日蝕
その朝（４０）
１
アバッキオは、行動に理由づけが必要なタイプだ。「市民を守る警官になる」と定めればそのため
に勉強もし、身体も鍛えた。自分のために先輩が命を失った、と思い詰めれば、最低の人間になるべ
く身を持ち崩す。そしてそれはいつも徹底できず、そのことでまたぐずぐずと悩んで周囲に鬱を撒き
散らす。
「渇しても盗泉の水は飲まず」などと格好をつけても遂にはそこで唇を湿すことになり、後悔に泣い
たり喚いたり転がったりしても、そうやって見苦しく振る舞うことで結局のところは心のバランスを
取っている。
本人は真面目に悩んでいるつもりだが、むっつりと黙り込んだり、当たり散らしたりと解りやすい
発散の仕方を取っているので、周りの人間も構ってやりやすく、実際のところはそんなに深刻にもな
らない。
その点ブチャラティは格好を付けずにその時必要な行動を最短時間で選び出し、行うことができる。
割り切った行いは的確で、目的のためには文字通り手段を選ばないし、そのことで心に負担を感じ
ることはない。
ふつうなら。
それでも、なにも感じないでいるほど非情でもないので、心の中には澱のような物が溜っていく。
他人の心を自分よりも尊重する優しさが、表面に築き上げた非情なギャングのチーム・リーダーと
しての言動と乖離を起こして、たまに耐え難い焦燥や、深い虚脱感となって現れる。
そういうときに、彼女はどうするか。
これまでは、そんな感情に名前を付けることすらせずに、黙って甘い物でも平らげて早寝をしてや
り過ごしてきた。
ひとりのベッドに、友人からもらったおとっときのフローラルの香水をスプレイして、２度３度ほ
ど寝返りを打って。
一度ぐらいは、街で噂のめっぽういい男の警官とデートでもする夢でも見られたらいいな、と思っ
てみたかも知れない。デート、という言葉だけで笑ってしまって、その内容についてはなんにも思い
浮かばなかったのだが。
そして、久し振りの、そのどうにもならないだるいキモチにとりつかれてしまった彼女、フロラ・
ブローノ・ブチャラティは、今は、望めばいつでもそのめっぽういい男のもと警官と抱き合える状況
にあった。
２
いつものとぼけた表情の裏で、彼女は真剣に困っていた。
いつもの店にガトーショコラを買いに入るだけのことにも、彼女らしくなく迷いに迷った。いつも
の儀礼として、一つ買うなら買うで店のものもある程度は察していて、いやな顔はされないのだが、
きっと今夜も泊っていくだろうアバッキオの分をどうするか。体調が悪いと言えば察してすぐに帰っ
てくれるだろう。一人にしてくれるだろう。それでも、ここでケーキを見てしまっては、一人でいい
ものを食べるのかと思うことだろう。自分を閉め出しておいて、別の客があるかと気を回すかも知れ
ない。自分の感情を維持するだけで大変なのに、あの繊細な男の機嫌まで取るのは今の心身の状態で
は負担が重すぎる。
「……いつもの、……２つ」
「ああ、２つね。差し向かいで食べるとまたいいよ」
店の主人、ロドリゴは気のいい笑顔を見せた。
アバッキオには持たせないケーキの箱を手に、ブチャラティは黙りがちに家路をたどる。１つ増え
ただけのケーキの箱が、今夜はこんなに重い。
「じゃ、また、あとで」
ドアのところで、背の高い男が額にキスを落して去っていく。また、あとで。真面目な大男は、今
夜も「恋人」が心を尽くして愉しませてくれると思って胸を弾ませて夜道を往復するのだろうか。
……明日まで来ないで。
自分の愛情を疑っていない忠誠に近いまなざしに、ふと、ブチャラティは息苦しさを感じた。贅沢
な、と、すぐに心中吐き捨てる。その心が欲しいと何度も夜に目覚めては、傍らに規則的な息をたて
るその心臓を自らのスタンドで露出させて見て、むなしさに涙した日さえあったというのに。
……いかないで。一人にしないで。
すぐさま沸き起こってくる別の想いに、今度は心底驚いた。
……そんな、無茶な。
傷付いた心を抱えて、今もやっとやっとで精神の安定を保っている恋人だ。こちらの失調など、受
け止める余裕などないだろう。いつでも手をさしのべて、包んでやることでやっとこちらの存在を認
めてもらって、つなぎ止めているのだ。自分がようよう背を持たせている壁が盤石の石壁ではなくや
わな合板だと知ったら、飛び退いて、二度とは身を寄せて来ないかも知れない。
自分をリーダーとして崇拝する年下の部下達同様に、この無様な心理状態を知られてはならない。
知らず、ブチャラティは深く深くため息を吐いていた。
あの男を、支配しなくてはいけない。
自分より一回り大きく、腕力も強く、おそらくは頭脳や事務能力でも勝っているだろう男を。
紺の制服に身を固めていたときも、大きく胸元を開けて、しなやかな肢体を見せつけるような今の
出で立ちでもひと目を引きつけずにいない端整な美形を。
皆に信頼されていることを実感させ、日々の仕事に達成感を与え、そして、もっと原始的な欲求、
目眩くような性の快楽を与え続けて、支配し、統御し続けなくてはいけない。。それが、チームを維
持し、与えられたシマを平穏に管理するための自分に科せられた仕事。新しくチームに迎えた人材は
有効に活用する。それが自分の責任。
……そうだろうか。
はじめはもっと温かい、他愛もない感情だった。
その姿を見ると、ほんの少し心がさざ波立つ。
不快な刺激ではない。だって、その姿は眼に快いのだから。
姿形がきれいなだけではない。あの男は、生きる姿勢が美しいと知った。
この汚れた世界で、忘れ去られたちいさな善を成そうとしていると見えた。
そのまま育てば美しく強い翼の下に、ちいさな弱い物を庇うたくましい鷲に育つと見えたのに。ま
ばゆくて、まともに仰ぎ見ることもできなくなるかと思われたのに。
その雛はあまりに汚い現世を知らなかった。
あるべき場所から転落した鷲の雛を、彼女は拾った。
……時々ですが、もともと白い毛を持つ種ではなくて、突然変異で色の遺伝子を持たないで産まれ
る動物がいるんです。アルビノっていうんですが、ライオンとか、虎とか。白いウサギなんかはそれ
を固定した種です。カラスにまでいるそうですよ。
そういうアルビノは、遺伝的に弱いし、見た目が変わっているから仲間にも疎まれる、もともとの
色っていうのは保護色として獲得した色ですから、それを持たないアルビノは、自然の中では目立っ
てしまってすぐに捕食されます。狩りも失敗しやすい。
……長生きしないんですよ。
動物番組をアジトのＴＶで見ながら、フーゴがナランチャに解説してやっていた。
なるほど、彼はまさしくアルビノのライオンであった。
その姿は、目立つが故に生きにくかったのだろう。
白いライオンは、保護してやらなくては。
鑑賞して、愛玩の対象にしなくては。
ため息を一つ吐くと、ブチャラティは贅沢に湯を溜めて香水を落とし、いつもよりゆっくりと湯を
使うことにした。
３
自分の感情を御するので精一杯の人間は、往々にして周囲の人間の心理にまでは気が回らない。ま
して、フロラ・ブローノ・ブチャラティという女は、いつもとぼけた顔をしていて感情を、思考の道
筋を読ませないのだから。
しかしながら、献身的な愛情で一時の地獄のような堂々巡りから這い出てきた自省的すぎる男は、
恋人の異状を察していた。
……ブチャラティが黙ってチョコレート・ケーキ買って早帰りしたらやばいんだって。
なんのことはない、動物的なカンの良さを見せる先輩が忠告してくれたからなのだが。
……リーダー会でつまんねえこと言われたとか、なれなれしいオッサンにいやらしいこと言われた
とか、おれ達に想像つくのはそれくらいなんだけど、なんかあった？ って聞いても知らんぷりされ
るし。フーゴに言わせると、本人も気がついてないか、気がついてない振りしてるんだろうって。
……あんた、わかるだろ？ 大人なんだから、恋人、なんだから、そういうとき女にどうしてやれ
ばいいか。
こっそり陰に呼んで訴えるナランチャは、常にない様子だった。
日蝕の日、太陽が急に光を失って、途方に暮れる野生動物のような。
盤石と信じていた大地が揺れ動き、地割れを生じたのを目の辺りにした農民のような。
ナランチャはとくにブチャラティをリーダーとして崇拝しているから、その失調は信じがたく、そ
れゆえ不安が大きいのだろう。
黙って、アバッキオはその頭を大きな手で掴んで、ぐりぐりと押さえつけるように撫でてやった。
その背丈の通り、おまえは子供に過ぎないのだと。余計な気を回すなと。
４
アバッキオは、少しの寄り道をして恋人の部屋へと向かった。
ノックをしてしばらく待っても、応答はなかった。
シャワーを使っているのだろうと思って、アバッキオは持たされている合い鍵でドアを開けて入っ
た。
……いやに今日は長いな。
いつもなら気配を察して慌てて切り上げてくるのに、水音はいつまでも続いていた。
「待たせてしまって、済まない」
ブチャラティがバスルームとのしきりのカーテンを開けると、珍しく、なにか花の香りが漂ってき
た。その強烈なブーケに圧倒されるように、部屋のあるじはひどく落ち着かない目つきをしてゆっく
りゆっくり近づいてきた。
「ええと、あの、今夜はちょっと、愉しませてやれないと思う」
遠慮がちに、ブチャラティは言った。
ああそうか、と、なんとなく察してアバッキオは口を開いた。いつにない長風呂の理由とも符合す
る。
「ああ、別にいいぜ」
手を伸ばして、かるく肩を叩いてやった。このひとはわりかし「カレンダー通り」だが、最近はい
ろいろ何かと忙しかったから、いろいろ「体調」も狂うこともあるだろう。
「なんか顔色も悪かったし。ゆっくり寝ろよ。なんだったらおれあっちで寝てもいいし」と気遣うと、
慌ててブチャラティはその手を取った。
「いや、……あの、でも、できれば帰らないで横にいて欲しい。勝手なようだけど」
顔を逸らすのは、なんとか我慢しているが、視線が下がりに下がってしまっている。
「ばぁか」
アバッキオは取られた手を少しの力でねじって外し、さらに手を伸ばしてその頭を抱き込んでやる。
顔を近づけて、その額のところに頬を当てる。あからさまに額の熱を測ったりはしないが、体調を一
応はかってみる。とくに熱はないようだ。湯を使ったあとの、自然な上気としか感じ取れない。
「何回言ったら解るんだよ。別にそんなことで気を悪くしたりしねえよ」
眼を合わせてやっても、青い瞳はいつもの輝きを失って、おどおどと揺れている。
「とくに悪いところはないんだが……だから、やろうとおもったらできるんだ。でも、ちょっと……
今夜は……」
アバッキオはふと、この日頃強いひとがなけなしのコケットリをはたいてみせた夜のことを思い出
した。今夜はとくに気圧が低い訳じゃないようだが、と、視線が窓をなめたのを、彼女は察して言っ
た。
「いや、今夜は雷は関係ない。純粋に……、その、企てがあるというんじゃない。手管とかじゃないん
だ。もちろん、おまえに魅力がないと言うんじゃない。その気がないっていうのはそういうんじゃな
くて……レオーネ」
ふかふかした素材のバスローブに首を埋めるようにして、ブチャラティはそこまでやっとやっと口
に出してあとは心配そうにアバッキオの顔色を窺っている。
……今夜はわたしの方が、おまえに可愛がって貰いたい。
舌が勝手に動きを止めて、なんとか編み出した言葉を息に乗せて口から外へ出すことができない。
いつもの倍の時間を掛けて、全身に磨きを掛けて、自分に不釣り合いのフローラル・ブーケのフレ
グランスを纏って。
それだけの準備をしたのに、どうにも最後の仕上げの言葉が出ない。
……そんな、ばかな。
どんなきわどい性的な台詞も、神経を逆撫でして心の柔らかいところをえぐる言葉のナイフも、た
めらうことなく口にしてきたというのに。顔色一つ変えず、ほんの小娘の頃から。それゆえに、小娘
のブチャラティは恐れられ、一目置かれて来たというのに。
自分が拾って、生殺与奪の権を握っているチームの一番の下っ端に、「ちょっとしたサーヴィス」
を言いつけるだけのことができない。
弱みを見せるんじゃないのに。ただほんのちょっと、気分を変えてみるだけのこと。真意を悟らせ
ないようにしれしれときわどい本音のような嘘を吐くことなんか、いつだってやってきたのに。
今やブチャラティは、自分の身を抱きしめて、ぶるぶる震えて縮こまりながら、ただ虚しく口を開
け閉めしていた。べつにそんな、一生一度の決意をして想いを掛けた相手を誘っている小娘じゃある
まいし。焦れば焦るほどに喉の筋肉が締まってゆく。口がからからに渇いて声にならない。悪夢の覚
めかけの時みたいに。
……まさか本当に夢だったんじゃないだろうな。
あの夜、ディドロの店で、心折れて酒に溺れようとしていたこの男を拾ったところから。
話がうますぎた。
まさかこんなまっとうな警官が生れつきのスタンド能力者で、無茶な申し出を呑んでギャングになっ
てくれて。毎晩うちに来てくれて言うままになってくれて。チームの仕事もいやがらずにやって、賄
いまで引き受けてくれて。
楽しい、楽しいたのしいたのしい…………？
大丈夫、夢じゃない、楽しいばかりじゃなかった、胃が磨りつぶされるような思いもした。それ
はこの身に覚えがある。その身に負った罪を一緒に背負ってもいいとまで思った。それ以上の憂いを
纏わせまいと、大切に、大切に庇ってきた男に、こんなことを言いかけては嫌われてしまうだろうか。
「レオーネ、わたしは……………………その、やさしく、して？」
あり得ない。言葉が途切れて意味が不明瞭になった。ブチャラティは一生の不覚と思って顔を手で
覆った。
しかし、それが巧まずしてうまく働いた。
「あんた、なんだよ……ばかだな……」
この男の中で色を失っていた男の甲斐性という言葉が、輝きを取り戻した！
「いやだったらいいんだ。ただ側にいてくれればいいから。それでわたしは十分なんだけど、すまな
い、贅沢を言った……」
早口にブチャラティは謝って場を取り繕おうとした。うなだれて、身を引いて、ベッドルームへ逃
げ去ろうとする。その細い肩を、アバッキオは捕まえた。振り向かせて、抱きすくめる。
「おじょうさん、そんなこと、泣きそうな顔してお願いするもんじゃねえぜ」
目と眼を合わせて、低いよく響く声でゆっくりと言い聞かせる。
「おれは、いつだってあんたのこと可愛がってやりたいって思ってるんだから」
あとは噛みつくようなキスで言葉を飲み込ませ、抱き上げてベッドまで運んだ。
５
「歌は歌わなくていいのか？」
愉快そうに輝いて、アイスブルーの瞳がブチャラティの眼を覗き込んでくる。
「歌？ セレナータをか？ いまどき？」
戸惑っていたブチャラティの顔が少し不審から冷視の分野に入り込む。
「おれの田舎ではやったやついたぜ。おれが中学に上がる前だけどな」
抱き上げたまま、アバッキオはくるりと回ってみせる。
「ウッソ」
「勇者って言うより、そこまでやるかって、バカ扱いだったけどな、町中の噂になって、その後もう
２，３年は話のネタにされてた」
「やっぱり」
少し、ほんの少し、ブチャラティの顔に笑いが戻る。
「でも、バカとかやりすぎとか言いながら、結構女連中はうらやましそうでサ」
従姉たちにその辺は鍛えられているので、朴念仁ながら女ごころのヘンな機微を押さえている。
「一応やっとこうか、ダメ元で。……あんたカテリーナとかややこしい名前でなくて良かった」
「……なぜ？」
「３音節じゃないとこの歌に乗らねえんだよ……
イル ピゥ ベル スォノ ケィオ マィ ホ センティート……」と、レシタティーヴォのよ
うに始まる。
「フローラ、フロラ、フローラ……」
女の名前を連呼するメロディは、ブチャラティにも聞き覚えのあるミュージカル・ナンバーだ。
「バーンスタインじゃないか」
ちゃんとイタリア語に直してある辺り、誰かの智恵が入っているのだろう。まったく、こういう
手間は惜しまないのがイタリアーノ。
［今まで聞いた最も美しい響きだ。］
「トゥッティ イ ベッリ スオーニ デル モンド インゥーナ ソーラ パローラ
フロラ、フロラ、フローラ、フローラ、フローラ……」
［この一語に全世界の美しい響きがある］
近所迷惑にならないように、耳に口を近づけて、ほんの囁き程度、擦れがちで全然様になってはい
ないが、「ウエストサイド・ストーリー」のあの名曲を自分の名前でやられるとさすがに胸に迫る。
「……やっぱ、ダメか？ この辺まで歌えば一発だって同期のやつは言ってたんだが」
しょげたふうに急に終わるから、また笑ってしまう。
「いや、いい男ぶって延々やられるよりはいい。意外と芸達者だな、レオーネ」
やっと笑顔が呼び戻せて、アバッキオはしみじみホッとする。
……ジョヴァンニ、おまえに掛けられた迷惑やっとこれでチャラだぜ。
「あんた、今日はホント、いい匂いだ、花の女神みたいだ」
あまり振りまわしては頭がふらつく、という考えがちらりと頭をかすめて、もう一度だけくるりと
ターンして、アバッキオはベッドの横に立った。
６
投げおとされる、と思って身をすくめたブチャラティは、そっと抱き下ろされてゆっくり眼を開い
た。と、もうその時には、
「待ってな」と言うなり男は身を翻していた。
「湯を使ったあとは、ちゃんと塗るもん塗らないとダメだろ？」と、ボトルを抱えて戻ってくる。
「めんどうで」と端的に答えると、
「だからやってやるから。横になってな」と、冷たい乳液が頬に塗り延ばされる。
「眼、閉じてていいよ」
「だって」
「おれだよ。あんたの好きなレオーネだよ。だから、気を張ってなくて大丈夫」
「そんな」
……気を張ってなんて、いない、と言いかけて、大きな手のひらに眼をふさがれてしまう。指の腹
のところが、リンパの流れをなぞるように顔に点を置くように少しずつ動いていく。
「ちいさい顔だなあ」いつも思ってたけど、とため息を吐く。
「色は白いし」
「まぁ、ここら辺の出にしちゃ、な。夜に出歩く商売だし」と、ブチャラティは謙遜した。
「あと、これ。あんたはシトラスが似合うと思ってたが、やっぱフローラルもいいな。ラヴェンダー
中心のブレンドにしてもらったから、ちょっと匂い嗅いでろ」と、パッケージを開けて薄紫の絹のち
いさな小袋を鼻先に突きつける。
「サシェ？」
「ナランチャが心配してたぞ、あんたが疲れ溜ってなんか辛そうだって」
「そんな」と、否定しようとするが、
「子供子供してるけど、あんたのこと崇拝してるからそれだけ、ちょっとした翳りに敏感に反応するん
だろ。無理しないで疲れたら疲れたって言えよ」と言い負かされる。
「済まない…………」
「あーッ！ 言うな、言うな！ 黙ってくんくんしてろ！」
「レオーネ……似合わない」
「放っとけ！」
吼えながら、ブチャラティの白いライオンはマッサージを続けた。
７
「肌理も細かい。すべすべして、気持ちいい」
「そうか」
「ああそうだ。きれいなフローラ、おれの女神。おれはとっても嬉しいよ」
かるく唇にキスしたあとは、ベッドの脇の床に座り込んで、ブチャラティの手を取る。
「手もきれいだ」
「水仕事をしないから」
「ああ、しなくていい」
クリームを絞り出して、塗りのばす。
「あんまり関節が出ていなくて、でもすんなり細くて、いい形だ。爪の形もいい。ネイル・エナメル
でごてごて飾り立ててないのもいい」
「だって、ジッパー引くから」
「そうだな。おれたちを助けてくれるな」
スティッキィ・フィンガーズで殴った反動は本体にもきているから、拳など切ったり、ぶつけたり
した痕がありありとしている。きれいなわけはないのだった。
しかし、アバッキオはその手を愛おしげに撫でて、手入れをしてくれている。ラヴェンダーの香り
のハンドクリームには、リラックスさせる効果もあるようだ。サシェの効果もあり、少しずつ、ブチャ
ラティの身体の緊張は解けていった。
「前、少し開けるぞ」
どきりとしたのを押し隠すように、ブチャラティは眼を閉じた。
「熱ッ」
その上に、あつあつの蒸しタオルが置かれる。
「眼の使いすぎなんじゃないか？ あんた最近」
肩がどうにも重いのも、見抜かれていた、とブチャラティは心中汗をかく。
「きれいなデコルテだ」
とろり、と乳液の落ちるのを肌で感じてブチャラティは身じろぎする。
「ここはいつもハイネックで隠しているから、なんだか嬉しいな、おれだけが見てるんだって思うと」
と、ゆっくりとまた塗りのばしながら、アバッキオは囁いてくる。
「頸動脈は晒さない方が。単に安全上の話で」
ついつい色気のない真実を明かしてしまうと、
「ああ、そう言うと思ったよ。フーゴがネクタイだけ締めてるのもそのためか？」
アバッキオはそんなに引かずに話に乗ってくれる。
「あれは純粋におしゃれ心なんだそうだ」
天才児の独特な感覚に二人で笑ってしまう。
鎖骨ぎりぎりまで、もう、指全体から掌まで使って血流を良くしてもらって。
「さ、次がメインだ。姿勢変えてくれ」と、アバッキオはバスローブを肩から滑り落した。
「ほら、さっさと向こう向けよ」と、アバッキオは片手でころりと彼女をうつぶせに転がした。肩胛
骨の上を、両手でなぞってくる。拍子抜けしたような気になって、ブチャラティはされるままになっ
ている。
「うわ、がちがち。無理しやがって」
「な、なに？」
「凝ってる。筋肉が固まって。仕事のしすぎなんだよ」
「だって」
「少しはこっちに割り振れ。デスクワークだって年相応にはやれる」
「解った」
「おれ、あんたに拾ってもらったとき、なんでもやらせてくれって言ったろ？」
「ああ」
「なんでもやるからな」
「ああ……」
大きな手でぐいぐい揉まれているうちに、血行がよくなってきたのが自分でも感じられて、ブチャ
ラティは自然に微笑んだ。アバッキオの手の触れているところが温かい。空いている手でサシェを揉
むと、ラヴェンダーと、あと、ローズやゼラニウムなどの香りが漂う。いったいどこで買ってきたの
だろう、サシェなんか差し入れて、まったく気の利くことだ。これは明日街の連中から冷やかされる
ことだろうな、うまい切り返しを考えておかないと……
ブチャラティはことりと眠りに落ちていた。
８
深い眠りの後、彼女は目覚めた。
嘘のように体が軽い。隣には、やすんだ跡はあるが、恋人の姿はなかった。
「レオーネ？」
か細い声で、彼女は呼んでみた。
「心配しなくっても、どこへも行ったりはしねえよ」
部屋着のシャツを羽織った姿で、彼はドアのところに現れた。カーテンを開けていないので、室内
はまだ薄暗い。その顔を見定めるために、ブチャラティは目を瞬かせた。
「疲れは取れたか？」
「おかげでスッキリした。済まなかった。昨夜はどうかしていた。あの醜態はできれば」と矢継ぎ早
に言うと、
「あァ、よせよ」
いらだたしげにアバッキオは短く遮った。「それ以上言うんだったらおれは怒るぜ」
ブチャラティはらしくなく気圧されて黙った。
「リーダー様よ、おれはそのために拾われたんだろ？」
アバッキオの彫りの深い顔には、暗い影が落ちていた。
「あんたがリーダーやってくことで溜ったあれやこれやをおれで発散させるためだろう？ なら、遠
慮なくおれを使えばいい」
「レオーネ」
ブチャラティは言葉に詰まった。
「ああ、だめだ！ おれは、たったこれだけも、ひねくった言い方はできねえ！ あんたにゃ負ける
よ！」
アバッキオは頭を大きく振ると、向きなおって真っ正面から彼女の目を見つめた。
「ブチャラティ、おれは悲しかったぜ。なんで隔てを置くんだ。おれに気を遣うのも大儀ならそう言っ
て一人でケーキでも食って寝てればいいんだ！ こういう時ぐらいおれに奉仕をさせたけりゃ、堂々
そう言ってくれればいい！ ここへ来て逃げるほど恩知らずじゃねえつもりだぜ？」
「レオーネ」
「あんた、おれが堂々巡りに落ち込んでいたとき、一緒になって悩んでくれてたろ？
おれはあんたが思うほど、日当たりのいい道ばっか歩いてきたわけじゃねえ。失敗して、落ち込ん
で真っ暗になることなんか、しょっちゅうだ。そんなとき、身内も呆れるほどに見苦しく引きずる質
だってのは、てめえで解ってるんだ。
そんなおれに延々付き合ってくれて、ずっと優しくしつづけてくれたあんたの大事に、おれがなん
にもしないなんてこと、あっていいわけなんかねえよ」
反論を許さずに、アバッキオは畳みかけた。
「ケーキ、食うんだろ？ 昨夜はあのまま寝ちまって。コーヒー煎れたぜ」
アバッキオは一夜明けてもお姫様扱いをやめずに、ケーキを冷蔵庫から出してきて、トレイに乗せ
てベッドまで運び、コーヒーとともに完璧にサーヴする。
ブチャラティが目覚めたので、カーテンを開け、部屋には朝の陽光が満ちている。
「ほら、口開けろ、あーん」
「いや、そこまでは……ぁーん」と、抗しきれずにブチャラティは口を開けた。
いつもより倍甘いガトー・ショコラに、ブチャラティは目眩がしそうだった。
「おまえも食べろ」
思わず顔を背けてしまって、アバッキオにも勧める。
「バカ言え、こっちはおかわりだろ」
「いい、そんなに入らない」
「遠慮するなって」
「ホントだ。朝からチョコレートだぞ、無理だって。ロドリゴさんのところのは、本場のウィーンの
お客さんが水をお代わりしたくらい甘いんだ」
「へえ、じゃ、おれも」と、ぱくついて、アバッキオは目を見開いた。
「……………………………………………………脳の血管切れるかと思った」
たっぷり１分ほどは黙って、ようやく唾液が口を洗い尽くしたらしく、口を開いて言った。
「だろ？」と、いたずらっぽく青い眼がアバッキオの顔を見上げていた。
「あんたが元気ないときこれ食うっての解った。これはクルぜ」
「じゃあ、おまえがめり込んだときにも買ってやろう」
機嫌よくなってブチャラティが言う。
「いや、いいから！」
朗らかにブチャラティの笑い声が上がった。
……ああ、笑った。笑ってくれた。
アバッキオはホッとして、なんとか「日蝕」を乗り切ったことを察した。
……フロラ、あんたはおれたちの女神なんだから、下っ端のおれ達にはわからねえ苦労もあるだろ
うが、笑っててくれなきゃ困るぜ……。
いや、上司という意味だけでなく、アバッキオはこの女性にいつも笑っていて欲しいと心から希（ねが）
うようになっている。その理由には、もう自分で気がついている。
……ネアポリスッ子ならここで歌うんだろうな。
［……素晴らしきかな 陽の光り輝く日
それよりなお輝く いまひとつの光
わがきみの 麗しのその面（おもて）］
昨夜から音楽づいているアバッキオは、鼻歌でそっと超有名なネアポリス民謡のサビを口ずさんだ。
（２７−１０−０９）
蛇足。
すげえ難産！ なんでだろう！？
発端は、桃さん（＠おかわりください！）と妄想コメントの応酬をしていたときに、アバッキオが
滅入り込んだときはブチャラティがいろいろ面倒見てやるだろうけど、逆にブチャラティがストレス
溜ったときにアバッキオはそれを察するのか、なんとかしようとするのか、てな話だったと。そして
桃さんの秋の新刊「Ｚｉｐｐｅｒ」で、まさしくストレス溜ってどうしようもなくなったギリギリブ
チャラティが夜中にジッパーでドアを破ってアバッキオ宅に侵入！ ってネタだったので（名作です！）、
予告をそこまでネットで見て、「続きはどうなるんだろう！」と通販が届くまでいろいろ妄想して、
思いっきりいい意味で外されて、じゃあこっちでやるか！ と書き始めたんだけど……おかあさんグ
ランドロマン趣味でごめんなさい。警告ページに「ベルばら趣味」って書いてあるから、一応はお断
りしたかなーって。「雨の後には」で、意味もなく会議の後にダンパシーン入れてブチャラティとア
バッキオにソシアルダンス踊らせちゃってるし。いやー２１世紀（その時点ではまだ２０世紀？）に
もなって社交ダンスはないでしょ！？ ほんと、感覚が古くってすいません。
そんでいきなりセレナータ（いわゆるセレナーデ、恋人の窓のとこで歌うアレ）から歌わせるか！？
イタリア人がアメリカのミュージカル・ナンバー歌うか！？
ホントすいません。そんでもってベタベタに「オーソレミオ」で締めるし。ええ、これ、「わたし
の太陽」って意味でした。ナポリ民謡だし。バーンスタインよりまずこれ使うべきだったよ。
ネットで調べたバーンスタインの「マリア」の歌詞を、エキサイト翻訳様に掛けて捏造したイタリ
ア語版「フロラ」。ああ、インターネットって便利。
カタカナはわたしが自分で振りましたが、間違ってるとアレなのでよそ行って使わないでください
ね。お互い恥かきますから（っておいて書くし）。
The most beautiful sound I ever heard
Il piu bel suono che io mai ho sentito
イル ピウ ベル スォノ ケィオ マィ ホ センティート
All the beautiful sounds of the world in a single word:
Tutti i belli suoni del mondo in una sola parola:
トゥッティ イ ベッリ スオーニ デル モンド インゥーナ ソーラ パローラ
合唱団の時、巻き舌の練習といって「マリア」を１０回クイズみたいに後輩に延々言わせてたとき
に、あれ、こんな曲あったよな？ と記憶をたどってました。日本人でも三文字名前の方は恋人にやっ
てもらってください。今時、気の利いたカラオケならミュージカルナンバーも入ってますよ♪ ハッ！
そういえばわたしも三文字名前だった！ 旦那様ごろにゃ〜ん♪
別解
ブチャラティはバスルームを出るなりベッドに直行して、タオルを取るなりごろりと身を横たえた。
上気した頬のまま、恋人を見やって、
「なんだかとても今日は大儀だ。レオーネ、好きにしていいぞ」と、そのポーズはゴヤの名画のモデ
ルとそっくりではあるまいか。
「……ッ！」
格闘の訓練で慣れているもと警官は、鼻の付け根を押さえてグッと下を向いた。
それでも血の１，２滴は床の上に滴った。
……てのが１回目。
「……好きにしていいぞ」
改めて声を掛けると、アバッキオは勇躍一瞬のうちに着ているものを脱ぎ捨てて、恋人の待つベッ
ドへとダイヴ……
ガッツゥゥゥン！
長身の男はいつもは器用に避けていたが、やや低価格のブチャラティのフラットには、天井の真ん
中に柱が通っていて一段下がっていた。そこに、思いっきり。
「………………無事か？」
ベッドの上から寝返りを一つ打って、ブチャラティは恋人を気遣った。
……ってのが２回目で。本編が３度目の正直だと思って……思えね
えッ！
じゃ、３度目は……。
「……好きにしていいぞ」
「望むところだ」
アバッキオは胸を張って進み出た……。
「アアッ……レオーネ、レオーネわたしはもうダメだ、こんな、……ありがとう」
「こっちこそ。ホント、可愛かったぜ、フロラ……」
レオーネ君とても頑張ってなんとか情熱の一夜を迎えられた模様。
「あの、できれば、また今度、こういうふうにしてもらえるか？」
うっとりと頬を染めて言われて、アバッキオ喜ぶまいことか。
ところが翌朝。
「ブチャラティ昨夜はお楽しみだったな。うちにまで聞こえたぜ」
「アバッキオ、おまえはやるときはやる男だったんだな、おめでとう！」
「ブチャラティ良かったね、これであんたも女の幸せを掴むんだよ」
「アバッキオ、お疲れだったな。これがチーノの秘薬のマムシドリンクだ。あっちの方に良く効くぞ」
……と、街の連中がうるさいこと。そういえば、このフラットは壁が薄いと最初の頃言っていたよ
うな……。思い返せば、前に思いっきり盛り上がって天国を見たのはひどい嵐の夜だった！
「アバッキオ！ 昨夜言ったことは取り消させてもらう！ もう金輪際おまえの好きにはさせないか
らなッ！」
真っ赤になったブチャラティが宣言した。
……というレオーネ君かわいそうな爆笑掌編になるはずだったのに。嗚呼。
煮詰まってた間、いろんなところで「ストレスが溜ったブチャ猫がするりとアバッキオのところに
入ってきて、好きなようにもふれ、とお腹を見せてひっくり返る」とネタを割って反応を見ていたの
ですが、皆さん反応良かったですね。
そこでお立ち会い、対するアバッキオは猫でいいのかと。
いっぺん猫化アバッキオ書いたんですが（「キルケ」参照）、どうもペルシャのむくむく感はアバッ
キオらしくなくて。うちのアバはわんこ的性格だし。
ということで、犬であのシルエットと毛の感じで探しましたところ、ボルゾイかアフガンハウンド
の感じになりました。アフガン・ハウンドは、ウィキペディアによると「独立心が非常に旺盛で、意
に反した命令をされることを嫌う。そのため、『世界一頭の悪い犬』という不名誉な評価も持つ」そ
うですが、そこんとこはどうかな？ 群れの中での序列を重んじ、主の命令を忠実に守り、遂行する
イメージですけどね、原作を読む限りでは。就職したての頃は本人もドイツ・シェパードを目指して
たかもですが。
そういう長毛な犬ッキオちゃんは、「ななき小屋。」さんのところのイメージですね（健全サイト。
ご迷惑がかかるとアレなのでリンクしません）。そちらでは犬種はなにのイメージだったか忘れまし
たが。
さて、それで「もふれ」状態のブチャ猫を見た犬ッキオちゃんの反応は、とても「いただきまーす！」
のルパンダイヴとはいかなくて、
キョドる。
ガクブル。
テンパる。
……しかないだろーな。
いいとこ
「可哀相に疲れてるんだね」と子守歌歌っちゃうという使えなさだと思ってこうなりました。セレナー
タにしちゃったけどね。
「お腹冷やすとよくないよ！」って、毛布咥えてやってきてかけてやって横に丸まるとか。
あ、犬ッキオちゃんだと思うとかわいい？
たまにリードを渡して、ほとんど暴力的なまでの性の奔流に身をゆだねてみたい、いわゆる「めちゃ
くちゃにして！」状態だったブチャも拍子抜けしつつ癒されたらいいなと。
あと、地味に女心を解ってるレオーネ君はマティルデ以外にもおっかない従姉は何人かいる。たぶん
ベルリンかどっかでスケベジジイのマエストロのマネジャーをやってるエリーゼとか（「のだめカンター
ビレ」参照）。あと、自分ちにもねーちゃんがひとりふたり。
男兄弟に憧れてたレオーネ君は素直に慕ってくるナランチャとか街のニッコロとかに親切にしてやっ
ている……んじゃないかな。