妖精さん
その朝（１５）
視力には自信があったので、街の雑踏の中でもその人影を見間違うことはなかった。柔
らかな茶の髪と、同じ色の眼。自分と肩を並べた高い身長。いつも真っ直ぐに相手を見る
まなざしも、以前のまま。だから、彼はネアポリス市警察の制服を着たその人物とは視線
を合わせずに通り過ぎた。
「レオーネ、久し振りだな」
声を掛けられても、眉一つ動かさずに足を進める。
「レオーネ、おれだ、判らないのか！」
ほんの少しの躊躇のあと、声は追いかけてくる。連れだったナランチャが、気を利かせ
て、
「ピエトロ、今日もねーちゃんたちが待ってるぜ。いつもみてーにその熱いシャウトで女
どもをきゃーきゃー言わせろよ！」と話を作る。
「あァ、任せな……」
長い髪を、雰囲気を作って掻き上げて見せながらも、アバッキオの表情は固まったまま
だ。
「レオーネ、おまえの力を貸してくれ……マルコが殺された」
とうとう、レオーネ・アバッキオの足は止まった。
腕の金時計を見せながらルドルフォ・チェルッティ巡査は笑いかけた。
「ああ、ちゃんと買い戻せたよ。役に立ったんだな、これ」
金に困ったら質に入れろと、退職の日に託してくれた金時計は、紆余曲折を経てもとの
持ち主に返ったらしい。
「悪かった、一夏も保たなくて」
アバッキオは申し訳なさに目を逸らす。
「なに、おまえのことだから、金時計を後生大事に抱えてのたれ死にというのも心配して
たんだ。解りやすく小切手かなんかで持たせれば良かったかと思ってた」
「あんまり、甘やかさないでくれ」
ブチャラティが事情を察して、買い戻そうとしてくれようとしたのも、断ってしまった。
もう逢うこともないだろうと思って。
「一応、今のおまえのボスに挨拶してからな、おまえもいろいろ大変だろうし」
「そう思うなら制服で乗り込んでくるな」と、アバッキオは苦り切る。
「あ、そうか」と爽やかに笑う姿も、友は変わっていなかった。
「いらっしゃい、チェルッティさん」
連絡を入れると、アジトの１階で、ブチャラティは３割り増しの気合いでルドルフォを
出迎えた。珍しく、控えめだがルージュもちゃんと引いている。
「ブチャラティ、おれの警察時代の同期のルドルフォ・チェルッティ。おれの力を借りた
いと言ってきたが、サツに協力なんかしたらやばいだろう？」
「仕事による。うちの組織が持ってるカジノの内部構造を教えろとか、麻薬のルートを教
えろとかなら帰ってもらってくれ」
「そういう話じゃない。……内部監査がらみで殺人事件なんだ。これ以上長引くとカラビ
ニエリ（憲兵隊）が出張ってくる。市警の恥になるんだ」
「坐ってもらえ。ある程度聞いたらポルポさんに許可を取る……カラビニエリには知られ
たくないが、マフィアには知られてもいいと？」
「そういうことだ」と、ルドルフォが肯く。
「どこも意地の張り合いが激しくてな」
アバッキオが言い添えた。
「要は捜査費用の使い込みだ。ちょっと尋常じゃない額の金が消えている。調査部が動い
てたんだが、容疑者……というか、あやしい人物に行き着く前に、その近くの人物が自殺
してしまった」
「それがマルコと」
「そういうことだ。解るだろう、おまえ、マルコはそういうことがやれる人間じゃない」
「そういうことを被せられやすい人間ではあるが」
アバッキオの呟きに、ルドルフォが肯いた。
「誰かに濡れ衣を着せられて殺されたと？」
「だが、鍵のかかった部屋で、１人で死んでいた……自殺でなければ密室殺人というやつ
だ。頼む、おまえの『妖精さん』を出してくれ」
ブチャラティが怪訝そうな顔をした。
「このひとには話してないのか？」
はじめて、ルドルフォはしまったという顔つきをした。
「……あァ、いや、ブチャラティ、あとで説明する。ルドルフォ、上の許可が出たらおれ
の方は構わない」
「いいんだな？ いや、もう童貞は捨てたから妖精さんは呼べないと言われるかと思った」
今度はアバッキオの方が苦い顔つきになった。
「今繋いでもらってる。アバッキオ、その辺の話はあとでゆっくり」
ブチャラティは艶やかに笑いながら携帯電話を耳に当てた。
「ネアポリス市民の義務として、市警の皆さんの役に立ってこいとのことだ。善は急げ。
もう行っていいぞ」
要は、ここでしっかり警察に恩を売ってこいということだ。できれば、市警の表沙汰に
できない弱みも握ってこいと。アバッキオはルドルフォを促して立ち上がった。
国家警察に採用され、皆が警察学校の寮に放り込まれて研修中の頃だ。研修生の１人の
金が無くなった。
「ここに入れといたんだよ！ なあ、頼むよ！ おれの今月の生活費！ 頼むよ、意地悪
しないで返してくれよ！」
おおげさに泣き叫びながら、その男、ジョヴァンニはどんどん大ごとにしていった。最
初は同室のマルコに当たり、両隣の部屋からついには研修生全体にいちいち問いただし、
学校側にも知れた。しかし、誰も名乗りでない。部屋には鍵がかかっていたのだ。警察学
校の寮の中で。他の部屋には被害が無く、外部犯とは思われない。研修生の中に犯人がい
たのなら、前代未聞の不祥事だ。もう、明日には本職の鑑識が呼ばれ、研修生全員の指紋
も採取されるという不名誉な事態になった。それでなくても、今期生の心証は最悪、以後
の出世にも差し支えるであろうことも見えている。研修生達の雰囲気は最悪になった。
……同室のやつがやったに決まってるだろう！
……なんであいつらのトラブルにおれ達が巻き込まれなくちゃいけないんだ！
……マルコに「自白」さしちまえよ！ もともとあいつオドオドしてて目障りだったん
だ。
……おれら全員が迷惑してるんだよ！
「まずいな……」
その当時から文句なしの首席だったルドルフォと、石頭ぶりで皆から敬遠され始めてい
たアバッキオはこっそり話し合っていた。
「おれの心証では、ジョヴァンニのやつ、大騒ぎはしているがそんなに真剣に探してもい
ない。案外簡単なところから出てきそうなもんだが、出てきたあと、開き直りそうで怖いん
だ」
実務に出る前だが、ルドルフォの眼はたしかだった。
「おれが一芝居打つか？」
苦り切ったアバッキオが、頭を掻きながら言った。
探偵よろしく、研修生たちを呼び集めて、アバッキオは慣れない弁舌をふるった。
「おれがドイツ系だってのは、見たら判るかも知れないが……」と、淡い色の眼を指さし
てみて言った。
「母方のばあさんが、ドイツの女だ。これが、向こうに住んでられなくてこっちに流れて
きたんだが、……なんで住んでられなかったかって言うと、ひとと違うところがあってな」
眼を落して、少しためる。
「妖精を呼んで話ができた」
「おいおい！ レオーネ！ もう回ッてんのか！？」
「そんなお話聴きに集まったんじゃねーぞッ！」
すかさず合いの手が入る。
「だから言いたくなかったんだが、しょうがない。マルコが濡れ衣を着せられたり、おれ
達みんなが指紋採られたりも嫌だし、妖精さんを呼んでみる」
「おまえもできるのか！？」
「できないかも知れない。成功しても、黙っててくれよ？ これ限りだ。おれはこの夏大
人になる予定なんだからな」
「なんだそりゃ！？」
「女も、……男も、貞操をちゃんと守っている人間になら、妖精は姿を見せるとばあさん
が言ってた」
真顔で言うアバッキオに、研修生達はげらげら笑った。
「しっ……来た」と、演出用品のミルクを入れた皿をデスクの上に置いて、小さな声で口
笛を吹いてみせる。その背後には、彼の静かな相棒が青い形を取り始めた。「盗難」が起
きた日までカウンターが逆転し始める……。
「教えてくれ、妖精さん。ジョヴァンニの金を隠したのは誰なんだ？」
再生が始まった。札束の入った袋を確認したジョヴァンニが、デスクの一番上の、鍵の
かかる抽出にそれを放り込む。そう、勢いを付けて抽出を閉め、鍵をガチャガチャと掛け
て、また豪快に施錠を確認する。そして立ち去った。早送りのあと、またジョヴァンニが
現れて、鍵を開け、抽出の中から封筒が消えたことに気づき、騒ぎ立てた……。
「妖精さんは、ジョヴァンニ以外はこのデスクには触ってないって言ってるぞ。施錠はしっ
かりしていた。力一杯閉めてたって」
アバッキオが見たままを通訳した。
「じゃあなんで！」
ジョヴァンニがいきり立った。
「こういうことじゃないかな？」
横から、ルドルフォがデスクに近寄って、一番上の抽出を開けた。ギリギリふちにまで
一杯に小物や筆記具が詰め込まれている。
「この状態で、上に適当に置いたものは、勢いよく閉めた場合どこへ行くと思う？」
「反動で、奥へずれるな」
アバッキオは冷静に答えた。
「すると、このデスクは抽出ひとつひとつはレールで枠にくっついているだけだから……」
と、抽出を外してしまって、奥のスペースに手を入れる。
「この裏に落ちるというわけだ。ジョヴァンニ、これでいいか？」と、封筒を掴みだした。
「これだよ！」
中の札束を勘定して、ジョヴァンニは喜色満面になった。
「ありがとう！ ルドルフォ！」
「おまえ、もっと良く探せよ！」
研修生達の溜め息のような悲鳴が上がった。
「マルコ、命拾いしたな」
「いや、ジョヴァンニが悪いって、おれは前からもっとちゃんと探せよと思ってたんだ」
「ホント、はた迷惑なやつだぜ」
「怒れよ、マルコ、おまえ、怒っていいぞ！ これは！」
「レオーネも、しょうもない芝居打ってねーでさっさとデスクひっくり返せばいいんだっ
て」
「そんなのあと知恵だろうが！」
緊張が続いていた分、無責任に笑いは盛り上がって、研修生達はみなで指導教官のとこ
ろに出向いて事件の解決を報告、あまりにもばかばかしい幕切れに怒鳴られたものだ……。
「それが『妖精さん』？」
その夜、一部始終をフラットで聞いて、ブチャラティは眼を見張った。
「まあ、そういうことだ」
「ルドルフォには見えなかったんだろう？ 他の研修生達も」
「ああそうだ」
「それなのに、信じてたのか」
「……もう忘れたと思ってたのにな」
「活用してたんじゃないか、サツのころから」
「いや、下手な芝居だと思われてて、あれ以来、寝る前には『ミルクいらないのか』って
しきりにからかわれたんだぞ」
「だって、そんな、ベタな芝居……」とブチャラティは笑いこけた。
「それでも知恵を絞ったんだ」
傷ついた顔をする恋人を抱き寄せて、ブチャラティは機嫌を取るために撫で回した。
「マルコ、今度は救えなかったんだな……」
暗い声でアバッキオは呟いた。
「これから救えるかも知れん。不名誉な横領犯の汚名から」と、ブチャラティは囁いてや
る。
「そうか……」
翌日、市警の庁舎内の、オフィスの一室。人目を避けて、勤務時間外に入り込んだ。も
う、死体は取り片付けられて、ない。血のあともぬぐわれている。しかし、むっとする匂
いはまだ残っている。あの雨の日の記憶が蘇りそうになって、アバッキオは脚をもつれさ
せた。お守りだ、持ってけ、といわれたハンカチには、ブチャラティのコロンが染みこま
せてあって、アバッキオは心遣いに感謝してそれを手の中に握りこんだ。
「おれがいない方がいいなら、出ているぞ」
ルドルフォは静かに言った。
「いや、いい」
「ミルクは？」
「いらねぇよッ」
眉尻を上げたアバッキオの背から、青い「人形」が浮かび出す。
「幾日前だ？」
「もう３日になる」
芝居の必要はない。黙ったまま、腕組みしてアバッキオはカウンターが時を巻き戻すの
を待った。
「部長、これはなにかの間違いですよね？ おれはなんにも、なんにも知らないんです、
来月結婚するんだ、マルガリータ、おれの小さな……お願いです、お願いです、なんにも
知……」
恐怖に怯えた顔。無理矢理銃を持たされ、押し曲げられる右腕。引き金にかかる誰かの
指。涙を流したまま事切れる旧友の顔……。
殺人であることに間違いはない。が、密室ではない。
アバッキオはもう一度巻き戻し、もう１人、そこにいたはずの人物、すなわち犯人の顔
を再生するよう設定を変えた。
部長と一言呼ばれた人物。それが、この殺人の実行犯ということになる。
その冷たい顔を、アバッキオは脳裏に焼き付けた。
硝煙反応を避けるためか、黒いパーカーを着込んでいる。手袋も。用意周到だ。マルコ
より大柄で、なんなく彼を圧倒して、「仕事」を終えた。パーカーは脱いだ。手袋は、着
けたまま。血だまりを踏まぬよう、注意してドアまで歩く。ドアの鍵は、開けたまま、扉
だけ閉めて出て行った。
さらに早送りして、発見時にまで進めると、
「ドアに鍵が！」
「中に誰かいるのか！？」と叫び声がして、鍵のかかっていないドアが破られた。
「誰か死んでいますッ！」
「なんだと？ おい、確認しろッ！」
壊れたドアの鍵については、だれも確認しないまま、死体の身元確認が進められていっ
た……。
「こいつは、ジョヴァンニの時以上の茶番だ」
突っ立ったまま、アバッキオは唇をゆがめて言い放った。
「なんだって？」
ルドルフォが問い返す。
「ルドルフォ、妖精さんの忠告だ。深入りするな。これは自殺だ」
「レオーネ？」
「おれたちの同期は８０人だったな？ あれから１年半で何人やめた？ みんなこれにつ
いてはなんて言ってる？ 動いてるのはおまえ１人なんだろう？ そういうことだ。関わ
り合いになるな……死ぬぞ？」
「レオーネ、マルコは殺されたんだな？ 妖精さんはそう言ったんだろ？ だったらそれ
を暴かないでどうする！ 罪もないマルコを犠牲にして守らなければいけない横領なんて！」
アバッキオは、手でルドルフォを制した。黙って、ドアの鍵を指さす。別に新しく付け
替えられたわけでもなさそうなのに、ちゃんと鍵がかかるようになっている鍵を。
「いつ直したんだ？ ぶち破ったんだよな？ ここは」
「いや？ そんな。まさか」
「おまえの味方はいないよ、ルドルフォ。さあ、帰ろう。おれも、おまえも、なにも見な
かった。妖精さんなんか、いないのさ」
「レオーネ……」
ルドルフォはうなだれて、なんとか脚を動かした。
「もう一度言うぞ、もう事件のことは忘れろ。おまえは生きるんだ。おまえが生きている
だけで、おまえの周りに小さな正義が存在している。それが、この汚い現実の小さな救い
だ。そんなに肩肘張って大きな正義を貫かなくったっていいんだ」
「そんなことを言うな……おまえ、変わったな」
庁舎を出て、別れかける。雲がたれ込めて、空は暗い。アバッキオの視界の端に、偶然、
向かいのビルから覗いた銃口が過ぎった。
「避けろ！ ルドルフォ！」
すぐさま振り向いて、旧友を突き飛ばす。ごろごろと転がって、狙いを付けさせない。
「ホラ見ろ、対応が速い」
「そんな……」
「でかい声でやばいことを叫ぶからだ」
ルドルフォは黙り込んだ。
「おい、そっちから見えるか？ あのビルの何階だ？」と、アバッキオは狙撃者の位置を
確かめる。
「４階……だな。右から３つ目の窓だ」
「解った、グラッツエ……来るぞ、向こうへ駆け込め」
銃口が動いてこちらに狙いを定めたのを察し、アバッキオが促す。
「ウーノ、ドゥーエ、トレッ！」
二人はそれぞれ逆の方向へと走る。夜目に光る銀の髪が災いした。アバッキオの周囲で、
弾が身をかすめる音がし始める。かなりの凄腕だ。ジグザグに走っても、動きを読まれる。
「うっ……」
脇腹に熱いものを感じて、アバッキオはつんのめった。
「遅いぞ。連絡ぐらい入れたらどうだ？ そんなに盛り上がったのか……？」
ドアを開けて迎え入れたブチャラティは、急にのしかかられて、慌てて恋人の体を受け
止め損ねて抱き直した。その手に、ぬるりとしたものが触れる。
「レオーネ……？」
「フーゴ！ 救急車を呼んでくれ！ うちの組の懇意にしてる病院！ 金ならいくらでも
出すと！ 撃たれたのは腹だ。弾はまだ入ってる。ここまで歩いてきたせいか……出血が
凄い……
「レオーネ！ 眼を開けろ！ ここまで来たならベッドまで入っていけこの朴念仁！ 死
ぬな！ わたしの命令無く勝手に死ぬな！ おまえは髪の先から爪の端までこのわたしの
ものだ！ 今更よその女に触らせるような目に遭うんじゃない！」
「ブチャラティ、ご近所に迷惑ですからその辺で。眼、開いてます、一応そのひと」
フーゴがとりあえずの入院荷物を作りながらたしなめた。
「ルドル……フォ……ひ……密」
「はい。チェルッティさんには内緒にしておきます、一応」
ちゃんと内容を聞き取って、フーゴが手配した。
「わたしの血をみんな採って構わないッ！ むしろ、わたし以外の人間の血など入れてく
れるな」
血液型が同じなのは幸いと言おうか、周りには迷惑と言おうか。ブチャラティは病院で
も取り乱して、らしからぬ無茶を言っている。
「採ってやってください。その方が大人しくなると思うから」
困り顔の尼さん看護師たちに、フーゴは情け容赦なく指示を出した。
「わたしの血がおまえの体をめぐっていると思うと静かな喜びが沸き起こってくる。この
わたしの体から出たものが、おまえを生かして、働かせているのだと思うと。
おまえの尊い心構えを思えば、わたしなどはなにを捧げても足りないという気になるが、
この血がおまえの命を繋ぐのに使われたと思うと、やっとなんとかおまえの役に立ったと
思うことができる。ええと、これはなんて言ったらいいのかな……しあわせ？」
当然貧血を起こしたブチャラティは、ベッドも隣にしてもらって、高揚感のままに珍し
く長台詞を垂れ流している。
「たかが輸血でそれだけ盛り上がれたらそれは楽しいでしょうね。一応安静にさせてやっ
てくださいよ、怪我人なんですから」
冷たく言い捨てて、フーゴは入院の手続きに行った。
「どちら様ですか？」
にこやかに微笑んで、ブチャラティは見舞客を追い返した。聖アンナ慈善病院の特別室
にも、彼は制服姿で現れた。
「ブチャラティさん、おれだよ、チェルッティ……」
「あいにく、そのような方は存じ上げません。どなたかとお間違えでは？」
病室の名札も、「ピエトロ・ブガッティ」様だ。身元は隠してある。ブチャラティも若
妻ふうに装っている。
「レオーネに逢わせてくれ。巻き込んで悪かった。容態はどうなんだ？」
「うちのひとはサツなんかに知り合いはいないよッ。帰っとくれッ！」
低い声で、凄んでみせる。これ以上関わり合いになること、知りたがることはこの男の
ためにならない。びびって大人しくしているふうに、表面だけでも見せれば、ルドルフォ
はこれ以上襲われることはないのだ。
「ああ、失礼した……本当に、済まなかった……気をつけるから、レオーネにもよろしく」
「知らないって言ってるだろッ！」
本気で怒りを露わにして、ブチャラティは疫病神を追い出した。彼女の知らない警官時
代を知っていたと言うことで、やや焼き餅が入っているらしい。
「おい……なんて声出すんだ……」
大人しく助けを待てばたいした傷ではなかったのを、見栄を張って歩いてブチャラティ
の部屋まで帰ったせいで出血多量になったのだ。アバッキオは身の置き所がない。
「うちのひとに触らないでおくれッ！ 世話ならあたしがするよッ！」
男性に飢えたシスター達が、若いいい男と見てひっきりなしに様子を見に来るのを、泊
まり込んで脇に詰めっきりでブチャラティが撃退している。
「仕事にならないですよ。早く退院してください」
書類を持って現れたフーゴがげんなりした。
「今日のお留守番は誰だ？」
書類をめくりながら低い声でブチャラティは質す。
「ミスタ……かな？」
意味を取りかねて、フーゴの眼が泳ぐ。
「アバッキオの入院先は言うなと言ったはずだ」
ブチャラティはまだ静かに怒りをたぎらせていた。
「それはぼくも言ったんですが……すいません。きつく言っときます」
「……いや、それはルドルフォの口を割らせるやり方がうまいんだ」
首席だからな。アバッキオが溜め息混じりに言って、ミスタを庇った。
「あの、おれ、あんたをまっすぐフラットまで連れて帰れって言われてるんだけど？」
ミスタは油断無くあとに従いながら声を掛けた。怪我人は大人しくしていたので経過は
よく、退院の日ははすぐに来た。
庁舎の向かいのビル。４階の、右から３つ目の窓。病院を出るなりすぐ狙撃のポイント
にアバッキオはまず自分の身を置いて、自分が撃たれた辺りを見下ろす。まず庁舎を出た
すぐのところ。転がったのがそこの木の根もと。二人、別々の方向へ走り出して、身に弾
丸が迫ったのがあの看板の辺り、とうとう撃たれたのがそこの消火栓の手前……。距離は
１５０メートルほどもあるだろうか。
「ミスタ、あそこの、消火栓あるだろう？」
「あー？」
指さされるままに、チームのガンマンは狙撃地点を見た。
「ここからあそこまで、走ってる人間に当てるのは簡単か？」
「おれはピストルズがいるからやるけどさー、そりゃあ、それ用の銃で、よっく狙わない
とダメだね。プロのスナイパーだ」
「ふぅん」と、彼はスタンドを呼び出した。もう、３ヶ月も経っている。ルドルフォは週
に１回は顔を出して、直に逢って詫びを入れようとしたが、ことごとくブチャラティに見
つかって追い返されていた。その方がいい。かえって、ルドルフォに害が及んでいないの
が判るのはよかったが。
……おや。
ライフルを構えて、執拗にアバッキオを狙ってきたのは、部長と呼ばれたマルコ殺しの
実行犯と同一人物だった。
……これは都合がいい。
アバッキオは、はっきり唇の端を吊り上げて、笑っていた。
そのまま、ミスタを振り切ってアバッキオは消えた。
「えー？ この３ヶ月、病院じゃずっとねーさんに張り付かれてたんだろー？ そりゃ、
１人でうろうろしたくもなるだろうさ」
ミスタは気づいているのか、とぼけて見せた。
「なにか、お詫びにちょっとしたプレゼントでもみつくろって来てるのかも知れませんよ？
あのひとも、ちょっとは済まないと思ってたみたいだし」と、フーゴが苦しい言い訳を
考える。
「それより、なんでそんなブチャラティ気にしてんの？」
ナランチャが曇りのない眼でリーダーを見上げた。
「ブチャラティだ。今日は何時でもいいから来てくれ。ずっと待ってる。退院したばかり
なのに、無理をしちゃいかん。明日からは行動に制限をつけないから、今日だけは大人し
くうちにいてくれ」と、ブチャラティは携帯の留守録にくどくど吹き込んでいる。
「うわー、ねーさんもいろいろ堪ってるだろうけど、そこまで言わなくても」
一瞬のうちに、ミスタの口はジッパーで塞がれた。
「どこに行ったんでしょうね……川向こうにもちょっと探りを入れときます」と、フーゴ
は腰を上げかけた。
「ああ、……いや、いい」
ブチャラティもさすがにそれは止めた。
庁舎の出口を張っていたアバッキオは、目当ての人物が出てきたのをみとめて、尾行を
開始した。駅までは歩きのようだ。ふと、脇道へそれる。一杯引っかけて帰るらしい。好
都合。ここは川向こう、グリマルディーニのシマだ。挨拶してくるチンピラやら地回りを、
目つきで追い払う。止まり木に留まって、酒を注文した敵にさりげなく近寄る。と、肘の
動きに合わせて大きく身を反らせる。
「痛っ、てめえ、何しやがる、このおれを誰だと思ってるんだ！？」と、叫ぶなり、隠し
持っていたナイフを突き立てる、刃を横にして、心臓に、真っ直ぐ突き刺さるように。肋
骨を避けて、目指す内臓を貫いたと手応えがしたら、スナップを利かせて縦にこじる。こ
れで、完璧。一言も発せず、警察の幹部は息絶えた。
「けッ」
不敵に死体を蹴り飛ばすと、アバッキオはそのまま酒場を出た。
「おいッ！ おまえら、何も見ちゃいねーなッ！？」
顔を青ざめさせたグリマルディーニの地回り連中が、事件をもみ消しにかかっていた。
……いい月だ。
そろそろ季節は乾燥の方へ振れ戻っている。雨は嫌いだ。そういえば、病院の外は晴れ
た日が幾日続いたといっていただろうか。ずっと、ベッドに縛り付けられていて、気にも
していなかった。埃っぽい空が、月を赤く染めている。彼にとっては、これくらいが好ま
しい。
あの日、救われたマルコが、もう、この世にいない。鮮やかな推理でマルコを救ったル
ドルフォは、組織の汚さに出あって傷ついているだろうか。それでも、身近なところから
善を実践して、市民の幸福を小石を積むようにうち立てていくだろうか。そして、あの日、
つまらない茶番を演じた自分は。
……すっかりギャングになっちまったな。
命をたしかに奪った手応えを思いだして、手を見た。少し、血で汚れている。
「こりゃいけねえ」
ブチャラティのフラットを汚す。そう思って手を洗うところを探して、街角の噴水のと
ころで手を洗った。そうして、こうなってもまだブチャラティのフラットに帰るつもりで
いる自分に気づいて、我知らず笑ってしまった。
あんまり携帯がうるさく鳴るから、とうとう取ってみる。やはりブチャラティ。
「どこにいる！？ ５分で拾いに行くからそこにいろ！」
「ポンペイって言ったらどうするんだよ？」
笑っていなしてみる。心配してくれていたのが胸にしみるほど嬉しい。
「ヴェスヴィオ火山の噴火口だろうが行ってやるからじっとしてろ！ そこはどこだ？
傷は痛くないな？」
笑いながら、アバッキオは通りの名前を書いた標識を探した。
「ヌオヴォ・ガレリア通りの噴水のところだ。イルカが山盛りになってるやつ」
「解った！ 後生だから動かないでくれ」
「フロラ」
「なんだ！？」
「愛してるよ」
「バカ！」
ほんとに５分で駆けつけたブチャラティは、グリマルディーニの地回り連中を引き連れ
ていたが、構わず顔に一発拳を叩き込んできた。
「このバカ野郎！ おまえはれっきとしたうちの組のギャングで、向こうは市警の部長だ！
酒の上のケンカでもいろんな厄介な問題が起きるんだ！ 私情で勝手にケンカをするんじゃ
ない！」
「サツだったのか、あいつ」
わざとらしくアバッキオはふて腐れて見せた。
「おまえは芝居がヘタなんだ！」と、ブチャラティはなおも顔に往復びんたをくれる。そ
れでも腹は狙わないのが愛だ。
「あんた昔の同期と一緒だったから感覚狂ってた？ あの狙撃犯の顔はおれも見たよ。自
分を撃った人間に仕返しって、ギャングなら当たり前じゃね？」
車を回して来ていたミスタがけろりと言い添えた。
「そうなのか？」
ブチャラティが問い詰める。
「ああ、ちょうど目の前を歩いてたから、つい、頭に血が上って……」
「わたしにウソが通ると思うな！」と、また往復びんた。グリマルディーニの地回り連中
が歯を食いしばって見ないふりを続けている。
「まあ、その線で市警の方を脅しておく。あんたたちも、手間を掛けて済まなかったが、
他言無用だ。もう帰ってくれ。明日にでもグリマルディーニさんに挨拶に行っておく」
「へい！」
一礼して、地回りどもは解散した。
「……敵討ちは済んだのか？」
フラットへと車で移動中、後部座席でアバッキオをしっかり抱きかかえながら、ブチャ
ラティは静かに聞いてきた。
「ああ。……済まない」
二人とも、視線はまっすぐ前に向けたままだ。
「おまえはパッショーネの組織に忠誠を誓ったわたしの部下なんだ。わたしの命令以外で
うろうろ出歩いて勝手な殺しをするな。みんなが迷惑する」
「ああ」
「……やつを殺したって警察内部の汚職がなくなるわけじゃないぞ」
「だが、ルドルフォが撃たれる可能性は限りなく下がる」
「…………ああいうひとは、長生きしないと思うぞ」
何度も躊躇しながら、ブチャラティはようやく考えを言葉に乗せた。
「あんた……」
「この世は汚れすぎていて、いいひとが長生きすることは難しい。いいひとこそが、はや
く天に召されるのだ……そうじゃないか？」
自身も、父を早くに失っているブチャラティの言だけに、重みがある。
「あァ、そうだな」
「……おまえも、長生きしそうになくて、気が揉める」
泣きそうにか細い声で、ブチャラティは言った。
「ほーい、もうすぐ着くからあとはじぶんちでやってねー」
ミスタがふざけた声を出した。
それから数日。
「あの、サ……」
アジトの２階、オフィスで、アバッキオが唇をゆがめながら、ブチャラティに近づいた。
「爪がもういい加減伸びてきてんだが、切ってもいいかな？」
「なんだ、爪ぐらい、勝手に切ればいいだろう」
ブチャラティは書類から眼を上げて、不審げに言った。
「いやァ？ だって、おれはなんたって、髪の先から爪の端までリーダー様のもちもんだ
し？ いちおーお伺い立ててから切ろうかなと。悪かったかな？」と、にやにやと上目遣
いにリーダーを見やる。
……珍しい。甘えてらぁ。
ナランチャが眼を見張って二人を見つめた。
「おお、そうだったな」
負けないで、ブチャラティは立ち上がってカウチへと異動した。
「こちらへ」
「え？」と狼狽える襟首をひっつかむなり抱き寄せた。横たえておいて、膝枕で手を取っ
て前かがみになる。
「切ってやる。いや、手の爪は切るものじゃないらしいぞ」
「ちょ、ブチャラ……」
変な角度で引っ張られて、実を言うとアバッキオは苦しい。
「こうやって毎日こまめにヤスリを掛けて……手が荒れているな。クリームも買ってやろ
う。私たちのために毎日賄いを引き受けてくれている手に間違いがあっちゃならんからな」
「いやその……」
アバッキオの顔の真上には胸が来ていて、嬉しいはずなのになにか恐ろしい。
「グリマルディーニの方から、手際の良さを褒めてきたぞ。いったいどこで覚えたんだ？
まったくおまえも隅に置けないな……」
「よせ……」
「この体勢は息がかかって妙な気分になるな……」
「ブチャラティ？ もご……」
「あーもーじぶんちでやってくれよぉー！」
ナランチャが悲鳴を上げた。
＜１４−０３−０９＞
＜おまけ＞
「リーダーのいうことを聞かない悪い子にはお仕置きをしなくちゃならないんだが、おま
えは怪我が治ったばかりだしなあ」
ブチャラティは妙になまめかしく笑った。
「あ、ああ……」
蛇に睨まれた蛙のアバッキオ。
「わたしもいろいろ疲れたことだし、今夜は暴力はやめておこう」
「あ、ああ、済まねえな……」
「そのかわり、たっぷり可愛がらせておくれ。久し振りだもの」と、大きく胸元の開いた、
いつものコートジャケットのその前あきに添って指を滑らせる。
「い？」
「ちゃんと我慢できるかな？」
その時のブチャラティは、目のいろが変わっていたらしい。
蛇足。
ルドルフォ再登場話。ルドルフォがスタンドの存在を知っていたという話を書きたかっ
た。あと、アバッキオ浮気疑惑でブチャラティが切れていろいろ爆弾発言をするところも。
浮気は書けなかったけど結構満足。
輸血は嬉々として行っただろう。血液型一緒で良かったね。（ということで後日加筆）
……楽しかったけどブチャラティがいろいろ壊れてしまった。
あとで気がついたけど、アバにとっての雨同様、ブチャにとっての病院はトラウマ。そ
れで今回は明らかに命を狙われてのことだから、そりゃ〜四六時中ひっつくよな（書いて
る最中は考えてなかった）。
外科での入院経験はない（近親者も！）ので、あばら２本で１ヶ月とか、腹の銃創で３ヶ
月とか、適当。あばら２本を１ヶ月はやっぱ早すぎたかな？