夜行性
リヴァース（５）
１
「ちょっと相談に乗って貰いたいんだが」
「いやです」
一言の元に却下されて、ブチャラティは露骨にへこんだ。もうすっかりネアポリスは秋、
わざわざ二人でロングコースのパトロールに出た帰り、静かなバールに腰を落ち着けて、
参謀殿にはリンツァー・トルテまでご馳走してやって、これだ。
「あんたの誕生日が近いことぐらいあの雌ライオンにはハッキリ伝えてあります。ハンカ
チ一枚でも貰ったらそれは喜ぶだろうってことも。それでも、全然動きは見せてません。
買い物のルートは変わりがないし、カタログ一枚めくってる雰囲気はありません。……ナ
ランチャに聞いても同じだと思いますよ」
「そうか」
「ぼくはあの女のためにこれ以上は小指一本だって動かすつもりはありません」
「解った」
「じゃ」と席を立ちかけたフーゴは、自分の足がジッパーで床に留めつけられているのに
気づいた。
「ブチャラティ」
「別件だ」
リーダーの目が静かに光っているのを見て、フーゴは居住まいを正した。
「聞きましょう」
優雅な仕草で取り上げたフォークがトルテに突き立てられ、仄かにスパイスの香りがし
たのを見計らって、ブチャラティは口を開いた。
「なあ、おれって、下手だと思うか？」
フォークは思いっきり皿の上を滑って聞き苦しい音を立てた。
「ブッ……」
あまりのことに、フーゴが目を剥いてブチャラティの顔をまじまじと見つめた。
「ああ、なにがって……」
「ちょ、困りますッ、お昼っから、こんなところでッ！」と、立ち上がって言葉を遮ろう
としたフーゴは、自分の足が床に留めつけられていたことをすっかり忘れていて、コーヒー・
テーブルごとひっくり返った。
「とりあえず、未成年にそんなこと言われても困りますッ！」
床に座り込んで両手を膝に当てたフーゴにたしなめられて、自分の分のカフェ・ラテだ
けはすかさず守ったチーム・リーダーは
「ああ、済まん」ととぼけた顔をして謝った。
街のみんなの人気者のブチャラティのお連れ様にはすぐさまもう一杯のエスプレッソと
リンツァー・トルテが提供され、テーブルと椅子を元の位置に戻して座り直したフーゴは
それらを口に入れてとりあえず平常心を取り戻した。
ブチャラティがしつこく食い下がって垂れ流すには、このところ、アバッキオのベッド
でのつきあいが悪いそうだ。
「前はもっとノリが良かったのに。今月にはいってからどうも上の空で、さっさと終わら
せてーって感じなんだよな」
「ああそうですか」
敬愛する上司の心臓から下の事情については関わり合いになりたくないフーゴは、とに
かく話を早く切り上げたがっている。
「それで、おれが下手なんで、飽きられたんじゃないかと思うんだ」
「いいじゃないですか。物事には初めがあれば必ず終わりというものが来るものなんです。
あんたもここは深追いしないでスッキリ関係を解消して、あとは単純に賄い係としてでも
置いてやるか、または住み込みで仕事を紹介してやればい」
「何を言うんだ、フーゴ」
ごくごく真面目な顔をして、ブチャラティは遮った。
「終わらせるなんてとんでもない。おれは彼女と別れるつもりなんかないからな」
「だって、あの女の方は飽きたってあんたが感じたんでしょうッ？」
「おれに飽きたっていうんじゃない。おれとの行為に飽きたんじゃないかって言う話だ」
「ハァ〜？ 前者と後者に違いがあるとでも？」
フーゴは半眼になって色ボケした上司を見やる。
「あるさ。レオナはおれに変わらず愛情を持ってる！」
テーブルに身を乗り出してブチャラティは断言する。
「いったいなにがあんたにそんな盲信を抱かせてるんですか？」
視線を外して、フーゴはおやつを味わうことに専念する。
「彼女の料理には変わらずおれへの愛が詰まってるからだッ」
「……あーはいはい」
たしかに、彼女の料理は旨い。実家を追われて以来、食事に対して期待することのなく
なっていたフーゴが食事の時間を楽しみに思うようになったほどだ。なんと言うことのな
い家庭料理なのに、素材の味が上手く引き出され、毎日食べても食べ飽きない。その味は、
確かにここ数ヶ月、これといった変化を見せていない。
「手抜きはしてないですね」
「だろ？」と、ブチャラティは胸を張る。
どうしてそれくらいで自慢げになれるのだろう。
単に、彼女が自分たちに提供できる技能がそれであって、ゆく当てのない彼女がここに
置いて貰うためにその技能でもって働いているだけではないか。
言葉を探しながら、しぜん、フーゴは上目遣いになっていた。
「それに、なんだかさ、彼女、夜、抜け出してるんだよ」
ブチャラティは、言いづらそうに第２の情報を出してきた。
「ここんとこ毎晩。おれが寝た頃見計らって、明け方まで」
さすがにフーゴは言葉を失った。
「おれのプレゼントしたＩＤのペンダント、外して行って。帰ってくると、なんか、違う石鹸の匂い
させてるんだよ……さすがにこれはへこむよな？」
ブチャラティの笑顔は静かで、そして、いびつだった。
……なんだかんだいってあのペンダント、まだ肌身離さずしてたってのが意外ですけど。
とっさにそこへ心中突っ込んで、なんとかフーゴは体勢を立て直しにかかったが。
「だから、おれとじゃ満足し切れなくって、夜遊びして発散してるんだったら、おれが上手くなって
満足させてやればまたゴキゲンになってくれるんじゃないかと思うんだ」と、真顔で善後策を出して
くるブチャラティに、フーゴは打ちのめされてテーブルに這いつくばった。
「……男女の間って言うのはもう少し形而上って言うか、霊的な結びつきなものだと思ってましたよ」
あのひとはとくに、と言いさして、フーゴは思っていた以上にアバッキオについて彼にとって上等
な人間と解釈していたことに気づいて思わず首を振ってしまう。
「いやいや、あの道ってのは、些細だけどそれだけに致命的に男女の間を支配してるものなんだよ、
天才君」
偉そうに講釈を垂れるブチャラティは、腕組みをしていた手をほどいて両膝に当てると、身を乗り
出してフーゴの顔を覗き込んできた。
「それで、フーゴ、おれはテクを磨く必要性を感じた訳なんだ」
「まあ、それ以前に本当に技術が拙くてあの女を満足させていないのかどうかを確かめる必要性を認
めますけどね」と、フーゴは律儀に相手をしてしまった。
「実証的だな」
「ぼくが相手をして確かめてみるわけにも行きませんし。あの女に聞いてみるなんて役目は辞退しま
すからねッ」
「困るよフーゴ、それじゃあ八方塞がりだ」と、ブチャラティは拝みにかかる。
「だいたい、本当なんですか？ あの女が夜遊びだなんて……」
「抜け出しているのは間違いない。調べてくれるなら今夜からでも頼む」
急激に口の中で味を失いつつあるリンツァー・トルテを飲み下して、フーゴはまた厄介な仕事を請
け負うことにした。
……まさか、あの女（ひと）……？
壊滅的に相性がよくないとはいえ、寄る辺のない女性をいたぶった自覚が彼にはあったので。
２
春のアバッキオ嬢の誕生日祝いに奔走させられたフーゴは、秋のブチャラティの誕生日も同様に盛
り上げるべく９月にはいる前からさりげなくアバッキオの注意を喚起していた。
「あんたもして貰うばっかりに甘んじてないで、ちゃんとした大人として受けた恩には報いなきゃい
けませんよ」と、いきなり上からのもの言いだったことは否めないけれど。
「９月２７日です。１ヶ月もあればお金も心も準備ができることでしょう。何か作ってもいいし。あ
のひとがあんたに飽きたときにさっさと始末してしまえるものがいいですね」
アバッキオは黙って料理をしていた。
「聞いてるんですか？」
「聞こえてる」
「希望の品、さりげなく聞き出しときましょうか？」
「いいよ」
「全然必要でない、好みじゃないものを受け取らされてあのひとが消耗するのが可哀相じゃないです
か。もとはといえばあのひとのお金なんだし。
……無駄遣いしてないでしょうね？ ちゃんと予算あります？」
「大丈夫ッ」
この１０ヶ月で、賄い以外にもそのスタンドを上手く使った調査力でアバッキオにはチームの一員
として役に立って貰っている。給料は、ちょっとした高卒の事務員程度は出しているはずだ。もしか
したら、ぺーぺーの新人警察官時代より多いかも知れない。
「なかったら都合してあげてもいいですから、絶対！ 外さないでくださいね？ なんだったら当日
とかあんたの仕事オフにしてもいいですから」
「いいッ」
素直でないライオンちゃんはどうも誕生日の贈り物のことを考えている様子を見せないので、フー
ゴも気になって週に一度くらいの頻度で注意を喚起してきたのだが、ここへきてあまりのしつこさに
苛ついた様子を見せていた。
「ホント、ちゃんとしてくださいよ？ あんただってあのひとのことは嫌いじゃないんでしょう？
百歩譲ってそうじゃないとしても、チームの一員としてもうそろそろ１年経とうとしてるんだから、
上司の誕生日と思ったら祝わなきゃって気持ちにもなってくるでしょう？」
搦め手から攻めてみたのが間違いだったのかも知れない。
「へえ、上司」
「そうじゃないですか。あんたは、賄いだけじゃなく、チームの一員としてポルポにも認められたス
タンド使いでしょ？ そりゃ戦闘要員じゃないですけど。あんただって少しは社会人として勤めたん
だ、チームの中でうまくやるために上司や同僚の誕生日を祝うぐらいはしたでしょう？」
「知らないね」
警官時代の話をしてしまったのがいけなかったのか。急にライオンちゃんは頑なになってしまった。
それに気がついて、フーゴは狼狽えてまた禁句を口にしてしまう。
「まともに１年も勤まらなかったひとは人間関係もまともに作れなかったんですか。ああ、あんたみ
たいな厄介な人間に親しくしてくれるひとなんて、そりゃいなかったでしょうね」
頑なな新人女性警官をなにかと気に掛けてくれていたひとのよい先輩は、彼女を庇って殉職してし
まったと聞いていたのに。
彼女の背から浮かび上がりかけたムーディー・ブルースは、ほんの１０秒ほどでまた消えた。１０ヶ
月でようよう暴走状態を脱したようだ。
美しすぎるもと女性警官は、唇を噛みしめたままに料理に専念している。手つきには乱れがない。
一瞬、尊敬をもってフーゴはそれを見つめていてしまった。
「……邪魔」
しばらくして、短い言葉で彼は拒絶された。
「手伝わないなら、あっち行ってな」
「まるで本職みたいに！ 他にできることもないから任されてるだけなのに！」
鼻を鳴らして、フーゴは言った。邪魔にされたのが哀しかったと、自分で認めることを拒否するた
めに。だだっ子のように彼はさらに言葉を探した。そして、彼女の料理を気に入っていることを隠そ
うとするあまりに、女性としての彼女を侮辱する発言をまたしてしまったような気がする。
「ほかのことじゃあまったく役に立ちませんけどね。あんたはホントその身体をつかった原始的なこ
とでしか役に立たないんじゃないですか」
そうじゃない、そうじゃない！ そんなことが言いたいんじゃないのに！
フーゴは抑制を失った自分の言葉に冷や汗をかいていた。
このひとは傷付いていたんだ。自分の身体を痛めつけて、泥に塗れさせることでしか自分の罪を償
う方法がないと思い定めていたのだ。望んで行った乱行ではない。こんなにきれいなひとが、心を乱
してそういう場にいれば、男なら誰でも自由にしたい、自由にできると思って行動に移すことだろう。
それはもう解っていたのに。
言葉はもう、彼女の胸に突き刺さっていた。
「あァ、そうかもね……」
乾いた返事が、耳に響いた……。
思い返すだに恐ろしいおのが所業にフーゴは頭を抱え込んだ。
……夜遊びって、もしかして、また街に立ってたりしないだろうな？
優しい、やさしいブチャラティの腕の中にふさわしい人間でないと、また思いこんでしまったので
はとフーゴは青ざめていた。
３
「ねーねーメシまだー？」
考え込むフーゴの脇を通って、ミスタがキッチンへ入っていった。この新入りは、屈託なくアバッ
キオに声を掛ける。思えば加入のその日からアバッキオには興味を示していた。
「うわーすげーグラビア系のねーちゃん。あんたもチームのメンバー？ ラッキー！ なあ、付き合っ
てるやついんの？ ちょっとおれと付き合わねえ？」
「お呼びじゃないんだよ、チャラ男が」
アバッキオは歯牙にも掛けていなかったが。
「えーっ、いいじゃん、チーム・メイトなんだし。仲良くしよーぜ？」
馴れ馴れしく肩に手を回しかけたので、見かねてついフーゴが間に入っていた。
「あの、ミスタ、このひと一応リーダーの恋人なんで」
「えーっ？ なんだお手つきかよ。リーダー、あちゃー、見てた？ 怒んなよ？ 知らなかったんだ
から。いやー、こんないい女、声掛けなきゃイタリアーノじゃねーよな？ しっかしいい女。１回お
願いしたいぜまったく」
けろりとそこで手を引いて、お世辞でごまかしていたが、それ以降もミスタは本気なのか社交辞令
なのか、毎日アバッキオに構い倒している。
「おっはよー！ ねーちゃん今日もきれいだねー。毎晩リーダーに可愛がって貰ってるー？ いやー
愚問ね。ぷりっぷりしてるわお肌が」
アバッキオが額に皺を寄せるのを見ていられずにフーゴが飛び出していっては注意する。
「ミスタッ！ 表現が下品ですッ」
「あらーおはよう小僧ちゃん。今日も小姑根性ゼ、ン、カ、イ？」と、ミスタはゴキゲンでフーゴの
首っ玉を捕まえて体臭の濃い脇の下に擦りつける。ミスタが加入して以来の朝の儀式になっている。
「あんた、よくも毎日あのライオンを構えますね？」とある日とうとうミスタに問いただすと、
「えーだって、あーゆーのおれ好物よ」と屈託ない。
「勇者ですね」
「クラスに一人はいなかった？ 優等生の、委員長。真面目でビシーッと決めたきれいな子。おれそー
ゆーの、きりきり舞いさせて困らせるの好きだったーッ」
「嫌いなんじゃ？」
「えー？ ちげーよ。憎くて困らせるんじゃねーよ、面白れーから構うのよ。なんでも自分が正しい
と思ってて、ビシーッと整ってるのが当たり前と思ってるのが、上手く行かなくて目ぇ回してるのが
楽しいンじゃん。……おまえもじゃね？」
「あんたと一緒にしないでくださいッ」
その時はフーゴは否定したのだが。
いくら毎日構っているからと言って、ミスタとそういう関係になっているとは考えにくい。本人が
言うように、ただチームメイトとしてからかって楽しんでいるだけようだ。アバッキオの方は、毎度
けんもほろろに切り捨てながらも、そういうミスタの性分が飲み込めてきたのか、最近は少しは笑顔
を浮かべてもいる。実のところは、こういう構われ方はアバッキオは高校時代から女性警官時代を通
じてある程度慣れているので、なんとも思わずにあしらっているらしい。
……そういう顔、ブチャラティにも見せてやればいいのに。
フーゴは黙って観察しながら、寂しいような気持ちになる。
……でもまあ、ミスタとそういうややこしいことになってるってことは、ないみたいですね……。
大学で研究だけに専念していては絶えて知ることのなかったであろう人間関係の細かいところを日
夜目の辺りにして、修行を積んでいるフーゴだった。
４
夜更け、確かにブチャラティが眠りに落ちる午前２時頃、ブチャラティのフラットから、人影が滑
り出た。いつになく後ろでひとつに括ったプラチナ・ブロンドの髪が非常灯に微かに光って、それが
アバッキオであることを証明した。足音を殺した女性は、フラットの階段を登ってひとつ上のフロア
へ移動した。
……上？
そっと後をつけたフーゴが上のフロアの廊下にたどり着いたときには、姿を消してしまっていた。
ドアの開閉する微かな音を、聞いたかも知れない。
……同じフラットの中で……！？
フーゴは呆然と立ちつくしてた。
今日もパトロールはロングコース。フーゴからの報告を受けるつもりのブチャラティが、街の親爺
に捕まった。
「なあ、ブチャラティ、こんなことうちの恥になるかもなんだが」
「ああ、他言はしませんよ。一応の確認としてフーゴにも立ち会わせますけど、こいつも信頼できま
すから、な？」
「もちろんです」
肯いてみせると、商店の親爺と、ブチャラティ達と同じフラットの住人だという若い勤め人の男が、
勧められて同じテーブルに着いた。
「どうも、かかあの様子がおかしいのよ」
「ええと、ソフィアさん？」
すぐさま奥方の名前を言い当てられるブチャラティは、さすが、シマを知り尽くしている。
「そう。夜にごそごそやってたかと思ったら、どっかに出かけてやがる。そんで昼はぼんやりしてて。
おれの顔をつくづく見ちゃあおでこが脂ぎってるだとか腹が出てきてみっともないとかしょうもない
こと言ってはため息吐きやがって。それが、後ろ暗いんだか、突然抱きついて、『あんたは長生きし
ておくれ』なんて言いやがる」
「それは、あの……のろけ？」と、ブチャラティはとぼけた顔を崩さなかった。
「違うって！」
おおげさに身をよじってその親爺は脇に控えた勤め人を押し出して言った。
「このテオドロさんの奥さんもそうだって言うじゃねえか！ 新婚なんだぜ！？ もう、誰が見ても
幸せ一杯の二人の筈が、夜に目が覚めたら可愛い奥さんがベッドにいないんだぜ！？ それが続い
て、腹をくくって後をつけてみたら、自分と同じフラットの別の部屋に入ってったってのよ！ ブチャ
ラティ、あんたのと同じフラットだぜ！」
「それは、ええと、マンソーニさん、勇気がおありになる」
「いいえ、もう、気が狂いそうでした。一生に一度の勇気を振り絞って後をつけました！ それが、
５０９号室なんです！」
それは、フーゴが昨夜探し当てたアバッキオの行き先と同じ部屋なのだった。
「本人、チェチリアになにか不満はないか聞いてみても、なにもない、早く帰ってきてね、愛してる、
そればっかりで」
「それはお幸せで」と、ブチャラティはじつに冷静だ。
「フーゴ」と脇に控えた参謀に眼をくれる。
「解りました。調査に入りましょう」
フーゴも表情を消して肯いて見せた。
ナランチャを伴って聞き込みをしてみると、たしかに、ブチャラティのフラットを中心とした一帯
で、微妙な主婦たちの挙動不審が報告された。実にあっけらかんと、今夜は誰が当番だとか、一番の
お気に入りはレオナだとか（！）、経験はあたしのほうが豊富なのになんてオバサンが悔しがってる
とか、道で情報交換をしているらしい。
……やはりアバッキオも関わってる！
ナランチャには口止めをしておいてフーゴは頭を抱えた。
あからさまに金回りがよくなったとかいう話は聞かないが、皆一様に機嫌良く、イキイキとしはじ
めたらしい。それでいて、昼は眠そうにしている。家族にはちょっと邪険になったり、後ろめたさか
らか妙に優しくなったりと言うこともあるらしい。髪や指先の手入れも念入りになったり、香水が変
わったりと、実に「らしい」変化もあったそうだ。
５０９号室の住人について尋ねると、男たちは知らない、と一様に答えるが、女たちは、皆、眉尻
を下げて、あそこは可哀相だよね、とただ言ってあとは語りたがらないのだった。
なおも食い下がると、
「あたしにはあそこまでのことはできない」と、顔を振ってみたり、
「やっぱり頑張りすぎだと思う」と小さな声で首をすくめたり。
「ふつうにうちで家事だけやっていられて幸せだと思い知らされる」と、なにやら教訓的なものを見
いだしてもいるようだ。
「ちょっとした夜の小遣い稼ぎよね」と、笑う女性がいる。
「小遣い稼ぎって！」とたしなめるひとには、
「あんなことが無料でできるっての？」とややムキになって見せる。
「あたしもちょっと興味はある」と言った若奥さんには、
「なら混ぜてって言えばいいのに」と友人が笑いかける。
「無理！ あたしには無理！」とかぶりを振るかと思えば、
「そうよ、あれは大変なんだから！」と、訳知りに肯く年かさの女性がいたり。
街の女性たちも密かな関心をもって見守っている、と言うより共犯意識さえ持っているようだった。
目交ぜをして、いいところで話すのをやめてしまう。
「たいしたことをやってる訳じゃないわ」と、肝腎なことまではフーゴには語ろうとしないのだ。
これはどうも、確定のようだ。単なるおしゃべりの集まりなどではない。
主婦売春グループということか？
背筋のざわざわする感覚に、フーゴは意識して息を整えた。組織はまだ関知していない。そんなも
のがこの街に根を張りはじめているとしたら大事だ。ブチャラティの管理責任も問われてしまう！
フーゴは意を決して場を押さえることにした。
５
この夜も、計ったように２時過ぎ、アバッキオは部屋を抜け出した。身体を売るならもっとめかし
込んでも良さそうなのに、化粧気のない、ひっつめた髪がそれはそれで夢より現実をといった客層を
相手の原始的な商売を窺わせる。
足音を消した後ろ姿は、間違わず、５０９号室に入っていった。すぐさまその扉を管理人に出させ
たマスターキーで開けて、フーゴは押し入った。
「こんばんは。どうぞそのまま。ちょっと、事情を聞かせていただきたいんですけど。ご近所として
ではなく、パッショーネの、この街を担当するチームの参謀として」
フーゴはその場を凍り付かせる温度の声ではっきり言った。
まだ学生のような娘から、その母親の、５０がらみの主婦まで、いろいろな年代の女性が５人ほど
もそこには集まっていた。
「静かに。ヒルダが起きちまうだろ」と、リーダー格の主婦がまったく動ぜずに唇の前に人差し指を
立てて見せた。
「ヒルダって？」
「この部屋の主で、このクルトのマンマさ」と、絹糸のような淡い、かさの少ない髪をした赤ん坊を
泣かせたベビーベッドを指で指す。
「今は眠ってる。眠らせてやって。昼間はちゃんと普通に働いてるんだから」と、閉じられたドアの
奥に眼をやって言う。自分たちと同じ構造の部屋だ。そちらは寝室だろう。
「赤ちゃん？ もしかして、あんたたちはこの赤ちゃんの世話に来てたんですか？」と、フーゴは問
いただす。
集まっていた女性たちは、肯くほどの意味もないように平然としていた。
「可哀相なんだよ。まだお腹にこの子がいる頃にご亭主は事故で亡くなって。親は田舎でまだ弟たち
に手がかかるとかで頼めないんだってさ」
「仕事はなんとか育児休業から復活が認められたんだけど、３ヶ月ぐらい経ったころって、赤ん坊が
世の中のことが解ってきて、夜泣きをはじめる頃なのよ」と、こちらはナランチャがいつも懐かれて
いる小学生のおかあさんだ。
「感受性の強い子ほど日が暮れる頃、主婦が忙しい時を見計らってギャンギャン泣くんだわよねえ」
と、こちらの奥さんの子供は、今年幼稚園に入って少し手が離れたと言っていただろうか。
「あたしもそうだったって、マンマがよく言ってたから。なにか手伝おうと」
夜なのでコンタクトを外してしまって大きな眼鏡を掛けているから雰囲気が違う。このノルマとい
う娘は女子大生だったはずだ。
「そんな立派な気持ちじゃなくっても、赤ちゃんってなんてかわいいんでしょう！」と、夢見るまな
ざしの若妻は、ああ、これがたしかチェチリア。
「機会があるならいつまででもお世話したいものよね」
「こ汚くて生意気になってきた自分の息子なんかよりよっぽど好きだわよ」と、世代を超えて皆が同
じ気持ちで目を見合わせてニコニコしている。
「で、あんたもですか」と、後ろ手に編み物を隠してふて腐れているライオンちゃんに目を向けると、
「近いから。夜の自由時間に何しようとひとの勝手だろ」とある意味予想に違わぬ答えを返してきた。
「それで、なんです？ その後ろに隠したもの」と、フーゴはいたぶってみる。
「ああ、……あんたがやいのやいのいってたもの」と、アバッキオはそっぽを向いて前に押し出した。
ブチャラティのいつものスーツに映えそうな、艶やかな濃い藍色の、ほんのまだ肩幅ほどの、ちょっ
とした編み込み模様の入ったマフラーのひよこ。
「フーゴ、レオナを苛めちゃダメだろ？ ブチャラティから貰ったお金でブチャラティのプレゼント
を買うなんてナンセンスとか、そんなこと言ったらあたしたち主婦は亭主になんにも買ってあげられ
なくなっちまう」
「レオナ悩んじゃってたんだから！」
「い、いえ、そんなつもりは」
おかみさんたちに指摘されて、フーゴはたじたじとなる。
「だから、労働奉仕込みの物々交換ってかたちにしたからね。大目に見てね」
「毎晩ここへ来てクルトのお守りを手伝って、空いた時間にうちの娘の法学のレポートを見て貰うか
わりに、娘が彼にって買い込んでそのまま挫折した毛糸を提供して……ものはいいんだよ？ 極上の
シルクヤーン！ 染めはミラノだし！」
「マンマ……」ノルマが恥ずかしそうに母親の袖を引く。
「わたしがデザインブック見せてあげて。初心者にはきついんじゃって言ったんだけど」と、先ほど
の幼稚園児のマンマが微笑む。
「指導はあたしよ。ある程度の年頃の女なら、刺繍やら、キルトやらニットの手も付けてないキット
や途中で挫折した材料が一財産ほどもあるものよね」
「あたしも。旦那には見せられないバスケットの中にごっそり……」と、産着を畳んでいた若奥さん
が肩をすくめる。
「あたしの隠し財産、一昨年のシーズン・オフのバーゲンで買ったスワロフスキーのビーズ一山……」
と、チェチリアがまた夢見るまなざしになる。
「解るわぁ」
ため息が場を支配した。
「レオナはある程度頭も良くて器用だから飲み込みいいし、できあがりは期待していいわよ、フーゴ」
「完全主義過ぎるから時間がかかってるけどね。ひと目ぐらい間違ってたほうが手作り臭くていいの
に」
「ほんと。あなた、帽子とかマフラーとかもう少し頼めない？ 教会のナターレのバザーに出すから」
口々に言われて、
「あ、ああ、これができたら」と、面はゆそうにアバッキオは答えた。
明け方、起き出したヒルダと交代するときに挨拶をして、少々の事実の確認をして、フーゴはアバッ
キオと５０９号室を後にした。
「助かってます。ホント、皆さんにはお礼の申しようもなくって」
言葉少なに頭を下げるやややつれた姿にフーゴも汗をかいてしまった。未成年とはいえ、目覚めた
ら家に男が勝手に上がり込んでいたのだ。とんだ早とちりで失礼をしてしまった。
確かに、淡い色の金髪と意志の強そうな口元は少しアバッキオに面影が通じるところがあって、ク
ルト坊やがアバッキオをお気に入りなのは納得できた。
「黙っててよ？」
肩を並べて階段を下りながら、アバッキオは低い声で念押しした。
「解りましたよ」
「いいじゃん、あんた、あたしのことライオンライオンっていつも言ってるんだし。ライオンって、
夜行性なものだわ。すこし夜にお散歩して、近所のひととお話ししたりするくらい、いいでしょ？」
「夜行性、ねえ……ちゃんと言っていけばいいんですよ。皆さん、家族に心配掛けて」
「だって、なんか、偉そうじゃん……ふつうに、できることをするだけなのに」
「そうですね。できることを提供しただけですよね……
でも！ なんであんたあのひとからのプレゼントの認識票置いていったりなんかするんですか！
あのひと傷付いてましたよ！」と、小声のまま、勢いを落さずに叱りつける。
「だって、赤ん坊の世話をするんだから、ああいうものは外すのが常識だろ？ 痛い思いさしちゃ可
哀相だし、引っ張られたらこっちも痛いし」
コロンもいつものエッジの立ったシトラスのものはつけていなくて、優しい自然な石鹸の香りだけ
がかすかにしている。長い髪を束ねたのも、赤ちゃんに接するための身支度と思えば当然だった。
「……やっぱり、秘密はいけません」
「解ったって！」
翌朝すぐ、上司にはかいつまんで報告した。
「そうか、赤ちゃんか……聞こえてたかな、猫の盛りの声にしちゃ変だと思ってたんだが」
「ああ、そうでしたね」と、同じフラットに部屋を持つフーゴは今更に肯いて見せた。
「でも、やっぱりレオナは優しい女だよなあ。そうか、できることをするだけ、かぁ……」
「はいはい。ああ、それから、ジャポネの昔話にあるそうですが」
「夜な夜な子供の世話をしに外出する女の話がか？」
そういう怪談も、あったかも知れないけれど。
「女が夜な夜な別な部屋に入って、『見ないでね』と言った場合は、のぞいちゃダメだそうですよ。
中で、恩返しにいいものを作ってるんですって。だから、あんたも、誕生日は期待してていいみたい
ですよ」と、約束に抵触しそうな話をしてしまう。あれだけ心配させられたんだから、これくらいは
当然、とばかりに。
「そうか」
「ライオンは夜行性なんですってさ」
「ああ、夜行性か……それって、夜の方が元気ってやつ？ おまえも大人な冗談言うなあ……」
「違いますッ！」
とぼけた顔なりに、ブチャラティも憂いが晴れてかろやかに笑った。
６
時は流れてブチャラティの誕生日当日、皆で外食した帰りに、一行が縄張りの境界になっている川
にかかった大きな石橋にさしかかる頃、アバッキオがそっと紙袋を出した。
「これ……気に入らなかったら捨てて構わないから」
「なんて言い方をするんです！
ブチャラティこれ、極上のシルクヤーンで、ミラノの染めの最高級の糸だそうですよ。このひと１ヶ
月も前から夜にこっそり部屋を抜け出して、ヒルダさんのところで子守をしながら編んでて。
中級者向けの手の込んだ模様なのに、このひと完全主義者だから、ちょっと間違うと１から編み直
して、もう３本編めててもおかしくないぐらいの日数掛かってるんですよ！」と、フーゴは横から解
説をしてしまう。
「フーゴ、うるせー」
ナランチャが笑った。
「いやーこれは言わなきゃ手編みって判んねーよ？ いいできだ」横からミスタが街灯の下に広げて見
て、褒めそやした。
「ありがとう。大切にするよ」
ブチャラティが珍しく全開で笑って見せた。
「これ編んでたから夜ヒルダさんとこ？ 入り浸ってたんだ？ もーブチャラティが、レオナが夜遊
びしてる、おれはもう飽きられたってしょぼくれたのそのせいだろ？」と、ナランチャがうっかり口
を滑らせた。
「夜遊び？」と、一歩引いてはにかんでいたアバッキオがそれを耳に留める。
「途中の内偵の間は、主婦売春のグループを挙げられるかも、なんて勢い込んでたなーボーズ」と、
ミスタがにやにやした。フーゴは慌てて言い訳する。
「あんたがいけないんです！ 露骨にブチャラティに向かってさっさと寝ろって顔してたから。そん
で大切なプレゼントを外して出かけて、違うひとの匂いを付けて帰ってきたりするから……ッて、何
するんですかッ！？」
ライオンちゃんは無表情に自分のはじめての作品を奪い返すと、ネアポリスの街を二分する川に橋
の上から叩き込んだ。マフラーは風をはらんでふわりと広がって落ちてゆく。橋の下には、季節柄
水量が少ないため、水面まで道路からは建物でいうと２階分ほどの高低差をもってさらさらと川が流
れていた。フーゴはそれを追って橋の欄干を蹴ってダイヴする。
「閉じろ、ジッパーッ！」
なりふり構わずブチャラティがスタンドを繰り出す。
手をいっぱいに伸ばしたフーゴが心づくしのプレゼントになんとか指先を引っかけ、たぐり寄せる
と両腕の中に抱き込んだ。それを水面までいっぱいに張り巡らされた開いたジッパーの端がうまく引っ
かけて、急速にその両側を綴じ合わせるようにたぐり寄せ、橋脚に貼り付けるように掬い上げた。
「そんなこと、思ってたんだ？」
つんと顔を背けて、アバッキオはもう歩き始めていた。
「いや、だってあんたなんも言ってくれなくて。急にノリ悪くなって。おれだって不安だったんだっ
て。マンソーニさんからは奥さんの様子が変だって相談受けてたしッ」と、ブチャラティはフーゴを
回収するより恋人の機嫌を取り結ぶ方を優先して、しどろもどろに言い訳をしながらアバッキオを追っ
ていってしまった。
「……あーあ」
ナランチャがそれを見送って笑ってため息を吐いた。
「なんで余計なことを言うんですかあんたたちはッ！」
橋脚に貼り付けになりながらフーゴが怒鳴る。
「だってー」
それを見下ろしてミスタが背中を細かく揺らせた。
「いくらなんでもおれ達あのオネーチャンが売春グループに入ってるとかまでは思わなかったもんなー」
「なー」と、ナランチャとミスタが仲良く頷き合っている。
「ぼくは参謀として最悪の状態を想定して動いてたんですッ！」
「だってさー」
「おれたち頭悪くてよかったなー」と、二人はとぼけた。
「ちょっと！ 出してくださいよッ」
「ナランチャ、縄ばしごどこだっけ？ おれ新入りだからわかんねー」
「えーおれバカだから知らねー」
「ナランチャ！ 頼みますよッ！」
結局翌朝になって思い出したブチャラティに引き上げられたフーゴは、仏頂面でアバッキオに詫び
を入れに行った……？
「あんたも、もういい大人なんですから、世の中がゼロか１かでハッキリ分かれるものだなんて思っ
てないでしょう？ 思わないでください」
早とちりの美少年の口調は全然謝っていない。
「あァ？」
「完全主義もいい加減にしないと生きにくいってことです」
フーゴは、高姿勢を崩さない。
「ちょっとぐらい誤解から行き違いがあった程度であれだけ真心込めたプレゼントを捨てちゃうこと
ないでしょうッ！？」
「だって」
「熱烈に愛しあってるかどうかなんか、聞いてないんですよ、ああいう出会いなんだし。あのひとの
こと、嫌いじゃないんでしょ？」
「うん……」
「ここでぼくらと一緒に生きていくのも、イヤじゃないですよね？」
「うん」
「今はそれだけでいいです。それ以上は要求しませんから、あんたもそれ以上をぐだぐだ考えて周り
を暗くしないでください。いいですねッ？」
「うん」
「返事はハイ！」
「はい」
アバッキオは笑っていた。
「ぼくもね、あんたのこと、嫌いじゃないですから。
昨日のアレ、ちゃんとブチャラティに返しときましたから。大切にしてくれるそうですよ」
顔を背けて、恩に着せるようにフーゴは言う。
「ありがとう」
自然に、柔らかく笑う顔を盗み見ながら、フーゴはほんの少し温かい気持ちになっていた。
「フーゴ、それで、あんたの誕生日は？」
何気ない様子で、アバッキオは聞いてきた。
「そッ、そんなことはあんたに教える必要を感じませんッ！ ぼくはあんたと馴れ合ったりしません
から、そんなこと、なんにも考えなくていいですッ！」
急にわざとらしく怒鳴り散らして、フーゴは駆け去っていってしまった。
（２２−０８−０９）
蛇足。
ブチャラティのお誕生日には、拾われた身としては何をお返しするべきか。イロイロ考えて、自分
で稼いだものプラス手作りにして貰いました。これなら文句はないでしょう。
子守のお駄賃に毛糸を貰って編み物を教わるアバッキオというのは思いついてたんですが、ここは
久々にリヴァース・ヴァージョンでいってみました。
わたしは、真心籠もった手作りのものの出来についてあれこれ言ってはいけないという考え方には
懐疑的です。人様に差し上げるからには最低レヴェルはクリアしてるべきでしょうと思います。その
最低レヴェルにもいろいろありますけど。
ちょっと、リヴァース・モードのアバッキオ嬢が完璧超人になっちゃったかなという感じもします
ね。
リヴァース・ヴァージョンのフーゴはホントにライオンちゃんが気になって気になってしょうがな
い子ちゃんになってしまいましたが……ま、これも青春。彼は、出遅れながらも結局サルディニアに
まで追っかけて行っちゃって、死体置き場で自分の初恋に涙でさよならすることになるんでしょう。
おまけ。
「じゃあッ、ベッドで満足できない女性が夜にこっそり出かけてどういう風に『発散』してると思っ
てたんですかッ！？」
フーゴは惑乱して皆に尋ねた。
「えーっ、車でトバすとけっこーエクスタシー？ だよな？」と、ナランチャがオートバイのハンド
ルを握る仕草をして見せた。
「それもいいけど、ギャンブル、じゃね？ あのスリル、堪んねえ。すんげえ色っぽい目になってる
ねーちゃんとか、カジノで良く見るぜ」と、横目になってミスタが首筋を微妙な角度にしてみせる。
「古来、ダンスはそういう女性のエネルギーの昇華の手段なんだと思ってたが。ただ、そういう場所
じゃあ絶対全身煙草の匂いが付いてくるはずだから、おかしいなって……」
終いにはブチャラティが静かな目をして言ったので、フーゴは自分が汚れきっていることを痛感し
た。