４月１日の２人
今日も今日とて２人はブチャラティの部屋でごろごろしている。ベッドに腰掛けたブチャ
ラティの腿を横切るようにうつぶせになって、アバッキオは長々と寝そべって雑誌に目を
通している。ブチャラティはさながら大きな猫を抱くよう。
……結婚？ できるわけないだろ。１８になったらオッサンの籍に入るんだ。そういう
つもりで引き取ったらしいな。こっちもそのつもりでいろいろ仕込まれてやったし……悪
く思うなよ。楽しかった。ありがとう……大好きだよ。
……って言っても、今日ならエイプリル・フールでごまかせるかな？ そりゃーちょっ
と希望的観測って奴かな。
ブチャラティは黙ってそんなことを考えながらアバッキオの頭を撫で回している。真に
受けて、また暴れられたらいやだな。弟たちに迷惑がかかっても困るし。そんなことより、
このカワイイ男にそういう汚れたことを知られるのが怖い。汚いものを見るような、いや
それよりも、可哀相なものを見る眼で見られるのがいやだ。
ポルポの方は、そこまで読んでいるのだか、話を合わせてくれて助かった。ホント、冗
談の通じない家だ、いきなり年明け、挨拶させてもらうと言い出したときには肝が潰れる
かと思った。ギラギラした怖さをまるきり失ってしまった養父は、ありがとうございます、
これでわたしも安心ですと別人のように穏やかに笑って見せた。あとで２人になって、真
意を質しても、ただ笑っていた。それがまた怖い。
致命的なところで、秘密を曝くのではないか、既に自分や弟たちも、さらに酷いところ
へ売り飛ばされているのではないか。……有無を言わせずスタジオに連れ込まれたときの
底の知れない笑顔を思い出すと、今でも身体が芯から震える。
アバッキオの前では、余裕のある女の子としていられる。年よりは頭の切れる、ちょっ
と大人びた少女で通せる。
尊敬、自分とは次元の違うものを見るときの感嘆、そんな眼差しをアバッキオはいつも
向けてくれている。しょうがないなあ、っていう、ワガママを許すときの温かい好意のこ
もった眼差し。自分の挑発をかわすときの、真剣な、深い想いを込めた眼差し……。アバッ
キオからは、そういう目を向けられていたい。これからも、ずっと。
……無理かな、最悪を想定しておかないと。世の中そんなに甘いことはないし。可哀相
だけど、傷つけないようにしたい……。だってこんなに愛しいから。
想いは堂々巡りで、結局ばかみたいな甘い結論にしか到達しない。こんな自分、信じら
れない。でも、だって現実に、この膝の上に大好きな男がいるんだもの。ちょっと硬い髪、
こんなに伸びてしまって。肩以上に伸ばしたらすごいぞ、見てみたい。こんなに乱したら
怒られるかな、ああ、でもずっと触っていたい……。
アバッキオの方は、お猫様今日は機嫌が良いな、なんて考えながら、エイプリル・フー
ルにちょっと罪のない嘘を、なんてのはどうせ外してバカにされるだけだからやらない方
が良いかな、でも、おれをバカバカ言う時ってとっても楽しそうだから、ここは恥かいて
もいっちょやっとくべきかなといろいろ考えている。それでもなんにも思いつかなくて、
結局、
「あ、えーと、……良い天気だな」としか言えない。部屋の中で。まだ桜も咲いていない
のに。
「ああ」
自己嫌悪なんかお見通しで、ブチャラティは一層機嫌良く頭を撫で回す。その感触にうっ
とりしながら、芸もなくアバッキオは言ってみる。
「……愛してるよ」
「今日は４月１日だぞ」
静かに、微笑んでブチャラティは返す。
「え、あ、そういうんじゃなくて！」
さっきまで嘘を吐かなくちゃと思っていたのに！ アバッキオは狼狽える。
「うん。
……バーカ、ほんとに」
「笑えよ」
アバッキオは頭を振って、突っ伏してしまう。
「いいんだよ。
漱石が、東京帝国大学で英文学を講義してるときに、『Ｉ ｌｏｖｅ ｙｏｕ．』って
文を和訳する場面があって、それを漱石はこんなものは『月がきれいですね』とでも訳し
ておけばいいって言ったって」
「ハア？ だって、全然……」
アバッキオは身体をねじって顔を見ようとする。それを押さえつけておいて、
「愛し合う２人が一緒にいて、唐突に月がきれいだって、そんなこと言い出すわけない。
ただ、そう、イギリスでも、イタリアでも、欧米の文脈で言うならこうだ、
『愛しいあなたと一緒にいると、月もいつもの月より美しく見える』、さっきのおまえが
言った、良い天気ってのもそういうことだろ？
そういう雰囲気をみんな包含して、向こうははっきり『Ｉ ｌｏｖｅ ｙｏｕ．』で、
日本文学なら『月がきれいですね』ってことだ。
そうだろ？」とブチャラティは静かに言った。
そうして頭をまた撫でてやって、
「わたしも。愛してる」
……ああ、明日なんか知らない。世界が今終わればいいのに。
エイプリル・フールだから、なにか言って楽しませなくては、楽しませたい、そう思っ
てくれる事が嬉しい。ささいな行事の日にはいつでも、少しでも誠を表わしたいと思って
くれているのが申し訳ない。そして巧くできなくて自己嫌悪に悶えるところまでが愛しい。
カワイイ、カワイイ、カワイイ。
そういう心の動きを、頭を撫で倒すことで表わしている。
アバッキオの方はそんなにすごい脈絡のつもりはなくて、ただ恥ずかしさにじたばたし
ていたが、恥かきついでに覚悟を決めたようだった。
「本気だからな。今日じゃなくても言うぞ。
おれ、ちゃんと教会行ってるから式は新都カソリック中央教会な」
「市役所の横のアレ？」
「あれだ。……きれいな花嫁は見せびらかさないと」
ブチャラティは笑ってしまう。喜びを抑えかねたふうを装って、アバッキオの頭を押さ
え込んで、自分の顔を見られないようにしてしまう。
初めて愛した大切なひとには、きれいな嘘を吐こう。
「旅行はどこへ？」
「イタリア。オヤジの親戚に挨拶回りだ。あと、おまえのふるさとも見にいこう」
「あは、近場で良いのに。シンガポールとか、オーストラリアとか」
ブチャラティは目で鏡を探す。まだ自分は笑っているだろうか。
「そんなの修学旅行で行くとこだろ」
修学旅行、行けるだろうか。この前の面談で、医者にはもう保って１年と言われた。ポ
ルポが死ねば、この生活はおしまい。正式な養女でも、妻でもない自分はここを出て行か
ねばならない。フーゴは実家に戻れるだろうか。ナランチャを連れて、神戸へ行くか、東
京へ出てみるか。名古屋もいいかも知れないが、せめて高校は卒業しておきたい……。
「ブチャラティ……泣いてるのか？」
おや、空気が読めないくせに妙に聡い。ブチャラティは頭を軽くはたいてやって立ち上
がって、頭の白いライオンを蹴落とす。
「ああ、よだれが落ちたか？ ……腹が減った」
ああ、もう。キッチン勝手に使ったら家政婦さん怒るかな、ボソボソ呟いて、それでも
なにか作ってくれる意志を見せて、かるく半回転して立ち上がるとアバッキオは部屋を出
る。
「包丁を持てない女を嫁にすると大変だぞ」
続いてブチャラティも部屋を出る。
「おれがやるから。……掃除洗濯ぐらいはやってくれよな」
ほんとに、新都は奇跡みたいな街だ。こんな顔良し性格良しが屋上で小さくなって弁当
食べてた。食べ物やったら付いてきたってならともかく、自分から弁当持ってすり寄って
きて。
ブチャラティは頬が緩んで仕方ない。
アバッキオは慣れた様子で必要な道具を揃えて卵を割り始めた。
「卵と牛乳だけもらったから。なんだったら帰るときに補充しとく」
「粉は？」
有名メイカーのホットケーキ・ミックスが調理台の上に出ている。
「こないだ来たとき隠しといた。いくら何でもレシピなしでいきなりケーキとか焼けるほ
どパティシェじゃあねえよ」
いつか作ってくれる気ではあったわけだ。
「ニンジャか」
ひとのうちに勝手に材料を持ち込んで隠しておくなんて。
「なんで！？」
ああ、ほら、一言にも全身で反応してくれて。嬉しい。
夢みたいな話だけじゃなく、アバッキオは先を見ている。未来を信じている。それがい
とおしい。
「混ぜるくらいならできるぞ」と、ブチャラティも足を進める。
「よしよし、じゃあ頼む、今火加減見るから」
なんて、２人でホットケーキ焼いてたら、匂いに釣られて弟たちも顔を出して。
「いいぜ、想定してある」って、４人でおやつになって。
「四月馬鹿って言うのは、正確な由来は判っていません。ただ、昔フランス王が……」
フーゴの蘊蓄をみんなで拝聴したりして。
「でも、今はそんな今日に限って嘘吐いたりするようなのは寒いのばかりだろう？」と、
ブチャラティはアバッキオを横目で見ながら言う。
「そんなことありません、ネットの世界では結構毎年良質の笑いが提供されているみたい
です」
「最近のねらい目は円谷プロだろ？」
ナランチャが目を輝かせる。
「今日に限ってしゃれたことを言おうとするから滑るんですよ。日頃から、言葉には重み
を持って」
「あ、ああそうだな」
アバッキオは汗をかいている。そんな様も、ブチャラティは眼を細めてみている。少年
達は、そんな２人を見てなにかいい気持ちになっている。
……記念日も良いけど、普通の日に普通にしててもいいじゃん、あんたら。
……ほんとに、愛し合ってる人達って、存在するだけで周囲を幸福にしますね。
温かい目線だけで、そういう心の内も伝わって、２人も幸せを裏書きしてもらった気に
なる。
夕方になって、家政婦さんが来て、アバッキオはすっ飛んでいって勝手にキッチン（と
卵と牛乳）を使った詫びを入れて、笑われていた。そんなに言うなら、とお使いに行かさ
れて。ダッシュで行って帰ってきて。ブチャラティはバーカ、とまた笑っている。
日が長くなってきていて、ふんわりと、温かく暮れて行っている。
じゃあ、と手を挙げてアバッキオがマンションを出て行って、ブチャラティは今着いた
というメイルが来たらなんて返そうかと頭を悩ませ始める。
そんな４月１日の２人。
０７−０８−１１
蛇足
今更月遅れのエイプリルフールネタ。うちは旧暦でやりますんでって、パタリロか！？
（平成２３年は旧暦４月１日は５月３日でした）
５月半ばにある程度書き終えてて、ここまで書いて自分で呆れて放置してました。夏休
み長編がどうしようもないところで使おうと思ってたネタに不具合があったので再検討中
なのでこっちで繋ぎます。時系列的にもこっちが先だし（そんで「セカンド・インパクト」
の方が後だよ。やっぱり時系列とっちらかってすいません）。