Ｂｕｏｎ Ｎａｔａｌｅ！
その朝（４３）
１
その電話を、取るなり彼女は緊張した。
「ああ、忘れてない、忘れてないよ」
直立不動で、皆から距離を取ることも忘れているから、皆はフーゴが合図するより先に
そっとテーブルから離れた。
まだ５日間残っているアジトに貼ってあった１１月のカレンダーを、週が明けるなり待
ちきれずもうめくってしまったのはナランチャ。この１週間分の予定をどうしてくれると
拳骨をくれたのはアバッキオ。でも、気持ちもわかると言って、その一週間分だけ切り取っ
て、１２月のカレンダーの上に貼り付けて対応したのはミスタ。まあ、１２月は週末はじ
まりだから、カレンダーには余白が取ってあって別にたいして差し支えはないと澄まして
いたのはチームのリーダーと参謀。町中がもう聖誕祭に向けて動きはじめていた。
だから、その電話の相手を皆が察して、気にしないふうで気遣う。
「解った。ちゃんと連れて行くから。大丈夫。そんな！ 破局なんて、してないって！」
常になく、冷静沈着なはずのリーダーが電話口で絶叫する。ミスタが堪えきれず忍び笑
いを漏らした。と、すぐにアバッキオを見て背筋を伸ばす。アバッキオは怒りからか羞恥
からか真っ赤になっているが、電話に入るのを恐れて行動には移さない。
……おやおや、とうとう親に紹介することになったみたいですね。
短いやりとりから、状況を把握してフーゴは内心溜め息を吐いた。つぎに参謀に振られ
る仕事の内容が彼には推測が付いたので。
「じゃあ、いつものところで。６時半。うん。また間際になったら連絡する。え？ 大丈
夫。じゃあ、ご主人によろしく。愛してるよ母さん」
作り笑いを顔に貼り付けたままブチャラティが電話を切ると、わざとらしくナランチャ
がミスタを誘ってゲームを始めた。
「ええと、アバッキオと、フーゴ、ちょっと来てくれ」
ブチャラティは途方に暮れた顔でオフィスに２人を連れ出した。
「頼む、フーゴ、シナリオを書いてくれ」
ほら、やっぱり。
パッショーネのネアポリスを締めるブチャラティ・チームの頼れる参謀は、ナターレに
特別給を請求してやる気になった。
２
ブチャラティは、離婚して都会に出た母親とはナターレの時だけ面会する約束が続いて
いた。父親は、「ちょっとした事故」のあと、退院してしばらくして亡くなったことになっ
ている。ブチャラティも、成績が優秀だったものだから奨学金を受けて、今はネアポリス
に出て身元引受人の弁護士の事務所を手伝いながら法律の勉強をしているという建前。母
親は、どのくらい察しているものだか、あまり真剣に娘の現実を探って、結果引き取ると
いう話になって今の生活を崩すことを恐れてもいるのかも知れないとブチャラティはいや
にドライなことを言う。
「だから、建前だけぼろが出ないようにできればいいから。そんなに完璧に作り込むこと
はない」と、フーゴの負担を減らそうとする。
「いいですよ。こっちも、去年そう言う話は出てたんです。あんたも、もうそろそろボロ
が出る頃でしょう。もうここらでもう大人なんだからお互い今の家族を優先しようって言っ
ていい頃ですよ」と、フーゴは手を振ってそれを退けた。
「あ、ああ……」
出てたのか、そんな話、とブチャラティはアバッキオに眼で質す。
「やっぱり一応挨拶はして置いた方がいいだろう」
アバッキオは石頭を正しくこういうところで出してきた。
「去年ちょっと口を滑らせてしまって……済まない」
眼を落すブチャラティの肩を、アバッキオの手が抱き寄せる、とまでは行かず、ただそっ
と押さえた。
「はいはい解りましたから。
開示している情報と、絶対隠すべきポイントを言ってください。つじつま合わなくなる
と困りますから。人名は基本、実在のを使っちゃってるんですね？」
前髪の中に左手を突っ込みながら、フーゴが脳細胞をフル回転させ始めた。
３
「あ、それ貰いましょう」
呼ばれてブチャラティが出て行ってからもアバッキオの「家出」の理由についていろい
ろ考えていたフーゴは、ちょっとした昔話をアバッキオから聞き出して指を鳴らした。
「仕事でしくじってすぐにやめたとか、家業を継ぐのがいやで親と喧嘩して飛びだしたと
かより、小さいころからの許嫁（いいなづけ）に裏切られていたたまれなくなったって方
が罪がなくていい。同情も買えそうだ」
アバッキオは返事に困って黙り込む。そちらの親に挨拶をと言われても困るので、家出
中で実家に顔を出せないという理由が必要なのだ。
「あんたにそんな気の利いた過去があったとはね。道理で妙に女性に優しいと思った」
「いや、それは」恐ろしい従姉や姉たちに頭を押さえつけられて育ったからなのだが。ア
バッキオはこれ以上さらに恥をさらすのを恐れて口ごもる。
「それで割り切りがいいと思ったら。２重に後がなかったんですね、あんた」
吐息が続き、少し、詠嘆の入った口調だった。
「でも、良かったですね、あのひとに拾ってもらえて」
「ああ」
やっと、アバッキオは胸を張って返事をすることができた。
「でも、そのいい役目はポルポにやって貰います。弁護士！？ また立派な役を振ったもん
です。最初は誰が書いたシナリオだったんだろう……？
はい、じゃあ、去年の夏の終わり、許嫁の心変わりが田舎の町中の知るところとなって、
腫れ物扱いにいたたまれなくなってネアポリスの酒場でちょっと問題を起こしたネアポリ
ス大の学生のレオーネ君は、そういう少年の身元引き受けとかをよく押しつけられてる弁
護士のポルポさんちに厄介になります。そこで出会ったのが、電話番のアルバイトをやっ
てる女学生のフロラ。何度か出入りしているうちに二人は恋に落ち、今ではもう固く将来
を誓い合った間柄に……ってとこでどうです？」
「あ、ああ……」
まだ学校に行っていておかしくない年のフーゴが、こんな話をすぐさまでっち上げるの
にしみじみアバッキオは圧倒される。
「小道具買っといたらどうです？ この際」と、使える参謀君は畳みかけた。
去年はまだ気恥ずかしく、サイズも解らなかったのでネックレスにしておいた。襟元を
開けないブチャラティのいつもの装いではそれは身を飾ることはなく、本人が言うには、
もっぱらクローゼットの肥やしになっていて、時々ブチャラティは夜中に出してみては蓋
を開けてニヤニヤするばかりだという話だ。
「ただし！ 学生が奮発して買えるだけの値段のものに限ります！ 安物の方がかえって
いいです」
「解った」と、アバッキオは従った。
「ふつうにしてればあんたらがお似合いだってことは伝わってきますから、あんまり余計
なこと言っちゃダメですよ？ ロマンチックな方向で。まだ、ほぼ毎日ポルポの事務所で
顔合わせてる以外は週末お互いの部屋を行き来してる程度って設定で。学生なんですから
ね。あのひとのうちのトイレットペーパーの残りの量まで把握してるみたいな所帯臭さなん
て間違っても出さないでくださいよ」
「……」
じつに痛いところを突かれたのでアバッキオは黙って奥歯を噛んだ。
「スカルラッティさんには悪いけど、今度は吊るしのスーツで。ふつうの田舎育ちの学
生が、恋人の家族に初めて会うんで慌てて買った安物ってカンジで一着揃えてください。
あんたはふつうにしてれば十分見栄えはいいし、行儀もそんなに悪くないから、緊張しな
けりゃまあだいじょうぶ、いけるでしょう。
いいですか？ フロラはアルバイト先でもよく気がついて優しくしてくれた。そんだけ
で十分ですから。あんたらまじめですから他のバイト生よりこまめにポルポのオフィスに
も顔を出してて、いつも一緒にいることが多かった。年頃なんですからそれだけで好意を
持ち合うのは解ります。まして、あんたら美男美女で気だてもいいんだし。ふつうに、自
然に仲良くなった、それでいけますから」
「ああ……」
フーゴもこの男の使い方を解ってきているので、多少持ち上げつつも細かく指示を出し
て線路を引いていやる。道筋さえ付けてやれば、安全確実に仕事をこなせるのだ。実際ア
バッキオは言うとおりに服を揃え、悩んだ挙げ句に少し髪を切ってきた。毎日細かいとこ
ろを詰めていくうちに、捏造された学生同士の恋物語はどんどん本物らしくなっていった。
……そんなふうに出会えてたら良かったと思ってるんだろうな。
アバッキオが考えがちになっているのを見て、フーゴはそう思いやった。
ブチャラティの方にも参謀はくどくどと設定を確認する。
「聖なる日に親を騙すことばかり考えているというのも因果な話だな」
ブチャラティは自嘲的に薄く笑った。それを見て、アバッキオの眉尻が露骨に下がる。
「やめてくださいよ」
注意をしたのは、フーゴだった。
「あんたはそういううすら黒いことを口に出すだけで無意識にスッキリするかも知れません
が、このひとはそういうネタを聞いてしまったら一週間ほども引きずるタイプなんだから
やめてください。そのあとこの精神的マゾヒストのカウンセリングを引き受けるぼくの身
にもなってください」と、フーゴが決めつけた。
「だって、エマヌエレ司祭様が……」
ブチャラティは不本意そうに言い訳する。
「一緒です。相手して貰ったお礼に献金の小切手持って聖モニカ教会に挨拶に行くのもぼ
くなんですから」
「……解った。自重する」
なんだか気の毒に思いながらも、フーゴの心配りにアバッキオは胃の辺りを撫でながら
感謝していた。
４
オフィスで二人になったときの会話もその話題だ。
「それで、一応聞かれたときのために……
なんとなく、事務所で顔合わせてるうちに自然と……でいいんだけど、
一度食事作ってくれに来たときに、なんか雷、鳴ってそれでってカンジでいけってフー
ゴが。……いいか？」
ブチャラティが珍しく言葉に困っている。
「ああ」
「念の入ったことだ。なあ？ 別に日にちまで厳密に決めなくってもと思うが、去年の秋
ぐらいでいいだろ？」
「１０月２３日が、丁度週末でうまい具合に雷雨があったらしい」
アバッキオは実にきまじめに答えた。
「え？」
「フーゴが気象台に問い合わせた。
……あんたはそういうの忘れてそうだが、おれは執念深く覚えてたりしそうだからって
さ」
しばらくブチャラティは口を開けたまま言葉を探していた。
「……ちなみにほんとにあんたに拾われたのは次の週の金曜日」
横を向いて、早口にアバッキオが言い足した。
続けざまに喰らって、とうとうブチャラティは笑い出した。繊細な大男は傷付いたよう
にかぶりを振る。
「笑うなよ」
「済まない……本気で協力してくれるんだなと思って」
笑いながら、温かい眼で見上げる。
「ああ。……本気だ」
「うん」
「感触が良かったらその場で申し込むからな」
珍しく、覚悟を決めた本気の声が、アバッキオの腹の底から出ている。
「え？」
「心づもりはして置けよ」
「うん」
言葉が少ないのは、波立つ内面を抑えかねているせいだ。ただ表面には、隠しきれない
感情が零れだしていないか不安で面を伏せようとする動きにしか現れていない。それを、
明確には認識していないが、混沌としたモヤモヤのままにアバッキオは知覚して、フォロー
のために無意識に手が伸びる。
「……てるよ」
耳元での低い声は、オフィスなので抑えに抑えて切れ切れになった。黒い髪ごと腕の中
に抱き込んで、必要なときに、必要な最小限の言葉を囁く。それで心は鎮まる。もうそう
いう関係ができてしまっている。言葉の内容よりも、そういった状態に気付いた幸せに、
ブチャラティの胸はいっぱいになった。
「なあ、ブチャラティのオフクロさんにアバッキオが会うとなんか変わんの？」
パトロール中、ナランチャが心配げにミスタに質した。
「えー？ べつに。なんも変わりゃしねえよ」と、ミスタはすぐさま応じた。
「アバッキオは固てーから、ずっと、ちゃんとしなきゃいけねえって思ってたみてーだけ
どな。ねーさんはああいうひとだから、実質がそうならべつに形にはこだわらねーだろーよ」
「ああ、そうだけどさー」
あの二人が揉めると、過保護なフーゴが付きっきりになるからナランチャがほったらか
しにされてしまうのだ。
「ミスタが入ってくれておれほんと助かってるよ」
寂しがりの少年はそう言って笑った。揉める原因も多分にミスタが作っていたりするの
だが、ナランチャは思い至らない。
「ねーさんはあっさりしてるし弁えてるから、やつらが教会に行こうが行かなかろうがア
ジトじゃあべたべたしねーだろ。そんでアバッキオは安心して当分落ち着くだろーし。
アバッキオが亭主面するとちょっとことだが、ねーさんの方が強いしな。一発で言うこ
と聞かせそうだ。大丈夫だって」と、愉快そうに言ってガンマンは背中を揺らす。
「そーかー？ じゃあ、アバッキオが観光客のおんなのひとにきゃあきゃあ言われたとか
でブチャラティが爽やかーに笑いながら延々アバッキオのこと拳でぶん殴ってたり、川向
こうの会議についてったアバッキオがブチャラティが会議終わって出てきたらグリマルディー
ニのメイドさんと延々話し込んでたのが気に入らないとかいって３日もアバッキオのこと
無視したおしてアバッキオが見てらんねーほど焦りまくったりとかいうこと無くなるかな？」
と、ナランチャは大きな眼をくるくるさせて言う。
……けっこーこいつ子供コドモしてるわりに。
ミスタは胸を突かれて認識を新たにする。
「最近はフーゴも持てあまし気味でさ。
アバッキオは、もう自分はギャングだし、こんないかれたカッコしてるから女が自分に
言い寄ってくるってことありえねえって思ってるみたいだけど、入ったばっかのときなら
まだしも、今はもう安定してきて、根が真っ直ぐで面倒見のいいところがモロバレで、そ
れがあの格好とギャップでなおさらクルんだっての全然わかってねえんだって。そんで無
造作に女に親切にしてやるからメッチャ危険で、ブチャラティが気が揉めるのも当然なん
だってさ。でも、ブチャラティの方は経験がないから自分がヤキモチ焼いてるって自覚も
なくて、言ってやっても真顔でしらを切るんだって。
だから注意してやるのも馬鹿らしいから放っとけって」
「あ、ああ、なるほどな」
「べつに泣かしてるんじゃないからアバッキオ殴るわけにもいかねーし。でも、そーゆー
ブチャラティ見るのもなんかイヤじゃん？」
……ねーさん、見かけによらねーな。
ぼそぼそとこれまでの心労を語るナランチャをよそに、ミスタはリーダーのの心理の複
雑さをしみじみ思い知っていた。
５
準備はいろいろと整って、とうとう１２月２４日。４時の高速新線で二人はローマへ出
てブチャラティの母親に面会する段取りになっている……。朝からアバッキオは落ち着か
ない。ブチャラティは、間に合わせに買った安物の指輪をもう左手にしていて、それに目
を留めてはにやにやしている。青い石を真ん中にした花のようなデザインで、あまりにも
ブチャラティらしくないのだが、だれもそれを指摘しはしない。
昼過ぎにフーゴは電話が入って横っ飛びに出て行った。帰ってきてからはしきりに口元
を気にしている。
３時を回った頃、そろそろ着替えてきたらとフーゴが二人に声を掛けたところで事件は
起った。
「火事だぜッ」
ナランチャがサイレンの音を聞きとがめて駆けていった。
「ブチャラティ！ 川向こうの北の町外れが、凄い火事！ あの辺に残ってた木造の古い
家に誰かが火を掛けたって！」
珍しく携帯を使って、帰ってくる時間を惜しんでナランチャがまくし立てる。
「ばかな！」
一同が声を発した。
「あの辺って、所有者が入り組んでて、住んでる人はもういないのに取り壊せなくて持て
あましてたんですよ、長年。知らない間に入り込んでるホームレスもいるとかで。グリマ
ルディーニもずっと手を焼いてて、それをブチャラティに押しつけるつもりもあったんで
しょうね、この秋の引退は」
「じゃあ住んでる人がいるんじゃないのか？ それに火を掛けるって、正気か？」
アバッキオが聞きとがめて正義の心の消え残りを燃え立たせる。
「そういう気持ちも多少はあるんでしょう。焼き殺すと言うよりは燻り出す方向でしょう
が」
「そういう難しい問題が絡んでなくたって、これだけの火事ならひとを出さないと！ フー
ゴ、グリマルディーニに繋いでくれ。わたしも出るが、何人出せるかちょっと問い合わせ
て。いつもの通り消防と連携取って野次馬整理を引き受けないと」
「な、何言ってるんですかァッ！？」
フーゴが逆上した。
「あんたは４時の特急でローマへ行くんでしょう！ おかあさんにアバッキオを紹介しに！
今日逢わないとまた来年まで逢えないんですよ！」
「べつに一生逢えないってわけじゃない。おまえがムキになってどうする、フーゴ」
「大丈夫ですよッ、グリマルディーニの方に、このナターレにも帰る家もなく、一緒に過
ごす恋人もなく行き場なくオフィスでくだを巻いてる連中がゴロゴロしてますからッ、そ
いつらに行かせますッ。あんたらが出張る必要はありませんッ」
「フーゴ、なにをムキになっているんだ、こういうときにわたしが出て行かなくてどうす
る」
「だって、あんた今日は年に一度の……」
「関係ない。今日わたしが出て行かなかったらみんなに悪いだろう。今後の示しの問題も
ある。さあ、支度をするからそこをどいてくれ。母さんには今電話を入れる」
「アバッキオッ！」
フーゴは振り返ってこの日のためにいろいろ仕込みをしていた相方の加勢を頼む。しか
し、アバッキオはリーダーに忠実だった。
「おれたちはこの街をしきることが仕事なんだ。そうだろ？ フーゴ」
「ねーさん、今車回すから。ナターレのミサがあるんで町なかは聖ルチア教会を中心に通
り３本まで封鎖されてるって」
ミスタはリーダーのプライヴェイトには構わず自分の仕事をしようとする。
「一方通行の逆走を許可する。今は第一に現場に急行するのが目標だ」
「じゃー小さい方がいいかな？ 取ってくる」
「フーゴとナランチャは留守番で情報統制。アバッキオは付いてきてくれ。出る！」
凛々しくブチャラティが出陣した。
「ブチャラティさん、どうも、せっかくのナターレに不行き届きでご迷惑を掛けまして」
タルティーニはナターレということで休みをもらっていて、今日は古株のミッソーニが
かわりに場を仕切っていた。
「状況は？」
「とりあえず、飛び火はしてないですが、この区画は全焼でしょう。ホームレスたちは、
なにしろいつも何人いるかが掴めてないんで確かじゃないですが、お互いに確認させたと
ころほぼみんな逃げて無事です。
３日前の雨のせいですごくくすぶってますよ。風向きが悪いんで、煙はほとんど全市に
流れます」
「それくらいは我慢させろ。別に星を見る日じゃない」
人的被害がないと聞いて安心してか、ブチャラティは短く切り捨てた。
「交通にも影響が出るんじゃないかと。消防が市警に連絡取ってます」
「そっちはこちらには関係ないな。野次馬はどうだ？」
「ナターレの休暇で暇してる若いのが結構来てます。うちからふつうの火事より倍の人間
を出して整理させてますがちょっと」
そこへ、ひときわ大きな声が上がって、どよめきが続いた。あからさまに殴り合う音が
続いている。
「どうした？」
「ミッソーニさん！ 放火の犯人らしい連中が開き直って暴れ始めて！ 手前たちがやっ
たって吐いたもんだから野次馬どもがリンチに掛けようと騒ぎに」と、川向こうの地回り
が息せき切ってやってきて報告した。
「……止めろ、アバッキオ。ミッソーニさん、４，５人加勢してやって」
ブチャラティが疲れたように指示を出した。
「どうもすいません。火を掛けたのはうちのもんじゃないですが。独立系のチンピラです」
「独立系ってのは面白いな。この街で粋がってる奴らはみんなパッショーネの構成員って
ことになってるんじゃないのか？ どうなんだ？ ミッソーニさん」とブチャラティが聞
きとがめた。
「いえッ、……だいたいは声を掛けて取り込むんですが、このところはそういう理屈を理
解しねえで気ままにやるヤツが増えてるんでさ。今回のも、そういうヤツです」
「引き継ぎの時にはそういう話は出てなかったと思うが。ちょっと事情を詳しく聞かせて
貰おうか。パッショーネの威光が衰えてるなんて話になったらボスから制裁がくだるぞ」
グリマルディーニの古株が震え上がった。
６
「この罰当たりどもがーッ！ どうして聖誕祭の日ぐらい大人しく信心深く過ごせないん
だーッ！？
行くあてのない困ったものがやっと身を寄せているところに火を掛けるなんて、おまえ
らそれでも人間かーッ！？」
アバッキオは大活躍。両腕に一人ずつを抱えて振りまわした上に投げ飛ばして、野次馬達
からはどよめきが上がった。
「……なんかいつもより倍暴れてないか？」
特急の発車時刻をとうに過ぎて、様子を見にやってきたフーゴを振り返って見て、ブチャ
ラティは囁きかけた。
「まあ、いろいろあるんでしょう。この日のためにいろいろ準備してきたのに、とか、で
もやっぱり会わなくて済んで良かったとか、そう思ってる自分がうしろめたいとか、いろ
いろ」
「ああ……わたしも正直ホッとしている」
「やっぱりおかあさんに彼を会わせるのは気恥ずかしいですか？」
「なんていうか、まだ当分母さんの前では小さい娘でいたい、かな？」
「ああ、そうでしょうね……」
まだ学校に行っていてもおかしくない年なのだ。実際、そう偽ってもいる。
「だが、まあ、先は長い。来年のお楽しみだ」と、ブチャラティは無意識に左手を広げて
薬指に光っている指輪に目を留めてふと唇を緩めた。
おや、珍しい。日頃、ギャングなのだからいつどこで死ぬか判らないというのが口癖な
のに。
フーゴはさりげなくリーダーの顔を見上げた。
聖誕祭の飾り付けの電飾で、白いちいさな顔は日が暮れてしまってもよく見えた。突然
の乱闘騒ぎにも、いつもの通りとぼけた顔にほんの少しの微笑みを浮かべている。
このひとも、アバッキオを得て少しは変わったということだろうか。
去年アバッキオを得て、今年更にミスタを迎え、チームもまた変わってゆくのだろう。
そして、この街も、少しは住みやすく……。
ばかな。
甘くなっている自分に気がついて、フーゴはかぶりを振った。長く垂らした前髪がしな
る。それが、ほんの今日の午後あったことを思い出せた。
……フーゴ、その髪、邪魔じゃないの？
自分の眼を真っ直ぐ覗き込んでくる輝く青い瞳にも今年は出会えた。
……もう慣れたさ。関係ないだろ、きみには。
……関係あるわよ、キスするときいちいち手で避けないといけないじゃない。
え？ と言うまもなく、天才少女は距離を詰めて、また離れた。唇に柔らかい感触を残
して。
……次はあんたの方からしてよね。来年の宿題。じゃあね。良いお年を。
良い年をって、もうあとは新年まで逢わないつもりかよ、と憎まれ口を察して声が飛ん
でくる。
……あたし、お正月はいつもスイスの別荘だから。年明けはそのまま学校に直行よ。
かろやかな笑い声に、またしてやられても、もうそれが心地よいと思えるようになって
いる。
……来年こそは、こっちが度肝を抜いてやるんだからな。
ほんの今日の午後のことを思い出して、フーゴはすっかり顔を緩めている。
来年こそは。
いろいろ絡み合った複雑でやっかいな現実をすっぱり解決していい明日を迎えられるよ
うになる。そんな自分になれる。
そんな奇跡を信じてしまいたくなる、今夜は聖夜。
（１１−１１−０９）
蛇足。
ってそんな来年来ねえんですけど。切ねえ。
ブチャラティの母親は、娘がそういうヤバイ仕事をしていることに本当に気づいてなかっ
たんでしょうか？ なんかヘンだとは気づいていても、今の自分の生活の方が大切で、子
供を置いて出たという負い目もあって、積極的に探ろうという気はしなかっただろうとい
うのがわたしの考えです。
そして、彼女たちに来年はなかった。
「今年もナターレは仕事で逢えません。ごめんなさい。よいお年を」と書いたクリスマス・
カードを、ひとり事情を知るものの中で生き延びたフーゴが、毎年こっそり出している……
という考えを娘は言ってました。そうして、母親はずっとブチャラティの死を知らない……
と。
それも哀しいなぁ。
母親がローマに住んでいるとしても、コロッセオでなにやら異変があった日に無差別殺
人に住民を巻き込もうとしていたマフィアから皆を救って命を落した英雄が自分の子だっ
たなんて、……知らないままなんですね。
ブチャラティにとって母親はもう思い出の中のひとなので、どう思われてももう平気、
天国へ旅立つ前にもう一度逢いたいと願う対象ではなかったでしょうけどね。あまりにも
親との別れの早かった佳人のことを、また少し悼みたくなりました。
クリスマスものなのにこんなに暗くてどうしましょう。ま、１１月中の更新ということ
で、まだそんなにクリスマスで盛り上がってない時期だからゆるしてください。