モーニング・ワーク
その朝（５８）
１
それはもう呼吸も整って、理性というものが脳裏に息を吹き返してきたとき。
「ぼくがあのひとと２人でチームを立ち上げたとき、アジトの屋根裏で寝起きしてたんだ、
２人して」
フーゴが唐突に話し出した。
もう、二度と会えない佳人。自分のことより他人のことを優先して、父に裏切られた少
女と、身に余る大望を抱いた少年のために命を懸けて散ってしまった優しいひと。
ルチアは、黙って先を促した。
スイスの、別荘地帯。なんとかヴェネツィアを脱出したあとは、ルチアの旧知の世捨て
人の山荘に、ルチアの父親の知り合いのうちの身体の弱い家出少年、というふれこみで、
フーゴはもう半年ほども厄介になっている。ルチアが様子を見に泊まりに来るのももう恒
例。
……山荘のあるじは、さすがにお嬢様が毎晩「ラファエロ少年」のベッドを訪れている
とまでは知らないが。
２
「最初はびっくりしてさ、ぼくだって一応は男だったし。……ああ、もう『男』だったよ。
実際女性に触れたのはきみが初めてだったけどね」
フーゴの手が動いて、裸の背を静かに撫でる。そういう機嫌の取り方も、もう自然にで
きる間柄となった。
他人と、それも、きれいな１７の少女と同じベッドで休むなんて、彼には信じられなかっ
た。紳士としてそれはできないと言い張ったけれど、そんなことが受け入れられる身分で
は、彼はもうなかった。
家を出され、ギャングとして生きていかねばならない身。
自分では、他人よりものがよく見え、解り、上等な人間だと思っているかも知れないが、
実際の所は学齢でありながら他人に何度も暴力を振るい、親や預かってくれている大人達
の体面を失わせた生意気なクソガキにすぎない。
そして、自分一人では最低限の生活もできない……。
フーゴは現実を受け入れた。
どん底はここではない。まだここには屋根も壁もあり、簡素だが、ベッドがあった。ま
だどういった性格なのかは掴みきれないが、少なくとも自分に悪意は抱いていない、これ
から巧くやっていこうという意思表示をしてくれているきれいな年上の少女が側にいてく
れる。
そう、きれいな、年上の少女。
意識しまいとしても、意識してしまう……！
それでも、最初は生きていくだけで精一杯だった。着替える夜着さえない生活で、ベッ
ドの中に入り灯りを消すと、すぐさま疲労のために眠りが訪れた、なんの疚しい感情を持
つ間もなく……。
チームリーダーとしてのブチャラティとギャングとしての生活に慣れると、その気持ち
は形を取り始めた。
３
……まつげが濃いな。
真夜中や明け方、気がつくと、深い眠りに落ちている上司の顔を見つめていた。
……なんて小さな顔。４つも上の筈なのに。ぼくの手で包み込んでしまえる。可愛らし
い桜色のくちびる。このひとも、そのうち紅を差したりするんだろうか……。
花咲く季節が来れば、どんな遅咲きの花だって蕾を膨らませる。それが自然だ、生物と
しての正しい有り様だ。街の人からからかわれ、自分でも色気がないというのを売りにし
ているが、そんなことはない、吐息が甘くて、身体のそこここの柔らかさが自分とは決定
的に違う。
見てはいけない、そんな気持ちを持ってはいけない。このひとは大切な自分の上司、チー
ムのリーダー。
押さえつけようとすればするほどに、気持ちは育っていった。
……フーゴ、遠慮するな、このベッドは広いから。寝るときぐらい気を抜かないとやっ
ていけないぞ。
屈託なく笑う佳人は、男女のことをなにも知らないような顔をしていて。
まだ、リーダーとしての威光は行き届かず、そこらへんのちょっときれいな小娘と同じ
ように不良に絡まれて、慰みものにされかかって。
見てしまった、街灯の下に露わにされた白い隆起。
女性としての嗜みの基本の下着すらつけていなくて。
……お願いだから、そんなに無防備でいないで。
汚れた世間に、あなたはそのままで出ていかないで。
おまえは子供と笑わないで。ぼくも、ひとしくあなたを汚れた欲望で見ているのに。
フーゴは、絶望的な理性で身を律した。ブチャラティが自分を子供と見なすなら、自分
は生意気な子供のままでいようと固く誓った……。
４
「って、こっちは悲壮な覚悟で紳士の線を守ってるのに、あのひとったら無防備で、さす
がに目の前で着替えはしないけど、ほんとにリラックスして寝てくれて、寝相はそんなに
悪くないけど、いくら何でも一晩中一度も寝返り打たないなんてことないから。目が覚め
たら目の前にその、……胸があったときとかあって、こっちはもう心臓バクバクいってるん
だけど、意地でもそんな様子見せるかってムキになって」
「ばか」
ルチアはそう嫉妬を見せるでもなく、静かに聞いていた。
「あんまり続くから、逆に期待してしまって、角度とかを計算して、手が当たるようにし
て寝てみたりもしたんだけど」
「まァ、フーゴ、あんたでもそんな思春期のバカな少年みたいなことを」
ルチアの顔がほころぶ。
「したんだよ。思春期のバカな少年だったから……今もだけど」
わざとらしくぱたりと倒して見せた手が、ルチアの胸元をかすめる。ルチアは笑ってそ
の手を引っ張って自分の胸に押しつけてみる。と、その指がうごめいていたずらを仕掛け
る。
「それが、そういう邪心を抱いたときに限って、判ってるんだか、重みの乗ったいいエル
ボゥをお見舞いされてね」
「いやーだ、バカ」ぺんっと、ルチアがフーゴのいたずらな手をはたいた。
「そういうわけ。ほんと、……楽しい日々だったよ。まあ、春になったらさすがにシング
ルベッドを買って。お名残惜しいけど独り寝することにしたよ。することもあったしね」
「まァッ！ それでも同じ部屋のうちで？ フケツッ」
ルチアはくすくす笑いながら言葉だけは責める。
「だってしょうがないだろ？ ほんと、さすがに拷問に近くなってきてたんだ」
「よくもまあ……あんな、天使みたいな顔で」
「人間です。なに？ 性欲がない方が良かった？ こういうことしなくていい？」と、フー
ゴは瞬時にルチアにのし掛かって、数センチの距離で彼女の顔を見下ろした。
「まさか！ あった方がいいに決まってるじゃないの」と、ルチアはフーゴの首に回した
手を引いて、自分から口づけた。
５
「チーノの昔の王朝の話。最初の帝国を打ち立てた強い皇帝は、優れた後継者を遺さなかっ
た。彼が死んだ途端、無理矢理に統合した国は各地で反乱が起き、また、英雄達が覇を競
う時代がやってきた。その最後は、平凡だけど、仲間に好かれる明るい男と、育ちのいい
高慢な英雄の２人が残って。高慢な英雄は、味方からも見限られて、とうとう敗北が目前
になった……。
彼は詩を詠んで舞うんだ。
もう力は抜けて、武勇を振るうこともできない。時勢が悪いのだ。
愛馬がある間は、まだ闘うことができようか、どうしよう。
愛するひと、あなたがまだここにいる。あなたをどうしたらいいのだろう……
天下に名を知られた美姫なんだ、自分が死んだら、寄ってたかってなぶり者にされるだ
ろうか、勝者のものになるだろうか、それは自分には耐えられない、彼女もそうだろう。
ああ、彼女をおいて死ねようか、そういう気持ち」
唐突な語りは、闇の中で始まる。
「虞美人ね。彼女は答える詩を詠んで舞うんでしょ、あなたのためのわたし、あなたが死ん
では生きている意味もない。どうぞ、心残りなく闘ってください、と、舞い終わったあと、
彼女は自殺する……それとも意を酌んで項羽が殺したんだったかしら」
「さすが。
彼は、自分が安らげるところはブチャラティの側だけって言ったんだよ。ぼくが下りた
あのヴェネツィアで。だから、あのひとが逝ったら、彼があとを追うのは判ってた。そう
常々言ってたよ」
「イヤだわ、そんなのが日常会話な集団」と、ルチアはかるく流した。
「だって、ギャングだもの」
あっさりと、フーゴも流して、言葉を続ける。
「あのひとも、ホッとしてたかも知れない。ひとりで置いてゆけないあぶなっかしいひと
を、置いて逝かなくて済んで……いやほんと、あれで結構嫉妬深かったから。自分が死ぬ
ときは絶対道連れって、無意識に思ってたかも」
「ちょっと、やめてちょうだい……でも、女ってそういうものかしら？」
「どう？ ルチアはぼくのこと誰かに遺したい？」
「そんな！ あんたがあたし以外の女のものになるなんて絶対イヤッ」
「……だそうだから」
哀しげな、それでも笑いの範疇に入る表情が、彼の顔には浮かんでいる。それを、ルチ
アも同じような表情でそっと撫でる。
……モーニング・ワークというのよ。
死の旅から脱落して、結果、初恋と忠誠を捧げた上司や親友たちと死に別れたフーゴの
心のケアのために、天才少女は関連書籍を読みあさった。それで得た知識。
家族の死は、ストレスとしてのランクが高い。
ブチャラティは、血こそ繋がっていないけれど、彼の姉であり、憧れの女性であり、命
を懸けて従う上司であった。そんな心に近い女性があんな壮絶な死を迎えたのだ、そして、
彼はそれに裏切りに等しい成り行きで離反した。
心に傷を負っていないわけがない。
今は、そのリハビリの時なのだ。
誰にも言えない心の傷を、ゆっくり引き出して、外気に当て、紫外線に曝して消し尽く
す。そういう、心の中の密かな弔いの作業。
彼がこの先、また陽の下で生きてゆけるように。
父やその知人たちに計って、彼を自分のブレインとして迎える準備もルチアは水面下で
続けている。
偶然出会えた、初恋の君。
思っていたより人間的な魅力に溢れていて、逢う度に引きつけられる。
何より、この自分を怖れずに、対等に話してくれる生意気で心強い頭脳が得難い。
……絶対、手放したりしないんだから。
母親が引き合わせてくる、どんなお坊ちゃまより話が面白くて心が弾む。
父親の周囲の、どんな優秀な男達より、若くてカッコイイ。
この先出逢うだろうどんな結婚相手の候補よりも優れた相手と断言できる。ここは、どん
な手を使っても手元に置いておくに限る。……パッショーネを掌握した新入りの少年は、
心やすかったチームの先輩の行方を密かに捜していて、この隠れ家もじきに突き止められ
そうなのだけれど。
まあ、交渉だけは、してやらないでもないが。
この少年をギャングに戻らせたりはしない。
６
「少し、眠る？」
かるいあくびの気配を察して、ルチアは身をねじって場所を空けた。
「いいけど、きみ、そろそろ自分の部屋に戻らないとまずくない？」
「大丈夫、あのおじさまはそんな野暮は言いっこないひとだから」
「じゃあ、もう少し一緒にいて。好きなひとが横にいてくれるのって……いいね」
フーゴの目が細くなる。
「まァ、気を遣うこと」と、ルチアはせせら笑った。
「だって、今のぼくはきみがあってのことだもの。感謝してるよ、ぼくの女神。ぼくにで
きることがあれば、なんなりと」
「あら。じゃあ、遠慮なく言うわよ」
「どうぞ」
「今じゃなくていいわ、また、あとで。おやすみなさい」
「うん、……ごめん」
少年は、ゆっくりと、幸福そうに意識を手放した。
……いいのよ。また、あとで。
心からの慰めは、ベッドの中で、行為の後でしか与えてやらない。
強かな天才少女は、ゆっくりと恋する相手を絡め取ろうとしていた。
７
「今度の学会でちょっと質問に立つんだけど、その論文を下読みして、突っ込みどころを
３点ほどと、こちらの論理展開のパターンを出しておいて欲しいの」
「これは、いきなり難題を」
朝食のあとに分厚い論文を突きつけられて、フーゴは苦笑した。
「リハビリよ。あんたにはこれくらいなんでもないはずよ」
「それで期限は？」
「今日の午後、あたしが発つまでよ」
それでは、午前中ふたりでゆっくりする間がなくなってしまう。
「その間が作れるかどうかはあんた次第ってことね」
スパルタ式な女神であった。まったくご立派な朝の課題。
「ぼくを掬い上げてくれた女神様の為には、持てる能力の全てを使うさ。じゃあ、しばら
く部屋に籠もるけど、よろしく」
フーゴは素っ気なく言って背を向けかける。
「下町で育つと口が達者になること」
溜め息混じりのルチアの口が歪む。
「そうだね……身近に、女性に拾われて、もったいないほど愛情を浴びせて立ち直らせて
もらったひとがいたからかな……
そうして、流転の日々の中で、思いがけず大切なひとを得て、失うまいと日々努力して
いた姿を間近で見ることができたから、きみのことも大切にしたいって気持ちが素直に出
せるんだと思うよ。
そういう意味では、あのひとたちは、ぼくの中で生きてる。そういう形で、ぼくの心、
脳髄の中に残ってる。そうだね、ずっと、生きてるんだ……」
真っ直ぐ明るい方へと向けるフーゴの顔から愁いが晴れた。
「あら、なんだか顔が変わったこと。もう天使とは言えないかしら」
しみじみとルチアがその顔を見つめる。
「もう１６だし。間延びしてごく普通のどこに出もいる顔になる頃さ」
「違うわよ、オトナの男の顔になったってことよ」
「さあ、……どうかな？」
かるく頬に手を当てて、そのままフーゴは自室に引き取った。
フェリーニ上院議員の口利きで、フーゴが実家と連絡を取ったのはそのさらに半年後に
なる。
（２３−０７−１０）
蛇足。
娘の件で学校のカウンセリングに行ったとき、
「それは、モーニング・ワークが必要ですね」って言われまして。
それなんて朝のお仕事？
モーニングには朝だけじゃなく、別スペルで弔いって言葉もあったんです。
ショックな出来事は、心の奥底に封印しておきがちだけれど、それでは辛いことが昇華
されずにずっと心に残って悪影響を与え続ける、そういうことは負担にならない程度に外
に出して、少しずつ、共感といたわりを与えて消してゆくべきなんだそうで、それが、
「お弔いの作業」、モーニング・ワークなんだそうです。
わたしはフーゴにはかたぎに戻って欲しいと思っていたので、ルチアとのこういう未来
を作りました。
まだ帰れる家がある、かたぎに戻れるコには戻って生き延びて欲しい、自分の死出の旅
には付いてきて欲しくない、そう思ったがゆえのブチャラティのサン・ジョルジョ・マジョー
レ島の宣言だったと思うのですが、ブチャ・チームの固い結束を示すばっかりで、ねーさん
大変。ブチャ以外に生きる道のなかった２人はしょうがなく連れて行ったけど……それは
それでしょうがなかったよねという「虞や虞や汝をいかんせん」。泥に塗れても裏切った
心の痛みを背負っても生きていて欲しいと言える状況じゃなかったんでしょう、項羽の方
も。愛する相手の手にかかって死ねて幸せという虞美人は……ま、しょうががないか。役
に立って死ねただけ幸せというアバでした。これは、２部シーザー、３部花京院（とアヴ
ドゥル？）といった、主人公の為に命を投げ出す親友キャラの系譜と言うことかな。