甘いお誘い
その朝（３０）
意地っ張りと鉄面皮がケンカをすると、またしても周囲は冷え冷え。
「アバッキオ」
「フーゴ、おれは金輪際あいつに振りまわされるのはごめんだ。謝る気もねえ」
アバッキオがここまで言うのだから、そうとう傷付いたらしい。
「だが、あいつは上司だ。おれはここより他に行くとこはねえ。受け持ち分の仕事だけは
やるから、それでも気にいらねえってならおれを殺せ。
そう言っとけよ、おまえのだいじな女神様に」と、言い放つと腕を組んで眼を閉じた。
もうはや、外界とのなんの接触をも断とうという意思表示。
「なーなーブチャラティ？ 頼むよ何があったんだよ？ ブチャラティ微笑（わら）って
ないとおれたち哀しいよォ。言ってくれたらアバッキオに謝らすからさあ、訳を言ってく
れよォ」
こちらではナランチャが執務中のブチャラティに文字通りまとわりついて口を割らせよ
うとしている。まったく当初の目的は果たしてはいないが、じゃれつかれたブチャラティ
の方は少しは心和んでいるから、チームの全体の雰囲気を良くすることには地味に貢献し
た。
「別になにもしていない」
ブチャラティはあっさり言って書類をまとめるとクリップで綴じて既決のトレイに入れ
た。
「向こうが勝手に拗ねているだけだ。最近忙しかったからな」
やっと、引き結ばれていた唇が緩む。ほんの、２月の陽光ほどの微笑み。
「えーそんであんだけ怒んの？ ガキじゃん！」
ブチャラティの方でも自分の方のストレス解消の意味も込めて、時間を作って気力体力
を振り絞って構っているのだが、その方向性が間違っているので繊細な色男はへそを曲げ
てしまったのだ。
「これをフーゴへ。これで一段落付いたし。まあ手を打ってみよう」
既決書類が山になったトレイを示して、ブチャラティは立ち上がった。細い指先が、眉
の上の、眼精疲労に効くツボを無意識に押していた。
「ご機嫌なライオンさんに仲直りのデートの誘いだ。受けてくれるかな？」
２枚のチケットを指先に挟んでひらひらさせて、とぼけた顔でブチャラティはアバッキ
オの前に立った。けだるそうに眼を開けた百獣の王様を、あの手この手でだまくらかして
ブチャラティは約束を取り付けた。
「急なことだから、演目はおまえの好みとは合わないかも知れないが」
なにかクラッシックのコンサートだそうだ、ささくれた気分も癒されるだろう。そう言っ
て、昼のコンサートに誘い出す。
「コンサートの後には、甘いものでも食べようじゃないか。今時分なら栗がうまいかな？
この際学生みたいに大きなパフェの山を二人して征服してみようか？」
「バカを言うな」
渋々、といったふうでライオンさんは腰を上げた。
柔らかな色合いと素材のアンサンブル、もちろんスカートはほどよい丈で細い脚をすん
なり出している。化粧も昼のお出かけにふさわしい範囲でしっかり仕上げていて。
……ほんとにこのひとは気合いを入れるべき時と場合が解ってる。
……役得ッ。
……また時々ケンカしてッ。
言葉に出さずにチーム・メイトたちは喜んでいたりする。
ほんとにごく久々にきれいなシニョーラ・ブチャラティを見て、もうそれだけでアバッ
キオの機嫌はよくなっているが……目を半眼にして、歯を食いしばり、意地でも顔を緩め
たりはしない。
……だからッ、いつもいつも女がこうすれば男はみんな喜ぶと思ってるその辺があんた
は間違ってるって言ってるのにッ……畜生、ホントいい女だよなァ。
それでもほけほけとコンサート会場まで付いていって、そこでアバッキオはぎょっと
する。
「……赤ちゃんと一緒に良い音楽に包まれましょう
マタニティ・クラッシック サロン・コンサート」
ポスターまでパステル・カラーの穏やかな色彩に彩られている。
「……ブチャラティ？」
「うん、やっぱりフーゴに聞けば良かったかな？ 一番日の近い空いているコンサートを
取ったんだ。いけなかったか？ おまえはやっぱりどっしり重い宗教曲なんかを聴いた方
がいいのか？」
「いや、別に、おれはあんたと出かけられれば演目の方はとくに……」と、突っ張りも腰
砕けになる。
「まあ！ ブチャラティ、もしかしてあなたもなの？」と、街の若奥さんが、大きなお腹
をして小走りに近寄ってくる。アバッキオは肝を潰す。冷や汗が背中を伝う。
「あら！ ブチャラティ久し振り」
「そちらが噂のいいひとなのね？」
「フロラじゃないの、しばらく！」
同じ年頃の女性たちだから、学校の同窓生などもいたようだ。とたんにロビーに妊婦の
輪ができる。
「いや、そうじゃない。今夜これから作るんだ」と、いつものようにブチャラティはとぼけた顔で言う。
「きゃーッ」
黄色い声が上がって、アバッキオは顔色をなくして立ちつくしていた。
間の悪いことに、席順の決まったホールなどではなくて、わりに演奏者との距離も近く、
席も自由になるサロン・コンサートで。
「あなたたち真ん中に坐ってよ。目の保養にもなるわ、一石二鳥、なんていいコンサート
だこと。きっときれいで芸術に造詣の深い赤ちゃんが生まれるわ」と、×図々しい○積極
的な妊婦に指図され、二人は会場の真ん真ん中の特等席に坐らされ、衆人環視の上で、
「白鳥」やら、なんとかの瞑想曲やら、メヌエットやらを拝聴した。
「ごめんなさい。もう我儘は言いませんから堪忍してください」
帰り道、アバッキオは血でも吐くような勢いで詫びを入れた。
おまけ
「でさー、ブチャラティ結局口割らなかったんだけどさーケンカの原因ってなに？」と、
ナランチャが手づかみでエクレアをむしゃむしゃやりながら言った。
「だよな。ま、やっこさんたちのことだから、案外単純なことだろうけど」
ミスタはドーナツを切り分けて彼のスタンド達に与えているが、争奪戦が起きてしまっ
てそちらに気を取られている。
「最近忙しかったですからね、ブチャラティも結構我儘で、それで結構ずれてますから、
一方的だったんでしょう。おおかた、
『そんなんじゃねえッ、おれはふつうにちょっといいカッコしてコンサート行ったりとか、
ふつうにちょっと買い物してぶらぶらしたりとか、ちょっと遠出してきれいな夕焼け見た
りとかしたいだけでッ！』とかそういうんですよ」
「あーシヤワセなんだねー」
ナランチャが甘すぎるクリームをなめた顔で言った。
「だな」
ミスタが頭を振った。
（０５−０８−０９）
蛇足。
とぼけた顔して黒いブチャラティでした。いやほんとうに適当に取ったらマタニティ・
クラシックだったのかも知れない。嫌だそんな引きの強さ。そんでもって、
「わたしはきれいなおまえを見せびらかせて嬉しかった」とか素で言っちゃうからアバッ
キオは絶対勝てない。
いやでも、疲れてるんだ から、ちょっとハグしたり、二人でぼーっとしてるだけでい
いのに、寂しくさせて済まないとばかりに何が何でもフルコース！ とやられたら怒るよ
ね？ ソレだけが目的なんじゃないって（嗚呼それなのに毎回思いっきり翻弄されて愉し
ませて貰っちゃってオレの下半身のバカ！ と自己嫌悪でめり込んで地球の裏まで行っちゃ
う勢い。あ、すいません、例によってその思いっきり翻弄されて愉しませてるシーンはな
いのでご自分でそれぞれ補完してください）。
男と女（男と男については知らん！）は難しいのでした。
時系列的には、ミスタがいるので２０００年の夏以降。忙しいのはたぶんグリマルディー
ニの引き継ぎ問題だから秋以降って、「媚態」と一緒じゃん！（しかも媚態は冬に近い）
あの秋冬はケンカばっかしてたことになりますね（もう少し考えて書きましょう）。