危険なモデル
１
それはまだ桜に花の残っている頃。美術室に依頼人は待っていた。
「や、いらっしゃい。待ってたよ」
線の細い、色の白い芸術家。切れ長の眼が鋭い。３年の岸辺露伴。もういろんなコンクー
ルに出して賞も取ったりしている。新都ローカルでなく、年齢制限なしで勝負できる本物
の若手芸術家。
「モデルの依頼だそうで」
すぐに要件を出す。基本、男とふたりきりにはならないようにしている。
「うん、そう。目標は文化祭に出す１００号、その習作スケッチを多少。ヌードで」
「美術部全体じゃないんですか？」
「ボクひとりじゃだめだってのか？ バイト料出す？」
「学内ではどのクラブも公平に助っ人を引き受けてる。お金じゃない。裸は嫌だ」
口調を変えると芸術家肌の岸辺露伴は眼を輝かせた。
「坐りなよ、長い話になるから」
２
美術室のスツールを顎で示して、背を向けた。トートバッグから、わりと厳重に包んだ
大判の薄い本を出してくる……凝った製本の、見覚えある……。
ブチャラティは、表情を硬くした。
「バイト料出せなくなっちゃっんだ。これを買ったから。
ポーズ集あつめは趣味みたいなもんだ、古本屋も常連をやってると、向こうから声を掛
けてくる。これは結構やばい品だったけどね。ボク一応もう１８で」
消し去りたい自分の過去。自分が望んで晒した裸体じゃあない。母が去り、事件に巻き
込まれて父が死んで、自分は全ての記憶を失って……引き取ってくれた養父の目的はそれ
だった。幼いブチャラティに選択の余地はなかった。いちど真っ白になった自分の記憶は、
真っ白な部屋からまた始まる。
「これはきみだな？ フロラちゃん」
長い黒髪をリボンで飾って。フリルの多い装飾的なワンピース、エナメルの靴、まぶし
い部屋でちやほやされて。
「知りません」
固い声で否定する。
部屋は暑いくらいだった、照明で。どんどん服が取り去られる。ポーズに注文が多くな
る。
ブチャラティの呼吸はどんどん荒くなる。
ポルポは売り時を見計らっていた。写真集だけの露出で人気を煽って。その間に背がドン
ドン伸びて、女の身体になってしまった。
……まあしょうがない、これはこれで。
「販路」を探すか、自家消費するか、ちょっと家族ごっこをやりながら明日延ばしにして
いる間に、ポルポは自分が病に倒れてしまった。
今の自分があるのは、綱渡りのような偶然の産物。
破裂しそうな心臓を、ブチャラティは左手でそっと押さえる。
髪は切った。スカートはもう穿かない。写真はもう誰にも撮らせない。
「一目で気がついた。それから、この出版社から出てる、別の本、これはきみの『弟』た
ちだな？」と、もう一冊を出してくる。天使のような、ほんの子供の写真集。
「やめてください！」
「大きな声を出さなくてもいい。誰にも言うつもりはない、モデルを引き受けてくれるね？」
「卑怯者」
そう口に出したときには、もうジャケットのボタンを外し始めていた。
「いい脱ぎっぷりだ」
感心したように絵描きは見つめている。遠慮して目を逸らすというつもりがない。徹底
的になぶるつもりだろうか。こちらも、恥ずかしがったり動揺を表に出すつもりはない。
それは見ている男を愉しませるものだ。
「四つんばいでいいですか、それとも仰向けになりますか？」
わざと素っ気なく言ってやる。
「ちょっと柔軟でもして貰って。そこへ立って。
サモトラケのニケは知ってるか？」
全部脱いで服を畳んで置いて振り向くと、岸部露伴はもうスツールに腰掛けてクロッキー
帳を開いていた。
「あれは顔がないじゃないですか……手も」
違和感を隠しつつ、記憶を頼りに右足を前に出して立つ。
「手が翼の代わりだ。顔は真っ直ぐ前。バレエやってた？」
言われて腕を羽ばたかせるように動かして、斜め後ろで止める。
「見るのは好きですが。見よう見まねで」
「いいよその肘で」
すぐに鉛筆が紙を擦る音がし始めた。
この高さで腕を支持し続けるのは辛いが、顔には出さない。意地だ。
「その眼だ。澄んで、まったく動じずに周りの人間をすっかり見下している。
まったく、あの写真で抜けるやつがいたということが恐ろしいよ。その祝福すべき鈍感
さがね。あれはほんとうに奇跡だ。まだ小学生だっただろう？
あの年で男というものに見切りを付けるとそういう顔に育つ訳か。楽しみだ」
ノってくると雄弁になるタイプのようだった。
「次、アングルの泉。そこのゴミ箱今、空だから」と、演出用品を指で示される。
「頭の左で良かったですよね？」
５分から１０分でポーズが変わる。早く仕上げるように習慣づけているようだった。
「ありがとう。今日はこの辺で。毎週ここでこの時間に頼む」
１時間後にそう言われて、少し意外に感じた。
「先輩……本当にモデルだけでいいんですか？ 抱かれなくても？」
一瞬目を見張った岸辺露伴は、怒りに顔を赤らめて怒鳴った。
「あたりまえだッ！ この岸辺露伴が、モデルにそれ以外のアプローチをするとでも？
実際に触れないとその全てを描き出すことができないとか言うのは２流の絵描きが自分
のスケベ心をごまかすために芸術を騙っているに過ぎない！ このボクをそんなやつらと
一緒にするなッ！ ボクはブローノ・ブチャラティという人間の本質に自分の絵で迫りた
いんだ！」
ちょっと意外で、しばらくその顔を見つめていてしまった。色の白い、線の細い端整な
顔。
「失礼しました、岸部先輩。これからよろしく」
「さっさと服を着ろ。風邪引くなよ」
急に岸辺露伴は早口になって背を向けた。
「お気遣いありがとうございます」
３
なんだかへんなやつと昼休み屋上で過ごすことになって、いつもより眩しい夏が来た。
週１回のモデルの約束は続いている。
「夏にスカートを穿くのは女性の特権なんだがなあ。夏服もスラックスで通すつもりか？」
「スラックスを穿いてもとやかく言わせないのは現代女性の特権だからです」
「言うなあ」
岸辺露伴は会話でモデルの内面を引き出して絵に反映させるタイプの絵描きだった。
「まあキミは何を着てもきれいだ。なにも着ていないときが一番美しいがね」
言ってろ。
「ここのところ、薄く浮かび上がる……これは肋骨か、そして、ここから放射状に皺が寄
る……チクショーなんでこんな厄介な……」
眼を細めてじっと見つめながら、うまく線を見極められずに岸辺露伴は頭をかきむしっ
た。
「岸辺先輩、ポーズ変えますか？」
「バカを言うな！ この大胆でかつ繊細なポーズこそがキミの内面を表わしうると思って
この岸辺露伴が到達したポーズだ、おいそれと変えるか！
トルソーの奇跡的なスレンダーライン、顔の作りもさることながら、この線が素晴らし
い。贅肉というものが一切ない……なにか食事制限をやってるのか？ あんまり極端なこ
とはしなくていいぞ。肌に衰えが出る。
おい、あのクソ親爺と同じ名で呼ぶんじゃない、ボクには母がつけてくれた露伴という
美しい名前がある」
「露伴先輩はお母様を慕っていらっしゃる？」
名前で呼べとこだわるのもなんだか危険だがそこはスルー。
「思春期の男子の一般的な傾向だ。芸術に理解のない人間をボクは等しく軽蔑するがね。
……できれば先輩もなしで、ただ露伴、と」
「長幼の序は大切にするタイプなんです。
大切な時期の男子ですから、ふつう保護者の方は堅い職業をお勧めするでしょうね」
「金儲けなんか誰にでもできるだろう！ ボクはボクにしかできない美への奉仕をする、
その方が人類の為だ！」
それで食べていければどうぞ。
ブチャラティは話題のハンドルを急に切った。
「露伴先輩、それで、男子にはやっぱりスカートを穿いた方がアピールしますか？」
ちやほやする男達。めくられるためのスカート。やはり思っただけで吐き気がこみ上げ
る。
「あの石頭にスカートを穿けと言われたか？」
「いいえ、とくに」
最初、トラウマと布石を打っておいたので、口に出しては何も言わない。ただ、残念そ
うな視線の動きを感じる。
「一般人は、自分がこれまで見知った範囲の美しさにキミを当てはめて評価する。女子高
校生の美の範疇にね。キミの美はそこには収まらない。精神の美だから。キミならどんな
文化圏の服を着てもさまになる。いっそ宇宙人の服でも。単なる造形美じゃあない」
「そうですか」
なるほど、とは口には出してやらない。何を着ても、なにをしでかしてもアレはブチャ
ラティを受け入れようとする。彼のそれまでの美しい規範には収まりきれずに、いちいち
驚いて、喚いたり慌てたりするけど、そのことで頭から拒否を示したり、批判的なことを
上っ面で言ってきたりはしない。ほんの少し固まって、時間と、距離を必要とはするけど、
嫌みのない溜め息と共に、受け止めてくれる。それが、楽しい。
「まあ、下賎な若い男にキミの芸術的な身体は見せてやらない方がいい。真っ直ぐ獣欲の
方を優先して表出することだろう。あってはならないことだが、理解しないこともあり得
る。
そこでボクの芸術の存在意義があるわけだ。エロスを濾過して純粋な精神と造形の美だ
けをキャンヴァスに抽出してやるから、この絵でもってあのバカを魅了するといい」
「ありがとうございます」
返事は棒読み。本心は別。あの石頭、獣欲でもいいからもうちょっとこっちを向いてく
れないだろうか。
こんな気持ちになるなんて、不思議。
４
「合唱コンクールをふけたな？ 相方が血相変えて探し回ってたぞ」
「そうですか」
相方って、もう２人一緒が当たり前と取られているのかとちょっとくすぐったい気持ち
になる。顔には出さないが。
「まあ、あれはボクも毎年意義を疑問に思ってる」
「クラスの団結を推進するんでしょう？ あとは文化系救済」
「ボクは救済されてないぞ」
「失礼しました。音楽系の救済」
「ならソロのある曲をどんどんやればいい。毎年懲りもせず声を揃えて、心をひとつに、
だ、反吐が出る」
「まったく同意見です」
しばらく沈黙が続いた。
「付き合ってるのか？」
「誰とです？」
「あの正義君だ。レオーネ・アバッキオ」
「さあ、昼に屋上で会うだけですが」
「それにしちゃあ楽しそうだ」
「岸部先輩？」
「露伴だッ。ボクはこの部屋で食べるんだ。真向かいだぞ。よく見える」
美術室は３階だ。少し眼を上げれば屋上のいつもの場所は見えるわけだ。ずっと見られ
ていたのだろうか、とブチャラティは背中が寒いような気になる。
「あと３ヶ月はポーズ取ってもらうからな、体型が変わるようなことはやめろよ？」
「それは、具体的に？」
「……妊娠とか。キスマークなんかつけてきてみろ、そのまんま描き写して晒してやるぞ」
少し間を取って言った岸辺露伴は、怖じけたことを恥じるように続きは勢い込んで言っ
てのけた。
さすがに笑ってしまった。
「岸辺先輩、なにを」
「笑うな。やつは今孤立してるからな。構ってくれる相手ができたら一気にのめり込むぞ。
あせるな、絆（ほだ）されるな、自分を大事にしろよ？」
「残念ながら。手も握ってないですよ」
「残念なんだな？」
「先輩」
間を取って、頭を冷やさせようとする。ブチャラティ本人はそんなことを指摘されても
心を乱されたりはしていない。そういう自分を既に見いだして、認めて、掌の中にそっと
載せて見つめてなにやら優しい気持ちになっている。
「ボクの眼は節穴じゃないぞ。キミはきれいになってきてる。肌が輝いて、顔付きが優し
くなった。弟たちには指摘されないか？」
「さあ？」
「まあそれを紙に写し取ってこそ絵描きの醍醐味というものだが」
それは毎週ヌードを晒して眼がいいだの肉の付き方が丁度いいだの賛美の言葉を浴びて
いるせいもあるんじゃないかとブチャラティは思ってしまう。
「ボクはモデルとしてのキミにしか興味はないからな」
とりあえず執着は凄いわけだが。その辺はややこしいことになると困るから突っ込まな
いでおくことにする。
「キミは男に対する興味なんてないと思っていたが。ああいうのがいいのか？
これは下世話な興味なんかじゃないぞ、キミの精神に対するアプローチだ！ それをボ
クの内面で再構築して絵に活かすんだからな！」
ああ、はいはい。
とりあえず、アレがあの写真集を眼にしたら、取引の材料にすることなんか思いもよら
ず、ただ頭に血が上っていろいろ暴れるんじゃないかな。それによってなにが解決するっ
てわけもなくさわぎになってしまって自分は多分不利益を被ると思うけれども。
なんとなく、爽やかな気分になるのだ。
「ほら、笑った。やつのことを考えたな？ 今キミはいい顔をしているぞ」
「知りません」
「その眼だ。ダイヤモンドのように、安定して輝いている。何者にも傷つけられない……
最高だよ」
うっとりと岸辺露伴は自分に酔っている。これは口説かれてるっていえるんじゃないだ
ろうか、ブチャラティは気を引き締める。
「先輩、ダイヤってトンカチで叩けば割れるって」
バケツに冷水。頭からザバーッ。
「はぁーッ！？」
思った通り、岸辺露伴は眼を覚ました。
「硬度はとりあえず固いけど、粘りがないから衝撃には弱いって言ってました」
「誰が、いつ、どんな文脈で！？
比喩表現ってのはそういうもんじゃなくてッ、必ずしもそのものの性質全てを以て表現
しているんじゃないんだッ、そうだろッ？」
かえって頭に血が上ったカンジだけど。
「先輩、先輩は口舌の徒じゃないですから」
「あ、ああそうだッ、この岸辺露伴は絵筆を以て世界の美を極め尽すのがその真骨頂ッ」
と、すぐに立ち直って鉛筆を握り直す。
慣れると楽しいかも。ブチャラティはほんの少し唇を緩めた。
５
とりあえず必要なスケッチは描き終えて夏休み前にモデルの仕事は終わりになった。最
初言ったとおりの１００号の大きなキャンヴァスには、内面のうねりをも体現するような
大きな動きのあるポーズを取ったブチャラティがもう描き出されている。これからゆっく
り彩色してゆくのだという。
「お疲れ様だった。ホントにありがとう。ボクのミューズに敬意を表するには、どういう
挨拶をしたらいいのかな？」
もったいぶった台詞にブチャラティは、笑って右手を差し出した。
岸辺露伴はそれを押し頂いて、甲に口づけた。
……握手のつもりだったんだけど。
本人はエロスの介在を否定していたが、それなりに好意は持たれていたとブチャラティ
は確信した。
「先輩のためならいつでもポーズを取ります」
「ああ、それはないね」
芸術家は皮肉に笑った。
「今後はヌードモデルなんて無理だ、あの正義君が暴れるようになるから」
「なるほど」
「笑ったな？ その顔もここに貰っておく。まあ、記憶からいろいろ描かせて貰うから、
それは許せよ？」と、岸辺露伴は胸を押さえて見せた。
「ええ、どうぞ」
大作はちゃんと文化祭に間に合って、アバッキオの絶叫でそれは彩られた。
「ちょ、おまっ、服ーッ！ 服ーッ！！」
２２−１０ー１０
おまけ。
「バカーッあれほど言ったのに！ 胸のサイズがひとつふたつ上がったろ！？ 尻にも脂
が載ってッ！ 揉ませてるな？ チクショーッ！ あの奇跡のスレンダーラインがッ！
学年主任に言いつけるぞッ！」
裸の腹にしがみつかれると、さすがにブチャラティも危険を感じてしまう。
「先輩、落ち着いて。 ウエストも増えてます……餌付けられたんです」
「六角堂でステーキ喰わせるって言ったら休みの日逢ってくれるか？」
「弟連れてっていいですか？」
「質問に質問で返すなーッ！」
蛇足。
そんで岸辺露伴登場。
「えー露伴おんにゃのこじゃないの？」と娘に泣かれたりして。なにを考えとるんじゃ。
露伴は自覚ナイままに芸術的ストーカーになるといい。最初大見得切ったぶん自覚した
後も手を出せず悶々としながらただヌード描き続ける自虐の夏。これもセイシュンよねー♪
六角堂はうちの田舎の老舗ステーキハウス。行ってみたかったんだけどこの年まで未体
験。露伴はお坊ちゃまと言うことで。
お代わり！
冗談じゃねえッ 帰る