涙の降誕節
その朝（７９）
１
その頃のかれといえば、ネアポリスで一番信心深くなっていた。もっとも、この国の人
間、いや、キリスト教国の人間が一年で一番信心深くなる頃でもあったが、この秋地獄の
淵を覗いている最中に薔薇色の網に掬い上げられて天国直行、この世の春を謳歌している
身としては、一日に２回でも３回でも神に感謝せずにはおれないのだった。
この日も、警察に奉職していたときからのなじみの聖モニカ教会でたっぷり感謝の祈り
を捧げたところで礼拝堂を出ると、街はもうすっかり暮れていた。
……いけねえ。
聖誕祭は元来が冬至の行事だ。主、イェズス・キリストの誕生の記念の宗教行事は、各
地のさまざまな冬至の祭と結びついて定着した。聖誕祭に向かうカレンダー最後の一枚の
月は、北半球の高緯度国、つまり大多数のキリスト教国では昼がどんどん短くなることに
なる。
喰うのがやっとだった日々から脱却し切れていないチームの状況を見かねて賄い役を買っ
て出た男は、愛する女性と、その子分の少年達に今日も温かい栄養豊富な食事を提供する
ためにアジトへと舞い戻った。
インクを流したような闇に街は沈み、のし掛かるような冷気と穏やかな雨がさらに人々
を建物に追い込んでいた。アバッキオはもう窓を見ない。コンロの上に配置した鍋の中身
の出来具合を順に検分して、火を調節したり、次に加えるべき食材を目配りしている。チェー
ナの気配にチームの一同はうきうきとホールに集まってきて、テーブルの上を片付けたり、
カトラリーを準備したりと手伝いまではじめている。
……身体を動かしている間はいい。
自分の居場所ができた。近所の主婦連中の気遣いのおかげだが、なんとか毎日昼と夜に
仲間にまともなものを食べさせることができるようになった。まだまだ気の荒いところも
ある少年達が、自分の作ったものを顔を輝かせて食べてくれるときの達成感は、一度空っ
ぽになってしまった自分にどれだけ元気と自信を与えてくれたことか。さっぱりしたとこ
ろのある恋人が、自分は料理ができなくて、とすまながりながら、こんなにできのいい男
を拾うことができるなんて自分は運が良い、とまじめな顔で言うのもくすぐったい。
ガスとはいえ実体のある炎と、豊かな湯気、さまざまな食材のそれぞれいい匂いに包ま
れていると、ひととき幸せなような気持ちが胸に広がる。
台所というのは魔法の場所かもしれない。
この日も一通りの夕食を提供して、それが歓声と共に食卓に運ばれていくのを見送って、
アバッキオは不思議な感慨を覚えていた。
２
夕食のあとは少年達が交替で片付けを手伝ってくれて。夜も更けると仲良しの２人は連
れだって帰って行く。仕事に追いまくられる恋人も、だいたい１０時前には仕事をかたづ
けるようになって。
２人は一緒に帰る。当初は、ブチャラティの部屋に２人で帰り、そのままベッドを共に
していた。そのうち、部屋の手配ができたと言って、通り２つ隔てた先にアバッキオは部
屋を借りて貰えた。ブチャラティをフラットに送って、自分の部屋へ帰って。それからま
た軽く身支度してブチャラティの部屋を訪れる。それは、けじめとしてアバッキオ本人も
必要なことと思っているのだが。
街の連中も、この石頭の考えることは飲み込んできて、花屋やケーキ屋、果物屋が店を
仕舞いがてら彼を呼び止めて、残り物だけれど、と、金を持たない彼に恋人に貢ぐ品を用
意してくれている。大丈夫、いつもブチャラティには良くして貰っているから、お代は要
らないよ、そう言って、笑って送り出してくれる。
……ブチャラティに優しくしてやっておくれ。
……ブチャラティのこと、よろしくね。
皆々、最後にはこう言って、手を振るのだ。
なるほど、この下町をしめるギャングのリーダーだけのことはある。
アバッキオは、恋人の偉大さを噛みしめている。
毎日の食料の買い出しも、フーゴが週ごとに予算を決めて支給してくれるし、足りなそ
うな時には店の方で気を利かせて、あとでフーゴに勘定を回すから、と言ってくれる。細々
した自分の日用品を揃えるにも、前もってブチャラティが話を通してくれているらしく、
金を請求されたことがない。
これでいいのだろうかという疑念が、かれの頭の中で形を取り始めていた。
３
この道を、真っ直ぐ行って、左に折れる。そこは突き当たりになるから、道なりに行っ
て、また角が来たら折れる。それで恋人のフラットには行き着けるのだが。
それでいい。ブチャラティも、最短距離をただまっすぐ歩いたりはしない。前後に気を
配って。行き先を、ひとにあからさまに知られたりはしない。だから、今日はこの角を右
に折れても良かったのだけれど。袋小路のここに、足を踏み入れても間違いではないのだ
けれど。
アバッキオは、ふと、ある酒場の入り口に佇んでいた。
こんなところに来て、どうする。もう、金はない。勘定をブチャラティに付けるなどと
いう真似をして、気分を害されたりはしないだろうか。あのやさしい恋人は、おまえもた
まには外で飲みたい気分だったんだな、そう笑って、気分良く払ってくれるだろうとは思
う。しかし、彼女を崇拝する街の連中が、そういう思い上がったことをしはじめた彼女の
思い人を、生意気だと言ってリンチに掛けたりするのではないか。
街の連中のリンチが怖いなどといったやわな鍛え方をしているわけではないのだが。
表面好意的な街の連中の機嫌を損ねるのが怖いのだ。
もとは街の嫌われ者の警官だ。おまけに、賄賂を取って、悪を見逃してもきた。せめて
仲間に対しては忠実であればひととしての面目は保てたのに、恩のある先輩を盾に生き残っ
て。
温かな配慮を受けられる身のわけがないのだった。
この秋の地獄の堂々巡り、思考がまたそこへ戻ってきて、アバッキオはひとり、背中を
震わせた。
４
「でかい図体で店の入り口塞がねえでくれよ」
その背をばんッと叩いて、からっとした笑いがかれの耳に響いた。
「レオーネ……アバッキオだったな？ 遠慮すんな、この街のちょっとした店はだいたい
はおれのうちがやってる。フロラのいいひとから金を取ろうなんて思っちゃいないから。
皆さん、やってますか！？ ちょっとその辺開けてやって下さい、色男が、いいひとの
ところへ顔を出すのにちょっと景気づけをするらしいんで」
「若社長！ やらせて貰ってるぜ」
「ラウル、もう社長っぷりが板についてきたな」
「親父さんは元気かい？」
すぐさま街の衆から声が上がる。この街でいくつも酒場を経営している会社の、若い２
代目。父親は早早に隠居を決め込んで、まだ１年大学が残っているこのラウルに経営を任
せはじめたところ。組織に拾われて、この辺の地元中学に行ったり行かなかったりしてい
た頃からのブチャラティの知り合いだ。
「おかげさまで。さあ、アルベルトさん、アバッキオになにか出してやって下さい。おれ
はちょっとこの先の店にも顔出さないといけないんで。
みなさんどうぞ楽しくやって下さい！ いい夜を！」
忙しい社長はアバッキオを真ん中に押し出すと、すぐさま出て行ってしまった。
「アバッキオ、おお、こっちへ来いよ、ご苦労さんだったな」
「ローマへもついてったんだってな？ 聞いたことによると、ブチャラティは来年昇格す
るってのはほんとなのかい？」
「うちのかかあが言ってたが、あんたその格好で市場へも出入りして、ブチャラティや小
僧どもにめしをつくってやってるってのはまさかウソだよな？」
「いえ、あの……」
この秋以降の街の有名人は、質問攻めにあってしまった。
５
物見高い連中の質問にアバッキオが律儀に答えたり大汗をかいて守秘義務を行使したり
していると、ふと小柄な親爺がもの問いたげにしているのと目があった。
「あんたは……？」
「ああ、フィオーレ通りで洋品店をやってるもんだがね、どうかな、ブチャラティは今年
はスーツを買ったりしないかね？」
おずおずと問いかける。
「スーツ……は、スカルラッティさんの所で誂えてるんじゃないのか？」
スカルラッティはブチャラティの若い頃からの御用達の腕のいい仕立屋だ。アバッキオ
のいつものコートジャケットはフーゴご推薦の気合いの入った店で買った既製服だが、ロー
マ出張のときのスーツは大至急仕立ててくれた。
「ああ、うん、仕事の服はそりゃスカルラッティのところだがね、ナターレの服はそうじゃ
ないのさ」
気弱そうに、親爺は声を低くした。
「ナターレの服、は、そうだな、仕事の服じゃないな」
どきりとして、アバッキオは言葉を切りつつ応えた。
かたぎのものなら家族皆で迎えるナターレ！ 今年のナターレはどうするのだろう？
家族同様のブチャラティの「チーム」の皆は、やはり皆でミサに行ったり、プレゼント
を交換したりするのだろうか？ そして、普通の一家がミサの時の服を新調するように、
ブチャラティもナターレにはいい服を買ったりするのだろうか。
「あァ、ブチャラティはオフクロさんに会いに行くからな」
脇から、さっきから楽しげに二人の仲を根掘り葉掘りしていた中年男が肯いて見せた。
「オフクロさんだと？」
意外なことを聴いた気がして、アバッキオは顔を上げた。
「あんまりおおっぴらにしちゃあいないが、ブチャラティのオフクロさんは、あいつが子
供の頃に離婚して家を出たんだそうだ。その時の約束で、年に一度、ナターレの夜にだけ
は、ローマで落ち合って一緒に食事をすることになってる。……向こうは、まさかギャン
グになってるとも思ってないだろうから、ブチャラティはオフクロさんを騙すために毎年
苦しい嘘をついているのさ」
「そう、か……」
そんなことも、知らずに。
アバッキオは心の中に沸き起こる気持ちを言葉にすることができずに、ただ奔流のよう
な感情の動きを抑えこんでいた。
「それで、女学生っぽい服をその辺で見繕って着ていくんだけど、今年はうちの店の当番
で。……あんたの好みだとどんな感じかね？ やっぱりスカートは短い方がいいんじゃな
いかと思うんだが、ブチャラティはその辺が保守的というかで、艦長……まえのリーダー
のしつけだと思うんだが、今時の女の子なら膝上ぐらいでもいいんじゃないかと家内は勧
めるんだが、どうも首を振ってくれなくて……あんたからも勧めてくれないか？ 絶対もっ
と脚は出した方がいいと思うんだよ」
くどくど話す洋品店のあるじの話は、もうかれの耳には入っていない。
キャリアが長いとは聞いていた。それは、のっぴきならない事情でこの世界に足を踏み
入れたのだと思う。根はまじめで、心の優しい女だ。しかし、それだけの事情を、まだ聞
いていなかった。自分の方の事情は、洗いざらい話して、懺悔して、受け止めて貰ってい
るというのに。
自分を受け止めて貰っていた。もう、どこへも行かなくていいのだと、この女のもとで
生きるのだと思っていたのに。ナターレもヴァカンスも、ヴァレンティヌスも復活祭も、
全てこの女と迎えるのだと。そう思っていたのに。
ごく普通の仕事を持つ女のように、ナターレは家族と過ごすなんて。
自分は、あの家にもう戻れないのに。
ブチャラティが、自分を放り出した。あのフロラが、自分以外とナターレを過ごすこと
を考えていたなんて！
そう気付いてしまったことに、アバッキオは愕然とした。そこまで、ブチャラティに心
を委ねてしまっていたことに、そして、そのブチャラティに隔てを置かれて、放り出され
たという事実にまた立ち戻って、身を竦ませた。
「……ッ！ アバッキオ、おめえ……」
ネアポリスの下町で一番幸せな筈の男の頬を、涙がつたっていた。
「おれは、……帰る家がない」
ただ、その事実だけを、アバッキオは口にしていた。
「おい……」
賑やかだった店が、いつしか、しんと静まりかえっていた。
６
「なんだ、今日は静かだな。どうした、盛り上がってくださいよ、おい、アルベルトさん、
おれの奢りだ、皆さんに一杯ずつシャンパンを振る舞って差し上げて！」
明るい声が沈黙を破った。気のいいオーナーが、様子を見に戻ってきたのだった。ぎこ
ちなく、店主が指図してウェイターどもがオーナーの意向に従う。気分直しのシャンパン
が次々に供せられ、酒場の雰囲気が少し回復を見せる。
「おお、これはこれは、今年最高に幸運なお兄さん。そうだ、一発殴らせてくださいよ、
な、街の連中代表ってことで」
「え？」
不意打ちを食らって、アバッキオは床に這った。
……フロラはみんなが狙ってて、手を出せなかったんだ。アバッキオ、おれたちをガッ
カリさせるなよ？ 女神を手に入れたんだ、しゃんとしろ、情けない顔見せんな……今の
は明日中にはシマの男衆には知れ渡ってると思えよ？
小声で耳元に囁くと、ラウルはアバッキオをなんとか引き上げて立たせた。
「ひでえ顔。ハハッ、少しは意趣返しになったかな？ どうです、皆の衆？」
「社長、しらねーぞ、明日ブチャラティに倍返しにされても」
引きつった声が上がった。
「大丈夫、フロラとおれの仲だ」
笑って、手を挙げてみせる。
「よくやった！ そうだ、アバッキオ、ブチャラティを泣かせんなよ！」
「オレたちが見てるんだからな！」
「しっかりやれよ！」
口々に、荒っぽい祝福が浴びせられた」
７
「……これを」
濡れタオルが差し出され、頬を冷やすという名目でアバッキオの頬が拭われた。
「おまえは、あの女に拾われたときに選んだはずだ。ギャングの女の、世話になる人生を。
ネアポリスの裏の女神の想いものになることを。誰もが憧れて、誰もが尻込みする立場
を。いっときいっときが黄金のような、最低で最高の人生を。こんなとこで潮垂れて時間
を無駄にするんじゃねえ」
お坊ちゃん育ちの若社長は、苦労を知らない顔をアバッキオの鼻先に近づけて、小声で
凄んだ。
「あ、ああ」
アバッキオは、その言葉を深く吟味する余裕はなくて、ただ立ち上がった。無理矢理に
胸を張る。
「そうだ。行けよ、女（フロラ）を待たすな」
「おう」
アバッキオは肩をそびやかして店を出た。
今年のナターレは、放り出されることだろう。しかし、新年は、離さない。これから、
愛を確かめる行事は立て続けにある。その機会は、逃さない。自分を受け止めてくれた女
を、確実にものにする。あの女（ひと）を愛している。それは、ローマに出張したときに、
心に決めたことではなかったか。
おれは、やるぜ。
昂然と胸を張って、アバッキオは愛しい女の部屋へと足を進めていた。
もう、彼は迷わない。
見上げたフラットの部屋には、温かい灯りが点っていた。
ノックの音に、ドアはすぐさま開けられた。
「遅かったな。……今夜はもう来ないんじゃないかと思い始めていたところだ」
息を乱して。表情に乏しい顔に、精一杯の安堵の笑みを浮かべて、ブチャラティは両手
を広げて迎え入れてくれた。
「そんなこと、あるわけねえよ」
アバッキオは、余裕をもって笑ってみせる。
「その、言わなきゃならないことがあったんだ。……こんな仕事をしていてなんだと思う
だろうが、わたしはナターレの晩はこの街にいられない事情がある……」
済まなそうに首をすくめながら、かれの大切な女性は恋人として最大級に不誠実な予定
の申告をした……。
「解った。あんたの家族の事情を優先すればいいよ」
心の準備のできていたアバッキオは、余裕をもってそれを受け止めて見せた。
「済まない、ほんとに済まない、ナランチャとフーゴは近くの孤児院に混ぜて貰っていたん
だが、今年はおまえと一緒に過ごすように言っておくから。どうしようかと思っていたん
だが、今年はほんといろいろ忙しくて母さんにも連絡がとれなくてこんなに押し迫ってし
まって、来年は何とかするから。帰ってきたらこの埋め合わせはするし」
「解ったよ」
腕に取りすがっての必死の口説に頬を緩めて、アバッキオはふと温かい気持ちに胸を浸
されていた。
２２−１２−１２
蛇足。
最後の最後の大ネタ。「ナターレの前にアバッキオが酒場でうちに帰れないと言って男
泣きしていた」ネタの回収。どうしようかと思いましたがなんとかなった……？
ネタ切れで久々のブチャアバですが、やっぱりアバッキオは好きです。ヘタレ格好いい
ところが。心に大きく正しいものを抱いていて、それを実現させようとあがいているのに
うまく行かなくて傷付いてわたわたしてるところが人間的で非常にいいと思います。だか
ら相思相愛の女房に尻に敷かれたり、若社長に心からの愛を捧げられたりというシヤワセ
な未来を用意してあげてるつもりなのですが……おかあさんそれ幸せちゃう。
それでは皆さんも大切な人と（できれば）ご一緒に。よいお年をお迎えください。