Ｎｏｔｔｅ ｄｒａｍｍａｔｉｃａ（劇的な夜）
その朝（６６）生還パラレル版
１
ネアポリスのオペラ・シーズンは１２月に始まる。開場当初よりオペラではなくミュー
ジカルやコンテンポラリーのバレエ作品向けということでプログラムを組んでいる新オペ
ラハウスの方は、毎年１１月中から目玉の公演が始まる。初日には、当然、歴史あるサン
タ・キアラほどではなくても着飾った名士達が顔を揃えて芸術の季節を盛り上げる。もち
ろん、ネアポリスで一番美しいカップルも……。
ネアポリスから車で数十分の港町、マキーシーの小さな家にその気取った招待状が届く
と、毎年のことながらアバッキオはご機嫌で支度を始める。もちろん、招待状が届く前か
らいろいろ心づもりはしているのだが、様々な準備が本格的に始動するのだ。つましい暮
らしゆえもうタキシードを新調したりはしないが、秋口からファッション雑誌をチェック
していてチーフとタイぐらいは流行りのものを揃えておく。カフ・リンクスはその昔のプ
レゼント品を油断無く出してきて磨き上げておくし、ドレスシャツの襞はぴんっと張って
整っているし靴もピカピカだ。夏の疲れも回復してくる頃で、際だつ男っぷりのピークを
その夜に持ってくるように気合いを入れて全身手入れをするよう心がけている。店の予約
も町の寄り合いも全て断って、全身全霊でその夜を迎えるつもりでいる。誰に冷やかされ
ても取り合わない。据わった眼をして、黙ってその夜を完璧に迎えることだけ準備に心を
砕いている。
他でもない、別居中のブチャラティとのデートの夜なのだ。
「ネアポリスでちょっとしたコンサルタントをやっている」アバッキオの別居中の美人妻
はかなりやり手で、いつもは月に一度くらいしか夫や娘に逢いに来ることはできないが、
仕事上新オペラハウスにはちょっとした貸しがあり、またその水準以上の外見のせいでオ
ペラハウスからシーズンの初日と楽日、そして開場記念日には是非にと招待券が送られて
くるのだった。離れて暮していても少しも愛情を薄れさせない２人はその夜をデートのた
めに有効利用することにしてもう３年が経過している。そして、夫婦が水入らずの時間を
楽しんでいる間、その愛娘はどうしているかというと……。
２
「おいッ、客間の掃除は行き届いてるんだろうなッ！？」
ネアポリスの裏社会を仕切るパッショーネの支部の若き支部長がまなじりを決して部下
に尋ねた。
「当然ですッ。一週間前から日に３度はメイドが入って塵ひとつ落ちてませんですッ」
「嬢ちゃんはもう３つだ。そのへんを這い回ってなんでも口に入れたりするような年頃じゃ
あねえが、椅子の上に立ち上がって棚の上の方に手を伸ばしたり、ベッドと壁の隙間に落っ
こちたりとかはざらにあるからな、間違ってもうちでお怪我させたりするんじゃねえぞッ」
「へえッ」
「夜にはローマから護衛のスタッフがじきじきに来るからな、夜の間の心配はねえ、嬢ちゃん
がおねむになるまで楽しく安全に過ごしていただくんだッ」
「へえッ！」
個人的にブチャラティへの尊敬の気持ちを強く持つ支部長は、毎年真剣に子守を引き受
けていた。なにしろボスの後ろ盾で「最愛の女性」、幹部中の幹部、組織の最重要人物の
隠し子なのだ。どれだけ配慮をしても過剰と言うことはない。それに、
「もうお話ししたりするかなあ、……可愛い盛りですよねえ」
子分の眼がだらしなく細くなった。
「ったりまえだ。この夏の締めの夜だってもう片言はしゃべってらした」
ギャングらしからぬその面持ちを咎めもせず、支部長の方も得意げになる。
「おれはもう名前を覚えていただいた。キャーロ、キャーロってカワイイ声で」
「親分、ずりぃ……」
「おいッ、嬢ちゃんの前でそんな言葉遣いはするんじゃねえ。嬢ちゃんはかたぎなんだか
らな、ここんちは『グリマルディーニのおじいちゃま』のうちだ、おれは『番頭のタルティー
ニ』だからなッ」
「へえッ」
「『へえ』じゃねえッ『畏まりました』ッ」
「畏まりましたッ」
と、浮き立つ心を隠しきれない足音が近づいてくる。
「親分、お着きになりましたッ！ アバッキオさんとお嬢ちゃんですッ」
「解った」
威厳も何もなく、ドアが開いて声がかかるより先に、タルティーニは席を立っていた。
「早く着きすぎちまったな……まだ来てねえよな？ あんたたちは支度もあるだろうに、
済まなかったな」
背の高いタキシード姿の美丈夫は、はやる心を恥じるように背けながら、エントランス
で娘を前に押し出して挨拶した。早く着き過ぎも何も、乗ってきたのはグリマルディーニ
差し回しのリムジンだ、要はこの気のいいギャング達が天使を待ちかねて早めにお迎えに
行ってしまったということで、アバッキオの方もそれを待ちかまえていて予定時間より早
く海辺の家を出たからに他ならない。
「アンジェラ、タルティーニさんだ、ご挨拶は？」
「こんばんは……カルロ？」
ほとんど金に見える明るい栗色の髪のアンジェラは、今日は肩までの髪を耳を横は出す
ように両方後ろへとってまとめてリボンを飾って、後ろはそのまま垂らしている。真っ白
い肌を引き立てるクラシックな紺のヴェルヴェットのワンピースドレスに、糊の利いた白
いレースの襟がかかっていて清純そのものだ。春の空の色のぱっちりとした眼が、真っ直
ぐスーツ姿のブルネットの中年の男を見上げている。
「ええ、そうですよアンジェラ。いらっしゃい。また背が伸びて、きれいなお嬢ちゃんに
おなりだ」と、腰をかがめて挨拶するタルティーニに、少し戸惑いながらも近寄って、首
に抱きついて頬にキスをする。泣く子も黙るパッショーネの支部長も相好を崩して、
「おやおや、ありがとうございます、これは役得だ……
ブチャラティさんはもうすぐお着きと思いますが。こちらは構いません、もう屋敷中朝
から今か今かと待ちかまえていましたんで。さ、ご案内しましょう。ご隠居さまがお待ち
です」と、アンジェラを軽々抱き上げて案内した。
「おじいちゃま！」
奥の応接室にたどり着く頃には年に２，３回以上訪問するこのうちのことを思い出して
きたようで、ドアが開くなり主人のところへ駆けだして飛びついていた。
「おい、アンジェラ」
アバッキオが慌てる、それを、
「よいよい。アンジェラ、大きくなったな。ああ、おしゃれして、これは将来が楽しみな
美人さんだ」
孫のいないグリマルディーニ老はご機嫌でアンジェラを膝の上に抱き上げていた。
「あなたばっかりずるいわ。さあ、アンジェラ、おばあちゃまにもお顔を見せて」
横から奥方の声もかかる。アンジェラはすぐさま老婦人にも笑顔を向ける。
「いつもご厄介を掛けて済みません」
アバッキオは恐縮して声を掛ける。
「そぉんな！ もっともっとうちには寄って欲しいのよ」
丸顔のひとの良さ丸出しの老婦人がに頬ずりしながら言った。
「お人形遊びをしましょうか、それともうさちゃんの絵本を見る？ 面白いカードを繋げ
ていく遊びを教わってきたんだけど、アンジェラにはまだ早いかしら？」
「ばあさんご機嫌で。おかげでこのところは顔色も良くなって、メイドどもに指図したり
身の回りにも気を配るようになって。張り合いが出てきたというものじゃ、もちろんわし
も。感謝しとるよ」
グリマルディーニ老はウィンクをして見せた。
「アバッキオさんもどうぞこちらへ。プティフールでも摘みなさいな。それとも軽くなに
か召し上がる？ １幕めの愁嘆場でお腹が鳴ると恥ずかしいわよ。
でも、アンジェラはあんまり食べ過ぎると、ほほ、チェーナのご馳走が入らなくなるか
しらね？」
「おばあちゃま、ひどい！」
「おいおい……」
すっかり和んでしまっているグリマルディーニ邸だった。
３
「お着きになりました」
時間厳守。ブチャラティはさすが、変わらない。大きく開けられたエントランスの扉に
は、物見高いグリマルディーニ配下の子分達が勢揃いして頭を下げ……ていられなくて時々
ぴょこん、ぴょこんと上がっては艶姿を拝んでいる。今は月の半分はローマに詰めている
が、若きネアポリスの守護女神、パッショーネの女幹部のフロラ・ブローノ・ブチャラティ
が正装して乗り込んできたのだ。
小さな白い顔は変わらない。夜の色の艶やかなボブはそれを額縁のように縁取って。ス
レンダーな肢体には年令相応の艶が載ってきた。どんな悲惨な事態にも眉ひとつ動かさな
い剛胆な女マフィアが、この時ばかりは心持ち頬を染めて、真っ直ぐ足を進めてくる。ロー
マで気の合う店を見つけられたらしい。髪の色、身体の線を引き立ててさらに彼女の特異
な趣味を理解したドレスを仕立ててくれている。
……うわ、なにこの渦巻き模様……でもカッコイイッ……！
このとき、一同の心は一色に支配されていた。
「レオーネ！ 逢いたかった」と、飛び込んできそうなのを押しとどめて、アバッキオは
足元のアンジェラを抱き上げて押しつける。
「マンマ、きれい！ お姫様！」
「あ、ああアンジェラ、おまえの方がお姫様みたいだぞ、こんなに可愛くなって。ああ、
これはレオーネが大変だ」と、眼を細めて母親の顔をする。それを見て、若い頃から彼女
とつきあいのあった連中はなんだか目頭が熱くなる。こんな日を迎えることになるなんて！
兄貴分たちのお下がりのすり切れたシャツを着て、棒きれみたいな体つきで下町をかけ
ずり回っていた小娘が。
高校にも行かせて貰えなくて、代替わりの不安定な頃、月々のみかじめ代の集金もちゃん
とできなくて月例会で小さくなっていたあの若すぎるリーダーが。
この前拾ったもと警官は、生れつきのスタンド能力者だったので自分のチームで引き受
けるが、その男と暮すことになるかもしれないのでよろしくと照れ照れと報告してグリマ
ルディーニ老の言葉を失わせたあの女幹部候補生が。
病気で半年ばかり姿を見せなくて、リーダー連中が気を揉んでいたら年明けにけろりん
と可愛い赤ん坊を抱いて顔を見せてこういう訳でなんて謝って見せたあの小癪な女ギャン
グが。
全会一致で、グリマルディーニの引退のあとネアポリスを仕切ることになって、青ざめ
ていたあのブチャラティが……！
ポルポの「自殺」に始まったあの春の怒濤の日々、支部の運命を分かったフーゴからの
長距離電話。
「良く聞いて。ブチャラティがボスを裏切った。ぼくは、……離脱しました。正直どちら
に転んでもいいように動きます。支部の金は彼らにくれてやったから当分立て替えておい
て。よく考えて、賢く立ち回ってください。あんたたちはアンジェラを託されてるんだし」
その時、電話を受けたタルティーニを始め、グリマルディーニの一味は心を決めた。自
分たちに姿も見せない、信頼をおかずにムチャばかり言ってくる得体の知れないボスと、
長年命を懸けてシマを守ってきて、自分たちに信頼を寄せてくれる気のいい若者達と、ど
ちらを取るかを。
ディアボロ（悪魔）とアンジェラ（天使）なら天使の方に決まっている！
グリマルディーニ老は、よそ行きのドレスを着たまだ４ヶ月のアンジェラを高く掲げて
宣言した。
結果、彼らは賭に勝ち、天使の両親たちからは一層の信頼と親愛の情、それから新パッ
ショーネでの優位な地位を勝ち得ている。
綱渡りのような日々を経てこんな幸せを掴んだ。ファミリーも代替わりのごたごたが一
段落してきて、ネアポリスは安泰だ。その場の一同は、つかの間の貴重な平和がこの手に
あることをしみじみ噛みしめた。
しばらくの歓談の後、
「さあ、行こうか。今宵のプリマ・ドンナはあんただ」と、アバッキオは脇に用意してお
いた薔薇の花束を捧げた。
「ありがとう。じゃあ、安心しろ、わたしの心はここに」と、その中から一輪をつまみ上
げて、アバッキオのタキシードの襟に挿す。
「ラ ミリョーネ コッピア！（いよッ、ご両人！）」
控えていた下っ端から声がかかった。
「ロッティーモ イニィターリィア！（イタリア１！）」
タルティーニが艶やかな声を張り上げる。
「いってらっしゃーい！」
アンジェラに見送られて、２人は左右対称に振り返り、ブチャラティは艶然と手を振り
かえし、アバッキオは照れて顔を歪めた。
４
「かーッ、いいよなあ、美人の嫁をボスに差し出して、組織はセミリタイアで田舎で娘と
２人暮らしかァ」
底の浅い羨望の声を耳に留めて、タルティーニが眉を上げた。
「おいッ……いい加減なことをいうんじゃないッ！」
タルティーニが声をかけるより先に押し殺した声がたしなめる。
「もともと幹部連中にも顔の利いたあのひとがバックについてるんで、今のボスは昔から
の幹部を押さえられてるんでしょ……だって、まだ学生だって聞きますぜ？」
訳知りぶった若い構成員は、控える様子を見せない。逆に自分の意見を垂れ流しはじめた……。
「……てめえの腹を吹き抜ける風の音聞いてみるか？」
「へッ」
低い声に、思慮の浅い若い男が振り返った。
「任務（しごと）のためにてめえの左手、ぶった切れるか？ 斧とか包丁とか、そんない
いもんじゃなくて、割れた鏡の破片でよお？」
「そ、そんな親分、できるわけねえッス！」
がくがく震えながら、その下っ端は声を絞り出した。
「『番頭さん』！」
タルティーニは細かく聞きとがめて訂正する。
「あ、はい、番頭さん……できっこありませんです」
「あのお方はやったんだ。あの手も、腹も、奇跡的な裏技で繋がって、生きて帰ってこれ
たんだ、……ブチャラティさんも。そのほかにも、いろいろ。命がけで恩を売って、それ
で、リタイアさしてもらったんだ……それを覚えとけ。おまえらもだッ！」
「へえッ」
首を巡らして一喝すると、構成員達は声をひとつにした。
「カルロ」
か細い声が足元から聞こえて、タルティーニはひやりとした。
「パパは、おてて、あるよ？」
アンジェラが青い眼を丸くして見上げていた。
「え、ええ、繋がったんですよ。ブチャラティさんが魔法を使って繋げたんです。ですか
らもう大丈夫、嬢ちゃんのことも抱っこできるでしょう？」
「うん！」
ホッとしてタルティーニは小さな天使を抱き上げた。
「マンマはまほう、つかえる？」
「ええそうですよ。嬢ちゃんもそのうち使えるようになるでしょうよ」
「ほんと？」
「ホントですとも。さあ、ご隠居さまがお待ちです。ご馳走ですよ」
「わあい」
子供の気を逸らすことができて、一同はホッとした。
ボス・ジョルノのブチャラティに対する想いは中学生坊主の初恋レヴェルということで
側近の認識は一致しているが、肝腎のボス自身はそれが解っていない。最初で最後の恋と
思い定めて真剣に口説きにかかっているから、周囲のものが迷惑している。当のブチャラ
ティが冗談として処理しているので問題になっていないが、情報の行き渡っていない連中
は組織内部のものさえブチャラティを「ボスの愛人」と見なしているようだ。図太いブチャ
ラティはそれも考慮の上で立ち回っているようでもある。まったくしたたかな生き残り技
術だ。
したたかな女性はいいとして、タルティーニはアバッキオがネアポリスを離れるときに
泣きそうな笑顔で、
「ジョルノを取ったんじゃないって言ってくれてますがね」と言うのを聞いているので、
柄にもなく親切に不穏な噂を聞く度、律儀に火消しして回っている。こういうのは俺じゃ
あなくやつらの得意分野だろうが、と、小娘のフロラを可愛がっていた青年ギャング達の
ことを懐かしく思い出して、つかの間、生き残ってもう支部長になりおおせた中年紳士は
ほろ苦く頬を緩めていた。
「髪、巻いたんだな」
リムジンの座席でブチャラティが口を開いた。
「あ、ああ……」
ほんの少しのしゃれっ気でほんのひと束毛先を１０センチばかりカールしてみたのだが、
さすがにやり過ぎと思って結局指でざっとほぐして出てきた。それが、彼の容姿に異常に
執着するブチャラティには解ってしまったらしい。
「もっと気合いを入れて巻いて来いよ、この際全部ぐりんぐりんにやってみたらどうだ？
王子様だ。最近は地味にしているからつまらなかったんだぞ」
ご機嫌でそんなことを言ってくる。
「いや、それはちょっと……」
田舎の漁師町ということで、化粧などして歩いたら村八分ものだと思って、アバッキオ
は地味を心がけている。長い髪も、最初はしつこくあげつらわれたものだった。
「まあいいさ、今夜も女性の眼は独り占めだ。嬉しいぞ」
二の腕に手を絡めてぽん、ぽんと叩いた。ブチャラティに限っては、本日のプログラム
内容に興味は全くない。
「こんばんはーミスタさんが来ましたよー」
可愛いお客様が遊び疲れておねむになる頃にようやっと頼れるガンマンが到着した。
「ミスター！」
アンジェラはご機嫌で旧知の人物に飛びついた。
……アンジェラおヒサー！
……またおっきくなりやがったな嬢チャン！
……オレタチのことマダ見えてんのカー？
……ソロソロ知らない振りしねートヤバいんダヨォ？
……アンジェラ、なんか甘いもん持ってねーカ？
……ボンボン出せヨー、ボンボン！
親指ほどの小さな存在が出てきて幼女の周りを飛び回る。
「あーようせいさんたちこんにちはー」
アンジェラは聞こえているように顔をほころばせた。
「ちょ、アンジェラそれはよそで言っちゃダメだぜ」
ミスタは焦って前屈みになって囁いた。
「わかってるって！」
可愛らしいよそ行きのパジャマに着替えたアンジェラは胸を張って見せた。
「はみがきもしたし、おてあらいもいったよ！ ミスタおはなしして！」
「そーだなー、じゃー、アンジェラベッドに入ってー。いいかー？
むかしむかしねーさんが会議の帰りに花屋のマリアさんから植木鉢もらって帰って来ち
まってさー」
その時、客間のドアが密かにノックされた……。
５
新オペラハウスはもうネアポリスの新名所として定着した。個性的なアーチの連なり、
ネオ・ルネサンスふうの優美な内装。時代がかったシャンデリアと緋の色のカーテン。そ
こここに使われた金に反射して室内は独特の明るさを保っている。足を踏み入れると誰も
がうきうきする非日常の空間だ。そこに、美しい一対が現れた……！
溜め息が細波のようにエントランスの広間を流れた。
今は２人とも日頃ネアポリスの町中を歩いていないので、彼らの姿を見ることのできる
とても貴重なひとときなのであった。
……今夜もまた個性的なドレスねェ。
……本当にお似合い。あの方しか着こなせないわ。
……お似合いというなら。誂えたお人形のようにお似合いの２人だ！
……まったく眼の保養だよ。
ざわめきが流れ遠巻きにするだけでなく、旧知の人々が取り囲んで場は一層盛り上がる。
「Ｂ．Ｂ．やっぱり来たな！ 景気はどうだ？」
明るい声を掛けたのはもう幼なじみといってもいい昔のシマの若社長。自分はまだ身を
固めず取り巻きの女性を取っ替え引っ替えしている。
「ラウル、野暮用で忙しくて。そっちにはご無沙汰続きで済まないな」
「なに。身体が空いたらネアポリスは素通りでマキーシー直行だろ？ マンマは大変だ。
今夜は？」
「知り合いに預けてきた。……しかしおまえはいつ見てもお連れの女性が違うな」
「あのなあ、普通の人間はおまえみたいに引きが良くねえんだよ。一発で最高のを引いたり
は出来ねえの！ いろいろあってまだまだお試し中さ！」
「よく言う！」と、ブチャラティは傍らのアバッキオを見やって笑った。
「ああ、うちの番頭がこぼしてた。おまえがいなくなって、ひとつ面白い問題が起きたっ
て」と、声をひそめるから、ブチャラティは真面目な顔を作って頭を寄せた。
「スピリタスが全然捌けねえんだってよ！ おまえ、今夜幕が下りたら顔出してやってく
れ、『サムソン』にでも」
ひとりで大笑いする若社長に、アバッキオが憮然とした。
「バカな……」
「寄ってみるか？ そういえばここのところアルトゥロさんには不義理をしてたな」と、
当のブチャラティは首をすくめてククッと笑って見せた。
「……ネ、レオーネ！」
さっきから小声で呼びかけてくる声の主に、アバッキオはとうとう気づいて眼を丸くし
た。
「ニッコロ！ 見違えたぞ！」
下町のガキ大将が、入学式のときのスーツを引っ張り出して来てしゃちほこばっている。
「お、おかしくねえかな？」
そばかす少年が、場に気圧されて腰砕けになりながら、旧知の人物を見つけてやっとやっ
とで近寄ってきたのだ。
「立派な紳士だぜ」
笑ってやりながら、アバッキオはさりげなくニッコロの連れを探した。きっと小遣いを
はたいてガール・フレンドをデートに誘ったのだろう。あれから３年、ガキ大将もそうい
うお年頃だ。
「なあ、なあ、このプログラム、フランスのブンゴーのメーサクなんだろ？ 難しくねえ？
おれ３日前から全然寝てねえの、居眠りしたらどうしようッ！」
「あー……おれは一昨年も見たような気がするが、演出が変わってなければ寝る間は無い
と思うぞ。結構どたばたする筋だし。大丈夫、つまんなければ、ブチャラティの真似をす
るんだな。ここだけの話、あいつは結構すぐに飽きるんだ」
「え？ ブチャラティはなにしてんの？」
「横にいるヤツの顔を見てればいいのさ」と、らしくなくほんの少し顎を上げて、アバッ
キオは自分の胸を親指で指し示した。
「あんたら！ ハハッ、変わらねえな。解ったぜ。ま、あんたの嫁には負けるけど、おれ
の彼女もイケてるから、じゅーぶんそんで退屈はしねえな。グラッツェ！」
いつもの笑顔を取り戻し、ニッコロは手を挙げて人混みに紛れていった。アバッキオは
それを大人の顔で見送った。
開演ベルが鳴った。
「レ・ミゼラブル」の幕は定刻通りに上がった。
６
その頃、グリマルディー邸では大問題が持ち上がっていた。
「探せッ！ 本館だけじゃなく離れも物置までッ！」
押し殺した指示が表裏両方のスタッフに掛けられて、総動員態勢になっている。
「お嬢ちゃま！ アンジェラ嬢ちゃま！ どちらにいらっしゃるんですかァッ！？」
メイド達が精一杯優しく、しかしせっぱ詰まった様子は隠せずに声を掛けて回っている。
「念のためプールの水抜いて調べろ！ 庭の池もだッ……どうしましょう親分ッ！？」
「でかい声出すんじゃねえ、大奥様がおやすみだッ」
タルティーニの顔は蒼白だった。
「ミスタさん、一体どういうことなのかお話しして貰えますかね？」
撃鉄を起こしたオートマティックの銃身で頬を叩かれて目覚めさせられたミスタは、自
分がグリマルディーニの側近連中に取り囲まれているのに気づいた。
慌てて見やったベッドの中はもぬけの殻だった。
「アンジェラはトイレかぁ？」
のんきに問いかけたミスタに、水差しの水が頭からぶっかけられた。
「嬢ちゃんの行方はご存じないわけですな？」
タルティーニに低い声で凄まれて、ミスタは自分が寝ずの番をしていなかったことを気
づかされた。
……あらーミスタさんこれはマジでヤバイかも。
さりげなく動かすと、もう両手両足は椅子の背を抱く形に座ったまま拘束されていた。
「えっとー、９時５分かな？ ここんちの大奥様が紅茶差し入れてくれて、アンジェラに
はミルクね？ アンジェラにおやすみの挨拶して出て行かれた。それ飲んでしばらくした
らなんかイイ気持ちになったかなー？」
紅茶に随分ブランデーを注いでくれたことは黙っておくミスタだった。
捜索の虚しい結果が伝わると、タルティーニはとうとうまだ書斎にいたグリマルディー
ニ老に報告を上げ、直々の指図を請うた。
グリマルディーニ老は、往年の威厳を瞬時に取り戻しておごそかに宣言した。
「ネアポリスから出る道路を全部封鎖しろ。この屋敷も当然だ。猫の子一匹出してはならん。
サツには儂から話を通しておく」
新パッショーネの最高幹部の隠し子が誘拐されたとなれば、グリマルディーニ老だけで
背負いきれる事件ではなくなる可能性もあった。
……対立する組織のもののしわざか、それとも、ブチャラティの台頭を恐れる旧幹部側
の策略か。ブチャラティへの個人的怨恨ならアンジェラの命は危うい。殺すというのか、
あんなに可愛らしい、文字通り天使のような子を！
いかに百戦錬磨の老マフィアといえども、個人的な感情に心を痛めずにはおられないの
だった。
それでも、グリマルディーニとして預かった子を誘拐されたということで自分のマフィ
アとしてのメンツを考え、ネアポリス支部としてブチャラティ、引いてはボス・ジョルノ
の信頼を失うことを恐れていろいろ善後策を考えてしまうのは、さすがに習い性とはいえ
グロマルディーニ老は自己嫌悪をしみじみ味わった。
「おう、丁度休憩が入る頃じゃ。……いやな役目じゃが、行って貰わねばなるまいの」
「済まねえ……だらしがなくてッ」
「ああ、慣れてる」
休憩時間に入り、休憩所に移動したブチャラティはごくごくいつものとぼけた顔で用意
のティッシュケースからティッシュペーパーを次々出して夫に手渡している。
「一度見た芝居なのに、ごめんなッ……ああ、あのマンマが哀れで、なんてひどい……何
度見ても身につまされる……」
アバッキオはまだ１幕だというのにハンカチをぐしゃぐしゃにして泣きまくっている。
「一度見たなら解ってるだろ？ この話はハッピー・エンディングだから、大丈夫」
「幸せなもんかッ、苦労ばかりの一生で、成功しかけてもひっくり返される日々で」
「でも最後には幸せに天に召された」
「アアッ、そうだな……だが、あのマンマは気の毒だろ？ 自分の子供を託した紳士が実
は犯罪者で脱獄囚だと知らされて、絶望の中、なんの手だても取れずに死んでゆくんだぞッ」
さすがにブチャラティは嘆息した。
「おまえ、これはお話だろ？ お話の中の他人のことで、なんでそんなに泣けるんだ」
「済まなかったなッこんな性分でッ！」と、せっかく整えたプラチナの髪を広げ散らして
また喚く。
「ああ、ああ、悪かった、好きにしろ」
ブチャラティはもう諦めて、ただ聖母の笑みで手を回して泣きじゃくる愛する男の背を
抱いている。こんな、一度見て筋の判っているお芝居の、脇役の女性の境遇に同情して泣
きに泣いている。この男の泣き顔は見慣れたが、あの頃の涙に比べたらなんとお幸せなこ
とか。そんな日を、この男に与えることができた。心の底から沸き起こってくるしみじみ
とした感慨に、ブチャラティは何とも言えない気持ちで浸っている。
アバッキオを抱く手に、力がこもった。
「大丈夫だ。アンジェラは大丈夫だ、おまえの手元で、おまえが眼をかけて育ててやれる。
わたしもいるし、皆も気に掛けてくれている。可哀相なことには絶対ならないよ」
「ホントだなッ？ そうだよなッ」
嗚咽の下から確認の声が返る……。
「どうした？」
ふと、黒服で身を固めてはいるが、周囲から浮いた若い男にブチャラティは眼をやる。
組織のものだ。ブチャラティに声を掛けたそうにしているのが眼についた。
「い、いえッ、……どうぞ、お楽しみになっててくださいッ」
なにやら血を吐くような応えが返って、ブチャラティは苦笑する。もう自分は大幹部だ、
気軽に声を掛けてやっても緊張されてしまう。
「ああ、済まないな、騒がせてしまって」
軽く謝ってやって、それきりブチャラティは注意を向けることをしなかった。
……だめだ、とても言えないぃぃぃッ！
伝令に使わされた下っ端はお仕置き覚悟で半べそで逃げ帰った。
７
……ああ、もう、ほんとに、いとしい。
ブチャラティは人目も憚らず、泣きじゃくる夫のこめかみに唇を落とした……。
「良かったらうちの桟敷をお使いになります？」
涼やかな声が聞こえて頭を巡らすと、栗色の髪の若い娘が微笑んでいた。
「特にお願いして新素材の吸音材を張ってもらってあるんです。多少の声なら漏れないよ
うになっていますわ」
うふ、と意味ありげに微笑まれて、慌ててアバッキオが背筋を正した。背に回されたブ
チャラティの腕もわたわたと引きはがしている。
「それではフェリーニさんにご迷惑でしょう。それに、今夜はあそこに坐っているのが仕
事のようなものだし」
しばらく、お元気そうで何より、等という挨拶はお互い後出しになっている。
「うふ、ほんとに眼の保養ですわ。でも、あたくしたちも今夜はあなた方にお目にかかる
のが目的ですもの。ね？」と眼を後ろへやると、そこには亜麻色の髪の青年がばつの悪い
顔で立ちつくしている。ごくごく正統派のタキシード姿で。
「背が伸びましたね、若社長」
ブチャラティが眼を細めた。
「……どうも」
「その格好も、素敵です。さすが、着慣れておいでだ」
他人行儀な話しぶりに、息苦しそうな様子を見せる。
プッ。
「なんだ、そんな、補習をさぼってデートしてたのを見つかった高校生みたいな」
今泣いたライオンがもう笑った。大きな背中が揺れて、張り詰めた空気一瞬で溶かした。
「ちょっと、やめてくださいよ」
お互い昔とは違った地位を得て、よそ行きの顔をつくっていた不自然さをあげつらわれ
て、グリマルディーニの後継者が顔を赤らめた。
「いや、失礼」
おかげで気分を切り替えられたアバッキオが、顔をぬぐい終わって姿勢を正した。
「おや、おかげで落ち着いたようだ。礼を申します。それではちょっと化粧室に寄って水
分補給に行こうか」
ブチャラティが余裕の笑みを見せる。
「ご相伴を」
笑い合いながら、２組のカップルは歩き去った。
「それでその特別仕様は密会用ですか？ 密談用？」と、ブチャラティ。
「さあ、どちらでも」
ルチアは余裕だ。
「さすがは新オペラハウス計画の発起人ですな、そんな無理を聞いて貰えるとは」
アバッキオは、まだ言葉がよそ行き。
「その代わり、年間契約料が肝が潰れるほどかかるんですよッ。このぼくが桁の数え直し
をしました、２度もッ」と、フーゴがヘンなところにこだわる。市井の暮らしを経て、彼
は金銭感覚が庶民になりきってしまったようだ。
「フーゴ、そのおかげで観劇三昧させて貰っていて罰当たりなことを言うな」
数年前は、忙しくてオペラが幕見だとぼやいてたなあとブチャラティは懐かしく思い出
している。
「おかげでこのところデートは断られたことないです。安上がりですわぁ」
「ちょ、ルチアッ」
しばらく歓談の後、ベルの音に従ってそれぞれの席に戻ると、フェリーニ家の桟敷に使
いのものが控えていた。
「若社長、大変恐れ入りますが、ご隠居がお力をお借りしたいと」
「それは、今夜屋敷にお迎えしているお客様の件かな？」
ルチアとのデートを中断させる程の要件ということで、フーゴは内容を正しく言い当てる。
「はあ……」
ルチアを憚って皆までは言わない。
「さっきブチャラティさんの所にも、あなたの所のスタッフが来ていたわ。……アンジェ
ラちゃんがお熱かしら？」
対するルチアも頭の回転はそれ以上を誇る。
「……そのようなものかと。……ローマの方に是非にお取りなし願いたい要件がおありと
かで。お嬢様も、是非この件はご内聞に」
「もちろんよ。さあ行って」と、青い眼を煌めかせた。
「済まないね。ああ、きみは残って最後まで観ていったら？」とフーゴは気配りするが、
「悪いけど、『レ・ミゼ』はもう５回観てるの。あなたが一緒じゃなきゃうちへ帰って次
のゼミのレポートをやっつけたい所よ」
そりゃ悪かったね。口の中で呟いて、フェリーニ家の桟敷は空になった。
８
「バカ野郎ッ！ とても伝えられませんでしたじゃねえッ！」
タルティーニの怒号が響いた。アンジェラの行方はまだ知れない。電話には機械関係の
技術を持つ構成員が取り付いて逆探知に備えているが、それらしき連絡はない。ネアポリ
スを出る全ての道路には私製の検問が敷かれているが、年齢に相当する女児は見つかって
いなかった。
……参ったなーおれさまのカンだと屋敷から外にはでちゃーいねーと思うんだが、これ
だけ探していないってのはどうよ？ だいたい、飲み物持ってきたのは大奥様だぜ？ 大
奥様がぐるってことかい？ グリマルディーニもたいしたことねーな。
だいたいグリマルディーニって出入りやったことほとんどないらしいんだよなー。ポル
ポの収監の件でも最後にちょっと草刈りした程度で。じいさん交渉はうまいけどもともと
商売人だしなー。兵隊だけは揃えてたけど荒事はみんなねーさんや山の手に押しつけてた
みたいなんだよねー。
まー犯人と手口はパパさん帰ってくりゃー一発なんだし、殺されてさえなけりゃちょろ
い事件だとは思うけどね。そろそろずらかった方がいいかなー。ああ、ここんちまだ昔み
てーにキー付けてエンジンかけっぱの車、裏に用意してるかな？ おーい、ピストルズ、
ちょっと頼まあ。
油断無く隙を見計らっていたミスタが逃亡計画を実行に移し始めた。
「これは本気でこの首の心配をした方が良さそうじゃのう」
手がかりをまったく得られずに、グリマルディーニ老は吐息してデスクの上の時計を見
やった。そろそろ終幕だ。このあと食事をして多少の酒は楽しんでくるにしても、あと３
時間以内に状況を掴んで説明できなくてはならない。身代金目当ての誘拐なら連絡が入る
はずだ、それがないということは……。
あの自省的な男は、子供の命が危ういときに遊びに出ていたと一生自分を責め続けるこ
とだろう。そのことがたやすく想像できるから、老人もわがことのように真剣にアンジェ
ラの行方を捜させている。なんの落ち度もない気のいい男に、そんな半生を送らせてしま
うことが辛い。メンツとか、組織などより、ただ人間としていたたまれない。
「マリア……おまえさんとも、今夜限りかも知れん」
グリマルディーニ老は夫妻の寝室に向かっていた。眠りを破らないよう、そっと扉を開
けて、中に入る。妻にはマフィアとしての面をあまり見せずに来たが、とうとう守りおお
せることはできなかったようだ。組織はこんな老婦人に無体なことはしないとは思うが、
この先短い人生を不自由なく過ごさせてやれるかどうかが心配だ。
「マリア……！？」
ベッドの中を見下ろして、グリマルディーニ老は叫び声を必死で堪えた。
可愛らしい天使を腕の中に抱いてぐっすり眠り込んでいる自分の妻の姿を見て！
「……マリア」
荒い息の下からようよう声を掛けると、丸い顔のごくごく善良な老婦人は眼を覚ました。
「あら、ジャコモ。ほら、アンジェラちゃんを連れて来ちゃった。小さい子は体温が高い
から一緒に寝ると温かいわよ。ほっぺがぷくぷくしていて、なんて可愛いんでしょう」
まるきりいたずらっ子のような顔をして笑ってみせるのに、老人は虚脱した。
がくがく震える足で、ようやっと書斎に戻り、グリマルディーニ老はとぼけた顔を繕っ
てみせる。
「ああー済まん、カルロ、儂は耄碌したようじゃ」
「ご隠居！ なにを仰います！ おれが至らないばっかりにご隠居にご迷惑をお掛けして！
この度の責めはおれが負いますから、ご隠居はごゆっくり余生をお過ごしになって……」
タルティーニはもう覚悟を決めた顔になっていた。それを、手で招いて小声で恥を忍ん
で言うように。
「アンジェラの居場所を思い出した。間違いがあってはならんと思って、一番安全なとこ
ろに移させたんじゃった」
「はぁ？」
「マリアに連れてこさせた。儂らの寝室におる。今見てきたが、ちゃんとすやすや眠って
おった」
「ご隠居ーッ！」
一声叫んだ後は、腰を抜かした。
「ほん、本当に？」
だらしなく足を投げ出したままに問う。
「本当じゃ」
「おれたちを庇っておいでではなくて？」
しつこく確認する。
「庇って貰わねばならんのは儂の方じゃ、済まんことをした。大ごとになる前で良かった
のう」
「あ、は、は、伝令はどうしても言えなかったって言って泣いて帰って来やしたけどね、
これは良かった」
終いには泣き笑いだ。
「命拾いしたのう」
「本当に」
顔を覆って、あとは絞り出すように。
「良かった……」
「良かったのう」
肺からたっぷり息を吐き出した後は、詳細は言わずにアンジェラが見つかったからと全
ての捜索活動を停止させ、すぐさま不寝番以外は解散させ、ベッドに入らせた。
「ミスタさん、うちのが失礼をしたようで、申し訳ありませんでしたな」
グリマルディーニ老は、直々にミスタの口止めに行った。スタンドを駆使して手足のロー
プをほどきかけていたミスタは、悪びれずに手を止めてまっすぐ顔を向けた。
「あんたにも話を通しておくべきだったのに、こちらで行き違いがあって。そこのところ
は、できればご内聞に」
誘拐騒ぎを外に漏らすな、と言っている。
「あー？ 組織が大きくなるとあるよねー」
ミスタはにっかりと笑って見せた。
「そろそろブチャラティさんたちもお戻りの時刻だ。儂も同じ部屋には入るが、あんたは
その外でお願いします。これからは真面目にお願いしますよ」
眼を光らせて、締めておくのは忘れなかった。
９
「あれ？」
夜中に夢うつつで運ばれたような覚えはあったが、やすんだときと別のベッドで目覚め
てアンジェラはしばらく眼を瞬かせた。
「おはよう、天使ちゃん」
にっこりと、大好きな老婦人が微笑みかけてきた。
「おばあちゃまおはよう！」
それで、パッショーネ・ネアポリス支部の最重要人物はご機嫌で起き出した。
何も知らされていなかった客の夫妻も、優雅に起き出してきて、笑顔で朝食の席に現れ
た。ブチャラティは当然大幹部として昔とは違う高級アパートをネアポリスに構えている
のだが、子供と離れたところに泊まるのを嫌がるアバッキオのために彼らもグリマルディー
ニ邸に泊まったのだ。
「何から何まで世話になって」と、アバッキオはやや赤い眼をして礼を申し述べる。終幕
のあと、また登場人物の警部について間違った正義だとかどうとかで泣きながら懺悔しつ
つなにやら感じるところがあったらしくひとしきり演説していた。ブチャラティは、優等
生はたかが娯楽のお芝居からでもいろいろ毎度教訓を引き出せて結構なことだと思いを巡
らせつつ黙って拝聴した、ひさびさに「サムソン」でオリジナル・カクテルをかっぱかっ
ぱ空けながら。
「いいえ、こちらも張り合いができて楽しいわ」
奥方はおっとりと微笑む。
「たまにはこういう夜を持つのもいいことです」
ブチャラティは演劇に興味はないが、たまに着飾ったパートナーを連れ回して、彼が泣
いたり笑ったり思い切り拍手をしたりして感情を発散させるのを見物するのが楽しいのだ。
そう思えば、広義の娯楽とも言える。
「ドラマティックな夜でした」
とぼけた顔で総括する。
「ドラマティックか、まったく」
グリマルディーニ老が、微かに顔を歪めて笑った。
「じゃあ、また今度ね！ 今度はいつ？」
アンジェラが顔をほころばせた。
「ああ、ええと……」
開場記念日はすぐ次の週にも来るのだが。
「当分は、いいかな……」
誰言うとなく大人達は言った。
１８−０１−１１
おまけ。
同じ夜、ローマでは。
「楽しかったわ。ありがとうジョルノ」
高級アパートに送り届けられて、その女性は華やかに笑った。
「ええ、ぼくもです」
整った顔には年齢らしい精悍さが伴ってきた。唇を少し緩めて、優しげな表情も時には
浮かべる。しかし、眼は笑っていない、昔から。
「あたし解ってるんだから。あなたがあたしのこと誘ってくれるのって、ブチャラティが
ネアポリスに帰ってる時だけよね。
ナターレも、ヴァレンタインも、ヴァカンスも！」
トリッシュは艶然と指摘した。若きマフィアのボスは硬直してそれを認める。
「でも」
「じゃあ、入ってく？ 泊まっていっても、いいわよ？ あなたなら」
トリッシュは重ねて挑発した。
「ここで失礼します。おやすみなさい。……どうぞまた誘わせてください、魅力的なトリッ
シュ」
ジョルノは礼儀正しく対応した。表情を変えずに。
「あなたのこと、嫌いじゃないわ、ジョルノ。またね」
驕慢な表情で、眼を合わせたままにトリッシュは玄関のドアを閉めた。
「バカ」
小さく呟いて、さらに重ねる。
「あーんあたしのバカッ」
ドアの中では、八つ当たりの音が響いていた。
表情を固まらせたまま車に戻ったジョルノは、ひとりごつ。
「ぼくはいったいなにをやっているんでしょうね……？」
彼らはまだまだ若い。
蛇足。
今回なにかと言い訳多いです。
とりあえず、
「ヒマを待て余すブチャラティの横でアバッキオが『レ・ミゼラブル』でハンカチ３枚分
泣いていたとかゴシップ誌にネタを提供したりもしている。」ネタ回収（ｃｆ．「ロイヤ
ル・ストレート・フラッシュ」）の筈だったんですが、まだブチャ市長じゃないからゴシッ
プ誌が取り上げるようなネタじゃないですね（要反省）。
「レ・ミゼラブル」はファンテーヌ岩崎宏美、コゼット斉藤由貴の１期メンバーで見まし
た。大昔の記憶が頼りですいません。子供と別れるネタがあったから丁度いいかと思って。
適当に「女神の治める街」で「新オペラハウスはミュージカル」って書いちゃったけど、
イタリアでミュージカルって何やるのかしらって、その時は適当に「オペラ座の怪人」に
して、今回は「レ・ミゼラブル」、でも、そういうのはいわゆる「ブロードウェイ・ミュー
ジカル」だから、ヨーロッパではやってないかも……。とりあえず「レ・ミゼ」はイタリ
ア公演なかったみたいです。だいたい何語でやるんだよとか突っ込みどころアリアリ。あ
あ、もうだからこれフィクションだから堪忍してえ！
ヨーロッパのオペラハウスってキメた男性が女性をエスコートして、男女ペアでご来場
が当たり前と思ってしまいますが、日本は男性がお忙しいから、観劇は女性のお楽しみな
のよね。そこんとこ悲しい。男性も行こう、ミュージカルもオペラも商業演劇も。わたし
小学校時代から友人に劇団の子とか、パパが四季のミュージカルの協賛会社とかいて、結
構劇は生で見てるかも。だから歌って踊ってに抵抗ないのかなあ。臨場感あって楽しいで
すよね。まあ、女性は着飾って出かけるだけでも楽しいし。お芝居のすじに夢中になるの
は女性の方、とか聞きますけど、ブチャおねえさんはあんまりフィクションに興味はなさ
そうなのでした。ま、人それぞれさ。「その朝」シリーズはブチャをおねえさんにしてご
めんなさいという気持ちがあるので、あんまりいわゆる女性っぽいところをブチャに持た
せないようにしてるかも知れません。ブチャをグラマーさんにしなかったり、アバッキオ
をベッドで受け身にしたり、女々しくしたりとバランスを取っているつもりです。
辞書ではどうか知りませんが、まいねヴェルトにおけるお二人さんの関係を表わす単語
としての個々のニュアンスの違いは以下の通り。
恋人 ： 恋愛関係にある交際相手
↑
ここに肉体関係の有無という壁があります。プラトニックな恋人はアリでもプラト
ニックな情人はアリエナイ！
↓
情人 ： 深い精神・肉体的結びつきのある交際相手。肉体の方重視で。
やや後ろ暗い関係というニュアンスを持っています。うちではアバッキオが
当初ブチャに経済を依存していた（ヒモ！）という観点からこの言葉を使う
ことが多いです。
パートナー ： 同棲、リングの交換など生活の実体を持った交際相手。公に認められ
ており、遺産や年金などを受け取る資格があって、ほぼ結婚相手と同
内容と認識できる。精神的にも、仕事の上でも互いに依存せず対等で、
しかし分かちがたい絆で結ばれている。
生還パラレルまでいくとアバッキオはパートナーまでこぎ着けていますが（それ以前に
ちゃんと教会に行ってキリスト教的に式は挙げている。つまり結婚証明書にサインはして
る。イタリアの戸籍法ちょっと調べてないので役所には届けは出してないことにしてる。
ゴメン、アバッキオ。ベアトリーチェ・ブガッティは偽名なのでその名前の人とは結婚し
てないし、そういう意味で公的には事実婚。子供もアバッキオの子として名乗っているつ
もり。日本的意味合いの披露宴はやってない、ギャングだから）、さて、原作時点ではい
いとこ情人でしょうねえ……。ガンバレ。
以下エキサイトさんが訳したのを利用。まいどなんちゃってイタリア語ですいません。
ザ ベスト・カップル → la migliore coppia
イタリアで最高 → l'ottimo in Italia
そういえば、アバッキオやっと大奥様に名前覚えられたのね（ｃｆ．「ＳＯＳ」）。