パラレル

　　　　　　　　　　その朝（１１） 第１０回記念作品　クレーム対象外。

もっぺんいっておきますけど、こういうネタが許せないとか、
傷ついちゃうわとおっしゃる方はご覧になんないでくださいね。
いちおーこのシリーズ内でもパラレル（平行世界）なんで、
この話の内容はあとの話には関係しません。
１

　　　　　　　　　　　春というのにネアポリスは朝から垂れ込めた曇り。降り出してしまえばいいものを、な
　　　　　　　　　　にを我慢しているやら空は太陽を隠し込めたまま生暖かく時を重ねている。
　　　　　　　　　　　昔は気にならなかった天気がフーゴには気を配る対象となっていて、少し居心地悪い気
　　　　　　　　　　分になる。それくらいの負荷がかかっても頭脳は少しも切れを失いはしないが。他人に気
　　　　　　　　　　遣いをする自分というのに違和感を感じているのである。雨が降ると鬱に入り込む男が、
　　　　　　　　　　彼らの仲間にに加わって久しい。その男は、彼らにとって大切な女性の、想う相手なので。
　　　　　　　　　　彼もまた、その男に気を遣わざるを得ない。いや、彼自身が、その男に気分良くあって欲
　　　　　　　　　　しいと願うようになっている。

　　　　　　　　　　　フーゴは頭を一振りして、前髪を脇に追いやった。
　　　　　　　　　　　物思いの種は、それだけではない。
　　　　　　　　　　　どうも、その大切な女性の方も、からだがおかしいようだ。弱みを見せることのできな
　　　　　　　　　　い性分と商売柄、必死に取り繕ってはいるが、内臓の不調はもう隠しようがない。この秋
　　　　　　　　　　に川向こうのシマも統合して一気にネアポリス全市を束ねる支部の一の幹部候補となった
　　　　　　　　　　が、そのあといろいろ事件が続いて、神経の休まる間がなかったのだろう。１２の時から
　　　　　　　　　　この業界に入って苦労して、ストレスには強いと思っていたが、さすがにもう限界……。

　　　　　　　　　　　いや。

　　　　　　　　　　　フーゴはまた頭を振った。
　　　　　　　　　　　そんな言葉で自分を誤魔化すのはやめよう。

　　　　　　　　　　　ブチャラティのあれは、悪阻だ。

　　　　　　　　　　　あれだけ噛んで含めるように言ったのに、あのバカップルは避妊をしていなかったらし
　　　　　　　　　　い。
　　　　　　　　　　「バカのいない世界に行きたい……」
　　　　　　　　　　　独りごちてすぐ、ガール・フレンドのあざけるような声が蘇る。
　　　　　　　　　　　……そんなの、あるわけないじゃない！　フール・プルーフって知らないの！？　今時
　　　　　　　　　　の工業製品は、どんなおバカが触っても壊れたり変な動作をしないように配慮して作られ
　　　　　　　　　　てるのよ！　どんなバカが事態に介入しても大丈夫なように算段するのがあたしたち少し
　　　　　　　　　　はマシな頭を持ってる人間の義務でしょう？
　　　　　　　　　　　……全く仰せの通りです。
　　　　　　　　　　　頭の中で返事をして、フーゴは頭を抱えて机に突っ伏した。と、アラームが鳴った。ネ
　　　　　　　　　　アポリス支部の頼れる参謀は、個人的な悩みに浸っている時間はもうないようだ。

　　　　　　　　　　　その３０分後、グリマルディーニ老に呼び出されて、フーゴは川向こうのグリマルディー
　　　　　　　　　　ニ邸にいた。全くプライヴェイトの相談のていである。しばらくは紅茶を楽しみ、庭の花
　　　　　　　　　　など眺めていて、頃合いを見て、老が口を切った。
　　　　　　　　　　「ブチャラティは、そろそろ入院させてはどうかね？」
　　　　　　　　　　　口の中のものを吹き出したりと言うことのないように、フーゴのほうのタイミングまで
　　　　　　　　　　量っていたようだ。さすがに、こういうところは年の功だ、とフーゴは見直すつもりになる。
　　　　　　　　　　「ですが、なかなか」
　　　　　　　　　　　マフィアの準幹部となると、受け入れてくれる病院もなかなかない。ネアポリスは一応今は安定し
　　　　　　　　　　ているが、要のブチャラティが不調と知れると、いつまた田舎マフィアが手を出してこないとも言え
　　　　　　　　　　ない。
　　　　　　　　　　「こんなことを言うと、息子かわいさに耄碌したかと思われるようだが、少しはうちのせがれに経験
　　　　　　　　　　を積ませてやって欲しい」
　　　　　　　　　　　グリマルディーニの跡取りは、４５のチェーザレ。これが、名前負けというか、名に恥じぬと言う
　　　　　　　　　　か、考えるのは女のことと遊びのことだけという放蕩息子だ。なまじ、ぼんくらなだけに、妙なプラ
　　　　　　　　　　イドを持たずにファミリーの仕事に口を出さないでくれたからまだ良かった。しっかり者の若頭がちゃん
　　　　　　　　　　と仕切って、統合も上手く行きかけているというのに。
　　　　　　　　　　「これを機会に、と仰りたいわけですか」
　　　　　　　　　　「多少の失敗も、今なら取り返しがつくだろう。ブチャラティは、今が一番大事なときなんじゃない
　　　　　　　　　　のか？　これ以上、無理をさせないうちに隠して、安静にさせた方がいい」
　　　　　　　　　　「休養を取らせた方がいいというのには同意しましょう、ですが」と、フーゴは反論する。
　　　　　　　　　　　どこにそんな都合のいい隠れ家があるというのだ。
　　　　　　　　　　　スタンドを持たない一般人相手なら誰にも遅れを取らない彼女のパートナーが常時側にいて、スタン
　　　　　　　　　　ド有り無し両方の近接戦闘に抜群の能力を発揮するガンマンのボディーガードも従えて。中距離では、
　　　　　　　　　　比類ない攻撃力と索敵能力を発揮する味方も存在し、そして、彼らを有機的に配置、活用できる参謀
　　　　　　　　　　もついている。街のみんなも、好意的で、精神・物量の支援は問題ない。
　　　　　　　　　　　現時点ではあの街のアジトにいるのが一番安全なのだ。
　　　　　　　　　　「昔話をしようか」
　　　　　　　　　　　機先を制して、グリマルディーニ老は話を変えた。
　　　　　　　　　　「あの年は、我々が最後にしてやられた年ということになろうかな。今はもうない、サンツゥッツァ・
　　　　　　　　　　ファミリーというのが出張ってきてな。結構な出入りになったよ。うちからも、増員が３０のところ
　　　　　　　　　　２０やられたしな。ポルポさんの直属がもう、根絶やしにされて。残ったのも、ほとんどが病院送り
　　　　　　　　　　で、その頃スタンドがちょうど発現して、うまく立ち回れた小娘のブチャラティひとりが、かすり傷
　　　　　　　　　　で済んだものだよ」
　　　　　　　　　　　自分がここへ回される直前のことだ。もう、２，３年前になろうか。
　　　　　　　　　　「ポルポさんも、なんとかやつらを撃退したはいいが、市内で派手にやりあったものだから、責任を
　　　　　　　　　　取らされることになって、ムショに入ることになったのさ。まあ、幹部としての収監だから、向こう
　　　　　　　　　　も気を遣ってくれて、特別待遇にはしてくれたがね。こっちも、まだ残党が本拠地の方に残ってるっ
　　　　　　　　　　てことで、ポルポさんを守る必要があったものだから、これ幸いと国家権力に守ってもらうことにして」
　　　　　　　　　　　それで、あの特別室住まいということになったのだ。フーゴは表情を消したまま肯いた。
　　　　　　　　　　「向こうも、無用のトラブルは避けたいから、そうそう失礼な扱いはしないと判ったし。メンツがあ
　　　　　　　　　　るから収監中に殺られる心配はないし」
　　　　　　　　　　「……医療刑務所ですか！？」
　　　　　　　　　　　意味するところに思い当たって、フーゴは叫びだしていた。
　　　　　　　　　　「年寄りの昔話は役に立つだろう？」と、老人は片目をつぶって見せた。
　　　　　　　　　　「恩に着ますよ！　グリマルディーニのおやじさん！」
　　　　　　　　　　「タルティーニを呼ぼうか？」
　　　　　　　　　　「お願いします！」
　　　　　　　　　　　勢い込んで、フーゴは今後のネアポリス支部を巻き込んだ大芝居の筋を書き始めた。
　　　　　　　　　　　ブチャラティを女神とあがめる若頭のほうも、異存のありようわけがない。
　　　　　　　　　　「姐さんのよいように、あたしらをどうとでもお使いくだせえ」

　　　　　　　　　　　フーゴは根回しを終えてアジトに帰り着いた。やはり、このところのブチャラティの不調で、雰囲
　　　　　　　　　　気が沈んでいる。ミスタさえも物音を立てないように気をつけて歩いているし、ナランチャはまた言
　　　　　　　　　　われる前にペリエを買い足しに行ってきたようだ。アバッキオは夕食の仕込みに入ったようで、体に
　　　　　　　　　　いいもの、体にいいものと呟いている。
　　　　　　　　　　「ただいま」と、帰着の挨拶のあとは、フーゴはことさらに溜め息を吐いて見せた。
　　　　　　　　　　「景気の悪い顔してるなよ」
　　　　　　　　　　　ミスタが笑って見せた。その顔も、心なしか暗い。
　　　　　　　　　　「グリマルディーニのボンボンが、やってくれました」
　　　　　　　　　　「え〜なにを？　今度は飲酒運転でリベルタ橋でもぶっ壊した？」と、ナランチャが乗ってくる。
　　　　　　　　　　「惜しい。広場のカルロ３世記念像です」
　　　　　　　　　　　これは帰りがけに入ってきた本当の情報。まったくできた息子さんだ。なにか口実を、と言ってい
　　　　　　　　　　　た矢先だから、すぐに頂くことにして、帰る足で弁護士と警察に寄って根回しを済ませてきた。
　　　　　　　　　　「うわーっ、これは痛い」
　　　　　　　　　　「親父さんでもかばいきれないぜ」
　　　　　　　　　　　ナランチャとミスタが二人して顔を見合わせて頭を抱えるしぐさをした。
　　　　　　　　　　「それでどうなった？」
　　　　　　　　　　　ブチャラティも奥から起き出してきた。
　　　　　　　　　　「その後さらに、事故処理の警官とも立ち回りをやってくれて。悪いことに観光客も引っかけて、全
　　　　　　　　　　治３週間ぐらい」
　　　　　　　　　　「これは、食らうよな」
　　　　　　　　　　「アバッキオ、どのくらい行くと思う？」とミスタは首を伸ばして元警官にご意見を聞く。
　　　　　　　　　　「いい弁護士がついて、裁判がうまく流れても半年やそこらは行くだろうよ」
　　　　　　　　　　　アバッキオはキッチンに立ったまま背中で答えた。
　　　　　　　　　　「弁護士はベッリーニをつけます」
　　　　　　　　　　「お、上等」
　　　　　　　　　　「そういうことで、ブチャラティ、あんたにムショに入ってもらいます」
　　　　　　　　　　「「「な、なんだってェー！？」」」
　　　　　　　　　　　見事に３人が異口同音だった。
　　　　　　　　　　　胃を押さえていたブチャラティ本人だけが出遅れた。
　　　　　　　　　　「そういうことに落ち着いたのか」
　　　　　　　　　　「そんな取引があるかぁーッ！？　フーゴ、おまえ、グリマルディーニにどんな条件出されたんだよッ！？」
　　　　　　　　　　　肉切り包丁をぶっ提げまま、キッチンからアバッキオが足音高く寄って来た。
　　　　　　　　　　「そりゃもう高度な取引で。ブチャラティはもう絶対入院させた方がいい体調ですから。当然、医療
　　　　　　　　　　刑務所です。我が国の刑務所は人道的なことこの上もないそうですからね。今、ここのファミリーの
　　　　　　　　　　中でムショに入るにこれより最適な人材はいないって位です。グリマルディーニのじいさんは、息子
　　　　　　　　　　をお縄付にはしないでくれと涙を流してぼくに頭を下げてくれましたし。これ以上ない恩を売ってお
　　　　　　　　　　けましたよ。
　　　　　　　　　　　警察の方も、形だけでもここの幹部の片腕をぶち込んだ実績を出せるってんで大喜びで、できるだ
　　　　　　　　　　けの便宜は図ってくれるそうです。当然一番いい個室で、ぬいぐるみからファッション雑誌まで持ち
　　　　　　　　　　込みは無制限に許可だそうで。食事も吟味したのを出してくれるそうだし、面会も毎日でもＯＫとか。
　　　　　　　　　　まあ、ガラス越しになりますけどね。ポルポさんの前例があるから、あんな感じで行くと思います」
　　　　　　　　　　　しれっと言ってのけたフーゴに、一同は安堵のため息を漏らした。
　　　　　　　　　　「済まない、気を遣ってもらって」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが頭を下げた。
　　　　　　　　　　「いいえ、やっちゃったのは実際チェーザレですから」
　　　　　　　　　　「ほんとあれは不肖の息子だよな」とミスタが頭を振ると、
　　　　　　　　　　「グリマルディーニのじいさんもおちおち楽隠居できねえって」と、ナランチャが笑った。
　　　　　　　　　　「だからあんたは、裁判ではベッリーニの言うとおりにはいはい言って、さっさと病院に入って、ゆっ
　　　　　　　　　　くり体を治してきてください！　あ、でも出ること前提ですから、あんまり太らないでくださいね」
　　　　　　　　　　と、フーゴはいたずらっぽい笑みを浮かべて見せた。
　　　　　　　　　　「解った。本当に、ありがとう、フーゴ」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが、やつれた顔にやっとの微笑みを浮かべて言った。
　　　　　　　　　　「そんで、ぼくたちは、ブチャラティの留守を守って、チェーザレのお守りをしつつ、やつが取り返
　　　　　　　　　　しのつかない失敗をしてくれることを祈りましょう」と、フーゴは皆を見回して明るく言ってのけた。
　　　　　　　　　　「なに？」
　　　　　　　　　　　ブチャラティの肩に手をやっていたアバッキオが眼を上げた。
　　　　　　　　　　「ええ、ブチャラティの留守の間、ネアポリス全市はチェーザレが仕切ります。ポルポさんのご指示
　　　　　　　　　　です」
　　　　　　　　　　「おまえ、正気か？」と、ナランチャが素っ頓狂な声を出す。
　　　　　　　　　　「ええ。ブチャラティに身代わり出頭してもらって実権を握っておいて、その留守になにかやらかし
　　　　　　　　　　たら、もう絶対出世の目はないでしょうね、いかにグリマルディーニさんが頑張っても。組織は厳し
　　　　　　　　　　いですよね？」と、天使の顔で青い眼を妖しく煌めかせる。
　　　　　　　　　　「おまえ、悪魔だな」口笛を吹いてミスタが言った。
　　　　　　　　　　「さあ？」
　　　　　　　　　　「こんな子に育てた覚えは……」ぷっと吹き出して、ブチャラティがとうとう笑い出した。
　　　　　　　　　　　……ああ、久し振りに笑ってくれた。
　　　　　　　　　　　皆、静かに感動して、その笑顔を貴重なものとして見守っていた。自分たちを救ってくれた、ネア
　　　　　　　　　　ポリスの守護女神。このひとの笑顔のためなら、自分たちはなんでもやるだろう。このとき、彼らの
　　　　　　　　　　心は一つだった。


２

　　　　　　　　　　　ブチャラティの刑は８ヶ月と確定した。収監に当たっての健康診断で、軽い潰瘍が胃に発見されて、
　　　　　　　　　　医療刑務所へ入ることになる。打ち合わせ通り。
　　　　　　　　　　「ま、ゆっくりして体を治してください。こっちはこっちで何とかやりますから」
　　　　　　　　　　　フーゴは天使の笑顔を惜しげもなく振りまいて入所の挨拶に来た。
　　　　　　　　　　「ねーさん、欲しいものがあったら遠慮せず言えよ、なんでも差し入れてやっから」と、ミスタがのん
　　　　　　　　　　きに言うと、
　　　　　　　　　　「人間だけはムリだけどさー」と、ナランチャが引き取って、二人でゲタゲタ笑い出す。
　　　　　　　　　　「ブチャラティ……」
　　　　　　　　　　　黙ってアバッキオが進み出ると、皆、気を利かせてその場を離れた。
　　　　　　　　　　「本当に大丈夫なんだな？」
　　　　　　　　　　「ああ、いい機会だから全身診て貰うことにするさ」
　　　　　　　　　　「欲しいものがあったら」
　　　　　　　　　　「ああ、ああ」と、背に負ってきた引っ越しのような入院荷物を見て笑いを堪える。
　　　　　　　　　　「留守を頼む」
　　　　　　　　　　　少し微笑んだ顔が、迎えるように上を向く。
　　　　　　　　　　「任せろ」と、口角を上げて見せた唇が吸い寄せられるように重なる。
　　　　　　　　　　　この辺は、イタリア人は刑務官でも気を利かせて二人の気の済むまで一緒にいさせてくれるのだっ
　　　　　　　　　　た。

　　　　　　　　　　　収監後、さまざまな検査結果を知らされて、自分がやっぱりただの体でなかったことを知ってブチャ
　　　　　　　　　　ラティは安堵の溜め息を吐いた。そのあとで。
　　　　　　　　　　　……フーゴはやっぱり気づいてたかな？
　　　　　　　　　　　塀の中と外とで、一つの事実を隠すための偽装工作が別々に始まった。


３


　　　　　　　　　　「ブチャラティやっぱ胃潰瘍だって？　今日もなんか点滴引きずってた」と、面会に行って来たナラン
　　　　　　　　　　チャが報告する。
　　　　　　　　　　「おめーらが心配ばっか掛けるからだ」と、愛するひとがいなくても手抜きをしないアバッキオがフ
　　　　　　　　　　ライパンにマディラ酒を入れて仔牛肉に絡めるソースを煮詰めている。
　　　　　　　　　　「アバッキオの料理食ってて栄養悪いってことはないだろうがよー」 　メシ時を察してミス
　　　　　　　　　　タが帰ってきた。肩のところにスタンドを留らせている。
　　　　　　　　　　「ヒャーいい匂いダゼ」
　　　　　　　　　　「アバッキオいつもいい飯食わしてくれてアリガトヨー」
　　　　　　　　　　「でも、今までそんなことなかったのになー」と、ナランチャが鋭い勘を見せる。
　　　　　　　　　　「あれだよ、虫歯も、産まれてからずっとは虫歯菌は持ってねーの。親が、キスしたり、口移しでも
　　　　　　　　　　の食わせたりすると移って虫歯になんだってさ」と、またまたミスタがどこで聞き及んできたのか、
　　　　　　　　　　怪しげな説を開陳する。
　　　　　　　　　　「へえー」
　　　　　　　　　　「胃潰瘍の菌も、なんかいるんだってさ。ブチャラティは、最近までは持ってなかったんだろ、きっ
　　　　　　　　　　と」
　　　　　　　　　　「なんだよ、最近までって」
　　　　　　　　　　　ナランチャが目を白黒させる。
　　　　　　　　　　「アバッキオ、おめーは結構胃ィ痛いヤツだよなー？」
　　　　　　　　　　　坐ったままで、椅子の背越しに首を反らせてミスタはキッチンのアバッキオに声を掛けた。
　　　　　　　　　　　図星を突かれてアバッキオは口ごもる。
　　　　　　　　　　「……あ、あァ、そういう傾向はある」
　　　　　　　　　　「アバッキオが伝染（うつ）したんだぜ、胃潰瘍菌」
　　　　　　　　　　「バッ、バッカヤロー！」
　　　　　　　　　　「もっとすごい菌とか持ってたりして」
　　　　　　　　　　「いやーっフケツッ！！」
　　　　　　　　　　「おめーらッ！　めしはいらねーのかッ！？」
　　　　　　　　　　　真っ赤になったアバッキオが怒鳴り散らして、アジトは騒然としはじめた。
　　　　　　　　　　　……バカのいない国に行きたい。
　　　　　　　　　　　フーゴは一人で報告書を書きながら、つくづく思っていた。

　　　　　　　　　　「なんか最近ずっとブチャラティ、メンカイシャゼツなんだぜ。もしかしてジュービョーなのかな？」
　　　　　　　　　　　ナランチャがしょげている。
　　　　　　　　　　「おや、そうかい。胃潰瘍はなにより安静にして、心配がないようにしなくちゃいけないからね」
　　　　　　　　　　　街のオバちゃんたちも、興味津々で彼らの守護女神の病状を知りたがっている。
　　　　　　　　　　「ルイサさんもおれ達がブチャラティに心配掛けるからブチャラティが病気になったと思ってるのか
　　　　　　　　　　い？」
　　　　　　　　　　「どうかね？　あたしは、あと８ヶ月きっかりで治る病気なんじゃないかと思うね」
　　　　　　　　　　「おや、あんたもかい？」と、横から隣の店のおかみが割り込む。
　　　　　　　　　　「女なら思い当たるもんさね」
　　　　　　　　　　「やっぱりねー。そろそろじゃないかと思ってたんだよ」
　　　　　　　　　　「アンナさん、女のそーゆー内緒話が男を傷つけるんだぜぇー？」
　　　　　　　　　　「あはは、子供には解らない話さ」
　　　　　　　　　　「またそういうこと言うゥー！」
　　　　　　　　　　　……おやおや。この分では街のオバちゃん連中にはもうバレバレかもしれないな。
　　　　　　　　　　　フーゴは首をすくめて来た道を引き返した。

　　　　　　　　　　「ブチャラティが、手術の同意書にどうしてもサインしないそうです」
　　　　　　　　　　　グリマルディーニの私邸を訪れたフーゴは、ほとほと困った顔を素直に出して見せた。
　　　　　　　　　　「それは、中絶手術ということかね？」
　　　　　　　　　　　グリマルディーニ老は、声をひそめた。フーゴも、カップを取り上げながら、黙って肯く。
　　　　　　　　　　「まぁ、この国はそういう頭の固い人間が多いものじゃからのう。なら、こちらにも手がある。昔か
　　　　　　　　　　ら、配下に強情な女はおったものじゃから、なんとかこちらも我慢して待って身二つにさせて、養子
　　　　　　　　　　に出したことなど数えるまでもなく覚えがあるさ」
　　　　　　　　　　「お任せしていいですか？」
　　　　　　　　　　　フーゴが上目遣いになる。ここへきて、この天才少年は年の功というものに対する尊敬の念を以前
　　　　　　　　　　より強くしている。
　　　　　　　　　　「まあ、刑務所の方に話を通してみるさ」
　　　　　　　　　　　からからと笑ってみせるグリマルディーニ老は、幾分若返ったようにも見えた。
　　　　　　　　　　「それで、息子さんの件なんですが。せっかく落ち着いてた南の町同士の小競り合いを再燃させてく
　　　　　　　　　　れまして」
　　　　　　　　　　「ほい、来た」
　　　　　　　　　　　グリマルディーニ老が額に手を当てた。
　　　　　　　　　　「そちらの若い衆で見回りに立って貰えますか？　とりあえず夏祭りまで。あれをやり過ごせば当分
　　　　　　　　　　は大きな暴動にまでなることはないとは思うんですけど」
　　　　　　　　　　「あそこはなあ！　昔はカラビニエリが出張ってきて発砲するほどの大騒ぎになったものよ」
　　　　　　　　　　「今はそんなの通用しませんから。頼みますよホントに……」
　　　　　　　　　　　困り果てた顔をしてみせるフーゴだった。　

　　　　　　　　　　「ちょっと、面会謝絶ってのはいったいどういう意味なのか、おれに教えてくれねーか、天才さんよ？」
　　　　　　　　　　　　すっかりやさぐれてしまったアバッキオが、椅子にがっくりと坐り込んで頭を抱えて言った。
　　　　　　　　　　「読んで字の如しです。ご厚意は有り難いけど面会はお断りしますって」
　　　　　　　　　　「ありがてぇけど逢えねえってのが解んねえんだよッ」
　　　　　　　　　　　もう、入院してから３ヶ月だ。いよいよ、外見が隠しきれなくなってきたのだろう。しかし、アバッ
　　　　　　　　　　キオの方は恋しさが募る頃だ。それは気が揉めることだろう。
　　　　　　　　　　「結構キツイ薬を使ってるって聞きますから、そっちのせいでしょう。顔が異常にむくんだり、髪が
　　　　　　　　　　抜けてしまったり。あのひと、小顔をじまんに思ってましたからねえ。ちょっと、あんたには見せら
　　　　　　　　　　れないと思ってるんじゃないでしょうか。おんなのひとならみんなそういったもんでしょう？」
　　　　　　　　　　「そうか……」と、かきむしる髪は、憎らしいほど艶やかなプラチナ・ブロンドだ。禁欲状態が続く
　　　　　　　　　　と本能が男っぷりを上げるというのはあながちトンデモ学説ではないかも知れない。
　　　　　　　　　　「どっかの神話みたいに、ムリヤリに見たりしたら、それはもう嘆いて嘆いて、病院の屋上から身を
　　　　　　　　　　投げたりするかもしれませんね」
　　　　　　　　　　「おいおい、脅かすなよ」と、ぎょっとして顔を上げる。
　　　　　　　　　　「いい子にして出てくるのを待っててくださいよ」
　　　　　　　　　　　フーゴは微笑みを作ってみせる。
　　　　　　　　　　「ああ……済まねぇな、つまんねー話聞かせて」
　　　　　　　　　　「もう慣れました」
　　　　　　　　　　　その辺は、フーゴも疲れた顔は隠さないようになっている。


４


　　　　　　　　　　「もおーあのバカのお守りはイヤだッ！」
　　　　　　　　　　　９月の初め。ナランチャがアジトに戻るなり、持っていたゴーグルをソファーの上に叩きつけた。
　　　　　　　　　　「はいはいおれもー」と、ミスタが右手を挙げて同意する。
　　　　　　　　　　　顔を合わせるなりジゴロ扱いされて、二度と口を利いてやるかとお供もサボタージュしているアバッ
　　　　　　　　　　キオが、黙ってそれを許した。
　　　　　　　　　　「なぁーフーゴ、ブチャラティいつ出てくんの？」
　　　　　　　　　　　ナランチャがカレンダーをめくり始めた。ブチャラティ出所予定日に印を付けそうな勢いだ。
　　　　　　　　　　「クリスマスまでには出てくるよ」
　　　　　　　　　　　出産の予定日ならもう解っている。出てくるのは、そのあと１ヶ月ほどもして、体調が復してから
　　　　　　　　　　だ。
　　　　　　　　　　「えぇー信じらんねえ！　この秋いっぱいあのバカの面倒みんの！？　チャッタモーネのやつらのや
　　　　　　　　　　らなくてもいいケンカの原因はアイツなんだろ？　なんであんなの野放しにしとくんだよ！？」
　　　　　　　　　　「ナランチャ、ブチャラティが何度も言ってると思うけど」
　　　　　　　　　　　溜め息を吐いてフーゴがたしなめようとすると、
　　　　　　　　　　「そういうの全部口に出して言ってたら、この業界、長生き出来ねーぜ」と、ミスタが引き取って言っ
　　　　　　　　　　た。
　　　　　　　　　　　しかし、その言葉は皆の意見の代弁なのであった。
　　　　　　　　　　「まあ、あともうせめて１回なにかやらかしてくれれば、もう金輪際彼とは付き合わなくて済むこと
　　　　　　　　　　になると思うんだけどね」
　　　　　　　　　　　フーゴは強かに計算している。グリマルディーニの家の中でも、チェーザレを見放してタルティー
　　　　　　　　　　ニやブチャラティを支持するものが増えてきている。もう十分だ。川向こうで大人しくしておればよ
　　　　　　　　　　いものを、こちらにまで出張ってきて幹部面するから、こちらの街の連中にまでいやがられ始めた。
　　　　　　　　　　　……ホントに、子供を持つって大変……。
　　　　　　　　　　　困り顔で孫ほどの年のフーゴに詫びながら、いろいろと対処の指示を出すグリマルディーニ老が哀
　　　　　　　　　　れに思えてくる。あんなのに自分の跡を継がせるどころか、築き上げたものを全て他人に奪われてし
　　　　　　　　　　まうというのもなかなか辛い老後かもしれない。いたわってやるべきかも、という思慮がフーゴには
　　　　　　　　　　生まれ始めている。まったく、いろいろ勉強になることだ。


５


　　　　　　　　　　「こちらはとくに不満はない。看護師たちはみな優しくしてくれる。おまえが届け物をしに来てくれ
　　　　　　　　　　ると、彼女たちが浮き足立ってるからよく判る。おまえがいつもキメて現れるからこちらも鼻が高い。
　　　　　　　　　　本当は、看護師なんか無視して、壁もガラスもジッパーで開けてしまって、おまえに逢いたい。この
　　　　　　　　　　姿を見られるのは堪らないけどね。きらわれてしまうのが怖いから、逢わないでおく。絶対、絶対治
　　　　　　　　　　してもとの姿に戻すから、それまで浮気をしないで待っていて欲しい。愚かしいようだがわたしはそ
　　　　　　　　　　ればっかり心配している。
　　　　　　　　　　　ずいぶん涼しくなってきているから気をつけて。雨の日はおまえが苦しんでいないかそればかり気
　　　　　　　　　　に掛けている。もう大丈夫になっただろうか。辛かったら、ナランチャにでも声を掛けて泊ってもらっ
　　　　　　　　　　たらいい。あの子は考えなしのように見えるけれども、直感で正しいことを見抜く力に優れているか
　　　　　　　　　　ら、戦いの時だけでなく、頼ってみていいと思う。ミスタの明るさも、心を軽くしてくれることと思
　　　　　　　　　　う。それは、もう解っていると思うけど。
　　　　　　　　　　　あんまり面会謝絶が続くので、こちらも申し訳なくなって手紙を書いてみた。もし負担にならない
　　　　　　　　　　のなら、返事を書いてみて欲しい。経過自体は順調だ、それは本当。出所の日取りは解らないが、後
　　　　　　　　　　ろにずれ込むことはない。詳しく決まったらすぐ知らせる。愛を込めて。フロラ」
　　　　　　　　　　　便せんに何度もキスをしていたアバッキオは、猛然とデスクに向かうと、ペンを走らせ始めた……。
　　　　　　　　　　「逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい
　　　　　　　　　　逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい」
　　　　　　　　　　　ただそれだけでＡ４サイズの紙を１枚埋めてしまって、ただの物量攻撃。
　　　　　　　　　　「金輪際、神掛けて、浮気などしていない。そこは安心していてほしい」「待ってる」
　　　　　　　　　　　と、あとはただ伝えたいことを絞り出しただけの手紙を、便せんに詰め込んで、翌日にはもう渡し
　　　　　　　　　　に行く。それも、刑務官経由になる。
　　　　　　　　　　　ブチャラティは、便せんを開いてみて、角張った字が乱れながらも同じ言葉ばかり綴っているその
　　　　　　　　　　全体としての迫力に見入ってしまう。畳んだ便せんを、胸に押し当てる。
　　　　　　　　　　「済まない……」
　　　　　　　　　　　漏れる言葉は、謝罪だった。

　　　　　　　　　　「運動不足だ。一応は囚人なので、病院の中を歩き回ることもそうそうできない。ずいぶん太った気
　　　　　　　　　　がする。前のスーツが入らないんじゃないかと不安だ。もしかして、出所するときにはスカートを差
　　　　　　　　　　し入れてもらわないといけないかも知れない。ウエストではくのではない、ジャンパースカートとい
　　　　　　　　　　うヤツを。
　　　　　　　　　　　ほんとうは、欲求不満。逢いたい逢いたいと書いたおまえの前の手紙を毎日暇があれば見ている。
　　　　　　　　　　　おまえがものをいう度にのど仏が上下するのをここへきて何度も思いだしている。おまえは胸のと
　　　　　　　　　　ころの開いた服を着るから、その辺が夏には日焼けしているのだよ。今年も紐の跡がついただろうか。
　　　　　　　　　　とうとう見られなかった。出たらすぐそこのところにキスマークを１０ほども付けてやろう！
　　　　　　　　　　　ああ、畜生。なんだって女の二十歳の誕生日をひとのせいでムショで迎えなくちゃならないんだろ
　　　　　　　　　　　う！　チェーザレには絶対この礼をしてやる！　噂はいろいろ聞いてる。フーゴといろいろ相談も
　　　　　　　　　　して、出てから一気に追い落としだ。
　　　　　　　　　　　おまえも、他の皆にも、もう絶対ひとの身代わりで収監なんてさせない。おまえはよく昔、一ヶ月
　　　　　　　　　　　も入院を耐えられたものだと思う。やはり忍耐強いんだと思う。またおまえの美しいところをひと
　　　　　　　　　　　つ見つけられたから良かったと思うことにする。キス１００回とともに。フロラ」


６


　　　　　　　　　　　その日、そこではＢ．Ｂ．と呼ばれていたブチャラティは腰が砕けるような激痛で目覚めた。予定
　　　　　　　　　　日よりは少し早い。あまりに暇なので前日階段を２０往復ほどもして看護師に叱られたのが効いたら
　　　　　　　　　　しい。生育は順調だから、多少早まっても大丈夫だろうとたかをくくっていた。何より、これ以上不
　　　　　　　　　　自由な生活を続ける気がなかった。
　　　　　　　　　　「これは正真正銘の陣痛だ。さっさと分娩室へ連れてってくれ」
　　　　　　　　　　「なにを言ってるんです、まだ出口が開いちゃいませんよ。陣痛の間隔がもっと短くなって、口が開
　　　　　　　　　　いたらです」と、すげなくあしらわれ、タオルを噛んでベッドの上をのたうち回る羽目になる。
　　　　　　　　　　「まぁーこんな細い腰！　赤ちゃんの頭が通るかしら！」なんて大きな声で言われて、ポルポに色気
　　　　　　　　　　のない体つきと言われた以来の屈辱を噛みしめる。やっぱり女性のお尻は大きいに越したことはないん
　　　　　　　　　　じゃないか、と、スレンダーな体型を褒めてくれたアバッキオに八つ当たりの怒りを向ける。
　　　　　　　　　　　ほんとに、こんな、公にできない孤独な戦いを世の母親はみんな経験したかと思うと、今更ながら
　　　　　　　　　　に感謝し、尊敬の念がこみ上げる。自分の母親にも、今度逢ったら優しくしてあげよう……。

　　　　　　　　　　さんざん苦しんだ挙げ句、やっと分娩台に引き上げられたときには、もう体力が残っていなかった。
　　　　　　　　　　１年前には毎日ネアポリス市内を徒歩でかけずり回って平気だったのに。まったく、入院生活で鈍っ
　　　　　　　　　　てしまっていた。出たらリハビリが必要だ。……などと思いをめぐらせている間にも、痛みの周期が
　　　　　　　　　　押し寄せる。ああ、帝王切開という選択もあったなとまた思考を逃がす。とにかくなにか別なことを
　　　　　　　　　　考えていたい、いや、考えられない。いたい、いたい、いたい……。
　　　　　　　　　　「はい、いきんでいいわよ」と、やっと許可が出ても、いきむということがどういうことだか忘れて
　　　　　　　　　　しまっている。かけ声も虚しい。
　　　　　　　　　　　早く出ていって。この９ヶ月の共生者。おまえのおかげでみんな大変な目に遭った。それでも、お
　　　　　　　　　　まえはこの世に生まれ出ることを望まれた。そのことを忘れないで。その持てる能力でなにか世の中
　　　　　　　　　　にお返しをして。罪深いこの身だけれど、命を生み出すことを許されたのなら、わたしはそれに挑み
　　　　　　　　　　たい。過去から繰り返されてきた営みに、自分も加わることができるから。自分が生きてきて、為し
　　　　　　　　　　たことが一つでもこの世に残るなら。

　　　　　　　　　　　わたしはそれをやってみたい。

　　　　　　　　　　　息を吐ききって、ブチャラティはそれを娩出した。
　　　　　　　　　　　微かな声が響いた。産声が高いラの時は女児の印と誰かが訳知りに話していた。これは高い方のラ
　　　　　　　　　　だろうか……。
　　　　　　　　　　「死産です。女児。１９時２６分、記録して」
　　　　　　　　　　　産科医の声が続く。
　　　　　　　　　　「ちょっと、待って」
　　　　　　　　　　　慌てて、苦しい息の下からブチャラティは異議を申し立てた。
　　　　　　　　　　「声が聞こえた。死んでないだろう！」
　　　　　　　　　　「死んでます。時間がかかりすぎたのね」
　　　　　　　　　　「嘘だ！」
　　　　　　　　　　　ブチャラティは目を凝らす。顔を見れば、見れば判る。嘘を吐いている顔か……目が霞む。汗が目
　　　　　　　　　　に入ったのだ。それは持ち去られる。赤黒い固まり。動いていない。半日彼女が格闘して生み出した
　　　　　　　　　　彼女の大切な命……。
　　　　　　　　　　「待て、連れて行くな！　それはわたしの……！」
　　　　　　　　　　「諦めなさい。どうせ養子に出す約束でしょ」
　　　　　　　　　　「後産出ました」
　　　　　　　　　　　冷静な助産師の声が割り込む。
　　　　　　　　　　　さらに胎盤が降りる気配がして、ブチャラティはのたうった。

　　　　　　　　　　　目が覚めると、もう深夜だった。ぎっちりコルセットで固定された腹は、もうはや平らになってい
　　　　　　　　　　た。ベッドの脇には、なにもない。ここに、小さな愛しいものが並ぶ日を、密かに待ち望んでいたの
　　　　　　　　　　に。

　　　　　　　　　　　……わたしはかつてひとの命を奪った。

　　　　　　　　　　　決して望んでやったことではなかったが、それは、ひとがやって良い行いではなかった。

　　　　　　　　　　　ひとを欺き、ひとを陥れた。

　　　　　　　　　　　……望んでやってことではありません。楽しみのためにやったのではありません。そうしなければ、
　　　　　　　　　　生きていけなかったから！
　　　　　　　　　　　必死で彼女は神に祈った。心の底から行いを悔いた。
　　　　　　　　　　　それは、もしかしたら、この８ヶ月のうちにやっておかねばならないことだったのかも知れなかっ
　　　　　　　　　　た。

　　　　　　　　　　　そして、もう、遅かった。

　　　　　　　　　　　はじめて愛した人との間に授かった命は、もう、奪われてしまったあとだった。


７


　　　　　　　　　　　クリスマスを前に日曜が来る度開ける、アドヴェント、要するにクリスマスへのカウントダウンの
　　　　　　　　　　カレンダー。今年は、ブチャラティの出所のカウントダウンも兼ねてフーゴは買ってしまった。その、
　　　　　　　　　　２つめを開けた翌日に、ブチャラティは出所する。
　　　　　　　　　　「いいですね、もう一度復唱してください」
　　　　　　　　　　　アジトでは、フーゴが３人を前に格好を付けて、最後の確認作業をしている。
　　　　　　　　　　「ひとつ！　ブチャラティに逢っても、絶対、太ったって言いません！」
　　　　　　　　　　「ふたつ！　ブチャラティに逢っても、絶対、チェーザレを殺ろうって言いません！」
　　　　　　　　　　「みっつ！　ブチャラティがフラットに着いたら、速やかに解散して休ませてあげます！」
　　　　　　　　　　「よろしい。みなさん言いつけ通りにできますね？」
　　　　　　　　　　「「「おう！」」」
　　　　　　　　　　　固く約束してブチャラティのお迎えに出かける一同だった。アジトの前には、タルティーニが一番
　　　　　　　　　　いい車を出して準備している。
　　　　　　　　　　「じゃあ、行きましょうか」
　　　　　　　　　　　　皆、ご機嫌で刑務所前に繰り出した。
　　　　　　　　　　「お世話になりました」
　　　　　　　　　　　ドアを開けて出てきたのは、待ち続けた小さな顔。髪はちゃんとカットしてあるし、白地のスーツ
　　　　　　　　　　も以前のまま。
　　　　　　　　　　「ブチャラティ、なんかきれいだぜ……」
　　　　　　　　　　　止める間もなく、ナランチャが呟いた。
　　　　　　　　　　「おれより先に言うんじゃねえッ」
　　　　　　　　　　　アバッキオが頭をこづいた。
　　　　　　　　　　「ねーさん、しっかり療養したみてーだな」と、ミスタがにやにやした。
　　　　　　　　　　「いきなりお世辞で迎えてくれてどうもありがとう。世話を掛けたな」と、ブチャラティは静かに笑っ
　　　　　　　　　　た。やけに透明な笑顔だった。
　　　　　　　　　　「お疲れ様でした。さ、帰りましょう」
　　　　　　　　　　　ナランチャが、キョロキョロと辺りを見回して言った。
　　　　　　　　　　「荷物こんだけ？」
　　　　　　　　　　「ああ、少しずつ持って帰ってもらっていたから」と、何気なくブチャラティが答える。退院が決まっ
　　　　　　　　　　てからは、アバッキオが日参して今までの鬱憤を晴らしていた。
　　　　　　　　　　「他にないの？　お土産」
　　　　　　　　　　　ナランチャの眉が曇る。らしくない。
　　　　　　　　　　「特にないが……」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが怪訝そうになる。
　　　　　　　　　　「ムショから出るときにどんな土産があるってんだよ、ナランチャ」と、ミスタが明るくその背をど
　　　　　　　　　　やしつけた。
　　　　　　　　　　「帰ろーぜ」
　　　　　　　　　　「姐さん、よく元気におなりで……」
　　　　　　　　　　　タルティーニが鼻を啜っていた。


８


　　　　　　　　　　　チェーザレは早速やってくれた。
　　　　　　　　　　　その日の午後、挨拶に出向いたグリマルディーニの屋敷で顔を合わせるなり、
　　　　　　　　　　「なんだ、もう出てきやがったのか」とのたまった。瞬時に身構えるアバッキオをフーゴが抑え、タ
　　　　　　　　　　ルティーニが代わりに進み出た。
　　　　　　　　　　「若旦那、ブチャラティさんは、若旦那の代わりにムショに入ってくださってたんですぜ？　もっと
　　　　　　　　　　いいご挨拶の仕様がありますでしょう」
　　　　　　　　　　「ああ、親父の金で特別室で毎日いいもん飲み喰いしてたんだってな。胃潰瘍は治ったのかい、ああ？
　　　　　　　　　　『ベアトリーチェ様』」
　　　　　　　　　　「おかげさまで。少し太ったぐらいだ」
　　　　　　　　　　　ブチャラティは、慣れているので余裕であしらった。
　　　　　　　　　　「そりゃ結構。シマの見回りはちゃんとやっといたぜ。あんたが甘やかすからつけあがって、チャッ
　　　　　　　　　　タモーネのやつらがすこーしばかり暴れたが、親父が兵隊出して締めといてやったから感謝しな」
　　　　　　　　　　「おや、わたしが受けた報告と少し違うようだが」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが目を光らせた。
　　　　　　　　　　「おおかた怖いねーちゃんに不始末を報告できねえシャバイ坊主が書き換えてんだろ。手前の都合の
　　　　　　　　　　いいようにな」
　　　　　　　　　　「３人死んだってのはおおげさな報告だったのかな？　フーゴ」
　　　　　　　　　　　ブチャラティの声が低くなる。
　　　　　　　　　　「新聞報道もされましたよ。コピー出しましょうか？　今」
　　　　　　　　　　「新聞には出てねえけどグリマルディーニの若いのも一人やられたぜ」
　　　　　　　　　　　アバッキオが吐き捨てた。顔見知りの、気のいい男だった。病院送りも両手両足ほど。もともと仲
　　　　　　　　　　の悪い町内同士だったのが久々の出入りで、加減も忘れて盛り上がってしまったのだ。
　　　　　　　　　　「知らねえな。どっちみち、下っ端なんざファミリーのために死んで当然だろ？」
　　　　　　　　　　「わたしは病院に初めて長く入って気が弱くなったのかな、とても、もったいながりになったんだ」
　　　　　　　　　　　ブチャラティは、静かに笑って見せた。
　　　　　　　　　　「ひとが死んで当然というものいいは、耐えられない」
　　　　　　　　　　「ブチャラティ、そりゃ、病院にＵターンしたほうがいいぜ。おれたちゃマフィアなんだ、殺してナン
　　　　　　　　　　ボよ。部下の命をもったいながっていちゃ、お話しになんねえ」
　　　　　　　　　　　顎を上げて、チェーザレはせせら笑った。
　　　　　　　　　　「チェーザレさん、あんた、そういうひとだったかな？」
　　　　　　　　　　　ブチャラティは、忍耐強く問いかけた。
　　　　　　　　　　「おれはただ待っていたのよ。親父が引退し、おれにこのうちの実権を渡す日を。それが、なんで中
　　　　　　　　　　学にも行かないで酒場をかけずり回ってたこ汚いメスガキなんかにこのネアポリス全市の実権まで渡
　　　　　　　　　　さにゃならんのよ？　ポルポの裁定は下った。ネアポリスはオレのもんだ。こんな大事な時期にのん
　　　　　　　　　　びり病院になんぞ入ってる方が悪いのよ」
　　　　　　　　　　「それはおまえの身代わりだろうがッ！」
　　　　　　　　　　　アバッキオを押しとどめるのでフーゴは精一杯だ。こっそり、パープル・ヘイズも出している。
　　　　　　　　　　「それは、ブチャラティさんに実権を返すつもりがないってことでやすか？」 　タルティーニの冷静
　　　　　　　　　　な声が響いた。
　　　　　　　　　　「そうってことよ」
　　　　　　　　　　　横柄な声。若頭に、親分としての貫禄を見せつけたつもりのようだった。
　　　　　　　　　　「だぁーめだこりゃ」
　　　　　　　　　　　タルティーニがとぼけた声を出して、すぐに背後に声を掛けた。
　　　　　　　　　　「おいッ！」
　　　　　　　　　　　廊下の左右の扉を開けて、タルティーニの子飼いの「兵隊」が、銃を手に現れた。すぐさま、アバッ
　　　　　　　　　　キオはフーゴを振り切ってブチャラティをかばって前に立つ。パープル・ヘイズが身構え、フーゴは
　　　　　　　　　　本能的に風上を探す。
　　　　　　　　　　「若旦那をお連れしろ。ちょ〜っとお疲れのようだ。この８ヶ月の激務がご負担だったみてえだぜ。
　　　　　　　　　　静かな山荘なんか、いいんじゃねえか。親爺さんにはあとでおれから言っておく」
　　　　　　　　　　「へえッ！」
　　　　　　　　　　「兵隊」たちは揃って動いて、チェーザレを拘束する。
　　　　　　　　　　「おいッ、おまえらッ！　なんだこれは！？　おれはポルポにも認められたネアポリスの支配者だぞッ！」
　　　　　　　　　　「それはブチャラティさんがムショに入っておいでの間だけの筈。あんたはその器じゃねえ。この８ヶ
　　　　　　　　　　月で、見事にそれを証明してくれやしたよ」
　　　　　　　　　　と、タルティーニがそれを見送りながら言った。
　　　　　　　　　　「おれたちはそりゃあまともな人間じゃねえ。それだから、拾ってくれた組織には尽くす。だがアリ
　　　　　　　　　　じゃあねえんだ。使い捨てにされるのが当たり前って、目の前で言われてなんにも感じねえ訳じゃね
　　　　　　　　　　えんだよッ」
　　　　　　　　　　　ひとり、激した「兵隊」のひとりが解りやすくチェーザレに語ってやった。

　　　　　　　　　　「みっともねえものをお見せしましたね」
　　　　　　　　　　　チェーザレの姿がドアの向こうに消えて、溜め息を吐いた後、タルティーニが静かに言った。
　　　　　　　　　　「大丈夫なのか？」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが尋ねた。
　　　　　　　　　　「姐さん、これが、グリマルディーニの総意です。ご迷惑をお掛けしました。その分、こちらさんに
　　　　　　　　　　負けねえようにこれから尽くさしていただきやす！」と、膝を折ってブチャラティの右手を取った。
　　　　　　　　　　「それはちょっとやばいぞ、わたし個人についたようになるとボスが気を回して……」と、唇を寄せ
　　　　　　　　　　ようとするのをブチャラティは押しとどめる。
　　　　　　　　　　「なに、構いませんて」
　　　　　　　　　　　アバッキオをはばかって形だけ手を押し頂くことにして、忠誠を誓ってみせる。
　　　　　　　　　　「ま、いいんじゃないですか？　これで名実ともにポルポさんの代理人でネアポリスの実質的支配者っ
　　　　　　　　　　てことで」
　　　　　　　　　　　フーゴは天使の笑顔を見せた。
　　　　　　　　　　「それでガタガタ文句を言ってくるようなボスなら……」
　　　　　　　　　　「それ以上はやばいです、タルティーニさん」
　　　　　　　　　　　静かに、フーゴが制した。
　　　　　　　　　　「ああ、そうそうご隠居がお待ちです」と、タルティーニがズボンの膝を払って立ち上がった。
　　　　　　　　　　「ずいぶんお待たせしてしまったな……」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが、応接室へ足を進めた。


９


　　　　　　　　　　　ブチャラティが復帰してから、ほんの３日後の朝のこと。
　　　　　　　　　　「いーもの拾った！」
　　　　　　　　　　　ナランチャがアジトに飛び込んできた。
　　　　　　　　　　「ナランチャ、いったい何を拾ったって言うんです？」
　　　　　　　　　　　どうせ猫の子か新しいゲームソフトのたぐいだろうと、フーゴはドアの方を見て絶句した。
　　　　　　　　　　「これ！　な？　みんなで育てよーぜッ！」
　　　　　　　　　　　胸に抱いてきたのは、猫にも負けるほどの大きさの、ほんの乳児。
　　　　　　　　　　「バ、バカッ！　そんなもの拾ってどうしようって言うんです！？」
　　　　　　　　　　「だから育てるんだって。孤児院に放り込んだってどうせ苛められて、ぐれてギャング予備軍になるん
　　　　　　　　　　だぜ、みんなで育てればおれたちみたいないいギャングになるかもじゃんか」
　　　　　　　　　　「どっちにしろギャングになるんじゃ同じだ」
　　　　　　　　　　　ブチャラティが静かに言い捨てた。
　　　　　　　　　　「警察に任せるんだ。わたしたちが関わっていいことじゃない」
　　　　　　　　　　　そう言って、２階のオフィスに引き取った。
　　　　　　　　　　「バカッ」
　　　　　　　　　　　小声でナランチャを叱って、フーゴは溜め息を吐いた。
　　　　　　　　　　　やはり、本当のところを明かしておくべきだろうか。ブチャラティは、意地を張り抜いて産んだ子
　　　　　　　　　　と別れて刑務所を出てきたのだ。グリマルディーニの意を受けた病院の職員は、独自の闇ルートでそ
　　　　　　　　　　の子を外国に売り飛ばしたことだろう。それをうすうす察しているブチャラティに、他人の子を育て
　　　　　　　　　　よと言うのは酷すぎる。
　　　　　　　　　　　赤ん坊は、やがて大声で泣き出した。
　　　　　　　　　　「参ったな、なんだろ？」
　　　　　　　　　　「とりあえず、おむつかミルクだろう」
　　　　　　　　　　　おろおろして、残った４人は手分けして必要なものを調達に出ていった。

　　　　　　　　　　　……うるさい。
　　　　　　　　　　　ブチャラティはオフィスを出て赤ん坊を見に行った。乳を吸ってくれる赤ん坊のいない身では胸が
　　　　　　　　　　張って苦しいのだ。忌々しいことに、赤ん坊の泣き声は本能に働きかけて、胸がいよいよ張ってくる
　　　　　　　　　　ような気がする。
　　　　　　　　　　どこからか借りだしてきた籐の小さなゆりかごに、赤ん坊は寝かせられていた。放置するなら自分に
　　　　　　　　　　頼んでいけば良かったのに。保護者を置かないで子供を放置すると法律違反……こっそり入院中に読ん
　　　　　　　　　　でいた育児の本の内容を思いだして溜め息を吐く。
　　　　　　　　　　　ブチャラティは赤ん坊を抱き上げて、オフィスに連れ上がった。
　　　　　　　　　　　胸のジッパーを押し下げて、ジャケットの前を開く。キャミソールをめくって、ブラジャーをずらす。
　　　　　　　　　　　そこは既に、乳が滲んでいる。赤ん坊を近づけてみると、誰のものか知らなくても本能で吸い付く。
　　　　　　　　　　　……痛た、た……。
　　　　　　　　　　乳が溜まって、岩のようになっている。皮肉なことだ。乳腺炎でまた病院に舞い戻らなくてはならなく
　　　　　　　　　　なるかも知れない。冷たい手を胸のそこここにあてがって、せめて冷やす。こちらから吸い取ってく
　　　　　　　　　　れとばかりに、少しずつ、送り出すように胸の隆起を裾から押す。
　　　　　　　　　　「はあ……」
　　　　　　　　　　　思わずため息が出る。ずいぶん楽になった。
　　　　　　　　　　「ちょっとこっちも頼む……」
　　　　　　　　　　　なおも吸い付く赤ん坊を引きはがして、反対側の胸に押しつけたところで、背後から声がかかった。
　　　　　　　　　　「おい！　あんた……なにをしてるんだ？」
　　　　　　　　　　　ブチャラティは飛び上がらんばかりに驚いた。
　　　　　　　　　　　彼女のパートナーが、担当の粉ミルクを買ったところでお茶の時間を思いだして、彼女に１０時の
　　　　　　　　　　お茶を煎れて持ってきたところだった。
　　　　　　　　　　「や、これは、とりあえずなにか口に入れたら落ち着くかと思って、わたしが乳が出るわけがないだ
　　　　　　　　　　ろう」と、ブチャラティはしどろもどろに言い訳する。
　　　　　　　　　　「……そうだな」
　　　　　　　　　　　紅茶のポットを目の前に置きながら、ずいぶん豊かになった胸にアバッキオは目をやる。運動不足
　　　　　　　　　　で太ったと言い訳してきたのだが、やはりごまかしきれないらしい。
　　　　　　　　　　「……済まない。死産だった。吸ってくれるものがいないと辛いんだ」
　　　　　　　　　　　覚悟を決めて、ブチャラティは告白した。
　　　　　　　　　　「……あんたら、おれをいったいなんだと思っているんだ？」
　　　　　　　　　　　アバッキオは低い声で、やっとやっと、怒りを抑えて絞り出した。
　　　　　　　　　　「なんで言ってくれなかった？」
　　　　　　　　　　「心配を、掛けたくなかった」
　　　　　　　　　　「十分したぞ！　フーゴはヤバい薬使ってるって言い訳するし、そんな、胃潰瘍でそんな薬使うなん
　　　　　　　　　　て、癌かと、もうあんた出てこられないんじゃないかと……」
　　　　　　　　　　　背に流れるプラチナの髪が、ふるふると言葉につれて震えていた。
　　　　　　　　　　「ああ、まあ、そういう可能性もあったし……ほんとうに死ぬ思いはしたぞ」
　　　　　　　　　　「そういう冗談、やめてくれ」
　　　　　　　　　　　背後から抱きすくめられて、ブチャラティは胸が圧迫されて眉をひそめた。見えなくて幸い。
　　　　　　　　　　「いろいろ無駄なあがきをした結果がこれだ。やはりギャングが子供を持つのは無理と言うことらし
　　　　　　　　　　い……『ら』というのは？」
　　　　　　　　　　「フーゴだよ。フーゴに相談してやったんじゃないのか？」
　　　　　　　　　　　抱きすくめたまま、手は頭へ回って、髪をしきりに撫でている。
　　　　　　　　　　「いや、別に……まあ、解っててやってくれたのかなとは思ってたんだが」
　　　　　　　　　　「つくづく怖い参謀だ」
　　　　　　　　　　「敵に回したくないな」
　　　　　　　　　　　そんなことをやっているうちに、赤ん坊は満足したのか口を離して、眠りに落ちたようだった。
　　　　　　　　　　「しかし、これは助かるな。乳腺炎予防のために置いてやることにしようか」
　　　　　　　　　　「せめて絆されたようなことを言えよ……可愛いとは思わないのか？」
　　　　　　　　　　「思うとも」
　　　　　　　　　　「じゃあ、決まりだ」
　　　　　　　　　　「いや、ここで育てるのはいけない」と、強情を張るブチャラティだった。

　　　　　　　　　　「あんた……おれを拾ってくれたときに、最初になにを考えた？　あの酒場に現れたとき」
　　　　　　　　　　　腰を伸ばして、見下ろしたまま、アバッキオは静かに尋ねた。
　　　　　　　　　　「そんな昔の……」と、ブチャラティは言いさす。全てのはじまりの日を、そうやって思い起こす。
　　　　　　　　　　「そんな、とくに、なにも考えてなかった。済まない、後先考えないで、そう、今動いておかないと
　　　　　　　　　　後悔するって……」
　　　　　　　　　　　耳に入ってきためっぽう強い酔っぱらいの話。淡い金髪の、体の大きな男。噂では、相棒を死なせ
　　　　　　　　　　てネアポリス市警をクビになった……。すぐに「彼」だと思った。いつも直立不動で立ち番をしてい
　　　　　　　　　　た、輝く目をしていた新人。顔がきれいなだけではなく、理想に燃えていて、ほんとうに、お話の中
　　　　　　　　　　のいいお巡りさんになろうとまともに信じて実行しているのが良く判る……。女子供には大人気だっ
　　　　　　　　　　た。自分には無縁な存在だと思っていたけれど、いつの間にかその端整な顔が忘れられなくなってい
　　　　　　　　　　た。その男が、今は苦しんで、闇に呑まれようとしていた。
　　　　　　　　　　「……わたしなら助けられるって」
　　　　　　　　　　「そして、おれは救われた。そうだろ？　後先考えないで動いていいときはある。今だってそうだ。
　　　　　　　　　　　後先考えないで手を伸ばしていいんだ、あんたはもう強い。欲しいものは手に取っていいんだ。お
　　　　　　　　　　れもいる」
　　　　　　　　　　　そして、不本意そうに言い足した。
　　　　　　　　　　「フーゴも、ナランチャもミスタもいるから」
　
　　　　　　　　　　　買い物に行った連中が戻ってきた。ブチャラティは赤ん坊を抱いたまま階下に降りた。
　　　　　　　　　　「わたしたちはギャングなんだ。赤ん坊を育てることなんかできない」
　　　　　　　　　　　まだ言うか。背後のアバッキオが苦い顔をした。
　　　　　　　　　　「えーっ？　こんな可愛い赤ちゃん捨てるようなヤツよりはおれたちの方が優しいよなーッ？」と、
　　　　　　　　　　ナランチャが反論した。
　　　　　　　　　　「多数決取ればぁ？　民主的なギャングだし、おれたちって」と、さっそくいろいろおもちゃを買い
　　　　　　　　　　込んできたミスタがはやし立てる。
　　　　　　　　　　「多数決は民主主義を腐らせる害毒です。ぼくたちはギャングなんですから、トップダウン。リーダー
　　　　　　　　　　の決定に従うんですッ」と、フーゴは惑乱してもまだ理屈をこねる。
　　　　　　　　　　「じゃあそのリーダーのご意見を聞こうじゃないか」と、まだ強情を張るなら一戦構えるのも辞さな
　　　　　　　　　　い覚悟でアバッキオが言った。赤ん坊を奪い取って、珍しく男の本気の色気が出ている。
　　　　　　　　　　「この子を預かることにした方がチームの和を保つにはいいと判断した。以上。フーゴ、警察との折
　　　　　　　　　　衝は任せる」と、根負けしたブチャラティは不快げに言い捨てた。
　　　　　　　　　　「ちょ、いいんですか、ブチャラティ！？」
　　　　　　　　　　「……ああ、アバッキオ、さっきのような事情でミルクは今後買わなくていい」
　　　　　　　　　　「了解、リーダー」
　　　　　　　　　　　ニヤリと笑って、アバッキオは赤ん坊をそっとゆりかごに抱き下ろした。
　　　　　　　　　　「当然だよな。ブチャラティの忘れもん、コウノトリが届けてくれたんだもん、うちが引き取るのが
　　　　　　　　　　当たり前だって」と、ナランチャが得意げに言った。
　　　　　　　　　　「はあ？」
　　　　　　　　　　「ナランチャ、わたしが何を忘れたって？」
　　　　　　　　　　「だって、アンナさんとかルイサさんとか言ってたぜ？　ブチャラティの病気は身二つになる『病気』
　　　　　　　　　　だって。赤ちゃん連れて帰ってくるから楽しみに待ってなって」
　　　　　　　　　　　……恐るべしオバちゃん情報網。とても彼女たちを騙しおおせることなどできない。
　　　　　　　　　　「でもまーブチャラティはいろいろワケアリだから、『忘れてくる』こともあるだろうから、そうい
　　　　　　　　　　うときはあんまり追求すんなって」と、その辺の配慮も細かいのがオバちゃんたるゆえん。
　　　　　　　　　　「そんで気にしてたのかよ、土産土産って。信じらんねー。弟が産まれる幼稚園児か？」
　　　　　　　　　　　ミスタが吹き出した。
　　　　　　　　　　「それより、きみいったいくつです？　そんまんま信じてたんですか？」
　　　　　　　　　　　フーゴが頭を押さえながら前髪の間から青い眼を煌めかせた。
　　　　　　　　　　「だって、ホントに届いたじゃん。神様はやっぱそつないぜ。クリスマス・シーズンだからかな？」
　　　　　　　　　　「まったく……ああそうだッ！　黙っていて悪かったッ！　『忘れ物』をしたさ、わたしは！　だが
　　　　　　　　　　こんなプレゼントは困る。わたしは『忘れ物』の代わりになんかしないからな。この子は誰とも知ら
　　　　　　　　　　ぬものからの預かりものだぞ！　ギャングになどしないように真っ直ぐ育てるんだからな！」
　　　　　　　　　　　やけになって、ブチャラティは宣言した。
　　　　　　　　　　「「「「Ｓｉ（はい）！」」」」

　　　　　　　　　　　ふと思いついて、息せき切ってグリマルディーニ邸に駆けつけたフーゴ、老人にことの真相を尋ね
　　　　　　　　　　ようとするより先に、
　　　　　　　　　　「プレゼントは無事届いたようだな？　うちのばあさんがもう情が移ってしまって、手放すのが惜し
　　　　　　　　　　いというのを説得するのに苦労したよ」と笑われてしまった。
　　　　　　　　　　「全会一致で引き取ることが決定しちまいました」
　　　　　　　　　　　フーゴはせいぜいしかめっ面を作るのが精一杯。
　　　　　　　　　　「名前はわしに付けさせてくれんかな？」
　　　　　　　　　　「残念ながら、もう決まってしまいました」
　　　　　　　　　　「「アンジェラ（天使）」」
　　　　　　　　　　　と、異口同音。
　　　　　　　　　　　美男美女のカップルから産まれた女の子はまったく天使のように可愛らしかった。

　　　　　　　　　　「おい、ちょっと顔かしてくれ」
　　　　　　　　　　　数日後、アバッキオに声を掛けられて、ブチャラティは外に連れ出された。
　　　　　　　　　　「一応、けじめだから。フーゴが、アンジェラを引き取るにはなんか法律上必要だからって」
　　　　　　　　　　「必要なのか」
　　　　　　　　　　「ああ」と、教会に案内する。
　　　　　　　　　　「じゃ、ちょっとここに立って。司祭様、お願いします」と、控えた老人に声を掛ける。「それでは」
　　　　　　　　　　と、お決まりの説教と宣誓が行われ。
　　　　　　　　　　「……だまし討ちだ」とブツブツ言いながら、それでも土壇場で逃げたりはせず、二人は結婚の秘蹟
　　　　　　　　　　を受けた。
　　　　　　　　　　「おめでとー！」
　　　　　　　　　　「おめでとうございます」
　　　　　　　　　　「いやー、おめっとさん！」
　　　　　　　　　　　教会の外にはチームのメンバーがちゃんと待ち受けていて。秘密を作られていた仕返しをしっかり
　　　　　　　　　　アバッキオは果たした。

　　　　　　　　　　「まったく、いったい誰がこんな可愛い赤ちゃんを捨てたんだろうねー」と、アンジェラはすぐさま
　　　　　　　　　　街のアイドルになった。
　　　　　　　　　　「でも、おれたちに育てて貰えるんだからとってもラッキーな赤ちゃんだぜ」
　　　　　　　　　　　ナランチャはご機嫌で披露して歩く。
　　　　　　　　　　「やっぱさ、おれが思うに、この子のマンマは金髪の美人で料理上手な訳よ」と、ミスタが口から出
　　　　　　　　　　任せを吹きまくる。
　　　　　　　　　　「解った、そんで、父親はマフィアの幹部で今はひとの罪をひっかぶって服役中なんだな？」と、ナ
　　　　　　　　　　ランチャがワルノリする。
　　　　　　　　　　「それで、その金髪美人の料理上手なマンマは何をどうやってこの子を捨てたりすることになるのか
　　　　　　　　　　な？」と、「お乳の良く出る秘伝のメニュー」をこっそり聞いて回っていたアバッキオが額に青筋を
　　　　　　　　　　立ててその背後に立っていた……。

　　　　　　　　　　「おい、フーゴ」
　　　　　　　　　　　アバッキオがまなじりを決して大股に歩み寄ってきた。
　　　　　　　　　　「あんまりひとを舐めたまねをするなよ？　なんでおれを蚊帳の外にする？」
　　　　　　　　　　「いえ別に、ぼくは誰にも秘密に事が運べたらなーッと思ってただけで、あんたが結果的に最後まで
　　　　　　　　　　知らないひとになっただけです。いろんなひとの思惑が重なって。ぼくも、まさかこういう偶然がお
　　　　　　　　　　こるとは。ぼくがナランチャを拾って、あのひとがあんたを拾ったんですから、ナランチャが誰かを
　　　　　　　　　　拾わないってことは、そういえば言えませんでしたね」と、真顔で感心してみせる。
　　　　　　　　　　「あれは、ブチャラティの子なんだな？」
　　　　　　　　　　「解りません。そんなこと。四六時中見張ってたわけじゃないんだし。ナランチャの手に渡るまでに
　　　　　　　　　　すり替えがなかったと証明できるものはないんですよ。だいたい、ブチャラティは死産だったんでしょ
　　　　　　　　　　う？」
　　　　　　　　　　　夢のように偶然が重なって、ラッキーな事態が今訪れているならいい。だが、それを現実と信じる
　　　　　　　　　　には、皆、辛い現実を渡って来すぎている。
　　　　　　　　　　「だが、あの赤ん坊の足の付け根んとこと、ブチャラティと、同じところにほくろが同じ並びである」
　　　　　　　　　　　それはまた微妙なところに。二人ともに密接な関係を持っていないと気づかないだろう。
　　　　　　　　　　「ほくろやあざの位置の相似性は、別に親子関係の判断材料にはなりませんよ？　メラニンの分布の
　　　　　　　　　　仕方は今のところ遺伝によるという論文は出てません。ＤＮＡ鑑定が確実ですが、全く違っていて夢
　　　　　　　　　　を壊すこともありますからお勧めは……」
　　　　　　　　　　　拳骨を頭に食らってフーゴは沈黙した。
　　　　　　　　　　「おまえはホントにアイツとはやってないんだなぁ」
　　　　　　　　　　「もちろん」
　　　　　　　　　　「いろいろ、ありがとうよ」
　　　　　　　　　　　言い捨てて、アバッキオは背を向けた。


１０


　　　　　　　　　　　数年後。
　　　　　　　　　　「ねえ、アバッキオ」
　　　　　　　　　　　小さな娘は、小学校から帰るなり、キッチンのスツールによじ登って彼を仰ぎ見た。
　　　　　　　　　　「あたしの母さんって、ブチャラティよね？」
　　　　　　　　　　「さあ？」
　　　　　　　　　　　色男は、フライパンを取り上げた。アンジェラにおやつを作ってやるために。焼き林檎のクレープ
　　　　　　　　　　が、みるみるうちに香ばしい香りを立ててできあがっていく。
　　　　　　　　　　「だって、違うの？」
　　　　　　　　　　「おれは、だったらいいなーと思ってるがね。とりあえず、おれたちが役所に行って、おまえを引き
　　　　　　　　　　取る責任者になった。そら、おあがり」と、クレープを皿に載せて出す。
　　　　　　　　　　「あたしって、やっぱり捨て子なんだ？」
　　　　　　　　　　　しゅん、としてアンジェラはうつむいた。きれいで優しくて街のみんなに尊敬されてるブチャラティ、
　　　　　　　　　　かっこよくて料理が得意でなによりアンジェラを愛してくれるアバッキオ。二人が両親ならいいのに、
　　　　　　　　　　絶対自分の両親はこの二人だと信じて生きてきたのだ。
　　　　　　　　　　　しかし、顔立ちやちょっとしたくせに相似を見つけてどれだけ訴えても、「一緒にいるんだから似
　　　　　　　　　　て来て当たり前」と、すげなくあしらわれて来た。うまくしたもので栗色の髪はどちらにも似ていな
　　　　　　　　　　いし、二人とも美男美女なものだから、見ればすぐ判るというような強烈な特徴というものもないの
　　　　　　　　　　だ。
　　　　　　　　　　「ナランチャがおまえを拾って、意気揚々とここに駆け込んできたのは事実だな。
　　　　　　　　　　そら、冷めるぞ」と、端的に答えておいて、促す。自分はエスプレッソを煎れて、カウンターに肘を
　　　　　　　　　　突いた。難しい年頃の女の子は、とりあえずおやつに手を付けた。と、その二人の額に浮かんだ皺は、
　　　　　　　　　　だれにも判る相似形なのだけれど。
　　　　　　　　　　「本当の両親が知りたいのか？」
　　　　　　　　　　　幼い頃からひとを幾人も殺した犯罪者、マフィアの幹部で、街の人々を恐怖で支配する悪人。得体
　　　　　　　　　　の知れない特殊能力で、ひとの体を自在に切り刻む性格異常者。
　　　　　　　　　　　市民に奉仕するという正義の誓いを破った堕落者。先輩を死に至らしめた悪徳警官。静かな人形を
　　　　　　　　　　駆使して、その場で行われた過去の事実を暴く窃視者。
　　　　　　　　　　　悪意を持って表現するなら、彼女の両親はそういう「悪人」だ。そんな親を持つというハンデを負
　　　　　　　　　　わせたくないというのがブチャラティなりの思いやりなのだろう。
　　　　　　　　　　「どんな親ならいいんだ？　ハプスブルグの血を引く立派な王様か？　イタリア全土を支配するマフィ
　　　　　　　　　　アのボスか？　スクリーンの大スターか？」
　　　　　　　　　　　うつむいておやつを口に入れていたアンジェラの目に、涙が盛り上がった。
　　　　　　　　　　「そうじゃない。ふつうのひとでいい。ただ、あたしの親が、あたしを捨てたという事実が悲しいの」
　　　　　　　　　　　アバッキオは、虚を突かれて黙り込んだ。絶対今夜この件で弾劾してやる、と心に刻んだ。
　　　　　　　　　　「おまえに累が及ばないようにって、思ったのかも知れんな」
　　　　　　　　　　　咳払いをひとつふたつして、根は真面目な男は、ゆっくり語り出した。
　　　　　　　　　　「国を裏切って、逃げる途中のスパイというのはどうだ？　連れて逃げてはいずれ殺される。何も知
　　　　　　　　　　らないうちに、何も知らない他人に拾われれば、平穏な人生は約束されると思ったんだろう」
　 　　　　　　　　　　「平穏じゃないじゃない」
　　　　　　　　　　　碧い眼が、上目遣いにアバッキオを睨んだ。出入りのある夜にはグリマルディーニの屋敷に預けら
　　　　　　　　　　れたり、準幹部の娘だというので誘拐されそうになったのを、町中の大人が庇ってくれたり。ミスタ
　　　　　　　　　　の拳銃の周りにいる小人さんたちのことは誰にも言っちゃいけないと約束させられたり。
　　　　　　　　　　「そこが思い違いなんだなァ。まさかこんなマヌケなギャングに拾われると思わなかったんだろ」
　　　　　　　　　　　本当に。まさか手元で育てることができようとは。この年になるまで成長を無事に見守ることがで
　　　　　　　　　　きようとは。アバッキオは少し鼻を啜った。
　　　　　　　　　　「おまえはなんにでもなれるんだよ。親がこういう性分だからとか、こんな仕事だからとかいうやつ
　　　　　　　　　　からは永遠に自由だ。育つのにちょっと、マヌケなマフィアの手を借りただけで、おまえの血には、
　　　　　　　　　　一滴も犯罪者の血など混じってはいない。不正なことに手を貸したものは身内にはいない。胸を張っ
　　　　　　　　　　て、大統領にでも、大女優にでも、学者にでも小説家にでもなればいい。そのために、おまえの親は
　　　　　　　　　　おまえの前から消えたんだよ」
　　　　　　　　　　「そう？」
　　　　　　　　　　「そうさ。フーゴのヤツが言ってた。この世界には、すぐ横に、まったくおんなじような世界が幾つ
　　　　　　　　　　もあって、よく似たおれたちが、ほんの少しだけ違った人生を生きてるんだって。きっとそこには、
　　　　　　　　　　王様の娘で毎日ストレスまみれの生活を送ってるアンジェラとか、金髪の美少年に引っかかって二人
　　　　　　　　　　してボスに反逆して血まみれで死んでくブチャラティとか、おえらいさんの娘と恋に落ちて、足を洗っ
　　　　　　　　　　て実家に帰るフーゴとかがいるんだぜ」
　　　　　　　　　　　きっと、気がつかないままに無理を重ねて流産し、涙に暮れるブチャラティとか、二人で組織を抜
　　　　　　　　　　けて逃避行の果て、追っ手となったフーゴに骨まで溶かされるブチャラティとアバッキオとか、マフィ
　　　　　　　　　　アの両親なんか要らない、産んでくれとは誰も頼んでないと毒を吐くぐれたアンジェラとかも、その
　　　　　　　　　　中には存在するだろう。
　　　　　　　　　　「じゃあ、アバッキオとブチャラティがほんとの父さん母さんなあたしもいるんだ」
　　　　　　　　　　「ああ、きっとな」
　　　　　　　　　　　ご近所の幼稚園児・小学生に「おとうさんにしたいひとナンバーワン！」に選ばれている色男は眼
　　　　　　　　　　を細めた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜２７−０２−０９＞


　　　　　　　　　　おまけ
　　　　　　　　　　「うちの子を泣かしたのはどこのどいつだッ！」と、額に青筋を立てて怒鳴り込みにいくのはだいた
　　　　　　　　　　いアバッキオ。
　　　　　　　　　　「だ、だって、じっさいアンジェラは拾いッ子じゃねーか」と言うなり、その子は蹴り倒されて地面
　　　　　　　　　　に這った。
　　　　　　　　　　「アバッキオ、幼稚園児相手にそれはないでしょう」と、後を追ってきたフーゴがその後ろに押し黙
　　　　　　　　　　るママ連中を見やって薄く笑った。
　　　　　　　　　　「これは他言されると困るんですが……」と声をひそめる。
　　　　　　　　　　「この子は、ハプスブルグ家の血を引く某中欧の国の王女なんですが、今国に帰ると命が危ないって
　　　　　　　　　　ことで、うちのボスから直々の指名で預かってるんですよ。そういうわけで、素性ははっきりしてま
　　　　　　　　　　す。仲良くしてもらって構いません……」
　　　　　　　　　　　その後、幼稚園でのアンジェラの扱いはお姫様になった。
　　　　　　　　　　「ごく普通の両親に普通に産まれた子供より、マフィアに育てられてるお姫様の方がエライって感覚
　　　　　　　　　　には驚きますね」と、アジトでの夕食時にフーゴは辛辣に笑った。
　　　　　　　　　　「もしかして、大嘘？」と、ナランチャが聞いてくる。
　　　　　　　　　　「当然でしょ。まあ、ぼくの子だった場合、１滴ぐらいはハプスブルグの血も入ってるかも知れません
　　　　　　　　　　けど。あそこんち、見境なしにばらまいてるし」
　　　　　　　　　　「……フーゴの子の可能性あるわけ？」
　　　　　　　　　　　首を縮めて、恐る恐るナランチャが尋ねた。ブチャラティは知らん顔でナイフを使っているが、ア
　　　　　　　　　　バッキオの顔が青ざめてきている……。
　　　　　　　　　　「まさか。ぼく、女性とそういう結果の生ずるような経験全くありませんから。ありえません」
　　　　　　　　　　「えーッ！？」
　　　　　　　　　　「その顔で、その年で！？　おまえ病気？」と、ミスタが興味深げに聞いてくる。
　　　　　　　　　　「とある女性に操を立ててるんです。あとは、女性と接触を持たないで３０まで生きると魔法使いに
　　　　　　　　　　なれるそうなんで、ついでにそれを目指すのもいいかと」
　　　　　　　　　　「フーゴ……」
　　　　　　　　　　　アバッキオの哀しそうな目に、
　　　　　　　　　　「あんたの奥さんにじゃありません」とフーゴはすぐさま冷たく答えた。
　　　　　　　　　　「フーゴ、もしかして」の声に目をやると、ミスタがアンジェラをかばって脇へやった。
　　　　　　　　　　「あんたの娘にでもありませんッ！」さらに冷たく言い捨てた。

　　　　　　　　　　＜別解＞
　　　　　　　　　　「ちょっと、ルチア？　いろいろあってぼくんちがナポレオンと縁続きだって証明をしなくちゃなら
　　　　　　　　　　ないんだけど、きみ、家系図調べてたりしない？」
　　　　　　　　　　「ナポレオン時代までなら５分で送ってあげられるわよ。……ただのフーゴでいいからいい加減あた
　　　　　　　　　　しのものにならない？」
　　　　　　　　　　「それは男のプライドだから」
　　　　　　　　　　「……いつまで待たされるのかしら」
　　　　　　　　　　「待てと言った覚えはない」
　　　　　　　　　　「まあ、可愛くないんだから！」

　　　　　　　　　　　蛇足。
　　　　　　　　　　　とーとー書いてしまったクレーム対象外作品。いや、やっぱ、男と女がやることやったら結果はで
　　　　　　　　　　るでしょう！　でないといかんよ。そういう運命のいたずらが歴史と男女関係を面白くしておるのだ
　　　　　　　　　　よ。人間が生殖をコントロールなど不遜であるわ。そして、いろいろ自分だけが悲劇のヒーローヒロ
　　　　　　　　　　インであるかのように立ち回っているひとも、陰では笑いものにされる道化になっておるのが人生。

　お代わり！　
　もうおなかいっぱい　帰る