逆鱗
その朝（４９）
１
相性が悪い、とでもいうのだろうか。
アバッキオは基本、オバチャン受けがいい。もともとの端整な顔立ちを、地獄の責め苦
を一身に引き受けるような苦悩の表情と、どうかもとの素性を聞いてくれるなというけば
けばしい化粧とにやつしていながら、生まれ持った真っ正直な心持ち、子供や年寄り、女
性に優しく、曲がったことはキライという性分が隠しようもなくにじみ出てくるかげんが
堪らないということだ。
少年達にも、実は慕われている。巧い具合に、この辺りの小・中学生のリーダーをやっ
ているニッコロが、警官時代からこの男を家庭教師代わりにしていて、恐ろしい姉たちに
揉まれて育って男きょうだいに憧れていたアバッキオは、口では邪険にしつつもいい気持
ちでしたたかな小僧達に使われてやっていた。少年達は、下心なしの親切には敏感で、彼
が失職したのち、身をギャングのチームに置くことになっても頓着せず、厄介をかけ続け
るという逆説的な好意の表し方をしていた。
その他、若い女性は当然のこと、街の親爺衆にも、その不器用で一本気な性格は認めら
れ、好意を持たれていたのだが。
万人に好かれるという人間はいない。
「似合ってねーよ」
「なーに色男ぶってんだヘタレが」
「うちは女に締められてるだけでも一段下がってんのに、もとサツのヒモが偉そうに街歩
いてるなんて、なお下がるじゃねーかよ」
丁度、高校生ぐらいからの不良少年たちには、アバッキオは目の敵だった。
この日も両手が買い出しの食材で塞がっているのが禍いして、いいように小突かれ、頭
の帽子を取り上げようといろいろに手を出され、髪を亡者のようにざんばらにしてようよ
うアジトに帰り着いた。
「別に手を出してもいいんですけどね。１回あんたがやるときはやる男だっての見せてや
れば大人しくなると思いますけど」と、フーゴは帳簿から眼を上げずに言った。
やるときはやる。
それはまだ示すことができないでいる。拾われて１ヶ月でそこそこの料理を提供できる
ようになったということで、真面目である程度器用で頭がいいということは判ってきてい
るかも知れないが。
本格的に冬を迎えて、ネアポリスは雨が多くなった。思い出したくない記憶ばかりが蘇っ
て、優しく包み込んでくれるひとの腕もアバッキオにとっては煩わしいばかりだ。
「……悪りぃな」
押しのける手が、どうにも加減が効かなくなっていて。昨夜もブチャラティに痛い思い
をさせてしまった。それさえもブチャラティは気遣って、声を上げず、顔にも出そうとせ
ずに堪えていた。いいんだ、気にするな、しつこくしてしまったな、そういう言葉を絞り
出すようにして、顔は背けて隠していた。
どん底の日々に突然差した陽光、一足飛びに天国へと引き上げてくれた救いの手。
その何よりも大切にするべき女を、苦しめ痛めつけている。
なんて情けない自分！
アバッキオは自己嫌悪を抱えてキッチンに入った。と、その背から彼のスタンドが現れ
て、彼の乱れた思念のままに、昨夜の様子を再現する。
アバッキオは目の前の作業に集中していて、それを関知しなかった。少しのフォローを
試みようと背後に歩み寄っていた人物の気配にも。
「あんた、またあのひとを殴ったんですねッ？」
怒りを抑えきれない声が耳に届くやいなや、凶暴な衝動が拳のかたちをとって彼のみぞ
おちを襲っていた。
「ぐッ……」
言い訳をする余地も与えられず、ただアバッキオは身を折って腰を落とした。
……全力で叩き込んだのに、膝も突かないのか……鍛えてるなこのひと。
瞬時に冷静な観察力を発揮してフーゴはアバッキオを見つめた。
「済まねえ……」
ただ一言詫びて、アバッキオは作業に戻っていった。
「謝りませんからね。スタンドが暴走するなんて……あんただいぶ逝ってますね。
ああ、能力者専門のカウンセラーとか、いればいいのに」
パワー型じゃないから、暴走しても一般人に影響が出ないのは助かるな、フーゴはそん
なことを考えてもいた。
……あんまり追い詰められて、慰めのためにベッドの中でのあのひとなんかを勝手に再
生されたらぼくらは眼のやり場に困っちゃうけど。
とりあえずそんなことを一瞬考えて気分を多少なりとも明るくして、男女のことに詳し
そうなひとをひとり思い出して、フーゴはＳＯＳを出してみた。
２
「ああ、レオーネ・アバッキオ。話は聞いてる。いい男だなあ、おれには負けるけど。タッ
パはどんだけだ？」
男女のことに詳しそうで、それでブチャラティのことを昔からよく知っている男は気軽
に出てきてくれた。トンマーゾ・カッシーニ。山の手のチームの２代目だ。丁度マルガリー
タの買い物に付き合う用があって、と軽く言って寄ってくれた。いつもの人なつこい笑顔
を見せて、アジトに足を踏み入れた。
「１８８」
「でかいなあ。そうか、フロラより一回りでかいな。うん、いいんじゃねえの？
……もうちょっと地獄をみせといて、おれんとこで引き取るつもりだったんだがな。フ
ロラに先を越されるとは」
ふつうのイタリアーノとして、１７０センチ台の背丈のトンマーゾはさらりと言っての
けて、一人で肯いて見せた。
「おまえ、女をなかせたことはあるか？ ないだろ」
トンマーゾが眼を細めて言った。いつものように口はにんまりと弧を描き、いたずらっ
ぽいえくぼが現れている。危険な「笑顔」だ。
表情を消したままにしばらく考え込んでいたアバッキオが、短く答えた。
「……いろんな意味があるとは思うが。たぶん、オフクロは今泣いてる」
「ハハッ」
眼を見開いて、トンマーゾは笑った。
「そうか、そうきたか……そうだな、オフクロさんは泣いてるな。
いいぜ、レオーネ・アバッキオ。
その調子でフロラもなかしてやんな、いろんな意味でな。おれが許す」
「ちょっとッ、カッシーニさんッ！」
フーゴが眼を三角に食ってかかった。
「いーのいーの。フロラは真面目すぎる。あのまんまじゃいずれぽきっと行くって、年寄
り連中は気にしてたから。たまにこういう苦労もして見りゃいいのさ。色恋の道はほんと、
一筋縄じゃあーいかねーのよ。
フーゴ、おまえもな。残念だったが、男は引き際よ。ここでぐぐっと堪えて男を磨け。
な？ そのうちおまえにもいい目がまわってくるさ」
「カッシーニさん、仰ってることがよく解らないんですが」
「ハハッ、あのな、後から効いてくるんだ、おとなの説教ってのは。チーノの老人のわけ
わかんねえケンポーの技みたいなもんでな。後になっておれの有り難みが解ったら、おれ
の墓に酒の一本も供えてくれな？ 安酒でいーから」
「縁起でもない。もしそういう事態が出来したら、生きてるうちにおたくのアジトに一本
届けに上がりますよ。そういうことを仰る方はどうせ長生きするでしょうから」
「ハハッ、待ってるぜ」
ごくごく軽く言って、トンマーゾは出がけにナランチャを構っていった。
「うわッ、なんだこの白い毛玉はッ！？ ナランチャそんなもんアジトに連れて入るんじゃ
ねえよッ」
「あ、カッシーニさんこんちはーッ。ビアンカのこと撫でてみる？」
床に座り込んで猫と遊んでいたナランチャが笑顔を顔一杯に広げて言った。
「なにがビアンカだ、おまえもいい年したギャングが犬猫拾いまくってるんじゃねえよ。
フロラみてえに酒場で女拾ってこいや」
気のいい男は、そんな危ないことを言いかけて白い仔猫ではなく、ブルネットの少年の
頭をぐりぐりと撫でた。
「え〜？ 女の方でおれになんか拾われてくれねえよ」
ナランチャは無邪気な目をして笑う。
「そこをガンバるんだよ。ほんのちょっと無理してカッコつけてるうちに男は大人になっ
てくんだ。いつまででも自分が絶対できることばっかやってちゃーいかんよ。おまえのス
ミスさんも、どんどん強く頼れるように育てていかねーと。１００メートルのところを１２０、
１２０のところを１５０に射程を延ばすとかさ」
「そーかッ！ 解ったッ」
「解ったらその動く毛玉をアジトの外へ出しな。ホントおまえらなんでもよく拾うよな」
と言いつつ、トンマーゾは決して自分からは猫を触らない。
「役に立ってるからいいじゃないですか」
そのナランチャの拾い主のフーゴは済まして言った。カッシーニさんは猫が嫌いなんだ
なと愉快な気持ちになっている。
「考えて拾えよ？ 猫でも新入りと古参は喧嘩するんだからな？ 次のを拾うときにはこっ
ちが落ち着いてからにしろよ？」
「解ってます」
「おまえらもちゃんとリーダー様の恋人には礼儀正しくしろよ？ 一応年は上だし、曲が
りなりにもまともに働いて給料貰った経験あるやつなんだから」
「はーい」
チームの発足時から後ろ盾になってくれていた山の手のリーダーには、少年達は素直だっ
た。
「おれもこれでおまえらのところへ回す人間の算段をしなくて良くなって肩の荷が下りた
さ。ホント、どんなのをやっても消しやがって」
小さな声で愚痴ってみせる。
「すいません」
「でもまあ、おまえらも手を汚してきた甲斐があったってもんだな」
「どういう意味でしょう？」
フーゴは、笑ってしらを切って見せた。
「ホント、大物だよ、おまえら」
トンマーゾは、今度はフーゴの頭をぐりぐりかき混ぜた。
「あんま、急ぐなよ？ あのライオンさんはホント有望株だったそうだぜ。急に方向転換
なんか、できるわけねえんだから」
注意を言いおいて、恋人との待ち合わせの時間に遅れるといってさっさと出て行った。
「ホントにあのひとは真っ直ぐ役に立つことをやってくれたことがない」
フーゴは独りごちた。しかし、その顔は緩んでしまっている。
それでも、打った手は必ず効いてくるのだ。名人のチェスの手のように。
それをチームの発足時に思い知っているフーゴは、少し肩の荷を分け合って貰った気に
なったのだが。
３
雨の日が続くと、ブチャラティの恋人はもういけない。何より大切な女神の声も届かな
い殻に籠もって、ただ自分を傷つける無限のループを追っている。真実を追究し、過去を
狂いなく再現してみせるスタンドが、ただただ心の傷をえぐるためだけに機能しているらしい。
「ねーねーアバッキオ、そろそろおれ別の味のスパゲティ食べたいかも」
ナランチャが代表して注意を喚起した。もう１週間も同じメニューが続いていた。
「ああ、……すまん、明日は考える」
賄い係は上の空で答えた。その視線の先には、ムーディ・ブルースが無限の再生を繰り
かえしている。礼儀上見ないようにしているが、おかげでチームの皆が彼が失職するに至っ
た事情を深く知ることになってしまった。
トマト・ソースにタマネギとパンチェッタのシンプルなスパゲティ。肉はあぶっただけ
の豚ロース、ズッパの具も、サラダの中身も毎日同じ。教えられたとおりの申し分ないまっ
たく同じ味付けだけに、毎日続くとキツい。
本人はそうやって自分の仕事をこなしているつもりで、ただエネルギーのほとんどを自
虐のために費やしている。秋の間に少し肉が戻った頬が、また痩け始めていた。
「それより、明日は皆でちょっと豪勢にカルダーノの店に繰り出さないか？ たしかご招
待券がきていたぞ、この前お上りさんが因縁を付けたのを追い払った礼とか言って」
ブチャラティが、地獄の苦しみの中でも真面目に仕事をこなそうとする賄いをいたわり、
また一方で１週間の小さな拷問に耐えたチームのメンバーをねぎらうために提案をした。
「それはいいですね」
すぐさまフーゴが賛同した。
「やったぁ、アバッキオもたまには食べる方に専念しろよ」
余計なことを言って、と叱られるかと思っていたナランチャは顔を輝かせてアバッキオ
の顔を伺ったが。
「ああ……そうだな。みんな楽しんできてくれ。おれはいい」
こめかみに左手を当てて、垂れかかる長い髪を押さえながらアバッキオはスパゲティを
ただフォークに巻き付けていた。巻くほどに長いパスタは解け、永遠にまとまらない。
「だめだ。皆で行くんだ。
アバッキオ、おまえが入ってくれて、皆で毎日テーブルを囲む楽しさを知ったんだ。今
更一人抜かして食べても楽しくない。
具合が悪くても、なんとか一緒に来てくれ。高尚な話はできないが、皆でいれば少しは
気が紛れるかも知れない。なにより、わたしはおまえがいてくれた方が倍楽しいんだ。頼
む」
ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズを出してその手を掴んで止めさせて、顔を
上げさせ、眼を覗き込んで言った。
「やめてくれ。皆の前で、リーダーが言うことじゃないぜ」
アバッキオはすぐに目を逸らして抑揚のない声で言った。
「言葉で済むならなんでも言う。ここから出る言葉限定だが。おまえのことが心配なんだ。
それとも、触れてみないと解らないのか？」
言うなり、スティッキィ・フィンガーズで自分の胸を断ち割って、心臓を露出させた。
掴んでいた手を引き寄せて、それに触れさせようとする。
「狂おしいほどに打っている。こんな、手で触れられるほどの距離におまえがいてくれる
ことに喜び震えている。そして、おまえが苦しんでいるのを分かち合えないことを辛く思っ
て、縮み竦んでいる。解るか？」
ブチャラティの青い眼は潤んでいる。チェーナのテーブルで愁嘆場がはじまってしまっ
て、フーゴとナランチャは対応に困って目を見交わした。
「やめてくれ」
アバッキオは勢いよく手を引いて、立ち上がった。勢いが良すぎて、手を抜くとき
にブチャラティの肌を手がかすめた。痛くなかったのかな、フーゴは少し気になった。
「おれに構わないでくれ。おれは、あんたが心に掛けるにふさわしくない男なんだ。人間
の屑だ、そうだ……生きている値打ちもない。
なんでひと思いにあの時死んでしまわなかったんだろう？
スフォルツァさんを、あんないいひとを盾にしておめおめと生き残って！ おれのよう
な、悪徳汚職警官がッ！
こんな、こんな生き恥をさらして……汚れてしまって。
なんでおれは生きているんだ！？ 死ねば良かったッ、ああッ、おれが代わりに死ねば
良かったんだッ！ 生き残ってしまってからも、なぜすぐにこの情けない命を絶ってしま
わなかっただろう！？」
ずっとずっと考え続けていた男は、堰を切ったように運命の夜についての間違った総括
を行った。アジトの真ん中で、仁王立ちして、腹の底から絞り出すような声で自らに死刑
宣告を下した。
「バカ野郎ッ」
すぐさま異議が申し立てられた。
能力を持つものにしか見えないたくましい青い腕が、黒衣の被告の腹に穴を開けた。ア
バッキオは自分の腹の中を風が吹き抜けるのを感じていた。
「死ねば良かったなんて、そんなこと絶対言うんじゃないッ！」
彼にお仕置きをくれた女神は、そのネアポリスの海の色の瞳から、はらはらと涙を零し
ていた。
「それじゃあわたしがしたことは、おまえにとって……わたしは、わたしのことはッ……
済まない、頭を冷やしてくる。
……ごちそうさま。旨かった」
言葉に詰まって、身を翻すと、ブチャラティは２階のオフィスに駆け去った。それでも
賄いを労う言葉を忘れなかったのは立派だった。
スタンドを引っ込めていったので、アバッキオの腹の穴はすぐさま塞がった。
立ち去るタイミングを伺っていた少年達は、彼らの敬愛するリーダーの涙に魂を抜かれ
てしまっていた。
フーゴがまず理性を取り戻した。
いや、理性ではなかったらしい。
「死んでみますか？」
ゆらりと立ち上がった。
「フーゴ？」
相棒が、その零下２７３度にも感じられる声音に怯えて声を掛けた。
「あんたを拾って、あのひとがどれだけ苦労したか、知らないくせに。
ポルポさんにお願いして、他のリーダーさん達にも根回しをして、冷やかされて、笑い
ものになって……いろいろあったのに、あんたには全然見せないで笑ってたのに。
あのひとは大好きだった前のチームのひとたちみんなを失って、それでひとりぼっちで
ぼくとチームを立ち上げて、苦労して苦労してここまで来たのに、大切なひとを失うのが
怖くて怖くてしょうがないってのに、
死ねば良かっただなんて！
パープル・ヘイズッ！ 忌まわしくも愛しき我が相棒（スタンド）！ おまえの拳を振
るうときが来た！ この恩知らずに地獄を見せてやれッ！」
最後には古典劇の台詞のように大げさな抑揚を付けて言葉を発した。その内容にナラン
チャが震え上がった。
「ちょ、フーゴッ」
能力者本体の呼びかけに応じて、菱形の連なった道化の着る服のような地模様の、幻の
ような人影が姿を現した。
「ああ、おまえの、スタンドだな」
人形のように立ちつくし、その言葉のつぶてを受けていたアバッキオが、自らの入団試
験の翌朝を思い出してふと口を開いた。そして、どのような特技を持つかについてよく知
らないことに思い至った。拳を振るって地獄を見せる……近距離パワー型とでもいうもの
なのだろうか？
「うばっしゃあぁぁ！」
呼び出されたスタンドは、大きくテイク・バックを取ってアバッキオに殴りかかろうと
した。
「フーゴッ！ 切れんなよッ！ おれはどうすりゃいいのッ！？」と問いかけながらもナ
ランチャはすぐさまフロア・ランプの下に逃れ出て、ウィルスの被害に遭わないようにし
ている。
アバッキオは格闘には慣れているので、その大ぶりな拳を簡単に見切って身をかわし続
けた。
「あのひとに選ばれたくせに！ 皆が望んで得られなかった場所にいるくせに、贅沢な……
あのひとを傷つけることしかできないんだったら、ぼくらの前から消えてくださいッ！」
堪えに堪え続けた言葉をほとばしらせる参謀は、叫びながらもその青い瞳から同じく
涙を滴らせていた。
「フーゴ、おまえ……」
さすがにアバッキオはそれに目を留めて、動きが遅くなった。
「アバッキオ！ 避けろ！ パープル・ヘイズの拳に触れちゃダメだッ！」
ナランチャが叫ぶ。その時、食事の終わった気配を察して、外に出されていた仔猫がブ
チャラティが開け放していったドアから入って拾い主に駆け寄った……。
「うばっしゃあ！」
猫はまっすぐナランチャを目指しただけだった。文字通り、飛ぶように真っ直ぐ。
ただ、大きく腕を振りまわすフーゴのスタンドの拳の軌道が、丁度その経路に当たって
いただけで。
「ギャッ」
猫はすぐに床に叩きつけられた。
パープル・ヘイズの拳のカプセルは、２つが割れていた。
「……ッ！ すまねえッ」
弱いものにはやさしい男が、すぐにもともとの気性を出して、可哀相な小動物の手当を
してやろうと身を低くして飛びついた。
「ダメだッ！ アバッキオ、触るんじゃねえッ！
……ビアンカ」
すぐさまナランチャが飛び出して、渾身の力を込めて大柄な男の身体を捕まえて引き戻
した。小さな声で猫の名を呼ぶ。
パープル・ヘイズの殺人ウィルスが、可哀相な猫の体内で増殖し始めていた。小さな白
い身体が、急激にふくれあがり、一呼吸置いて、すぐさま塵と化した。
「ナランチャ！」
理性を取り戻したフーゴが、坐り込んで激しく嘔吐しながら、涙に濡れた眼で相棒を見
やっていた。
「ごめん、途中では止められなかった、ごめん！」
「……後始末、やっとくから、おまえは窓開けてうがいして来いよ、フーゴ」
静かな声の対話は、彼らの実年令での関係を表わしているようだった。
「……フーゴのスタンドは、毒ガスを出すのか？」
暴れると大変な被害が出ます、そう言っていた、とアバッキオは初めて会った日のこと
を思い出していた。
「ウィルスだって言ってた。フーゴ本体もやばいんだって。罹（かか）ったら、死ぬしか
ないんだ。ほんの３０秒で。気をつけなよ。
骨は残った……埋めてやりたいんだけど」
「ああ、済まなかった。手伝う」
２人は新聞紙に載せた仔猫の残骸を手に、黙ってアジトの裏手の公園に出た。
４
植え込みの陰を見繕って、ナランチャはそこらに忘れられていた子供の砂遊びのスコッ
プで土を掘り返し始めた。アバッキオはなにも見つけられなかったので、せめて手で、掘
り返した土を避けた。
「フーゴはさ、判るだろ？ いいうちの子でさ。こんなところでギャングなんかやって、
きっとどん底だって思ってるけど。まだまだ下はいるんだよ。
おれ、フーゴに拾われたんだ。
中学の時、友達に……たぶん、はめられて、年少送りになったんだ。
まちがいだって、おれじゃねえって言っても、誰もおれの言うことまともに聞いてくれ
なかった。
ひどいところだった。弱いものは食い物にされるしかなくて……。
おれってさ、顔可愛いんだってな、はは……。
あんた、真面目だから、わかんねえかもけどさ……ああいうところじゃ」
ナランチャは言葉を切って、顔を一振りして、無理に笑顔を作って見せた。
「もう、絶対笑うことなんてないと思ってた。誰にも笑いかけて貰うなんてことないって。
誰も信頼できなくて。うちへも帰らずにこの辺の店の裏手でゴミ漁ってなんとか飢えをし
のいでさ。汚れてるってのは、そういうのを言うんだぜ、アバッキオ。
それでも生きてきたんだよ？ 死にたくねえって。誰にも大事にされなかったおれだけ
ど、自分から命を捨てることなんて、思いもよらなかった……
あんたみたいに、キレイに生きてなきゃならない、正々堂々としてられなくなったら死
ななきゃならないって、そんなこと、考えたことなかったよ……」
アバッキオは、胸を突かれて一度顔を上げたが、ただ口を虚しく開け閉めしただけで顔
を俯けた。２人はしばらく黙ったまま穴を掘り続けていた。
「ブチャラティもさ、１２の頃から下町で、チームの一番下っ端の使い走りやって、すっ
げえイヤな目に遭ったりとかしてたと思うよ。だってあんなキレイなんだもんな。女の子
で。
それが、フーゴと２人でこの街を任されて、なんとか治めて、そんで、おれのことまで
気遣ってくれて。おれだけじゃねえよ？ チームに入らなかっただけで、ブチャラティに
世話になったやつはいっぱいいるんだ。……スタンド出なかったやつもいるし。
ほんと、ブチャラティはおれにとってヒーローなんだ。
……フーゴは２人きりだった時間が長いから、もっと近くて、自分のものみたいに思っ
てるかもだけどさ。
おれだって、あのひとのこと特別に思ってたんだから。
おれはあんたらとは違う。ブチャラティがブスでも、ババアでも、ぶっちゃけ男でも構
わない。あのひとを尊敬してるんだ。あのひとのカッコよさに惚れてて、あのひとのため
ならなんでもするって思ってるんだ。
まあそれで、おれたちあのひとのこと守ってかなきゃって思っていろいろやってたんだ
けど。
ああ。
人間もけっこー埋めたよ。
精密爆撃の練習になったな。いや、そんでフーゴののやつエアロスミスに精密爆撃は無
理だって断言するんだけど。ひどくね？
もういいかな？ それ、取って」
静かに、静かにナランチャは語った。
穴の大きさが丁度猫が埋まるだけに広がると、新聞に包まれた猫の残骸をそこに下ろし
た。
馴れている。
十字を切ると、そっと、そっと土をかけ始めた。アバッキオもそれに従った。
「だから、ブチャラティがあんたのことすっげえまぶしそうに見てたの解った。しばらく
は、どういうことか気づかなかったのもあるけど、フーゴにも言わなかった。
すっげえ憧れて、眼を逸らせなくて、でも、声なんか掛けられねえっての、解って。
どうなんだろう、見てるだけでいいんだろうけど、見てるだけで終わるのかなって、お
れもすっげえドキドキした。その辺フーゴとは違うんだよね。
だから嬉しかったよ。あんたがうちのチームに入ってくれて。最初はびっくりして、なん
だよって思ったけど、あんたあのときのあのお巡りなんだもんな。
どうだよ？ ブチャラティきれいだったろ？
いいんだ、おれたちは見てるだけで。
あのひとが、自分の惚れた相手に胸を張って、好きですって言えるために体張ってきたん
だ。フーゴもおれも、あのひとが、どうにもならないことに負けて、自分は汚れてる、最
低だなんて泣くの見たくなかったんだ。……そういう相手って、生きてくには必要なんだ
な。
ブチャラティだって、あんたがそういうふうなの、哀しいと思うぜ。
な？ 死にたいだなんて、言わないでくれよ。おれたちがやってきたこと、みんな無駄
になるじゃねーか。
こいつがこんな死に方したのまで、無駄になるじゃねーかよ」
アバッキオは言葉もなくて、ただナランチャの頭を抱いて髪をめちゃくちゃにかき乱し
た。
「ああ、きれいだったよ。……きれいで、ほんとに優しくしてくれたさ」と、こう言うの
が精一杯で、自省的すぎる男はあとは声を詰まらせていた。
「済まなかったな」
「ううん。ありがとな？ ビアンカのこと埋めてやってくれて」
「その、猫な、……短い間だったが、幸せだったと思うぞ」
考え考え、アバッキオは言葉を絞り出した。
「へへッ」
ナランチャは透明な笑顔を見せた。
５
２人が弔いを済ませてアジトに戻ると、フーゴは平静を取り戻していた。換気のために
窓は開け放たれていて、部屋の空気は冷え切っていた。
「あのひとはそろそろ上がると思うんで……今夜はぼくが送ります。
なんです？ あんなことをしておいてまた今夜もいい目を見られるとでも？」
「いや……いい。頼んだ」
アバッキオは短く言って引き下がった。
「あと１００年も長生きしたら、そう、１１９と１１５です。たいして違いはないと思い
ませんか？
皺だらけになれば、顔立ちなんかなんの意味もないし」
現時点では、アバッキオのアドヴァンテイジは年回りと顔立ちだけだと言いたげに。
「フーゴ、気が長げーよ」
意味を深く理解したのかどうか、ナランチャは笑った。
ブチャラティは命を粗末にするつもりもないが、長生きすると強く信じてもいない。た
だ１日を恋しい相手と過ごすことができれば豊かだろうと希（ねが）い、それを叶えただ
けだ。
フーゴの希いはそれとは違う。
ノックの音に、ブチャラティは無理に笑顔を作って答えた。現れた顔が予想と違ってい
たのだろう、それは強ばって消えた。そのことが、１５才の少年の胸に小さな傷を作った。
紙で指にこさえた小さな切り傷ほどの痛み。
「フーゴ、スタンドを使ったな？」
僅かな吐瀉物の匂いと、赤くなった鼻の先とで言い当てた。
「………………………やつは『いなくなった』のか？」
１分にも及ぶ逡巡ののちに、静かに尋ねた。
今まで彼女に無体を働いた新入り達に、彼らが行ってきたことを認識していたと認めた
もの言いだった。
「まさか。今夜のところは反省させるだけですよ。
当然でしょう？ あんな恩知らずなことを言ってのけたんですから」
「ああ……ちょっとムキになってしまったな。気をつける。
だが、今後は、あと１回はせめて、わたしに免じて見逃してやってくれ。やつのスタン
ドは使える、解るだろう？」
「まあ、いいでしょう。１度だけですよ」
ほんの１０日か、１ヶ月か。このひとが望むなら、好きな相手と過ごせばいい。
１００年後に、変わらず側に、一番近くにいられればそれでいい。
フーゴの希いはそのようなものになった。
「彼ね、パープル・ヘイズを避けきりましたよ。もしかして凄いんじゃ？」
ブチャラティの頬が、少し緩んだ。
「ああ、だって彼はなんでも……」
６
……この部屋は、こんなに寒かったかな？
フーゴが手配してくれた自分の部屋に戻ってみて、アバッキオはふと思った。
季節は冬だ。人気のない部屋が暖かいはずはないのだが、いつも通い慣れている「恋人」
の部屋との違いにいよいよ身を震わせた。暖かくて明るい、居心地の良い部屋。全てが彼
を居心地よくするために配慮されていて。洗面用具も、マグカップの一個も、うきうきと
揃えてくれた。自分を迎え入れるのが嬉しくて仕方ないと言ったふうに。遠慮するな、そん
な間に合わせのものじゃなくてもっといいものを、だが、好みに合わないのだったら無理
しなくていい……口が重く、決断の遅い自分の顔の表情から、心の動きをつぶさに読み取
ろうと、真剣に顔を覗き込んできた。
……泣かせてしまったな……。
姉たちをはじめ、女の子の相手は幼い頃から馴れていて、女の子というものは理不尽に
わめき立て、時にはおかまいなしに涙を流すイキモノだと言うことは解っていたはずなの
に。
だが、あのひとに泣かれるとどうも心臓に悪い。
あのひとの心の脈絡というものが解らないと言えば解らないのだけれど。
いつも、自分には機嫌良く楽しそうに接してくれていた。
……ええと、最初の朝だったかな……？
スタンドが、カウンターを巻き戻し始める。彼にとって、心地よい記憶の映像。
……朝からハンサムと顔を突き合わせて食事をするとうまいもんだな。
真面目な顔で、白地のスーツに身を固めた女ギャングが言ってのけた。
あの街角に立って張り番をし始めた頃から憧れていたのだと聞いたのは、その後だった
から、意味が掴めずに少し固まってしまった。
……それから、あの夜。
ムーディー・ブルースはいちど基本の姿に戻って、またサーチを始める。無機質な貌が、
僅かに微笑んでいるように見える。と、その姿が歪んだ。該当の画像を見つけたようだ。
……レオーネ、……もう一度名を呼んでいいか？ レオーネ、レオーネ！ ああ、夢み
たいだ。おまえがここにこうしているなんて！
頬を染めて、両の手をこちらの頬にかけて言いかけてくる若い女。潤んだ青い瞳の中に、
狼狽える自分の白い顔さえ映っている。頬を寄せてくる。暖かささえ再現する有能な相棒！
……忌まわしくも愛しき我が相棒（スタンド）！ と、フーゴは言ってたっけ。
幾つの時だっただろう。いつものように、失敗のあと、どうにかできなかったか、この
結果を避けるために自分はどうすればよかったかをぐちぐち悩んで考え込んでいるときに、
それは現れた。見たくない自分の姿を、つぶさに再生してみせる困った正直者。まさしく
自分の分身だった。最初は扱いかねて、傷口に塩を塗られるばかりだった。しかし、消え
ればいいのにと思ったことは不思議になかった。汚い、情けない自分を目の当たりに見せ
てくれるその不器用な姿勢は確かに自分のものであったので。
……嬉しいのか？ きれいな優しい姿を取ることができて？
次に聞こえてきたのは、自分の声だった。
……起こしちまったか？ 寝てろよ。あんたは遅かったんだから。
たしか、なんとなく身についていた起き抜けの体操をしていると、ベッドの中から、青
い瞳がじっとこちらを見ていたのだった。
……ああ、うん、もう少し横にならせていてもらう。
手を挙げて止めたのは、じゃあ、と毛布をかけ直してやろうとした自分の手をだったと
思う。
……いいんだ。見てる。おまえが起きて動いているところを鑑賞する。もったいない。
幸せそうに、白い顔がほころんだ。
……見ていて楽しいことはしないと思うが。
戸惑って、顔を背けたからその顔は見ていないはずだ。
……わたしは嬉しいんだ。
その声を聞いて、温かいものが胸に広がった、これは自分の身体が覚えている記憶。ムー
ディー・ブルースの作用ではないはずだ。
……あの時こんなきれいな笑顔をしていたんだな。
と、胸が少し苦しくなった。
……おまえはなんにもしなくていいんだ。わたしが、おまえを悦ばせてやりたいだけなん
だ……。
うわッ。
白い裸身が浮かんだ。
「ムーディ・ブルースッ！ おいたをするなッ！ それはいいッ！」
真っ赤になって手を振ってアバッキオはスタンドを消した。
しばらく考えて、また、アバッキオは「彼女」を呼び出した。別に女性を感じているわ
けではないが、なんとなく、自分に身近な存在は女性であることが多かったので。
少しのずるさで、「彼女」はそのひとの姿を取って現れた。
……なにかしてほしいことはないのか？ なんでも言って欲しい。できるだけのことは
するから。
上目遣いに切なげに見上げてくるブチャラティの姿。偶然取ったにしては場にふさわし
すぎる映像。
「小賢しいぞおまえ」
そう言って、アバッキオはなんとも言いようのない感情を胸に起こさせるひとの頭を引
き寄せた。
「苦労掛けて済まんな。だらしない男で、ほんと」
スタンドに言ったのか、ブチャラティに言ったのか、彼の心の中では区別が付いていた
かどうか。
とりあえず、触れた唇は温かかった。
（ワタシハアナタ。ドレダケ傷付イテモ真実ヲ追究セズニオレナイ強イ意志ノ固マリ）
心に流れ込んでくる意識は、スタンドのものだろうか。
「ばぁか。おれはお世辞は言わねえよ」
青い基本の姿に戻った相棒の頭を撫でてやって、彼はスタンドを引っ込めた。
７
次の朝、支度をして出ようとするブチャラティは、フラットのエントランスに待ちかま
えていたアバッキオに出迎えられた。
「おはよう、リーダー」
「お、おはよう」
戸惑う顔は一瞬、すぐに笑顔を白い小さな顔に上らせて、ブチャラティは言葉を大至急
紡ぎ出す。
「昨日は済まなかった。悩んでいるのはおまえなのに、自分の都合で勝手な気持ちを押し
つけてしまって。フーゴがひどいことをしたんじゃんじゃないか？ あの子はわたしを守
らなくちゃとムキになっているところがあって、嫌な思いをさせたなら済まなかった。許
してやって欲しい。昨夜はちゃんと眠れたか？ 向こうの部屋にはあまり泊まらないから
足りないものがあったんじゃないか？ すぐに手配するから言ってくれ。できれば今夜は
こちらに来て欲しいが……」
「ブチャラティ」
アバッキオは遮った。エントランスにその身体でＡの文字を作ったままで。
「済まない」
ハッとしてブチャラティは反射的に謝った。
「気を遣わせて済まなかった。謝るのはおれの方だ。いつも、どうもありがとう。おれは
どこへもいかない。あんたがおれを必要としてくれている限り、側にいる」
薄青い目は、真っ直ぐに彼女を見据えていた。
「……解った」
少しうつむいて、感情を溢れさせないようにしながら、ブチャラティは歩き出した。ア
バッキオは半歩遅れて、誰もこのひとを脅かさないよう目配りをしながら足を進めた。
「昨夜は構ってくれるなとおまえは言ったが、それだけは聞けない。
わたしはおまえに構い倒す。なつき倒して、おまえをずぶずぶに甘やかしてやる。おま
えがそれに足る人間だと言うことを思い出すまで。
安く見るなよ？ わたしがおまえを見に行ったのは、顔だけ見に行ったんじゃないぞ。
オバチャンたちの情報網をなめるな。プリントを拾うだけじゃなく、空欄を埋めて、ちゃん
と類題もこなせるようになるまで面倒見てやるバカの顔を見に行ったんだ。このご時世、
いくら買ったばかりの品で、自分の受けた最初の事件だからって、川に落ちた自転車を拾っ
て洗って磨くまでして持ち主に返してやった文字通り毛色の変わったお巡りを、ほんの２，
３０ユーロの賄賂を取るにも辛そうな顔をしてどんどん笑わなくなっていってるっていう
正直者の顔を見に行っていったんだ。本当に……心配したんだぞ」
ブチャラティの手が伸びて、アバッキオの腕に絡んで引き寄せた。
「おまえはこのブローノ・ブチャラティに想いを掛けられるにふさわしい男なんだぞ」
その夜のこと。
「いねえ……やつら、どこへ行ったんだ？」
「最近はあの野郎が賄いを引き受けて、チェーナはアジトで採ってるんじゃなかったのか？」
「へ、へえ、向こうで張ってた奴らが聞いてきやした。今夜はリストランテで外食と奢っ
たみたいでさ。
川沿い、フィオーレ通りのカルダーノだそうで」
「解った。行くぞ！」
今時珍しい、黒のスーツに身を固め、夜だというのにサングラスの一団は、ブチャラティ・
チームのアジトがもぬけの殻だったのに気勢をそがれたが、「襲撃先」を変更して駆けだ
した。
カルダーノの店は、ちょっとした有名店。タウン誌に毎週小さな写真入り広告を載せて
は今月はマルガリータ嬢無料月間だの、初雪が降ってから１週間は雪のモチーフを付けて
きたお客様デザート無料サーヴィスだのやっていて、ネアポリスの娘達は一度は行ってみ
たいお店。娘達のみならず、郊外や近隣の街からのお上りさんにも憧れのリストランテだ。
本当は川の向こうのグリマルディーニの縄張りで、格も結構高いのだが、ぎりぎり境界
線の川のそばでブチャラティのチームはよく利用するし、グリマルディーニの地回りを呼
ぶ間も惜しいようなトラブルには、脇を通りかかりざま対応をしてやったりして縁があった。
「来て貰っておいて悪りぃな。今夜は１階席は満員だ。２階へ回ってくれ」
１階の客席係が済まなそうに外階段を示した。
「いいんじゃないか？ ここの２階は水面に丁度うちのシマの歓楽街の灯りが映って見え
てきれいだそうだし」
ブチャラティは鷹揚に肯いた。
「やった！ おれ２階席はじめて！」と、ナランチャが飛び出して階段を駆け上がり始め
る。
「ナランチャ、いいですけど、本当はエスコートするときは上り階段は目上のひとを先に
やるんですよ」
途中まで追いかけて、階段の上がり口でフーゴが足を止めて呼びかける。
「いいじゃないか、エスコートはこちらにいる。先乗りして偵察を引き受けて貰おう」と、
ブチャラティはまだ少しごきげん。
「ここは雰囲気だけじゃないんだ。味の方もちゃんとしてる……しっかり食べてくれ。お
願いだ」
振り返って、アバッキオの痩けた頬に手をやって、ブチャラティが囁いた。
「ああ。そうさせて貰う。上がれよ」
フーゴと眼を合わせて、ブチャラティを先にやって、アバッキオがその後に従った。
と、その時、
「待てやぁ！」
やっとブチャラティの居所を探し当てた黒服の男達が、それを呼び止めた。
「坊ちゃんのお気持ちを踏みにじっておいて、毎日毎日いちゃこらと幸せそうにしやがっ
てッ！」
「ブチャラティッ！ ここであったが百年目ッ！！」
「バッサーニの招待を受けて貰うぜッ！」と、最後の男が、懐に手を差し入れた。
ジャケットの前ボタンを外した男が、懐に手を入れる、それは、懐に呑んだ銃を今から
出すというアクションだ。警官としての訓練を受けたアバッキオが、真っ先に身体で反応
した。
「伏せろッ！」
アバッキオはすぐさまフーゴをたぐり寄せてブチャラティに押しつけた。自分は恐るべ
き瞬発力で真っ直ぐ右手を懐に差し入れた男に飛びかかった。
銃は抜かせなかったようだ。
小柄なイタリアーノは、体格において優れたアバッキオのタックルを喰らってまっすぐ
仰向けに倒れた。
「バッサーニってのはどこの組織だ？ パッショーネに喧嘩を売ろうってのか？ 上等だ！
このおれがいる限り、ブチャラティには指一本触れさせねえぜッ！」
馬乗りになって抵抗を封じ、右腕をねじ上げながら、アバッキオは宣言した。
「ま、待ったーッ」
「堪忍してやってくだせえーッ」
残りの黒服達が、その腕に取り付いてへし折ろうとするのを止めさせた。
「バッサーニというのはうちのファミリーの新市街のチームだったと思うが、なんだ？
謀反か？」
安全が確保されたようなので、ブチャラティがのんびり近づいてきて尋ねた。
「滅相もありませんーッ」
まだ２０代と見える黒服達は、半べそで事情を説明し始めた。
「シニョーラッ！ 坊ちゃんが、坊ちゃんがお誕生日のお祝いの会にシニョーラをお呼び
したいとッ」
「振られたのは解ってるけど諦めきれないからって、どうぞそちらのお兄ぃさんもご一緒
で結構ですからお越しくださいと招待状をお持ちしたんでやすぅ〜」
「こいつは行儀がなってなくて紛らわしかったですけどぉ〜」
「うちのチームは組織やシニョーラにたてつこうってつもりはありやせんですぅ〜」と、
懐から封蝋でシールされた古式ゆかしい招待状を出して見せた。
「ああ、バッサーニ。まだ中学生の２代目が、おねえさまおねえさまって言ってブチャラ
ティにしきりにつきまとってましたっけね」
まるで自分はそういうのとは違うとでも言いたげにフーゴが解説した。
階段の上では、ナランチャがスタンドを出して哨戒していた。伏兵はいないと肯いてみ
せた。
「ああ、マリオな。可愛い少年だったが恋人には若すぎる」
ふ、と笑ってブチャラティは肯いて見せた。
「アバッキオ。よくやってくれた。彼を解放してやってくれ」
なんだか早とちりをしてしまったようで、アバッキオはばつが悪かったのだが、ブチャ
ラティが何も言わないので不機嫌そうに顔をつくって立ちつくした。
「解った。これは確かに戴いた。日程など確かめてからお返事をしよう。バッサーニさん
とマリオによろしく」
せいいっぱい気取って書かれた誕生日の小宴の招待状に目を通すと、ブチャラティはそ
れを懐に入れて、背を向けた。と、１階席の窓に鈴なりになっていた客と目があって、やん
やの喝采を受けてさすがにブチャラティ・チームの一同は汗をかいた。
「礼のためにご招待したというのに、アトラクションを持ってきていただいてはこちらの
借りが増えるばかりではないですか。困ります」
２階のフロア・マネジャーが豪華な食事を並べながら婉曲に礼を言った。
「見せ物になったつもりはない」
ブチャラティは澄まして答えた。
「なあ、ブチャラティ」
アバッキオが渋い表情の下、言った。
「あんた、もてたんだな」
「ああ、わたしも知らなかった」
ブチャラティは淡々と答えた。
ザグゥ！ と大皿の肉のかたまりにサーヴィング・フォークをぶっ刺して、
「何言ってるんですか。大人気です」とフーゴが目を光らせた。
「だよなー」
にかっとナランチャが笑った。
多少の運動もしたことだし、ブチャラティ・チームの一団は、その夜、ご機嫌で有名店
の料理を腹一杯味わった。
８
「……ということがあったそうですが。バッサーニはわしの古い友人ですからして、不届
きの段は平にお許し願いたいというふうにわしからもお願いします」
翌日ポルポに面会したグリマルディーニは、定例の報告のあと、自分のシマであったちょっ
とした笑い話を報告した。
「マリオも若いのに慕われてるみたいっスね」
笑いの衝動は一瞬で堪えて、随伴したトンマーゾが言い添えた。
「ああ、構わんよ。しかし、いいカンジに収まってきたようだな」
愉快そうに唇を緩ませて、ポルポは鷹揚に認めて見せた。
「ええ。ですから例の件は予定通りでいいかと思います」
グリマルディーニも穏やかに応じた。
「しかし、グリマルディーニさんはもっと粘るかと思っていたな」と、ポルポはこの２０
世紀の後半を巧みに泳ぎ渡ってきた老人の引退を意外に思ったようだ。
「多少の余力を残しておくところが秘訣ですじゃ。全部の力を出し切って、あとはベッド
の上で１週間だけが老後なんて、つまらんではないですかな」
「それだからこそ若いのにまだまだ影響力を行使できるんスね？ 強かだなあ」
トンマーゾがからりと笑った。
「まだまだ当てにさせて貰いますよ？」
「ふぉほほ、このような図々しい若い者がおりますから」
グリマルディーニ老も負けじとウィンクをする。
「成るほど。では、幹部会にはわたしから書類をあげておく。
１２月の会議にはどうする？ ブチャラティを連れて行くのは当然としても……いいん
だな？ トンマーゾ」
「ああ、おれは今やばい感じなんで遠慮しますわ。帰ってきたらうちがなかったってこと
が起きると笑い事じゃねえ……みっともなくてすいませんね。
ブチャラティに、恋しい白いライオンさんを披露させてやってくださいや」と、部下が
謀反を企んでいることを関知していることを匂わせる。
「わたしはおまえがうまく捌くことを期待しているがね」
ポルポは穏やかに言った。
「だめでしたら、ブチャラティにやってください。コトが起きたら、うちはたぶん１人も
残らねえ。あの子はガキの頃からうちのシマにも出入りしてたから、だいたい解ってます。
そんで、ゆくゆくの練習にさせりゃいいでしょ？」
「そう悪い方にばかり考えることもないじゃろ。おまえさんはどうも悲観的に過ぎる」と、
グリマルディーニが取りなした。
「ああ、だからおれは山の手の、親から引き継いだシマで手一杯ですよ。カルロもグリマ
ルディーニさんに一生ついてくみたいですから、ブチャラティが後継でいいんじゃないで
すか？」
「トンマーゾ」
「シッ」
年長者２人にたしなめられ、トンマーゾは慌てて口をつぐんだ。まだ、口元にはえくぼ
が浮かんでいる。
「内緒じゃ、まだこの時点ではな」
「１２月の会議で幹部会の了承を得てからだ……却下されることはないとは思うがな」
「解りました」
ネアポリス刑務所の奥で、自分の人生の転機が決められたことを、ブチャラティは知らな
かった。
（１７−０１−１０）
蛇足。
なんやしらん時間かかりましたね。ブチャラティにアバッキオをぶん殴って貰いたかっ
た（ヒドイ）という話。結構簡単に仲直りするなあ。すぐブチャ謝ったしね。
気がつくとナランチャが熱く語ってました。あまりにも今までナランチャが空気過ぎて、
でも、原作での描写からして実はひとの心を読み取ることが上手な勘のいい子であろうと
そこら中で言われているので。ちょっと掘り下げてみました。
怒ったのはフーゴの方でした。またしてもパープル・ヘイズ乱れ打ち。でも、アバッキ
オと違って本人あんまり喧嘩慣れしてないし、ウイルスのせいでスタンド戦闘もそんなに
回数こなしてなさそうだし、もしかしてパープル・ヘイズは直接戦闘弱いかも？（原作で
もイル蔵くんに最後の力でねじ伏せられてたし）と、こうなりました。にゃんこ可哀相。
いくらおお振りでも床を走るにゃんこに拳をぶつけるのはちょっと無理があったけど、にゃん
こがナランチャ恋しさにジャンプしてたと思ってください。偶然、偶然。
アバッキオがイル蔵戦でフーゴのスタンドをマジで怖がってた件については、実際すご
いところを目撃して刷り込まれていたのであろう説が根強いのですが、いつどこで見たの
かなーって思ったら、きっとブチャおねえさんの心を傷つける方向でなにかヘタレなこと
を口走って鉄拳制裁を喰らったのであろうと思って。
そう、逆鱗はブチャラティのでもあったのですが、フーゴの逆鱗でもあったのです。……
ナランチャの心の傷直撃でもあったみたいね。こういう掛詞というかタイトル／テーマの
２重３重構造って好き。
階段から転げ落ちてアバッキオ不名誉の負傷にしようと思ってわざわざシリーズ内既出
のレストランに外階段付けたのに、アバッキオ怪我しませんでしたね。でも、ブチャにとっ
て入院はトラウマだから、入院させちゃ可哀相か（ほとんど食べるところのない林檎とか
剥いてくれたりしてとか考えてた）。ま、今回はお怪我なく済んだと言うことで。
ブチャラティがめだかちゃん（＠めだかボックス）化している（ボソッ）。
この数日後、トンマーゾさんは下克上に遭って死亡。この年の１２月は忙しいです。
アバッキオマゾループ
ブチャラティ逆鱗
バッサーニ「襲撃」（笑） （ここまでが「逆鱗」）
トンマーゾ急死
山の手復讐戦（ここまで「笑わぬ情人」の冬エピソード）
アバッキオローマデビュー（「雨の後には」）
自炊クリスマス・イヴ（「聖夜」）
クリスマス・デート（「聖夜」おまけ）
マリオ坊ちゃんの誕生パーティはいつにしよう？ あ、年明けぐらいでもいいか。