マナー教室
その朝（５７）
１
「……レオーネ？」
暗がりに、抑えた声が響いた。かたぎの勤め人なら、もう起き出していてもおかしくな
い時刻。日の一番短い季節だから、まだネアポリスは静かな闇に沈み込んでいた。昨夜遅
くまで年末のパーティやら恒例の幹部会の申し送り事項のまとめやらに追いまくられてい
て寝不足の身、まして、１年越しの恋を実らせて愛しい相手と共寝の翌朝ときては、二度
寝しても誰にも文句を言わせない。と、ベッドの中の佳人はそう結論づけたのだが、どう
もベッドの中が物足りない。傍らの恋人を振り返ろうとして、違和感に、ふと、名を呼ん
でみた。
「レオーネ？」
応（いら）えはなかった。
慌てて起き出して、部屋中探して、携帯はまだ持たせていなかったことに気づいて。フー
ゴを叩き起こして善後策を尋ねたいところを最後の理性で思いとどまって。
アバッキオが消えた。消えてしまった。ベッドの端にまだほんの少しの温もりは残って
いるから、昨夜までのことが寂しい自分の創り出した夢ではないということだけは確かだ。
それではどこへ？
先週やっと部屋の都合が付いて、アバッキオにフラットを借りてやったのを彼女はよう
やく思い出した。一間だけの小さな物件で、通りを２本はさんでやや遠い。フーゴが同じ
フロアで一声かければすぐ駆けつけてくれ、ナランチャが同じ通りで行き来が楽なのに比
べたら、嫌がらせのようだ。電話も引いてないし。これまでは、一応その部屋へ帰ってか
らまたアバッキオは訪れてくれて、泊まっていってくれていたけれど。
アバッキオはその部屋へ帰ったのだろうか。
ブチャラティはその朝、気が気でなかった。
ようやっと後背の丘陵地から冬の朝日が顔を出して、部屋の中が薄明るくなってもぼん
やりベッドの中で身を起こしたまま考えにふけっている。自分が、見かけによらず繊細な
情人の機嫌を損ねるなにか致命的なことをやってしまったのではないかと。なにせ、警察
内でも浮いていたほどの堅物だ。今までの自分の常識とはかなり違ったもので行動を律し
てきたとうすうす感じてきていたのだ。そして、もしかしたらその部屋にもいなかったと
きは、今度こそほんとうに行く宛のない筈の傷付いたライオンを探しに行くために、自分
の今日これからの予定のうち、後回しにできるもの、人任せにできるものの算段を始めて
いた。
ふと、時計の針が出かける時刻の１０分前を示しているのに気づいて、とりあえず身支
度だけは整えた。
２
待ち人は、いつもの出発時刻のきっかり５分前に空々しいほどの美々しい出で立ちでド
アを叩いた。
「おはよう、リーダー」
買い調えてやった長いぞろりとした服を纏って。もとの素性を隠すためと、ギャングと
しての気合いを入れるために、舞台化粧のような装いを仮面の代わりにして。朝から爽や
かな石鹸の匂いをさせて。
昂然と顎を上げて、彼女のライオンが迎えに来ていた。これまでの朝とは違って、なに
か成し遂げた高揚感が漲（みなぎ）っている。
女を独り、ベッドに取り残しておいて、なにを朝から機嫌良くしているのだろう。
ブチャラティは、しかし、ただ安心が先に立って、一言しか口に出すことはできなかっ
た。
「おはよう……レオーネ、食事は？」
「ああ、済ませてきた」
「ああ、じゃあ、少し待ってくれ」
ブチャラティは、強いて食べさせる価値もない形の崩れたオムレツを自分の腹に押し込ん
で、少し遅れて部屋を出た。
その日以降、アバッキオは明け方彼女の知らぬうちに部屋を出て行くようになった。
恒例のローマ出張から帰って以来、アバッキオは落ち着いた様子を見せていたから、つ
い安心して、忙しさに紛れるまま細かいフォローを怠っていたかも知れない。なにより、
賄いも板についてきて、場所を得た高揚感からか実に機嫌良く、ナランチャやフーゴとも
仲良くしているから、リーダーとしては申し分ない。
目標が定まれば、それに正しいアプローチをすることはできる質なのかも知れない。
そうやって、ずっとこれから自分のパートナーとして側にいてくれたらいいのだけれど。
ローマで、アバッキオが自分を抱きしめて誓うように言ってくれた言葉を思い出す。
……あんたが好きだ、大好きだ……。
あのときは、なんて幸せなんだろうとしみじみしたのに。
これで相思相愛の恋人同士になったからには、なにも心悩ますことは無いと思ったのに。
溜め息と共に、恐ろしい想像が頭をもたげてくる。
……いや、彼は目覚めてしまったのではないか？
ひとときの地獄のような自虐の日々を終え、しばらく自分の腕の中で癒しの時を経て、
またその生まれ持った高い志を取り戻す時期に来たのではないかと、ブチャラティは思い
当たってしまった。
記憶をなくしていた誇り高い王子様のように、自分の素性を思い出したら、あっさりと
迎えの馬車に乗って去っていってしまうとでも言うのだろうか。
だって、彼は美しすぎるから。
髪の色も、目の色も、この汚い下町をうろついている連中とは違いすぎるから。
自分の思考に囚われて、ブチャラティは冷や汗を流し始めた。
美しく気高い彼をつなぎ止めるための魅力が自分にはない！
ブチャラティは、どんな悟り澄ました男も明くる朝には目の色を変えて、どうかあの天
国の快楽を再び与えてくれと懇願するという親友の超絶技巧を伝授して貰わねばならない
と心を決めていた。
３
「ブチャラティ、ルイサさんから差し入れです」
フーゴが午後のお茶の時間にとパイ菓子を紙に包んで持ち込んだ。
「ああ、休憩しようか、区切れもいいし」
この日はまったく進捗のないデスクの上を、ブチャラティは慌てて片付けてごまかした。
「ナランチャと彼は買い出しに行ってます。どうします？ 今年こそはナターレの飾り付
けやりますか？」
「ギャングのアジトにか？ それはどうかな……いや、彼は好きかな？」
例年の却下のときと同じ台詞のつもりが、心弱さから途中から変節した。
「どうでしょう？ 結構彼、ナランチャには弱いみたいだし、そのうち押し切られそうで
すよ。とりあえず、今日はお金持たせてませんからいきなり買いこんできたりはしないで
しょうけど」
「せっかく一人増えたんだから、やってもいいかもな」
子供ばかりのチームのリーダーは、それ故肩肘を張って聖誕祭の飾り付けをアジトには
禁止してきたのだが、ここへきて方針を変えることにした。
「それであんたの気が済むのなら」
参謀は、意外やそれを追認した。
「なんだ？」
「ぼくはあんたとは一番つきあいが長いとは言っても、てんで女性の扱いには慣れてません
から。こうやって、甘いものを貢ぐぐらいしかあんたの気が晴れることは思いつきません。
その顔が笑顔になるなら多少の出費ぐらい認めましょう」
「わたしの顔が何だって？」
「自分で気づいてないんですか？ 辛気くさい、とても、恋人がいる女性の顔じゃないで
すよ」
「え？」
ブチャラティは急に目頭が熱くなったのを感じた。
「ああ、ほら！」
フーゴは慌てて右手をポケットに突っ込んでハンカチを探った。それを押しとどめて、
ブチャラティは空いた手で自分の顔を覆う。
「なんだろう？ ここ数日は、何か変なんだ」
「解りました。彼を殺しましょう」
天才少年は、真顔で最短距離を選びとった。
「ま、待てッ」
ぎょっとしてブチャラティは声を荒げる。
「彼のせいなんでしょう？」
天使の顔は、ひとの色恋を理解する気がないようだ。
「短絡するなッ、直接何か言われた訳じゃない」
「されたと？」
「そういう、わけじゃないが……」
「言ってください」
亜麻色の髪の下から青い眼がじっと彼女を見据えている。
「いや、これは人に言うほどの話でもない。いいんだ、わたしが考えすぎなんだろう」と、
哀しげな顔を俯ける。
「じゃあ死んで貰いましょうね」
フーゴは短く決めつけた。
「フーゴッ！」
「ぼくらにとって、チームだけじゃない、ファミリーにとって、このネアポリスにとって、
大切なのはあんたです。あの男じゃない。あんたが不調になるんならあの男は不要なんです」
「フーゴ……」
「しっかりしてくださいよ。でなきゃ、あんたも、彼も、消されます。解ってください」
「解った……ええと、実は……」
ブチャラティは、覚悟を決めて心の内を明かした……。
「はあ？」
「……まあ一応事情聴取はしますかね？ それより、あんた、タイマーでヒーター入れれ
ば済む話なんじゃないんですか？ 別にいいじゃないですか、ぼくだったら他人が側にい
たらくつろげませんけどね。じっさいあんな大柄な人が横に転がってたんじゃ、あんた、
寝返り一つ打てないでしょうに」
フーゴはなるべく苦手分野から遠ざかろうとする。
好きで好きで堪らない人がいたとして、そのひとが同じベッドの中になんかいたら。た
とえ、もうそれが自然な間柄だったとしても、楽しい夜のその後でも、それはかえって恥
ずかしくっていたたまれないんじゃとフーゴは思いを巡らせた。アバッキオはけっこうあ
れで純情っぽいところもあるし。
「だから昔あんなに嫌がったのか？ それとこれとは違うんだけどなあ。人肌の温もりは
違うんだ。おまえはお坊ちゃんだしなあ。まだ子供ってことかな」
ブチャラティは、フーゴのその感覚を子供だから、と言う方向に集約する積りのようだ。
「まあそういうことです。ぼくはまだそういうの解らなくて結構。
ぼくはそれよりトンマーゾさんの筋で依頼されてた件を引き継いで調査が入ってますから。
ホントに、探偵みたいな……こんなことまでやってたからあのひとぬるいとかなんだとか
いって部下に反逆されるんですよ……」
「そんなこと、言うなよ、わたしたちだって世話になったろ？」
「ギャングってサーヴィス業だったんですね」
フーゴは吐息一つでそれを認めて見せた。
「ええと、うーん、広い意味では？」
小首を傾げてみせるリーダーの顔色が少しはましになったのを見て、フーゴは軽く手を
挙げて辞去した。
ほんとに、ギャングの参謀はサーヴィス業だ。リーダー様の痴話喧嘩の面倒も見てやら
なくちゃならない。
……朝帰りのマナーって誰に聞いたらいいんだろう？ ああ、トンマーゾさんが適任だっ
たのに！ まったく惜しい人を亡くした。
４
まだ薄暗い中を、彼女はご機嫌で起き出した。気分転換のために犬の散歩を自分が行う
ことにしてみたのだが、まったく、いい気分転換だ！ 朝から化粧を凝らしてわくわくし
て街に出た。朝靄の中のネアポリスはまた独特の趣がある。長年住み慣れた街だが、こん
なたたずまいを見せるものとは思わなかった。石畳の坂道を、犬に連れられて登ってゆく。
心拍が上がるのは、運動不足だったせいだけではない。
早朝の散歩に魅力を添えるものが、その先にある。
この年で、とは言いたくない。まだまだそういうときめきとは縁が切れるほどでは無い
はずだ。美容には日頃心を砕いてきたし、人からもよく賞賛される。まだ、ちょっと手を
伸ばせばそれは届く範囲にあるはずだ。手を出してみたりはしないけれど。ほんの少し、
近づいてみるだけ、ほんの少し、長く見ているだけ……。
坂を登り切ると、そこは旧市街を見下ろす丘の上だ。中心部からはケーブルカーではる
ばる登ってくるところ。彼女にとっては、屋敷からほんの１ブロック歩いた距離だが。ご
みごみした犯罪都市を見下ろして暮らす身分の彼女は、しかし、籠の鳥の心境で日々を過
ごしていた。彼に逢うまでは！
ああ、足音が聞こえる！ 規則正しい、力強い足音。立派な体格をして。きっとアスリー
トか、そうでなければ戦闘職種にちがいない。なにかストイックな雰囲気を漂わせている。
地味なトレーニングウエアに身を包んでいても、その均整の取れた身体は隠しようがない。
そして、フードの下の白い顔の端整なことと言ったら！ まったく、大理石の彫刻がその
辺の宮殿から駆けだしてきたのかと見まごうほどだ。彼に出逢ってからこの１週間という
もの、朝が来るのがこんなに待ち遠しかったことはない。
ああ、近づいてくる！ 心臓が飛び出そうだ！ ティーンエイジャーの頃でもこんなに
胸をときめかせて男性を待ったことはない！
「おはよう……ございます」
震える声で声をかける。
「おはようございます」
彼は礼儀正しく挨拶を返してくれる。丁度この坂を登り切ったところは休憩の地点だか
ら、少し立ち止まって、ストレッチをしている。
「今日は冷えますね」
丁度、勇気を振り絞って出した言葉が湯気になって立ち上った。内容を視覚で裏書きし
てくれる。
「ええ、そうですね」
応じてくれた！ 息を詰めて会話の成り行きを見守っていた彼女は、すかさず提げてき
たバッグからポットを取り出す。
「コーヒーでもお飲みになりませんか？」
「ああ……いいんですか？」
「ええどうぞ」
「じゃ、遠慮無く」
少しの笑みが漏れた。ズキュゥゥンと、彼女は実態のない銃弾に胸を貫かれる。エロス
の矢ではない。そんなものがあるなら、もう彼女は貫かれてしまったあとだ。
ただただ胸がいっぱいで、黙って、彼の長い指を、整った唇を彼女は見つめている。
名前も知らない。素性も。ただ毎朝ここでほんの少し言葉を交わすだけ。２０かそこら
の青年に、心を奪われてしまっている。知っているのは、ほんの少し。この秋まで少し乱
れた生活をしていて、今はそれを反省して、身体をまた鍛え直そうと思い立った、それで、
１週間前から少し朝走ることにしたということ……。それだけで、誠実な人柄が透けて見
える。なんて好もしい……。自分はただ、珠玉のようなこの時間を楽しみたいだけで、そ
れだけでなにも疚しいことは……。
「奥様。その辺で。あまりお時間を取りますと、そのコが可哀相ですよ。ほら、もう先へ行きたがっていますよ」
固い声がかかって、彼女は身を強ばらせた。建物の影から、奇妙なスーツを着た少年が
進み出ていた。
「なんのことかしら？ あたくしはただこの方に飲み物を差し上げて一緒に休憩を取って
いただけよ」
「ええ、そこまでで。大変結構ですが、お立場をお考えになって。それ以上は、お為にな
りません」
「なにを、偉そうに……あなた、何者？」
「パッショーネの。今はこの辺りもお世話しておりますブチャラティのチームのフーゴと
申します。旦那様はまだご存じではいらっしゃいませんが、奥様のご実家のお父様がご心
配になって、うちのものにご相談を」
「なん……ですって？」
うっとりと紅潮していた頬から、血の気が引いた。
「それに、彼は、うちのリーダーの、恋人です。奥様のお側に寄れるような人間じゃあり
ません」
それを聞くなりはたと振り返って、その姿を上から下まで見てからは、彼女はすぐさま
飛び退いた。カップを取り返して、バッグに詰めるなり、
「ごきげんよう」といい置いて、もと来た道をほとんど駆け戻った。
５
「なんなんだ？」
あとには、狐に摘まれたていのアバッキオが一人残された。
「あんた、名前負けしてますねッ」
冷たくフーゴは言い捨てた。
「なんだよッ」
さすがに色男も声を尖らせる。
「なにが百獣の王ですか、そこらの犬っころみたいに誰にも尻尾を振ってッ！ あんたは
うちのリーダーの恋人なんですからそこら辺のおばさんにコーヒーなんぞほいほい貢がれ
て飲んでるんじゃありませんよッ！ ブチャラティをほったらかしに早朝デートなんて１００
年早いですよッ、ああッ、もうッ、
パープルヘイズッ！！」
「おいッ」
さすがにアバッキオは青ざめた。
「この脇の甘い色男にお仕置きだッ！」
「ごあぁッ！」
菱形を繋いだ肌の地模様を歪ませて、フーゴのスタンドが身構えた。
「ちょ、うわッ……つゥッ……」
急所を強か蹴り上げられたアバッキオが内股に身をかがめた。
「ブチャラティに恥をかかせるなって言ったはずですよッ！ 次はホントに殺しますッ！」
「なんだよ、ちょっと立ち話してただけだろ、年の行った女性ってのは世話焼きなもんだっ
て、そんな、あのひとも変な気持ちはないだろ」と、素でそんな言い訳をする。
「アバッキオ、あんた……」
苦しい言い逃れを、といいさして、ふとフーゴも思いこみから解放される。そういえば、
この男はオバチャン達にはいつも囲まれて、花を持っていけだの、果物の余り物がとか、
焼き菓子を焼いた、だのと貢がれていたり、ナイフの持ち方がなってないだの、髪の手入
れのこつだのいろいろ構われていた。
……女性に構われ慣れているのだろうか。
「とりあえず、あの奥様は大台に乗ったか乗らないか、まだまだその気はあったと思いま
すね」
「あァ、そうか？」
「あんた、もしかして、女きょうだいいました？ 女性に世話焼かれるのって慣れてます？」
「あねきが約２人によく出入りする従姉が２，３人の、近所の奥さん連中がまた世話焼き
で。幼なじみ連中も結構ムチャいうやつばっかりで」
息苦しそうに色男は吐いた。
……ああ、それで。
珍しい容貌に持ってきて末っ子気質とは。素朴な性格のハンサムが、照れてふて腐れれ
ばなおさらに女達は黄色い声を上げて彼を構っただろう。
「……そりゃあ、あのひとがあれだけモーション掛けてても気がつかないわけだ」
溜め息混じりに言ってやると、アバッキオは気まずそうに目を逸らした。
「おまえもそんなこと言うのかよ。……がきの頃の友達はみんなおまえは得な性分だって
さんざんからかってきたもんだが」
いや、性分じゃなくて容貌……素朴すぎる性格も多分に貢献しているかもだけど。
物心ついてからずっとこの顔と付き合っていると、大して有り難みを感じないのかも知
れない。鏡をその鼻先に突きつけてやりたい気がしていたが、無駄と知れてはもうそんな
ことをする気も失せて、フーゴはとりあえず、彼のスタンドで思いっきりアバッキオの背
をどやしつけさせた。
「あんた、自分が女性の大好物のハンサムだってこと自覚しててください。ホント、これ
からは気をつけて。ブチャラティに恥をかかせたら死んで貰いますからねッ！」
「わ、解ったッ」
アバッキオは咳き込みながら宣誓した。
６
「だいたい、なんだっていきなり走り込みなんて始めるんです？」
肩を並べて坂を下りながら、フーゴは予定通り事情聴取。
「いや、だって、もうローマでパッショーネのボスに忠誠誓っちまったから、せいぜい出
入り要員として体力つけねえとって。……随分身体鈍ってたみてえだし。いいとこ見せね
えとと、……思って」
少し、赤くなった顔を背けて言う。
「それならちゃんと断ってから出てください。寝ている間にいなくなるなんて、女性に対
して失礼じゃないですか……ぼくはそういうマナー、よく知りませんけど、そうじゃない
ですか？ 寝ている間に致命的な失礼があったんじゃないかって、気にしてたじゃないで
すか」
「そんな！ 良く寝てたから起こさなかっただけだってッ！
……気恥ずかしいじゃねえか、そんな、夜、いろいろあったその翌朝そのまま顔合わす
のって。彼女の前で身支度するのもなんかあれだし」
「まあ、その辺はぼくも同意するにやぶさかじゃないですが。一般的にはどうなんでしょ
うね？ あんたも自分の感覚じゃなくて一般的なマナーの方を大事にしてくださいよ。慣
れてるんでしょ？」と、フーゴは頭痛を堪える表情になる。
「おれだって、女の部屋に泊まるなんてことははじめてだッてのッ！」
いきなり、色男は憤然と問題発言をした。
「まさか」
「なにがまさかだッ！ おれの田舎じゃあ結婚前の男女がそんなことやったらオフクロど
もに半殺しにされるんだよッ！」
「ちょっと、いくら何でも。もうすぐ２１世紀なんですから」
「田舎を甘く見るなよ？ おれの親父の従兄が昔、村祭の夜に恋人と抜け出して物置小屋
で、その、愛を確かめ合ってたのが見つかったときにはもう、寄ってたかって利き腕へし
折られた上に、そんなに元気が有り余ってるんだったらッて、そこんちのオリ−ヴ畑で強
制労働３ヶ月！」
「……うわあ」
フーゴが喘いだ。
「それで、別れさせられたんですか？」
「まさか！ 傷物にしておいて責任取らないなんて、ありえねえって。両手両足折られた
挙げ句に一家揃って夜逃げぐれえは覚悟しないと」
アバッキオは寒そうな表情になった。
「田舎を甘く見るなよ。おれの親父の兄貴はネアポリスで大学に通ってたとき事故で亡く
なった。間の悪いことに恋人のお腹には赤ん坊がいて、大騒ぎになって。結局その子を引
き受けるって条件で親父は街から来た金髪の女を嫁にすることが許されたらしいぜ」
「それって」
フーゴはすぐに思い当たって言葉を差し挟んだ。
「オフクロだ」
それはお行儀よくすることを求められたことだろう。
「あんたが健全な感覚の持ち主ってことは解りましたから。あのひとにもそう口添えして
おきます。但し、今度からは絶対寂しい恥ずかしい思いをさせないでくださいねッ」
もう、丘を下り終わっていつもの横丁が見え始めている。フーゴはお説教を締めること
にした。
「わ、解った……」
７
翌朝、ブチャラティは心地よい暖かさの中でうっとりと目覚めた。やはり、横に大好き
な人が寝ているのは心地よいものだ。
「フロラ、ああ、起きたか？ おはよう。もう出るぞ。
あんたはもう少しゆっくりして身体を休めろ。……昨夜は楽しかったよ。
冷蔵庫にアランチャが剥いて冷やしてあるから食べろよ。朝果物喰うといいんだってさ、
じゃあ、いつもの時間にまた来る」
髪をかき撫で、かき撫で、いつもは隠されている額を露出させてそこに唇を落として、
アバッキオは出て行った。
その温もりを確かめるように、右の手でちょっと押さえて、ブチャラティはまた幸せな
二度寝に入る……。
「なーなー、アバッキオ朝抜け出して走り込みやってたのブチャラティ知らなかったの？
聞けよおれに」
ナランチャは後出しで偉そうな顔をする。
「きみ、知ってたんですか？」
フーゴが目を丸くすると、少年は得意げに胸を張った。
「おれもその時分に目が覚めるからさ、窓から外見てたら見たようなのが走ってくじゃん？
逃げるんじゃねえだろうなと思って一度二度は後つけたよ」
「なんで報告しないんですッ！？」
「えー？ だってふつーに筋トレだったろ？」
フーゴは力が抜けてアームチェアに沈み込んだ。
「でも、アバッキオもともとお巡りだから体力今のままでじゅーぶんおれたちよりあるじゃん？」
無邪気な顔をしてナランチャはアバッキオを見上げる。色男はちょっと詰まって、少し
頬を染めるとボソボソ話し出した。
「だって、やっぱ、恋人のことは抱き上げてやれなくちゃ。女ってのは、お姫様抱っこに
憧れてるもんなんだってさ。つっぱってたり、ぽっちゃりしてたりして、とてもそんなカン
ジに見えなくても、頭ッから諦めてるみたいでも、それだけ、やってやるとすげえ喜ぶもん
なんだって」
「ひゃあ！」
オトナな知識にナランチャが歓声を上げた。
「さあ、どうですかね？」
フーゴは一応懐疑的なポーズを取りながら、この男を拾って以来いろいろ見えてくるブ
チャラティの隠しきれない乙女心を思うと、実はあり得るのではと考えもする。
「あれは、コツがあって、純粋に腕の力だけだとキツイが、引きつけて、こう、腹で支え
るようにすると意外とかなり目方があってもいけるんだ……」
「へえーッ」
ナランチャが目を輝かせてアバッキオを見上げる。
「人前でそんないちゃいちゃしないでくださいねッ。あのひとの権威に傷がつきますッ」
と、フーゴは決めつけた。
「解ってるッ」
「男のかいしょーッて大変なんだねー」
ナランチャは屈託なく笑った。
「あ、それで、フーゴ、あの……」
ふと気づいて、チームの帳簿係に目をやったアバッキオだが、どうにも用件が切り出せ
ない。ブチャラティに、ナターレのプレゼントを買ってやりたいのだがと言ったら、ヒモ
の分際でと怒られるだろうか、やっぱり朝、走り込みのついでに魚市場にでも行って、少
し小遣いかせぎをしなくてはならないだろうか、それとも、それも彼の大切な彼女の顔に
泥を塗ることなのだろうか。
繊細な大男の扱いにまだ習熟していないフーゴは、結局ナターレ当日まで彼の悩みに気
づいてやれなかった。
おまけ。
ネアポリスからほんの数１０キロにしては余りにも健全な世界の、上流階級のそれとも
通じる表現のエレガントさにうっかり魂を洗濯されたような気持ちになっていたフーゴは、
ふと、興味を抱いて尋ねてみた。
……ああ、古式ゆかしいと言うことでは共通してるか。
「ちなみに、そのチャーミングでエレガントなあんたの田舎の言い回しでは、あのひとに
拾ってもらったときのことはなんて表現するんですか？」
「……心からの慰めと癒しを与えて貰った……というところかな？」
ぽっと羞恥に頬を染めて、アバッキオは言ったものだった。
（１８−０６−１０）
蛇足。
なんか時間かかってすいません。ネタは浮かんでたんだけど１ヶ月もかかっちゃった。
事の起こりはこの春の週末、お昼寝中の旦那様を残して家族みんなばらばらにお出かけ
しちゃったら、途中で目覚めた旦那様から
「どうしたの？ なんでだれもいないの？ おこしていってよー」と涙のメイルが入って
ました。オッサンのくせにだらしないぞ！
幸せ一杯の朝の筈が、目が覚めたらいなくなってたら哀しいよね？ というお話。ふつ
うにしてるとアバッキオはもてまくります。
ブチャを泣かせるとフーゴ切れます。
ヘンに女に優しいアバッキオルールに呆れながら、年少組が女性とのつきあい方を学ん
でいくといいなと思って。「シラノ」と同一線上の話。
でも、いくらよく眠っているからって、声もかけないで出てくのはマナー違反でしょう。
もちろん、ブチャラティのどうしようもない朝ご飯を食べるのがイヤとかそういう高度な
考えはないです。かといって、自分が作ってやったら女性としてのプライドとか乙女の夢
とかを傷つけるかなとは思っていそう。難しいです。
よくよく調べたら、「コンチネンタル」とかいって、ヨーロッパ本土の方は朝はあんま
りしっかり食べないみたいです。イタリアだとカプチーノにパンだけとか、そもそも朝か
ら火は使わないとか。いやだわぁ、どんどんぼろが出る。「イングリッシュ・ブレックファ
スト」は別物、卵からジュースから、ホテルのあの「洋・朝定食」が並ぶらしいです。