ア・ラ・アルルカン
リヴァースモード生還篇（７）
１
春まだ浅い３月の末、ローマの高級アパートメントは金髪の中年女性達の襲撃を受けた。
「まあ、アパートっていうからドアを開けたらベッドルームまで見通せるような狭い仮住
まいと思っていたら、結構なところに住んでるじゃないの」
「あ、はい……」
「ああ、やっと泣きやんだ……こんなに人見知りだなんて、やっぱりあんたの孫だわよ、
クリスタ」
「レオナもほんと手のかかる子で……ああ、ありがとう。メイドに子守もいるなんて、思っ
たより大切にして貰ってるようね、レオナ」
「はい、母さん」
「甘やかしちゃいけませんよ。ああ、もう少し薄着にしてもいいくらい」
「はい、叔母さん」
「離乳は始めているんでしょうね？ もう軟らかく煮た魚もあげてもいい頃ですよ」
「あ、はい……野菜はいろいろと」
代わる代わる先輩主婦の細かい指導を受けて、アバッキオは小さくなっている。
「もう部屋へやって、寝かせてあげなさい」と、アバッキオの母は孫を部屋から出すよう
指示を出した。
「お茶のお代わりも結構」
それは人払いの合図だ。
「それにしても可愛いと言うより美しい子だこと」
「目の色は濃い茶色ね」
「髪も黒々としていて……」
目と目を見交わして、短く言葉を交わすのにアバッキオはいよいよ震え上がっている。
「レオナ」
向き直って、厳かに口を開く母を見て、アバッキオは緊張した。
「あなたに言っておくことがあります。
あなたはもう忘れたかも知れませんが、あなたの父、ステファーノのお母様は若い頃魔
女と呼ばれた方でした」
「え？」
魔女と呼ばれたのは母方、今はそれはスタンド能力と理解しているが、「妖精を呼べる」
不思議な力を持った祖母ではなかったのかとアバッキオは問い返そうとした。が、母の揺
るぎない瞳はそれを却下した。
「目の色も、髪の色も濃い茶……ほとんど黒だったそうです。あの町では珍しい……かれ
の家では時々出るそうですが……サラセンの血が入っているという噂で、幼い頃からよく
そのことで苛められたので強い気性に育って、そのせいでも魔女と呼ばれたのでしたが、
年頃になる頃には髪の色も目の色も薄くなって、ひとに混じってもそう目立つこともなく
なったそうです。代々そういう体質らしいです」
「そうですか」
記憶の中の祖母は、もう白髪になっていて、もとの髪の色など想像させなかった。目の
色も、優しい茶色としか覚えていない。
「この子はその血を継いだのね、きっとそうでしょう」
決めつけて、母は背筋を伸ばした。
「あ、はい、そうかも知れません……」
結婚を許して貰いに行ったフーゴは、亜麻色の髪に碧い瞳だ。明らかに赤ちゃんとは違
う。妊娠が先と言うことで母はさんざん外聞が悪いだのまだ若いのにふしだらだだの説教
をし倒した。フーゴは堂々とそれに耐えてくれたが、母の直感はかれが赤ん坊を押しつけ
られただけだと真実を見抜いたのだろう。世間向けの言い訳を教えてくれたようだ。そう
読んで、アバッキオは母に感謝した。
「マレーナもちゃんと育っているようだし、ちょっとあたしたちのお願いを聞いてくれな
いこと？ レオナ」
叔母が声を潜めた。
「はい、なんでしょう……？」
お願いの内容を聞いて、アバッキオは絶句した。
「無理です！」
「あんた、警察をくびになってから音信不通で、やっと顔を出したと思ったら大きいお腹
をして現われて、どれだけあたしたちを心配させたか、恥をかかせたか、解っているの！？」
挨拶に行ったのはまだお腹も目立たない頃だったので、女達が騒がなければアバッキオ
家の末娘ができちゃった結婚をすることになったことは町の衆には解らなかった筈である。
「フィリッポは出入りの業者さんにお願いしてあんたの行方を捜してくれてたってのに、
よくも！ あれからもうざっと１０年はうちの町からはだれも警察学校を受けられないだ
ろうって町長さんも仰っていらして。あなたはそれだけのことをしでかしたのよ、解って
いるの？」
「はい……すみません」
アバッキオは小さくなった。
「いいこと？ うちはもう進退窮まったの。あんたにお願いするよりこの危機を脱する手
はないの。そりゃあたしだって無茶だと思いますけど、聞いて貰いますよ」
「レオナ、あなたも母親になったのならチェチリア叔母さんの気持ちが解るでしょう？
ほんの１週間のことなのよ、話はパンナコッタにもしてありますから、今日からでも来
て貰います」
「ええ今日……今日って、母さん！？」
フーゴをその偽名のファースト・ネームで呼ぶのはちょっと、と注意が逸れていたアバッ
キオはあやうく肯くところだった。
「荷物をまとめてちょうだい。詳しい話はうちで」
「チェチリア叔母さん、だって、マレーナはどうするの！？」
「置いていって貰うわ。子守は住み込みなんでしょう？」
「だって、おっぱい……」
「離乳は進めているんでしょう？ 一週間ぐらいあなたがいなくてもなんとかなります。
フォローアップ・ミルクというものがあります」
「母さん、ちょっと、困ります、あたしはこのうちの……」
「こんなにメイドさんがいたら大丈夫でしょう」
「いったいあなたは毎日のらくらなにをしているの」
「のらくらって、あたしだって時々そ……会社の仕事を……」
「口答えは許しません。さっさと荷物をまとめなさい」
「メイドには暇を出しなさい。節約しないと」
「ちょ、お客様、困ります、奥様をどちらへ……？」
「あ、シニョーレ・モリス、あとで連絡します……マレーナをお願い……」
かくて、マレーナの若い母親はその母親と叔母によって拉致されていってしまった。
帰宅したエノイサップ社の若き社長は、報告を受けて少し笑って見せた。
「ああ、聞いてますよ。ちょっとしたお誕生日のドッキリをやってくれるそうですから。
それにしても、一週間は長いんじゃないですかね。まあ、奥様のお楽しみのためだから、
我慢しますか。
……誰がイタリアのご婦人に逆らえるって言うんです？」
にこやかに執事に説明しながら夕食を口に入れて、そして、その味にほんの少し残念な
顔を隠さなかった。
「……マルタさんも料理人としては一流なんですけどね」
奥様の料理に胃袋ごとハートを掴まれてしまっているので、どうしようもない。
「マレーナのこと、お願いしますね。今夜はちゃんと寝てくれるんでしょうかね……」
とりあえず、日中来客が刺激を与えまくっていってくれたおかげで癇性の赤ん坊はその
夜は大人しく寝てくれた。
２
「レオナ！ 久し振り！ あたしのこと覚えてた！？」
「え、ええ、久し振りオリヴィア、この度はおめでとう……？」
あっという間にネアポリス近郊の自分の生まれ故郷に連れ帰られ、顔を包帯でぐるぐる
巻きにした女性に抱きつかれて、アバッキオは表情を繕うのに苦労した。実は、この従妹
のことは記憶が定かでない。従姉達はみんな年上で、気が強くて、姉たちと一緒になって
アバッキオを女として出来損ないのみそっかす扱いにしていて苦手だった。ルイーゼにマ
ティルデにマルガリータ姉さんにローザ姉さん、思い出すだけで胃の辺りが重くなる。そ
れに比べたら、オリヴィアの名には嫌な思い出がなにもない。いたっけ、そんな子、と思
うにつけ、申し訳なさがこみ上げる。ずっと小さな頃、ちょこちょこと自分について回る
幼い女の子がいたような記憶が……やっと思い浮かんでアバッキオはホッとすると共に胸
が苦しくなった。それを見て取って、オリヴィアは包帯の下の唇を動かした。
「いいのよ、いつもあたしハブにされてたもんね。おねえちゃんたちはレオナまでは構っ
てくれてたけど、あたしのことは……もうレヴェルが違いすぎて」
「そんな……年が違うからしょうがないのよ」
オリヴィアは１つ下だそうだ。２１になったばかり。結婚も決まって、女性が一番輝く
季節の筈だった。
「あたしもやっと幸せを掴んだと思ったら、これだもんね……お願い、レオナ、こんなこ
と、あなたじゃないと頼めない！」
オリヴィアは、気合いを入れたブライダル・エステが失敗して顔に酷い炎症を負ってし
まったらしい。つてを頼って雇った弁護士が慰謝料をふんだくるために頑張っているらし
いが、金を幾ら貰っても、これから最高水準の治療を受けたとしても、３日後の結婚式に
は珠の肌は戻らない、間に合わない。
「だって、オリヴィア、本気なの？ 花嫁さんとすり替わるなんて……式は延期できない
の？」
「無理なの！ かれは忙しくて、やっと空けてもらった日なの。すぐに地球の裏に飛ばな
くちゃならないのに……こんなになっちゃって。
仕事の関係のひとたちにもあたしを披露しなくちゃならないのに！ こんな、みっとも
なくなっちゃって……無理！
ねえ、レオナ、あんたも女なら解るでしょ？ こんなひどい顔で結婚式なんて挙げられ
ない！ パーティに集まった人に顔を見せるなんてできない！
……あなたはちゃんとしてもらったんえしょう？ いいなあ、綺麗だったんでしょうね
え……」
「え、ええ……」
役所で略式に済ませたこともあり、妊娠していたこともあり、アバッキオは結婚披露パー
ティをやっていない。全力でボス・ジョルノが嫌がらせをしてくることも予測できたので。
写真も、無事身二つになってからと後回しにして、そのうちそのうちといっているうち
にもう８ヶ月だ。フーゴは済まなそうにしていたが、アバッキオはそれどころではなかっ
たのでもうすっぱり諦めている。
「一生のお願い！ あたしのかわりに花嫁役をやってちょうだい！」
泣きつかれて、アバッキオは硬直した。ふつうの女の子ならそう思うのかも知れない。
相手はちょっとした会社の社長で、玉の輿なのだそうだ。無視され、軽んじられてきた従
姉や姉たちよりよっぽど良縁だ。見返してやりたい気持ちは解らないでもない。
「だって、いくらなんでも解るでしょうよ……」
まっとうな理由を付けて断ろうとするが、そのオリヴィアの母、チェチリア叔母が写真
を持ってきた。それを見ると、さすがに納得してしまう。いつ撮ったのだろうと思ってし
まうほど自分にうり二つの女性が、ブルネットの堂々とした男性と仲睦まじそうにしてい
る。
「ね？ わかるでしょ？ あんたたちは双子のように似ているのよ。ほんの一週間、結婚
式と、披露パーティの間、オリヴィアの代わりを務めてやってちょうだい！」
食い入るように見ていてしまった写真から眼を上げると、叔母の背後でライトがひとつ、
ふたつ、意味ありげに光った。
「ええ、オリヴィアの身がわりを……務めます」
アバッキオは、ぼんやりと肯いていた。
「それでパンナコッタはいったいどういう仕事をしているんだって？ あんな若いのに社
長って……」
中年女性の追求は根掘り葉掘りだ。
「言ったと思うけど……ＩＴのヴェンチャー。学校は飛び級で高校までちゃんと出てる。
ちょっとしたトラブルでうちを出て、一緒のチームにいたんだけど、来なくなったと思っ
たら会社立ち上げてて、……あんなになってて」
この辺りの素性のぼかし方は、話す相手をいろいろ想定して何度も練習してある。実際、
フーゴが経営している会社の中にはそういう会社ももちろんある。経理の仕事を手伝って
くれるというふれこみで税金をごまかす二重帳簿を簡単に作ってくれるプログラム・ソフ
トを商っているのはまだまっとうな商売のうち。ネットを介して厄介なウイルス・プログ
ラムに感染しないようにチェックをしてくれながら、こっそり顧客のクレジット・カード
のデータやアクセス状況などを盗み取って流すプログラムも扱っていたり、さらには覚悟
もスキルも知識もないのにアダルトサイトにアクセスしたオジサンや坊やを脅して小金を
ふんだくったり、と、「マヌケ」を相手に金を巻き上げる商売の性質は業界が変っても変
らない。
「チームってのはれいの『町の皆さんのお役に立つ仕事』ね？ ＩＴってのは今流行りの
世界中で繋がったコンピュータがどうとかよね？ ヴェンチャーってのはなんのこと？」
「え、ううん……そういう特殊な技術とか知識で、前からある大きな会社じゃあできない
ような新しいサーヴィスをする会社を若い人が作るってことかしら？ あのコ頭だけは良
かったから」
「まえのひとはどうなったの？ ……ブチャラ……ティ？ ブルネットの、優しそうなひ
とだった。結婚するって言ってたじゃない」
母親はしっかり追求してくる。手は夕食の下ごしらえの野菜の皮を剥きながら。働き者
の田舎の女達は、根掘り葉掘りも手を動かしながらだ。
「ああ」
アバッキオは１つ溜め息を吐いて唇を歪ませた。
「一緒に、事故で。
あたしはなんとか息を吹き返したらしいんだけど、かれはだめだったんだって。出先で。
記憶もなくして、しばらく身元不明で病院入ってて……連絡付かなかったんだって？
ごめん」
「それでなのね」
「フーゴは、……チームに出入りもしてたし。家族みたいにしていて。
その頃から……みたいなこと言ってくれたし」
「ああ」
女達はアバッキオの事情についていろいろ経験から補足して、納得したようだった。
……お腹にいるときにそんな事故に遭って！
……気がついたときには堕ろせなかったんだね……
……あのコにとって憧れのひとだったんだ。そりゃあ宝物みたいに大切にするわね……
「事故」の時期は意図的にずらしている。まさか、記憶のないまま蘇生してから年下の男
の子の慰み者になって１年を過ごしたなんて、親をはじめまともな大人達にはとても言え
ない。
「でも、大丈夫なの？ あのコはこれから大人になって、どんどんいろんな女（ひと）と
知り合うことでしょう。あんた、よっぽどしっかりしてないと、飽きられて捨てられてし
まうよ」
「はい、母さん……」
「それにしても、赤ちゃんの世話で髪を振り乱して身なりに構う暇もないかと思えば、結
構手入れが行き届いているわね」
アバッキオの全身に目を走らせて、母親達の心配はそれだったらしい。
「あ、定期的にエステに行かせてもらってて」
「マンマ、ほら！ エステってのはいかさまな恐ろしい所じゃないって言ったでしょ！」
と、オリヴィアが割り込んだ。そんな得体の知れないところに行った自分が悪いとずっ
と叱られていたのだろう。
「だからってあんたはこんな恐ろしい可哀相な目に遭ったじゃないの！ お肌の手入れぐ
らい自分でやらないでどうします！」
「そこはそれ、プロなりの機材や高級な化粧品とか使ってくれるのよ、マッサージの技術
とかもプロは凄くて、別世界に行った気持ちにさせてくれるの」
アバッキオはつい助け船を出してしまう。ボス・ジョルノの監禁生活のおかげで身も心
もボロボロになっていたアバッキオのリハビリのために、フーゴは金に糸目を付けずにア
バッキオを磨き上げてくれた。それは素朴な育ちのアバッキオにとっては文字通り女王様
体験で、ほんとうに心から癒やされたと感謝している。
「あら、そうなの」
「オリヴィアは偶然、運が悪かったのね、可哀相に」
そう言うと、素朴な田舎のご婦人達はなんとか矛を収めてくれた。
「レオナ、言ってくれて嬉しいわ！ そうよね！ あたし最近運が良すぎたから、反動が
来ただけなのよね！」
「ええそうよ。元に戻るんでしょ？ 時間を掛ければ」
「わかんない……このまま真っ赤に爛れたままかも」
ふとオリヴィアは包帯を巻いた頬に両手を当てて俯いた。
「ダメよッ！ レオナ！
オリヴィア！ そんなこと考えるだけ無駄だから！ さあ、あんたはこっち！ マンマ
の作った栄養たっぷりのミックス・ジュースをお上がり！ フルーツのヴィタミンがあん
たの肌を元通りにしてくれるよ！ 人間の美しさというものは外から付け加えるものなん
かじゃない、機械でどうにかして貰うものでもない。日頃から気をつけて食べるものを食
べ、動くときに動いていて内面から作り上げていくものなんだよ！」と、傷心の娘を抱え
た母親はまくし立てた。
「ああ、チェチリア叔母さんのことを良く聞いておくのよ、レオナ。
そして、男の人を究極のところで支配できるのは、おへその下のあそこではなくて料理
です！
あんたには一応の料理は仕込んであると思うけれど、さらに一家の主婦として必要ないっ
さいの技術を教えておくから覚えて帰りなさい！」
「はい母さん」
「それで、その人参の剥き方は？ あたしの教えた剥き方とは違うようだけど」
「フーゴはこの……シャトー切り？ の方がなじんでいて食べやすいみたいです。あのコ
お坊ちゃん育ちだから」
「うちではこっちの剥き方に揃えてちょうだい」
「ごめんなさい母さん」
しっかりこき使われるアバッキオだった。
３
……フーゴ？ マレーナは大丈夫？ もう寝た？
夜更け、その電話を待っていたフーゴはベルが鳴るなり受話器を取り上げた。
「遅いですよッ！ ええ、今日は奇跡的に寝付きも良く……お家はどうですか？ お母様
にお説教を喰らったりしてませんか？」
……ああ、その辺は大丈夫。あんたに話は通してるって聞いたけど？
「お従妹さんが大変なんでしょ？ どうぞ、お役に立ってあげてください」
……ああ、うん。あんたどう思う？ 結婚式の日に花嫁がベストの状態じゃないとして、
日程上ずらせなかったらそれでも強行する？ 代役を立ててまでなんてあたしちょっと……
待ちかまえていた共犯者は、例によってとうとうとまくし立てた。
「場合に寄りますけどね。花嫁を心から愛していて、その彼女と結婚式を挙げるのが人生
の目的の場合は、肝腎の彼女が納得いかないのでは意味ないでしょう。ぼくもです。ぼく
らの場合は時間に追われていましたからしょうがなかったですが、状況を選べるのなら完
璧な状態のあなたと式を挙げたかったです。
立場があって、結婚したという社会的状況を衆人に見せるのが目的の場合は、花嫁はあ
る意味誰でもいい、対価を払って、それなりのサーヴィスからひとを派遣して貰うという
のも聞いたことがあります。まあ、事実が明るみに出たときのダメィジもそれなりだとは
思いますけどね。手っ取り早く綺麗な花嫁が欲しければ、それなりに。
……お従妹さんの結婚相手は後者なんでしょう。
考えようによっては、式に耐えられない体調の花嫁に無理強いするくらいなら、割り切っ
て身代わりを立てる方が花嫁を思いやっているとも言えます。あまり考えすぎないように」
……そうね。
アバッキオは慎重に返事した。母達はトニオまで謀（たばか）ると言っていただろうか。
トニオも納得の上ならしょうがないのかも知れない。
……解った。じゃあ、とりあえず役目は果たすわ。
「ええ。……でも、本気にならないで下さいよ？ あなたはぼくと結婚してるんですから
ね？ 指輪置いていったでしょ？」
フーゴは卓上に残された結婚指輪を指で弄んだ。
……ごめん、母さんに外させられて。大丈夫、あたしはあんたのものだって、忘れてな
いから。
「安心しましたよ。ああ、それから、あなたの誕生日の……」
……ごめん、長電話すると母さんに怒られるから。
アバッキオは言うだけ言ったら切ってしまった。
「まだほんの３分も話してないでしょうに。あそこまだ回線が遅いんじゃないでしょうか
ね……。やっぱり携帯を持たせるべきでした」
頭を１つ振った参謀は、ネアポリス近郊の通信インフラストラクチュアの整備について
暫し思考を巡らせた。
「珍しいですね。最近は収まってきていたのに」
フーゴは子供部屋に足を踏み入れて、顔を真っ赤に泣き叫ぶ娘を抱き上げた。疳の強い
赤ん坊は、コロンで相手を識別したのか、さらに激しく泣き出した。
「ごめんなさいね、お母様はお留守なんですよ。解るんですか？ ……寂しいの？ ……
ぼくもです」
抱いたまま、子守がしていたように少し揺さぶってみたり、高低差を付けてみたりする。
「ボスに会ってから、あなたは大人しくなりましたね。……かれに何か言われたの？ 気
にしなくていいんですよ。
偉い学者が言ってました。大宇宙が我々に赤ちゃんを授けてくれる理由について。
今時の、電源を入れてボタンを押せば望む結果が得られると信じて疑わない『退化』し
た人間に、自分たちはもっと原始的などうしようもないものに突き動かされるものだとい
うことを直面させてくれるためだそうです。どんなに英知を尽くしても、心を砕いても、
泣きわめく赤ちゃんには通用しない、ただか弱い愛おしいものにひれ伏して尽くすしかな
いのだと、一度は思い知るべきなのだと。
全くですね。
ぼくはそういうことも本で読んで知ったつもりになるような薄っぺらい人間ですが、あ
なたを見ていると本当に赤ちゃんというのはひとつの真理を教えてくれるものと痛感しま
すよ。
腱鞘炎になるまでぼくを抱いていてくれた人達に対する周回遅れの感謝の念とか、そこ
までするに至る良好な雇用関係を作っていてくれたぼくの両親への人間としての尊敬の念
とか。今まで思いもよらなかった気持ちに目覚めましたよ、真実。ぼくの両親が嫌われて
いたら、ちょっとした事故に見せかけて窒息死させられていてもおかしくなかったと思い
ますよ、ぼくは。
……おや、不穏当でしたか？ ごめんなさい、あなたはそんなこと心配することはないん
ですからね？ 大丈夫、こんな可愛らしい赤ちゃんを害するようなひとはいませんよ。
ぼくはほんとうに甘ったれた子供だった。周囲のひとが自分に優しくしてくれるのを当
たり前だと思っていた。そうされる価値のある人間だと。それは愚かな思い上がりだった。
でも、あなたはいいんですよ。まだ小さくて、誰かが世話をしなくては生きていけないん
ですから。あなたの欲求を皆が正しく理解しなくて歯がゆいことでしょうけれど、それは堪
えてください。そして、お世話させてやって下さい。
そのうち、嫌でもあなたは１人で生きて行かなくてはならなくなるんですから……」
赤ん坊はようやく泣きやんで微かに笑い声を立てた。
「ああ、笑いましたね。やっぱり、あなたはどう見ても器量よしですよ。だれもがあなた
の笑顔を見たいと思うでしょう。それでぼくらは心が安らぎます。その笑顔だけで、赤ん
坊というのは皆に親切にされる資格があるんですよ。さあ、お休みなさい。子供は寝るの
が仕事です。そして、頭や身体が発達したら、子供なりの動きでぼくらに楽しい刺激を与
えてください」
歌うように長い独り言を娘に向かって語っていたフーゴは、彼女が身を震わせて、また
泣き始めたのに気づいて身を翻した。
「すみません！ マレーナを見てやってください。おむつかも知れません……」
……帰りたい。
アバッキオは溜め息をかみ殺した。
笑いたくもないのにひとに合わせて笑い、虚栄心に満ちた会話に合わせて相手を褒めそ
やす。たかがそれだけのことがなんとも苦痛だ。
……もともとそういうつきあいが苦手な堅い優等生だったんだっけ、あたしって。
アバッキオは従妹の代わりに結婚前のパーティに連れ出されている。ちょっとした会社
の社長というオリヴィアの婚約者は、美しい未来の妻を友人達に見せびらかすのに夢中だ。
「なんて綺麗なひとなんだ！ トニオ、この果報者！」
大袈裟な身振りは、この国の男どものならいと知っていてもついて行けない。
「はあ、恐れ入ります……」
「オリヴィア、あなた、どうしてトニオがこの年まで独身だったか解る？ とっても面喰
いなのよ、美人には目がないの。でも、美女漁りもあなたでお仕舞いにしたみたいね。悔
しいけど、お似合い」
挑戦的に笑いかけてくる美人の言葉には刺があるような、ないような。
「あ、どうも……」
社長夫人というのはこういう集まりに顔を出さなくてはならないのだろうか。自分はなん
にもしていなかったことに今更気づかされる。フーゴが気遣って、神経が弱いからと妻を
庇ってその手の会合には１人で出席してくれているのだ。ボス・ジョルノ同様、年が若す
ぎるので露出を避けているのもあるが、フーゴ自体がそういう「虚飾に満ちたつきあい」
を嫌っているかららしい。
……あんたまでああいう中身のない会話に付きあわなくってもいいですよ。知ってます
か、本当の社交って言うのはわざと内容のない会話をするように躾けられるんです。政治、
経済、宗教。真に語り合うべき人間の根源に迫る問題には触れることを許されない。季節
の話、その街でかかっている芝居の筋、流行の音楽、行ってきた旅行の話、人の噂話、ダ
イエットの話、ファッションの流行、どんなカバンが流行だとか、色がどうとか、スカー
トの丈がまた短くなってきたとか！ ……甚だしい場合には、ひいきのチームについて語
ることも禁じられている場合があります！ 入れ込みすぎてケンカになるから！
くだらない！
あんたはそういうのに興味がない。それは優れた美徳なんですよ！
心底嫌そうにフーゴは吐き捨てていた。
……あ、……どうも。
一応は褒められたと取って、アバッキオはその時とりあえず礼を言っておいた。
……あたしとあのコって意外と気が合うところがあったのよね。
離れてみてみると、ふとフーゴの良さが実感できるのだった。今までは状況に流される
ばかりで、なんにでも理解と受容に時間のかかる身では深く考える余裕すらなかった。
……オリヴィアに感謝ね。
ふと、アバッキオはそんな気持ちになっていた。
４
「やあ、あんまり飲んでないね」
腰に手を回してくるトニオに肘鉄を食らわしてやりたいのをアバッキオはじっと我慢し
ていた。
「え、ええ」
最近は控えていた。授乳中だから。もう日に３回になっていたけれど、飲まないのが習
慣になってしまっていた。フーゴも気を遣って、見えるところでは飲まないようにしてく
れていて。
「今日もきれいだ、ぼくの可愛いひと。雪の女王のように輝いているよ。なんてぼくは果
報者なんだろう……。
遠慮しなくていい。気のいい人達だよ。もっと心を開いて盛り上がろう。さ、空けて」
と、手に持ったシャンパン・グラスを勧めてくる。無駄にスキンシップを取るのも、溢
れるように讃辞を浴びせかけるのも、この国の男なら当たり前。
……今日明日はこっちにいるんだし、いいか。
オリヴィアの為だ。アバッキオは腹をくくって笑顔でグラスを空けた。
勘定の心配なく美食を楽しんで、思い切り酔って。会話や音楽、ダンスを楽しんで。こ
れが若い女性の憧れる上流の暮らしだろうか。
……つまらない。
彼女はそんなものを楽しいと思う性分ではなかった。
……あたしが楽しいと思うもの、なんだっけ、ええと。
街の人の、組織の連中の、些細な困りごとの役に立つこと。助かりました、ありがとう
という笑顔を向けられること。今はささやかにしかできないけれど、小さな正義を遂行す
ること。ウソを曝いて、不正をしていないのに苦境にある人を救って。
これは幼い頃からの性分。どうしようもない。どんなに境遇が変っても、これだけは変
らなかった。
……あなたはほんとこの道だけはひとより優れた才がある。
顔を背けて、口に出すのも辛そうに、フーゴが料理の味を褒めてくれる。ちょっとこれ
はやりすぎじゃないですかなんていいながら、それでも平らげてくれる。あの見栄っ張り
が。ソースまでパンで拭って残さず口に入れる。これだったら続いてもいいですよ、なん
て、かれの自尊心の負担にならないような言葉を選びながら絶賛してくれる。
最初はうまく意味が取れなくて無駄に腹を立てたりしていたけれど、今はその意図が解
るようになってきて、素直に喜ぶことができる。
フーゴが食事を楽しんでくれることが嬉しい。
……音楽はやかましくないのをひとりで聴きたいわ。
どうにも鬱にはまりこんだときに、手当たり次第に探して、知ったジャンル。宗教曲は、
心を癒やしてくれる。
……へえ、あんたこういうの聴くんですか。
ふと漏れた音から、フーゴはそれをクラッシックと認識して、似合わないと笑ったりせ
ずに話を聴いてくれた。下町のギャング達の中で、クラッシックの話ができる数少ない同
志と思ってくれたようだった。こっそりＣＤを貸してくれたりして。一緒に暮すようになっ
てからも、ＣＤはいろいろ差し入れてくれるし、コンサートも連れて行ってくれる。たま
に鬱の衝動から重い宗教曲をエンドレスで掛けていても、口では嫌がりながらも付き合っ
てくれる。
……いやだ、なんでもフーゴに結びついてる。
かぶりを振ると、目の前にはトニオの顔があった。
「愛しいオリヴィア、よい夢を。ぼくとの新生活の夢ならいくらでも。その夢に違わない
幸せな現実を、ほんの３日後にお見せしますよ」
キスをされて、呆然と見送ってしまった。このままどんどん乗せられて、式の後もトニ
オと旅行に出かけてしまいそうだ。
式の後はどうするか、オリヴィアや母たちからなんにも指示を受けていない。いつ入れ
替わるのか、真実を明らかにするのか。自分は本当に１週間でうちに返して貰えるのか。
……待って、やばいわ。
アバッキオはまた考え込んだ。
「……彼女にモーニング・コールをお願いしましょうかねえ」
フーゴの方は、最悪の気分で眼を覚ました。別に、毎朝同じベッドで目覚めるような甘
い生活を送ってきたわけでもないのだが、朝も１人、晩も１人という日が続くと荒んだ気
持ちになってくる。欲求不満が募って、あやうく暴発するところだった。マレーナの方は
もう慣れたのか、食べたり食べなかったり盛大に吹き出してナニーに離乳食をぶっかけた
りしながら楽しく毎日を送っているらしい。
……マイペースで、図太くて。本当に、誰に似たのかよく解ります。
一瞬でも、生まれてすぐの頃、マレーナが癇性だと聞いて奇跡のようなことを考えた自
分を呪ってやりたい気持ちになった。
……お母様孝行も兼ねているとはいえ、なんでこんな企画に乗ってしまったんでしょう
ねえ。
ネアポリスの方を遠く望んで、フーゴはまた溜め息を吐いていた。
アバッキオのことを、想わずにいられない。遠く離れているのがこんなに辛い。
初めて合ったときからは、予想もできないこんな感情。
すぐに、あのひとを見ると心が平静を保てなくなっていた。どうしてもっと素直に愛情
を受けないんだろう、どうして好意をハッキリ示さないんだろう、どうして、どうして、
どうして。気がつくと、あのひとのことばかり考えていて。全身全霊で、アバッキオがな
ぜそんな考え方をするか、そう振る舞うか、理解しようとしていた。
でも、あのひとは、彼が愛した人だから。心から尊敬したリーダーの恋人だから、あの
ひとが幸せならそれで良かった。あれ、違う、彼が幸せならいい、そう思っていた筈なの
に。だから、あの日、彼の側で死ぬとあのひとが選んだときも、その選択を正しいと思っ
た。付いていけない自分を歯がゆいと思いながらも、ここで彼らと別れるのも良いタイミン
グと割り切りもしていた。彼らは彼らで幸せになるのだから。いつまでも側にいることは
できないのだから……。そう自分に言い聞かせて、ヴェネツィアで別れた。組織が怖いと
いうのは半ば口実だった。
それからの後悔は文字通り身を焼いたのだけれど。
ジョルノに探し出されたときは、ホッとしていた。
彼の最期を聞いて、やっぱりという気持ちが胸をかすめ、空っぽの胸が痛んだ。そして、
聞いてはいけない問いがすぐに沸き起こってきて、自分でも自分が抑えきれなかった。
……あのひとはどうなりましたか？
ナンセンスな質問だ。ブチャラティが死んで、おめおめ生きている彼女ではない。
そう思って、意地でも口には出さなかった。あの特技を持つブチャラティならまだしも、
ジョルノにその腹を読まれていたはずはなかったのに。
ジョルノに呼び出されて、断れるわけはないと思ったが、全力で逃げようとすればそれ
でも可能だったかも知れないのに、応じたのは、一縷の望みに賭けたから。
……もしかして、生き残って、ジョルノの側近になっているのではないかと、思ってし
まったから。
思いがけない再会に心を乱して、それをジョルノにつけ込まれて、……そして、組織に
出戻った。
あの悪魔は正しくフーゴの弱点を認識し、捉え、活用している。
まったく空恐ろしい悪の帝王だ。
だって、ブチャラティの傍にいたアバッキオは、手の届かないリーダーの思い人で、こ
ちらがきりきり舞いさせられる気の強い大人の女性だった。
ジョルノに飼われていたアバッキオは、こちらがさまざまに配慮してやらなくてはなら
ないか弱い女性に思えたのだ。
アバッキオを内心持てあましていたジョルノに当てつけるように、ぼくはこの女性のこ
とを識っている、解っているとさまざまに配慮を見せて、それが当たってアバッキオがい
ちいち感謝してみせるのがぞくぞくするような快感だった。
いや、そういう知的遊戯のような側面だけではなく。
今や、アバッキオは真っ当にそういう恋の対象になりえていた。純粋に、彼女を喜ばせ
たい、心を慰めたい、笑顔が見たい……そういう、心の中の最も尊いきれいな感情を捧げ
る相手。
ジョルノに自分を支配し、いたぶる手段として使われるのが我慢できないほどの、大切
な存在になっていた。
しかし、そういう致命的な存在であるからこそ、さまざまな思惑と偶然の積み重ねで、
彼女は自分の妻になっている。
……神様ってホントにいるんですかね？
超自然の存在を信じ、感謝したい気持ちが少しは生まれてきているフーゴだった。こん
なことを口に出したりすれば、「根性の曲がったクソガキ」の上司に、そんなものに心を
捧げるくらいなら自分にもっと感謝と崇拝を捧げよと言われるだろうと心を戒めているけ
れど。
５
……あのコちゃんと食べてるかしら。
３日も経つと、アバッキオは留守宅が心配で仕方がない。心配の対象はむら食いの性を
持つらしい娘のことではなく、表面なんでも残さず食べる夫のことだったりする。
……あのコめんどくさい質だから、ストレス溜まってるんじゃないでしょうね……。
絶対食べられない食材はないが、できれば食べたくない嫌いなものは結構多いようなの
だ。それで見えっぱりだから、それを使用人であるマルタには言えないでいる。マルタも
気がついているかも知れないが、意地っ張りなかれは配慮されることを嫌がる。
……あれは結構最初の頃だったわ。
アバッキオは洗濯物を干しながら回想を巡らせ始めた。
「あんた、なんであれを作らないんです？」
わざわざ台所に顔を出して、文句を付けてきた。ブチャラティに拾われ、とりあえずチー
ムに落ち着いて、賄いを引き受け始めた頃だった。
「なんのことよ？」
このぼくちゃんが自分にいい感情を抱いていないのは解ったから、アバッキオも肩肘張っ
て聞き返した。
「……あれって、アレ。……ミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・イ・ブロッコリですよッ」
「ああ、マカロニとブロッコリの白煮込み」
１週間前に作ったかな、と記憶が蘇った。
「そんな、身も蓋もない呼び方を……ッ」
フーゴはじれったそうに身体をよじった。
「だってあんた」
その時、もうフーゴはギャアギャア言ったから。こんな、マカロニにまでブロッコリの
いやらしい出汁が沁みて、薄緑の色合いも気味悪い、なんでこんなものをともう言葉の限
りを尽くして抵抗した。ナランチャに説明されるまでもなく、フーゴはブロッコリが嫌い
だとアバッキオもそれで納得した。ブチャラティに諭されて、嫌々口に運んでいたが、残
しはしなかったのでアバッキオはこの坊ちゃんを少し見直した……。
その見事な「紳士」っぷりに免じて、アバッキオはそれ以来旬ものだというのにブロッ
コリは出さないで来たのだが。
「ぼくに遠慮は要りませんッ！ 今はシーズンなんですからブロッコリを出せばいいでしょ
う。ナランチャなんかはかえってあのブツブツが好きみたいですからッ！」
「あ、じゃああんたにはブロッコリ少なめにするから」
「いいですからッ……なんでもね、昔から食用に供されてきたと言うことは、それなりの
意味があるもんです。ちょっと前に栄養学で実はなんの栄養もないことが解ったとか言っ
てた食材でも、また調べ直したら別の観点からは身体に必要だったってことも判明し始め
ているんですよ！ ジャポネのゴボとかいう木の根とか、いやらしい芋の粉を溶かして固
めたゲル状の食品とか！ ですからブロッコリだって、個人の嗜好で食べることを忌避し
ていいことはない筈なんですッ！ あの緑色はあからさまにヴィタミンを多く含有してい
ることを示していることですしッ！ 我慢して食べればそれなりの栄養が採れて身体に良
い筈なんですから、単なる感情でもって排除することは許されないんですッ」
「そんなに無理しなくたって……」
アバッキオは苦笑した。
「……あんたはなんか特異な才能があるみたいですから。
なにを入れたんです？ あのミレリーゲ・アラ・パンナ・コン・イ・ブロッコリに。……
ちょっと変った……ほんの少し許容できる味わいがありました。あれなら……ぼくだって
なんとか……」
いつも顎を上げて挑発的なフーゴが、首を垂れて、上目遣いに恐る恐る問うてきた。
「ああ、あんたら男のコだから肉っけがあった方が良いかもと思って、パンチェッタの切
れっ端を入れたんだわ」
「パンチェッタ、ですか」
フーゴが喘いだ。
ちょうど、塩漬けの豚肉がほんの少し残っていたのだった。
「ええ、ほんの２センチ程よ？ それで少し風味が出たかしらね？ ……よく解ったこと」
お育ちがいい分味覚が鋭敏なのかも知れない。それなら、ブロッコリの風味が苦手とい
うこともありうるかも知れないとアバッキオは推量した。
「そんな……姑息なアレンジを……食材を無駄にしないのはいいことですが。……今回は
効果的だったようですけど……いいですよそれ、認めましょう。ですからそれをまた……
ブチャラティに作ってあげることを……ぼくは……認めてもいい……です」
最後まで嫌そうに、どんどん下を向いて詰まりながら、それでも言い切って、メンドク
サイ性格のお坊ちゃんは背を向けた。
さっそくアバッキオはその晩、その「パンチェッタ入りマカロニとブロッコリの白煮込
み」を出してやった。
フーゴはそれを珍しくがっついて食べてお代わりした。
「あんたも意外な特技があるようですね」なんて言いながら。
……ほんとにややこしいコなんだから。
回想を終わって、アバッキオは顔を綻ばせていた。なんだか愛おしい気持ちがいっぱい
に胸に溢れている。
……あたし、フーゴのこと好きだわぁ。
自分に優しくしてくれるからではなくて、自分に密かにワガママを言ってくれるからなん
て、ちょっと変かもしれないけど。
ぱんっとシーツをはたいてしわを伸ばしてロープに掛けると、ローマの方を遠く望んで
胸を張った。
……オリヴィアの身代わりは誠心誠意務めよう。そして、胸を張ってうちに帰るんだ。
あたしのうちはもうあそこ。
心からそう思うことができて、ヘンな仕事も引き受けて良かったとしみじみ思った。
トニオは婚約者にベタ惚れで、式の前だというのに毎日連れ出した。旅行に必要なも
のの買い出し、こちらの友人への顔見せ、ちょっと雰囲気の良い、いいエスプレッソを
飲ませる店をみつけた、さまざまな口実で、それぞれに母や姉たちが気合いを入れて着
飾らせて送り出してくれる。アバッキオは非日常にとまどった。
「トニオは体格も堂々としているし、ほんと似合いだわね」
式に参列するために帰ってきた一番上の従姉のルイーゼが煙草を吹かしながら論評し
た。これ、煙草はおよしとその母が渋い顔をしてみせる。
「それはもう！」
オリヴィアは我がことのように得意げだ。
「レオナ、もっと寄り添って、トニオを心から愛して信じているように見せかけてね」
「パンナコッタは背がそんなに高くないんだっけ」
自分は面識のないローザが母親に確認する。それを聞くとふとアバッキオは、自分が
けなされたように気持ちが塞ぐ。本人は必死に隠しているが、もう身長の伸びは止まっ
たようで、アバッキオよりきっかり１０センチ低い。イタリア人としては決して低くは
ないのだが。
「うちの子たちはみんな背が高いから、ヒールを履いたら普通のイタリアーノではだい
たい負けますよ」
母がぴしゃりと言ってくれてほっとする。
「だからレオナぺたんこ靴だったわけ？ 可哀相に！」
「赤ちゃんがいたからよ、フーゴはそんなの気にしてない……んじゃないかしら」
靴はみんなフーゴが見立ててくれたものだ。途中からアバッキオは声が小さくなる。
「ヘンな気持ちを持っちゃいけませんよ？ トニオはオリヴィアの婚約者なんですから
ね？ あなたの夫はパンナコッタ……」
アバッキオの母親が釘を刺す。
「わかってます、母さん」
「ドレスが届いたわよ！」
呼び鈴に席を立っていったマルガリータが箱を持ってきた。
「見せて！」
女達は盛り上がる。
「ああ、良かった、サイズもぴったり！」
「いいえ、やっぱりお腹の所が苦しいわよ」
アバッキオが謙遜する。一応はオリヴィアのドレスなのだ。
「そんなことないって！ あんたほんと節制したのね、とても８ヶ月前に赤ちゃんを産ん
だとは思えない！」
自分は全盛期から１０キロほども太ってしまったローザが感嘆する……それでもまだ
ぽっちゃりの範疇だ。……そこは伝説の美女一族だから。
「まあ、その辺は。今時はあんまり太らないように病院で厳しくチェックされるし」
「ああ、そう！ そうなのよね！ それなのに、マンマをはじめ、向こうのおかあさん
は太れ太れって煩くて！ あれは地味にストレスだった！」
自分も２年前に息子を生んだところのローザが肯いた。
「でもおかげでこんな綺麗なドレスが着られるんだからいいじゃない！」
ルイーゼがにんまり笑って見せた。
「そうね……ごめんね、オリヴィア、あなたのドレスなのに」と、今日も包帯をしたま
まのオリヴィアに顔を向けると、オリヴィアは包帯の下から無理に笑って見せた。
「そんな、いいのよ。やっぱり似合うわねレオナ」
「ほんと、いいセンスしてるわ、彼……」
チェチリア叔母が感嘆する。
「これはトニオの見立てなの？」
アバッキオは何気なく聞いたが、
「あ、え、ええそうよ……」
オリヴィアは急にしどろもどろになった。
……露出が少なくて細部に凝っててシルエットがスッキリしてるのって、フーゴの好
みだけど、あのコってクラシカルな趣味だから、こういう正装には共通するものなのね……
アバッキオはひとりで肯いていた。
６
「どうしたんです？ フーゴ、たった３日離れているだけであなたは奥さんが恋しくて仕
方がないんですか？」
ボス・ジョルノは居心地悪くボールペンをノックしてペン先を何度も出したり引っ込め
たりを繰り返している参謀を見やって言った。
「当然でしょう。あんなにきれいでやさしくて料理上手な奥さん、他にいるとでも？
明日の誕生日まで迎えに行けない約束なのが辛いです、昨日は電話も掛けてこなかった
し……。マレーナが泣いて泣いて大変でした。
……いえそういうんじゃなくて、どうしても思い出せないことがあって引っかかってい
るんです。エトルリア産業って、そんな会社ありましたっけ？」
「なんです？ そんな会社、ここ数日の書類に上がってきていましたか？」
「ええと、インダストリア デッレトルリアじゃなくて、インプレーザ デッレトルリア……？」
「ああ、でしたらそこに。ウンブリアの会社でしょう。東欧マフィアがこっちへの足がか
りにするために買収して、動き始めているって、そこの支部が指示を仰いできているって
話でした。共産主義者（アカ）の幹部連中に取り入って旨い汁を吸うことしかやってきて
ない田舎ものが、本場イタリアにのこのこ出張ってきてできることがあるもんかって、あ
なたこてんぱんだったじゃないですか」
「ありがとうございます、ボス。
そう、これです。
……じゃあやっぱり臭いのかな」
「なんの話です？」
「アバッキオのお誕生日企画で、ドッキリをやるって言ってた、その従妹の結婚相手がそ
この社長ってふれこみで」
「どんなドッキリなんです」
「従妹の身代わりでその結婚相手とデイトをしてやったら、その社長に本当に恋されてし
まってドキドキっていう罪のない女性の夢だそうですが」
「罪がないんですか？ それ」
ボス・ジョルノは鼻を鳴らした。
「もう家庭に入って恋なんて無縁だと思っている主婦には堪らないらしいですよ。そして
千々に乱れる心で偽りの愛を祭壇で誓う寸前にぼくが駆けつけて愛を訴えると、真実の愛
を思い起こしてぼくと永遠の愛を誓うという筋書きです。ドレスは話を貰ってからすぐに
ぼくが吟味して用意させたんですよ……
ああ、明日が楽しみです！」
「なんですそれ、くだらない……ただの主婦には夢でも、あのひとを狙って仕掛けてくる
としたら、そりゃ危ないでしょうね……」
「ドッキリじゃ済まない！」
最後まで言わせずに、フーゴは血相を変えて立ち上がっていた。
「……やっぱり二十過ぎるとただの人ってのは当たってますかね？」
廊下を走りながらフーゴが自嘲すると、
「あなたまだ１８じゃあ？」
併走しながらジョルノが突っ込んだ。
「先月１９になったところです……ボスは付いてこなくてもいいですよ」
「だいたい、あなたの天才ってのはいったいどの分野なんです？ 最初ナランチャの算数
を見てやっていたから数学方面なのかと思ってましたが」
「あれは初等じゃないですか。
暗算は、家庭教師にみっちりやられたんで、『ソロバン』の初段程度は修めてます。今
でも帳簿程度じゃあエクセル要らずです。
語学もしゃべるだけならＥＵ加盟国じゃあ苦労しませんね。ギリシャもです、当然。
ひとの顔もちょっとした資料の図表も、一度見たもの、読んだ話、思い出せなかったこ
とってないんですけどね……」
「記憶力の分野ってことですか」
「でも、今はそんなのコンピュータがやってくれますでしょ？ 天才ってのはそれを超え
て、別次元でそれらの情報を組み合わせて新しい秩序を見つけ出して凡人どもに解りやす
く示すことができるってことです、数理でも、理論物理でも。犯罪の分野でも。
ボス、あなたにはそれができたからあの旅を勝って生き抜いてディアボロを倒すことが
できた。だからあなたは天才で、ぼくはそれゆえあなたに仕えることにしたんです」
「それで、今回の件はどうします？」
「返り討ちに決まっているでしょう。彼女が危ない……組織にも悪影響が」
「じゃあ、付いていきましょう、念のため」
「恐れ入ります」
「でも、ぼくはあなたの能力に助けられてますけどねえ」
若い２人は本部の廊下を駆け抜けながら車をすぐに手配していて、後部座席に２人落ち
着いて、ボス・ジョルノは息を整えながら前を見たままに言った。
「組織の戦略からプライヴェイトまで、ほぼ全分野において、方向性を出せばその意図を
ほぼ完璧に汲み取って細かいところまでそれを実現するための手だてを整えてくれる。そ
の実行についての実務レヴェルの指示も申し分なく、滞りなく行ってくれる。そして、結
果はちゃんと出す。
助かってますよ。あなたが来てからほんとぼくは」
まじまじと顔を見つめたフーゴの顔を、琥珀の目が横目で見た。
「ぼくに足りないところを正しく理解して、フォローを心がけてくれているし。
……ぼくはあなたをこそ恋人にすべきだったのかも知れない」
向き直ってまっすぐ見つめられて、フーゴは咳払いをして間を取った。
「ぼくは男とそういうことになるなんて考えたこともありませんッ」
「おやそうですか」
薄く笑って、琥珀の目はフーゴに近づいてきた。
「おぃッ……」
眼を開けたまま、瞳の中を覗き込まれてのキスを受けて、フーゴは鳥肌だった。
「ほんとうにダメなんですね、残念」
「ジョルノ……」
「あなたもここ１年で随分大人びた顔立ちになってしまったことだし」
ふっと息を吐いて、肩をすくめてみせる。
「あ……たりまえだッ……きみだってッ」
拳でごしごし唇を擦りながら、フーゴは息を、体勢を調えるのに必死だ。誕生日はほん
の２ヶ月違い。体格ではもう凌駕された。マフィアのボスとしての貫禄が付いてきて、も
う実年齢以上の風格を漂わせている。そんなに露出を制限することもないのではないかと
ポルナレフは言っている……。
「きみはポンペイで最初にぼくを認めてくれた……」
少しの回想と共にジョルノは静かに語り出した。
「そうだったっけ……？」
「敬意を表すると、言葉に出して言ってくれたんですよ、忘れたんですか……？」
「い、言った、言ったともッ！」
最大限距離を取りながら、フーゴは叫んだ。
「嬉しかった……きみには解らないでしょうが」
手を取って、ジョルノは熱っぽく囁いた……。
「なースクリーン閉めるか？ あんまりミスタさんが見てて楽しい場面じゃーねーみてー
なんだけど」
運転席から暢気な声が掛かった。
「開けておいてくださいッ！」
フーゴは絶叫した。
「最愛の女性の貞操の危機だってのにおめーら余裕だなー」
ミスタはことさらに溜め息を吐いて見せた。
「貞操を大切に思う人間ならこんな関係を続けていたりはしないでしょう」
ジョルノは平然と言った。
「騙されてそういうことになったということで彼女の心が壊れてしまわないかということ
が問題なんですッ」
フーゴが力説した。……でも、自分とジョルノ以外の男に抱かれたりしていたらダメィ
ジが大きい。……主に自分の。
「あーそー。ねーちゃんってけっこマジメでナイーヴよね」
ミスタがアクセルを踏み込んだ。
「そんでミスタさんの情報聞いてくれる？ やつら、スタンド能力者はいないみたいなん
だけども、アカどもの人心掌握テクニックを応用して、集団催眠？ ちょっとした暗示で
ひとをけっこー思うとおり動かせたりするらしいんだわ」
「マジメで押しに弱く雰囲気に押されてひとの言うとおりになりやすい……」
「彼女はそういうのが効きやすいひとですよね」
一同は背筋に汗を感じていた。
７
アバッキオの家に着くと、留守で、近所に話を聞くと、もう教会に出かけたという。
「奴ら、日にちをぼくらに偽って伝えてたようです」
フーゴは青ざめた。
「やばいじゃん！ これはドッキリの振りして別な男と結婚させちまう嫌がらせだぜ！
そんで初夜もバッチリ！」
ミスタがエンジンを再起動させた。
「冗談じゃありません！」
母から教えられていた教会に着くと、フーゴはドアを開けるのももどかしく車を降りて
行った。
「なあ、ボス？ ねーちゃんが壊れちゃったからってフーゴを構うのはいいけど、フーゴ
まで壊しちまったらおれは真剣に逃げるぜ？」
ミスタはハンドルに両腕をもたせかけて、バックミラー越しにジョルノを眺めやった。
その目には光がない。
「あなたのほんとうに勘が鋭いのには毎度敬服しますよ」
ジョルノはふてぶてしく笑って見せた。
「フーゴは真剣におまえの相手してくれてるってのに……」
ミスタは溜め息を吐いて見せた。
「そう言うなら、ピストルズを出して、ぼくの出番がないか注意していてください」
２足の草鞋で多忙なボスは、ここで仮眠を取るつもりのようだ、眼を閉じて座席に深く
身をを委ねた。
式はもう始まっていた。祭壇の前に、２人は揃っていた。
「この結婚に異議のある方はいらっしゃいますか？」
結婚式のはじまりに際してのお決まりの定型文だ。結婚が公正に行われたことを示すた
めの形だけの。誰かが異議を申し立てるのを聞いたことなど、ありはしない、イタリアの
普通の町で普通の生活を送っている分には。
ほんの少し、親族席がざわめいた。
「異議はあります、あたしから」
アバッキオがとうとう口を開いた。その時、教会の天井のライトがゆっくりと、２回、
明滅した……。
ざわめいていた親族席が静まりかえる……！
「トニオ、あなたが愛を誓うべきはあたしじゃあないわ。オリヴィア、出てきなさい。一
生の愛を誓うべき相手に嘘はいけないわ……」
意識はそうハッキリと述べていた、筈なのに、口が動かない。喉が、プラスティックで
も流し込まれたかのように固まってしまっていて、声が出ない。
アバッキオはかぶりを振って、教会の入り口へ眼をやった。
「どういうことです？ 詳しく」
司祭が問いかけた。
「なんでも……ありません」
アバッキオは混乱して目を伏せた。
「異議はないようなので、聖歌を」
聖歌の合唱の後、司祭は目を手元の聖書に落として、結婚式にふさわしい箇所を読み上
げ始めた……。
……ねえ、ちょっと、どうする？
……まだなの？ あんたちゃんと連絡したんでしょうね？
親族席が僅かにざわめき始めた。
「お静かに」
司祭は声を張って注意した。
式次第は宣誓に入っていた。司祭の言葉の後、新郎のトニオが、定型の文で結婚の意思
を問われ、きっぱりと「はい、誓います」と答えていた。
「新婦オリヴィア、誓いますか？」
アバッキオはためらった。
自分がオリヴィアなのか、レオナなのか、頭の中に靄がかかったようで、解らなくなっ
ていた。
……誓いますかって、それは役所でもう誓った、あたしの生涯を共にする相手は……あ
れ、誰だっけ、出生証明書の名前は見慣れた名前じゃあなかった……。
……へえ、あんたの本名って、こんなだったんだ？
出生証明書に記されたフーゴの本名を見て、アバッキオはちょっとふざけた。
……これは今日限り捨てる名前です！ 忘れてくださいッ！ ほんと、絶対口に出しちゃ
困ります。
フーゴは狼狽えながらも、そこは最低限の礼儀を守ってくれた。結婚前に簡単に、素性
を語ってくれた。
……暴力沙汰でうちを出されたんです。もう死んだことになってます。一生ミラノには
足を踏み入れない約束でこれを送って貰いました。ですから、ぼくがこの先死んだとして
もこの家には連絡は要りません。墓はパンナコッタ・フーゴで立ててください。……でき
ればネアポリスの、彼らの近くに。
……なんてこと言うのよ。
……だって、これから家族になるんですよぼくら。そういうことが、みんなあなたにか
かってくるんです。お願いしますよ。
フーゴは手を取ってきた。
……解った。
それを強く引いて、顔を近づけさせると、頬にキスをしてやって、アバッキオは微笑ん
だ。究極のところ、まだ腕力ではアバッキオが勝てている。
……大天使様が付いていてくれるなんて、なんて幸運な人生でしょう！
……そういう婉曲な言い方も止めてくださいッ！ 誰かに類推されたらどうするんですッ？
……あら、じゃああたしベッドではあんたのことなんて呼んだらいいのよ？
……それはその名以外でご自由に……あなたぼくのことをベッドに入れてくれる気があるん
ですか？
フーゴは目を落として恥じらった。
……だって結婚するんでしょ？ 今は無理だけど。
……あ、はい……ではそのうちに……。
ぎこちなくなってしまったが、その絶対忘れなくてはならない名前は、その時胸に刻み
込んだ。
……あたししか知らない名前、絶対忘れやしないわ。あたしの人生は、この名の男に預
けたのよ……。そして、いざとなったら絶対繋ぎを取ってやる、それがあたしの役目だか
ら。
ふと、その時の負けん気が胸に萌して、アバッキオはクリアな思考がひととき蘇る。
……なんだっけ、生意気な大天使、なんでも知っていて、いつも澄ました顔をしていて。
まだ子供みたいな細っこいからだをして、でもその気になったら大の男もボコリ倒して。
そうよ、炎の剣を持って、悪魔と闘う最強の大天使なんだから……あんたにぴったりの
名前……。
……レオナ、後生だから！
涙にくれたオリヴィアの声が蘇った。
……おねえちゃん達にずっと無視されてきたあたしが、はじめておねえちゃん達を見返
せるチャンスなのよ！ お願い！
あたしの顔、もしかしたら一生このままかも知れない。これからずっと、人前に出られ
ないかも……。あたしに一生の記念をちょうだい、あたしはこんなに綺麗だったのよって、
ひとに胸を張って見せられる瞬間を作ってちょうだい……お願い！
人間の価値はうわべの顔かたちではないとは、どうしても言い通せなかった。アバッキ
オでさえ圧倒された従姉や姉たち。一番年下のオリヴィアのことは、見下してずっと傷つ
けてきたのかも知れない。アバッキオでさえ、記憶に留めなかったのだから、ほんとうに
寂しい思いをさせてきたのだろう。一世一代の晴れ舞台を台無しにされたのだ、できるこ
とはしてやらなくては。
……きょうのあたしはオリヴィア！ 誰からもうらやまれる美しい花嫁！
今朝、鏡を見ながら決意した想いが蘇る……。
司祭が、言葉を換えてもう一度問いかけた……！
「新婦オリヴィア、この男を夫とすることを誓いますか？」
「はい、誓います……」
……神様、おゆるしください……。
アバッキオは、まっすぐ司祭の目を見て答えてしまっていた。
溜め息のような悲鳴が微かにした。
「指輪の交換を」
遅滞なくそれは行われ、聖歌が合唱され、祈祷の後、司祭は式の終了を告げた。
８
……ちょっと、どうするの！？ どうしてパンナコッタは来なかったの！？
……誓っちゃったじゃないの！ トニオ、だめじゃない！
固唾を呑んで見守っていた女達が、ざわめきだした！
「ちょっと！ ちょっと手違いがあったようですな」
集まっていた親戚達の中から、アバッキオの父親が出てきて一同を落ち着かせた。
「レオナ、どうしたんだ？ 雰囲気に呑まれたかな？
落ち着きなさい。これはドッキリだよ。一日早いが、誕生日おめでとう。２３の誕生日
に、おまえの結婚式をさせてやろうと叔母さん達が計画を立ててくれたんだよ」
「ははははは！ ご苦労、オバサン達。すっかり上手におれ達の計画通り立ち回ってくれ
たな！ 馬鹿な女はすっかり俺様のとりこさ、パッショーネのボスの女が、うまうまと騙
されて、別の男と教会で愛を誓ってくれたさ！ それどころか！
おっさん、あんたの身持ちの悪い娘は結婚式の前の晩に、この俺に身を任せてくれたよ！
ははははは！ これは愉快だ、イタリアを支配する男が、女を簡単に寝取られちまった！」
トニオが悪魔さながらにネタを割って見せた。
ちょうどその時、フーゴが教会の扉を開けて押し入った。
「マズイゼミスタァ！ 奴ラアバッキオヲッ」
付いてきていたナンバー７がとんぼ返りして報告をした。待機していた男達はすぐに教
会に駆けつける。
「レオナ！？」
「あんた、まさか！」
女達の視線がアバッキオに突き刺さる。
……オリヴィア……待ちきれない。愛しいひと、俺の手の中に来てくれ。あなたを手に
入れたと確かめさせてくれ……！
昨夜、窓辺にトニオが現われて、部屋の灯りが明滅してからのことが、記憶にない！
目覚めたときの着衣の乱れ、身体の違和感！ それは……！
一言も発せずに、アバッキオが失神してその場に倒れ伏した。礼服姿の男はそれに眼も
くれず歩き出した。
「騙したんだね！？」
「女の夢を食い物にするなんて、この外道！」
余りのことに足が地面にくっついてしまったようなこのドッキリの仕掛け人達は、ただ
自由な口だけで食ってかかった。
「あたしの騎士様！ この大嘘つきにホントのことをしゃべらせて！」
アバッキオの姉が祈りに近い悲鳴を上げた！
ゴ、ゴ、ゴゴゴ……。
スタンドが発現するときのような空気の重みが能力者には感知される。中世の甲冑に身
を固めた騎士のヴィジョンさえ浮かび上がった！ 鎗に指し示されたトニオは雷に打たれ
たようになり、オペラのソリストのように中央に歩み出て語り出した！
「このおれはそう、インプレーザ デッレトルリアの社長、つまりはルーマニアで秘密警
察の御用を務めていたマフィアをまとめたちょっとしたボスさ。悲願のユーロ圏進出で、
イタリアにとっかかりを探していたら、高校生がやってるとっぽいマフィアがあるって言
うじゃないの、今時麻薬の取り扱いを全面禁止したとかいうお馬鹿な子供のお遊び集団が！
……ってのはウソよウソ……。
だからそこのナンバー２の弱みを握ってやろうって話よ。オバサン達ご苦労さん。いや、
なんでもない……。
だ、騙される方がバカなのさ。大人しそうな顔をして、このズベ公はマフィアのボスの
愛人だ、なにが社長夫人だ、笑わせるぜ……うお、だめだこれ以上は……」
ドッキリの裏の仕掛け人は、大きな背中を震わせて笑った。笑いながら自分の口を閉じ
ようとし、果たされずネクタイをほどいて自分で自分に猿ぐつわを噛ませようとする。
「なんですって……この……」
さすがのフーゴも、言葉に詰まった。
「フーゴ、あなたはあの道化にこれ以上しゃべらせるつもりですか？」
その場に駆けつけたジョルノが、殺害許可を出した。
「ボス、感謝します。パープル・ヘイズッ！」
集まった一同には、男が急に皮膚に爛れを生じさせ、崩れたと見えた。あとには、ただ
塵が。それも、風に吹かれて飛び散った。
次には、騎士は「オリヴィア」に向き直った……。
「あ、あた、あたしは……雇われただけだから！ ごめんなさい！」
「オリヴィア」を務めていた女は、こけつまろびつしながら逃げていった。
フーゴは妻に駆け寄ると、その手から茶番の小道具を抜き去って捨てた。そこへ、恐る
恐る近づいたアバッキオの母親が、フーゴから送って貰っておいた、ここで真実愛を誓っ
て交換しなおすはずの指輪のケースを差し出した。
「ありがとうございます」
フーゴは微笑んで、それを取って、アバッキオの指にはめた。
「起きてください、愛しいひと。
ちょっと演出がくどくなりましたが、もう大丈夫。真実は明らかになりました」
優しい声で、語りかける。揺さぶって、反応がないと見るや、目覚めを誘うキスをした。
「ん……」
ぱっちりと目を開いて、目の前に愛する夫がいることを知って、アバッキオはひしと抱
きついた。
「ああ、フーゴ、あなたなのね！ 逢いたかった！」
応えてフーゴも固く抱く。
「やっぱり正しい組み合わせはこちらよね」
アバッキオの母は１人肯いていた。
「なんだ、演出を変えたのならこちらにも話を通して貰わないと。ああ、ビックリした」
暢気そうな声で、ステファーノが事態を収拾した。
「さっきのは特殊効果ね、やっぱり『ＩＴヴェンチャー』のひとはすごいわ」
マティルデが無理矢理に納得する。
「ハリウッド映画みたいだったわよね」
ローザが棒読みの台詞を吐いて肯いた。
「きょ、虚偽を以て婚姻を強いたる先ほどの誓いは主の御前に無効とする。
新郎新婦はただいまより真実の婚姻の誓いをすべし。
汝、パンナコッタ・フーゴは……」
正しく空気を読んだ司祭は宣誓のやり直しを行い、シニョリーナ（？）・アバッキオの
お誕生日のドッキリのお祝いはほぼ想定の通りの結果を迎えようとしていた……。
「振られ男のみっともない意趣返しでしたが、ちょっとやりすぎたようですね。反省して
います。お二人にはハネムーン休暇をこれからプレゼントしますから、どうかお許しくだ
さい」
ボス・ジョルノは如才ない態度で全てをひっかぶってくれた。
「まあ、終わりよければ全てよしというじゃないですか。でも、わたし達のような田舎も
のには刺激が強すぎましたよ。今度からは是非ご相談下さいね」
ひとのよさを丸出しに、ステファーノはみごとにその場を収めてしまった。
その夜のこと。
アバッキオ家の女達は主賓のいないレオナの結婚披露兼お誕生パーティで盛り上がりな
がら、ふと疑問を口に出した。
「オリヴィアは小さいころに死んじゃったから、レオナ覚えてないと思ってたけど、やっ
ぱり少しは覚えてたのね、簡単に騙されちゃって」
「そこは暗示のプロってことだったから。って、あたしたちもすっかりやられちゃったわ
よねー」
「一体誰よ？ 騙されてマフィアなんかにドッキリを持ちかけられたのは？」
「だって、向こうの会社の関係者って言ってたわよ？」
「パンナコッタのことをマフィアの幹部って言ってたけど？」
「ありえません。口から出任せに決まってます。急に発展した会社で、社長が得体の知れ
ない人物だったりすると、この国では『あそこはマフィアとつながりがある』という噂が
立つものです。かえってそういう底の浅い嫌がらせをするところが格の低いマフィア……
ギャングの証拠よ」と、アバッキオの母親は断じた。
「パンナコッタの会社はちょっとその道では揺るぎようのない大手みたいだから、成り上
がりの会社がちょっとスキャンダルをでっち上げて揺さぶろうっていう作戦だったかもね。
悪いコトしちゃったわ」と、マティルデが分析して見せた。
「パンナコッタも頼りないお坊ちゃんに見えたけれど、締めるところは締めるいいコのよ
うね」
「あれはいい男になるわよ。お買い得」
「レオナって結構男運いいわよねー」
「それより、パンナコッタのお友だちってのはなんなの！ あれも極上のいい男だったじゃ
ない！ うまくパパ達をごまかしてくれて！」
「彼も誘えば良かったのに！ そしてお近づきになれれば……」と、エリーゼが今更に悔
しがる。
「無駄なことはおよしなさい。あなたたちに太刀打ちできる相手じゃあありません」と、
母親に一言の元に却下されていたが。
９
「それで、あのウソツキのバカ野郎をヤッたのは誰の妖精さんなわけ？ 一瞬だったわね。
……おねえちゃん？」と、話題を急に変えてローザが目を光らせた。
「あたしの騎士様じゃあないわよ？」
マルガリータが従姉に眼をやった。
「あたしたちは最近出してないから……おばちゃん？」
２人ながら首を振って見せて、話をアバッキオの母に振る。
「あたしのでもありません」
「クリスタの妖精さんは目に見えないじゃないのよ」
その妹がグラスを空けながら突っ込んだ。もちろんあたしでもないわと言い添えて。
「パンナコッタの妖精さんだったりしてー？」
「ないわー！」
「もしかして、レオナかしら？」
「じゃない？ 結局うちの女達は妖精さんが助けてくれるのよね」
「うちの家族以外にこんなの持ってるひとっていないって！」
「身も心も浄いからー？ あはは！」
「浄いわよ！ あたしはとりあえず！ スケベジジイのマエストロの手綱を取るのでもう
必死！ 自分のプライヴェイトなんてなんにもする余裕ありませんって！」
「うっそ！ 結構役得で若い男の子と知り合えてるって言うじゃない？」
「マエストロの弟子のあの黒髪の子、今度紹介してー！」
「これ！ ローザ！」
アバッキオの母親が顔をしかめてたしなめた。
「マティルデはどうよ？」
「優雅なバツイチ生活よ！」
「あたしたちは子育てに追いまくられるふつーの主婦だからー！ もう清潔で清潔で、あ
はははは！」
アバッキオの姉たちは声を揃えて笑って見せた。
「笑い事にするんじゃありません！ なんでもそれが一番大事！」
まったく、イタリアの「普通のご婦人」はこの世で一番強いのだった。
１２−０９−１２
おまけ。
ミスタが手配してくれて、２人はハネムーン先へ移動した。
「昨晩はマレーナが大泣きしていましたから、心配してたんですよ。連絡もくれないし……」
「ごめんなさい、あたし」
「ああ、騙されないでくださいね。やつらは催眠術が売りのギャングです。写真まで合成
して……スタンドではないようですが、大がかりで強力なやつで、その筋では有名でした。
ちょっと名前をいじってあったぐらいで気がつかなかったのはぼくのミスでした。済み
ません、あなたを傷つけてしまった」
「ううん、からだが覚えてるの！ あたし、あなたを裏切ってしまった！」
「良く聞いて。やつらはマフィアなんですよ？ こっちに傷を付けるのが目的の。もし本
当にそんなことがあったりしたら、画像を撮って、ネット経由で今頃はユーロ圏にばらま
いていることでしょうよ。それをしていないんですから、素材がないんです。やつらもこっ
ちに出てきたばかりで、機材もノウハウもなかったんでしょう。ですから、そういうこと
はなかったんですよ」
フーゴはしっかり抱きしめて言い聞かせる。
「フーゴ！」
アバッキオは泣きながらかぶりを振った。その両手を捕えて、フーゴは忍耐深く言葉を
重ねる。
「証拠がないんですから事実はなかったんです」
「……フーゴ」
「あんまり聞き分けがないと切れますよ？ ぼくは綺麗な花嫁姿を見てもう忍耐力が限界
なんです。きょうは絶対ぼくを受け入れて貰いますよ？」
「え……あ、……はい」
「ちゃんと主の御前で誓った夫婦になれましたね。それは、お母様達に感謝しないと」
「ええ」
そして、２人は晴れて夫婦としてキスを交わした。
蛇足。
うっかり忘れていたイタリアの結婚可能年齢は１８歳から。
役場での結婚式は２月から４月のジョルノはまだ未成年でフーゴは辛うじて１８になった
ばかりの時期を狙ったんだと思います。それにしてもできちゃった結婚なら風当たりは強い
な。カトリックだから中絶はありえないだろうけど。
それでお酒は１６からだそうで、「その朝」シリーズでさんざん未成年のミスタ以下は酒
がダメとか書いたのをどうしようかと悩んでいます。もっと調べて書こう！
最近ハーレクィンのコミック版にはまっていて。いやー喰わず嫌いしてたけどこれはいけ
るわ！ ヒーローは必ず美形で金持ちで俺様で。絶対レイプとかないし！ 子供ができたら
結構しっかり責任取らせるし、ヒロインは結構しっかりしてるし！
で、奔放な双子の姉とかそっくりな従姉とかの身代わりでヒーローの婚約者になりすます
系の話（そして、あれ、きみってそういう子だった？ かえってそっちの方が好み、と燃上
がるヒーローと本気で恋に落ちてしまい、ヒロインは苦悩する）って結構あると思って、そ
ういう感じでいっちょ書いてみるかと思ったので、「ハーレクィン風」なわけなんですが、
そう思って探すとないよ、「身代わり恋人」系の話。おかしいな、あったと思ったんだけど
（と一時期真剣にネットで探してしまいました。それで時間がかかった）。
カソリックの結婚式の式次第はネットに転がってるのを参考にしましたが、洋画なんかで
見かける「この結婚に異議ある人は」ってのやらないみたいですね。「Ｗデイ」の蛇足でも
書いたけど、教会式では、結婚式を挙げる数ヶ月前から断続的に掲示したり口頭で知らせた
りして、ホントにコミュニティぐるみで重婚防止のチェックをやるそうです。そう、「異議
のある方は」ってのは、重婚防止が主な目的だそうで……まあ、性が解放されてない頃は二
股交際ってのもほぼ重婚に近いニュアンスがあったでしょうが。アバッキオが心理的に抵抗
しようとするシーンをせっかく書いたから入れましたけどね。
それにしても、「かれは多重債務者だ！」とかいう告発はそう言うときにはお呼びでない
のかしら。これも秘密にされたまま結婚したくはないような。
「リヴァース」モード最強の「スタンド能力者」アバッキオおかん再登場。彼女は全てを
知っているのかいないのか……。って、ねーちゃんたちまで能力者にしてしまいました。最
後にネタばらしをしてくれるひとが欲しかったから。どうも真実を追究せずにおれないスタン
ドは血筋みたい……マレーナのスタンドが語ってくれるってのも考えたけど、ご主人様仕事
場から直行したのでマレーナ拾えなくって。ああ、マレーナちゃんのスタンドも、真実暴露
系です。