メランコリア
１
昔から、なんで編み物なんてする女性は思いの丈を編み目に込めたりするみたいに言うん
だろうと不思議に思ってた。今なら解る。こんな細かいことをやってたら、ものを見なが
ら聞きながらなんて優雅なことはやってられない。ただ間違えないように編み目に集中す
るしかなくって、結果、自分の心と向き合ってしまうんだ。
また、間違えた。
普通にやればいいのに見栄を張って凝ったテクスチュアをやろうとするから。
だって、こんな普通でない手段にしたのだから。
わたしは編み物ができませんといったようなものだから。
少しは上級技を入れないと。
初等部でこれをやるときに習った。織物の３原組織。縦糸に対して１対１で横糸を組ま
せる平織り、幾つめかごとに横糸を浮かせて綾を織り出す綾織り、横糸を４本以上浮かせ
てしなやかさを出す繻子織り。繻子織りは引っかかりやすく熱を通しやすいので普段使い
のマフラーには向かない。綾織りで、空気を含むようにしてふんわりと仕上げる。ひとつ
すくったら３つ飛ばす、これは４つ綾、ツイル。綾織りは美しくて伸縮性があって、使い
でのある生地だ。バーバリー、デニム、カツラギ、サージ、フランネル……身近な織物は
みんな綾織りだと家庭科の教師は言っていた。ヴェニア板を組み立てて作るところから始
めた簡易織機で最初に張った縦糸を使い切るまでとりあえずみんな織り上げて、ちょっと
したバッグのようなものに仕上げて、あとは、こんな大変な織物（こと）を昔は長い冬の
間、みんなしてやっていたということから社会科に話は展開していった。オイルショック
まで、新都の主要産業は織物だったらしい。手先が器用で、辛抱強い新都の女達。手芸の
好きな級友たちは自分で縦糸を長く張るやり方をのみ込んで、授業が終わってからもけっ
こうはまってやっていてマフラーをいろいろ完成させていた。そのノウハウを貰ってきた
わけだが、……わたしにはこれはかなりストレスだ。
ひとつ、みっつ、ひとつ、みっつ……
焦るとまた間違える。糸がつれて生地がゆがむ。ものが一応防寒具だ、ふんわり仕上げ
て空気を含ませるに越したことはないのに、どんどん固く締まっていっているようなかん
じだ。まずい、まずい、まずい。これはもともとわたしの心に柔らかいふんわりとしたと
ころがないからじゃないだろうかという恐れがむくむくと沸き起こってくる。
真っ正直で、繊細な男だ。あの告発のあとでも随分としょげていた。いつも、些細なこ
とに引っかかって、考え込んで。きっと女の子にも包み込んでくるような優しさを求めて
いることだろう。いつも、虚を突かれたような顔をしてわたしの顔をまじまじとみつめて
くる。それはこちらにとっては愉快だけれど。
レオーネのほんとうの女の子の好みには合っていないんじゃないか。
だからって、もうやめられない。引き返せない。まずい、まずい、まずい……。
考えはループする。手元は狂って、シャトルから引いた横糸が絡まる。ほどく方に専念
すると、シャトルがテーブルから落ちる、２、３回も転がっていって糸がどんどん出てし
まってもう大変……。
「だめだーッ」
とうとうブチャラティは立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
真っ直ぐ玄関を目指さないで、一応リヴィングに顔を出して、心配している弟たちに声
を掛けていく。
「あんまり根を詰めない方がいいですよ」
「まだまだ時間はあるってー」
「遠くを見て来た方がいいです」
「買ったもんでもいいじゃん別に」
口々に気を遣ってくれる。返事もおっくうで手だけ振って出た。
２
梅雨までは、そんなでもなかった。ちょっとからかってやるだけ、いや、そうでもない、
ただ面白がって見物しているだけのつもりだった。いつでも離れていけるだけの距離を保っ
て。とくに約束はせず、ただ昼休み横で弁当を食べて、それだけ。屋上から校舎内に入れ
ば、クラスも違う、行き会っても声も掛けない、そんな関係。
たった一人で黙って弁当を食べる背中があんまり小さく見えたから。つい、構ってみた。
話を振って、聞いてみて、自分がそれについて思ったことを返してみて。
面白いと思ってしまった。
あんまりに不器用でまっすぐで、眩しい、いとおしい。
ずっと見ていたい、このことについてはこのひとはどう思うだろう、なんと言ってくる
だろう、投げてみたい、返ってくる言葉をああでもないこうでもないと考えている。意外
な返事が楽しい、そのうち、考え方が飲み込めてくると思った通りの返事が返る。思った
通りでも楽しい。話のできる昼休みが待ち遠しい。離れがたい。
そんな自分が、心の中にいた。
信じがたい。
自分がそんなことを男に感じるなんて。
そういう自分もまた面白く、好ましい。
でも、自分は過去のない人間だし。かりそめの過去も、とてもひとには話せないものだ
し。
そう思うと、深入りはできないとひやりと壁に突き当たる。
それでいい。
別に大それたコトを考えてる訳じゃない。
いつでも引けるように、退路をキープしたまま、つれない顔で逢っている。ただなんと
なく昼休み屋上であって、少し話をする程度……。
ちょっと、驚いた。
合唱コンクールを面白くなく思っていることも、伝わっていなかったから。少しは気付
けよと、思っていた自分にも驚いた。そして、前々から、高等部になって拘束がゆるんだ
ら絶対さぼってやろうと思っていた計画を思いつきで実行することにした。正義君はマジ
メに合唱してくればいい。自分は風に吹かれている。自分はそんな白い頭に緑がかった眼
をして、バリバリの新都の公立育ちだからって、この青い眼にもヨコモジの名前にも頓着
しないで、ただの特進クラスの親切な優等生と思っていて。ひとのことも学校行事には積
極的に参加する、そういう人間と思っていればいい、なんだかひねくれたような理由で、
合唱コンクールをさぼった。
一人きりの屋上は、意外すぎるほど広くて静かだった。
大学生協で買ってきたアイスクリーム・バーは、思ったほど美味しくなかった。２本買っ
てきて、アレと食べれば良かった。どこから調達した！？ とか、昼休みにこんなものを
食べていいのか！？ とか、ぎゃんぎゃん喚きながら、それでも食べ始めるとうまいうま
いと喜んで食べるだろうと思った。アレとならきっと美味しいことだろう。ひとりでズル
をしたってつまらない。今度はアレを仲間に引き込んでなにかしでかしてやろう、どう言っ
たら動かせるだろうか、考えを巡らせるのが楽しい。頭を振って、眼を白黒させて、顔は
真っ赤になったり、青ざめたり。見ものだ。眼に浮かぶ。なんて楽しいおもちゃ……。
そんなふうに思いが収束したときに、あのバカは屋上に現れた。真っ赤な顔をして。汗
だくになって。
探したって。
なんでこんなところにって。
蒸し暑い梅雨の一日。バス停ひとつ分も離れた講堂から、抜け道をいろいろ探し歩いて。
いろいろ面白くないことを言う人間にも出くわしただろうに。
「おまえがいないと心配だよ」って。
心配されてしまった。
クラスで浮いている自分。皆、話しかけたそうなのにつめたい壁を乗り越えられずに回
遊して、ついには去っていくのに。
「おまえはカワイイ女の子なの」って。
女の子だと思ってくれていたのか。
ひらひらのスカートを着ていなくても、男の好きな部分を露出していなくても、にっこ
り笑って期待通りの受け答えをしてやらなくても、女の子だと思ってくれた。
それを喜んでいる自分がとても意外で……嬉しかった。
よかったね、ブローノ。
自分が、いいなと思った男の子が、自分を気に掛けてくれていたことが、こんなに嬉し
い。こんな、当たり前の女子高校生みたいなことを自分が経験する日が来たことが嬉しい。
それはまだアレ当人に言うべき筋ではないと思ったから、なるたけ出さないようにしたけ
れど、……からだが動き出すのは止められなかった。
３
なんで自分はこんな所にいるのだろうとブチャラティはふと不審に思った。新都の市中
心部からバスで１５分、海に近い工業地帯の外れ。マケンゲンは岸辺産業のフットボール・
クラブが設立母体だから、岸部産業の工場のある地域に隣接して練習グラウンドとクラブ
ハウスは存在する。とくに悩まなくてもたどり着けたのは、露伴がいつも話題に上げてい
たからだった。あの路線は何番乗り場から乗るんだ、ＪＲを越える大きな跨線橋の上から
の眺めがいいだろう、下りてすぐ練習場に繋がるように、あそこはバス停も動かしたんだ、
云々と楽しげに話していたが、それはもしやブチャラティが見に行くときに迷わないよう
にとの心遣いだったのではとふと思い当たる。
……変な人だ。
妙に頭が切れる。周囲の人を意のままに動かしてしまうところがあるのは、カリスマ性
もさることながら、先を読んだ指図っぷりもあるのではないか。
この先、新都に居続けるならコネクションを持っていて損にならない人だ。
この先があるのなら。ふと皮肉な笑いを堪えようとして、もう既に自分の顔が緩んでい
たのに改めて気づかされた。
顔が緩んでいる。
この寒空に、興味のないスポーツの練習風景を見に行こうとしているのに。
ブチャラティは顎を引いて、ことさらに胸を張って歩みを進めた。
Ｊリーグ・バブルなどというものは、ワールド・カップが日本で開催された後弾けた。
新潟は地方都市の成功モデルだが、新潟と新都では街の規模が違う。新都ではプロ・サッ
カーチームなど成功しない。露伴にもそう言ってやったが、芸術家はボクも同意見だと唇
を歪めて笑った。
別に経営コンサルタントではないので岸辺の家が出資しているチームがどうなろうと関
心はない。ないはずがムキになって調べてしまう。
成功しないはずのクラブチームに、わざわざ嬉しそうに参加している男がいるので。
成功しそうにないそのチームで試合に出られる選手になるのか、それすらも判らないの
に。
あんなに嫌な想いもしたのに、露伴が口を利いたら、嬉々として通い始めた。
……そんなに球蹴りが好きなのか。
ブチャラティは心中独りごちた。
……汗もかいて、泥まみれになって、時には接触して痛い思いもして。
わたしと一緒に過ごすよりもそんなことが楽しいなんて。
コドモなんだ。
レオーネとはライオンのことらしいから。
要するに猫なんだ、ボールが転がっていたらじゃれつきたいだけなんだ。
ホントにしょうがない。
カーヴミラーの前を通ったときについ身に染みついたくせで顔をチェックして、自分が
微笑んでいるのに気づいて慌てて顔を引き締めた。
まだ加盟前で、海のものとも山のものとも判らないチームの練習を見に来ている物好き
は思ったよりいた。
根っからのサッカーファンとおぼしき少年が２人ほど金網に張り付いていたり、とりあ
えず郷土のチームなら競技を問わず応援してくれる地元の商店主が営業のついでにちょっ
と覗いていて、あとは、目当ての選手のいる女子生徒……中学から、大学ぐらいまで。
……ご苦労なことだ。
ちらりと見やって、ゆっくりと近づいてゆく。適当に羽織って出てきたコートだが、ポ
ルポが張り込んでくれたブランドものだ。見るものが見れば判る。背筋を伸ばして。昔を
思い出して。
あの時は眼で闘っていた。
媚びてはいけない。自分はおまえ達の汚れた目的を知っている、と眼で伝えて、そして、
支配下に置く。これ以上自分を侵させはしない、これ以上踏み込むことは許さないと、眼
でメッセージを発し続ける、そうでないと、喰われる！
とても疲れる戦いだったから、自分がもうその趣味の対象年齢から外れたと知ったとき
には心から安堵の溜め息を吐いた。
あの時を思い出して。
……あんたのこと、子供ブランドの元モデルって言っときましたから。ぼくらも。適当
に話合わしてください。
フーゴが気を遣ってくれた。過去のない自分、過去を隠さなくてはいけない自分。強か
に立ち回らなくてはいけない自分。
今は、ブランドのモデルになりきってみる。似ているかもしれないが、ほんの少し違う。
……大丈夫、やれる。
真っ直ぐ前を見つめて。一足、一足。明るい方へと足を進める。
気づいたものが、息を呑んだ。
こちらに目を向けたまま、静止する。
まるきり無視してやる。慣れている。露伴に指摘された、全ての男を見切って見下した
眼になってやる。おまえたちは、わたしに干渉することはできないと身体から無言のアピー
ルをしてみせる。それで、終わり。
陽が落ちるのはもう早くて、グラウンドには照明がもう入っていた。
……あのバカはどこだろう。
すぐに見つかる。
そりゃあ、あの容姿は地方都市では目立つけれど。
大きな身体、イタリア人ぽくないとよく言われるけれど、それでも話す度に全身をよく
使っていて。頭を振って、手を打ち振って。声を出すときは大きいし、良く響く。
……あのバカのことはよく知っている。
シュートを打つときはどんな気持ちなんだと聞いてやったら、済まなそうな、それでい
て、これだから女はといったような哀れむような顔で、シュートは打たないんだ、ポジション
がそうじゃないと答えた。
そんなバカな、シュートを打たないポジションなんか、やっていて面白いのか、じゃあ、
わたしのことを試合に呼ばないつもりか。おれがシュートを打つところを見に来てくれっ
て、誘うんじゃないのか。そう言ったら、来てくれるのかと顔中で笑った。だって、あん
なに一所懸命なんだから、一度ぐらい見に行ってやろうかと。だって、今でさえ週に３回
も逢える日が減ってるのに、試合に出るようになったら休みの日も逢えなくなってしまう。
話はできなくても、せめてグラウンドの上を走っているアレの姿ぐらい見ないと、どうに
かなってしまいそうだ。そういうイロイロは黙秘して、なんだ、出られないのかと言って
やると、また例によって髪を振り乱して声を荒げた。ディフェンダーで、ゴールを守る役
目で、大切なんだ、とムキになっていた。
……ああ、ほんとだ。
ボールより、人間を追ってる。点を取りに行く華やかなポジションじゃなくて。まだボー
ルが半分より向こう側にあるのに、慌ててゴールの前に戻ってきて、持ち場を固めている。
ボールより、ひとと絡んでいる方が多い。ボールを受けて、攻めてくる役目の相手を潰す
仕事。大きな身体が、チョコマカ動いて、自分が作った防衛線を破らせない。入れさせな
い。
……臆病なんだ。
たとえば野球は、どんどん前に進むスポーツ。ボールを生きている状態にして、その間
にランナーを進めて塁を陥れる。アメフトもそうか、アメリカ人の好きなスポーツはどこ
か似ているかもしれない。
……サッカーだって、ゴールを目指すスポーツだろうに。
きっと、点を取ったら勝ち、じゃなく、取られたら負けと思ってるんだろう。
臆病でまじめな少年は、みんなが団子になってゴールを目指しても、いつも自陣が心配
で残っていたんだろう。
選手の性格を良く見極めた指導者が、彼をこのポジションに据えた。
アレがディフェンダーなのはよく解った。
陽はとうに落ちていて、まばゆい照明灯の下で、白い息がそれぞれの口から見えていた。
１１月の北陸に、不釣り合いにまだ青い芝は相当金がかかっているだろう。
いっぱしのスポーツ選手みたいに。
汗まみれになって、声をかけあって。
……岸辺露伴がスケッチを描いたと言っていた。それは、彼も楽しかったことだろう。
長い手足、筋肉がきれいについている。最近はふざけて触れてみる、力強くてホッとする。
温かい腕。もう、触れても緊張が伝わってくることはない。別な意味でストレスをかけて
はいるようだけれど、それはそれでかわいくて楽しい。もっと近づきたい。わたしだけの
ものにしたい。その腕の中にも、心の中にも、わたし一人が入っていたい。なんでこんな
ことを考えるようになったんだろう。
胸が締め付けられるように痛む。大きな声を出したい、ここにいるぞ、わたしはここに
いるぞ、おまえを見に来たんだぞと言いたい。気づかせたい。
体中の血が沸き立つような昂奮ほんの僅かな時間だけで、笛が鳴り、練習は終わったら
しかった。
クラブ生たちはロッカールームへと去り、見学が目的の観客は散った。最後まで、使っ
た備品を片付けたり、グラウンド整地などを行っていたのが白い頭の猫科のバカだったの
は、納得がいってまた唇の端があがってしまった。あのバカはそういうところが躾がいい。
そこのところはブチャラティも美点と認めている。
４
秋になってから、文化祭の準備を何度も見に行った。特進はクラス展示は免除だからヒ
マなのに、普通科クラスは模擬店や展示をなにか出さなくてはいけないから、あのバカは
張り切っていた。顔に似合わず、そういうクラスで盛り上がったりする行事が好きなのは
球技大会でばれていたから、クラスの女子も、勇気のあるほうの子から、声は掛けられる
ようになっていたと思う。たぶん、ソフトテニスの彼女、佐々木さんなんかが最初だろう。
身体が大きいし、頼まれれば女子の言うことは聞くから（強いお姉さんがいるとそういう
性分になるらしい）、うまく使われていた。それで固い性分なのは伝わったらしく、やっ
とクラスにとけ込めていたようだ。
……遅いって。
あんな可哀相なことをしておいて。
やったことは正義だが、どこから見ても輝かしい黄金のような義挙かというと、確かに
そうではない。
……慣性の法則ってのは物理の教科書の中だけのものじゃないんだ。
それは昔からそうなってる、って言われたときに、それをやめる、変えることには大き
なエネルギーがいる。たとえそれが犯罪であっても。それを黙って共有し続けることで、
集団がまとまることだってあるんだ。
自分は１０の時からここにいるだけで、ここ以外のことは知らないんだけど、それだけ
に黙ってこの小さな世界を観察してきた。
黙って見ないふりをしなくちゃならないことも、いっぱいあるのだ、この世界には。
こいつにだって、落ち度はある。あんな暴れ方はまずかった。怪我をしたキャプテンは、
一生スポーツができなくなった。彼だって、率先して悪事を始めた訳じゃない。長年の悪
い伝統だった。苦しんで、でも、チームをまとめるために仕方ないと割り切って、あのバ
カほどではなくても反発を示したり、拒否してやめようとするメンバーをなだめて黙らせ
たりと、苦労していたと聞く。
だから、内心では良くやってくれたと思っている人間も多いはずだ。
別に、サッカー部の連中が怖くて関わり合いになりたくない訳でもない。
ただ、ちょっと、勇気が出せなくて遠巻きにしてるんだ。
とくに、異性だったりすると、惚れてるのかなんて気を回されてしまうから。
水まで優しいこの街の内気な人達は、哀しいことに受け入れてくれるまでちょっと時間
がかかる。
自分は日本語を覚えたり生活に慣れるのに必死でその時期を気づかないで過ごしてしまっ
たけど。
山から下りてきたライオンは、小さくなってひとりで弁当を食べていた。
言い訳も、グチめいたことも、この仕打ちをあげつらうことも言わなかった。
頭を撫でてやったら、涙は堪えていたけれど、真っ赤になって震えていた。
言葉を交わしてみて、ほんとうに、今時珍しいきれいな心を持っていると思ったから、
貰ってしまうことに決めた。
このライオンを、自分のものにする。
やさしくて、頭が固いのに多くのものを必死で受け入れようとしてあっぷあっぷする、
でもその姿勢を捨ててしまおうとしない健気さを、愛しいと思ったから。
カワイイと言ってしまっても、そこに上下関係を無理矢理見いだして気分を害したりし
ないでくれたから。
もう遅い、もう貰った。レオーネはわたしのことを好きになり返してくれた。だから、
クラスのみんなが今更優しくしても、もうあげない。
「サッカーの得意なきれいな少年」だと思っているような子たちに、触って欲しくない。
レオーネは、わたしのものだ。
突っ走っていた心が着地点を見つけて、ブチャラティは胸を張って、いい気分だった。
シャワーを浴びて身支度をして、クラブ生たちは三々五々出てきた。女の子達がきゃあ
きゃあ言いながら近づいて、取り巻いて去った。
白いライオンが出てきたのは、ほとんど最後だった。ガラス戸を通るときに「失礼しま
す」と、きまじめな挨拶が聞こえた。と、前を向いたその時に、こちらが目に入ったらし
い。顔が見る間に赤くなった。
「なんで来たんだよ？」
ダッシュで距離を詰めて、バカは無意味な質問をした。ああ、いつもと香りが違う。国
産のボディソープの匂い。髪もなんだかまだ湿っていて……見慣れなくてカワイイ。
「来ちゃ悪いか？」
「だって、試験勉強……」
「手につかない」
言ってしまったら、もう、堰を切って、止まらない。
「おまえのことばっかり考えてしまう。制御できない。頭がどうにかなりそうだ、こんな
の初めて……
こんなの、初めてだ」
自分で自分の言った言葉に驚いていた。
「好きすぎて、……おかしくなりそう」
あとは、唇がふさがれてた。もう、なんにも言わなくていい、身体で示されて、やっと
心が落ち着いた。
「なんだよ、おまえ、おれのことどうでもいいみたいな振りしてて、……なんだよ」
意味不明な囁きは、耳の上辺りでしていた。
「どうでもよくない」
ずっと立っていて冷え切っていたと、抱きすくめられて思い知らされる。埋まるほどに強
く密着して、暖かさが身に染み通る。
……温かい……。
じっと抱き合っていたのは、先に出たスクール生どもをバスに乗せてしまう意味もあった
ようで、ひとのいなくなったバス停に動いて、ぽそり、ぽそり手を繋いだまま会話していた。
「思った通りだった」
「なにが？」
「グラウンドにいても、レオーネ」
「ピッチって言うんだ。どう『おれ』だった？」
「バカだった」
「バカって……ああ、具体的に聞くのが怖（こ）ええ」
「バカレオーネ」
「こら」
「バーカ」
「怒るぞ」
そんなことをしている間に、ほぼ空の市中心部行きバスが来た。
５
「練習の後って腹へって、いつもなんか食べて帰るんだけど……甘いものはやっぱイヤか？」
「食べる」
中心部の老舗デパートのティールームにずんずん入っていってやる。栗の載ったロール
ケーキ、フルーツを飾り立てたタルト、きつね色に焼けたチーズケーキ、眼につくままに
注文する。
「おいおい……今日はそんな気分なのか？」
困りながらも、やけ食いしたいのかと解りやすい答えを見つけて安心した様子になる。
食べてみたかったけど我慢していた様々なスイーツに、次々フォークを突き立てる。一口、
二口頬張る。と、もうなんだかどうでも良くなって、次のをフォークで切り下ろしている。
「こら、お行儀悪いだろ」
「要らない」
「最後まで食べろよ、作ってくれたひとに悪いだろ」
「はいらない」
「だったら頼むなよ、ほんとに、もう」
溜め息を吐きながら、レオーネは残りを食べてくれる。凶暴な衝動は、収まったのか、
自分でも解らない。でも、この不器用な男が受け止めてくれる、そんな確信のようなもの
があって、なんとか自分をまとめていられる。
そんなことを脳裏で忙しく考えながら、ただ紅茶で口の中を洗っていた。
足はこの気のいい男の脚をテーブルの下でつんつん蹴っ飛ばしていて、
「お行儀悪いッ」と小声でたしなめさせてやっていた。
「落ち着いたか？ あんまりダイエットとか気にすんなよ、喰いたいもん喰って。おまえ
ほんと光ってるんだから。今はいろいろ変わっちまう時期らしいから、自分でビックリす
るかもだけど、おれはおまえの肝の太いとこが好きなんだから、見た目の細かいところは
あんま気にしなくても……うーん、でもほんと今日はきれいだったなあ、なんか光線出て
た」
ダイエットをするなと言いたかったらしいレオーネは途中で変節した。肝の太いところ
が好きなんて言われても困る乙女心の方はそこでギリギリ救われる。
「気合いを入れたからな」
コートの下は、うちで着ている普通のプルオーヴァーに辛うじて理性で履き替えた外出
用パンツだけれど。ポルポのコートに感謝。入れたのは気合いだ、そうだ、精神力だ……っ
てやっぱり肝の太さ？
ループしている、あり得ない、こんな矛盾自分には許せない筈なのに、このバカが機嫌
良くしてるからもうそれでいい、嬉しい。きれいって言って貰えた、もう死んじゃいたい。
やっぱり出てきて良かった。
なんとなく顔がにやけてきているのを感じていると、黙って皿の上を片付けていたレオー
ネは確認を取ってきた。
「あと一口だけど、ホントもういいか？」
「……チーズケーキだけもう一口欲しい」
「ほい」
フォークに刺して目の前に出されて、ついそのまま食べてしまった！ あんまり自然で。
相手の方も、自分がやったことに今更気づいて硬直していた。
「おいし、かった」
「ああ、良かったな」
慌てて二人して眼を逸らせてお茶に逃げた。
なにをやってるんだ、こんな、町中の、ティールームで！
自分が信じられなかった。
レオーネは伝票を見て一瞬硬直していた。
「払うからッ」
「ばか、いいよ」
勢いよく立ち上がって、大きな身体がレジへと動いていった。
「ごめん」
「いいって」
「美味しかった、ごちそうさま」
「ああ。おまえにケーキご馳走してやりたかったんだから。ずっと。やっとできて良かっ
た。……できれば、次から溜めずに言ってくれると嬉しいけど」
「うん」
「明日、練習ないから、……行っていいか？」
「うん」
６
アバッキオが約束通り次の日ブチャラティの家を訪れると、お猫様は勉強はやめて一緒
にいてくれるようだった。いつもみたいにぴったりと身を寄せてきて……？
「ブチャラティ？」
重いと思ったら爆睡していた。実力テストの勉強、相当根を詰めていたみたいだとアバッ
キオは考える。自分のフォローをしていることは学校にも知られているから、成績を落と
すわけにはいかないのだろう。申し訳ないから、アバッキオも真剣に勉強することにした。
そっとベッドに横たえ直して、安心するように左手は絡めさせたままで自分のノートを開い
て……。
「……オーネ」
寝言に振り向くと、腕の力が強くなった。閉じたままのまつげが濃い。なんだか眼の周
りが落ちくぼんでいるような……。
「どうしました？」
足音を殺して部屋を出てリヴィングに向かうと、夕刊を読んでいたフーゴが眼を上げた。
「お茶貰えるか？ 緑茶」
「ブチャラティは？」
「……寝た。ッて、あの、なんもしてねえ、寝不足だったみたいでッ」って、もう、疚し
いことがバレバレ、いやなんにもしてない、心の中だけッ！ ……というもろもろを全て
読んでそれで行儀良く無視して天才君はまた新聞に眼を落とした。
「ああ、最近根を詰めてたみたいですし」
「煮詰まってたよな、昨日はいきなり叫びながら飛び出してッたぜ。だーりん襲撃されたろ？
ごめんな送らせて」と、ナランチャがにぱっと笑った。
「あ、ああ、それは構わねえけど」
「寝かしてあげてください」
フーゴが立って、お茶を煎れに行った。
「ああ」
「じゃー対戦モードにするからちょっと待って」
ナランチャがコントローラーをがちゃがちゃ操作した。
フーゴはお茶を小さなトレイに載せて持ってきて立ったまま勧めた、眼でブチャラティ
の部屋を示して。
「一緒にいてやってくださいよ、目が覚めたときいないと落ち込みますよあのひと」
「いや、その……」
「フーゴ」
ナランチャは苦笑する。
限界になったから出てきたのだと、天才君はまだ理解できないらしい。
７
昼寝から目覚めると、なんだかヘンな感じがした。でも、違和感の元は解らない。
「ブローノ」
自分の名前を呼ばれたというのに、なんだろう？
横に××××がいない。一緒に横になったのに。それでかもしれない。どこへ行ったの
だろう。ベッドを下りて、探しに出る。靴を履いて。石組みの床……、ああそうだ、うち
の床だ。違和感を感じるなんておかしい。
「ブローノ、よく眠っていたこと」
ドアを開けると優しい声が聞こえる。母さんだ。首をめぐらしても、顔が見えない、なん
だか母さんの顔が暗い。
「母さん、××××見なかった？」
「え？ なあに？」
母さんの声は変わらないのに、どうして胸が締め付けられるような気がするんだろう？
「××××だよ、一緒に寝てたのに、どこ行ったんだろう？」
「え？ 誰のこと？」
笑い含みの声がおかしい。
「母さん！」
「おかしいこと、ブローノ、そんな子はいないわ」
「いるって！ 友だちで！ いま一緒にいたのに！」
ドアを開けて、父さんが帰ってくる、大きな背中、潮くさい匂いをさせて。
「父さん！」
その顔にも、影が落ちている。
「ブローノ、どうした？ 今日は勉強したか？」
「父さん、見なかった？ ××××がいないんだ、いままで一緒にいたのに！ 横で昼寝
してたんだ、まだ背中に温もりが残ってる！ どこに行ったんだろう！？」
「ブローノ、誰だって？ おまえにそんな友だちがいたか？」
「できたんだって、上の学校に行って、一緒に弁当を食べて、うちに遊びにだって来たっ
て！ 今そこで一緒に昼寝をしてたって！」
「誰だ？ そんな子、いたっけ？ なんて名前の？」
「××××だって！」
ミュージカルで言ってた、恋人の名前は、世界で一番美しい言葉。一般名詞のときはた
だの動物の種類なのに、あのバカをさす言葉と思えばなんて愛しい。
……なんだっけ？
「え？」
「××××……え？」
声が出ない。その言葉だけが口から出ていかない。魔法を掛けられたみたいに。
魔法なんだろうか。
父さん母さんがなぜだかよそよそしいのも、顔がハッキリ見えないのも魔法か？
「××××ッ」
喉がプラスチックになってしまったように、自分のものという感覚がしない。体中の力
を込めて叫んでいるのに、舌が動かない。どうしたんだ。
「××××ッ」
どんな魔法だ、これは。どんな呪いをかけられて、わたしはこんなふうになってしまっ
たんだ？
「レオーネッ！」
やっと声が出たと思ったら、目が覚めた。
嫌な汗をかいてた。
「レオーネッ！」
部屋でなにか声がしたと思ったら、ブチャラティが叫びながら部屋から出てきた。
「ほら、取り乱した」
言ったとおり、と口は言いながらフーゴも意外そうな顔を隠していなかった。
「ああ、おはよう」
アバッキオは手を挙げて挨拶した。なんだかマヌケだなと自分で思ったけれども。
「ばかッ、なんで勝手に部屋から出るんだッ」
力を失って床にへたり込んだブチャラティに、
「ひとをおうちにご招待しておいて昼寝した人間の言いぐさじゃないですね」と、フーゴ
は背を向けた。
「いやちょっと、女性の寝姿は見てちゃダメかなって」
アバッキオはしどろもどろ。
「勉強大変なんならおれ、しばらく遠慮するけど？ なんか見るからに寝不足っぽいぜ、
おまえ」と、気配りしてやっても、
「ダメだッ！」って。即時却下で。
……ああ、もう、お猫様どうされました？
アバッキオは引いてしまっている。
自分で深呼吸して、ブチャラティはその辺はなんとか建て直したようだ。
「ああ、すまん、勉強は自分でなんとかペースを戻すから……空いてる日は来てくれ。
おまえが見えるとこにいないと、いろいろ考えすぎてしまうから」
大丈夫かと言いかけるのに、被せてきた。
……ああ、もう、殺し文句がうまいんだから。
「解った」
嬉しくなってアバッキオがブチャラティの顎に手を掛けると、
「エヘン！ エヘン！」
天才君がわざとらしい咳をして、牽制した。
「なあ、ブチャラティ、おれほんとおまえのこと好きなんだぜ？」
いろいろ考えすぎるって、疑われてるってことかなと考えを巡らせたようで、家を失礼
する前にアバッキオは玄関で言ってきた。
「ふん。それでも足りないんだからしょうがない。もっと判るように示せ」
「ええと、具体的に……」
「………………………………泊まってけッ！ せっかく一緒にベッドにいてなんでなんも
しないんだバカッ」
珍しく顔を赤らめたブチャラティが、溜めに溜めていた本音を見せてくれたと思ったら！
「バカ、無理だってッ！」
アバッキオは即答していた。
「ブチャラティッ！」
聞きつけたフーゴがドアを開けて自分の部屋から顔を覗かせた。
「お、おれはなんもしねえぞッ！ 明日またな！」
慌ててアバッキオはマンションのドアを開けて飛び出した。もう、いたたまれなくて非
常階段を駆け下りていった。１０階分。
「とりあえず、プレゼントに思いの丈をぶつけてください」
フーゴが気の毒そうにブチャラティの背を叩いた。
「ああ、もう、穴を掘ってさっきの自分を埋めたい」
ブチャラティは全くらしくなく肩を落とした。
こんなんでおまえの気が晴れるかどうか疑問だけど、と、翌日、アバッキオは携帯のア
ドレスをブチャラティに教えてくれた。せっかく高校に入って買ってもらったのに、５月
以降リンとも鳴らないし、使用明細が可哀相なことになってるから親が心配してると言っ
て。もしかして、こういうの好きじゃなかったら悪いけど、こっちの言いたいことだけ打っ
て送るのは認めてくれよな、なんて言って。
「あんたたちまだメイル交換もしてなかったんですかッ！？」
フーゴが呆れることと言ったら。
「だって要らなくね？ ガッコ出たら毎日ずっと一緒にいたんだし」おれとフーゴだって
いちいち携帯でなんか言い合ったりとかしねーじゃん、とナランチャがけろりと言った。
ブチャラティはつまらなそうな顔を崩さなかったが、絵文字もないごくごくシンプルな
メイルを送っては、すぐさま返ってくるメイルを見て口元をほころばせている。
「発信者：お猫様
題：明日買い物
要件：１０時アリオン時計」
「発信者：バカ
題：ｒｅ：明日買い物
要件：１０時は無理。午後にならない？」
「発信者： お猫様
題：ｒｅ２：明日買い物
要件：昼一緒したい」
「発信者：バカ
題：ｒｅ３：明日買い物
要件： じゃあめし食うところから。ごめん練習あって。１時にはアリオン着けると思
う。なに着てくる？ 明日寒いらしいよ、気をつけて」
「発信者：バカ
題：ｒｅ４：明日買い物
要件： 逢えるのは嬉しいよ」
１５−０３−１１
おまけ。
「そこは食い気じゃだめなんだってばッ！ 抱いてやれッ！」
入ってくるなりただの田舎のデパートのティールームをパリかローマのカフェテラスに
変えてくれた美男美女カップルに、丁度出くわしたはいいがうっかりスケッチブックを忘
れてきて恋人のレポート用紙を供出させてまでガリガリとスケッチを始めた岸辺露伴はど
うしようもない乙女心の嵐を正しく推察して小声で届かぬ助言をしてやっていた。
「露伴ちゃんホントに彼女に入れ込んでるのね」
それを見守る恋人も微笑んでいる。
「全く玲美さんのおかげでいい場面に出くわすことができたよ。紙も用意して貰えたしね。
愛してるよ、ぼくのミューズ」
「それって誰にでも言ってるんじゃないかしら」
「そんなことはないッ……」
蛇足。
わたし母だけど娘が「スラ猫シリーズ面白くない」って言った。死にたい！
掲示板のコピペふうに書いてみましたが。なんかシリアスな恋愛ものになって娘には不
評です。おかあさんは久々に若い人のキュンキュンな話が書けて興奮してるのに。ちぇ。
ぐずぐずしてる間に大災害が起って２次どころじゃないですが、全然揺れもしなかった
西日本のひとには急にＴＶも新聞もみんな震災一色になっちゃってつまんないよね。ごめん
ね。東北にはお友達もお世話になった方も居ますが、それはわたし個人のことで。なんに
も縁がない、遠い世界って言われたら無理強いできないわ。
それに、今にも日本が終わりそうなほどに事態は深刻化しているし。
ごめん、明日日本が終わるんなら今日書けてる文だけでもひとにご覧に入れたいわわた
し。そこらへんがＧＯよね、大河ヒロインじゃなくて、業。
みんな元気で楽しく春を迎えましょう。きっとだいじょうぶ。ダメだった方には申し訳
ないけど。もう痛くも寒くも哀しくもないところで、安らかにお過ごしください。
お代わり！
冗談じゃねえッ 帰る