対決
その朝（６２）
１
ネアポリスはもう秋。市長の執務室を照らす陽もいくぶん烈しさをおさめてきて、背に
した窓越しに目の前に落ちかかる自分の影のいろも、盛夏よりは濃さが薄れてきたように
思われる。
「どうぞ」
入室を許して、来訪者に目を向けた美人過ぎる市長は、表情を一瞬で和らげた。
「やあ、珍しいな。おまえはやはりかっちりした服の方が似合う。今でも義理堅くスカル
ラッティで仕立ててるのか？ 別にどんなブランド・ショップで誂えてもいいんだぞ？
おまえがマヌカンを引き受けてくれるならとどこも社員価格で仕立ててくれるだろう。
いや、金は要らないからどうかうちのメゾンの服を着てこんどの夜会に出てくれと言わ
れてたりするんじゃないか？」
眼を細めて。最愛の夫の来訪を心から楽しみながら、その端整な姿を誉めあげる。上等
の服地の色が濃いほどその長く垂らしたプラチナのブロンドを引き立てるし、昔気質でちょっ
と茶目っ気もある店主がカッティングへのこだわりを見せれば、若い頃鍛えに鍛えた戦闘
業種の体型の完璧さを際だたせる。
ひととき、言葉は途切れ、溜め息が漏れた。
「だがレオーネ、めかし込んできてくれたのは嬉しいが、これからデートは無理だぞ。面
会が入ってる。ええと、なにかの団体の陳情だ」
「解ってるッ！ ネアポリス・スローフード推進協会だッ」
羞恥に耳まで赤くして、プラチナの髪の美丈夫は、背後に控えた中年女性連中をほとん
ど怒鳴るように紹介した。よそゆきのスーツ姿のおばちゃんたちは、どうもごちそうさま
という顔をしてかるく挨拶して見せた。
「え？」
多忙な市長閣下は、来客が現れてから団体名と代表者をざっと確認するつもりでいたの
で、慌ててスケジュール表を検めた。
１４：００〜 陳情。ネアポリス・スローフード推進協会。代表：レオーネ・アバッキオ。
「これは失礼した。それではお話を伺おう……アバッキオさん、それから皆さん。どうぞ
そちらにお掛けください」
ちょっと頭をかいて、ネアポリスの美しすぎる市長、ベアトリーチェ・ブガッティ、本
名はフロラ・ブローノ・ブチャラティ、はソファに客を案内した。
２
有能な市長の在任が２期目に入って、その素朴なパートナーで主夫であるアバッキオも
ネアポリス市民には名が売れてきて、そういえば、いくつかの市民団体の代表に担ぎ上げ
られたという話は聞いていた。
なにしろ、本職の俳優やモデルが恥ずかしくて顔を上げられないような美丈夫なのだか
ら。
中年女性の団体のお飾りの会長や代表にはもってこいかも知れない。話のネタや目の保
養にと、会の出席率が上がり、活動への意欲も高まることだろう。
それに、外見を裏切る真面目で実のある気性だから。
一度そういう仕事を引き受けてしまうと、地味に働くのでもうその団体が離したがらな
い。アンジェラの小学校の父母の会の役員を結局５年もやり遂げて、しまいには会長まで
勤め上げたと聞いてブチャラティは苦笑したものだ。
……今はスローフードの会にとっつかまったというわけか。
ブチャラティは愉快そうにテーブルの向こうに席を取った夫を見やった。
「それで今回のご用の向きは？」
「市長に陳情です。お聞き及びでしょう、来月にも、アメリカ資本のファストフード店が
ここネアポリスにも出店すると」
「ああ、ワールド・バーガーさんですね」
１５年連れ添った夫婦が、市庁舎の市長執務室で他人行儀に真面目な話をしている。も
とは下町を仕切るただのギャングだったのに。ブチャラティは愉快な気持ちをとぼけた表
情の下に押し隠していた。
「その出店許可を、取り消していただきたい」
アバッキオは、静かにムチャを言って来た。
「できませんな」
ブチャラティは短く突っぱねた。と、
「市長！ このネアポリスの食文化がめちゃめちゃにされてしまってもいいと仰るの！？」
「アメリカの大味で身体に悪い食べ物を若いひとたちがありがたがって食べるようになっ
たらどうします！？」
「このネアポリスにファストフードの店なんて要りません！」
すぐさまアバッキオを押しのけるようにして、左右に陣取っていたご婦人方が金切り声
を上げた。
「皆さん落ち着いて。冷静な話し合いができません」
アバッキオがかるく手を挙げて遮ると、ご婦人方は口を閉じた。
……見事な統率だな。
ブチャラティは感心してしまう。
「書類に不備はない。正々堂々と許可を取って、正規の商取引の元に用地も取得して、工
事に入っている。工場は国内にはないが、フランスの方にＥＵの基準を満たした自社工場
があって、栄養的にも衛生的にも問題ない材料を無理のないペースで生産している。途中
の輸送や保管の経路・手段も申し分ない。
こちらもその辺のことはいろいろ考えて、ジャポネのいうところの、ええと、ランチボッ
クスの隅をほじくる？ みたいに精査したんだが、向こうも本気で、まったく穴が見つか
らなかった。それで、許可を出した。出したものは引っ込めようがない。諦めてください」
「最大限努力はしたと？」
「そうです。イタリア共和国は自由主義経済下の民主国家だ。正統な手続きを踏んだ正規
の商取引をお上が妨害するなんてことはできない。諦めてください」
淡々と市長は言った。
「でもッ、市長さんにはできるんでしょ？ その、超法規的措置が。だって、あなたには……」
マフィアの後ろ盾があるではないか。
公然の秘密を、ゆるく巻いた髪をアップにした中年の女性は出してきた。
就任早々、披露パーティの席上でそれを下品な振る舞いとともに指摘した某上院議員が、
交通事故に見せかけてほんの１週間のうちに殺されたのは周知の事実だ。
「シニョーラ、滅多なことを口にされない方がいい。この部屋の会話は録音を取らせても
らっています」
声を険しくして、ブガッティ市長は牽制した。
……結局はそれか。
内心、疲労を感じる。極力マフィアの介入を排してきたというのに、２期目になっても
これか。ブチャラティは市民の本音をここで知った気になる。
「わたしは裏社会との繋がりは持っていません。それは就任の時にお誓いしたはず。それ
をここ以外で、さらに何度も口にされるようだと、わたしも自分の名誉を守るためにそれ
なりの手だてを取らなくてはならなくなります。どうぞ、お気を付けて」
「し、失礼しました」
執務室には沈黙が下りた。
「ちなみに、アメリカのマフィア経由で我が国の裏社会にも便宜を図るよう既に話が通っ
ているという噂を耳にしました。あくまで、噂ですけれどね」と、自ら口が裏切って親切
を見せる。
ワールド・バーガー側も本気だということだ。
「フランスに次ぐ食の本場ということで、イタリア進出は悲願だったようです。屋外看板
への規制も呑みましたし、ＴＶＣＭの制限も最大限譲歩して見せたとか。そこまで本気な
らと共和国政府の方の指示もあって、頑固を貫けなかったのもあります。首都ローマは既
に１９８０年代には陥（お）ちましたが、おかげでアメリカ人観光客の数は毎年増え続け
ています。それに比べて、ここネアポリスの観光客はじり貧。ちょうど抜本的な対策をせっ
つかれていたところでした」
「情報は入っています」
アバッキオが苦い顔をして応じた。そもそも、首都ローマにそのファストフード店の開
店を許したことがスローフード運動のきっかけなのだ。
「観光局からの援護射撃もあって。英語しか話さないアメリカ人観光客が安心して注文で
きるファストフード店があれば、アメリカからの観光客を期待できると」
「馬鹿馬鹿しい」
さすがに、アバッキオが鼻を鳴らした。
「その土地のものを食べないで、その土地に来た意味があるか！」
すぐさま、スローフード活動家たちは同調した。
「そうですわッ！」
「ネアポリスに来たのならピッツァを食べて帰らなくちゃ！」
「あんながさつな食べ物以外の味を知って帰らないでどうするの！」
「まったくです」
つり込まれて、ブチャラティも笑った。
「しかし、味の分からないアメリカ人観光客はともかく、我らがネアポリスッ子たちは本
当に、あんなものをありがたがって食べるようになるでしょうかね？」
声をひそめて、ブチャラティは問いを放つ。
「あァ？」
不意を突かれて、アバッキオが表向きの仮面をうっかり外れさせる。
「奥さん達のうちのお子さんは、あんなものを美味しいと思うでしょうか？」
「うちの子は、あたしの作ったものしか食べませんわ」
「本当に美味しいものを知ってますから。アメリカ人の食べるようなものを有り難がった
りなんて。そんな、ほほ」
「うちの子には外でものを買って食べるなんてことはさせていないし」と、アバッキオも
厳かに言う。さすが、スローフード推進団体だけある。ブチャラティは晴れやかに笑って
見せた。
「じゃあ、なにも心配は要らないんじゃありませんか？ 商売熱心で過保護なアメリカ人
が、可哀相な観光客を飢え死にさせないためにエサを売ってやるだけの話。観光客の皆さん
も、ネアポリスの味を知ったら絶対パンに挽肉の団子？ パテ？ を挟んだ食べ物なんか
食べようとは思わないでしょう。早晩潰れるとわたしは思ってますけどね。
あそこのハンバーガーとやらは、オー？ ええと、オ、オセアニアの牛の肉でできてるん
でしょう？ 我々の口に合うのかな？
アメリカ本土と同じ味のハンバーガーの食べられる街もいいかも知れませんが、アメリ
カのハンバーガー屋が潰れたぐらい街に安くて美味しい食べ物の溢れた街というのは、きっ
と受けると思いますよ、とくに、ＥＵ諸国にはね」
残念ながら教育はないが、有能なブガッティ市長は、ご機嫌な顔で陳情者達を煙に巻い
た上に、さらに焚きつけた。
「それは、ちょっと、面白いな」
アバッキオは目を見張っていた。
「あたしたちが、アメリカの巨大資本に一泡吹かせるんですね？」
「あれだけ美食美食といっておきながら、いざ門戸を広げるとアメリカの食べ物を受け入
れた文化の国とやらの鼻を明かすこともできますわ」
つんと顎を上げて、気の強そうなブルネットの女性が気を吐いた。ほんとに、フランス
の連中は口ばっかりで頼りにならない。
「正当な経済活動、消費行動の結果が、赤字閉店というのは有り得るし、これはどこにも
文句の持っていきようがないでしょう。売れなかったという結果が一度出たからには、そ
れを押して受け入れる義理もこちらにはない。サクラを雇ってまで売り上げに貢献してや
れとはどこからも言われてませんし」
「市長さんはそう思われるのね？」
「皆がそう思うでしょう」
市長は慎重に、明言を避けた。
「わたしの考えは、ご理解いただけましたか？」
ネアポリスの海の色の目が、静かに輝いていた。
「保健局の会議室とスタッフを優先的に利用できるよう話を通しておきます。がんばって
ください、市民と観光客のために」
「感謝します、市長」
握手をして、場は解散となった。
陳情の団体が去って一息つくと、ネアポリス市長はすぐさま秘書に確認を取った。
「ルビーニ君、今の、スローフード推進協会？ どういう団体だったかな？」
「あ、はい、設立は１９８７年ですね。ピエモンテで運動が起るとすぐに賛同者が集まっ
てできてます。以前の代表は、イザベラ・ネッティ女史。高齢で１０年ほど前に引退なさっ
てます。そのあと後継者が４年位ずつ勤めて代替わりして、今のアバッキオさんで４代目
です。
本体のスローフード運動協会との関係も良好で、とくに他のやばそうな団体からの紐付
きということもありません。穏健な啓蒙・教育運動が中心で過激なデモ活動の前科もなく、
会員も中産階級の主婦が中心で問題はないですよ。
金は会員の主婦達の会費と、賛同者の生産者団体から出てます。きれいなもんです。そ
の分資金繰りがやや厳しいかと」と、直ちに情報が上がってきた。
もともと部下の適性や能力を見極める力に長けていたブチャラティだ、この大学を出た
てのエリート君の能力には期待していたが、今回は望んでいた情報を得られなかったらし
い。黙ったまま続きを待っている。ジャポネの仮面劇の若い女性の面のような、表情に乏
しい、美しいが相対するものに問いかけてくる顔で。
「……他に何か？
具体的な数字が必要ですか？ 昨年度の収支ですとか？」
困った様子を秀でた額の辺りに見せられて、ブガッティ市長閣下は仕方なく口に出した。
「ああ、十分だ、ありがとう。……それ以上はこちらで情報の方に問い合わせる」
若い頃の自分の参謀がいかに有能で自分の意向を読んで次々手を打ってくれていたかを
このところ彼女は痛感している。
……フーゴは彼よりずっとコドモだったんだけどなあ。
今となっては、生きていくために、彼は必死でブチャラティの思考をトレースしていた
ものと見える。……かなり私生活に踏み込んだ範囲まで。
恥を忍んで昔なじみに話を振ると、やはり彼らは解っていた。
「あ、あれねー。だいじょぶ、アバッキオを代表にするにも総会開いて決めたぐらいのお
堅い団体でさ、全然、看板だけ真面目にした不倫サークルってんじゃないから。
いろんなガッコやスポーツクラブに出張講演して、ちゃんと考えてもの喰えとか、自分
で料理すると楽しいとか教えてくれるマジメなおばさんの団体。オジサンも少しはいたか
な？ 幹部連中はミーハーじゃあないけど、そこはおばさんだから、アバッキオ目当てで
幽霊会員がここんとこ軒並み現役復帰してるってさ。
農場の見学会とかも定期的にやっててさ、おれのガッコの友達とか、昔、ピクニック代
わりに結構参加してたよ。おれも。何てったってあそこで出るめしうまいし。収穫祭はす
げえよ？ おばちゃん達総出で自慢料理を振る舞って、レシピ配って教えてくれるし、後
援してるワイナリーがこぞって新酒出してくれて。
教会と連携してヴォランティアの炊き出しとかもよくやってて、アバッキオそれで目を
付けられたんだぜ」
すぐさま、輝く笑顔でナランチャは求める情報をくれた。さすがだ。
「あんま、手作りの料理が大事って言い過ぎると、女性解放運動家と喧嘩になろうってもん
だけど、そこへアバッキオを入れたから、うまくいってるんだよねー最近。やっぱ、料理
は女だけがするもんじゃないってのは今時の流れだし」と、ミスタが言い添える。
警備課は主任の人徳でゆるい雰囲気が課内に溢れていて、いつ訪れてもリラックスでき
た。ブチャラティは重荷を下ろした気分になる。
「なるほど」
「あそこの最初の代表のばあちゃん、言葉は優しいけど背筋がぴーんとしててさ、炊き出
しにおれ達が混ざってると叱るんだよ。
『なんです？ 元気な若い子が偉そうに混じるんじゃありません。こちらは昔うんと働い
たひとと、今具合が悪くて働けない方、それから、面倒を見てくれる方のいない子供が優
先です。元気な子はグリマルディーニさんの会社の事務所にでも顔を出して、日払いの仕
事でももらっていらっしゃい。一日働いてお腹をすかせれば、どんなものも美味しく頂け
ます！』ってさ」と、ルビーニの情報の裏付けももらって。
「『あなたたち、いいこと？ お食事はイマジネーションなのです。出てくるまでに匂い
を嗅いで、音を聞いて。一緒にお食事を伴にする皆さんと楽しくお話をして、どんなお料
理が出るか予想して、期待して、先に頭の中をお料理で膨らませるんです。そうして、供
されたお料理を楽しく、おいしくいただくの。だからたくさんいただけるんですよ。
何も考えず、なんの心の準備もなしにただがつがつ食べ物を口に入れることを、お食事
なんて言っちゃいけないんですよ』って。目から鱗だったけど、それって」
ナランチャは晴れやかに言って、それでも最後には上目遣いになる。
「……まあ、ちゃんと食えてるいいうちのひとの言うことだな」
ブチャラティは全面的に賛成もしない。食うに困った過去があれば、食べ物についてあ
れこれいうことはできないだろう。言葉の通じない国で、見たこともない食べ物が街には
溢れていて。不安に心の折れそうな旅行者には、本国と同じ食べ物を供する店があっても
いいかも知れないと思ったことも事実なのだ。
「アバッキオと気が合うわけよ」
あ、それも心配なのかな、ナランチャは言ってから気がついた。
「ねーさん、アバッキオの入ってる団体のチェック行き届いてねーだろ？ そんで、今日
いきなり執務室訪問されてびびった？ だめじゃーん」
ミスタがからから笑った。
「やつも名前貸すだけでいい団体とねーさんの仕事上真剣に関わっとかないとの団体の切
り分けできてねーからな」
強い支持を受けて「ブガッティ市長」が２期目に入って、断り続けるにも限界にきてい
たというのもある。
「誰かが教えてやってくれるといいんだがな」
ブチャラティはわずかに頬を緩めた。
「ま、おいおいで。自分でちょっとは痛い目にあって覚えるのが一番だしー？」
まったくミスタは人生の達人だ。
「しかしいつもあんなにキめて行ってるのか。けしからん」
あのブルネットの美人のアバッキオを見る眼は本気だったぞ、とブチャラティは記憶を
蘇らせている。
「ねーさんに恥かかせたくないっていつも言ってるし。
マジメなおばさんに、ギャング上がりって嫌な顔されたくないみてーだし。
今日は、執務室に訪問だから気合い入れたんだぜ、表の連中にもいいとこみせなくちゃっ
て」と、歌うように言うミスタも、「警備主任」の肩書き上、着崩してはいてもスーツ姿
だ。
「なんつってもこれは魔法のヒモだしー？」
その昔、グリマルディーニの大番頭にドレスコードについてやいのやいの言われたこと
を思い出して、辛うじて首に絡んでいるネクタイを引っ張りながらナランチャが笑って見
せた。
オトナになるということは結構大変だった。
３
……なんだかんだいってもまだまだアツいねえ。
市長が執務室に戻っていって、ミスタはほくそ笑んだ。
済まない、妊娠したみたいだ。しばらく身を隠すからおまえたちだけでなんとか凌いで
くれ、とけろりと言われてアジトが驚天動地になったというのは、ナランチャから聞いた
自分の加入前の話だ。アバッキオを拾ってまだ３ヶ月かそこらで。フーゴとナランチャが
必死で両手に取りすがって引退は断念させて、ミスタのオン・ザ・ジョブ・トレーニング
は産前産後のブチャラティの身辺警護だった。二十歳前でパッショーネのチームを預かる
ような幹部候補生のギャングが、いったいどういうひとなのかと思ったが、産休明けに復
帰するなり強力で野心家の１５歳のスタンド能力者の少年をスカウトするし、その少年に
引きずられる形で当時のボスに結果として反逆する旅を成功させてしまうし、とんでもな
いといったらそれはとんでもない女傑だった。
……あんまり女らしくはねーんだけどね、ときどき、変なところでオンナなんだよな。
その気になって飾り立てれば、文句なしの美人で、夜会の時など周囲を楽しませてもい
るのだが、日頃は体型さえ見誤らせるかのように女性を感じさせない出で立ちで。アバッ
キオに対する態度も淡々としている。それでいて「結果」はすぐに出すし。
……ええと、こんな時に済まない、また妊娠したみたいだ。
就任して３ヶ月でまた周囲の人間を大混乱に叩き込んでくれたし。フーゴがまた思いっ
きりキレてアバッキオをこてんぱんにしていたので、あとの人間はかえって、小さくなっ
たアバッキオに、気にするな、なんでも言えよと言ってやる役割になった。
親しい女性が幸せそうなのはいいものだ。逆よりはずっといい。
ましてや、自らがその器に惚れ込み、彼のボスから何があっても守ってやるように、役
立ってやるように言い含められている相手だ。
……ま、アバッキオ、凡人の身で女神に愛される苦労はおまえさんだけ背負ってくれや。
「気を回して焼き餅妬いて。ねーさんもカワイイところあるよな」
ひとりごつと、警備課のルイスがそれに耳を留めた。今年採用の、やや体育会系のかた
ぎの公務員だ。
「え？ じゃあ、シニョーレがおばさんに囲まれてたから心配になって来たってことッス
か？」
「そゆこと」と、ナランチャもにかっと笑ってみせる。
「えーっ、市長でも焼き餅妬いたりするんだ？ まあそりゃ、シニョーレは男前ですもん
ね、心配になるのか……どんな顔して妬くんだろ、見たいかな。つねっちゃったりとかす
るのかな、あれで」と、若い頃ギャングをやっていたというマル秘情報を軽いものとしか
認識していない若いのは笑いながら言ってのけた。いやたしかに、今さっきだってごくご
くいつもと同じクールな顔に見えたのだ、一般人には。
……ゴキゲンにさわやかーな笑顔でボコり倒すんだぜ。
ナランチャが心の中で答えてやった。心の中で。ずっと前、彼女が下町の女神をやって
いた頃から、ブチャラティを崇める人たちの夢は壊さない配慮が彼にはある。
……いやーあのねーさん夜のモードだとサキュバス（淫魔）入るらしいぜ。
ミスタは、アバッキオを嘘発見器の実験台にしたときのことを思い出している。
体中に電極を貼り付けられ、顔を真っ赤にしてべそをかきながら告白するアバッキオの
雰囲気がかなりいつもと違っていて楽しくて、ついつい踏み込んだ質問をしてしまってい
た……。潔癖なフーゴが席を外していたのは悪魔の配剤。
そのあとのブチャラティのお仕置きについては、ミスタは都合良く忘れ果てた。得な性
分である。
「あーあ。今夜は濃いな、きっと。
おい、公邸に繋いでくれ。今夜の夜勤おれ替わるわ、誰だっけ、若いのは外してやれ」
ミスタは彼らの名誉のために気を遣ってやった。
「３人目できたりしねーだろーな」
「えッ」と、ミスタの独り言に新入りは顔を赤くして反応する。
「えーいいじゃん」
ゴキゲンでしじゅう２人の子供たちを構い倒しているナランチャは、にっかりと笑って
見せた。とくに、女の子でもう年頃になってしまったアンジェラはもう構いにくいから、
市長就任早々新しい「おもちゃ」を得られて、ナランチャが一番喜んでいたかも知れない。
「ま、いいけどね」と、ミスタが銃に眼をやる。アバッキオが恥ずかしがったり各方面に
謝ったり大変だろうなと思うだけだ。まあ、フーゴはもうなんにも言わないだろう……。
自分だって、周囲の「２人目を」攻撃に悩まされている頃だ。
４
……このひとは猫に似ていると若い頃は思っていたが。
その夜、アバッキオは、ベッドで待ちかまえるパートナーのシルエットを見てふと思い
を巡らせた。
……今となってはもう豹なんじゃないかなァ。
結局なんだかヘンな柄物は今でも好きだし。
しなやかな肢体にはほんの少し艶やかな貫禄を乗せて。もちろん今でも標準以上に太っ
ているとは誰にも言わせない。もう少し脂肪が乗ってもいいくらいの所があると本人も遺
憾に思っているようだ。
スタンドを使って視ているんだろうか、灯りを落とした室内で、青い眼は間違わずに自
分の姿を捉えている。
「じらすなよ。いまさらなんの書き物をするんだ？ 置いて来いよ」
笑い含みの声が招く。手の中にペンがあるのまで把握されている。
「なんで判るんだ？ スタンドか？」
「え？」
拗ねたように聞いてみると、意外や、虚を突かれた声が返ってきた。
「だって、……判るだろ、少しは窓から光も漏れてるし」
「判らん。おれはそっちの目覚ましのバックライトが頼りだが、こっちまでは届いてない
だろ」
「そうかな？」
「目の色はそっちが濃いってのに、やっぱり使い慣れてるからか？ スタンドだと思うぜ。
今朝、携帯受けながらメモ取ったからこっちの部屋のペンを使ってそのまま持ってっち
まったんだ、戻しとかないと」
「どうにでもなるだろ」
スティッキィ・フィンガーズが出て、アバッキオからペンをもぎ取ると、サイドテーブ
ルのペン立てにごすんと刺した、と、勢い余ってペン立てが倒れてペンはテーブルの向こ
うに落ちた。
「それが散らかる元だ」
ムーディブルースが出て、それをはいつくばって探して拾い上げた。
「うちの旦那様はマジメだ」
本体はもう、スティッキィ・フィンガーズの本体に抱きつかれている。
「だれが旦那だ」
身をよじるのを、許さずにベッドに引きずり上げる。ああ、南の方の、大きな魚の漁み
たいだなとブチャラティは思っている。
「ご主人様」
馬乗りになって。白い顔を見下ろして言ってやる。
「主人だと？」
「真面目ないいおうちの奥様はそういうんだろ？ 奥様のお相手はどうだ、楽しいか？
アバッキオさん」
ハ！ と言い捨てて、アバッキオは顔を背けた。
「あんたはおれがやってる運動に興味はないと思ってたよ」
「おまえに興味がないことはない。ちょっと……最近忙しくてうっかりしていた。今日は
刺激的だったな」
「そうかよ」
「さっきの話だが……そうだな、真っ暗闇でも、おまえなら判るな、わたしは」
「スタンドなんだな？」
「いいや、おまえは光ってるから。髪の色のせいかな？ いいや、やっぱり愛じゃないか？
そうでなければ、魂じたいの光だろう」
「フロラ、あのな」
「わたしの全身全霊がおまえを感じようといつも努力している、だからじゃないか？
……スタンド使いは惹かれ合うともいうけどな」
「おれだって、あんたのことはいつも大切に思ってるさ」
反撃のポイントを見つけて、アバッキオはブチャラティの背に手を伸ばした……。
「いいや」
短くそれは否定される。
「どれだけ見つめていても、何度目の前を通ったって、おまえは一顧だにしなかった。まっ
すぐ脇目もふらなくて。ナランチャの手当はしてくれたが。まさか毎回ナランチャを怪我
させるわけにも行かなくて。……一度なんか、買い物袋をぶちまけてみたこともあったな。
……ほら、覚えてない」
言葉に合わせて、ブチャラティはどすんと、みぞおちの上に体重を載せた。
「す、すまん」
そんなことを執念深く出してくる。アバッキオは真っ正直に謝ってやるが、ミスタが聞
いていたら、ねーさんトチ狂ってるなァと思ったことだろう。
「奥様達に囲まれてちやほやされて楽しいだろうが、弁えてもらうぞ？ おまえは、わた
しのものなんだからな？」
上体を倒して、覆い被さり、顔をすれすれにまで近づけて念を押す。黒髪は白い頬に落
ちかかって、その感触も、彼には慣れたものになった。今まで何度も、何度も繰り返され
てきた所有の確認。
「解ってるッ！ あんたに恥をかかせるようなことはしないッ」
「恥？ 違うぞ。わたしが悲しいんだ。
この道は本当に難しいな、どれだけガンバッても、報われるとは限らない。不毛なのに、
どうしてひとはひとを好きになるのかな？」
ぽとりと落ちた予期せぬ本音からの問いかけは、意外や、堅物男の答えやすい分野だっ
た。
「神様がお与えになったことだ。試練と思えば試練だが、想う相手に愛し返されるのはこの
上ない幸福だろう。
あんたは、いつもおれにそれを与えてくれるよ」
アバッキオの両腕が、今度こそはブチャラティの頭を抱えにいって、それは成功する。
大切な宝物のように抱えられて、ブチャラティの攻撃性はひととき弱まった、ようだった……？
「じゃあ、おまえだけが与えることのできる幸福をわたしに与えてくれ。
おまえのここは、わたし専用だな？」と、右手が下へ伸びて身体の中心を探り当てる。
「もちろんだ」
「わたしのここもだ。さ、おいで。最近ノリが悪いから、てっきりよそで発散しているの
かと思っていたぞ」
「冗談ッ……」
「うん、冗談だ。だが、ポルポさんは３０を過ぎたら憑き物が落ちたみたいに健全になら
れたから、ちょっと不安だったんだ」
女の３０代は脂の載りきったころだ。ブチャラティは自分がようやく味が分かるように
なってきたのもあって、ついついはしたない欲求が強くなっている。登り切ったら、あと
は下り坂と見えているのもあって。
「ポルポを比較に出すなッ」と、アバッキオは露骨にムキになる。
「おお、元気になった。さすがだな。若い若い」と、余裕であしらって見せる。わかって
いてポルポを出した辺り、さすがの交渉力だ。
「ちょ、もうちょっと時間をかけて、おい、待て、あんたはそれで……」
「気取るな。そんなにしておいてなんだ、こっちがいいと言ってるんだから遠慮せずに来
い……」
サキュバスというのは語源的に「下に横たわるもの」という意味であるから、ブチャラ
ティはどちらかというと、「あなたの下に横たわりたくない」と言ってアダムの元を去っ
たというリリスなんじゃないかとアバッキオはふと考えて……そして考えは拡散して消え
た。
結局いつも翻弄されて、強制的に満足させられる。それでいいかどうかについて深く考
えることはもうやめた。今は、ブチャラティも満足することを覚えたようだし。
「よかったな」
満足して見届けて、ブチャラティはご機嫌なキスをする、その頭を捉えて、体を入れ替
える。
「ああ、ヨかった。……から、おかえし」
「ちょっと、レオーネッ」
そこらへんはもう彼も若造ではないので。全力疾走一本でその日は終わりということが
ない。
「たまにはいいだろ？」
「いい、……けど、おまえ疲れてるんじゃないのか？」
「遠慮するな……」
「遠慮じゃなくて……ッ……」
今はもうほとんどかたぎで、襲撃を気にする必要はない。「ベアトリーチェ・ブガッティ」
は仮名だから届けを出していない事実婚になるけれど、公に認められたパートナーで。年
も相応。子供もいる。２人でベッドにいても非難されることはない。しっかりした作りの
屋敷の中で声を殺す必要すらないとだんだんに理解して、遅咲きの花はゆっくりと開花し
た。それでも、ごくごくまれにしかブチャラティは最後の栓を開かない。残酷なまでに支
配を強めることはしても、むさぼることを怖れている。
「大丈夫、今夜はミスタが詰めてくれてる。絶対守ってくれる、なにがあっても」
夕食のあと、ミスタがさりげなく自分で顔を出して請け合ってくれた。精力剤を土産に
する辺りがあの男らしいが。もう、その辺で無駄な抵抗をすることはやめた。
「だから、小さい子供に返っていいんだ、フロラ」と、その耳に囁きながら、アバッキオ
は肌を密着させる。距離が限りなくゼロに近づいて、そして、マイナスになる。管理しき
れない刺激の奔流が脳をかき乱す。抑えられない。目を閉じて、ブチャラティは今度は自
分が味わう方に専念する。……女の方がイイっていうのは本当かも知れない。
「小さな子がこんなイイコト、するかッ……」
ブチャラティは、久々、恍惚を味わった。
いろいろ大切な身の上の極上の女が、一番無防備な姿を自分にだけ曝している。理性を
失うことを怖れる理知の方がひごろ勝った女が、狂乱の果てにまどろんでいる。満腹した
豹さながらに。
「おれは、幸せな男だなあ」
アバッキオは独りごちた。
ならば、たまには全力で仕事をしていいところを見せなくては。
５
「ええそうですよ」
昔からひいきの店の個室に入ってくるなり、パッショーネのネアポリス支部長は質問に
答えた。
「社長から、うちのものみんながひとり一度ぐらいは顔出してやれって。ご自分じゃあ行
くかどうかは疑問ですけどね。アメリカさんからわざわざ人を立ててボスにまで依頼があっ
たらしいですから、それはもう絶対って」
「そうか」
アバッキオは短く応じた。
ネアポリスを離れることになったときに、タルティーニが誘って以来、二人の立場が変
わっても、月に一度の会食は続いていた。
「気にいらねえ話ですけどね、今回ばかりは、向こうさんの方が念がいっていたってこと
で」
「あんたはどうなんだ？」
俯きがちになりながら、アバッキオは重ねて問う。
「あたしですか？ まさか。あんなものをありがたがって喰う舌があったらこの店をひい
きになんかしませんや、はは」と、かろやかにフォークを操ってパスタを平らげてみせる。
「良かった」
「誰に聞いてもそうでしょうよ。もともとが若い連中の食いもんでしょう？ いい年をして、
格好を付けて喰うようなもんでもないと思いますよ。
ご心配になるようなことはありませんて」
「だといいんだがな」
ようやく、アバッキオの方のカトラリーも動き始めた。
「じゃあ、うちの若いのを店に貼り付かせときますかな？ 逆に。社長が仰ったのも、そ
ういうことかも知れませんぜ？」
「……それは…………営業妨害になるんじゃないか？」
見るからにギャングと知れる若いのが屯（たむろ）する店には、さすがの観光客も足を
踏み入れにくいだろう。
「イタリアーノの誠ってのを軽く見られたんじゃかないやせんからね。マフィアのボス直々
に、どうぞ引き立ててやってくださいと頼まれたからには、徹底的に引き立ててやらねえ
と、それはもう、ハハッ。
うちの社長は、ご存知でしょう、それはもう舐められるのが大嫌いで」
「ああ、そうだな」
現社長、ミケーレ・ヴィスコンティ・グリマルディーニ。グリマルディーニ老が引退に
当たって息子の元妻の親戚から引っ張ってきた後継者だ。過去には１３才で大学入学を許
された天才児だが、白血病を発症して長期療養を余儀なくされたという。ドナーを得て回
復し、大学に復帰の後は華々しくはないが確実に業績を重ね、やり手の若社長としてネア
ポリス経済界の中心になっている。フーゴと呼ばれていた頃の神算は今やグリマルディー
ニの表裏両面の運営に発揮されているのだ。
……フーゴの読みがそこにあるならこちらからは大きな手を打つ必要はないか？
しかし、スローフード推進協会としてもなにかやったということ自体が必要なのだ。
……何かはやっておいたほうがいい、大資本のＣＭ攻勢に負けない大がかりな、何かを。
「シニョーレ、熱いうちに、どうぞ」
声を掛けられて、アバッキオはまたカトラリーを動かし始めた。
６
「どうなってます？」
アバッキオが話を振ると、ネアポリス・スローフード推進協会の幹部達は揃ってかぶり
を振った。
「活動の方はいつも通り行っていますわ。お話を聞いてくださった方々は、皆さん、それ
はもうご賛同いただいて、おうちの方にも、お友達にもそのようにお伝えくださると請け
合ってくださいますけれど、でも」
そういう人たちは、もともとがファストフードには縁のない人々だ。ふだんから外食を
せず、保守的な主婦の手料理を食べる習慣が根強い。ファストフードに興味がないのはあ
りがたいが、それだけにかえって、どれだけ街頭で演説をしたり、パンフレットを配って
も、学校や催しで講演活動をしてもそれ以上の効果は期待できない。
実際に対象とすべきなのは、アメリカの新しい食べ物ときたら一度は行ってみたい、食
べてみたいと思う若者層だ。
「でも、そういう子たちに限って、こちらのいうことには耳を貸してくれないんですの」
かえって、もうマンマの言うことばかり聞いたりはしない、とムキになるのだ。
アバッキオは苦笑した。
「まあ、そりゃそうですな。おれにも覚えがありますよ。１５，６にもなった男の子が、
母さんの言うことは正しいよ、なんていつもいつも言ってるようじゃ、先が思いやられる。
やっぱり、少しは親の言うことにたてついたり、友達同士、流行りの店に一応は行って
みたいでしょうよ。そうでないと」
苦い笑みでもさまになる、そのさまに、行き詰まりを感じていたご婦人達はほう、と溜
め息を吐いて少しの心の慰めをもらう。
「じゃあ、あきらめるんですの？」
育ちの良い、ごくごく健全な気性を凜とした鼻筋の辺りに伺わせるマダムが不承不承尋
ねた。
「いいえ。それでも、こっちの方がカッコイイ！ ってところを見せてやれば、そういう
若いのは引っ張ってこれると思うんですよ。ただ、おれはそういう作戦とかをピピッと思
いつく質じゃあないから、誰か頭のいいやつを引っ張ってこれないかなと頭を悩ましてる
ところです」
秀でた額の所を指でこんこんと叩いて見せて、アバッキオは少し肩をすくめた。もう、
フーゴは頼れない。
……ニッコロのやつも、もう来年は３０だしなあ。
かれの知るうちで一番その年頃に近いのは、娘だった。
「まあ、話のネタにいちどは行ってみるつもりよ」
果たして話を振ってみると、アンジェラはまるきり親の面子を考えずに言ってのけた。
日頃はアルバイト仲間とも浮ついたつきあいはせず、うちで父さんの作ってくれたもの
を食べるのが一番、と嬉しいことを言ってくれる娘のドライさにアバッキオはしばらく黙
り込んだ。
「でも、味に期待はしてない。友達が行きたがるからまず、お付き合いね。女の子同士の
つきあいは、あんまり突飛なことを言って我を張るのもまずいのよ。……あたしは結構そ
の点やばいらしいんだけど」
たしかに、この子は母親似で独自路線を行く方だ。
「アメリカ人観光客でも、センスのいいお金持ちや、上流のひとがよく行くってなら、お
知り合いになりたい若い子がわんさと押しかけるでしょうね。でも……」
そういうんじゃないんでしょ？ と、表情に乏しい娘の顔は、問いかけてくる。
「そうだ。簡単な、安上がりな食べ物で、体面を余り気にしない連中が食べるものだそう
だ」
「ま、ドレスが汚れそうだからデートは別なところを使って欲しいわ。大きな口を開けて
食べるのもみっともなさそうよね」
「そ、そうだな」
アバッキオは安心して、また、別の所に引っかかる。
「アンジェラ、おまえ、デートに誘われてるのか？」
「二人っきりで出かけることはまだしてないわよ」
あっさりと言って、娘はおやつのガレットを食べてしまうと立ち上がってさっさと部屋
へ戻っていった。
「シニョーレ、男親は辛いな」
庭師のカルロじいさんは、このところ寝付きが悪いというアンジェラのためにカモミー
ルの鉢を手に入れてきてくれた。
「花が咲いて、花の真ん中が丸く盛り上がったら摘むんだ。その花をお茶にする。沸騰し
た湯に３，４輪も入れて。しばらく待てばりんごみたいないい香りが立つよ」
「ああ、恩に着る」
日当たりのいいテラスの端に二人して坐り込んで、ちょっとした休憩を取った。
「あんたも飲んだ方がいい。最近、また目の周りが引っ込んできてるぜ」
「そうか？ すまねえ」と、今気づいたように両の目をおおきな右の手のひらで覆う。
「ま、シニョーラが寝かしてくれねえんだそうだがな」
「じいさん！」
「夫婦で立場が別れたから、気を遣っていなさるんだろうて。アメリカの大企業のご機嫌
は、誰だって損ねたくねえからな……畜生め」
「あんたにまで気を遣わせることになるとはな。そんなこと、わざわざ言ってくれなくて
いいんだぜ」
アバッキオは苦い笑みを見せる。
「いや。だが、誰だって、むかっ腹は立ててるさ。なんだってあいつらはどこででも同じ
ようにできなきゃ気がすまんのだろうかね？
大戦中は、コカコーラを補給する軍属と、ジェラートを作る機械を引き連れてどこへで
も出張ってきたってよ、冗談じゃねえ」と、カルロじいさんは首を振って見せた。
「ホントかよ、戦争にか？ 奴ら、尋常じゃねえなあ」
アバッキオは身を乗り出した。笑っていいのか、いや、もう、笑ってしまいたい。
「ホントもホント。南方戦線どころかノルマンディーにまで！ 子供みたいなやつらだっ
て」
「勝てっこねえって、そんなやつらに……ほんとコドモだな」
「あのなんとかいう店は、コーヒーとコーラしか出さないんだろ？ あとはオレンジ・ジュー
スとか、ソフト・ドリンクだけで。コドモの店だよ」
「そりゃあ、オトナは困るな。ワインの一杯も飲まないで、食事と言えるかよ」
「だからコドモの行く店だっていうのさ」
コドモか、そうか、と繰り返して、アバッキオはふと思いついた。
７
「『アバッキオさん』、これに行って来るといい」
市長は昼食の席で幼稚園から帰ってこない息子を待つ間、案内の封筒を公邸料理長に示
した。
「なんだ？」
「れいのワールド・バーガーの店員の教育施設の見学会らしいぞ。開店に向けて、全世界
同じサーヴィスを提供するための店員の教育を始めたらしい。清潔で、合理的なアメリカ
流サーヴィスをネアポリスッ子の店員に叩き込んでくれるって話だ。
レポートを期待してるぞ。金を掴まされてる可能性のある市の職員が行くより、敵対す
る立場のスローフード推進協会に冷静な眼で見て貰った方が役に立つ。おまえたちも、敵
の内部を見られた方が対抗措置が執りやすいだろう」
「……ご配慮ありがとう」
「なに、やはり一番信頼できるのはおまえということだ。食べ物も、睡眠も、おまえに委
ねておくのが安心できる。情報も、ということだ」
全く表情も変えずにそんなことを言ってのける。
「よせよ、ひともいるってのに」
アバッキオは周囲を気にして不機嫌を装った。
……あァ、ここの給仕は鍛えられるなあ、腹筋とか、表情筋とか。
無表情をキープしながら昼食のサーヴに立ち働いている厨房スタッフが心中ひとりごち
た。
「ただいまーとうさんはらへったー！」
サンドロが駆け込んできて、ようやく昼食がはじまるようだった。
「かあさん、かあさん、きょうな、おれな、てつぼうでさんかいれんぞくまえまわりでき
た！」
手を洗ってきた幼児は大好きな母親にすぐにまとわりついた。
「すごいじゃないか」
ブチャラティが相好を崩す。
「ようちえんじゃあおれがいちばんなんだぜ！」
「無理はするなよ？」
立ち上がって、運ばれてきたアツアツのチキンのハーブ焼きをそれぞれに取り分けなが
らアバッキオが注意する。
「なんでー！？ にかいはみんなやれるんだ、さんかいにちょうせんしないといちばんに
なれないだろ？」
「それはそうだな。現状に満足していないで次の段階に挑戦しないと」
ブチャラティは微笑んで肯いてみせる。
「別に必ず一番にならなくちゃいけない訳じゃないぞ」と、アバッキオは眉根を寄せる。
「わかってるよ。おゆうぎとか、こうさくはいちばんじゃねーって」
「うむ、ひとには向き不向きがあるからな」
真面目に肯く妻が、算術とか綴りも一番と言わないのは喜ぶべきことなのか、自分の子
にそこまでは要求しないのか、たしかに実際学校の勉強なんか役に立たなかったがとまた
ぐるぐる思いを巡らせ始めてアバッキオは口がお留守になっていった。
ぼてっ。
手までおぼつかなくなって、おおきな海老のフリットが大皿から零れてテーブルの上に
落ちてしまった。
「あーだめじゃん」と、ちいさな手がすかさず伸びて、口に入れる。
「お行儀悪いぞ、アレッサンドロ」
ブチャラティは一応たしなめる。
「あふ、あふッ」
「そら。まだ熱いんだって。お祈りをしてからじゃないとダメじゃないか」
拳骨をくれてやって、アバッキオは大皿をワゴンに戻して席に着いた。
視線をやるだけで、公邸スタッフ達がテーブルの周りに集まってくる。
……食事はみんなで食べた方が楽しい。
……家族は一緒にめしを喰うもんだろ。と、就任早々二人してあっさり提案したので、
市長公邸は最小限の警備スタッフ以外はみな食堂で一緒に食事を採る。
この日も、モニター監視の名目で警備室に詰めっきりでピストルズと食事を採るミスタ
と、高校に行っているアンジェラ以外のほぼ全員が食堂に集まった。
アバッキオが両手を組み合わせて、祈りのポーズを取る。
「今日の糧に感謝し……」
お付き合いでブチャラティも手を合わせ、サンドロは見よう見まねで、あとのものはそ
れぞれの信仰心に応じて、短い祈りの言葉のあとで、食事となった。
「ねーねー、こんどメディナどおりんとこになんかアメリカのたべものやがはいるんだろ？」
無邪気な声にカトラリーを取り上げた両親の手が止まった。
「幼稚園でもうそんな話が出てるのか？ アレッサンドロ」
ブチャラティが表情を変えずに声を掛けた。
「みんないってみたいっていってるよ。こどもむけのセットにはおもちゃがついてくるん
だって。サンドイッチと、おいものあげたのにジュースがついて、５ユーロくらいだって」
「子供までもう知ってるんですね」
副料理長のリッカルドが苦笑した。
ＴＶＣＭもそろそろ始まっている。大規模な広告手法はさすがだ。幼稚園児さえもうメ
ニューと料金を知っているとは。
「♪コレって好きかもー」と、ＣＭの尺に合わせた全世界共通の有名なキャッチフレーズ
を、事務の下っ端のお調子者が口にしてその先輩から肘でつつかれる。
「サンドロも行ってみたいか？」
凍り付いたからだをひと揺すりして、アバッキオが擦れ声を出した。
「だっておもちゃつくんだろ？ ディズニーのじゃないらしいんだけど。かいてんきねん
だから、ほかでてにはいらないとくべつなやつなんじゃないかって」
なんだ、おもちゃ目当てか。ほっとしてアバッキオは腹の力を抜いた。
「みんなサンドイッチなんだろ？ なんかにくをバンズにはさんだ」
「あ、ああそうだ、ありがたがるようなもんじゃない」
「じゃーとうさんにつくってもらうからいいや。トマトはさんでね」
「あ、ああ。サンドロの好きなものを挟んで作ってやるとも」
微笑ましいやりとりに厨房スタッフが得たりと肯く。得意分野は家庭料理だが、有名店
のシェフも一目置く料理人の父親が作ったサンドイッチの方が、美味しいに決まっている。
「へんなものははいってないって。ミルテがなつやすみローマにいったときたべたって。
ケチャップあまかったって」
「そうか」
幼稚園児はオトナの事情を解さずにすぐに話題を変えた。
「とうさん、こんどミルテんちあそびにいってもいい？ さそわれてるんだけど」
「サンドロ、最近ミルテと良く遊んでるな」
「前はアメリアとばかり遊んでなかったか？」と、ブチャラティがちょっと確認すると、
「あー。こないだよめにしてくれっていってきて、やだっていったらないちゃったから、
しばらくあそばないようにしてる」
「もうそんな話が出てるのか。……ハンサムは辛いな、レオーネ。おまえは何人断って泣
かしたんだ？」と、市長は夫に眼をくれた。
「おれはそんなことッ
……女の子を泣かしちゃだめじゃないか」
最後には自分が許嫁に振られて泣かされたのだが。
「だっていやだ。アメリアってかおへんなんだもん」
「顔が……ヘンっておまえ」
アバッキオは絶句した。ブチャラティは詳しく聞き出そうとする。
「ヘンというのはどういうことだ？ 具体的に」
「はながなんかとちゅうでまがってるし、めがへんなかんじでたれさがってる。アメリア
だけじゃなくて、なんでそとのやつはかおがへんなの？ とうさんやかあさんみたいじゃ
ないのはなぜ？ およめさんならねーちゃんみたいにはながスキッとたかくてえがおがキ
ラキラじゃなくちゃ」
……いやそれは。
美男美女の夫婦は顔を見合わせて絶句した。モデルとして小遣い稼ぎをしているアンジェ
ラがきれいにしているのは当然だし。スタッフ達も表情に困っている。間を取って、それ
ぞれに苦しい言い訳を絞り出した。
「それは、個性だ」
「ひとそれぞれなんだ。それは神様がそういうふうにお創りになったんだ」
……あ、うまいな、レオーネ。神の名はこういう時にこそ使うべきだ。
ブチャラティはこっそり感心した。
「ふーん。おれはかあさんみたいなかおのほうがいいな。かみさまありがとう」
「だが、本当に大切なのは心のきれいさと魂の気高さだからな。おまえの母さんも、本当
に皆から尊敬されているのは心がきれいだからで……」と、アバッキオはなおもお説教を
垂れようとするが、
「そんなのわかんない。ごちそうさま！ ミスタんとこいってくる！」と、幼稚園児はとっ
とと席を立ってしまった。
「こら、アレッサンドロ！」
アバッキオは立ち上がるが、追いかける気力はなかったようだ。力なく座り直した。
「……あんたのことはよく面喰いだっていわれるが」
「いやこんなものは遺伝しないだろ、いくらなんでも」
面喰いであることは否定しない美人市長だった。
「あんた責任持って教育しろよ？ うわべの美しさに騙されてへんな女を嫁にしたりしな
いように」
アバッキオは視線が下がって皿ばかり見ながら声を絞り出している。
「『アバッキオさん』、あの子が嫁を連れてくるのが何年後だと思って言ってるんだ？」
ブチャラティは余裕で笑んで食事を続ける。
「そうだよなあ、おまえはうわべで嫁を選んだりしてないよなあ。まったく慧眼で。理性
的で。ほんと、見習いたいものだ」
いや理性が介入できるような局面ではなかったのだが。
ため息の出るような美丈夫、しかしメンタルが弱くて内省的で鬱に沈みやすいと自覚し
ている男はただ攻められるままに黙り込んだ。
市長はすぐさま話題と場の空気を変えた。
「ロレンツォ、きみはアレルギー持ちで海老がだめなんだからチキンを優先的に取りなさ
い。遠慮しないで」
「はいッ、ありがとうございますッ」
てきぱきと皿の上を空にしながら、市長閣下はスタッフの食べっぷりにも心を配ってい
た。
「海老がダメだと蟹もダメなのか？ ジャポネの蟹そっくり蒲鉾ってのはあれは蟹のエキ
スが入ってるんだったかな？」
アバッキオが顔を向けてロレンツォに確認した。
「蟹もダメッス。そっくり蒲鉾は、あれはメイカーによって入ってたり入ってなかったり
で、怖いんで医者に全部禁止されてます」
この秋からの運転手の見習いのロレンツォが背筋を伸ばした。
「解った、配慮する。
他に命に関わる禁止食品のあるやつはいないな？」
「おまえ、残念だな。あれはけっこういけるぜ？ サンドイッチとか、サラダの具にする
といいんだ」
脇に坐った庭のスタッフが気の毒げに言った。
「ネアポリスに住んでて海老がダメなんて、人生かなり損してるって！」
フリットをうりゃうりゃとロレンツォの顔の前に近づけながら、逆隣の先輩が笑いかけ
た。
「シニョーラの前で小学生みたいな悪ふざけをするんじゃねえ」
庭師のカルロがたしなめた。
「アレルギーは怖いらしいからな。粉もののアレルギーは、ちょっと混ざっててもてきめん
だそうだ。それが、ちょっと湿疹が出るくらいって思うかもだが、肌じゃなく喉やら血管
の中が腫れ上がってみろ、息も出来ねえ、血流も止まる。命に関わるそうだぞ」
若い頃抗生物質にあたって主に個人的にひどい目にあったアバッキオが厳かに言った。
「こええーッ」
一同は震え上がる。
「だから食を預かるのも責任重大ってことだ。わかったな、諸君」
「Ｓｉ！」
アバッキオが料理長らしく締めた。
８
「これがレポートだ、市長」
週明けにはアバッキオが執務室にまで乗り込んできて、分厚い報告書を提出した。
「ほう。早いな」
べつに夜でもいいのに、とブチャラティは思っている。が、まあ、日中この愛するきれ
いなパートナーの顔を拝めたのはラッキーだ、と思い直す。
「詳しくは読んでくれ。簡単に言うと、マニュアルは凄い。しかし、それは表向きだ。人
件費の安いアルバイトを気分良く能率的に働かせるためのノウハウだな。
但し、効率よく一定水準の食べ物を供給することについては極限まで考えられている。
清潔で、合理的といった面では参考にした方がいいところはかなりあった。それは、こ
ちらでもよくよく研究して、対処法を出しておくから、衛生局や観光局の担当のスタッフ
に対応をお願いしたい」
「解った」
「これは啓蒙活動で済ませられる問題じゃない、街ぐるみの観光イヴェントの形にしていっ
た方がいいと思う」
「ああ、根回ししておく」
「ちょっと、派手にやるが……あんたの足を引っ張ることになったらすまんな」
「なに、気にするな」と、指先でブチャラティはアバッキオを手招いた。
「なんだ？」と、頭を下げて寄せたところにくちづける。
「ご苦労だった。助かるよ。
まったくこのデスクは無駄にでかいな」と、自身も腰を浮かして少し身を乗り出してい
る。
「おいッ、執務室でッ」
すぐさまバネ仕掛けのように、アバッキオはプラチナの髪を揺らして姿勢を元に戻す。
「大丈夫。誰も見てない」
「見てなかったらいいってもんじゃないッ」
「騒ぐと目撃者ができるぞ？」
とぼけた顔で、市長はドアを指さした。
「邪魔したなッ！」
大股でアバッキオは執務室から出て行った。
「つまり観光客がファストフード店に求めるのは、簡便さとアメリカ感覚だけじゃないっ
てことです」
ホワイトボードを背に、アバッキオは講釈している。ブチャラティが約束した市の保健
局の会議室だ。コの字に並べられたテーブルの向こうから、時代を経た縦長の窓が、１０
月の陽を室内に取り入れている。
「ワールド・バーガーの商品が厳密なマニュアルのもとに作られているって言うのはもう
常識です。消費者はそれを信頼している、旅行先でも。
翻って、旅行者がここネアポリスで怖れることは何か？
まずは衛生。とくにネアポリスの街頭で売られているものが不衛生ということではあり
ませんが、見知らぬ国ということで、医者にもかかりにくいことを考慮に入れると、やは
り、衛生的に安心できるものを求めることは否定できないでしょう。
次に、ぼったくりに遭うこと。これは、逆にネアポリスでは非常に怖れられていると思っ
ていいでしょう。今はかなり改善されたにしても、かつてのネアポリスは暗黒犯罪都市と
いう汚名を着ていた。街の商店で、見るからにお上りさんと判る旅行者がものを買って、
正規の値段を付けて貰えると期待するのは純真すぎると覚悟の上でしょう。
さらに、前項を発展させて犯罪に遭う危険性も追加しておきましょう。道の入り組んだ
治安の良くないところに入り込んで、自ら危険を冒すことは避けたいでしょう。
あとは、まあ、ここネアポリスの味が口に合わないってことですかね、それは本人の責
任でしょうよ。そういうことにして。
これら全てを解決するのが、『海外旅行先でも、アメリカ資本のファストフード店を利
用する』ことなのです！
衛生的で、価格も全世界マニュアルに記されているとおりに一定、必ず一等地にあって、
どこを取っても安全と決まっているのですから！！」
どん、とホワイトボードを叩いて、アバッキオは息を整えた。
「それじゃあ、勝ち目はないってことですね」
マダムが吐息した。
「いいえ。
ですから、この問題点を判りやすく解決してやれば、観光客を市内の既存の店に呼び込
めるってことです」
意外や、アバッキオは胸を張ってみせた。それは、ご婦人が尊敬と忠誠……と思慕、を
寄せるにふさわしい勇姿だった。
「どうやって？」
「ですから、今日は市の観光局と衛生局から係の方に来ていただいてます。
どうぞ」
手で示されて、会議テーブルの端に控えていた公務員たちが挨拶をした。
「今回は、最大限便宜を図って協力するよう仰せつかってます」
……どこから？
……あはは！ それいいね、面白そう！
旧知の人物は、明るい声で相談に乗ってくれた。
……ＣＭはこっちでも流れてるよ。うちの子たちも行きたいって言って聞かないさ。やっ
ぱりアメリカさんは強いねー。そんで、やっぱり強いって聞くと、逆らってやりたいじゃ
ない、イタリアーノとしては。うん。そりゃそうさ。
やりなよ、レオーネ。協力するよ。
電話口であっさりと肯いてくれる。
では、一番目立つ実行役を、と切り出すと、
……あはは、だめだよ、ぼくもうオジサンだから。と、一言のもとに断った。
……レオーネ、きみがやりなよ。似合いだよ。こういうのは、一番偉いやつがやらなきゃ
だめさ。それで、あとのものが付いてくるんだろ？ そういうもんだ。
そうでなくてもきみは似合いだと思うよ。やりなよ、「ネアポリスで一番絵になる男」
なんだからさ。
絵コンテはぼくが描いてあげるから。はは、楽しそう。知り合いにも話を通しておくよ。
これはもう、オールスターでやらないと。きみんとこのスタッフ、出しなよ？ あのき
れいな子。もちろんアンジェラの仲間もだ。お祭りはみんなでやらないとね。
ブガッティ市長の初恋のひとを自任する児童文学者は、ノリノリで動き始めた。
９
１１月になって、観光局は突然仕事をし始めた。
ネアポリス中心部の観光地図を更新し、商店の経営者相手に英会話の講座を無料で開催
した。付け焼き刃ながら一定の課程を終了し、買い物や道案内程度の日常会話が可能になっ
たスタッフを擁する店には、「Ｅｎｇｉｓｈ ＯＫ！」の共通ステッカーを許可し、見え
るところに掲示させた。また、その店は観光パンフレットにも判りやすく掲載されること
にした。
衛生局は商店の一斉手入れを敢行した。とくにジュース・スタンドや立ち食いできる食
べ物を扱う店の衛生を徹底的に指導し、アメリカのファストフードに負けるなと陰に陽に
焚きつけた。トラットリアやリストランテにも、通達は行き渡った。
さらに、公的機関以外も動いた。
「なあ、親爺さんよ、ここんとこちーっと調子に乗ってねえか？」
「な、なんのことでしょうね？」
スーツ姿ながら、かたぎとはあからさまに目つき、体つきが違う男がジュース・スタン
ドの店主にすり寄って声をひそめてきた。
パッショーネのネアポリス支部、グリマルディーニ配下の地回りである。
「こいつは、川向こうの下町で買ってきたザクロのジュースだ。これが１ユーロ。紙コッ
プはこの辺一帯、うちの会社で卸してる統一規格のもんだ。あんたんとこもそうだよな？
いつもごひいきありがとう。
見な？ ほら、オッシャレーな唐草模様がここんとこに入ってるだろ？ ここまで入る
と２００ミリリットル。巧くできてんだろ？ 社長の御発案でな。
ちゃあんとこの唐草まで一杯に入ってるな？ 良心的だ。こうでなくちゃ。
じゃ、親爺さん、こっちのコップ見てみようか？ 今あんたが若いのに売ってやったザ
クロのジュースだよ。１ユーロだったよな？ ３歩も歩かねえうちに貰ったからまだ一口
も飲んでない。こぼしてもいねえ。
ああ、気にすんな。その若いのにはちゃんと１ユーロ返しといたから。あんたが気にすん
のはそこじゃねーよ。
全ッ然足りてねえじゃねーかよ？ 指１本どころか２本も唐草より下だぜ？ あぁ？
こんなぼったくりをやっちゃイカンよ、親爺さん。それともなにか？ あんた、もう年
で眼が霞んできてんのかね？ じゃあ、店を畳みな？ 温かいところでゆっくり余生送ら
してやるから。な？ 朝から晩までずぅっと波の音聞かせてやるよ、水底でだけどな」
「あ、あ、いや、堪忍してくだせえ！ おれはあんた達には毎月ちゃんと」
「毎月ちゃんと会費を払うのは当たり前だろ！？ 向こうの店もちゃんと払ってるよ！
当たり前のことやって貰っといてこう差ができると、おれたちのメンツにも関わってく
る訳よ、解る！？」
「じゃ、じゃあもう少し色を付けるから」
「バカ野郎！ 今更おせえよ！
解ったな！ 今すぐ、きっかり次の客から２００ミリリットル注ぎな。目こぼしできる
のは指一本分の増減だけだ。それだって、親分が必死に食い下がって社長から引き出した
あんたらの自由裁量分だ。感謝しろよ！」
「は、はいッ」
「おう、じゃあ、注いでくれ。グレープフルーツ一杯」
ピシリと、カウンターに１ユーロ硬貨が置かれた。
「はいッ、ありがとうございますッ」
唐草からぎりぎり指一本分多めに、グレープフルーツ・ジュースが注がれた。
「ふん、眼ェちゃんと見えるんじゃねえか。判ったな？ 真面目に稼いで月末までに金作ッ
とけよ！」
グレープフルーツジュースを一気飲みして、地回りは立ち去った。
「はいぃッ」
背筋を伸ばして、ジュース・スタンドの阿漕だった店主は彼を見送った。
……といったふうに、ぼったくりの店はパッショーネが取り締まった。
１０
「さいきんとうさんよくるすだよなー」
昼食の席に着いたサンドロが足をぶらぶらさせながら言った。
「仕事だからしょうがないですよ。今日の調理はおれですけど、ちゃんと献立はシニョー
レの指示貰ってますし」
パスタを取り分けながら副料理長のリッカルドが苦笑して見せた。
副料理長のリッカルド・マルタン、親から貰った名はリシャールということは、フラン
ス生まれ。南フランスで魚やハーブに親しんで育って、まっとうなフランス料理を学校で
一通り学んで、ネアポリスの市長公邸に下働きで入った。正式な晩餐は外交の不文律（プ
ロトコール）でフランス料理と決まっているから、前の料理長の下でバッチリしごかれた。
市長の代替わりに際して前の料理長は市長について行ってしまって、おまけに、次の料理
長は市長の情人で田舎で料理屋をやっていた男が入ると知れてからは、年かさのスタッフ
はみなやめてしまって、その新料理長と同い年のリッカルドが繰り上げで副料理長になっ
てしまった。料理長は正式なフランス料理の基本を押さえているリッカルドを尊重するし、
副料理長はたたき上げで細かいところに妥協せず向上心もあるアバッキオに心服している
から、２人はうまく行っている。若い２人の仕切る調理場は活気に溢れていながらもかな
り正統派で、晩餐に呼ばれた客達は皆満足して讃辞を惜しまなかった。
「マルタンさんの料理は旨いと思うぞ。グリマルディーニの若社長が褒めていた」
とりあえず、ブチャラティは自分が信頼する舌の評価を以て自らの評価に替えた。
「ありがとうございます。はい、シニョーラにマッシュルームおまけ」
柔和な南仏の男は笑ってパスタの取り分けを終えた。
「じゃ、固いことを言うやつがいないから適当に始めようか」
祈りの言葉もそこそこに、皆はカトラリーを取りあげた……。
「……やっぱちょっと、マルタンさんのはあじがちがうんだよな。バターくせー」
サンドロがパスタのクリームソースをなめてぼそりと言った。
「あ、そうですか？」
北部の「正統な」バターくさいフランス料理に違和感を感じてネアポリスに流れてきた
男はぎくりとした。
「マルタンさんはフランス料理の勉強をしたひとだもの。あたしたちに合わせてくれてる
のよ。ほんとのフレンチってもっとバターきついわよ」
「すいません……おれもおふくろの料理はオリーヴオイルが多かったんですけど」
アルバイトを始めて外でいろいろ食べる機会の増えたアンジェラにフォローを入れられ
て、気のいい男はたじたじとなった……。
ごとり、と音をさせて、女主人が立ち上がった。
４歳児の襟首を捕まえて椅子から持ち上げると、その頬を張る。
「お母さん！」
次には、振り向きざま、娘の腹に拳を叩き込んだ。
「シニョーラ！」
「思い違いをするんじゃない。おまえたちの両親は銀のスプーンを咥えて産まれてきたエ
リート様じゃなく、ネアポリスの下町をはいずって生きてきたギャングだ。
わたしたちに清き一票を投じて、快く税金を払ってくれている人々も、大方大差ない暮
らしをしてるんだからな。
今後また人様の作ってくれた料理に食通ぶってものを言うなんて真似をしてみろ、グリ
マルディーニの一番下っ端と一緒に賄いを喰わせてやるからな」と、２人の椅子を蹴倒し
た。
「地べたに坐れ。はいつくばって、マルタンさんがおまえ達のために作ってくれた料理を
有り難くいただくんだ。
マルタンさん。子供達が失礼なことを言って済まなかった。どうかわたしに免じて赦し
てやって欲しい。しかし、以後またこんな失礼なことを言うようだったら、容赦なく同じ
ように躾けてやってくれ。あんたは厨房のナンバー２なんだから。料理長にも言っておく」
「……畏まりました、シニョーラ」
一同は、昔、ギャングとしてネアポリス一帯を締めていたという噂のある女性の思わぬ
怒りに震え上がっていた。金切り声を上げるわけでも、聞き苦しい罵倒語を並べ立てるわ
けではないが、とても小物では太刀打ちできない迫力が場を支配している。きっと場を取
り持ってくれる筈の良識派の彼女の夫がいないのを、皆、心から残念に思った。
「ごめんなさい、マルタンさん。もういいません」
「いつもありがとう。済みませんでした」
子供達は、半べそで口々に詫びことを口にし、ぺたりと床に座り込んだ。その前に、彼
らの母親は無慈悲に今日のメインを皿からざらと滑り落とした。ラビオリと、骨付きチキン
のロースト。子供達の絶望的な眼差しが食卓を囲んだメンバーの顔を巡る……。
「だめじゃん、Ｂ．Ｂ．」
暢気な声がかかって、視線は彼に集中した。
「腹殴ったら食欲なんか湧かないだろ」
明るく言って、ナランチャが自分の皿を持って立ち上がった。
「顔は避けたつもりだったんだ、アンジェラはモデルだから」
「ま、本気出してないしねー。アンジェラ、そこんとこは母の愛を感じろよー」
テーブルを回って、２人の横へ来て、坐った。自分の分の皿も、横にぶちまける。
「ルシンダが毎日磨き立ててるから大丈夫。清潔そのものよ。別に床まで舐めなくてもい
いだろー？ なあ、リッカルド」
「け、結構ですともッ」
「Ｂ．Ｂ．そんでこの床の掃除誰にさせんの？ 自分でやる？」
「……子ども達に手伝わせてわたしがやるべきだろう。ちゃんとやる。ルビーニ君、午後
の予定は……」
椅子を引いて、ブチャラティは食事を再開した。
「大丈夫です。３時まではデスクワークの予定で、なんとでもなります」
手帳を繰るまでもなく、有能な秘書官が市長の問いに答えた。彼も、その後ホッとして
グラスの水で喉を湿している。
「だってさ。そんで終わりな、この話」
ハハッと笑って、こともなげにナランチャはチキンを取り上げてかぶりついた。
「だいじょーぶ。うめーよ。ま、埃あると思ったらこうやってふうふうして」
覚悟を決めて、子ども達はチキンを手で取り上げて見よう見まねで息を吹きかけると口
に入れた。
「……美味しい」
「うまいよ、うん」
「３秒ルールってのあるんだってよ。落ちて３秒なら、雑菌とか付いて繁殖する間もねー
から、ガタガタ言わないで喰えって」
ナランチャが笑う。食卓の雰囲気は、それでほぐれかける。
「まあ、料理をする我々はそれを言っちゃいけないんですけどね」
リッカルドが笑った。
「ああ、喰う方のルールで」
「昔は食べ物を粗末になんかしなかったもんだ。ピクニックや野良仕事のときはちょっと
くらい砂にまみれてても、腹が減っていたから気にしないで食べた」と、カルロ老人が声
高に言う。
「Ｂ．Ｂ．は、まだテーブルについてめしが食えてたじゃん。おれなんかゴミ箱漁ったよ、
ガキの頃は。思い出したくもないけどね。
ああ、グリマルディーニのところの新入りの、あのドラガンが、命からがら国を出てき
たときが凄かったって」
まだぶらぶらと街を自由に出歩いて、表裏の情報を拾ってくるのが仕事のナランチャは、
グリマルディーニのオフィスにも顔を出しているようだ。
「タルティーニさんが、この夏の飲み会で、軽い気持ちで話を振ったらもう、一晩かかっ
て。
歩いて山越えしながら犬のエサからその辺に生えてる立木の葉まで食べたとか、手を繋
いで一緒に逃げてた幼なじみが直撃弾くらって、気がついたら握った手の下１０センチし
か残ってなかったとか、食べ物を調達に行ったやつが次の朝には畑荒らしだって死体を曝
されてたとか、１０に満たない女の子が民兵どもに寄ってたかって慰みもんにされたとか。
最後に有り金はたいて逃がし屋に漁船に乗せて貰って、海を渡って無事ブリンディシの港
に着いたときには涙で岸が見えなかったって、もう、みんなもらい泣きで大変なことになっ
て、タルティーニさんがじきじきにアバッキオに電話して、金はどんだけかかってもいい
から一度こいつにユーゴスラヴィアの料理腹一杯喰わして遣ってくれって頼んだって」
「ああ、それで」
リッカルドは謎が解けてひとり肯いていた。
図書館をひっくり返して最後には大使館にまで話を聞きに行って、熱心に調べ物をして
いるからどんな要人が来るのかと思っていたのに。
食い詰めた難民のちんぴら一人のために。
……ここはいいところだなあ。
リッカルドはひとり柔和な顔をほころばせていた。
「もう誰もあいつのこと食い意地が張ってるとか言わなくなって。でも、しばらくどこへ
行ってもただで喰わせて貰えるようになって、嬉しいけど最近腹が出てきたとかいって殴
られてた」
「それはバカだろ」
「タルティーニさんは、なんだ、年を取って丸くなったな」
ブチャラティは少し昔を懐かしむ眼になって笑った。
１１
ネアポリスの人々は忙しい日々を送って、とうとうその日が来た。いつもよりはやく市
長公邸の情報ルームに顔を出したアバッキオは朝刊をチェックするなり言葉もなく呻いて……
複数取っている新聞を全てチェックして、破り捨てようとして、これは公邸で取っていて、
それを必要としているのは市長なのだからと理性にそれを止められてとりあえず頭をかき
むしったり、該当のページだけ抜き取ってどこかへ隠そうとして果たせず意味不明の唸り
声を上げて不審がられたりした。
それでも彼の素朴な性格に慣れているスタッフ達は、なにか不都合な記事が載っている
のだなと正しく事態を察した。
「ほう」
ブガッティ市長が朝食の前にそれを取り上げて眼を通して、歓声を上げた。
「レオーネ、きれいに撮って貰ったな。新聞社に掛け合ったら原版貰えるか？ ポスター
にして寝室と執務室に貰えないかな」
「やめてくれッ！」
「いいじゃないか」
「シニョーラ、いったいなんです？」
朝から興味津々だったスタッフ達は、それでやっと新聞に鈴なりになった……。
それは、総天然色の全面広告だった。コックコートに、帽子も被って、ただし、彼のプ
ラチナの髪を見せつけるように顔の左側には長く垂らして（料理人としてあり得ないとア
バッキオ本人は抵抗したが、スタイリストに却下された）、気取って熱々のチキンのトマ
ト煮込みの皿を差し出しているアバッキオの得意げなバストショットだった。
「ネアポリスを食べてから逝（い）け！」
それは、古来観光地として有名なネアポリスを讃えた諺のパロディであった。
「これは、勝ったな。これを見たら、少なくともわたしはファスト・フードの店なんかよ
りネアポリスのリストランテに行きたくなるぞ」と、めくった次のページには、これもま
たカラーの全面広告。全世界で同じ赤い看板に金のロゴの、ワールド・バーガーのネアポ
リス店開店の案内だった。
「あんただけにしといてくれ……そんなことおれが言っちゃならねえんだが」
耳まで赤くした顔を覆ってテーブルに突っ伏したアバッキオは、弱々しい声を出した。
「何を今更。今日はわたしは市長としてセレモニーに呼ばれているが、昼はうちに帰って
食べるからな？ 手抜きをしないでちゃんと喰わせてくれよ？」
「済まねえ、おれのほうもイヴェントがあるんで今日一日出たきりだ。リッカルドに頼ん
であるから適当にみんなで喰ってくれ」
「なにかやるらしいってのは聞いてるが……楽しませてくれることを期待してるよ」
「いやほんと、頼む、忘れてくれ」
身も世もないほどに恥じらってぐなぐなになっているパートナーを見捨てて、予定の詰
まっている市長閣下はさっさと朝食の席に出ていった。
昼の用意ができないのだから、と思い当たって割り切った途端にアバッキオはすばやく
厨房に入って、定刻通り愛する妻に朝食を調えた。
ネアポリス・スローフード推進協会のゲリラ的な意見広告には驚かされたが、ワールド・
バーガーの開店記念セレモニーは予定通り華々しく執り行われた。店の前には本国と同じ
キャラクターのアンクル・ビルが風船を持って現れ、道を行く子供達にプレゼントした。
辻辻には鮮やかな赤の制服を着た店員が立ち、すぐ店で使える割引クーポン券を配って喜
ばれた。セレモニーに出席したブガッティ市長はテープカットを行い、すぐさまにこやか
な顔で第１号の客として注文を取られた。
「うちの子がおもちゃを楽しみにしてるので。ハッピー・ミールを」
「おお、シニョーラ、お気の毒ですが、これは小学生以下のお子さんしか注文することは
できないのです」
「残念。それではこのお得なセットにしよう」
「ありがとうございます！」
すぐさまハンバーガーとホットコーヒー、フレンチフライのセットがトレイの上に揃え
られた。ブガッティ市長は懐から財布を出して、代金を支払った。と、それは事前にワー
ルド・バーガー側から渡されている。全くの出来レース。ハッピー・ミールを頼んで見せ
たのは彼女なりのアドリブだ。
トレイを受け取り、わざわざ駆けつけたワールド・バーガーのヨーロッパ担当重役と席
に移って、差し向かいでハンバーガーを食べる。一口かじって、彼女は微笑んだ。
「結構いけますね」
ＴＶカメラは昼のニュースに流すためにその姿を記録していたし、新聞のカメラマンも
フラッシュを盛大に焚いていた。お偉いさんの注文が通るとワールド・バーガーのネアポ
リス支店は一般客の案内も開始し、盛況を見せるかと思われた……。
１２
メディナ通りといえば、ネアポリスの繁華街でも一番賑やかな辺りだ。ビジネス・買い
物・観光の人々がひっきりなしに通る。その、ワールド・バーガーのネアポリス支店の入っ
たビルの真向かいのビルに、その朝、建物の前面を覆う特大の液晶画面が取り付けられた。
「なんだ？ ソニーの新製品か？」
「見ろよ、横に説明が付いてる。ラッキー☆スター社だって。チーノ？ コレアノ？ の
家電メイカーらしい。こんどヨーロッパに攻勢をかけるから知名度を上げたいんだと」
「ワールド・バーガーのやつらのＣＭか？」
「さあ？ それともミュージック・ヴィデオでもかける気か？」
通行人達が見上げたその時に、映像は始まった……。
真っ白なテーブルクロスの上に大皿がつぎつぎ並べられる。眼に飛び込んでくる、トマ
トの赤、バジリコの緑、モツァレラチーズの白……重なってぐるぐる回るのは三色のイタ
リア国旗。あつあつのピッツア・マルゲリータが切り分けられる。
「ボナペティー！」
楽しげな若者の声がかかる。黒い髪、良く日に焼けた赤い肌。青い眼が笑顔を振りまく。
なんて楽しげな。絵に描いたようなネアポリスッ子。
「シニョリーナ！ こっちへ来て喰おうよ！」
シャンパンが抜かれる。コルクの抜ける愉快な音。泡のたつ音までも高性能のスピーカー
がクリアに再生する。乾杯、乾杯、乾杯！ ブルネットの美人が、淡い栗色の髪の美少女
が、金髪のマダムが、情熱的な若者たちに手を取られ、肩を抱かれて笑いさざめく。
「ヴィーノも！ 今年は出来がいいよ！」
イタリアの新酒は６日が解禁だ。魔法のように栓が抜かれ、グラスが満たされる。
「これがあっての人生さ！」
乾杯の合図のあとは、歌声。ネアポリスッ子なら、「サンタ・ルチア」だ。
「さあ、お上がり。熱いうちにどうぞ」
今朝の朝刊の全面広告で、誰もが眼にした美丈夫が、広告と同じ料理を手に現れる。そ
のアイス・ブルーの眼は楽しそうに輝いている。
「だめだ！ おれの料理を喰わないうちは、よそへなんか、行かさないぜ」
カメラは大きく寄って、身を乗り出したアバッキオの顔がアップになる。と、返事が貰
えたらしい。完爾とした笑みになる。
「いいコだ」
うっとり言って、身を翻す。大きな背中が去ると、バスケットを下げた少女が立ってい
る。
「あたし、がんばったんだから！ マンマに習って、一生懸命作ったんだから！」
ぶるぶる震える少女が、恐る恐るバスケットに掛けた布を取り去る。色とりどりの野菜
のサラダ、艶やかなトマトにヴィネガーの匂いまで漂ってきそうな、しゃっきりしたレタ
スやタマネギのスライス。かりっと焼き上げた骨付きチキンのロースト。まだ湯気の立っ
ている、割ってみると中のふんわりしたフォカッチャ。そのまま映し出してみせる液晶画
面のなんと解像度の高いことか。
「一緒に食べましょうよ、ね？ ……食べてくれるわよね？」
最初高姿勢でいて、少女は一瞬のちに、怯えた、すがるような眼になる。
「ありがとう！」
ぱああっと少女の顔が輝いた。恋を知り初めた、一番人生で美しい刻の乙女の姿に、見
上げるネアポリスッ子達の顔もすっかり緩んでしまう。
丘の上で、２人、草の上に坐って差し向かいで食べる若い２人がシルエットになる。
「……なあ、なんのＣＭだ？」
「さあ？」
判らないながら、人々は目を逸らすことができないでいる。
「いけません！」
場面が変わって、年配の女性の厳しい声が響いた。
「年頃の娘がなんてことを。お坐りなさい」
豊かな栗色の髪をアップにした、見るからに保守的なネアポリスのマンマだ。背を向け
て、コンロに向かって手際よく手を動かしている。
「あたしは反対ですよ。そんな簡単な、誰が作ったのか判らないようなものは身体に良く
ないものですよ。
あんたはこのあたしが目配りしたものをお上がりなさい。あんたのことを心から思って
いる人間が、今、ここで作って振る舞う料理は、絶対あんたの為にならないことはありま
せんよ」
振り向いて、皿に載せたトマトと鰻の炒め物を差し出した。まだ湯気が立っている。
「さあ、おあがり。ゆっくりと、良く噛んで。そうして、あたしにもう一度事情を話して
ご覧なさい」
椅子を引いて、腰掛けると、柔和な顔になって覗き込んでくるアップになった。
「あなたのことを大切に思っているひとと、ゆっくり、楽しくいただきましょう
ネアポリス・スローフード推進協会」
「なんだ、オバチャンたちのあれか」
最後まで結局見てしまって、シンプルな字体で端的にいつもの運動趣旨を述べた締めの
映像に通行人はちょっとあっけにとられた。いつもはパンフレットを配ったりするだけな
のに、今年は大がかりにやったものだ。
「だが、うまそうだったな」と、まだ液晶画面にめをやったまま、もう１人の男が言った。
映像はエンドレスで、またよそ行きの格好をしたナランチャが娘達を誘っている。
「なんか気のせいかいい匂いがしねえか？」
「……だな？」
キョロキョロする街の衆に、風上からトマトソースの、本能に染みついた匂いが漂って
きた。
「なんだ？」
街を知り尽くしたアバッキオが、わざわざこの季節に風上になる方向の会場を押さえて、
毎年秋恒例のスローフード推進協会の収穫祭行事をぶつけたのだ。きれいに化粧して、料
理に支障がない程度に着飾って、一番の笑顔をつくった育ちと気だてのいいネアポリスの
マンマたちが、熟練の手つきで自慢料理をつぎつぎに披露して、街ゆくひとに振る舞って
いる。
「あたしの鶏肉の煮込みは母仕込みで、田舎じゃあ誰にも負けないんですよ。ソースの隠
し味のハーブが独特で」
「この卵の中に鶏肉のそぼろを混ぜ込んで天火で焼いたオムレツは、あたしの祖母のオリ
ジナルで、他にはイタリア中誰だって作れないんですからね、どうぞ味見なさって」
もちろんアバッキオも大車輪で得意料理を作っては出ししている。今日の所は、ウェイ
ターとして呼ばれることが多い。そして、彼が皿を運んだテーブルにはやや黄色い歓声が
上がる……。
「おれがバカやってやさぐれてて、彼女に拾われた頃、彼女はもう自分の仕事を持ってて、
配下の坊主達を養ってました。それなのに、おれはなんにもできなくて、仕方なしに、や
せっぽちで青い顔をしてた坊主達にとりあえず旨いもんを喰わしてやりたくて、街の奥さん
達に料理を習ったんですよ。芋も剥いたことなかったんですけどね……」
昔話をしながらも、熟練の手つきでさっと一品作って、供する。
「こんなんでも、喜んでくれるひとがいると、また作りたくなって。いろいろ勉強して。
単純なんですね、おれ。
良かったら、作り方書き出したんで、持ってってください。ほんと、簡単ですけど」
レシピを書いたパンフレットにもしっかりアバッキオの写真が入っているから、はける
ことはけること。
「シニョーレ！ ことしのヴィーノは白が絶品だよ！ 甘味がちょうど良く残ってる！
試飲してっておくれ！」
協力を依頼した酒屋の親爺の声も飛び交っている。古き良き食生活はワインとも密接に
結びついているから、酒造会社も支援団体の中には入っているのだ。
「お、おれァこっちの方が好みだな」
「ああ、ちょっと味見に行ってやるか」
「やっぱ酒もねえとな」
昼休みの時間を迎えて、ネアポリス・スローフード推進協会の催しの方にもひとが集まっ
てきた。もともとが、イタリア人たちは昼食を一日で一番大切にする。初等教育の間は、
一度児童達をうちに帰して家族で昼食を採らせる学校が多いくらいだ。サンドイッチ程度
では腹の足しにならないと思う勤め人が多いであろうというのは蓋然性の高い予測だった。
さらに、地元のモデルクラブに声を掛けてあって、選りすぐりの美少女、美少年達がと
びきりの笑顔で給仕を勤めている。物見高い中高生が、携帯電話のネットワークで情報を
ばらまいた。
その日、昼休みに学校を抜け出した生徒は大挙してメディナ通りに押しかけた。
１３
開店直後の波が一段落付くと、ワールド・バーガーの店には空席が目立ち始めた。
「意外と空いてるな。コーヒーを貰おうか」
入ってきたのは、今時、中折れ帽を被った紳士だった。仕立ての良いスーツで決めてい
るが、２０人ほども部下を引き連れている。
「おまえ達も、何か頼めばいいんじゃないか。その、ハンバーガーとやらを」
紳士が気遣いすると、一番近くに控えた男がしゃちほこばる。
「いえ。旦那さんがコーヒーをお飲みなら、コーヒーで結構です。コーヒー、２５人分ッ」
「はいッ」
店員は、現地採用のネアポリスッ子だ。客の職業が判って震え上がった。
「どうぞ、ごゆっくり」
がくがく震えながら、トレイに載せたホットコーヒーを差し出した。
受け取ったカルロ・タルティーニは自分でそれを持って奥の席につき、ゆっくりと楽しん
だ。ふと、立ったままの部下達に目を留めて指示を下した。
「おいッ、他のお客さんに迷惑だ。おまえらも坐って飲め」
「へえッ」
店内は静まりかえった。ひとり、２人と客が席を立って逃げてゆく。
「けっこう旨いじゃねえか。ひいきにさしてもらうよ」
ゆっくりと３０分も掛けてコーヒーブレイクを取った「特殊なサーヴィス業の男性」は
自ら空きコップを持ってカウンターに寄ってきてゴミ箱に入れ、店員に声を掛けた。
「あ、ありがとうございますッ」
店員の方はすっかり足が震えている。
「これはチップだ、とっときな」
ほんの茶目っ気を出して、タルティーニは１０ユーロ札をカウンターに置いた。
「いえッ！ 規則で頂戴できませんッ」
「いいからとっときなッて」
にやにやと、ギャングはその様を楽しんでいる。その背後には、目つきの鋭い男達が、
旦那さんに恥をかかせる気かと身構えている！
「できませんッ！」
ほとんど泣き顔になりながら、その店員は教育プログラムを思い出しながら叫んだ。
「ほう。なんだこりゃ？ 病気の子供のマンマのためのお宿か。おもしろいことしてるね、
この会社は。気に入った。じゃあ、この箱に入れるからな。あんたに免じてな。また来る。
チャオ」
困った客はカウンターの募金箱に目を留めると、出した１０ユーロ札にさらにもう一枚
札を足して、細いスロットからねじ込んだ。
「あ、ありがとうございましたーッ」
すっかり丸くなったと噂のパッショーネの支部長は、笑いをかみ殺しながら歩き去った。
「営業妨害だ」と、ワールド・バーガー社からネアポリス市にクレームが入った。
「いいえ？ あの団体は毎年秋には啓蒙のためのイヴェントをやってるんです。今年はな
にか市内で大がかりにやると計画書が前々から出てました。場所や公報手段については市
の方でも感知していませんでしたが、団体の活動目的や日頃の活動実態とも大してかけ離
れていはいませんし、市の方で規制をする程のことではありませんね。とくに公序良俗に
反することもやってませんしね」
市の保健局はこう突っぱねたらしい。
１４
ネアポリス・スローフード推進協会は「秋の収穫祭」を２週間やり通して、ネアポリス
市民のマンマの味に対する郷愁をしっかりかき立てた。会場では老いも若きも手作りの料
理に舌鼓を打ち、その場で盛り上がって飲み、歌い、踊った。市内では、トラットリアの
売り上げが激減し、トマトやニンニクなどの伝統的食材がバカ売れ、残業は減って皆が家
で水入らずの食事を楽しんだらしい。夜の街の人通りが減って酒場の経営者が閉口したと
いう話も入っている。
観光客もあまりの人の波に釣られて会場を覗き、胃袋を一杯にしてごきげんで市内観光
に出て行った。高揚した気分のままに、英語の使えるというステッカーを貼った店に入っ
てみたりして、つかの間、旅行気分を楽しんだ。観光客の落とした金は、同月の前年比２００％
を記録したという。ネアポリスッ子は情熱的、という雰囲気が盛り上がって、市民もいい
ところを見せたい気持ちで観光客に対し、恋の花も例年以上に咲いたと言うことである。
結果、ワールド・バーガーのネアポリス店には閑古鳥が鳴いた。
アメリカ風の薄めのコーヒーが気に入った「とあるサーヴィス業の紳士」が部下ともど
も毎日ひいきにはしたが、彼は「うちで鳴らすと嫁が怒る」というお気に入りのクラッシッ
クをコンポを持ち込んで大音量で掛けてくれて、なお営業妨害になった。
「……ワーグナーを聴きながらほとんどお客の来ない店番ってのもある意味優雅でよかっ
たです」と、アルバイト店員のＡ君はのちに語った。
儲からないとなると、アメリカ人は決断が早かった。
一ヶ月でネアポリス支店は閉店となり、ワールド・バーガー社はイタリア国内の他の地
方への出店も断念した。
ネアポリス・スローフード推進協会の会員達は密かに祝杯を挙げた。
「良くやってくれた。みんな溜飲を下げてる。ただ、問題が」
ブガッティ市長も、じきじきに執務室に代表を呼んで労った……。
「未成年の飲酒があれいらい眼につくようになったんだが、まあ、来年はその辺も考慮し
てくれ」
ちょっとウィンクして、硬直してしまったアバッキオを市長はかるくいたぶった。
１５
「ねーなんでワールド・バーガーがつぶれたのにとうさんはまだいそがしいわけ？」
アバッキオが出かけるのとワールド・バーガーの経営が苦戦しているのとの因果関係を
なんとなく掴んだサンドロが昼食時に注意深く尋ねた。この日も昼食はリッカルドが仕切っ
ている。
「今日はシニョーレ、ちょっと違うご用みたいなんですよね」と、柔和な男は言葉を濁す。
「ああ、なんだっけ、やつも顔を売ってしまったからまた用事が増えたんだよな」
ブチャラティが使える秘書官に眼をやる。
「先日ジャポネの青年が料理コンテストで優勝した件でしょう。
タラコ・スパゲティはスパゲティのスタンダードとして認めて良いかどうかが協会の議
題に上がって、調査をしているとのことです」
「ナニソレ！？」
ナランチャが声を上げた。
……それは口実で、協会のおばちゃん達がシニョーレをあちこち連れ回したいんだって
のは、言わない方がいいだろう。
ルビーニ秘書官も多少学習した。
「ああ、ちょっと出先で一度食べたが……あれは結構いけるな」と、味オンチのくせにブ
チャラティはにっこりして見せた。
「最近はジャポネーゼがよく店を出してるんだよな。日本料理じゃなく、スパゲティの」
訳知りに事務官が肯いた。
「ああ、それ。おれ一度行きましたけど結構いいんですよ。日本風の、ソイ・ソース味の
じゃなく、本格的なトマト・ソースも、クリーム・ソースも」
「ジャポネーゼは器用で熱心だから、パスタでもピッツァでも、パティシェの分野でも、
最近結構コンテストには入賞してくるようになったんですよね」と、リッカルドが苦笑す
る。
「それは凄いな」
「あんまり賞を獲られるもんだから、もうジャポネーゼは参加禁止にしようっていう話が
でているくらい」
フランスの調理師学校も、ひとりふたりどころでなく日本からの学生がいた。
「情けねー」
「それはかえってまずいだろう」
市長はとぼけた顔のままに言った。
「でも、この街の景気が良くなってきてるのは感じますよー」
厨房のごくごく下の使い走りスタッフが笑顔を見せた。
「今、若いもんはウキウキしてますよ。こないだのワールド・バーガーの件は痛快だった
し。ネアポリスに行けば仕事のチャンスだけじゃなく、なんか楽しいことがあるって。
おれも、ネアポリスのシニョーレ・アバッキオの下で料理人やってたって行ったらどこ
へ行っても通用しそうで。
あ、守秘義務は守りますよ？ シニョーレがもう市長には激甘で、アランチャの一つか
ら剥いてやるとか、市長はホタテのオーヴン焼きが大好きで、晩めしがそれのときは絶対
残業しないで帰ってくるとか、意外と贅沢しないで、普段の日の賄いは市長からそこら辺
で上がったやっすい魚を食べてるとか、シニョーレは実は烏賊が怖くてわたを抜くときは
今も涙目だけど、絶対おれたち下っ端に押しつけたりしないのは偉いとか、賄いの人気メ
ニューはあろうことかツナ缶にマヨルカ（マヨネーズ）・ソースをぶっかけたやつだとか……」
得意げな使い走りに、厨房スタッフは年に関係なく小さく肯いたり、あ、ばか、曝すな
と酢を飲んだ顔になったり、今更周囲を見渡して、ホント？ ホント？ と確認を取った
り。
料理長の代わりに、市長が釘を刺した。
「ジェロくん、その守秘義務というやつをどうしてこの場から発揮してくれなかったのか
ね。言わなきゃ気づかなかった人間だっているんだ」
その間、リッカルド副料理長はアバッキオの名誉のために、
……でもそのマヨルカ・ソースは一応その場で作ったもんだし、バジリコは裏から採っ
てきた活きのいいやつを使ってるし、塩はアルプスの岩塩を……と心中必死に言い訳して
いた。そして、
……シニョーレ山の方の出だって言ってたもんなあ。道理で烏賊のときは黙って集中し
てると思った。今度から烏賊は替わってあげよう。
副料理長の自分になら、それは許されるだろう。リッカルドはそう思って、少し顔をほ
ころばせていた。
その日の午後、「ブラジルへ買い付けに行った商人のように」行ったきり戻らないアバッ
キオを見限って、市長は公邸副料理長と次の晩餐の打ち合わせを兼ねて市場に出かけた。
「いつもこうなのか？ 責任感はあるヤツだと思ってたのに。済まないな、マルタンさん」
「いえ、そんな、必ずお約束の時間には帰って来られてたんですけど。シニョーレもいろ
いろ雑用が増えて。おれも少しは経験を積まして貰ってますから、いくらでもお手伝いさ
せて貰って構いません」
「有り難い」
等と話しながら鮮魚店の並ぶ区画に入ってゆく。
「季節的には魚はご指示の通りで大丈夫かと思います。日数に余裕もありますから、予約
を入れておけば数も揃うでしょう」
「うん」と、周囲の喧噪に負けないように顔を近づけて打ち合わせを続ける。
そこへ、麗しの市長閣下がお買い物と知った魚屋の親爺が昂奮して一番の商品を出して
きた。
「シニョーラ！ 見てくれ！ この鱈！ 北海から上がったこの秋一番の大物だよ！ 持っ
てってくれ！ 公邸も大所帯なら十分食べきるだろう！？」
小柄な親爺がやっと両手で広げて持てるほどの大きさだ。
「うわ、これは凄いな。嬉しいが、うちで料理はできるかな？ もう献立は決まってるん
じゃないのか？」
かつて猫と陰で呼ばれていた女性政治家は露骨に眼を輝かせていた。
「そんな、いくらでも変更は利きますよ。シニョーラはお魚の方がお好きですもんね」
「多少使いやすくして貰うか？ こんな大きなの、持てあますだろう」
「シニョーラ！ ご冗談を！ シニョーレはいつもどんな大物だって自分で持ち帰って、
ばっさりばっさり退治して皿に載っけてる筈ですぜ？ ノーラさんに連れてきて貰ってた
新前の頃ならまだしも、こっちに戻られてからはおれ達に下ごしらえなんてさせてくれま
せんよ」
魚屋の親爺が笑い飛ばした。身近な男の意外な特技にブチャラティは眼を丸くする。
「知らなかった。ホント、料理は任せっきりで」
「鮮やかなもんですよ。
じゃあ、それを戴こう」と、副料理長はナンバー２らしい判断を示したが。
「持って帰れるかな？ マルタンさん、車を回して貰うか？」
「ええ、……店主、あとで取りに来ます」
ブチャラティと背がほぼ同じフランス人には、アバッキオとは違ってさすがに鱈を担い
で帰る膂力はなかった。
「グラッツェ シニョーラ・ブガッティ！！」
大きな声ではやし立てられて、苦笑しながら店を後にしたブチャラティは、ふと足を止
めた。通りの向こうに、見間違いようもない美しい伴侶が立っている。ブルネットの、ま
だ娘ほどに見えるちいさなクリーム色の顔の女性に抱きつかれて。
急に、副料理長は寒気を感じた。と、左腕に痛みも。よろけかけた市長が、彼の腕にし
がみついたのだった。見ると、スローフード活動で出かけていた筈の市長の最愛の夫が、
若い日本人女性に抱きつかれている……！？
強い視線に、彼が頭を巡らせて、視線がぶつかった。
「違うんですッ！」
「アノッ、チガイマスッ！」
「違うーッ！！」
三者、同内容の叫びが夕刻の魚市場にこだました。あとは、ゴゴゴというなにやら不穏
な地鳴り。
「これは異な事を。なにがどう違うのか説明して貰おうか。まずは、そちらのご婦人から」
「アノ、スイマセン、ワタシ、ネアポリス、キタ。オサカナ、カイモノ、オシエテ。アシ、
スベッタ、ツカマッタ、ビックリ」
真っ赤になった日本の若奥様は、なんとか単語を並べて説明した。
「日本人駐在員のサトーさんの奥さん、ハルミさんだ。イタリアの家庭料理に興味があるっ
ていって参加されることになったんで。ジャポネも魚は好きだから、魚を買えるところを
教えてやってくれって言われて。
……あんたが魚市場なんか何しに来たんだよ」
「次の晩餐の打ち合わせですッ！ シニョーレのお帰りが遅いからッ！ おれが代理でッ……
シニョーレがそんな紛らわしい姿勢だからシニョーラがよろめいておれにしがみついた
だけですッ！」
「何時間案内してやってたんだ、帰りの時間も忘れるほど。親切だな、レオーネ」
冷たい声音だった。どんどん加わる腕の力は強くなって、リッカルドは左の腕の感覚が
もうなくなってきたような気がしている。
「マルタンさん、やっぱりジャポネーゼは危険だな。アメリカ人なんかよりよっぽど。あ
あ、やっぱり誰にも見せないで田舎に隠しておくんだった、油断も隙もない」
小声で言い捨てて、麗しの市長閣下はきびすを返した。
「フロ……Ｂ．Ｂ．！」
アバッキオが絶叫する。
……とりあえず、今夜は鰻かな、シニョーレだけでも。精を付けて貰わないと。警備主
任には詰めて貰った方がいいかな。連絡しておこう。
左腕を庇いながら、副料理長は夕食の献立の変更について考えを巡らし始めた。
０３−１０−１０
おまけ。
ネアポリス・スローフード推進協会は今期の活動予算の全てを使い切って啓蒙用映像メッ
セージを制作した。それは「収穫祭」が終わっても、ＴＶＣＭとして延々使い回された。
……その片隅に、輝く青い眼をしたレディが、亜麻色の髪の知性的な夫と仲良くひとつ
皿の料理をつついている様が写っているのはほんのご愛嬌。
「だって、おれの知るネアポリスの美男美女全部駆り出せって言われたから」
「……だそうだよ」
「んまあ、フーゴのおまけでも嬉しいわ」
オール・スター・キャストなんだからネアポリスの裏の女神が入ってないとね。
蛇足。
巨編巨編って煽っといて、たいした長さになんなかったらどうしようと思ってましたけ
ど、結構長くなりましたね、毎度ごめんなさい。
こんだけ書いといてわたしマクドナルド好きですけど。すいません。あんまりお料理し
ないし。
あれも最近はお高くなりましたねえ。昔は憧れで、田舎の町にとうとうできたときには
行きたくてしょうがなかったような覚えがあります。
最近はファミレスにはいる余裕もなくて。休日にお買い物に出たついでに子ども達と食
事を採るのはもっぱらファストフードで。自分が子供の頃はそれなりのレストランに入っ
てたのになあと親として反省。
手料理手料理言うアバッキオがファストフード店と対決して追い出す話はなんとなく思
いついてたんだけど、一介のギャングが世界資本と喧嘩は無理かなあと断念していて。市
長のだーりんにもなったら大丈夫かともう生還パラレルでやっちゃうことにしました。なん
か大ごとになりました。スタンド使ってないって。ごめん。
コソボから脱出した少年の手記は、Ｖｉｐｐｅｒでたしか「（多少読みやすく／特定を
避けるため アレンジをしてるので）フィクションだと思って読んで」って公開されてま
した。この前拾って読んでショックを受けたので。ユーゴのひとの名前ってドラガンしか
思い出せなかったって、ストイコヴィチ様ごめんなさい。ピクシー（ドラガン・ストイコ
ヴィチ選手のニックネーム）は一芸があったから国外で活躍できたけど、現地に残ったひ
とは大変だったそうです。ホント、自分は今平和な日本にいられて申し訳ないけど幸せ。
あ、そうそう、「コカコーラ大佐」はホントに実在したそうです。２人ほどはまきぞい
で戦死もしてるそうで。日本兵が飢えて共食いしてるころに敵はコカコーラ飲んでアイス
食べてたんだもんな。負けるはずだよ。やっぱ戦争はいやよね。