ジャポニズム
東海道新庄宿ニテ若衆火消ノ始マリタル事
序
「比たむき」などという、およそ江戸の粋から外れた泥臭い屋号は、これは初代の店主が
田舎もので、色里において高度な疑似恋愛の駆け引きを楽しむということを理解せず、た
だ客にひたむきに誠を尽くすようにと配下の遊女どもに言い含めたことによる。その泥臭
い店の雰囲気は代を経ても変ることがなく、最上級の遊女が客に心まで許して相対死にし
たりしそこなったりは年中行事、そこまでいかなくても、行く当てのない女の子を次々禿
にして、居室が寺子屋のようになっている遊女がいたり、実の父に手込めにされ掛かった
のを店主が無理矢理に貰い受けて、ただいまは新造としてただ客の話し相手をさせていた
り。「比たむき」の遊女はたれもかれも情が深いと、日本橋を発すること数里の東海道新
庄宿において旅人達に愛され、その店は目立たぬように賑わっていた。
と、それは女を扱う店の話。
新庄宿の岡場所の外れ、本道があれば裏街道があるように、男が体を売る店も、確かに
存在していた。前髪立ちの年頃から、ぎりぎり若衆と言えるかぞえ２０辺りの男を揃えた
店、陰間茶屋である。その店も、「比たむき」本店同様、情の厚い店主の周りに訳ありの
若い連中が吹き寄せられ、町の名物となっていた。
壱
「おい！ おいってば！ おい、聞こえてんだろこの西郎！ 色男！ オメエのことだよ、
アバッキオ！」
懐手に横丁から現われた男は名を呼ばれて初めて眼を上げた。もうはや白に近い色の髪
を無造作に垂らして、額の上には形だけの紫縮緬の野郎帽子。胸元をくつろげきった着流
しの黒無地の背には銀糸で唐獅子の縫い取りという地味派手な装い。男も女も魂を飛ばし
て仰ぎ見るしかできない美貌を、ただ無駄に俯けて地面を、それを透かして地獄のみを見
つめていつも歩いている。
唐土（もろこし）の美女が、ただただ自らの不運のみを思い悩んで美しい顔をしかめ、
胸を押さえて日々を過ごし、それすらも艶な趣であったという伝説を地でいっている、と
いうので、西子（施）ならぬ西郎とあだ名されたというのは店の方で言い立てる煽りであ
ろうとこの男などは思っているのだが。それにそうと知って乗ってやるのは、この男、ミ
スタが面白いものが無責任に好きだからだ。
……まったく面（つら）がいいってなぁお得だよなァ。
心中吐き捨てるこの男とて、新庄宿「比たむき」美男五人衆のうちには余裕で入ってい
るのだが。
「若旦那の覚えがめでたいからっていっつもふらふら出歩きやがって！
仕事だぜ、ご隠居が来てなさるんだ。今『お稚児』が繋いでるからさっさと支度しやが
れ」
「フーゴ（あいつ）のことをそういうふうに言うのは止せ」
初めて、アバッキオは低い声でたしなめた。
……へえ。口利いたと思ったら。
仲間を庇いやがった。
ミスタは口笛を吹くかたちに口を作っていた。
そこで忘れてしまわずに口笛を合図の節回しで吹くと、聞きつけたナランチャが走り寄っ
てきた。
「アバッキオめっかったか？ しょーがねーなホント、フーゴに厄介かけんなよ」
橙色の手ぬぐいで、まだまだ髷を結うには足りない髪をなんとかまとめ上げているナラン
チャは、これは寺を抜け出して還俗したためだ。弟分のフーゴと一緒に住職ともめ事を起
こして、寺を出て代官所に駆け込んだ。噂に聞いて頭の良すぎる稚児と元気の良すぎる小
坊主を面白く思っていた隠居の口利きで、「比たむき」の裏の方に引きとられた。目の大
きな愛くるしい顔立ちにいつも腹掛けに股引きといった身軽な格好で、お人好しの店主の
目こぼしで、客は取らずにただ使い走りだけして町の衆の目と心の慰みになっている。
「裏の店」。
「比たむき」の陰間の方の茶屋のことである。番頭は茫洋としたところのあるまだ若い男
で、女としても十分通用する美貌もさることながら、なんとも人を引き寄せる不思議な魅
力といざというときの肝の据わった問題解決能力とで表の店主に見込まれて店を任されて
いる。名をブチャラティという。
「なあ、なあアバッキオどこ行ってたんだよ？ 勝手に出歩くと怒られるんだぜ？ 『若
旦那』ああ見えていつも心配してるぜ？」
ナランチャが子犬のようにまとわりついて、アバッキオから今までどこにいたのか聞き
出そうとする。無邪気に単刀直入なのと、答えが得られるまで粘り強いのとで、これでな
かなか情報集めが巧い。ふつうの者なら根負けして答えてしまうのだが……。
「ああ、……ちょっとな。
これ、食べてくれ」
アバッキオは顔を背けると、懐から竹皮に包んだちょっとした餅菓子を出して、ナラン
チャに与えた。
「くれんのか？ ありがとーっ！」
ナランチャはすぐさま手を出して、懐柔されてしまった。
「あ、コラ、食い物に釣られて仕事を忘れるんじゃねーよ。
ちょっと兄さん、そんなんでごまかしてんじゃねーよ……参ったな。
そーゆーもんの出るところ行ったワケね？ ……ちょっと金もった後家さんか？ かた
ぎの娘さん誑（たら）してるんじゃねえだろうな？ 怒られるぜそりゃ。
解ってるんだろうな？ あんたは若旦那に拾われた裏の店の……」
ミスタは油断無く、ナランチャに代わって追求を続けようとした。
「解ってる！」
一瞬、獅子が気を吐いた、と２人は見た。ほとんど白い髪が、獅子のたてがみのように
怒気に従って広がった。
「解ってるさ。店を通さず勝手なことはしねえよ」
感情を一瞬のうちにちいさく畳んでどこかに押し込めてしまった色男は、ぼそぼそと言
い訳して背を向けた。
２人がかりで昼間からアバッキオを町中探し回ると言うことは、店で客が待っていると
いうこと。
仕事は我がままを言わずにこなす男だった。
……どーよ？
……口割らねえな。
続いて歩きながら、２人は小声に話し合った。
……ミスタの見立ては？
……白、だな。
……じゃーどういうことよ？
……おれが知るかよ。
女、じゃ、ねえ。移り香もしてねえしな。だが、なんかはやってきた。おまえに手
みやげ持ってくるからには、どっかに入ってナニかしてたのは確かなんよ。それがどこか
わからんことにゃー。
ナランチャ、どこの餅だったか判るか？
……えーっ、わかんね。
……そーだよなあ。
……フーゴに喰わせれば？ フーゴなら、この宿のちょっとした菓子屋の菓子はみんな
喰ったことあるだろうし。わかるんじゃね？
……あらまー、お稚児ちゃん使えること。
……口おごってるんだよな。なんつっても生まれは上方だし。お公家さんだし。
……あ、そーね、なにかっちゃひとのこと東戎（あずまえびす）呼ばわりするもんな。
……なー、アズマエビスってナニ？
……えーと……田舎もんってことかね？
……そっかー。
とりあえず箱根の関よりは西の生まれの２人は、理不尽と反論する智恵もなく頭を垂れ
た。
弐
その頃、表の店の座敷に呼ばれ、店の主人に膝詰めで問いただされているのはブチャラ
ティだった。女に見まごう白い顔を、ただひたと相手に向けて無表情に話を聞いている。
静かな面（おもて）には感情が上ることはあまりなく、もしかしておそろしく鈍いので
は、と周囲のものは……月に１度ぐらいはおぼつかない気持ちにさせられる。それでいて
本当に鈍いわけではない。太閤秀吉の心を捉えた小坊主が、茶を所望する貴人に対し温度
と量を変えて３度茶を供したような大袈裟なことはまさか、しない。が、遠くを見ている
ような目で、黙って心配りをし、催促する客に待てとも支度中とも言わず、焦れさせてお
いて、ちょうどそれが極まった頃に、適温適量の茶を出すくらいには気が利いている。そ
れもまた、なんの感情も浮かばせていない顔でやってのけるので、相手を負けた気にさせ
てしまう。
ブチャラティが旦那のポルポに気に入られたのは、そういう理由であった。
「結論から言うと、例の件は、うちの宿では難しいかもしれませんね」
この日も、したたか沈黙しておいて、口を切るなりそんなことを言う。
「３月（みつき）も江戸へ行ったままでいて、やっと戻ってきてもそんな報告しか寄越さん
からわたしが直々に尋ねようということになったのだが」
懐手に、ポルポはあきれ顔だ。
「相済みません。フーゴの報告では足りませんでしたか」
この春、内々の指示を受けて、ブチャラティはフーゴを伴って江戸に出た。しばらくは
２人で調べ物をして、拾いものをしたブチャラティを残してフーゴが先に新庄へ戻った。
京の名の知れた寺院の稚児あがりの美少年は、恩人の上役から報告の仕事を押しつけら
れて、無駄に張り切って美文をものしたらしい。
「紙の無駄だ。理屈ばかりこねおって、いつまでも結論にたどり着かん」
「頭がよすぎるとそうなるそうですよ」
「この商売は頭のわるい連中を相手のものだということは解っておると思ったがな」
「恐れ入ります」
かたちだけ頭を下げてみせて、この町を裏から牛耳る男の腹心は、語り起こした。
「八代様以降江戸市中は町火消しの制が整えられて火事への対処は行き届いています。火
消しは鳶のものや大工が請け負って、その人気は役者や相撲取りにも匹敵します。ふだん
は手前の仕事をやっておって、ことが起こった時に水桶や水を掛ける大きな水鉄砲……竜
なんとか水っていいましたかね、あとでフーゴに出させます。そういうのを持ち出して、
町の衆を指図して消火に当たるんです。
凄いのは、火の勢いが強すぎて手がつけられなくなってから。
燃えるものを先まわりして無くしてしまうんです。町の、ここから、ここまでは燃やし
てしまうと決めて、あとはたたき壊して片づけてしまう……火除け地にするんですな。火
の手が迫った頃にはそう……土塀のかけらとかだけになってるんで、もうそこで火は止まっ
て、燃えるものがなくなれば自然に消える、そういう理屈です」
「ほう」
そのようなことは、書いてあったかも知れない。余りにも、回りくどく詳細に過ぎたの
で、読むのがいやになったのだ。
「奴らはそれが仕事ですから、たたき壊すのは巧いです。どこをどう突けば筋が外れるか
が解ってる。やんちゃな質ですから、ぶっ壊すのも威勢よく楽しそうにやる。立ち回りが
派手になって、見物人も盛り上がるって話でした。
実際、逗留の間１，２度はぼやを見ましたが、もう、盛り上がること盛り上がること、
揃いの半纏に股引姿はキまっていて、こちらが見ていても惚れ惚れしましたね」
「そうか」
「一番人気はやはり纏持ちでしょうね。これは、これといって何をやるってワケでもないん
ですが、キラキラしたその組ごとの纏を持ってましてね、一番燃えてるだいじな消し口っ
てやつの目印になるんです。火の粉が舞い、恐ろしい熱気の中を、組のみなの目当てとし
て、纏を振るって意気を見せ続けるんです。見せてもらいましたがそりゃあ体中やけどだ
らけでしたよ。その分、もてもてで、吉原に行けば太夫が席を避けて是非にと上座に坐る
らせてくれ、町で飲み食いしても勘定がいらないらしいですな」
「ふうむ」
「と、こんな町火消しを、うちのような宿場に置くのはちょっと難しいと思うんですがね」
「かといって、番所の方のお指図だ、できませんじゃ済まんのだよ」
「うちの宿は江戸ほど大工も鳶のものもいませんしねぇ」
「番所のほうも人手が足りん、いや、それより金がないらしい。町方でなんとかせいとの
仰せだ。新しくお入りになった代官様がまっさきに申しつけられたとかで、お役人たちも
持てあましておる」
「困ったことです」
「それをなんとかするのがおまえの智恵だろう」
「買いかぶられては困ります」
ブチャラティは首を振って見せた。
「わたしはただの色子あがりの見習い。まだ客を取っていてもおかしくない若輩ものです」
「ぬけぬけと言いおる」
ポルポは茶をすすった。ふと、このお気に入りの素性に思いを巡らせる。
阿片の抜け荷の現場をみてしまった漁師が、この宿のやくざものに口封じに殺された。
それを知った息子のブチャラティは、番所に届け出ると同時に、そのやくざものの親分
筋と敵対する組と繋ぎを取って、自分の身をうまく隠してしまった。数えで１０の小僧が。
組から処置を任されたポルポはその少女のような顔立ちを見込んで、しばらくは身元を隠
すためにと両建てで禿（かむろ）の真似事をさせた。隠せるような色でも才でもなかった
らしく、そのうち男でも良いからと言う注文が重なって色を売るようになった。そのまま
陰間としても十分売れっ子でいけたのを、その度胸、機転、目配り、どれを取っても年か
さの手代連中に負けないのを見込んで、店を任せた。将来は後継者と心づもりもしている。
参
「わたしは野暮を言いたい訳じゃあないんだが、道楽でやってるわけでもないんでね。
……おまえに任せている裏の店は、その、どうなんだ？」
ポルポが上目遣いになった。
「なんとか回っていると思いますが」
また、答えは端的だ。
「こう、もう少し具体的に。
あの稚児……フーゴは物になっているのかな？」
「武蔵野の果てまで流れ、東戎に肌を許すくらいなら食を断って死ぬと言ってますね」
「……やはりか。まあしょうがない。あれは遠州屋さんからお預かりしているから、滅多
なこともさせられないし」
「帳簿付けの手伝いやら連歌の会の数あわせ、碁の相手ぐらいなら立派にこなしています
よ。将棋は寺ではやらないようですね、苦手のようです」
「年を考えればそんなものか……東海道沿いの名刹じゃあ伝説の稚児だったそうだが。あ
れと一緒に引きとった阿蘭茶とかいうのは？」
「ナランチャですね。下働きとしては役に立ってくれてます。ちょっと道草が多いですが。
本人は別に客を取ってもいいと言ってますが、フーゴが目を光らせていて、そんなこと
をさせたら２人ながら岬から身を投げてやると言って」
旦那は溜め息をついて手を振ってやめさせた。
「ミスタはどうだ？」
「お指図通り、自在の短筒を持たせています。あれに憑いたキツネどもも懐いているよう
で、狙わせたら百発百中外しませんが……」
「まあ、短筒なんぞ撃つ機会はそうそうないからな」と、旦那は引き取って言った。
……普段は役立たずということは前２人とどっこいどっこい。
「年がいってますから男の客もつかないですね。ただ、後家衆の相手は進んでやってます
よ。口がうまいから人気はあります」
「だが、若い娘はその倍たらし込んどるな。うちに苦情が来とる」
しばらく２人は黙り込んだ。
中秋の風が、開けはなった障子から吹き込んできた。
「それで、この前拾ったあの男はどうなんだ？ ……もう半年になるぞ」
「アバッキオですか」
さきの、火消しをこの宿に置くという件の下調べで江戸の知り合いの所へやったらひと
り拾って帰ってきた。腹を切り損なった御家人で、なんといっても役者も逃げる男前だっ
たので、１も２もなく養生させて、逗留先の店に任せもせず新庄宿まで連れ帰っている。
「あの面構えだ、わたしの方にもいろいろ引き合いが来ておる。が、……おまえが客を取
らせないという話も入ってくるのだが」
「女の相手はできません」
黒髪を顎のところで切りそろえた若い番頭は言い切った。
「できぬとは」
「表の太夫たちに頼んで、もう入れ替わり立ち替わり手管を尽くしてみたのですが、その
……たたぬそうで。
腹を切っておりますから、おそらくは」
「死に損なったんだったな……厄介な拾い物をしたもんだ」
「まったく」
涼しい顔で言ってのける。
「わたしの相手はさせておりますから、当分はそちらで」
「おまえの情人を店の金で飼っているというわけか？」
「身銭を切ってますけれど」
「当然だ！」
大きな声を上げてしまって、恰幅のよい主人は決まり悪げに腕組みをして首を肩に埋めた。
「なんでしたらまたわたしが客を取るようにしますし」
すまなそうな心持ちは、しかし顔には少しも表わさず、まっすぐ曇りのない目をひたと
据えて、ブチャラティは言ってのけた。
「ばかを言うんじゃないよ」
無意識に右のたばこ盆に手をやって、一服つけて間を取って、主人はなんとか言葉をひ
ねり出した。たしかにこの男は店を任されるまではその裏の店で一番の人気だった。一番
ひいきにしたのは他ならぬこの主人、ポルポでもある。
「まあ、様子を見よう。今はそんなに陰間買いは流行ってもいない。一応は店を構えてお
いて、ふだんはふつうに色里の男衆のするようなことをさせてもいい」
「きれいな男を飼っておくのも店の格と」
「比たむき」美男５人衆というのも苦し紛れの虚しい宣伝だ。しかし、このブチャラティ
も加えて５人で、似姿の錦絵やら名入り手ぬぐいやらを相当数売り上げている。ナランチャ
が声を掛ければ旅の女衆は水茶屋に吸い寄せられるし、フーゴが出ると聞けば連歌の会は
盛況。色も売らぬのにこの人気、というのでまた評判が高い。
「まったくおかしな商売だがな」
ふ、と苦く笑って主人は煙管をブチャラティに向ける。ブチャラティは膝で進んでそれ
を両手で受ける。
「失礼して」
優雅な仕草でそれを手前へ回して、自分も口をつける。ほんの一瞬の上目遣いが、この
上もなく艶だ。きめ細やかな心遣いも、神経の行き届いたしぐさも、本職の太夫に引けを
とらない。なんといっても最初は禿として表の茶屋で勉強をさせていたのだ。どの女の子
よりもきれいで気が利いて、その頃から客にも目をつけられていた。
……ほんとうに、男にしておくのがもったいない。
だからひいきにして、ここまでの好待遇をくれてやっている。
ポルポは放心して、そしてまた返された煙管の吸い口のきらめきにはたと我に返って、
咳払いをしてまたそれを口に含んで間をとる。
「なに、そんな気の急いたことは考えちゃいない。わたしとおまえの間柄じゃないか」
「相済みません」
任せておけば、きっとどうにかしてくれる。出来のよい手下だ。「比たむき」の主人は
つと頭を下げる黒髪の艶やかさに目を留めて愉しみつつ、自分に言い聞かせた。
肆
「そこよ。ここでその手の中の歩なり、桂馬なりを打ち込んでおけばわしの王将は一気に
動きを制せられておったろうに、なあフーゴ」
「比たむき」裏店の奥座敷では、もう一局を終えて感想戦をしながら時間を潰している。
この宿でいちばんの呉服屋遠州屋の、隠居の佐兵衛。好々爺然としているが、これで
「比たむき」店主とも、その後ろ盾の大物とも近しいこの宿の有力者である。
「取った駒を使うという手にはなじみませぬ」
「そこよ。頑なに、その身１つでその場その場を切り抜けようとする。ひとの身などはそ
れほど器用に、ぬかりなくなどできてはおるまいて。
おまえさんは頭が切れすぎる。それだけでは世は渡れぬよ、と、そう、ただ将棋の相手
だけを務めるのではなく、こうやって年寄りに説教の真似事をさせて世間を知っているよ
うないい気持ちにさせるのもおまえさんの仕事。となれば、殊勝に頭を下げる真似事もで
きるようになってきたということで、僅かながらこの仕事に慣れもしたということか。ほ
ほ、ブチャラティにはそう申しておこうかの」
「恐れ入ります」
してやられた不快さは押し隠して、フーゴと呼ばれた少年は頭を下げて見せた。もう、
帽子に頭を隠すまでもない。髪も生えそろって、鼻の高い目の涼しい白い高貴な顔を縁取っ
ている。大臣を出すのが当然の家に生まれ、口減らしで入った寺ではまずその美貌を、次
には高い知能を賞賛され、ひとから仰ぎ見られ、大切にされることを当然と育ってきた子
供だった。
寺における美童の存在意義など知らされずに。
高僧らの猫なで声の好待遇の目的が解ったとき、かれは、その大恩ある紫衣の住持を足
蹴にして寺を出た。見つかって、連れ戻され、行く先々で似たような騒ぎを起こしては名
刹をたらい回しに東海道を下り。
とうとう駿府の寺で、意気投合した下働きのナランチャを連れて代官所に駆け込んだ度
胸と、もちろん年ごとに冴え渡る美貌、そして密かに伝わる寺同士の噂話でその智恵を見
込んでこの佐兵衛が寺に交渉して身柄を貰い受け、ポルポに預けた。
……ここで居場所を見つけてくれるならよいのじゃが。
あの世が見え始めると、とってつけたように良いことがしたくなる、そういう心持ちに
この隠居はなっていた。
待ち人が現われたようであった。
「お待たせを致しまして」
からりと唐紙を開けて、頭を下げる。身に染みついた作法が、もとの素性を語っている。
すっと上げた顔のおもてに、高熱で色の抜けた髪がさらりと落ちて掛かった。
「おお、待っておったぞアバッキオ。
それではこの年寄りの相手をして貰おうかね」
佐兵衛がにこりと笑った。
「ご隠居様の相手がこの身に勤まりますか」
静かな声が応じて、場を繋いでいた少年に目で合図する。
「何を言う、もうはやこの宿で儂のへぼ将棋の相手をしてくれるのはおまえさんたちだけ
だというに」
へぼというのは謙遜だが。
「それでもぼくでは小半刻も保ちませんし。お願いしますよ、アバッキオ」
せめて礼儀に駒を並べ直して、フーゴが腰を浮かせた。
「それでは失礼つかまつります。ごゆっくりお楽しみ下さいませ」
フーゴは一礼すると、入れ替わりにしずしずと座敷を出た。
陰間の色子と言ってはいるが、かれらの仕事は閨の相手ばかりでもないのだった。
勝負は一進一退の末、アバッキオが老人に勝ちを譲って、隠居は機嫌良く帰っていった。
そこへ、ブチャラティが現われた。上座を譲ろうというのを制して、脇へ来てアバッキオ
と差し向かいになる。つい、観戦していたミスタとナランチャは席を外し損ねた。
ブチャラティは、ひとも無げに話を切り出した。
「ご隠居さんの相手をしていたんだってな……たいそうお喜びだった。役に立って貰って
助かっている。だが、旦那さんは、それだけじゃあ不満らしい。
おまえを拾ったときにおれは江戸の知り合いの所に逗留していたが、ちょっと調べもの
をしていたんだ。……この宿に、新しいことを起こそうと思ってな。
ちょっと危ない仕事になるが、ミスタやナランチャ、フーゴにも手伝って貰う。旦那さん
からは、店の男衆の手助けも、女衆もだが、貰えるとお言葉を頂いてる。
……おまえ、それで」
ブチャラティは、そこで、息を継いだ。
「アバッキオ、おまえは、おれに命を預けてくれるか……？」
命を叩きつけるように尋ねたのに、手負いの獅子はつと目を逸らした。そうして、無言
のまま、拾い主が根負けして去るまで懐手をして庭に眼をやっていた。
「目ぇ切りやがったぜ！」
「ブチャラティがあそこまで言ってるってのに、答えねえってなんだよ！？」
「そこは１も２もなく応（おう）！ だよな？」
「とーぜんだぜ！」
見守ってしまっていたミスタとナランチャが、ブチャラティを追って廊下に出て、大騒
ぎする。それをたしなめながら、戻ってきたフーゴがブチャラティを気遣う。
「ひとの心の持ちようは、それはそのひとなりで。どんなに誠を尽くしても、通じないと
言うことはあります。それに腹を立てるのも当人の勝手ではありますが、そこをぐっと堪
えて好きにさせるのが有徳のひとのありかたで。
……ぼくはあなたを徳のある方だと思っていますよ。もちろん、ぼくも、とうにあなた
のために命を懸ける覚悟ができています」
「ありがとうよ、フーゴ。やっぱりおまえはもの言いが抹香臭いな」
ブチャラティはそこへ来てようやく眉を開いて見せた。
「そんなことはありません。発心しての出家ではありませぬゆえ。
あの頃のぼくは、喰わせてくれるなら寺でも社でも構わない、切支丹伴天連でも遠く西
の果て西域の拝火教とやらでも喜んで帰依したことでしょう」と、フーゴは皮肉に笑んで
見せた。
「またそんな物騒なこと言うぅ！」
ナランチャが笑って抱きついて、そのいささかへそ曲がりな口を閉じさせた。
伍
東海道にも秋が来て、窓の外は秋の女神の気まぐれな筆先で染め上げられはじめていた。
もうはや外気は身に沁むころというのに、障子を開け放って、男は月を見ていた。
アバッキオは、他のものと同様に店の２階に部屋を与えられていた。
このところ、毎夜、ブチャラティはそこを訪れている。
毎日勝手にふらふら出歩かれても、先だってのように手下の者共の前で虚仮（こけ）に
されようとも、この男の身体を唯一、自由にできるという特権を行使せずにおれないのだっ
た。
高熱のせいで色のすっかり抜けてしまった髪に、紫色の野郎帽子を載せて。これは、普
通なら月代を剃った姿を隠すためだが、この男に限っては、月代の無惨に伸びた前頭部を
隠すためだ。死に損なってから傷が癒えるまでの間、額に剃刀を当てることのなかった若
い男の前頭部は、自然の姿に近づいていた。これは、この国の社会においては、まともな
生業に付いていない証であった。それを、成人して前髪を落とした美少年が、それを恥じ
て隠して見せたふうに隠して見せている。それが、この美しい牢人ものの顔に趣を添えて
いる。
無惨に痩（こ）けた頬には肉が戻り、深く苦悩の刻まれた眉間は皺を消し。今は穏やか
な美丈夫と見える。
「綺麗だ」
ひたと目を合わせて、ブチャラティは思いの丈をそのまま口に出した。
つい、と目を逸らし、アバッキオはしばし黙り込んだ。ついには背を向けて、ただ、空
を仰いだ。
「ああ、いい月だな」
そう言うだけ言って、盃を舐めていた。
ブチャラティはそれ以上重ねて言う言葉を持たず、いらいらと手酌で飲み続けた。月な
ど愛でた覚えはない。今が月の季節だと言うことも忘れていたのだ。この男を拾って以来、
ブチャラティは花も月も意味を失っている。出張仕事の報告もフーゴに丸投げをしてしまっ
て。仕事で取り返しの付かないへまをやっていないのが奇跡であった。
「おいッ!」
ようやく覚悟を決めて次の言葉を掛けようとしたとき、既に想い人は夢の世界に遊んで
いた。
「目を合わせて言ったのに、聞かねえふりをされるとは思わなかったぜ」
頭を抱えて独りごちると、ナランチャが小猿のように縁の手すりの上に止っていた。
「ブチャラティ、言ってもいいんだぜ？」
「何をだ……よしなさい、落ちたら危ない」
「落ちねえよ。
アバッキオのこと、理解（わか）らねえって、言っていいんだぜ」
「ナランチャ」
それは、立場として言えない。アバッキオの腹は誰にも読めない。捕物でしくじって、
腹を切り損なって。放っておけば死んだところを、うかうかと助けられて。なんのためと
目的もなくただいまは飼われていて。暴れるでもなく、嘆くでもなく日々鬱々と過ごすか
れの腹の底に、一体何があるのか。
そのアバッキオは拾った身として、自分だけは奴を庇わなくてはならないとブチャラティ
は思っている。ブチャラティが、アバッキオを得体の知れない奴、恩を知らない奴と言っ
てしまえば、この宿でアバッキオの居場所はなくなる……。
「そんな、あからさまにわかるよーにアバッキオのことだいじにしてやっててさ、目を見
て解りやすくほれてるって言ってやっても、それでも、伝わらねえってなら、そこは言っ
てやんなきゃ。
おめえの態度じゃあ、何考えてんのかブチャラティには伝わってねえって、言わねえと、
アバッキオの方も判（わ）かんねえじゃねーの。もっと、伝わるようにしなきゃなんねーっ
てさ」
……見かけによらず、ひとの心の奥底に聡いところがある。
佐兵衛からの推薦の言葉であったが、ブチャラティはそれを痛感させられた。
「ナランチャには判るのか？」
「わかんねー、かな？ でも、やつはやつなりにブチャラティのこと好きだと思うぜ。だ
いじにしてもらって、うれしいとおもってる、それは。
だって、ちょっとした餅ぐれえならおれにもよこすけどさ、いちばんいい菓子やら、一
番きれいな花は、あんたに持ってくんだぜ？」
「菓子だと？」
ブチャラティは虚心に問い返す。
そういえば、度々、日中帳場にきては、茶に誘うことがあった。
「お下がりいつもありがとうな。うめえよ？ ここ最近はずっと。あんたが礼を言うだけ
で喰わねえからあいつ、しょげてたぜ」
「だって、そんな、餅なんか」
虚をつかれてブチャラティは喘ぐ。
「こんどフーゴに喰わせてもいい？ あいつなら店がどこか当てられるかもだし」
ミスタと話し合っていた件を告げようとしたが、果たせなかった。
「餅なんか貢がれても。……女じゃねえんだから、そんなもの、いくらなんでも」
ブチャラティは、見かけによらず上戸である。幼い頃から宴席に侍って鍛えられ、酒を
旨いと思って呑み、量もいける。始終腹を空かせていた頃ならともかく、この年になって、
酒より餅菓子がありがたいとは思いもしない。
それより、幼い頃から美貌を歌われて、女ならよかったと耳にタコができるくらい言わ
れ。同い年の朋輩を憚って胃が痛かった頃を思い出して、ブチャラティは知らず、頬に手
をやってぶつぶつと自分の世界に入り込んでしまった。
陸
しばらくして、ある夜、ブチャラティは念入りな仕度をして出かけた。
「ちかごろ、ポルポさんがわたしのことを怖いと仰っておられたという意味が解ってきました」
「ほう？」
ブチャラティは、案じあぐねて旦那を頼る気持ちが出てきている。
ポルポはそのさまにしみじみと感慨を覚えた。
ブチャラティは禿の時から恐ろしいほどの気の利き方を見せる子だった。
自分を心から恋い慕うなどありえないのは判っている。そこを、まるきり心を隠して、
なにを考えているか見せようとしない。日頃の尽くし方は申し分ない。そこは一流の遊女
が客をもてなそうとする媚態に負けていない。この子が女であれば間違いなく太夫の位に
は登れたであろうと誰もが言い、ポルポもそれを信じた。
確かに、ブチャラティにはそれだけの庇護を与えた。金を惜しまずさまざまな芸事を学
ばせ、つてを頼ってあらゆる道の指南を受けさせた。同い年の女の朋輩との競争もあった
が、涼しい顔でそれを修めて見せて、ブチャラティは恐るべき色子に育った。
そして、従順にまっすぐなそれでいて節度を弁えた思慕を自分に寄せる。
礼儀上必要最低限というわけでもなく。
かといって、心からの熱情というわけではない。
こちらに負担を掛けさせないというつもりでもないようなのに。
入れ込めば入れ込むほど遠ざかる、それは手の込んだ手管にも見えて。
複雑な事情のうえに、奇跡のように立ち上った、陽炎のように見えても小さな誠かとも
思われて。一回りの年の違いが、そういうことが、あるようで、ないようでまた悩ましい。
若くして裏の世界でひとかどの人物にもなり、なにも怖いものの無かったポルポである。
あからさまなへつらいには慣れすぎていた。だからこそ、かもしれない。
微かに微笑んで、あらゆる要求に応えて見せながら、何も求めようとしないこの年若い
男娼が、ポルポは怖くなったのだ。
「まあ、それは、ちょうど、自分の容色に衰えが見え始めた頃でもあったしな。それでわ
たしは、おまえを自由にして、店を持たせることにしたのだよ」
大柄だった男は、自ら立ち働いて規範を垂れる職を退くと、すぐに肥満した。今は肉に
埋まり、立ち居にも困るほどだ。そうなって、この優秀な男が自分に想いを寄せるわけが
ないとやっと思い切ることができた。
ほんの少しの余裕を見せることも、今はできるようになった。ポルポは苦く笑んでそう
心の中を明かしてみせる。そう、ブチャラティに心に掛かる男ができて、２日と空けずに
褥を共にしていると聞いても心がざわつかない……いや、ほんの少しは興味というものが
沸いて、それで、もう顔を合わさないでやってこられるようになったかつてのお気に入り
を、また側近くに呼んで話を熱心に聞いてやっている。
「わたしとしては心からお慕いしておったつもりなので、その頃は尽くし方が足りなかっ
たのかと思い悩みもしたものでしたが」
ふと笑って、ブチャラティは言葉を継ぐ。
「立場のある身で、想いを寄せて、あれこれ心を砕いてやっても相手がいっこうに心を開
いてこないというのは気の揉めるものだったのですね」
「よく言う」
ポルポは相好を崩した。
「旦那さんのお立場にくらべたら、今のわたしなどなにほどのこともないでしょうが。
旦那さんのお悩みになぞらえるなど、失礼極まりないことでした。申し訳ありません」
頭を下げる仕草も、艶なうえに堂に入っている。まったく、我ながら良く仕込んだもの
だ。
「よいよい」
ポルポはつい許してしまう。少し恋やつれした目の辺りなども、目新しくてよいものだ。
まだ二十。往時とは違うが、また艶な魅力が増して、今でも十分その相手として好まし
い。
「苦しいか？」
「ええ」と、正直に認めておいて、恥じて目の際を赤くする。
「そういう物思いを知ることもだいじだ。
昔のおまえには、それが足りなかったのかも知れん。
あの男は同い年であったな？ その方が、長く連れ合える、そう思って、おまえの我が
儘を許したのだが」
腹が出るのも、皺寄るのも一緒。自分にはそれが自分にだけ訪れ、当時はそれが辛かっ
た。と、ポルポは昔を懐かしく思い出す。
「今となっては、それは地獄の苦しみやも知れません。それは、旦那様のお苦しみを理解
しなかった罰ともお受けしましょうか」
上目遣いに、触れなば落ちん風情で囁きかける。
「ふん、短絡するでない。ま、今夜は気散じに、わたしと遊んでみるか？ 久し振りによ」
余裕を見せて、ポルポは言いかける。
「それは、こちらから誘ったようでお恥ずかしゅうございますが、なによりわたしは旦那
様あっての身でございますので」
ふわりと笑ってみせる姿は、まだ清らかで、なんの苦労も憎しみも知らぬげであった。
「さても魔性のものよな」
その白い手をとってたぐり寄せて、腕の中に抱いてみる。絶妙の間合いで、ブチャラティ
は力を抜いてそこに収まる。喉を逸らして、唇をねだってくる。そう仕込んだのは自分で
あるのだが。
……この子を引退させたのは早まった。
しかし、この末恐ろしい魔性のものが、心を危うくするまでも入れ込む男ができたとい
うなら。
そこは祝福して、恐ろしい妖刀は鞘に収めておくべきかとも思う。つい３月前はそう思っ
たのではないか。
と、そのような思案はあとで巡らせるとして。
今はこの綺麗な生き物との時を愉しむことにしようとポルポは考えた。
漆
まずは１寸、開いたところに手を差し入れて、７割まで開けて、手を換えて残りをしま
いまで、と作法通り襖を開き、禿がまず先払いをする。
「太夫のお見えにありんす」
太夫とは大袈裟な。新庄ほどの規模の岡場所で、遊郭は公認されていない。目こぼしを
貰って、茶屋において酒席の接待をする女としてこの店に登録されている女達のうち、最
上位のものを、便宜的にそう呼んでいるだけのことだ。と、心を荒ませているブチャラティ
は内心吐き捨てた。訛りを隠すための郭言葉も仰々しい。
「今宵はお召しを頂きありがとう存じます。長らくのお待たせをお許し下さいませ」
頭を垂れたのは、この店の明良（あけら）太夫であった。生れつきは浅黒い肌であった
のを、洗顔から化粧、日々の手入れに到るまで工夫を凝らしてそれを感じさせないどころ
か、そうでなくては明良太夫とはいえないと思わせるまでに磨き上げた。ぽんぽんと思っ
たままを飾らず口にして、いやみがない。大きな黒い目は泣いたり笑ったりと忙しく、客
の目を愉しませる。伝統的な美女というのではないが、今どきはこれもありか、と皆に認
めさせて店の第一の売れっ妓（こ）に躍り出た。
「入れよ、太夫。久しいな」
もうはや銚子をいくつも空にして、ブチャラティは待っていた。
「手酌でありんすか。これは不調法を」
禿が目を泳がせる。太夫が出座に時間を取るのは格式だが、待たせる間には間を取り持
つ禿やら見習いやらが侍って話の相手を務めるはずであった。
「いいんだ、下がって貰った」
酔いは見せずに若い男は笑った。幼いときにはこの店で禿の真似事をしていた。ほんの
数年前までも、鬘を使い、見事に新造に化けて店で客の茶の相手などこなしていた。今だっ
て、むさ苦しい男の匂いなどさせていない。ぽうっとなって、禿はただ頭を下げた。
「２人きりにしておくれなんし」
「昔なじみと腹を割った話がしたいんだ」
仲の良い友人でもある２人に代わる代わる言われて、禿はまた頭を下げて、その場を去っ
た。
「まあ、いい顔になったこと！ こんなに飲んじまって、あたしの分はないのかい？」
すっと立ち上がると、言葉を砕けさせ、裾を捌いて太夫はブチャラティに近寄った。
「あ、そりゃ済まなかった。呼び戻してお代わりを頼むか？」
ブチャラティは、今更のように膳に目を落として居心地悪そうにした。
「いいよ、もう……あの子、さんごなら気が利くからそのうち自分で持ってくるだろ」
つと襖の向こうに眼をやって、太夫は微かに笑うかたちで息を吐いた。その様も、艶で
ある。
「太夫の躾が行き届いてるから」
それを見つめて、ブチャラティの顔も僅かに緩む。そうだ、目の保養。
「ああ、もう、よそ行きの言葉はいいよ、ブローノ」
ひとつ首を振って見せて、もう、幼なじみの顔になっている。
「愚痴りに来たんだろ？ あの男西施の兄さんのことで」
「話がはやいぜ、おさん」
昔の名で呼んで苦笑してみせる顔を、「おさん」は太夫の顔に戻って胸に抱き取ってやっ
た。
「聞いてるよ。お江戸で拾って帰ってきた男にぞっこんだって。
だってあたしに預けたんじゃないか。
あたしに預けて身も心も療治してやろうとしたところが、まるきり女を抱けなくなって
いて。
まさかあんたがこんなに入れあげるとはねえ」
「面目ねえ」
ブチャラティが顔を崩す。
「笑うんじゃないよ、あたしの前でまで」
ピシリと言って、おさんはたばこ盆に手を伸ばした。そこは、小声で失礼を、と言い添
えるのが身に染みついた作法。無駄のない手つきで葉を詰めると、一服つけてぷかりと煙
を吐き出す。
「そりゃあたしに預けたんだから、よっぽど大事な客とは思ったけどねえ」
「……ああ」
「腹を切り損なった御家人なんて、そりゃ厄介さね」
「……ああ」
「なんでそんなもんを拾ったんだよ？ ああ、ブローノ」
流し目をくれて、おさんは問い詰める。拾った当初には、とても聞ける雰囲気ではなかっ
た。そのうちそのうちと言っている間に、夏は過ぎてもう秋も深まった。
「ああ、うん」
また盃を空にして、考え込む様子を見せて、ブチャラティは口を切った。
「桜も終わりだったよ……江戸はな。雨が降ってた」
そこから、初めて語りはじめた。
捕物があって、若い同心がひとり、斬られて死んだなんて、あとで聞いた。ただ、使い
に出て、降り込められて、もう提灯がいる頃合いになり、泊まっていきなよというのを振
り切って逗留先の店に戻ろうとしていたところだった。あそこの山は桜が見事だから、こ
の雨で今年はもう終わりだろうから寄り道をしていきなといわれて、足を向けた。そこに、
若い男が佇んでいた。もう随分長い間そこにいたようで、霰小紋の小袖は色が変るほどに
も濡れていた。
暮れてゆく雨の宵、花はどんどん散っていった。見る間にそれは水面に浮かび、流され
て、しがらみとなった。雪のよう、と見たのは、吹きなぶられて身体が相当冷えていたか
らというのもあったかも知れない。
このあとは、身体を温めるものを少し入れて、話のできる相手としみじみ語りたい……
たとえば、目の前の、この男。と、ブチャラティは考えた。
「もし、冷えませんか？」
大柄な男だった。手を伸ばして傘を差しかけると、ややあって振り返った。蒼白な顔に、
微笑みが浮かんだ。
「この世の名残。佳（い）い桜でござった」
「はい……？」
意味の取れぬまま肯くと、そのまま男は倒れ込んできた。
よろけながら受け止め、何気なく見ると、その腹がどす黒く滲んでいる。
「もし、お侍様」
身分で隔てのある世だ。遠慮しながら声を掛けると、男は微かに微笑んだ。
「陰腹切って参った。どうかお情けを」
その言葉に、晒しの巻かれた腹を検めると、５寸ほど真一文字に斬られており、血は止
ることなく流れ続けていた。
長く雨に打たれていたせいか、身体はもう冷たかった。
わななく唇で、切れ切れに言ったその言葉に、ブチャラティはその男を逗留先の宿に担
ぎ込んだ。正しくは、その、白くも白いその役者のような顔に惚れ込んで。
いや、ひととき、夢幻の中に散る桜を見た仲間として、感想を心ゆくまで語り合いたかっ
た。月はどうか、牡丹は好きか、雪はこの男にはどう映るのか。酒杯を傾けながら、腹蔵
無く語らってみたかった……余人には感じたことのない感情だった。
捌
「あとで聞いたら、侍（さむれえ）が腹を切ったときは、もうそれだけでもうあの世が見
えるほどの痛みで、源平争乱の頃ならまだしも、真一文字に掻ききって腸（はらわた）掴
みだしてみせるなんて真似はとてもできやしねえ、腹に刃を当てたと見たら、首を落とし
てやるのが情けなんだってなあ。
陰腹なんて、あれは歌舞伎や浄瑠璃のもんだろ？ 浅いとはいえ５寸も腹切って、だく
だく血も出てんのを晒しで押さえて、品川御殿山まで出てくるなんて、尋常じゃねえ。
でもそんなん、しがねえ漁師の小せがれのおれが知るかよ。切腹って、もっとちゃんと
畳の上でするもんだろ？ てっきりなんかのいざこざで斬られたんだと思ったからよ、情
けって、介抱するのが情けだと思ったんだよ」
「あら、まあ」
「旦那さんからの依頼の件で、こっちも使える若いのが欲しかったところだったからさ、
気を配って療治させてやって、なんとかこの宿へと連れ帰ったのさ」
「素性は言わなかったのかい？」
「これが大笑い、八丁堀の同心。親父さんが隠居して、お役をもらって１，２年の。捕物
でしくじって、朋輩の同心を死なせちまって、進退窮まったんで腹切ろうと思ったんだと」
「へえ」
「そんなのは屋敷でやれって言ったら、泣きそうな顔して。古いとはいえ母上姉上が磨き
上げた屋敷を血で穢すに忍びなかったとさ。
そんなこといって、跡取りが腹切り損なって行方をくらましたんじゃあ、お家も断絶だ
ろうに」と、溜め息を吐いてみせる。
「それを気に病んでるのかい」
「じゃあ今からでもうちに顔を出して、もっぺん腹切ってこいって言っても、潮垂れた顔
して、ああとしか言わねえんだよ」
「そんな、可哀相じゃないか」
さすが、明良太夫の仕込みだ、さんごはちゃんと膳に銚子を載せて、少しの追加のつま
みも添えて、顔を覗かせた。それを、受けとって、おさんは笑顔で追い払う。
乾きはじめていたブチャラティの盃を満たしてやって、ようようおさんは酒を口にした。
「じゃあおれは可哀相じゃねえのかよ？ ３月も付きっきりで看病して、うちの店にまで
連れ帰って、お蚕ぐるみで面倒見てやってるのに、毎日毎日辛気くせえ顔するばかりで、
酒の相手もしやしねえ。死なしてやらなかったのを根に持ってるとしか思えねえ」
「閨の相手はしてくれるんだろ？」
「それだけだ」
ブチャラティは顔を振って見せた。どうしようもなく荒んでいる。
自分にこんな凶暴な衝動があったのかと、ブチャラティは自分で驚いている。女の肌で
慰めてやってくれとおさんに任せたというのに、アバッキオは罪の意識に身を縛られて、
女と情を交わすことなどできなくなっていた。ならば、と、開店休業の陰間茶屋の新たな
目玉にするつもりで、その身体を男を受け入れるように慣した。そこまでは、計算が先に
立っていた。思った通り、他人に身体を自由にされることに抵抗のない性分で、屈辱に震
えながらも、受け身となって官能に導かれることを愉しむようになっていった。
溺れていったのはブチャラティもだった。
彫りの深い面差し、高熱で色の抜けた髪は療養の間にすっかり伸びて、異相の美丈夫を
それ以外無いと思わせるほどにふさわしく飾っている。もうはや剃刀を当てて、普通の髷
に結い返してもいい頃ではあるが、敢えて野郎帽子を被せている。それが、似合いすぎる
ほどに似合う。
かといって、美しいだけの木偶ではない。もとは同心というのも頷ける。上背の高い身
体は鍛え上げられていて、本人も心がけて修練しているようで、見事に引き締まっている。
店に連れてきてからも、折りを見て木刀を振っている姿を見るものが見て、これはかなり
刀を使える男だと折り紙を付けてくれた。普通に御家人として嗜みある育ちをしたようで、
誰も相手のできなかった佐兵衛の将棋の相手も務めてくれている。
閨でも従順で、官能を識って少しずつ恥じ、恐れながらも控えめに乱れ啼くさまも趣深
い。これは店に出しても評価が高いだろう、と冷静な頭の隅では判断を下している。
ただ飼っておくならそれでもよい男なのだが。
ポルポに恥を忍んで泣きを入れたように、それでは心がもう収まらないのだ。
腹を切り損なって、ただ日々を憂えて下ばかり向いて生きている男に、自分の方を向か
せたい。心からの笑顔を向けさせて、心を預けさせたい。女には絶えて持ったことのない
感情だが、ともに日々を送り、年を重ねたい。
そんなことを思ってしまっていて。
それを、この大切な昔なじみの、唯一腹を割って話せる女に話そうとして、つい想いが
ほとばしって、思ったより間を取ってしまったかたちになっていることに気付いて。
「……おかしな話だなあ」
ふと、ブチャラティは自嘲の笑みを漏らした。
「ブローノがこんなになるなんてね。あんた、ほんと、ひとに本気で想いを掛けるなんて
ことのない子だったのに」
「はは、おれは親父の死に様を見ちまって、ここのからくりの糸が一本切れたのよ」
頭をちょっと指さして見せて。腹を割って話せる相手なので、ブチャラティも本音を漏
らす。
「そんなこと言って」
「だって、その親父の仇のこともすっかり忘れていて。３年？ ……もう５年も前になる
か？ 旦那さんが、気を遣って、やつは死んだと知らせてくれたときも、誰だっけってし
ばらく呆（ほう）けちまってて、旦那さんがこれは自分で討ち果たす気だったか、やらせ
てやらなくてまずかったかと気を揉んだって」
「ブローノ」
おさんは目尻を下げた。どんな重い打ち明け話も笑い捨てる気の強い女が、ひととき、
言葉を探した。
「おれはべつに、仇を討って貰いたくて組に入ったんじゃねえのよ。ただ、あんな酷い様
で死にたくなかっただけで。それで、女の子のふりをして禿になるのも平気、男の摩羅や
尻穴を舐めるのも平気で世の中を渡ってきたのよ。
そんな死に汚い人間が、手前のせいでひとが死んだからって腹を切るようなお侍の気持
ちなんか、解るわけなかったな」
「だいじょぶ……、死にたくないなんて、そんなの、この世界に入った人間ならみんなそ
うさ。
あたしだって、あんまり色気がないから、遊女にするのは無理だ、芸妓として多少仕込ん
で、薹が立ったらあんたと一緒にさせようなんていつも言われてたじゃないか」
大人達にも、２人はとても仲がよいと見えたのだ。
おさんにはもう戻る家がなかった。貧乏人の子だくさんで、痩せて眼ばかり大きい弟妹
を喰わせるために、自分で自分のことができる年にはもう人買いに売られた。おさんは、
意地で死にものぐるいの稽古をし、芸妓としてはもちろん、娼妓としての嗜みをも身につ
けてここまで成り上がった。今でも一通りの楽器は弾きこなして、宿じゅう誰にも引けを
とらない。それでも旅の検校など通ろうものなら、必ず懇ろに引き留めてもてなして、乞
うて教授を受けるようにしている。ブチャラティはそれを側にいて見ていて、心の底では
尊敬の気持ちを持っている。
玖
「夫婦（みょうと）になるかよ？ おさん」
荒んだ顔で、ブチャラティは言ってみた。その顔に、おさんはたじろぐ。月の光を背に
受けて、目の下に苦悩を浮かばせて。頬もそそけて、それでも、目を離せない。
「バ……カをお言いじゃないよ」
ようやく、おさんは言葉を絞り出した。
「男に振られてあたしに乗り換えるってかい？ もっとあたしの顔ってもんを立たせてお
くれ。
だいたい、あたしの年季が明けるのはあと５年先だよ。早すぎる。
約束したじゃないか、あたしは表でお職を張る、あんたは、裏で店を構えて大物になる。
２人でこの宿を仕切るんだって。そんな、２人して所帯を持つなんて……しけた食べ物
屋でもやろうってのかい？ 笑わせなさんなよ」
動かしはじめたら、舌は勢いづいて、大事な友人を元気づける言葉をつぎつぎに叩き出
した。
ようやく、ブチャラティは頬を動かした。
「来るかい？ 一晩だけでも、忘れさせてやるよ」
ぐっと襟を抜いて、肩まで滑らせておいて、太夫は誘った。
「いや、止めておこう」
もったいなくも、ブチャラティは首を横に振った。
「操立てまでして！ ああ、妬けるねえ。艶な所に吸った痕でもつけてやりたい」
「よしとくれよ」
キャラキャラ笑い合って、それでも最高級の布団に２人して入って、うち解けてしかし
健康的に２人は話をした、眠りにつくまで。
「昔の花魁で、余りにも小さいころに色街に買われてやってきて、それきり外の世界を知
らないからって、銭を見たことがなかったっておひとがいたそうだな」
「ホントかい？ そりゃまた箱入りなことで」
「さしで通して１００枚、一貫文にしたのが床に落ちてたのを、あれ、虫が、って怖がっ
たって話」
「そりゃ怖いだろうよ、大きな虫だねえ」
けらけら笑うのへ、ブチャラティは真面目な顔をして言い添える。
「それが、うちのフーゴもそのクチだったらしい。お使いに出すのに、１０文ほども握ら
せたら、これはなんですかとさ」
「あっは、あの子なら有り得るわ！」
「そんなんじゃ困るだろうよって、ナランチャも付けてやって。ナランチャはようやく兄
貴分らしいことができるって大喜びで、顔中口にしてあちこち連れ回して」
「判るわぁ……」
「ブローノ、あの兄さんに惚れちまってるんだね」
眠りに落ちた心からの友の頭を胸に抱いて、おさんはふと寂しい笑みを作った。
年は同じ。同じ頃に店に入って。男だというのにブローノの方が顔が綺麗で気も利いて、
なんでも飲み込みが良く上手にこなした。自分は色も黒くて眼ばかり大きくて器量がいま
ひとつで。あべこべならよかったのにと店のものにいつも溜め息を吐かれていた。
「そんなこと、ねえよ」
ブローノは２人きりになったとき、いつも強い言葉で否定してくれた。
「おれはおさんと話をしてると胸がスッとする。おさんはウソは言わねえから。そんな、
みているのが辛（つ）れえほど不器量でもないんだから、おさんはそれでいいんだ。今か
ら気をつけていて、そんで、年頃になって化粧に心を配ってそれなりに装ったら、絶対お
さんは売れっ妓（こ）になる。みんなおさんと話がしたくて通い詰めるようになるさ」
手を取って、笑ってくれた。それで自分は女としての意地もあって、なんとか自分を磨
いてこの地位にまで登りつめたのだった。
情の深いおさんは度々恋をした。
「よせよ。一時だけのことだぜ」
あのひとが好きなの、と泣くと、いつも冷たく恋心に水を掛けてくれた。話を聞くだけ
は聞いて、そのあと、理詰めで諄々と説いて聞かせ、店を抜けるの心中するのと思い詰め
て泣いていたおさんは、いつもしまいにはごめんなさいと首を垂れて謝ることになった。
仕事のためにとお互いの身体を使って、どうすればどう悦ばせることができるかを究め
たりもしたが、お互いに執着を持つまでには至らないできた。そんな一時のことより、だ
いじな、野心を分かち合った心からの友だった。
アバッキオを抱いてやってくれと預けられたときには、だから、心から尽くしてやった。
結果、あの男がもう女を抱けない身体になっていると判ったときには、ブチャラティは見
たことのない複雑な顔をしていた。
配下の男として、後家に色を売ることをさせないで済むからだったのだと、今は推察で
きる。
夏の終わりになってもまだ鬱々と楽しまない様子に、おさんの方から、もう一度預けて
みるか、と声を掛けてみた。情交はできないまでも、綺麗な格好をした女が侍って酒を勧
めて、話をきいたりすれば気散じになるかもしれないからと。
その時はもういけなかった。
……放って置いてやってくれないか。
言葉はそんなものだった。
「たまには遊んでおいで。でも、心まで許したら承知しないよ」と夫を色街に送り出す女
房の顔になっていた。
そんなに心を狂わせて。
夫婦になろうかなんて、思い詰めて言ってくるまでになって。
いつも自分の恋を醒めた目で見ていた友。女の自分より美しくて、惜しい惜しいと言わ
れ続けた身近な男。いつか自分でない誰かに入れあげて、所帯を持ちたいなんて言い出し
たら、自分はいったいどう思うのだろうと思っていたけれど。
……女でないなら、なんだか許せる。
そう思っている自分は一体何なのだろうと、「明良太夫」はふと考えた。
拾
逢えばもどかしさに苦しむと解っているのに、逢わずにおれない。その夜もブチャラティ
はアバッキオの部屋を訪れた。
「江戸の方へ出していた使いが聞いてきたんだが……おまえの家な、お姉上が婿を取って
継がれたそうだぞ」
襖を閉めるなり向き直って告げてやると、さすがに眼に光が戻った。
「婿って、姉上には許嫁が」と、言いさすのに、
「その許嫁どのに入って貰ったらしい」
言葉を足してやるとあからさまに詰めていた息を吐いてみせる。あとは、遠く江戸の方
を望んでいるのやら、視線は窓の外を見るばかり。
「伝七郎殿、苦労を掛ける……」
ぼそりと、そう呟いた。
「アバッキオ、もっと飲めよ」
差し向かいになって、酒を勧めても、この情人は乗ってこない。
「もう、いい」
かたちだけ口をつけて、もう、盃を卓の上に置いてしまっている。
「姉上の婚礼祝いってことで。遠慮はいらねえんだぜ」
強いて勧めても、黙っている。
「……あんたが、好きにやってくれ。あんたの分が、減るだろう」
ようやく重い口を動かして、そのようなことを言った。
……ああ、これがおさんだったら、同じ台詞だって聞く方が躍り上がるくらいに艶に気
を持たせて言うだろうに。
飲み助の客には、自分だって似たようなことを言ってやった気がする。
ものも言い様で、と思うに付け、自分にその心配りをさせるだけの魅力がないのだろう
とブチャラティは気が沈む。
「おれの酒が飲めねえってのかよ？」
まだ笑っていると、自分では信じながら、あやうい台詞を口から出していた。
「飲めねえな。あんたの酒だからってんじゃない。……そういう気分じゃねえんだよ」
気分じゃあねえ。いつも、そう言って、心に傷を負った獅子は逃げていた。また、自分
もそれを許してきた。
「いつならそんな気になるんだ？ ああ？」
ふと凶暴な衝動がこみ上げて、ブチャラティはその襟首を両手で掴んで締め上げていた。
「済まねえ。……わからねえ」
アバッキオは目を逸らした。
「でも、あんたに感謝はしてる。おれはあんたのもんだ。それは間違いねえ」
「間違いねえんだな？」
卓を荒々しく避けて、ブチャラティは膝を進めると、アバッキオを突きたおした。
「髷も結ってねえような色子上がりの若造に、身体を自由にされて、啼かされても、いいん
だな？」
「……ああ」
突きたおされて横向きになったまま、アバッキオは熱のない返事をした。左の襟を掴ん
で思い切り引き、胸元をくつろげる。しろい肌が、忙しく上下している。ブチャラティは
そこへいきなりむしゃぶりついた。
「……ッ」
唇で挟むと見せかけて、かりりと歯を立てる。なめくじのように舌が進んで、肌の上に
軌跡を描く。張り詰めた肌が、ほんのりと上気してゆく。かりり、かりりと歯を立てるさ
まに、痛みと官能のないまざったアバッキオの吐息が続いてあがる。
「なあ、昼間、どこへ行ってるんだ？」
「なんのことだ？」
「聞いてるのはおれだ。なあ？」
「あんたに恥をかかせるようなことはしねえ」
「恥ってどんなだ？ 女の所か？ 女を買うならうちの店にしとけよ？ 南の『虹のや』
なんかに行ったら旦那さんにも恥をかかせることになるんだからな？」
「そういう事情は、聞いてる、解ってる……ッ」
「薬は飲んでるのか？」
「薬？」
「強精剤だよ」
「アッチの薬なら、もう要らねえ……おれは、あんたのものなんだろ？ もう、女なんて、
抱けなくても良いんだろ？」
「だって、おまえ、最後には……」
もう、ブチャラティは尋問を続ける理性が保たない。おれはあんたのものだと言わせて、
こんな切ない顔をさせて、もう、身体の中心が痛いほどに張り切っている。懐にしのばせ
ている情交のための脂薬を、もう右手が探し始めている。
「なあ……欲しいか？」
自分の声が、上擦っている、とブチャラティは認識した……。
啼いている。髪を乱れさせて、獅子が啼いている。
「レオーネってなあ、南蛮の言葉で獅子のことだってな。フーゴが言ってた」
深く貫いて、見下ろして、ブチャラティは逸（はや）る自分の気をそらすためにふと言っ
てみた。
「こんな……情けねえ獅子が、あるか……」
苦しい息の下で、アバッキオは返す。そのさまに興を添えられて、ついブチャラティは
無理を強いてしまう。
声を殺して。息を乱して、指が恐ろしいほどに強ばって、なにかを堪えている。自分も
経験した高まりだ、手に取るように解る。念者に貫かれ、突かれると、女のように啼くし
かなくなるのだ。そういう一点が、尻穴の奥にたしかに存在する。自分は組み敷かれ、啼
かされる性ではないという心の抵抗も、一個の人間としての矜持も、全て突き崩される。
それが恐るべき身体の摂理ということで、悩みすぎるものには一度経験させてもよい真理
ではないかとブチャラティは思うに至っている。だからこの国の男達は男同士からだをつ
なげることを善（よ）しとするのだ。
……自分はどうだったのだろうか。
死に汚く生き汚い自分を醜いと思った、そういう物思いを、ひととき吹き散らして貰っ
ていたのだっただろうか。
無理矢理に連れて行かれる高みに、自分の男のものも昂奮を示す。番うべき女のものも
ないのに、虚しく精を放ち、満足する。こういういき方もありかと、ふと澄み切った頭で
思い至る。そんな日々を重ねていたかもしれない。
アバッキオにとっては屈辱だけなのだろうか。
頭と身体を切り離され、身体だけを汚されていく思いに、心は耐えかねて自分を拒むの
だろうか。
アバッキオには吐精ができない。
途中まで官能を導くことはできるが、大きな心の枷がそれ以上の快楽を自らに許さずに、
虚しく大きなものはぐったりと中折れしてしまい、完遂できないとおさんは報告してきた。
自分でも男ならではの悦ばせ方をしてやったが、おさんの診立てが間違っていないのを確
認しただけだった。
虚しく官能を駆り立てられ、それを中途で放りだされ、それを同じ男である自分に毎夜
確認されて。
アバッキオの辛さも極限に達しているのかも知れなかった。
だからといって、手を触れずにおられるものか！
目の前にある、美しい手負いの獣。会話して解る、慎み深く、それでいて静かに燃えて
いる真っ正直な精神（こころ）。魅了されないわけがない。心の奥を断ち割って、深く隠
している自分のまことの気持ちを晒して見せ、深い同意を貰いたいという気持ちが抑えき
れない。
いや、そういう心のことは後付で。
今はこの男のからだで快楽を極めたい。
わかい筋肉がかれの中心を締め上げた。
短く啼いて、ブチャラティは達した。
拾壱
アバッキオに釣られてブチャラティまで辛気くさい顔をしているので、「比たむき」五
人衆の残り３人も困ったような顔が地顔になりつつある。
「ブチャラティの言っていた、アバッキオの困ったところについてですが、ぼくこの前か
ら考えているんです」
フーゴが小さな声で語り出した。
「ああ。酒に誘ってもやるせない顔してそっぽ向くばっかりで。全然空けやしねえ。強い
て呑ませても辛気くさい顔してて、すぐ狸寝入りしちまうってやつね」
ミスタが応じた。手元で管狐を遊ばせている。
「目上の者（もん）から酒を勧められたら断っちゃいけねーんだろ？」
ナランチャが小首を傾げてみせた。
「それはそうなんですが。
ぼくはいろんな寺を回ってきたので、……破戒僧にもいろいろありまして」
「女の方じゃねえとすると……ふつう坊主は酒もダメだよな？」
ミスタは訳知りに笑った。
「まあそうです。戒律さえ守っていればいいかといって、抜け道を見いだして、よっぽど
罪深いことに耽る僧もいるところがあの世界の業の深いところです」
女犯の罪を免れるために美少年を侍らせるという罪深さを、この美少年は全身全霊で拒
絶してきた。釈尊が戒めたのは己の色欲であって、女でなければいいという汚いすり替え
は無用、そして、身体を損なうまでの激しい苦行は無意味、そのためには観世音さえ色欲
の贄となるべく降臨しうると書物にあるというのに、代用品たる稚児に妄執をみせるなど
は本末転倒、とかれの潔癖な知性は認識している。
つまりは、寺院というものに深く絶望し、二度と戻る気はない。
それだけの回想を一瞬でしてのけて、フーゴは話を戻した。
「大人は皆酒を好むというのは必ずしも真理ではないですね。
寺でも、それで派閥ができていがみ合うほどに重要な問題になっていました」
「なんのことよ？」
「匂いを嗅いだだけでもだめというひとも一定数いるのです。それは、見かけではなくて、
どんな清げな学僧でも、斗酒をも辞さずというのもあれば、岩をもひしぐ大男でも、奈良
漬けの匂いをかいただけで吐き気を催して膝を突くというのもあるのです」
「ウッソ」
ミスタは一笑に付した。
……ウソジャナイヨミスタァ！
管狐が人語で啼いた、とナランチャは聞いてびっくりした。フーゴにも聞こえたらしく、
目を瞬かせている。
……代官所ノ今ノ代官様ハ、オ酒ガ全クイケナイノサ！
……オ昼ニ粕漬ケ出シタラ顔ガモウ赤クナッチマッテ、午後ハ寝チマッテ仕事ニナラネ
エンダッテ！
……コノ辺ノ仕出シノ店ニハ内々ニオ触レガ出テ、代官様ニハ決シテオ酒ヲオ出シスル
ナ、粕漬ケハ禁止、奈良漬ケニ到ルマデ重々注意ノコトッテ！
……通リ一遍の接待ガデキナクテ旦那サン達困ッテルンダゼェー！
子ネズミほどの小さい動物の形をした精霊は、口々に噂話をまくし立てた。
「すっげえ！」
「役に立つものを飼っていますね、ミスタ」
２人は目を輝かせた。
「あれ、おめーたちにも聞こえたわけ？ 素質あるな……」
ミスタは頭を掻いた。
「それで、ぼく、思うんですけど。
思い出してください、ブチャラティの言っていたこと、そして、ぼくらがあいつを見て
気付いたこと」
「ええと、酒に誘ってもやるせない顔してそっぽ向くばっかりで……？」
ミスタは胡座を組み直して頬をかいた。
「全然盃を空けやしないんでしたよね？ もちろんそれは礼儀にかなってはいません」
「強いて呑ませても辛気くさい顔してて、すぐ狸寝入りしちまう……？」
ナランチャが言い継ぐ。
「狸寝入りじゃ、ないかも知れませんよ……？」
フーゴは声を潜めた。
「いっつも出歩いて饅頭屋や餅屋に顔出して！」
ミスタが記憶をたどる顔つきになる。
「ああ、うんうん！」
ナランチャが肯く。
「それって下戸なんじゃ無いかと思うんです」
「下戸？」
一瞬のうちに笑いが顔に広がったミスタとは違って、ナランチャは怪訝そうな顔になっ
た。
「お酒が全く飲めないひとのことです」
フーゴが優しく言い換えた。
「まっさか！」
「だって、あんなでかい図体してか？」
「言ったでしょう？ これは外見とは関係ないんです。元服して、お役も貰ったようないっ
ぱしのお侍が、下戸では恥ずかしいことでしょう……」
「あーなるほどねえ」
「だから菓子ばっか喰ってたのか」
「酒がいけないから甘いものが好きとは簡単にはいかないらしいですが、あの御仁にかぎっ
ては、それで正解、なんじゃないでしょうか」
「だなー」
ミスタも笑いながら肯いた。
「その線は若旦那に言っとくべきだな」
「これでブチャラティ安心してくれるよ」
ナランチャが先回りにこぼれるような笑みを見せた。
今日もアバッキオは朝からどこかへ出て行った。寝坊してそれを追い損なったミスタは
フーゴに悪口雑言を浴びせかけられた。
八つを打つ頃には帰ってきて、ブチャラティに貢ごうと餅菓子を手に目を泳がせていた。
それをありがたく強奪して、ナランチャはフーゴに食べさせた。
「確かにこれは『ミよしの』の味ですね。ここの餡の煮方は本当に上品で、ぼくは心に留
めて覚えていたんです」
眼を細めるところを見ると、お気に入りのようだ。
「でもヘンですよ。『ミよしの』はこの夏ご主人が食あたりで亡くなっています。おかみ
さんだけでなんとか秋に入って店を開けたんですが、どうも力の要る生地のほうがうまく
できなくて、客も離れているはずです。……ぼくも２，３度は買ってみたのですが、どう
も、ボソボソしてしまって」
ゴキゲンでお茶を飲んで、口を拭ってから言い添える。
「でも味は『ミよしの』のなんだろ？」
ミスタがその顔を覗き込んだ。
「ええそうなんです。それで、今日のは、餅の部分もしっとりダマなく突かれていて、ほん
とうに以前のような、いえ、以前よりいい感じに仕上がっていました」
「じゃあやつが手伝ってるんだろ。力なら余ってそうだし。そんで、後家さんと仲良くなっ
てしっぽり……」
「ミスタッ」
赤くなって、フーゴが遮った。
「で、どーする？ いっぺん見に行ってみる？ ブチャラティに教えてやんなきゃ」
ナランチャは無邪気に笑ってもう次を見ている。
後家と仲良くなっているその先を考えたミスタとフーゴの２人は黙り込んだ。
「……うーん、壱や、見に行ってくれるかよ？」
ミスタがとりあえず管狐に投げた。
キキッと鳴いて、小さな精霊は出ていった。
拾弐
「管狐というのは話には聞いたことがあったのですが。ミスタ、あなたが飼っているので
すか？」
ふと、時を得たと見てフーゴが尋ねた。
「ああーこの短筒に憑いてるんだわ。おれは霊感が多少はある方だったが、けっこーそれ
なりの修羅場くぐって、この宿に流れてきて、旦那さんにこの短筒貰ってさ。狐どものお
世話係になった訳よ」
ミスタの生国は上方と常々言っているが、堺だったり近江だったりと聞く度に違う。知
識といい腕といい鉄砲足軽の子であることは間違いないが、あっけらかんと家を出た辺り
は、太平の世に見切りを付けた３男あたりであろうとブチャラティは見ているようだ。一
度は身分を隠すために仏門に入ったらしく、刈り上げた頭をいつもはでな頭巾で隠してい
る。尻はしょりの赤青白の格子縞の小袖に虎縞のたっつけ袴といい、目立つ陽気な女好き
はもう宿の名物になっていた。むろん、「比たむき」美男五人衆と呼ばれるからにはすっ
きりした顔立ちも群を抜いている。
「短筒」
フーゴはただおうむ返しに言ったが、ナランチャは身を乗り出した。
「それって種子島じゃねーの？」
「ナランチャ、種子島というのはもっと筒の長い、それこそ大刀ほどもある銃です。幕府
が開かれる前から、南蛮人によって持ち込まれた武器です。もとの方に火薬の合わせ薬を
込めて、先から玉を込めて、火縄で合わせ薬を爆発させて、その力で玉を飛ばして的に当
てるのです」
「短筒ってのは、今の長崎から入ってきてる、それを持ちやすく、ぶっ放しやすくした銃
さ。火打ち石を使うから、火縄は要らねえ。これだけの小ささなら、懐に入れて持ち運べ
る。
ただし、火打ち式の銃はそのからくりのせいで放つときに大きく銃身が揺れるから、火
縄ほど当たりが出ねえのよ。ところが、この銃は、管狐どもが依っていてその弾を導いて
撃ったものの思いのままに操り、当てることができる優れものなのさ」
ミスタは胸を反らせた。
「恐ろしい。だいたい、今の世で短筒を撃つようなことが起きますか」
「まーねー。だから今は、単にキツネどもの依りしろになってる。めったな事がない限り
弾も込めてねえし」
「要は狐使いと」
「まーねー。でも、刀でヤれない遠くの殺しがあるならミスタさんにお任せね？ 遠当て
は結構すごいぜ、おれ」
「期待しておきましょう」
フーゴは生れつきの癖で上からのもの言いをしたが、根っから明るい男は気にせず笑っ
て見せた。
「ブチャラティ、アバッキオの行き先なんですが」
昼過ぎ、フーゴはブチャラティを捉えて話をはじめた。
「ああ、フーゴ、おめえにも心配掛けちまって済まねえな」
「『ミよしの』、なんじゃないかと思うんですよ」
「は？」
「ですから、あの、この夏ご主人が亡くなったという菓子屋の」
「あ、ああ」
「そこのお内儀と……ご昵懇なんじゃないかと」
フーゴがさすがに言葉を濁した。
「最近持って帰ってる餅が、そこの味だって、フーゴが言うんだぜ。絶対だろ？」
ナランチャが引き取って言う。
「ああ、そうなのか……」
「狐どもに見に行かせた。間違いねえそうだ」
「ちょ、ミスタ」
フーゴが泡を食った顔になって、袖を引いてたしなめる。
「なにがだ？」
ブチャラティは、そこが皆に疑念を生じさせるゆえんだが、恐ろしく真面目に問い返し
た。
……なんでここまで言わせて察しねえんだよ！？
ミスタは無意識に胃の腑を庇った。
「それで、お腹立ちはもっともかと思いますが、その、事実は戻り次第問い詰めるとして、
とりあえず、ご報告だけ」
「なんだ、『ミよしの』だろ？ そんなおまえが気を揉むようなことはありっこねえよ」
ブチャラティは素でそう言って背を向ける。
「ありっこねえって、そりゃー、若旦那」
……認めたくねえのも解るけど。
ミスタは制せられて言いたいことの半分は口の中に納めた。
餅菓子屋の後家ふぜいに奪われたとは思いたくないのであろうというのは、フーゴにも
理解できないでもなかった。物心ついてから寺の中しか知らないような世間知らずを２人
も引き受けてくれて、温かく保護してくれたブチャラティへの恩義はフーゴの中にも育っ
ている。虚心に見て、容姿に優れているとも、胆力や徳を備えているともいえるブチャラ
ティが、情人として他人に劣るわけがないと信じもする。
……アバッキオ、あんたはいったいなにを考えているんですか。
フーゴは心から憤（いきどお）ろしいと感じた。
あれは、確か夏の頃。
アバッキオはなんとか腹の傷も癒え、自分たちと親しく会話をするようになっていた。
……あの頃から愛想は良くなかったですけどねぇ。
それでも、面倒見はよくて、身体を売りたくないとごねるフーゴにせめてと将棋を指南
してくれていた。フーゴの打つ手が決まると、いちいち唸りながら、筋が良いとそれでも
褒めることを忘れなかった。脇から茶々を入れるナランチャをたしなめるのもしんから腹
立てたりはせず、微笑みさえ浮かべているように見えたのに。
……なァ、フーゴ。
この店にいて、ブチャラティに厄介になっていて、身体を売らないでおれるわけは
ないよな……？
飽きっぽいナランチャが席を外した隙に、ふと、そんなことを呟いていた。その時は、
自分に対しての言葉だと思ったから、なんとか売らないで生きて見せますと、ぴしゃりと
はねつけてしまったのだが。
ブチャラティと情を通じているとは聞いていたが、それでも女の肌の方を選んだと言う
ことだろうか。
もっと、よくよく聞いておくのだったとフーゴは歯がみした。この自分が、し残した感、
これが後悔というものか、そんなものを感じるなんて。
まだまだ世界は広いと知るフーゴだった。
拾参
秋の空は面憎いほどに澄み渡っていた。
「火事だぜッ！」
ナランチャが駆け込んできた。
「南五番町裏の『さくら』。もう店のもんで消し止められる勢いじゃねえ！」
「まずいことに月が変ってからもう２０日余りも雨が降ってねえ。どこも乾いてバンバン
燃上がってる。見てる間に２軒行ったぜ。あの辺は間口の狭い店が固まってて」
ミスタも付いてきて、見たままを報告する。
「いけませんね。風は強くて。南風で、火元が南五番町となるとまともに風上。……夕方
の凪の時間までまた１刻ほどはありますよ」
フーゴは火消しの話を受けて以来細かく調査をして心づもりをしてきたから、すぐさま
対処に取りかかる。
「その１刻の間にどれだけ燃える？」
ブチャラティは目の前に貼られたこの宿の絵図をじっと見つめている。小さな宿場だ、
脇目もふらなければ、小半時で歩き過ぎられる……。宿場の中心は向かい合わせに立った
代官所と本陣で、ここが一番町。そばに脇本陣、料亭に宿屋、宿場の寄り合い所、と街道
沿いに順にひと区画ずつ一番町、二番町と南北に番号を振っていって、宿場の外れは五番
町。岡場所のある辺りだ。
「おそらくは、なんの手だても取らなければこの宿が全て」
しばらく考えを巡らせておいて、フーゴが静かに答えた。
「だめだようッ！」
相方の冷徹すぎる予測にナランチャが悲鳴を上げた。
「ミスタッ、街のもんに声かけて井戸に集まらせろッ。桶を宿じゅうからかき集めて、宿
場の井戸じゅうの水を汲み上げさせろ！
焼け出された連中も、女子供は風上、町外れの本善寺さんに集めて。風下でこれから逃
げる連中は荷物は背に負えるだけに限らせろ、車なんか持ち出して往来を塞ぐやつはフク
ロにしていい。これは江戸市中ではもう常識の火事場の法度だ、どこの大店でも守らせろ。
男衆は町に出て消火に当たらせろ。今どこを主に守るか決めて人をどこへ遣るか決める。
この宿に井戸は３つ。水は貴重だ、まずは砂を掛けさせろ。絶対守るのは代官所と本陣、
その周りにあらかじめ水をたっぷり撒いておけ！
女衆は今から線を引くから、井戸から絵図の線に沿って並んで汲んだ水を順送りに桶で
送るんだ。線の突端に男衆をやって、そいつらが火に当たる。女衆をまともに火の面（お
もて）へ出すんじゃねえぜ！」
「がってん承知！」
そういっている間に、前々から申し合わせてあったとおり、表の店と遠州屋のそれぞれ
番頭が顔を出した。
「富吉さんに……勘助さんも入ってください、目で見た方が早い。さあ、フーゴ、その智
恵をここで遣いな。
代官所と本陣を守るなら、どこで線を引く？
うちの店だろうがなじみの店だろうが構やしねえ、壊して良い建物を、今決めて線を引
いちまいな」と、ブチャラティは絵図の写しを卓の上に開いて見せた。表の男衆の番頭と、
佐兵衛の店の番頭を呼んで協力を願う。
「恐ろしいことを仰います。
……でしたら南三番町。ここの辻がいちばん道幅が広い。ちょうどここに一里塚があっ
て木も茂っています。まだ火はここまで来てませんでしょう？ 南三番町の、火に近い方
を、そうですね、三軒ほども引き倒して壊してしまってください。燃えないように、廃材
や木くずは取りのけて。無理なら、たっぷり水を掛けてしまっておいてください。そこで
食い止めます」と、目印の一里塚を中心に、墨をたっぷり含ませた筆で一文字に線を引い
た。次には、朱墨を含ませた筆を取り上げて、小首を傾げる。
「今、火はどこまで来ていますか？ そこを超えてしまっていたなら、また考えますが。
そうでなくても、代官所と本陣の手前には水をたっぷり。絶対守るべきはここの線。一
番町の、代官所と本陣の周囲は今のうちに片付けて置いた方が良いでしょう。
逆に、今天ぷらが流行ってますでしょ？ 油はどけておくように言っておいた方がいい
ですよ。二番町にありませんでした？」と、代官所の周りを朱で囲ってから尋ねる。
「遅（お）せえよ。よりによって四番町表の『たつた』がちょうどそれで、ぐらぐら燃え
立ったところへ水をぶっかけちまって、なおさら火の勢いが増しちまった」
手元に寄ってきいきいと必死に訴えかける管狐の報告を聞いて、ミスタが渋い顔をした。
フーゴは溜め息で応えた。
「代官所と本陣を守る理由は、この宿の中心だからということもありますが、あそこは庭
がだだっ広いですからね。座敷も、同様。焼け出された連中を入れるにも役に立ちます。
せいぜい恩を売っておきましょう。
それに、東海道で、泊まりは少ないとはいえ、数々のお大名家がこの宿を休憩所にお定
めです。いくら交替の時期を外しているとはいえ、この宿が丸々焼けてしまったらお大名
たちが行き来に困りますよ。次の春の参勤で、本陣が使えないからってこの宿を飛ばされ
たら、売り上げが二桁は落ちるでしょう。死活問題です」
「解ったよ、フーゴ」
まだ１７の小僧のおそるべき洞察力に、富吉も勘助も口を半開きに感嘆していた。
「３つの井戸には頭を立てた方が良いな。南の井戸には、大変だろうが『虹のや』の番頭
さんに出て貰おうか。あそこは焼けてねえんだろ？ 中の井戸は遠州屋さんから、勘助さん、
お願いされてくれますか？ それから、北の井戸はうちだ、富吉さん」
「ええ」
「解ったよ。だがブチャラティよ、北の井戸から南三番町へ水へ送るなァ、無理じゃない
かえ？ およそ５町？ 届くまでには桶が空にならァ」
ブチャラティより５，６才年かさの番頭が、もっともな異議を唱えてみせた。
「そこをうまく運ばせるのがあんたの指図の腕の見せ所よ。それに、あんたたちは三番町
まででなくていい、代官所と本陣の周りだ。そこまでならなんとかなるだろ？」
「ははァ、承知。店のもんだけじゃァ足りねえかもだけどな、人は勝手に駆り出して良いん
だろ？」
「任せます。勘助さんも、お願いします」
「はい」
「一応線は引いてみましたが、ぼくはまだこの宿を裏表知るまでではないので、細かいと
ころはお任せします。
南の井戸はこう繋いで、三番町へ。中の井戸はこちらから、まだ燃えていない方へも頼
みます」
フーゴがすかさず水を送る動線を描いて見せた。
「大工衆は何人確保できます？ 手際よくぶちこわせるよう話を合わせておいてください」
「旦那さんにお願いして組のもんにも声を掛けてもらう。ここが男の意気の見せ所だから
な」
「ミスタ、いざというときには頼みます。ここは確実に火除け地を作ることが大切なんで
す。ハンパに壊したんじゃあかえって被害が増えます」
「おうよ、任せな」
「ナランチャはいつも通り町を駆け回って情報を集めてください。ひと死にはまだ出てな
いんですよね？」
「ああ、『たつた』の火で料理人が火傷したぐらいだよッ」
「けが人の手当ては本善寺さんだ。前々から話は通してある。
富吉さん、足の早いのを何人か貸してくれ。代官所に折々に報告を入れないと。それか
ら、案内を触れて回る声の大きいのを」
ブチャラティはてきぱきと指図をしていった。
拾肆
「おいおい、ブチャラティ、１人足りねえだろうがよ。
おめえの恋しいでかぶつはどうしたよ？」
富吉が肩をそびやかした。場の誰もが先ほどから気になっていて、ブチャラティを憚っ
て問えないでいたことだった。
「さて。ちょっと出ているようだな」
「なあ、さっき言ってた、アバッキオが最近入り浸ってるって言う餅菓子屋」
ナランチャが肩をすくめた。
「『ミよしの』でしたら四番町です、当然南の」
フーゴはじっと絵図を見ている。線香を取ってこさせて、目の前に一本立てて火を灯し、
火勢の目安としている。
「もうとうに焼けたってよ」
管狐を手のひらに載せて顔に近づけてその声を聞いていたミスタが干からびた声を出し
た。
「そ……んなことより、四番町の『ミよしの』まで焼けたなら三番町はすぐだ、ここは気
合いを入れて掛からないと、ほんとうに一番町の本陣まで焼けるぞ！
ミスタ、ナランチャ、かねての打ち合わせ通りだ。大工や渡世のもんに言ってフーゴの
引いた線通りに家々をぶち壊せ。火止めの壁を作るんだ。
富吉さんも頼むぜ。街の衆にも手伝いをお願いしてくれ」
声を擦れさせたのはほんの一瞬。人形のような顔は崩れない。ブチャラティは落ち着き
払って支持を続けた。
「あ、ああいいぜ」
「代官所はお役人に手前で守らせてください。そこまでやる義理もない」
「だねー」
「ミスタ、この線の通りだと、次は四番町表、小間物の近江やに掛かります。この宿いち
の小間物屋が焼けたら向こう半年は女衆に恨まれますよ！」
フーゴがこの男に向いた激励の仕方をした。
「そりゃ大変！」
ミスタが不敵な笑いを見せた。
「掛かれッ！」
「おう！」
「アバッキオ、『ミよしの』のバアさんと相対死になんて、わるい冗談だぜ……」
ブチャラティのつぶやきは、誰も聞かなかった。
「いちにのさァん、いちにのさァん！
そりゃ引きな！ 息を合わせて！ 釣瓶を引けよ！ 手前のねぐらは手前たちで守るん
だよ！」
この宿に３つきりの共同井戸、北五番町は「比たむき」の店の前の北の井戸の脇には、
即席のやぐらができていた。てっぺんからは、三味線の音色と太鼓の拍子が響いている。
「明良太夫！」
仰ぎ見て、富吉が悲鳴のような声を挙げた。
「よう、番頭さんじゃないか。太夫に釣瓶を使わせるなんてできないっていうもんだから、
拍子取りをさせて貰うのさ。あたしの拍子で息を合わせて水を汲むんだ、うちの店のもん
なら一糸乱れぬ動きができるはずだよ」
「そりゃごもっとも」
さすがはブチャラティの幼なじみの太夫だ。肝が据わっている。
「ブローノ、あんたたちの初陣だろ？ あたしが応援してやらないでどうするよ！？ そん
で、みごと火を収めて凱旋したら、あたしが身銭切ってあげるよ！ 総揚げであんたたち
のために宴を張ってあげる！」
「こりゃ豪儀だ！」
富吉が笑った。
「たのむぜ、太夫」
ブチャラティも、はっきりと歯を見せて笑った。
「任せな！」
笑顔が輝くなり、拍子がまた高らかに鳴った！
「そりゃ引きな！ 水汲みな！ ぐっしょり濡らすはお手のもの！
零すなよ！ 桶送れ！ 燃えるにゃ早いよ日は高い！」
色街の常で、ややお色気のはいった囃しを声を限りに叫んでいる。鳴り物だけでなく、
太夫の下の、二位や三位の遊女どもが、着飾って扇をかざし、舞って調子を合わせている。
それが、一心に水を汲み、桶を手渡しするなかで調子を取る目安になり、目の楽しみにも
なっている。
「比たむき」の店の衆を中心とした一同は、鉢巻を締め、たすきを掛け、頬を上気させて
心を１つに水を汲み、ただいま燃えている現場に送っている。きびきびした動きに遅滞は
ない。
「こりゃあ、すげえ。ハハッ、おれの出る幕はねえや」
ブチャラティの脇に立って、富吉が感嘆した。
「ここは火元からは遠いけど、だからって南や、中の井戸に負けるんじゃないよッ！」
気の強い太夫の叱咤に一同が応えた。
「おう！」
業火はもう三番町に迫っていた。きな臭い煙は風に乗って新庄宿北の外れ、木戸の方ま
で届いていた。焼け出されたものどもは風上へと言っているのに、混乱のままに風下、江
戸方向へと逃げまどう。
「もっと水を掛けろッ！ 南の連中に負けるなッ！」
「怪我をした人はー本善寺さんまで行かなくても『虹のや』が引き受けていますー！ 太
夫や禿が手当てをしてくれますからー遠慮無く店にあがってくださーい！ おなご衆も子
供もお構い無くー！」
「火消しは町方に任せよ！ われら番方は火事に乗じて盗みをはたらくものを捕え、厳重
に処罰せよ！」
「おっかさーん！ おねえちゃーん！ どこー？」
「どけどけッ！ 危ねえから下がってろッ！ そんなでっかい荷物担いだまま、火の前へ
出てくるんじゃねえよッ！」
「五番町五丁より下は南も無事でーす！ 『かつら』が炊き出しをしてまーす！」
「ああッ！ おれの店がッ！ 頼む、消し止めてくれ、１両、いや１０両出す！ そこま
ででなんとか止めてくれえええッ」
「そこな町人！ 火消しの邪魔をするでない！ 待てぃ、その銭函はどこから持って参っ
た！？」
「御用！」
「おみつー！ おみつやー！ だれかあたしの娘を知らないかい！？」
「迷子は本陣の田中さんのところが預かっていまーす！ 人さらいが出ているから子供か
ら眼を離さないようにー！」
「その店はもうダメだッ、入っちゃいかん！」
ちょうど火の最前線では、怒号と悲鳴が飛び交っていた。折からの強風で、炎は煽られ、
炎の竜巻さえ起きていた。代官所から出た役人が避難の誘導・防犯取り締まりをするほか
に、ブチャラティが配した店のものが鈴を鳴らして必要な情報を叫んで回っていた。
「お稚児の手だては紙に描いてる分には巧くいって見えたが、実際の所は無理じゃねえか
なー」
ミスタは火の見櫓に陣取って、炎の行方を見守っていた。炎は一里塚に迫り、植えられ
た大榎木が身もだえしながら火に逆らっていた。あれが火に包まれながら辻を超えて二番
町側に倒れると、一気に炎は町の中心に燃え広がることになる。
「水の勢いが足りねえ。桶じゃあ遠くへ飛ばせねえからな。竜吐水があればよかったんだ
がなあ。手配が間に合わなかったな」
……大丈夫、生木ダカラソウ簡単ニハ燃エナイサァ。
ミスタの肩口に止まった管狐が囁いた。
拾伍
「だーかーらーァ！ どこも公平に壊してるんだってばッ！ ここを崩して燃えるもんを
無くさないと宿場全部が燃えるんだってッ」
ナランチャが必死に食い下がっているが、遠州屋の向こうを張る呉服店、三文字屋は店
の取り壊しに応じないのだ。
「困りますッ！ 火はまだ来てないだろッ！ あんたたちががんばって消し止めればいい
話じゃないか。水を送るためにはうちの店から手代も出してるッ。消せたらあんたたち消
し方には心付けをはずむから、どうかうちは壊さないでくださいよッ」
店主はもう家財道具とともに避難したあとだ。番頭が必死に、ブチャラティに破壊消防
を依頼された大工衆の「正規の活動」に抵抗している。もっともとも言える。江戸市中に
習って火消しを置くことは検討中の課題で、根回しがまだ足りなかった。
「何をやってるッ！？ 火除け地を作れと言ったろうッ」
知らせが行って、駆けつけたブチャラティが声を荒げた。
「三文字屋さんが、取り壊しに応じねえんですよ、ここんちはこの春手を入れたばかりだ
から」
数寄屋造りのいい隠居所でと、大工の組頭が頭を振る。
「そんなことは聞き入れちゃダメだ、ここを残したせいでここら一帯が焼けたらみなが迷
惑する」
ブチャラティは断乎として言った。アバッキオの行方が知れなくて心を悩ませているこ
となどおくびにも出さない。
「だから若旦那にお願いしたんです。言ってやって下せえよ」
「解った。済まなかったな。有無を言わさずやってくれて良かったんだぜ、三郎さん」
「そこは、恨まれたくねえからよう」
組頭は歯を見せて笑った。
ブチャラティはひとつ頭を下げて、前へ出て行った。
「三文字屋さん、困るじゃないですか」
「ああ、『比たむき』の若旦那、いいところへ。この人達が無茶を言って困ります。まだ
焼けてない店を壊そうなんて、おかしいでしょ？」
「いいや、そうでもないんだ。話し合ってる間に火は迫ってる。見てください、もう店の
裏手が燃えはじめてます」
「ちょっとッ！ うちは土蔵の中が商売ッ」
番頭は総毛だった。
「土蔵には目張りをしたんだろうが。あんたの店の身代じゃあ、店の中に置いてあるもん
なんざ一部だろ、そうだろ？」
声を凄ませて、ブチャラティは言いはなった。
「そりゃあ、そうですけど……目張りは、それはしっかりと。小半時火にあぶられたって、
中には入らないかと……」
番頭は喘いだ。見る間に裏手の座敷が燃上がってゆく。この春新築したばかりの大旦那
の隠居所……。
「土蔵は残させよう。あんたんとこが意地張ってそれで町中焼けたあと、土蔵だけ残って
みな、面白いことになるぜ？ 打ち壊しに遭って、せっかく焼け残った反物みんな持って
かれてもしょうがねえだろ？ ああ？」
ブチャラティに脅されて、一瞬、番頭は怯んだ。しかし、
「それでも冬物を並べたばかりだったんですよッ！ 隠居所を燃やして、店を壊された上
にそれが一切燃えちまったら、あたしが旦那さんに叱られますッ！」と言いつのる。
ブチャラティはしょうがねえなと１つ頭を振った。
「１００を数える間、待たせますから。小僧さんたちに入って貰って、店のものを持ち出
してください。その代わり、それで怪我をしたり死んだりしてもおれたちは知らねえ。手
前の責でお願いしますよ」
「…………わかりましたよッ！ あとで旦那から嫌みを言われることを覚悟してください
ねッ！
これ、誰か！ 大旦那に人をやって報告を。店は諦めますから、できるだけ商品を持ち
出してください。火傷や怪我をしたらあたしが旦那にお願いして十分お手当を出して貰い
ますから、お願いしますよ！ １００を数える間だけです！ 奥の、お高いものから順に！
火の粉や煤が飛んだりしないよう、きちんと包んで！」
「なにを悠長なことを……」
組頭が吐息した。それでも、お店大事の小僧達が次々店に飛び込んでいって商品を運び
出していた。
「三郎さん、読み上げはおれがやりますから、その間に、この店を飛ばしてここいらを更
地に。ここも、番頭さんに見えないように端からやってしまっていい……あんたたちも怪
我の無いように」
「合点」
言うなり組頭が身を翻した。
「ナランチャ、ミスタを呼んでこい、出番だ」
「わかったよッ」
「行きますよ？ ひゃーく！ くじゅうく！ くじゅうはち……！」
「……いち、れい。
掛かれッ！」
手ぐすね引いて待ちかまえていた大工や鳶の衆が、合図とともにおおっぴらに店に飛び
込んで方々をたたき壊しはじめた。
「ありがとう、ございます、若旦那……」
終いには自分も駆け込んで手に取れるだけの品を持ち出して、肩で息をしながら番頭が
言った。
「さあ、どうかな、あんたの店は土台もしっかりしてるから。１００の間を取ったことで
壊す時間が無くなった。これでフーゴの描いた火除け地が作れないとなると、本陣までい
くかも知れん……」
ブチャラティはいつもの冷静な顔のまま呟いた。
「そんな……」
その２人の背には、大店の打ち壊される音に重なって、更に、かけ声を掛けて水を送り、
方々に水を掛けて消火に努める街の衆の合唱が響いている。
「いちにのさぁん、いちにのさぁん……！」
「それ、引けえ！ 力の限り引けーえ！ ここを倒せばここで火が止められるッ！」
「ブチャラティッ！ 辻の向こう、二番町の突端がッ」
ナランチャの悲鳴が上がる。
大きい三文字屋の屋根づたいに向かいの店の庇に火が取り付こうとして、くすぶりはじ
めた。
「まだ点いちゃあいないッ！ 絶えず水を掛けさせろッ」
ブチャラティが叱咤した。
拾陸
「若旦那、おれの出番だって？」
そこへ、ミスタが現われた。
「総出で縄を掛けて引っ張ってるんだが、この大黒柱が太くて倒せねえ、もう屋根の端っ
こにも火が点いてるんだからこの店は引き倒してここで消し止めてえんだが」
「そりゃー斧を入れるっきゃないねーって、おい？」
そこまで言って、ミスタは呼ばれた理由に思い当たった。
「大筒で吹っ飛ばすってのはありじゃないか、え？ ミスタ」
炎に照らされて、その顔は凄艶だった。
「大筒（大砲）ならアリだろうけどよ、これは護身用の短筒で……」
「できねえのか？」
自分より背は無かった筈だ。女のような顔の、いつも微かに微笑んでいるような茫洋と
した男に見据えられて、ミスタは背筋が伸びた。
「ムチャ言うよ……やるだけやってみるが、どっちへ倒れるかまでは加減できねえぜ？」
ミスタは背を揺すって懐から火薬と弾丸を取り出した。足元に小分けにした包みを並べ、
手早く両方を詰めると、短く口笛を吹いて銃身を擦った。
「壱、弐、参、伍に陸、漆、みんな集まれ！」
管狐どもが集まって、銃身が蛍火を纏った。
「この兄さんが、あのぶっとい柱をミスタさんに撃ち抜けっていうのよ、無茶言うよなァ」
……ミスタァ、ソリャ失礼ダゼェ。
……オレタチニデキネエコトガアルカヨ。
……デッカイ的ジャネエカ。
……近イ的ジャネエカ。
……ブチヌケェ。
……連射ナラ威力ハ凄イゼェ。
６匹の管狐が、口々に不服を申し立てた。
「じゃ、いくかよ？」
ミスタは肩幅に足を開いて、的に向かって立った。その顔は、炎に照らされて不敵に輝
いている。真っ直ぐに腕を伸ばし、両手で短筒を構える。
「ナランチャ、そこの兄さんたちも。危ねえからどいてな」
低い声で人払いをした。
「やれ」
ブチャラティが、合図を出した。
「気ィ散らさないでくれる？」
短く言って、ミスタは引き金を引いた。いつもはのらくらした動きなのに、続けざまに
火薬を詰め替え、弾丸を込めて撃ち尽くす。その動きは的確で俊敏だ。
……イーハァ！
……気合イ入レテイクゼ、兄弟！
管狐どもの支配を受けて、弾丸はうなりを上げて全弾大黒柱の真ん中にぶち当たった！
メキャアアアッツ！
１０数人が縄を掛けて渾身の力を込めて引いても倒れなかった大黒柱が、大きく揺れて
横倒しになった。
「ヤッタアアアッ！」
見物人達からは拍手が巻き起こった。
「今だ！ 水を掛けろ！」
「ここが正念場だよ！」
ドジャアアアアアアッ！
大質量の水の蒸発する音が続いた。
「消えたぞおおおおおッ！」
煙の中から、歓声が上がった。
アバッキオは、とうとう姿を見せなかった。
「よくやった、人死には出ておらぬ様子。取り締まりは番方で引き続き行う」
役人が短く労った。
「恐れ入ります」
早足に歩きながら、ブチャラティは礼を言った。
「うちの組のもんが、あとは目は配っておくから」
渡世の衆が、密かに声を掛ける。
「頼みます」
「あとの片付けはうちの店のものが引き受ける。中の井戸は遠州屋さん、南の井戸は『虹
のや』さんでいいか？」
富吉が追いついて、短く確認する。
「お願いします」
「旦那さんがことのほかお喜びで」
使いの者が、耳元で囁く。
「恐れ入ります」
あとは、誰とも解らぬものが、口々に。
「ブチャラティ、やったな！」
「若旦那、立派だったよ！」
「ありがとうブチャラティ」
「ブチャラティ、お手柄だよ！」
「若旦那、格好良かったよ！」
「ブチャラティ！」
「若旦那！」
賞賛の声の中、ほとんど走るようにして、ブチャラティは南四番町「ミよしの」に向かっ
ていた。
拾漆
「は、は……」
目の辺りにすれば、笑うしかなかった。
間口一間なのは、ここら辺りの店では普通。店主とおかみさん２人の店は、両隣の店と
同様、まるきり焼けていた。幼い頃は、使いに来たこともある。見間違いようもないこの
店で、アバッキオは焼け死んだというのだろうか。
「ああ、このところは毎日、朝から。今日も、来てたよ」
逃げおおせた向かいの店の看板娘が、目を向けられて、言葉少なに答えた。
「屋根伝いだったから、梁が焼け落ちて、出口を塞いで。……声はしなかった」
手を振って遮られて、娘は黙った。
「おれは、信じねえぞ」
ふらりと、ブチャラティは近寄った。まだぬくみの残る灰の上を進んで、臼や蒸籠の燃
え残りを手で避けた。
「おまえの、髪の一筋、骨の欠片でも、この目で見ないことには、信じねえからな、おま
えが、菓子屋の後家と心中なんて、わるい冗談だぜ……」
そのまま膝を突いて、灰の中を手さぐりに探し始めた。と、その手もすぐに止まる。
「アバッキオーッ！ 返事をしろーッ！！」
涙を零れさせながら、ブチャラティは肩を震わせて叫んだ。
「呼んでるよ、さ、返事をおし。相対死にされちまったよ。あたしは死んだ亭主に操を立
ててるってのに、迷惑なこと」
焼け跡の、地面の下から声がした。眼をやると、地面の一角の、色が僅かに違う。
「……穴、蔵？」
土蔵を建てるまでもない庶民の店では、床を掘って貯蔵庫として使うのだ。火事に対し
ての備えも兼ねて。
「さあ、色男、蓋を開けておくれ」という声とともに、ガタ、ガタという音がして、地面
の一部がゆっくりと持ち上がった。
色の抜けた髪が、まず、暗闇に光った。
「ああ、眩しい。もう夕暮れだけど、穴蔵の中よりはまだ明るいね」
続いては、年かさの女の声、年増と言うにはかなり年行った……。
現われたのは、ブチャラティが想像していたのと変らぬ媼（おうな）の姿だった。そう
だ、夏に死んだ主人ももう白髪で。連れ合いも似合いの年で、高砂の人形のような２人が
やっている店だった。その後家を相手に色っぽいことなど起こりようもない……。
「まずお内儀から」
「ばあさんでいいよ」
はきとしたものいいは気の強さを感じさせる。きびきびした物腰で、床下の物入れから
這い出てきた。
「ああ、さっぱり焼けちまったね」
「おれまで入れて貰ったから、だいじな商売道具を入れられずに、済まないことをした」
「人助けが先だよ。最近は随分手伝って貰って助かってたんだし……」と、まだ背後に声
を掛けていたのを、向き直って、あっけにとられて見守っているブチャラティに目を留め
た媼が言葉を切った。
済まなそうな顔で、アバッキオが這い出てきた。呆然と見下ろしているブチャラティの
顔を見上げて、いっそう顔をしょげさせる。
「生きていたのか……！」
ブチャラティが飛びつくように２，３歩を進んで抱きついた。
「ほら、入って良かったろ？」
訳知りの笑顔になって、「ミよしの」のおかみは２人からそっと離れてやった。
「出口が先に崩れちまって、往生したら、お内儀が、うちには穴蔵があるからって、入れ
てくださって。巧い具合に空気穴も開けてあったから、そこは、多少窮屈だったが、いや、
狭い中に女性（にょしょう）と２人きりだったからといって艶めいたことはなにも、おれ
は、……解ってるだろ、
……おれは、あんただけだから。
あれだけ言われていたのに、火事の手伝いに行かれなくて済まなかった。ほんとに、役
に立たない男で相済まん、済まんがこれで見限らないでくれ、男手がなくて困っておられ
たから、手伝いをして、ゆくゆくはほんの毎日１０文、２０文でも店に金を入れようと……」
ブチャラティに誠を見せつけられ、アバッキオは口べたなりに必死で説明した。支離滅
裂だと自分で感じながら、それでも心折れずに口を動かしつづけた。
「いい」
ブチャラティはただ腕に力を込めて、ひしと抱きながら、短く告げた。
「生きていてくれたから、それでいい」
「済まなかった、今まで。おれは本当に生き汚い男で。２度も生き死にの境目で、……あん
たのことを思ったら、死にたくないと思って。
あの日、あの雨の中、傘を差し掛けてくれたあんたは花仙のようだった……。幻のよう
にきれいで、あたたかで……あのときから、おれは。
命を懸けられるかって、そんなこと、おれに聞かないでくれ。あんたのことを、想わな
いわけがないだろう、あんたになにかして返さないでおれるわけがないだろうがッ。
だが、どうしてもあんたの他にはこの身体を許すことは出来ねえ。あんたはそれが目当
てでおれのようなものを生かしておいてくれたそうだが、そこは、どうにも譲れねえ。こ
このお内儀に弟子入りを願っているところだから、それが許されたら、おれをあの店から
出してくれ。いや、あんたと離れて生きたいんじゃない。
頼む、あんたの側で、……生かせてくれ」
アバッキオも、今は洗いざらい吐き出すしかなかった。
「バアちゃんの手伝いに来てたのかァ」
追いついたナランチャが、自分の仕事と心得て事情聴取をした。
「うちの味が気に入って、ひいきにしてくれてたんだけど、亭主が亡くなってからは生地
がうまくつくれなくなってさ、やっぱり、あんな皺腕でも男の手だったね、あたしの力じゃ
あ足りないのさ。お客さんも随分離れて……。
訳を話したら、手伝ってくれると言ってくれたのさ。おや、あんたたちには何も言わな
いで来てたのかい？ そりゃ気が揉めたことだったね。
アバッキオは力持ちだし、根気強いからホント役に立ってくれたよ。顔に似ず、真面目
でねえ。
これからは少しは給金も出すから、貸しておくれでないかねえ……？」
「それはブチャラティに頼んでみなよ。でもバアちゃん、アバッキオに手を出しちゃあダ
メだぜ」
「なにを言うかね、この子は。バカにおしでないよ、あたしは亭主に操を立ててるんだよ。
それに、あれを見たらそんなことはできないよ」
２人はまだ抱き合っていた。
拾捌
あとは、風呂に入ってさっぱりしていると、約束通りに明良太夫からの招待がかかった。
「さあさあ、今宵は飲んでおくれ、食べておくれ」
太夫はじめ遊女たちも風呂を使って、化粧も改め、いっそう着飾って現われた。
「なんでも歌いんす、踊りんす」
「よくやっておくれでありんす、主さんたちのねぎらいの席にありんす」
「比たむき」には彼らは裏方として出入りしていたが、店の奥に籠もりっきりの上位の遊
女たちが、はじめて親しく宴席に侍って、我も我もと酌をしたがった。
ひとの見慣れない短筒を使って、三文字屋の大黒柱をへし折ったというのでミスタがお
おっぴらに賞賛された。だが、本人の希望に反して、寄ってくるのは同じく消し方として
手柄のあった大工やら男衆で、次々酌をしながらあれはどういったからくりか、管狐は、
見えたものと見えないものがあったので、実在するのか、どうなのか、論争でまた盛り上
がった。
「いいけどよー、もっと綺麗どころも寄ってくれよぉ」
賑やかなのはよいが、ミスタはおおっぴらに愚痴った。
「あれ、そういうこと言いなんすか」
はじめからずっと側に侍るなじみの遊女が、ミスタの尻をつねった。
ミスタにはもうなじみの遊女があるので、そこは女の仁義があって、そうそう媚びを見
せられない事情もあるのだ。
「そりゃおれには小糸さんがいるけどよー」
「きらら、るり。ミスタさんについて上げなんし」
小糸があとを禿に任せてつと席を立った。
「おい、どうした」
「お化粧直しにありんす。将来の太夫が２人も付きんす。ごゆるりとお楽しみを」
「おい、機嫌なおせよ、おい」
ミスタが中腰に声を掛けた。
「姐さんのお気を悪くなさりんす」
「ミスタさん罰杯にありんす」
「呑めってか？ ああ、いいよ……」
左右から酒を注がれて、ミスタは居心地悪く座り直した。
火除けの指示を出した知恵者として、フーゴはまずその智恵を慰労された。が、そこは、
ひごろ権勢のある、つまりは年行った男の相手ばかりを勤めていた遊女たちだから、珍し
い美少年として群がった。
「可愛らしいお子にありんす」
「上方の生まれにありんすか、どうりで、臈長けて」
「お手を。指のながいこと、ああ、眩しいほど高貴（あて）でありんす」と、言葉をきわ
めて褒めちぎる。
「お髪（ぐし）ももう伸びて」
「まあ、絹糸のよう。これは髷を結いなさったらよう映（うつ）りんす」
「ぼ、ぼくは幼時に寺に入ってより生涯不犯を心に誓い、仏門の教えを守り世の不思議を
究め尽して衆生を救おうと……ちょっと、触らないでくださいッ！」
白粉の匂い、焚きこめられた香の匂いにぽうっとなりながら、フーゴはムキになってそ
れを拒絶する。
「尊きお心がけでありんすが、ここは色街、あなたさまも還俗なすったからには、男女の
愉しみをお知りになった方がようありんす」
盃を勧めながら、にっこりと明良の次席の遊女がにじり寄った。
「まだ早いですッ」
「ではその気になった折には、是非東雲（しののめ）をお名指し下さるようお頼み申しま
す」
「あれ、姐さんあからさまにありんす」
嬌声が、上がった。
「いーな、フーゴ、もてて」
引き離されて、自分は年増の中位の遊女どもに猫かわいがりされながらそれを遠く望ん
で、ナランチャが呟いた。年増といっても年季が明けていないから、まさか三十路までも
いっていないが。それに、母にはやく死に別れ、面倒を嫌った父に寺に放り込まれたナラン
チャにしてみれば、年増な位の方が好ましい。お職を張れるほどの美貌ではないが、親しみ
やすいとくに難のない顔立ちで、なにより気だての優しい……それはもちろん。けれども。
「ナランチャはあたしたちが可愛がってあげるよ」
「今日は走り回って疲れたろ？ 足をさすってあげるよ」
「足以外の所も、うふ」
代わる代わる全身いいこいいこされて。
「さ、誰を選ぶ？」
「三人で遊ぼうか？ もっとがいいかい？」
「えーと、………………お酒もっと下さい」
拾玖
もてているのはミスタやフーゴだけではなかった。
「アバッキオの兄さんは、お酒はいけない質と聞き及んでおりんす」
若い見習が、精一杯の媚びを含んだ眼差しでにじり寄る。
「あたしたちも、まだ子供でありんして、お酒（ささ）は遠慮しておりんすが、その分、
お菓子は贅沢させていただいておりんす」
「おあがりなんし」
「京からの下りものでありんす」
「かしこき辺りに御用達のお干菓子がござりんす」
「かすていらもありんす。お口にあいましょうか」
「さ、お茶も、宇治からとりよせておりんす」
「おあがりなんし」
「口移しにお口にお入れいたしましょう」
口々に言って、にじり寄る。
「じょうだんを言うんじゃない」
アバッキオは首を振って茶を飲んだ。
「おれは今日の所はなんも役に立っちゃいない。ここにはお情けで呼んでもらってるんだ
から」と、小さくなる。
「あれ、ご謙遜」
「『ミよしの』でおかみさんを庇って火にまかれなすったともっぱらのお噂」
「近頃『ミよしの』の餅が持ち直したのは、アバッキオの兄さんが手伝いをされておられ
たのだとか」
「あそこの餅はここの皆のひいきにありんす」
「ありがとう存じますぅ」と、皆々声を揃えて礼をする。
「ああ、最初はそういわれておれも足を向けたんだが……参ったな」
アバッキオは照れ笑いをした。
「お茶をおあがりになりんしたら、……お流れをちょうだいしたくありんす」
ひとりが、意を決したようにアバッキオに言いかけた。
「あれ、初音さん、それは抜け駆け」
「あれ、アバッキオの兄さんが、耳まで赤くなりんした！」
若い遊女の見習いたちが笑いさざめく。
「だめだよッ！ あんたたちッ！ アバッキオの兄さんはブチャラティさんの想い人なん
だからねッ」
明良太夫づきの禿が、きっと振り向いて一声、郭（くるわ）ことばも忘れて一喝した。
「いや、おれは、その……」
アバッキオはまた小さくなる。その純情な質が、やっと町のものにも理解されてきた。
「いいじゃないか、茶の一杯ぐらい。注いでやれよ」
ブチャラティが目配りする。
立て膝になって、アバッキオは急須に手を伸ばす。
「いいえ！ 兄さんがお入れになることはありんせん！」
その手を遮って、アバッキオが返した湯飲みに、その初音と呼ばれた見習いが、自分で
茶を注いだ。そして、アバッキオが口を付けたその縁から、茶を飲んでぽうっと目を潤ま
せた。
「ああ、幸せ」
「そ、そんなんで良いのかい？」
野暮男は目を見張った。
「じゃあ、ご返杯」
「こら、宇治の茶で宴会ごっこをするんじゃないよ！ アバッキオが茶腹になっちまうだ
ろ！」と、見ていた明良太夫がうっかり言葉を崩れさせる。これもまた、この太夫と対し
たときの楽しみなので、堅いことを言うものはいない。
「お客さんにご無理を強いてはいけなくありんす。お行儀良くご接待しなんし」
にっこりと、また太夫の顔になって締めた。
「あーい！」
そこは「比たむき」の自慢の女衆なので、華の笑顔で返事があった。
と、宴は果てて。ミスタは結局機嫌を直した小糸と部屋へ移り、ナランチャは酔ったま
まゴキゲンでその場で眠りについた。フーゴはだからぼくが側に付いていないと、と頑固
に遊女を断ってナランチャの横に掛け布団を持ってこさせて横になった……。
ふと、気がつくと、客は２人になっていた。
「お床入りーぃ！」
仕度が調ったらしい、禿の賑々しい声が掛かった。
「これ、大人をからかうんじゃねえよ」
ブチャラティは少年のようにどぎまぎする。
「あァ……おれはまだ酒が回っちゃいねえが。あんたがいいなら、そっちへ行こうか」
のそりと立ち上がって、アバッキオが寝所へと歩み去った。
「え、あ、ああ、じゃあ、今日はいろいろあって疲れたし、横になるか、な」
ブチャラティはいそいそとその後を追う。
その後は、おそらく初めて心うち解けた夜となった。
結
それから、気分を切り替えて、すぐに復興が始まった。気候の良い東海道沿いとはいえ、
もう１０月も末、焼け出されたまま年を越すわけにはいかないのだった。
南二番町より北は、もとより焼け残ったので、宿場全体が落ち込んだ雰囲気ではない。
この日は、「比たむき」表の店の広間で、連歌の会が持たれた。町の隠居や店主、本善
寺住職など、数寄のわかる名士があつまって、文学の遊びを行う。もちろん、仕出しで食
事を取って、あとはそれなりの宴となる。
「ここな美童は、皆も知るとおり、京都の寺で。古今伝授を受けるところを、その師に挑
まれて蹴倒し寺を出たという武勇伝持ちだそうな。先だっての火事では宿場の絵図に線を
引いて、火除け地を作る指図を迷わずしてのけたという知恵者」
ポルポの紹介に、フーゴは表情を消して頭を下げる。
「よろしくお願いします。
しかしながら、少しばかり話に尾鰭が付いておりまする。わたしが受けたのは古今伝授
ではございませぬ。それでは師も１人に限られてしまいます。あちらにもご迷惑」
「そうだったかの？ それでは伝授を受けたのはなんだったかな？」
「伊勢物語に源氏、宇津保くらいならば一通りは。漢籍も『春秋左氏伝』は終えておりま
す。いつでもご教授して差し上げられますが」
「それは頼もしい」
応じる旦那連中も半分は目が笑っていない。京から流れてきたという秀才を実地に検分
してやろうという気持ちを持つ者がまだ存在している。
発句は、三文字屋の隠居が詠んだ。
「吹き抜けて 野分の後の空のいろ」
執筆という読み上げ役がおうむ返しに詠み上げる。
１０月の末で野分（台風）というのはいささか季が遅いが、その程度は目くじらを立て
ない、まだまだしろうと芸の会であった。
先ほどの火事の翌朝の、吹き払われた青空を一同はふと連想した。
次、脇七七を付けるのは、フーゴであった。
噂の美童の資質を曝こうという冷たい視線がフーゴに降り注ぐ。
フーゴはいっさいを無視して、雅の世界に魂を遊ばせた。筆を取って、七七を手元の懐
紙にしるす。
「うらみの葛の果て限りなし」
すぐさま執筆の復唱が座敷に響く。
ほう、と広間に感嘆のため息が拡がった。
「これは……」
「爽やかな秋の風情が、一転、艶めかしくなりましたな」
「野分に葛は王朝の取り合わせだが」
「葉の裏が見えると恨みを見せるの掛詞でござんすな」
葛の蔓のもつれる様がまた色恋のもつれを暗に表わしておって」
新築した隠居所が燃え、店を打ち壊された恨みもあるのだろうと、三文字屋をからかっ
ているようでもあって。
「とても、数え１７の童の句とは」
「これは、末頼もしい」
「さてさて、これにはどのような句を付けましょう？」
「これは困った」と、大人の笑みが続いて。
「蟷螂（とうろう）の 斧振り挙げて待ちおれば」
次を付けたのは、南五番町は「虹のや」の店主。
「これはまた」
「小さな所へ目が行きましたな」
「上を向いておったのが、目線が下へ行き申した」
「これは奥深い」
連歌の醍醐味はここだ。半分だけ重なった円が連なっていくように、少しだけ世界を共
有した詩句をその場に会した一同で即興的に作り、芸術を作り上げていく。孤独で完結し
た世界ではない面白みが社交の席にもふさわしい。
会はいよいよ盛り上がっていった。
そして、新庄宿南四番町では、「男前餅」という新しい名物ができた。
「ただ火消しの衆として、色街でぷらぷらしてればいい身の上で、ねえ」
「連れあいを亡くして、あとは店を畳むだけだってばあさんに同情して、店を手伝ってん
だとよ」
「この前の火事じゃあ、逃げ遅れたばあさんを探しに、火の中に戻ったとかで、お代官様
が心意気も男前であると『男前餅』の名をお許しになったと」
「これが、役者も逃げるような男前で」
「面ぁおがむだけでも意味があるところへ」
「味の方も間違いがねえ。でかい図体で、しんねりと真面目に搗くもんだから、もう、天
女の柔肌みてえな柔らかさで。いっぺん食べな」
と、噂が噂を呼んで、一時は廃業寸前だった餅屋「ミよしの」は繁盛したかというと……。
「こっちが胡麻を擦って餡にした胡麻餡、こっちは胡桃を使ってみた。……どうだ？」
今日も今日とて、長い髪をきっちり手ぬぐいでまとめて菓子職人になりきったアバッキ
オが、新製品を出してブチャラティに味見させている。
「えーと……ああ、うまいよ、どっちも」
ブチャラティは熱の籠もった眼差しに負けて、２つとも口に入れてなんとか飲み下した。
「遠慮は要らないんだぜ？ まずかったら言ってくれ、あんたの好きなように加減するか
ら」
その様を見て、アバッキオはやや眉を顰めながら、顔を近づけて真剣に問いかける。
「いや……うん、甘いな」
甘いものに関心のない身では、ただただそう言うしか芸がない。
「済まねえ……ダメか？」
なすすべもなく潮垂れる顔を見せまいとアバッキオが背を向ける。
「いやそうじゃない」と、慌ててブチャラティはその手を捉えて引く……。
しじゅう２人してそんなことをしているから。
「ケッ、見てらんねえ」
「いやもうほんと、甘いねえ」
男衆は頭を振って足早に立ち去り、女衆はここの店頭に貼り付いて離れないのだった。
東海道新庄宿では、岡場所の若衆に束ねられた町火消しが発足したと話題になった。年
若い、それぞれ家を失い寄る辺ない身で色街に吹き寄せられたはぐれ者の若衆に火消しの
役目がつとまるかと代官所は一時危ぶんだが、いろいろ才のあるものだったので、そこは
うまく取り仕切って、その後もうまく代替わりが行われ、新庄宿では以後幕末まで、大火
がほとんどなかったそうである。
２４−１０−１２
蛇足。
華ゑさんのところの花魁パロディ本「愛（かな）し唄」（名作！）に漲ったんですが、ど
うもおかあさん上手く書けなくて、そういえばもともとブチャアバを書き始めたのは、ブチャ
チームがご存知時代劇の火消しの何とか組の皆さんみたいだわーってのがあったことを思い
出して（初恋のスターは「暴れん坊将軍」です）。じゃあ火消しのチームにしてみようかと
方向転換したら何とか書けました。書いてる間に時間が経って、１２０００ヒットを達成し
たので、記念作品てことで。読んでくださったかたはどうもありがとうございます。
かれらを日本に持ってくるに当たって最大のネックはヨコモジ名前！ いろいろ悩んだの
ですが（阿蘭茶はその名残）、結局原作通りにしました。吉宗のあとの時代という設定だか
ら、南蛮学が解禁になって、南蛮風に名前を付けるのが流行ったんでしょう、きっとそうよ。
時代考証はわりと無視でお願いします。新庄宿なんて、そんなもの、東海道にはないよ
（きっと）。
彼らが髷を結ってない理由についてはいろいろこじつけたのですが、まあいいじゃない。
アバッキオの髪が白い理由だけは強引に持っていきました。ここだけは譲れないポイント
だから。
あとで気付いた！ 「スクールデイズ」といい、「スラ猫」シリーズといい、ブチャアバ
を日本に持ってきたらみんな桜に絡んでた。おかあさんどんだけ抽出少ないの！？ 海より
深く反省。
ミスタさん無理矢理に銃を持たしてみたけど、六連発リヴォルヴァーじゃなかったらピス
トルズが六人いる必要ないじゃん！ スタンドはなしで、ピストルズだけ出演というなにこ
のひいき。例によってナランチャは空気でジョルノ様はいない（ヒドイ）。
男同士のブチャアバを書いてみたら、なんか書けないでもなかったけど、やっぱりおっぱ
いが付いてる方が書いていて楽しいわ。どうもすいません。ホントすいません。
日本にもってきたから、本家のブチャアバでできないことを。
モンゴロイドにだけ、一定数いるお酒の分解酵素のないひとは、逆に白い人や黒い人には
ほとんどいないそうです。アバッキオがブチャラティに疑われるネタとして、菓子に走る理
由として使いました。お酒に弱いアバッキオがいたっていいじゃないか！
おまけ。
「アバッキオさんに、ちょっとお裾分け」
ゴキゲンな明良太夫が、アバッキオに包みを手渡した。
「お客さんからのもらいもんだけどさ、南蛮菓子。堅焼きにしたかすていらに、干し果物や、
木の実なんかを混ぜ込んであるんだと。日持ちもするらしいんだけど、食べてみておくれ」
「そんな珍しいものを、おれなんかが貰って良いのかい？」
「あれ、だって兄さんは自分で工夫して同じものを作ってくれそうじゃないか。あたしが食
べて消えるよりか、あとで兄さんが似たようなものを美味しく作って振る舞ってくれれば、
店のみんなが楽しめる。我ながらいい手だと思ったんだけどね」
「なるほど。では馳走になろう……？」
酒に弱い色男は、一口食べるなりひっくり返ってしまった。
「ああ、仕上がってから南蛮の焼酎に漬け込むんだって聞いたけど……やっぱり兄さんは下
戸なんだね」
アバッキオ、ブランデー・ケーキに轟沈するの段、おわり。
食べる前に匂いで気付け。
アバッキオをこっちでもパティシエにしてしまってどうしましょう。こういう真面目だけ
ど口の重いコは職人として作ったもので勝負して大切にされればいいと思ったので。
そしてブランデーの香りのプンプンする菓子をわざわざ恩に着せて食べさせる太夫……やっ
ぱ意趣返し？
汗顔のつけたり。
＞「さてさて、これにはどのような上五を付けましょう？」
つっといてその後の句は七七だったという大恥。それじゃ連歌にならないでしょうが。
かっこつけて慣れないことはするもんじゃない。
「今振り挙げる蟷螂（とうろう）の斧」→「蟷螂（とうろう）の斧振り挙げて待ちおれば」
に直しました。すいません。
ああっもう穴掘って春まで隠れていたい！（もうサクラ咲きましたが）
２４−０３−１３
まめさんのテブロの「チームＢ推し」というネタが解っていなかったわたしですが（流行
ものに疎い）、ふとユーチューブに繋いで探してみれば！ これは確かにブチャチーム・
ソングだ。
このジャポニズム・ヴァージョンで宿場で総選挙とかやって誰が一位になるかとか華々
しくやったら楽しかろうとにやにやしてました。やっぱ手ぬぐい買って握手会！ とかや
るんだろうか。
アバッキオはばあちゃん連中が盛り上げて、フーゴは旦那連中がひいきで、ナランチャ
は年増受けでミスタとかは後家さん相手に枕営業バリバリにこなしてとそれぞれ支持層が
違ってたりとか。
でも、キャリアから言ってブチャに決まってるだろうから無駄ァかな？ アバッキオは
自分の票をブチャに回したりとかしそうだし。
だいたい、あのチームでセンターを決めてどうしようというのだろう？
纏持ちポジション？ じゃあフーゴとナランチャ無理じゃん（あっさり言う）。
う〜ん、もうちょっとなんかないとお話にはならないかな？ どうでしょう？
和風ということで、以下の素敵な素材サイトさんに素材をお借りしました。
