラのせいでいろいろ修行を積んだんでしょう。苦労したんだなあ（ホロリ）。
アナベラってこんな自己中な子のつもりなかったんだけどなあ……。
２人の時間軸あんまり細かく詰めてないんですが、
９才ぐらい ＜ レオーネ岩から落下して１ユーロハゲ＆婚約 ＜ １０才ぐらい
５才ぐらい ＜ フロラ両親離婚して父の元に残る ＜１０才ぐらい
として、イタリアの小学校はなんと１０才ぐらいが最高学年だそうなので、その辺を想
定してます。でも、ヨーロッパは学校が９月はじまりなので、レオーネ君は早生まれにし
ても、フロラたんは遅生まれでもしかして学年は違うかも知れません、その辺は、小学校
が違うので、お山は最高学年で行くけど、海の方はその下で行くのがふつうなのかもとか
各自その辺は補完してください。ポンペイは今地図で見たけど、海に近い感じです。
ハンサムなレオーネ君が初恋だったのならフランチェスコが刷り込みで面喰いのもとに
なったんじゃなくなるなあ。まあ後付なんでその辺は適当に。もともとその気があったん
でしょう、両親美男美女だし。
ポンペイは観光写真をアップしてるひとのサイトとか見せて貰いましたが、小学生が遠
足に来てはぐれるような感じじゃないかも。とりあえず、崖から落ちて足をくじくような
余地はなかったので、石畳で足をぐりっといっちゃったことにしました。あの石畳は結構
やばいそうです。行きたいな、ポンペイ。仙台の博物館に展覧会が来てたのは見ましたが。
ＣＧがリアルすぎてやばかったです。
おまけ。
「レオーネはポンペイでよその小学校の女の子を助けたそうだよ」と父が話を振れば、
「あたし以外の女の子をおんぶしたってアナベラが大騒ぎをしてたって聞いたわ」と母が
頷き。
「聞いた聞いた。ほんとに、山に登れば婚約者を作るし。大人になるまでにハレムができ
るんじゃないかしら」と姉が心配した。
残念！ 朴念仁だからハレムはできませんでした。でもよく女の子は助けてるよね。あ、
男も助けてるか。