もし恋人達の行事があったなら
１
「レオーネ、きみは雪が降ったら誰より早く起き出して雪かきをするような立派な向山の
男の子だけどネ」
１月も末になると必ず親父は２人きりになって眼を覗き込んできたものだ。
「イタリアーノたるもの、聖ヴァレンティヌスの日に女の子に貢がれようなんて思い違い
をしちゃいけないヨ？ ヴァレンティヌスの日は、男が最愛の人に想いを示す大切な日なん
だヨ？」
「しねえよッ！」
頭を振ると、親父は大きく肩をすくめて、ホントだヨ、約束だヨとしつこく繰り返して
いた。ほんと、ずっと親が思うほどもててなくて、肩身が狭かった。ってことはあれはも
てない君に対する親としてのフォローだったのだろうか？ 我が親ながら掴みにくい人間
だ。
物心ついた頃から、ヴァレンタイン・デーは特別な日だった。きれいなカード付の高級
な舶来のチョコレートはオフクロだけが食べていいもので、そんな、ＴＶや雑誌でやって
いるような浮ついた騒ぎとは無縁だった。その代わり両親はもうおおっぴらにいちゃいちゃ
していて、これが愛し合ってる大人の男女なんだなと実地で教えてくれていた。向山では
ホントにチョコレートを渡したりする女の子はいなくて、おまえはきっと貰ってるだろと
やっかみを言われるのが不愉快だった。
……向山の女の子が内気なんだ、おれだって山を下りれば多少は、それなりに、もてた
りするんじゃないかな。
そういう野心もあって、名門私立に行ってみたんだけれど。
大人になったら、ちゃんとできる。チャラい恋愛ごっこなんてしないだけだ。本気の相
手には、おれだって心からの贈り物をキメてみせるって、それはイソップのキツネみたい
な強がりの思いこみだったかもだけど。
いきなりこんな大物の上物に当たるとは思わなかったって！
……ヴァレンタインは恥ずかしい目に遭わせてやるって言ってたけど。
ゴキゲンで笑って見せたブチャラティの顔が思い出されて動悸が強くなる。
やっぱり、くれるよなあ。
カレンダーを見ながら、おれは考え込む。
となると、イタリアーノとしては、ばっちり本気の相手として対応しないと。
入学試験対応で２月初めは休みがあるから最後はそこで決めるとしても、あと週末が１
月中に１回、２月に２回……直前に祝日もあるし、これから準備すれば間に合うんじゃな
いかな。１回ぐらいはブチャラティと遊びにも行きたいし。あねきどもは手作りしなかっ
たからうちに型はないとしても、器具は普通の菓子を焼くときと共通してるはずだし。と
くに新しく買わなくちゃならないものもないだろう。
この秋いちどガス抜きはしてやったけど、ブチャラティはやっぱり甘いものを食べるこ
とに罪悪感があるみたいだ。辛党としてチョコレートとかの匂いを嗅いだだけで気分が悪
くなるとかじゃないなら、やっぱり可哀相だ。
……うまいチョコレート喰わせてやろう。
まずは練習の帰りにでも遅くまでやっている書店に行って、きっと時節柄いっぱい出て
いるだろう手作りチョコレートの本を買うことにした。
ミッションの第一段階は無事クリアして。うちに帰ってめしのあと本を広げていると、
どすんと音がした。
「気持ち悪ッ」
誰かが横へ来て坐った音だった。
「なんだよ」
顔を上げるとローザあねきがデコピンしながら喧嘩を売ってきた。
「すんごいでれえってした顔になってる。いやだ、リア充爆発しろ！」
「じゃああねきも友チョコでも作れよ」
「そこで誰か渡す人いないのかと聞かないところがムカツク！」
「だっていないだろ、無駄じゃねえか」
「ああ腹立つッ！ なんで男がこの季節に手作りチョコレートの本なんか読んでんのよッ！」
「だって、やっぱイタリアーノとしては、本気の相手にはヴァレンティヌスの日にはチョ
コレート贈んねえと」
「どこがッ！ あんたのどこにイタリアーノの血が流れてるってのッ！ あんたなんか９８％
向山人だってのッ！ 口は重いしいじけやすいし女にはからきしだし目立つことは嫌いだ
し！ あんたなんか市民病院でおばあちゃんがすり替えてきた子なんだからッ！ 跡継ぎ
欲しくってッ！」
「これッ！ ローザッ！ なんてことをッ！」
オフクロが台所から声を掛けてきた。
「いいよ、慣れてる」
小さいころはよく近所の子と喧嘩して泣かされて帰ってきたから、その度に気の強いあ
ねきどもはこんなめめしい子はうちの子じゃない呼ばわりしてくれた。自分でも絶対陽気
なイタリアーノらしいところはないと言い切れるけど、鏡を見れば、９８％どころか疑い
ようもなく向山に帰化してしまった中川（＝ミッテルバハ）家の色の薄い髪になんか緑が
かったヘンな色の眼だから自分の生まれを疑ったことはない。
「日本の菓子屋が作った行事だろうが、Ｍ８７星雲は光の国のならわしだろうが、男とし
ては大事な女の子になにかをしてあげなくちゃならない日があるんだったらやるだろ、ふ
つう」
あねきは口を半開きにしてしばらく固まっていた。
「もてない君乙。そんなに張り切らなくても。あんたそんなに寂しかったのねえ」
「違うーーーーッ！」
いきり立つと、あねきは短く被せてきた。
「やめなさいよ、自己満でしょ」
「ヘッ？」
「ブチャラティちゃんお料理できないんでしょ？ それなのにあんたが気合い入れて手作
りじゃあ、立場ないじゃないのよ」
「できないって、そりゃ」
トラウマなのだ。目の前で通り魔に父親を殺されて。その時の記憶は封印されて消えて
しまっているけれど、刃物は見るだけで、貧血みたいになってへたり込む。調理実習は洗
い物要員、工作はずっと免除だったと聞いた。料理は家政婦さんにして貰っている。その
話を聞いて、おれはなお心を込めて弁当を作るようになった。
「しょうがないじゃないか。気にしなくっても」
「そうでなくても毎日あんたに弁当貢がれて。学園に根性の悪い女がいたら絶対陰口のひ
とつも叩いてるって」
「ええと、……どうかな？」
弁当包みを２つ持って屋上に行くようになってから、クラスの男子には理由を聞かれた
けど。露伴先輩はあの通り口は悪いから、せいぜい見捨てられないように貢いでおけとか
言われたな。
だって猫だから。恩なんか感じちゃくれないし。まだ弁当を用意してない頃でも、遅い
なと思って待っていたら結局来なかったこともあった。当てにすると身を翻される。首に
鈴をつけようなんて、思っちゃいけないんだろうけど、少しでも足を留めて貰うためには
できる限りのことはしないと。それも、大げさな、してやったふうだと鼻も引っかけない
気がする。さりげなく準備万端整えて待っていて、お猫様がその気になったときにすぐ出
して見せる、そのタイミングが良ければ喜んでくれる。それだけ。それでも、その難しい
お好みにバッチリ合ったときはいつものつまらなそうな顔がほんとうにきれいに輝くんだ。
その顔が見たい。
喜ばせたい。
だって、一番辛いときにそばにいてくれたひとなんだから。
全部投げ捨ててどうにかなってしまいたいと思っていたときに、おまえはそれでいいっ
て言ってくれたひとだから。
このさきおれの人生全部捧げちゃってもいいと思うほどのものを貰ったんだ。
ブチャラティを大切にしたい。
と、そこまで思いが至って、最初のところへ戻ってきた。
「やっぱ、だめかな？」
「おーそーいッ！」
ローザあねきは尻を座布団に乗せたまま体育坐りの体勢で地団駄ふんでいた。
「チョコレートはあたしがお姉に言って、芦屋のお嬢様御用達のすんばらしいのを調達し
てあげるからッ。あんたはせいぜい高校生らしい殺し文句のカード書きに専念しなッ」
「解った……」
２
入学試験休みに週末がくっついて、高校生だけのお楽しみの４連休。
「期末試験控えてるんだから遊びになんか行かないように。当然繁華街には補導員さんが
多めに出張ってるぞ」
ホームルームの時間に担任の先生がごっちゃりとプリントを配りながら締めた……けど、
そんなの誰も聞いてない。
ブチャラティも帰り道にゴキゲンで、
「古文は楽勝だ。百人一首はこの正月、嵐のようにやったからな。……ありがとう、楽し
かった」と少し頭を傾げて微笑んだ。
お正月に若い男女がやる遊びといったらカルタ取りでしょうって、何時代のひとなんだ
と呆れながら、オフクロに押し切られて家族対抗でカルタ大会をやった。毎年やってる家
の人間が強いのは当たり前と思ったが、ブチャラティとフーゴはすぐに札を暗記してしまっ
てハンデが要らなくなるし、ナランチャは運動神経がよくて、ブチャラティに示されると
あのリーチで遠くの札を取りまくって、しまいには良い勝負になった。あの生意気なフー
ゴが顔をすっかり上気させて、年なりの笑い方をしていたのが良かった。
「練習なんかさぼれ。朝から来い、昼はピザでも取ろう。ラーメンくらいなら作れるし、
教えてくれるならもっと何かに挑戦しても。中等部はフルに６時間あるからな、今度こそ
成り行きでそのまま……」
「おいッ」
どんどん暴走するお猫様にさすがに声を荒げると、携帯が鳴った。
「明日からちょっと御剣山のおじさんとこ行って。大変らしいわ」
オフクロだった。
３
「ナチス・ドイツ」と言うと怒鳴られる。「ドイツ国軍」の技術将校だったヨハン・ミッ
テルバハはナチが大嫌いだった。あんなものに乗せられるのはおつむが軽い証拠、ともと
もと技術屋だったところもあってドイツ国家社会主義労働者党とは距離を置いて、戦況が
あやしくなって来る前に、当時連合国軍が実戦に投入しはじめた日本生まれの新技術「三
木式電探」の調査のためと理由を付けて２人の妹を連れて大陸を脱出した。この三木式電
探はレーダーの先駆けともいえる技術だったのだが、「帝国海軍ハ練達ノ技術員ニヨル索
敵ニ優レ、カカル姑息ナル探査装置ハ之ヲ採用スル理由之無ク、以テ以降ノ研究開発ハ無
用」という無理解による不採用（流れ流れてその技術は連合国側で採用されてしまったの
だが）で腐って田舎に帰っていた三木博士とうまく出会って意気投合した後は、来るべき
敗戦に備えて夜な夜な二人してラジオなんか組み立てながら自分の身の振り方を相談して
いた。昔から平家の落人伝説があって、そういう人間を温かく迎えてくれることに定評の
ある向山を紹介して貰って、無事落ち着くと、戦後のどさくさできっぱり帰化してしまっ
た。明治維新までは大藩の城下町だっただけあって、新都は明治からお雇い外国人もかな
り帰化したり忘れ形見を遺していったりして、青い眼の住人に慣れていた。ロシアもはす
向かいだし、革命の前後にはいろいろあったとか。水まで優しいと言われる由縁である。
２人の妹、マリアとクララも金髪が珍しがられ、頭の良い芯の強い気性が歓迎されて、
向山で嫁いだ。ヨハン、今は中川晋也も土地の娘を娶り２男１女に恵まれ、もう「中川家」
は向山の昔からの家になりつつあった。イトコ達も、もうひとりふたりは先祖代々のおひな
様のような顔のがいるし。下の妹のクララが嫁いだのが田中家で、向山塗りの木地師の家
だったが、そこで生まれたくりすはイタリアからやってきた優男と恋に落ちてしまった。
……それで生まれたのがおれなんだけど、御剣山に親戚なんかいたっけ？ 田中のじい
ちゃんの方のかな？
半信半疑で自分の家系図なんか整理しながらほぼ観光路線の距離の長いバスに乗ると、
終点ではしわくちゃの老婦人が待っていて、間投詞ばかりの言葉を掛けてきて引っ張って
ゆかれた家には、やっぱりなんだか見覚えがあるのだった。
「まあまあレオちゃんおおきぃなってー。やっぱ中川さんの血やねえ。男前やし。今年は
ほんと雪が多て難儀しとったんよ、ちょ手伝ってたいま」
「ああ、はい。力仕事はもう任せてください」
意外や、家の中は結構電化されていて、自分の家の方が古いくらいだった。お釜は電気
だしお風呂はガスだし。快適。家の周辺の雪かきと、屋根の雪下ろしを手伝うことにする。
「都会からヴォランティアとか来てもろても、かえってなんも知らんから効率悪いんやわー。
こっちも怪我させんとかんなんとか気ぃ遣うし」
「そりゃどうも。好きに使ってください」
この地方独特の、湿気を含んだ重い雪、それが一晩経ってザラメ状になって、一度スコッ
プの先で割るようにしないと持ち上がらない雪の扱いは、それは素人には無理だろう。
「やっぱこっちの子がいいわね」
それがいないから困っているのだろう。持ち上げ持ち上げ日が暮れるまで使い倒されて、
風呂のあとにはもうご馳走攻め。
「若い人はお肉が良いがやろ」と、豪華猪鍋。
「最近ここらも猪が出るようになって。耕作ホーキ地があるからね」と、時事問題を勉強
させて貰って。
「でもおじいさんがもう張り切って、うちはもう鉄砲もお返ししたがにまた役所の方にう
まいこと言って返してもろうて、この秋にはなんとか一頭しとめたんやわいね。それがこ
れ」
血の気の多いのはオフクロの親戚だ、たしかに。
「ご立派やね」と、こちらも訛りが戻る。方言の方が敬語のニュアンスが出しやすいんだ。
「イマドキは煩（うる）そうなって。お酒出したら怒られるし」と、甘酒をもらいながら
また長い世間話にお付き合いして。
「そんで、レオちゃん彼女ができてんて？」と、噂だけは伝わるのが早い。しわくちゃに
なっても女は色恋話が好きで。ホットカーペットの上の膝を進めてくる。
「いや、その……」
「お正月の写真見せて貰ろたわ〜！ 美人さんやね。あんたの所のお姉ちゃんらと違うて、
髪の色が黒いから着物がよう似合う！」
正月にも呼び出されたブチャラティ姉弟は、カルタ取り以外にもあねきたちのおもちゃ
にされていた。とくにブチャラティは、あねきたちより着物が似合いそうだということで
取っ替え引っ替え着せられていた。極彩色の友禅はたしかに髪の色が明るすぎると負けて
しまう。ブチャラティは（指摘すると絶対落ち込むだろうからこっちからは言えないが）
あねきたちより身体の凹凸も少ないので、オフクロはそこも似合うポイントと褒めていた。
やっぱりきれいな色が似合う、とおれはナランチャやフーゴと額を寄せて頷きあっていた。
って、なんでその写真がこんな山の中まで回る！？
やっぱり田舎の親戚は恐ろしい。
「あの通り魔の時のお嬢ちゃんやって？ 可哀や。学校でもあんまお友達おらんがやって？」
「あ、でも大物やからそれなりに悠々やっとるよ」
「やっぱり女の子はたくましいんかね〜？ どんなカンジ？ 優しい？ 可愛らしい？」
「……大物で。頭良くて、くだらんことは見下しとるカンジかな？ 高価（たか）い血統
書付の猫みたいな」
「ああ〜わかるわ。昔やとシャム。今はロシアンかねえ」と、デジカメのデータを出力し
たペラリとした紙をつくづく見た。
「でもレオちゃんには懐いとるんやね。いいこと、いいこと」とニコニコしている。さあ、
どうでしょう。せっかくの試験休み全部親戚の家といったらなんだかあやしい顔つきになっ
ていた。今度逢ったらまた蹴っ飛ばされるかも知れない。卒業制作に露伴先輩がまた絵を
描きたがっていた、またヌード・モデルもやって、もう寒いからおれにするように先輩に
もつるんとすり寄って、先輩も男だからもう理性捨てちゃって……。
「……ちゃんとふうふうせんな熱いよ？」
「熱ぢーッ！」
手渡されたお茶をそのまま口に持っていって火傷した。
「あらいやん、彼女のこと考えてぼーっとしとったろ、まあ、いやらしい、ほほ」
「違（ち）ごッ」
「いいて、いいて。若い人はそうでないと。ほんなもうおばちゃんは寝るし、レオちゃん
彼女に電話でもメイルでもすまっし。この夏アンテナ付いてここも携帯繋がるよ」
「ほうけ」
「お向かいなんか光なんたらまできたわいね。なんかパソコンで商売するんやって」
「意外と進んどるね」
「そんでも若い人は来んがよ。アバさんみたいな奇特な外国人に来て貰おうにも若い娘も
おらんしね」
おれも期待されてたのだろうか。ごめんね、となんだか視線が下がると、
「レオちゃんは向山を背負わんなんし。今は彼女ちゃんもおるんやし。たまに雪かき手伝
いにきてくれるだけでいいわいね」と、背をどつかれた。
「ほんなね」と、襖を立てると出て行った。あからさまにすぐ携帯を取り出すのもなんだ
し、足音をそっと聞いて、階段を下りきったところでそっと出した。
「発信者： お猫様
件名：言い訳２０字以内で
内容：ヒマで試験勉強とてもはかどった」
ああなんて簡潔なそれでいてお怒りがひしひしと伝わる文面でしょう。
「発信者： お猫様
件名：兄貴天気予報外した
内容：今日はなんか寒い」
「発信者： お猫様
件名：熱量も結局保存される
内容：猛暑のせいで対馬海流がまだ熱くて水蒸気が大量に供給されて今年は雪が多いそ
うだ。許さん」
きっかり２時間おきの発信が可愛い。
「雪かき要員。御剣山遠い親戚過疎。疲労」と数を数えながら打った。
「それは失礼した。キリキリ働いてこい。病院関係でなくて良かった」
親戚の家に拒否権なしで呼ばれるということで、ブチャラティも一応気を回していたよ
うだ。自分が今複雑だから。
「ありがとう。みんな元気。足りないのは筋力だけ」
ブチャラティのメイルはホントに簡潔。絵文字もほとんどない。誤解される余地がない
というか、そもそも誤解されて気まずくなりたくないというようなぬるい関係性を排除し
ているようにも思える。
去る者は追わずというか。
その言葉を誤解したり受け止め損なったりして勝手に怒ったり、傷付いたりしても、い
つもの超然とした態度で見送りそうな。
おまえにとってのブチャラティとはそういうものかといつも問いかけてくるような。
だから、おれはいつもきりきり舞いさせられても、ついにはまた近寄って、おそるおそ
る声を掛けることになる。あまり小細工はしないで、言葉を少数精鋭にして。
「いいことをして筋トレになる。お得」
ふふんと笑っているのが目に浮かぶ。
「ずっと泊まって日曜の夜帰る。ごめん眠い」
「おやすみ」
いつもの別れの挨拶を思い出す。青い眼がじっと見つめてきて、ためを作った後で静か
におやすみを言う。なんだか、行くなとか、帰らないでとか目が言ってる気がする。口は
なんにも他に言わない。あの時の目。
お猫様寂しかったのかな。
寂しいと思ってくれているといい。おれがいないとつまらないと思ってくれているとい
い。でも、それじゃあだいじな女の子に寂しい思いをさせてしまってることになる。ナラン
チャが、フーゴが、盛り上げてくれていたらいい。露伴先輩がまたムチャを言って、なに
をバカなと鼻で笑われながらも自分のことをこれだけ評価して絶賛してくれるひとがいる
と言うことを肌で感じてくれているならいい。それでもおれがいたらいいのになと思って
くれると……ああ、なんて利己的なんだおれはッ。
ごろりと布団に仰向けになって気分を変えた。
「逢いたいよ」と、追加で送っておいた。
ほんとはひとときも離れていたくない。秋には考えて自分から距離を取ったんだけど。
年末年始を越えて心がぐっと近づいたら、もうブチャラティを最優先に考えて生活してる。
あの娘が欲しくて溜らないとこちらから想いを掛けて始まった恋じゃないけど、思いがけ
ず心の中に入ってきたお猫様を、追い出すなんてもう思いもよらない。
恋なんて一生一度でいい。
全身全霊で相手のことを考えて、今の言葉はどんな意味だったんだろう、おれの行動は
どこかおかしかっただろうか、いつも気を張って頭をフル回転させている。疲れるのに、
楽しくて仕方ない。ただ、きれいでかわいくてかなしいブチャラティを、笑わせたい、喜
ばせたい、幸せな顔をさせたい。そのためには、どんな道化な振る舞いも、大がかりな仕
掛けもやってみせる。ふるさとを遠く離れることも怖くない。ああ、親父、解るよ。イタ
リアーノらしくないかもだけど、おれも男だ。あなたに恥じないヴァレンタインにしてみ
せるよ。
だって今年は、一生一度の相手に出逢った記念のヴァレンタインなんだから！
「レオ、こっちへ来い」
３泊４日精一杯働いて、帰る日の朝飯のあと、おじさんに呼ばれた。奥の作業場、あれ、
ここんちってなにやってるんだっけ。田中のじいちゃんちとは匂いが違う。あのうちは、
木の匂い。向山塗りは木地にケヤキや桜を使っていて、あのうちはいつもそういういい匂
いがしていた。
「なあレオ、フランス料理のスープってのは、あれは本日はこのようなお出汁を用いて料
理させて貰いますっていう前振りなんやってな」と、肩幅よりやや長い横幅の深いトレイ
を腰のところで支えながらおじさんは出入り口の所に現れた。のれんを首で煩そうに避け
た。
「そこ、坐れ」と顎で示す。と、トレイをおいて、黄みの強いオレンジ色の布をはいだ。
「なに……？」
色とりどりの薄いふんわりとした布がきれいに畳まれて並べられていた。
「これもそんなもんや。まずはしごき帯から。これからあなたのお召し物はうちで全部仕
立てさせて貰いますっていうご挨拶や」
「って？」
「おまえの彼女に。何色が似合う？ うちのもんだから間違いはねえ。今は着物を普段に
着んから、春先の被き布のかわりにすればいい。最近は黄砂が酷いからな、紫外線も恐い
とかでばあさんたちはもうみんな春先は頬かむりして歩いとるぞ。絹房が古くせえってな
らなんか今風の仕上げにしてやるから」
「いやちょっと」
道理で物置にやけに草木が刈って吊してあると思った！ ここんちは草木染めのうちだ！
「だいじな時期に４日もこき使ったから、礼やちゃあ。成人式の着物は向山の方から呉服
屋に頼んでくれるって。帯は西陣に渡りを付けてやる」
あまりにも話が大ごとになってきてるから、冷や汗が出てきた。
「おじさんおれまだ高校生なんやけど」
「あたり前や！ でも５年掛けて支度したらそれは立派なもんが揃うぞ。こういうことは
急がん方が良いて」と、笑って肩をどつかれた。
「嫁取りなんて楽しいこと、この辺ではもう随分無かったからな、みんな一口乗りたくて
うずうずしとるんや。レオ、せいぜい愛想つかされんようにな」
「重ぅて、逃げるかもしれんよ……？」
ちいさくなりながらおれは上目遣いになる
「なあん、いいて！ ナンボでも作り直ししたる！ 男は何度振られても武勇伝や武勇伝！
ワシらがするようなことを重いと思わんと、受けてくれるような娘さんじゃないと困る。
こっちの気持ちを受けて、あなたとのご縁を結ばせていただきます、って時には、贈っ
た帯を締めてくれる。細いしごき帯からはじまって、帯揚げ、帯締め、半幅、どんどんしっ
かりした帯にして、結びつきを深める。ホントの結納には婚礼の時に締める袋帯」
「おじさんありがとう」
胸がいっぱいになって声が詰まった。
「涙は零すなよ？ 売りもんだからな」
「泣いとらん！」
「きれいな娘さんやなあ。やっぱイマドキの娘さんは水浅葱ぐらいが好みか？」とサック
スブルーの薄布をトレイから引き出してきた。
「いつもはモノトーンが多いけど」
「若い子はそういう色好きやなあ。オバハンになってから派手な色着てもしょうがないん
やけどなあ」
「きれいな色着て欲しい」と、男同士の本音が出る。
「なあ。まあ、広い面積を鮮やかな色着るのは難しいからな、それこそ、こういう小物に
使（つこ）てみるんやないか」と、どんどんスカーレット、ビリジアン・グリーン、イン
ディゴが重ねられる。
「でもやっぱり」
草木染めだから、そんなに凄いヴィヴィッドな色はない。どれもふんわりと霞がかった
色合いで、ものが草だから緑はないにしても黄色から茶系統が……。
「ピンク」
ふと、目にはいった色をそのまま口に出した。だって、意外で。
「おう、これは桜の木で染めたんや。面白いやろ？ 木の皮やら、髄を取って煮だしても
ピンクになるんや」
「桜も良いけど、あれはないが？」
おれはふっと思いつきを口にした。
４
ヒマになってしまったじゃないか。
イロイロ考えていたのが全部チャラになってわたしは虚脱した。躁のあとの鬱というや
つだ。だけど、まるきりなにも代案がないわけではなかった。あのバカが大物と嘆息し、
フーゴがしたたかと評する由縁だ。
家庭科部の部長は呼び出すと曖昧に笑った。一重まぶたで。インドア派なのに肌はやや
浅黒い。ちょっと、言葉に困っていると、さらに笑った。
「チャチャ、まあ、要件は解ってるつもりだから。明日空いてる？」
「ああ、まあ」
チャチャというのはこの麻美がわたしを呼ぶときの専用の呼び名だ。クラスの他の女子
はさすがに使う勇気がないらしい。
「じゃあ、うちに１０時集合で。エプロンと筆記用具持参で」
「……助かる」
ほっと、思わず息をついていた。
麻美は初等部でできたわたしの友達だ。
なんとか日常生活が送れる程度に回復し、日本語もある程度使えるようになったのでク
ラスは５年生から普通の児童と合流した。みなさんブチャラティさんに親切にしてあげま
しょうなんてホームルームがあったとかで、かえって気を遣われて最初は居心地が悪かっ
た。
まだ桜が咲いているうちに、麻美がわたしに近づいてきた。
「ブチャラティさんって長い、言いにくい」
眠そうな目の麻美はそう斬り込んできた。
「ブローノでいい」
「それも言いにくい。なんて意味？」
「茶色……？」と、髪を摘んで見せた。
「結構見たマンマ付けるんだ」
さすがにむっとして黙り込むと、
「じゃあチャチャ」と軽く言った。
「茶じゃないの？」
「それはいくら何でもイジメになるから。チャチャってヒデヨシの子供産んだお姫様だよ、
確か」
「ヒデヨシって誰？」
「……そのうちＮＨＫでドラマやると思うから見なよ。ええと、農民の子で天下を取った
サムライ」
その後ヴァラエティなんかもちゃんと見て、「茶」呼ばわりされなくて良かったとしみ
じみ感謝した。
かなりハッキリものを言う麻美は構いたいときだけわたしを構った。ふだんは昔からの
友人としゃべっていて、遠足の弁当の時とか、修学旅行の班行動とかには自然にわたしを
傍に呼んでくれた。家庭科が始まって裁縫箱が配られると、すぐにわたしの裁縫箱の裁ち
ばさみと糸切りばさみにフェルトで可愛いペリカンとハツカネズミの形のカヴァーを作っ
て掛けて、必要なときはさっさとそれを向こうを向いて見せないように代わりに使ってく
れた。おかげで最低限のボタン付けや裾のまつり縫いなどは人並みにできる。調理実習は
人員配置に目配りして、わたしに洗い物と火加減をさせるようにしてくれた。
「どうして、こんなにしてくれるの？」
わたしは不審に思って尋ねてみた。秋頃。学園の外周の桜並木は、もう紅葉していた。
花のように一色ではない。それぞれ様々な色をしている。そちらの方がわたしには好まし
い。
「死なれたらいやだから」
麻美はちょっと笑って答えた。
「死なないよ？」
わたしはほんのちょっとムキになった。ポルポが自分に強いていることの意味も解って
いた。だからって、死にたいとまでは思わない。わたしの生はわたしのものだ。
「ああ、うん。前の子は死んだから。
３年の時の転入生、離婚して東京から帰ってきたって。あたしは名門の私立に通ってた
のにどうしてこんな田舎の学校に通わなくちゃいけないのって。こっちもまだそんなニン
ゲンできてないから、じゃあ無理に声かけたりしなくていいかーって遠巻きにしてたら死ん
じゃったから」
「自殺したの？」
「殺されたの。おかあさんに。親娘して似たような性格してたみたいね。なんであたしが
こんな田舎に、とかばっかり言ってて、頭おかしくなって死ぬときに、ついでに殺していっ
たの。心中って嫌な言い方よね。子供は親の持ちもんじゃないっての。いくら寂しそうに
見えたって、他人が勝手に終わらせていいわけないって。
あんたも、おとうさんがいないのに生きててもしょうがないとか思わないでね。勝手に
死なれるとこっちの寝覚めが悪いから。新都の人間は情が厚いの。たったひとりぼっちで
新都に来た女の子が、自分たちがちゃんとお世話してあげなかったから寂しくて死んじゃっ
たなんて、思っただけで胸が潰れるんだから。ほんとよ？
こっちもまだ子供だからそういう自分の都合で適当に構うから、嫌だったら嫌って言っ
て。そしたら考えて修正するし。適当にふらふらしてなさいよ。ホントに困ったときだけ
でいいし。黙って死なないでくれれば」
「……解った」
ホント、女子小学生も大変。
女の子の買い物も、みんな付き合ってくれて、助かった。勉強は、そのうちこちらが教
えるようになったけれど、ポルポが買ってくれるデパートで売ってるよそ行きの服じゃな
く、日頃うちで着ていたり、ちょっと麻美や他の友達と公園で遊んだりするときに着る服
を買える店、可愛い文房具を探せる店、昭和の匂いのする児童文学じゃなく、今どきの小
学生女子がのめり込んで読める本、遠足のおやつに持っていくべきお菓子、みんな麻美と
その友達に教えて貰った。
結局、人間は一人でなんか生きられない。女の子はとくに。
「ちょっと手伝ってやって」
部活の助っ人をやるようになったのも麻美の紹介だった。最初は家庭科部の助っ人から。
「あんたは結構なんでもできるのよ」
そう言って背を押してくれた。ハサミは持てないけど、絵を描くのは上手、途中まで日
本の常識がないからものの見方がユニークで、面白い文章を書く、訛ってないからしゃべ
りもきれい……。さまざまに長所を引き出して、自信を持たせてくれた。
「あんたは動きに無駄がないから手伝わせるとラクなんだ」
時間丁度に訪れると、キッチンには用意が調っていた。甘い匂いがもう漂っている。
「チョコレートの作り方を教えてくれるんじゃないのか？」
「もっちー。でもこういうのはいっぱい作った方が出来上がりが安定するんだよねー」
「どれだけばらまくんだ？ 本命はないんだろ？ まだ」
「考えようによっちゃ本命より重要だよ。
理事長に高等部校長に教頭、数学αのノウザキ、βのイシダ、英語はカジモト、サイド
のミセス・イシノもついでに。グラマーのアマノも忘れずに。カワカミはちょっと様子見
かなー。現国のゴショグルマ、古文のタカハシ、漢文トオヤマ、生物コダマ、物理のクラ、
バケガクのツジ、政経アラキ、世界史キムラ、日本史はヤマモト、地理オグラ、体育はシ
ミズ、音楽ヤマシタ女史と美術タカセも忘れずに。忘れちゃいけない家庭科のサワ！ 顧
問には付け届けを忘れずに」
「職員室ほぼ全部じゃないか」
「事務方の職員さんにももれなく」
「ご苦労な」
「だからあんたが必要なのよチャチャ〜」
おおげさに言って麻美は抱きついてきた。
「解った、解った」
「そんで、ライオンちゃんはどう？ カッコイイ？ 優しい？」
てきぱき手を動かしながら、麻美は口も動かすタイプ。
「面白い」
「面白いって」
「ファニーじゃなくてインタレスティング。冗談はヘタだ」
「あ、そーゆーこと。
その麺棒でぶったたいてくれる？ うん。ジップロックに入れたまま。昔は湯煎とか大
変だったらしいけど。ママが結構勇者でね。高校生の頃、電子レンジに入れてみたら融け
た融けたって」
「それは勇者だ」
「そんで、融けたらそのまま型に注げばいいじゃんって。いやもうちょっと手は加えるけ
ど、本命用には」
「そうしてくれると助かる」
「あんまりドジっこちゃんじゃないカンジらしいけど？」
「でも空気は読まない」
「ああなるほどねえ」
「こうするとこうなるってのが時々わかんなくて、思いこみで突っ走って結果にあとで自
分でおたついてる」
別に付き合ってとも好きとも言ってないのに、合唱コンクールの時にいないだけで大騒
ぎしてくれて。
「それはカワイイかもねえ」
「うん可愛い」
心に浮かんだ気持ちを包まずにそのまま出してしまっても、心配は要らない。
「ちくしょー」と、口は言いながら麻美の顔は笑っているから。
「とっときのクーベルチュール出してあげるから。失敗すんなよ？」
「がんばる」
「いい顔」
麻美の顔もにっこりしていた。
５
迎えたその日はもう気合い十分で。
「おはよう、アバッキオくん。これ、食べて」と、クラスの女子は会うなりご機嫌な笑顔
で小さな包みを出してくる。今日は２月１４日ですよ佐々木さん！？
ほとんど口は利かないけど、クラスの女子はみんな頭に入ってる。佐々木さんはソフト
テニス部で、中等部からの内部生で明るくて結構世話好きな人。
「ええーッちょっと困るっておれ！」
慌てて周囲を伺うと、教室のそこここでは小さな包みが行ったり来たりしていた。うわ
あ、やっぱり麓の街はヴァレンタインが賑やかだ。これが求める２月１４日の姿ですおと
うさんッ。入学したときには、もう長いつきあいで気安い内部生たちがふつうに男女関係
なくキャラキャラ世間話をしていて、なんてチャラい学校だと思ったけど、こういうの憧
れてたんですぅ。自分がバカやったせいでクラスの輪からはみ出してほんとあの頃は辛かっ
た。って、チャラいつきあいはしないと突っ張っていた筈がもう流されそう。
「うん。解ってるから。でも、友チョコだし」
ああッ、これがその夢にまで見た軽い気持ちのチョコ！？
なななな流されるッ！！ 手が出そうッ！
ここは下腹に力を入れて、理性、理性ッ！
「いやそんな、あんた、おれ、そ、そうッ！ おれ、イタリアーノでクリスチャンやからッ！
宗教上の理由で本命以外からのチョコは受け取れんがやちゃッ！」
「えーッ、向山弁丸出しでナニいってんの？」
「そんなにブチャラティさんってコワイ？」
さらに吉村さんまで近寄ってきて。なんですかあんたたち。そりゃ、夏休み明けぐらい
からクラスのみんなも世間話ぐらいはしてくれるようになったけど。
「コワイッ！ いや、そんながやなくてッ、困るんやッてッ！」
「あ、来た。ねえ、ブチャラティさん、アバッキオくんにチョコ渡したら怒る？」
「はぁ？」
露骨にお猫様は顔を作った。社交用の。すんごく美人だけど目が笑ってない顔。
ああ、今日もきれいな小さな顔、元気そうで良かった。うちからここまで嫌な想いをし
ないで来られただろうか、って毎朝顔を見る度に思うことは、今日は早回しで。
「いやそんな、だって、おれはおまえに……」
うわあ、挙動不審なおれ。しっかりしろ、今日はイタリアーノとしてキメる筈だったの
に。
「別に。チョコレートぐらい貰えばいいだろ」
お猫様は、踏むなよ、ここは落とし穴だぞと教えてくれてる笑顔で。
「だってー？ はい友チョコ。これ咲ちゃんから渡してくれって言われてたやつ。そんで
これＣ組の恵から。かなり本命くさいやつ」と、佐々木さんは空気読まない。ちょっと、
あんたほんと新都の人？
「ちょ、本命は困るってッ」
「えーッ、今そんな雰囲気なわけ？ あたしもせっかくだから渡しちゃお！」と、さらに
野次馬が寄ってくる。
「いよーッアバッキオもてるなーッ」
今声を掛けたの誰だッ、ひとの気も知らないでッ！
「なんでッ！？」
絶叫してしまっていた。
「もらっとけよ。せっかくだから」
本命チョコをくれると宣言してくれているお猫様はにこにこしてそんなことを言う。つ
いつい取りすがったおれは、
「捨てるッ！ あんたから以外は全部捨てるからッ」なんて口走っていて。
「えーっ？」
「ちょっと、ひどくない？」
女子たちの声がブーイングになった。
お猫様が振り返った。
「おまえ、女の子の気持ちをなんだと思ってるんだ、バカ」
え？
やや本気で怒った様子のお猫様は、カバンから出したおリボンのついた箱でおれを思いっ
きりぶったたくと、それをゴミ箱に放り込んだ。
「ちょっとッ！」
そのままお猫様はＡ組の方へ歩き去った。
「あらーちょっとあれ本命チョコ入ってるよねきっと」
責任を感じたような佐々木さんが首をすくめて言った。
おれはすぐにゴミ箱に取り付いてその箱を回収した。箱は見事に折れ曲がっていた。引
き破って中を検める。大丈夫、割れてない！
「ごめんちょっとワルノリした」
佐々木さんは謝ってくれたが。
「ああ、そうだな」
ふて腐れることしかできなくて、ほんと自己嫌悪した。
「おーい席に着けよー。今日はいろいろ大変だろうが、大目に見てやるから職員室にも遠
慮せず持って来いよー」
いつも飄々としている担任が、輪を掛けてのんきに声を掛けて入室した。
最低な気持ちでホームルームが始まった。
「もう自由登校なのにわざわざ出てきてキミらに昼飯を食べる場所を提供しているボクに、
義理チョコぐらいはくれると思っていたボクが甘かったらしいねえ」
露伴先輩は嫌みタラタラでそれでもコーヒーを淹れてくれている。
「甘ったるいチョコレートに合うだろうと思ってとっておきのブルマンを用意したんだけ
どねえ」
「先輩はブルーマウンテン信者なんかじゃないと思ってました」
お猫様はそれを平気で切り捨てているけれども。おずおずと出した弁当箱をつんとそれ
でも受け取ってくれるから少しは安心。
「岸部先輩は豆の味がそれぞれ判るんですよねえ。さすが、違いの判る男っていいですね
え」と、慣れないお世辞を必死に繰り出して間を取り持とうとしても、
「ミソもクソも一緒な朴念仁の方がもてるって事実を知ると世を儚みたくなるがね」と、
先輩は厳しい。
「何言ってるんですか、本命の彼女が王室のショコラティエの作った限定品を貢いでくれ
るくせに。こんな前も後ろも判らない小娘から出来損ないのあやしげなものを渡されても
迷惑なだけでしょう」とばっさり。
「おお、キミは自分のことを過小評価しているよ、我がミューズ。前も後ろも判らないなん
てことはない。そりゃ、変わらずスレンダーではあるがね、立派な女性の体つきになって
きた」
岸辺露伴は人差し指の先で空中になまめかしい曲線を描いて見せた。
「先輩、またブチャラティで絵を描いてるんでしたね」
ふと気になって尋ねてみたが、返事をしたのは先輩じゃなかった。
「レオタードをちゃんとつけている。恋人ができたのに他人に肌を見せるか、バカ」
恋人って。
ああ、恋人同士なんだな、おれたちって。いやもう、年明けにはオヤジさんに挨拶に行っ
たけど。親父は面識があったみたいで、やっぱりこの子はうちの子になる巡り合わせだっ
たみたいヨなんて自分たちだけにわかる話をしていたけど。
なんともいえない温かい気持ちが胸に溢れて、こんな状況なのに耳がなんだか熱くなっ
た。
「ゴミ箱を漁ってこのわたしがおまえのために生まれて初めて作ったチョコレートを回収
してこい。あんなに苦労するものとは思わなかった。たとえ軽い気持ちでも、おまえのた
めに手作りしてくれたものを恰好付けて断ったり、あまつさえ捨てたりなんかするんじゃ
ない、この朴念仁が」
お猫様は、そっぽを向いて早口で言った。
「あ、拾った、あの後すぐに。大丈夫、箱は逝ってたけど中身は無事だった。ありがとな」
慌てて言うと、ブチャラティはちょっとホッとしたように唇を緩めた。
「ああ、バカらしい。言っておくがボクは絶対席を外したりしないからな」
岸部先輩はがちゃりとポットを鍋敷きの上においた。
「先輩は黙ってお代わりを淹れてくれればいいんです」
「あ、でももったいないから後で喰う」
「できればわたしの見ている前で。感想を聞きたいし」
「じゃあ、おまえんち行っていいか？ おれからも渡すものがあるから」
「逆チョコか？」
「簡単に言うとそうかな？ イタリアーノは自分が渡すんだって、大切なひとに」
「これは楽しみだ」
「ああ、うん、それからちょっとしたものもあるし」
「なんだ？」
なんていつものカンジに戻ってきて、それなりに手が出て撫でてやったり脚がかるく蹴ってきたりで。
「……………………出て行け」
岸辺露伴は苦い顔をして言った。
６
みんな心配してくれていたみたいで、放課後、ブチャラティがうちの教室に顔を出して、
「帰るぞ」と宣言したときには溜め息が教室を流れたのがもう耳で聞き取れた。出るとき
にはみんな小声で良かったねと手を振ってくれてた。
もう毎日雪が降ったり止んだりで、ブチャラティは自転車を諦めてバスで通っているが、
今日は川岸のサイクリングロードの方へ下りる。少し行ったところで、立ち止まって、ご
機嫌が変わらないうちに店開き。
「ええと、チョコレートはこれ。買ったもんで悪いけど、サクラあねきが神戸の方で一番
人気の店だって。
そんで、これ、御剣山の親戚が、雪かきのお礼に、好きなの持っていけって言ってくれ
たから。草木染めで」と、包みの封を自分で切って、ショールを広げて見せた。
「うわ……」
ふわりと広がった薄紅の絹に、顔が輝いた。
「こういう色は、何で染めるんだ？ そのまま赤い花を使ったりはしないんだろ？」
「あ、うん、木の皮とか。でもこれはホントに赤い花で……紅梅の木」
「紅梅、なるほど」
つい、匂いを嗅ぐ顔になった。
「匂いはしねえよ？」
「そうか、当然か……
いいな。梅ってのは尊い木なんだ」
「へ？」
なんかカワイイ、と思っていたおれはヘンな声が出た。
「松竹梅。中国伝来の価値観だ。四君子、松竹梅から松を抜いて、蘭と菊を入れる。花っ
ぽい取り合わせだから絵の題にも多い」
じゃあやっぱりブチャラティには似合いだなと感じながら、口では問い返していた。
「なんで尊いんだ？」
「春一番に咲くから。雪のある時に一番乗りする勇気がいいんだそうだ」
ゴキゲンに目を輝かせて、そういう蘊蓄を披露してくれる。つい、いつものノリでおれ
は突っ込んだ。
「雪の中って……椿の立場は？」
２人の間を、２月の風が通り抜けた。
「ああ、まあ、言ってることは正しいがな。あっちの方が体積は大きいし、目立つけどな
あれは秋から頑張って残ってるイメージだろ……空気読めよ」
お猫様は興ざめした顔になった。
「ごめんちゃ」
それでも、これはもうもらった、自分のもの、と意思表示のようにお猫様は薄紅のうす
ぎぬを、首に巻き付けた、ああ、ちゃんと結び目まで作って。
……あなたとの縁を結びます。
おじさんに言われた言葉が胸に蘇って、きゅううっとなる。
「おい、また背が伸びたろ？」
お猫様はショールから眼を離して、上目遣いにおれを見ていた。ご不満そうな顔は変わ
らない。
「ああ、１８０超えた。鴨居怖いよ」
御剣山の家では２，３度ぶつけた。おかげで屋根雪が落ちたとおばさんにころころ笑わ
れた。
「ちぇ、屈め」
「え？」
「届かない、屈めよ。キスしたいんだから」
「はいッ」
おれはすぐに腰を落とした。がくん、と首に手が回ってさらに引き下ろされる。
「貰った。おまえの真心、ちゃんと受け取った。嬉しいよ」
とても１０の時までイタリア育ちと思えない、日本の伝統にも詳しいお猫様は、この辺
の嫁取りの作法まで熟知してるんだろうか、まさかだろうか。そうじゃなくても、うっと
り爪先だって頬を寄せてくれるその姿を見たら。
もう、なんにも要らない。
ああ、黒髪にあわい紅が映える。ふんわりした絹が、さらさらの髪を包み込んで。これ
からの寒さも、埃も、みんなおれの代わりに守ってくれる。おじさんありがとう……。
「気をつけろよ？ これから脳細胞を減らすんじゃないぞ。期末は自己最高点を取るつも
りで行って貰う。来年は同じクラスになるんだからな。絶ッ対！ わたし以外の女にでれ
でれした顔さらすんじゃない」
「はいッ」
お猫様ったら、もしかしてヤキモチ？
甘いキスの前にがぶりと鼻の頭に噛みつかれた。
それからブチャラティの家に行って、お茶を煎れてもらって二人して交換したチョコを
食べて、またお互いのを食べさせあって、しょうもないはなしで盛り上がって、それから
戦利品を抱えて帰ってきた弟たちとどっちが数で勝ったとか本命は誰だとかでひとしきり
盛り上がって。
いい気持ちで帰ってきてそして。
カバンの中に放り込んだその他大勢チョコの処分に頭を抱えた。勝手に開けて入れられ
たみたいでなんか増えてるし。
次の日には、マケンゲンの練習場に待ちかまえていた女の子達が一日遅れだけどとチョ
コを浴びせてくるし。
それから、イタリアーノは一時棚上げして、日本の高校生男子として正しいヴァレンタ
インのお返しに頭を悩ませて。
いきなり百花繚乱なヴァレンタインになってしまった。
もう、あねきは笑い転げるやら同情するフリをするやら。
７
「タイトルは『堕天』。天に背いて堕ちる天使の姿を、これほどまでに官能的に描いた絵
があったろうか。皮膚のしたに息づく若々しい血液を感じさせる艶やかな背を向けている
が、そこには、なまなましい傷があり、画面下には、そこからはぎ取られた翼が見える。
ふくらみかけた乳房を押さえ、軽く背後に視線をやる堕天使の眼差しは、それを悔いては
いない。
人間と恋をしたのだろうか。
堂々とした眼差しは、しかし、決して下を向いてはいない。
誇らしげに、そして、官能を僅かにたたえた強い輝きをもった瞳が画面のうちからまっ
すぐ見るものを射るのだ。
瑞々しい肢体を傾げさせた絶妙のポージング、モデルの年齢なりの刹那の美しさを余さ
ず切り取って表現した筆遣い。目を射る肌の輝きをそのままに描き出す色づかい。
見よ、そして震撼せよ。天才はここにいる。
県下高校生合同卒業制作展示会。県美術館にて開催中」
「すっごく褒められてるぞ、見に行こう」
バカは頬を染めて新聞を、切り抜きもしないで握りしめて持ってきた。岸辺露伴に口説
き落とされて、卒業製作用にポーズを取った絵の紹介記事。
「あれは御用記者だ、新都新報は岸辺産業とつきあいが深いから。幼い頃からおだてにお
だてられてあの先輩が壊れなかったのは奇跡だ」
「いや十分天狗になってると思うけど……まあ実力はあるだろ」
溜め息を吐いて、傷付いたように声を落として聞いてくる。
「じゃあ、よすか？」
「誘っておいてなんだ」
また余計な気を回さないうちに言ってやる。ああ、この１年足らずでこのバカの扱いが
うまくなったものだ。
「なんだよ」
露骨に嬉しい顔をするからこちらも笑ってしまう。
「どんな用事でも一緒に出かけられるなら嬉しいんだぞ」と、言ってやると、また笑み崩
れる。
「ああ、おれも」
頭を掴んで、ぐりぐりと撫でられる。ああ、幸せ。弾けるように笑って、手を伸ばすと
そこに温かい手があって。
ああ、幸せ。
それで、１４日を選んだのは単に偶然かと思っていたら。
「ホワイトデー。なんか、あねきに喰われて半分ぐらいになっちまったけど」と、待ち合
わせの場所に現れるなりかわいいピンクの細いリボンを掛けた真っ白の紙ナプキンを丸く
まとめた包みを出してきた。
「イタリアーノは日本のヴァレンタインとは違うんじゃないのか？」
「でも、日本の女の子は、お返しを貰う日だから、おまえががっかりするのなんて嫌だろ」
「訳解らん、おまえの論理はいつも」
「あ、じゃあ」と、引っ込めそうになるのを飛びついて奪う。
「なんなんだよ」
わかんないのはおまえの方だ、と口の中でボソボソ言っている。構わず、包みを開くと、
「金太郎アメか？」
全部同じ模様の四角いクッキーが入っていた。白い生地はヴァニラ、黒い生地はココア
だろう。これは麻美の手伝いで作ったことがある。
「アイスボックスクッキー！ ハートのエースだ」
やっぱり髪を振り乱して叫ぶ。
「また手の込んだことを。ハートのエースって、はは」
「らぶらぶなカンジで、もう、頭ひねって」
「らぶらぶって、自分で言うな、はははッ」
辛辣に言っても大丈夫。わたしの顔は笑っているから。
「だってッ、ほんとおれ嬉しかったからッ」
「うん、わたしも」
貰ったショールは、肩に巻いている。軽くてかさばらなくて、使い勝手がいい。レオー
ネも気がついて、随分緩んだ嬉しそうな顔になった。
見つめ合って、もうあとはなんにも要らなかったんだけど。
「行こう、絵、見に行かないと」
要らない理性はいつもレオーネの方が持っている。
今度の絵は見るなり叫ぶほどのきわどさはなかったから。
「きれいに描いて貰ったな」
しばらく黙って見ていて、レオーネはそう感想を言った。
「うん」
「先輩は天才だけど」
「だけど？」
「実物の方がずっときれいだ」
「ばか」
そのまま二人してじっと絵を見ていた。
大丈夫、手の中に想いは貰っている。大切な、大切な気持ちを、かたちにして。
ここは自分のいていい場所。自分のことを大切にしてくれる、大好きな人の隣。想いは
後から後から溢れてきて、言葉が追いつかない。
だから、この宇宙のどんななじみのない場所のものであっても、どんな些細な仕草であっ
ても、恋人に想いを示す行事が、術があったら、それをせずにはいられない。
大好きをかたちに。
それは本当に刹那のものかも知れないから。
２２−０２−１１
蛇足。
それで一生一度のモテ期に突入したレオーネ君はホワイトデーの義理チョコ返しのクッ
キーも照れ照れと焼いたんですかねえ。こっちはハート以外のを。
でも２月１４日の朝っぱらからあんな痴話喧嘩をやったらとりあえずクラス全員には尻
に敷かれてることがばれたと思う。……ガンバレ。
タラタラ書いてたら、クリスマスプレゼントを「鶴の恩返し」していたブチャラティが
煮詰まってケーキのムチャ食いする話が飛んだ。ええと、そういうわけで、「秋のガス抜
き」の話をやってから次の春になります。
女の子が一人で社会生活するのはやっぱ無理ということで、サンドラさん高校ヴァージョン
に出張。ええと、あとグリマルディーニさんとタルティーニが来るかなあ。かえって混部
にはならないまいねヴェルトでした（露伴は特別！）
「三木式電探」って、実際の所は東北帝国大学の八木博士考案の「八木アンテナ」がモデ
ルの架空の発明品です。テストには出ませんよー！ 「八木アンテナ」は日本軍以外はみん
な採用して、レーダーが改良され、おかげでアメリカの爆弾は良く当たったそうです。ホン
ト、旧日本軍はだめよねー。
お代わり！
冗談じゃねえッ 帰る