ゴールド・ディッガー
１
岸辺露伴は退屈しきっていた。親に強制的にぶち込まれた新都学園の経済学部の講義
（といってもまだ一般教養なのがさらに疳に障る！）は一応出席だけは進級のためにして
やって、下らない講義でボクの人生を無駄にさせるなと全身から不機嫌なオーラを発しな
がら最後列で自分の趣味の読書やら、練習のために片っ端から学友どものスケッチをして
過ごしている。３ヶ月もそういう日々を送って、我慢が限界に着たところで夏になった。
「珍しい茶熊を喰わせてやるから出てこい。当然彼女も連れてだ」
駅の西側も県庁が移転して賑やかになってきた。その、新しく洒落た店が出そろったあ
たりに、露伴はレオーネ・アバッキオをその恋人（忌々しいが！）とともに呼びつけた。
２
「露伴先輩なんかほっといたっていいじゃないか」
外出を嫌うブチャラティは不機嫌そうだ。それでも、外でデートというので気合いの入っ
た恰好をしている。姉が着るとホント運動着の延長に見えるレギンスも、ブチャラティが
着ると脚がきれいでおっしゃれー。ふんわりしたチュニックも可愛いし、丁度いい透け加
減でスレンダーな身体の線がなんともなまめかしい。今日も冷房避けに、この春贈ったス
カーフを羽織ってきてくれているのがしみじみとアバッキオには嬉しい。
「でもおれはおまえとちょっと変わったとこ行けて嬉しいよ」
今日もすっげえ光ってるし。と、褒めるのも忘れない。これはイタリアーノの父親にこ
の春から科されているレッスン。
「ブローノに逢ったら１日１回は褒めてあげなさいヨ」
協力は惜しまないけど、結局のところはキミ自身の魅力が一番だから。あんなに魅力的
なコに見限られないように、やるべきことはちゃんとしないとって。
お猫様はたいして嬉しそうな顔もしないで、なにが効いているのかは解らない。今はた
だしょうもない田舎くさい気性がお気に召しているのだろうが、この先、ブチャラティを
魅了し続けることが出来るのか。頑張ってJリーガーになってみせればいいのか、父親の
会社で若社長になればいいのか。全国に通用する天才芸術家の筈の岸辺露伴があっさりご
く普通の経済学部の学生になってしまって、アバッキオは将来を意識している。やっぱり
大事な女性がいると、固い方固い方を選んでしまうのだろうか。
その辺も、ちょっと聞いておきたいアバッキオだった。特進クラスに鞍替えしたのもあっ
て。
「熊は食べたことあるけど、鍋にして寒い頃喰うもんじゃないかなあ」と、アバッキオは
呟いた。
山に親類がいると変わった食材にも縁がある。この冬は猪鍋もご馳走になったし。
「さあ？ 白熊ならきいたことあるぞ」
大物なブチャラティの方はすまして言った。
「えッ……それってワシントン条約とか大丈夫なのか？」と、毎度のことながらアバッキ
オは狼狽える。
話しながら指定された店に入っていくと、露伴は待ち構えていた。
「ああ、忌々しい、今日もいちゃいちゃしながら来やがって。キミたちが現れたらこの辺
の不快指数が１０は上がったぞ、どうしてくれる」
私服の露伴は金持ち臭がにじみ出るスタイルだった。……その凝った作りのシャツは、
もしかしてレディースなのでは、と姉に買い物に付き合わされたアバッキオは思い当たる。
「お久し振りです、先輩」と、アバッキオはちゃんとご挨拶してみせるのに、
「喰わせてくれるってことはお勘定は先輩持ちなんですよね？」
ブチャラティが畳みかけて、アバッキオは例によって縮み上がる。
「おいッ」
「当たり前だッ。そこへ坐って汗を拭いてろ」
岸辺露伴は得たりと笑った。
和風喫茶のしつらえの店で、ＢＧＭは琴の音色でバッハが流れていた。
「聞いたぞ、貴重なイケニエのアバッキオ様、怪我はもう良いのか？」
「あ、ええ、まあ」
「なんで高等部のことにまで詳しいんですか」
「もちろんキミの記憶が戻って大変だったのも聞いている。イタリアに帰りたくはならな
かったのか？」
「そこら辺は、もう、こちらのご家族に受け入れてもらう覚悟が新たになりましたね」
なんて、振り返って見せながらしれっと言われて、アバッキオはまた顔に血が上る。
「ふん」
露伴は鼻を鳴らした。
３
と、運ばれてきたのは普通のかき氷……いや、なんとも、そう、テディベア色の。
「白熊なんてのはもう日本全国行き渡って、気の利いたところならどこでも出すようになっ
たからな。普通にスーパーのアイスクリーム売り場にだってあるくらいだ」
「それで？」
「茶熊だ。黄粉をかけて、黒蜜がたっぷりかかっている。ここの本店の黒蜜は昔から有名
だから間違いはない」
「……いただきます」
黒蜜はともかく、黄粉の舌触りがちょっと疑問だったので２人は恐る恐るスプーンを取
り上げた。
「あ、これは……」
思ったより粉っぽいカンジはしない。上品な甘さが舌に染み通る。しばらく黙ったまま
二人して茶色い山を崩していた。目と鼻に見立てて、逆三角に配置されていたがなんとも
ぷるぷるなわらび餅で、気に入ったアバッキオは左目に当たる部分が山になる温存のしか
たをしてしまっている。好きなものはわりと最後まで取っておく性分のようだ。
「まったく現金な奴らだよ……いや、融けるといけない。そのまま聞きたまえ」
露伴は傍らに置いていたバッグから紙片を取り出して、テーブルに広げた。
「ボクの彼女のことは知っているか？」
「ご両親も公認の恋人でいらっしゃるとか？」
「杉本玲美。幼い頃から家族ぐるみのつきあいでね……彼女の家は、うちなんかとは比べ
ものにならない名家で」
「惚気ですか？」
ぺろりと平らげたブチャラティは、口元を紙ナプキンでぬぐった。
「杉本家といったら新都のものは思い当たりそうなものだが。まあ、他でもないキミの言
葉だから許そう」
露伴は眉根を寄せて唸った。
「御家老……？」
黄粉の滓を器の隅に寄せて名残惜しそうにしていたアバッキオは、ふと思い当たって呟
いた。
「そうだ」
新都はもとが多加良藩という外様の大藩の城下町だ。信長、秀吉、家康に仕えて戦国の
世を生ききった武将が、国内最大の領地を与えられて北陸に追いやられた。その初代藩主
はＮＨＫ大河ドラマの常連の脇役で、常識家で金勘定もそれなりに得意なそろばん新右衛
門として有名だ。新右衛門は若いときの通称で、最終的な本名は波多野義家。趣味人が統
計を取ったところ、役が付いて台詞があった脇役としては、歴代大河ドラマ登場人物とし
て第３位の登場回数だったらしい。ちなみに１位は将軍足利義昭、２位は西郷隆盛。その
新右衛門を支えた筆頭家老が杉本で、ちょっとした大名並みの格式だったと言い伝わって
いる。
「その杉本家の土蔵をこの前さらえたら出てきた古文書のコピーだ」
「先輩、そんなのは」
ブチャラティがその紙片を押し戻した。
公立の方の新都大学の史学科が、そういう多加良藩の研究を今も引き受けている。
「記憶が戻ったんだってな？ これがただの古文書ならもちろんそっちへ持って行ってい
る。見るんだ」
「え？」
ふとアバッキオも眼をやると、その紙に記されているのは拙いながらもアルファベット
であった。
４
「秀吉は金が好きだった。当時の日本は世界中で一番金を産出していたという見方もある。
その豊富な金を大阪城へ溜め込んで、最終局面ではそこら中にばらまいて天下の平定を成
し遂げた」
露伴はまた唐突に話題を変えた。
「慶長大判とかですよね？ 佐渡の金山はまだだったんじゃ？」
すぐさま喰いついて行く嫁内定者がアバッキオは誇らしいような、やや自分が情けない
ような。
「東北の方がまだ出てた。甲州も。銀の方は毛利家から出させてたらしいな」
静かに、坐った目で露伴は続けた。
「だが、大阪夏の陣の頃には、大阪城の金蔵は空っぽ、集まって来た牢人どもが食いつぶ
したにしては減りが速すぎると言われてもいる。つまり」
「誰かが秘密に運び出して、隠したと？」
「そうだ。秀頼の遺体は出ていない。脱出して島津に匿われたという説もあることだし」
「浪漫溢れる埋蔵金伝説のはじまりと」
「そういうことだ」
……頭の回転ではほんとに、この２人は相性がいい、自分には入り込めないとアバッキ
オは黙って口直しのほうじ茶を飲んでいた。
「藩祖の新右衛門様は、３代に仕えたと言っても一番仲が良かったのは年も近かった秀吉
だ」
「大河ドラマで見ました」
おいおい、見たのかよ、とアバッキオは１０才から新都で暮らし始めた恋人の勉強熱心
さに舌を巻いた。
「最後まで、家康に対して睨みを利かせる立場を新右衛門様にお願いして逝ったという話
だな」
「新右衛門様がその金を預かっていると？」
「そうだ。その頃秀吉から預かっていたのがいたろ？」
「高山右近ですね……それでこの紙片が」
「……すいませんがそろそろおれに解説お願いします」
アバッキオが白旗を揚げた。
「高山右近というのは、奈良の方の戦国武将だ。若い頃に家族ぐるみ洗礼を受けたキリシ
タン大名でもある。茶人としても有名だ、あの千利休の弟子」
ブチャラティが唇を水で湿して語り出した。
「はあ」
１０才までイタリアで育った女の子に戦国武将の解説をしてもらっちゃう自分の情けな
さにアバッキオは視線をテーブルに固定している。この紙片に書かれているアルファベッ
トの連なりの、やっとやっと覚えたような拙さが愛おしい。
……毛筆でアルファベットを書くのって大変なんだぞ！
自分が書き初めで苦しんだ覚えがあるから解る。結局習字の時間はカタカナ署名で通し
た。
「教養があり、武将としても有能だった。だから秀吉の元でもそこそこ出世したが、なに
ぶん真面目なひとだったから、ほら、ある時期を境に秀吉はキリシタンを弾圧し始めたろ？
大名はみんなキリスト教徒をやめたんだが、このひとはやめなかった」
「ええと、小西行長とか、黒田なんとかとか？」
その辺は、クリスチャンのアバッキオも多少は詳しい。２６人も殉教したんだと教会の
日曜学校で習った。
「そう。それで、人徳でその小西とか、ここの新右衛門様に匿まわれてた」
「聞いたことはあるかな……？」
「具体的には、１５８８年には新都に来ていて、新右衛門様の隠居城の設計もしてたはず
だ」
「近畿地方は築城の先進地で、ノウハウがあったらしいな」
露伴がフォローする。
「お城を築くのが巧いのって加藤清正だと思ってたよ」
「あとは藤堂高虎……」
ブチャラティが手を挙げて先輩を留めて、脱線は最小限。
「その右近と行き来があったんだ、杉本家のご先祖が……そういうことですよね？」
「はあ」
「そうだ」
５
「それで？」
「あのタイミングで、あの秀吉が、ただ右近を新都に生かしておくわけがない。軍資金を
隠す工作のために新都へ忍ばせたんだとボクは思う」
「思うだけでは」
ブチャラティはあきれ顔だ。
「ボクが出来る限りのことは調べた。蕪城は新右衛門様の隠居城だが、落成してから相当
数の人夫が殺されてるらしいな。口封じだ。ある程度の城を築くときには、その仕掛けを
知られないためには良くあることだそうだが、城の規模に対して多すぎるらしい」
「ひでぇな」
アバッキオが酢を飲んだ顔になった。その様を見て、ブチャラティはふと和んだいろを
見せる。
「よっぽどの秘密が隠されていると」と、口は冷静に判断を下しているが。
「そういうわけだ」
「だからって、何年何月にここに金何両埋めましたって書き残すわけ無いでしょう」
「ああそうだ、単なる賭だ、暇つぶしだ！
だが、もしかして、自分の目の前にあるのが莫大な埋蔵金の在処を記す古文書かも知れ
ないと思ったら、若人なら血湧き肉躍るだろう！？」
とうとう露伴は逆上した。どんっと卓を叩いて身を乗り出す。
「先輩ってお金に困ってないと思ってました」
ブチャラティは冷たく切って捨てる。
「金なら欲しい。多々益（ますます）弁ず！
こんなうちをおん出て東京で美大に通う金が必要だ」
「なんでそれなら大学行ったんです？」
「ボクは一人息子なんだ。岸部産業を背負って行かなくちゃならんと泣き落とされた」
玲美という恋人だっているのだ、新都を離れられなかったのだろう。
「先輩、ウォシュレットじゃないトイレで用足せます？ 先輩はおうちにいて片手間で絵
を描いたってそこそこいけるんですから、無理しなくたって良いじゃないですか」
アバッキオはハラハラする。こんな立ち入った厳しいこと、言わなくたって。
「絵なら今でも描き続けている！ 息をするように。ボクは幼い頃からそうなんだ。スケッ
チも、一日一枚は色をつけるまで仕上げることにしているし、水彩である程度まで仕上げ
たものならこの春からざっと１０枚ほどは！」
恐るべき多作家である。
「そういうことじゃないんだ！ 絵をやるものにとって美術史は必須だ。大学の一般教養
のレヴェルならその辺の美学の講義は残らず選択したが、物足りん！ アダムとイヴにリン
ゴを喰わせた蛇には足が付いているのが正しいのか、違うのか。受胎告知の天使が持って
くる花はバラじゃダメなのか、そういう聖書物語のレヴェルの教養が、日本で普通に育っ
ていたんじゃまるきり身につかない！ 世界、キリスト教のだが、に通用する絵を見たり
描いたりするにはそういう『常識』を欠くわけにはいかないのに！
その辺を体系的に詰め込んでくれるカリキュラムが美術系の大学にならあるはずなんだ！
ボクが求めるのはそういう講義だ！」
「お父上に仰ってください」
ブチャラティはにべもない。
アバッキオは身の置き所がない。
６
「……キミは金が要らないとでも？」
言いこめられて奥歯を噛んでいたおぼっちゃんは、荒い息の下から反撃を試みた。
「それは、要らないという人間なんてこのご時世いないでしょう」
将来に不安を感じていたブチャラティが、つい譲歩した。
「出たものは換金して１円単位まで折半してやる。２人で好きに分けろ。こっちは調査に
必要な資料、足代、出た後の法律的な処理に必要なスタッフや交渉の手間を全部負担する。
そこまで下手に出てやると言っているのに、暇な夏休みにこの岸辺露伴のちょっとしたお
遊びに付き合う気もないというのか！？」
「わたしがお役に立てるとも思えませんが」
「そこら辺のバイト学生にここまでの前提を話してキミほどに正確に深く理解して貰える
と思っているのか？ バカじゃない筈のそこの頭の白いキミの番犬も、途中から目が泳い
でたぞ。
イタリア語が解るやつが今の新都にいないってのは、キミもこの夏骨身に沁みただろう
が」
「記憶が戻ったっていっても、しゃべるだけで読み書きは全然です。小学生レヴェルで、
お役に立つ程じゃありません。だいたい、先輩、あの時代ならポルトガル語かラテン語で
しょう」
「ロマンス語は互換性があるんじゃないのか？」
露伴は怯まずに畳みかける。
「ポルトガル語とスペイン語、フランス語とイタリア語なら聞いたことはありますが、イ
タリア語とポルトガル語、イタリア語とラテン語なんて話は聞いたことがありません。
……ざっと目を通してみていたんですが、サッパリです。残念ですが」
「お祈りの文句だよ。埋蔵金の在処なんか書いてないって」
黙って首を縮めていたアバッキオがぽつりと言った。
「え？」
「たぶんこの前にもう一枚あったと思います、途中から始まってるから。
Ｄｅｕｍ ｄｅ Ｄｅｏ，ｌｕｍｅｎ ｄｅ ｌｕｍｉｎｅ ｄｅｕｍ ｄｅ ｄｅｏ
ｖｅｒｏ ……
信仰告白の固有文だ。埋蔵金なんか関係ないただの聖書の写しです」
「ここに日曜学校の優等生がいたぞ！ さすがだ、我がミューズ、従えているのはただの
頭のわるい番犬じゃなかったな！」
興奮を露わに露伴が立ち上がった。
「バカ……」
少し誇らしいような、しかし、隠し芸を素直に出して見せて露伴にこれから使い倒され
ることを予期してブチャラティは呟いていた。
「汗が引いたところだろう。ぜんざいでも頼むか？ 黒蜜だけじゃない、ここはアンコが
絶品なんだ」
「有り難く。レオーネも戴いておけ」
「何杯でもいっとけ。
すいません！ ぜんざい３つ！
……それで全部聖書の文句か？ 一字一句間違いはないか？ 変なところはないか……
本当に伝えたい文字や文章が、紛れ込んじゃいないだろうな？」
「ああ、はい、だいたい合ってると思いますけど、変って言うなら書き損じが多いです。
こんなふうに黒く塗りつぶしてしまうなんて乱暴じゃないですか。紙を換えて書き直す
べきだし、そうでなくても間違えた部分だけ上から紙を貼るでしょ、普通」
真面目人間は１デザートの恩義を正しく借りと認識して、きまじめに「暗号文書」を読
み解き始めた。
「暗号の基本だな。その書き損じの前か後に注目すべき文字があるんだ」
「先輩、あんまり思いこみで進めない方が……」
ブチャラティはすっかり引いて、店内を見回して刺し子の暖簾の柄なんかを鑑賞してい
た。
７
しばらくして運ばれてきたぜんざいも、この世の憂いを暫し忘れさせる味だったので、
とりあえず２人はもう埋蔵金のことを忘れた。露伴はすっかり和んでしまっている恋人達
をほったらかしでボールペンをレポート・パッドに走らせていた。
「それじゃあ、この書き損じの黒丸の前だとこっち、後だと、こっちの文字列になるわけ
だな？」
「ああ、……はい。
ですけどおれ、ラテン語はお祈りの言葉なら何とか分かりますけど、普通の文書なんか読
めませんよ？ なんとか解る単語も『神の恩寵』とか、『教会』とか、『栄光』とか、普
通の文に出てきそうにないものばっかりで」
「その辺はこちらで解る人間を手配する。これが読めたらまた連絡する。そっちで適当に
進めておいてくれて構わない。かかった費用はあとで精算するから岸部様で領収書とって
おけよ？
図書館は市立図書館を使え。近いだろう？ うちの大学のは使えん、行くだけ無駄だ、
行くな」
「解りました」
ブチャラティは澄ました顔をして肯いた。
「って、ホントにそれが暗号だと思ってるんですか、先輩！？」
アバッキオは狼狽える。
「自分で言ったんだろ？ アバッキオ。確かにこれだけの文章の割に、書き損じが多すぎ
る。何かあるんだろう」
露伴は目を輝かせて、なにか興味を引かれるものを見つけたときの顔になっている。
「暇つぶしにはいいんじゃないですか」
ブチャラティはあくまで他人事の線を崩さない。
「また連絡する。勝手に婚前旅行とか行ったりして新都を離れるんじゃないぞ？」
会計を済ませて露伴は胸を張った。
「余計なお世話です」
「しませんからッ！」
ブチャラティは平然、アバッキオは逆上、いつもの通り。
「面白いことになったな」
もうすっかり日は傾いていて、店の外はごおっと蒸し暑い風が逆巻いていた。今日も暑
い新都の夏の日だったようだ。
「いいのか？」
アバッキオはブチャラティを見やった。弟たちや、七尾麻美を交えていろいろ出かけよ
うと計画していたのに、変なことに巻き込まれたものだ。
「せいぜい使ってやろう。この夏のデートの勘定は全部先輩もちだ、やったな」
「おまえ……」
たくましい婚約（内定）者にアバッキオは肩を落として従った。
８
今日は中学生の夏休みのレポートの手伝いで、新都観光。うちにいると露伴からお呼び
がかかってしまうから。
「六華園は新都の子供なら小学校で絶対行ってるんだけどね」
案内役としてお誘いした麻美が苦笑した。新都城大手門横の六華園は文化財指定の観光
名所なのだ。フーゴは実に適当にここを社会科のレポートの題材に選んだ。
しかたがない。フーゴは小学校時代は神戸市民だったのだ。
「まあ、小学生が見るのと、中学生が見るのとでは有り難みが違いますし」
フーゴはすまして言ってのけた。
「そーそー」
にぱっと笑って付いてくるナランチャも、やはり行ったことがなかったらしい。
「１５９０年代着工の回遊式大名庭園だ。ええと、仏教的なわびさびは抜きで、山あり谷
ありにして見て回って楽しいのを目指したと言うことだ。最初はちょっとした茶室を置い
たこぢんまりとした庭だったんだが、元禄期と化政期に大改装をしてこうなった。ここに
しかない桜や松の種類もあって、１９６８年に文化財指定された」
アバッキオは、一夜漬けで予習してきた内容を一同に解説する。
「なるほど」
代表してブチャラティが肯いてやる。
「六華園の名の由来は、梅、桜、ツツジ、花菖蒲、菊、雪の６つの花が見事だということ
に拠っていて、それ以外にももちろん……紅葉もきれいだ」
「桜の名所だから、花見のシーズンには無料開放があるねえ」と、麻美が捕捉する。
「昭和の頃までは無料だったって親は言ってるけど。途中から維持の財源のために入場料
取るようになったって」
「ああ、それ」
曖昧な笑い方をして麻美は肯いた。
「夏はどうなんです？」
下を向いて緩やかな階段を登っていたフーゴが突っ込んだ。園内の回遊路はだいたいが
緩やかな坂になっていて、所々木で土を留めた和風の階段のようなしつらえになっている。
これがバリアフリーの敵。脚が大して悪くなくても堪えるし、話しながらだと息が切れる
いやな作りになっている。まあ、それは急ぎ足に見て歩こうという野暮をするからで、立
ち止まって松の枝振りに見とれたり、鳥の声に耳をすませたりしていれば普通に楽しめる。
茶店や土産物売り場もそこここにあることだし。車いすやベビーカーのお客様用に、全部
スロープの順路も近年整備された。
「所々に池があって、せせらぎで目や耳を楽しませることになってる。木陰は申し分ない
し」
「小学校の頃は学校で１年１回は来たよ。チャチャは、６年生の時の写生遠足覚えてるで
しょ？」
大きく張り出して回遊路に覆い被さっている松の枝を仰ぎながら麻美が言った。
「ああ……ここだったっけ？」
ブチャラティは眩しそうに辺りを見回す。
「賞取ったくせによく言う！ みんな有名な木とか灯籠とかの絵を描いたのに、この子そ
ういうのの有り難みを知らないから、ほんとに隅っこの小さな松の木を描いたんだよ！
育成途中の！ そこんとこが、着眼点が良いとか、瑞々しい感性とかいって教師どもに大
受けしてたんだってば！」
「ああ、ええと、枝振りが素直で描きやすそうだったから。ここの木はみんなひねくって
て難しそうじゃないか」
ブチャラティならあり得る。アバッキオは黙って肯いた。
「あれがそのひねくってる有名な松ー！ 琵琶湖の横の松の名所からわざわざ種を取り寄
せて植えて、もう生物としてやばいんじゃないかってくらいに支柱を立てたり下を樹脂で
固めて生き延びさせてる天然記念物」
明るい声で麻美が指さした。
「あの真下って真っ直ぐ歩けないよ、一平米に支柱１０本立ててて」
苔の付いた枝が、何十本も水平に広がっているのを支えているのだ。こんなに無理をさ
せなくたって、と、アバッキオはいつも見る度に思ってしまう。
「不謹慎ですかね？ 養父（ちち）を連想しました」
「管とか機械とか繋げてやっと生きてるもんな」
「今となってはこれはこれで面白い」
ひやっとした年長組の気を逸らせるようにか、ブチャラティはそう言ってその名木に見
入っていた。
９
小高い辺りに出ると、園内最大の池があって、その脇はちょっとした名所らしく、観光
客が屯（たむろ）っていた。
「はーいこれが名物のセクシー灯籠！ 高山右近の置きみやげで、キリシタン趣味が入っ
ててヤバイとかいって、江戸時代には隠してたらしいんだけど、明治になってキリシタン
が解禁になったらかえって珍しいとかいって売りにしてるの。新都のシンボルみたいになっ
てて、ＮＨＫ新都の定点カメラがここ写してて、雪が降ったり桜が咲いたりのニュース映
像は必ずここが映るようになってる」
麻美が向き直って声を高くした。
「ほほう」
「ああ、そう言えばそうですね」
見覚えがあるらしいブチャラティとフーゴが肯いた。
「ちょっと、七尾さん！
……それどころか、このシルエットはもう新都のシンボル・マークになってる」と、た
しなめておいて、アバッキオが追加した。天正年間制作の筈の灯籠は、他にない砂時計型
の独特のフォルムを形作っている。
この灯籠の形を単純に図案化したマークは、新都のどこででも見られるようになってい
て、正式な市章より身近な新都を表わす印だ。もう、市民は元ネタがなんだったかも忘れ
ていたりする。ここに、その元ネタを今知ったちいさな市民が３人！
「そうだったんですか……」と納得するのはフーゴで、
「ねー七尾さん！ どこがセクシーなの！？」
ナランチャが不満げに年長者達を振り返ってみた。
「月影灯籠ッ！」
アバッキオはムキになって正式名称をがなり立てる。たしかに、脇に立っている高札の
形の案内板にはそう書いてある。
「キリシタン灯籠の形式じゃあないみたいだが？」
ブチャラティが質問した。露伴に付き合ってやるつもりで、あれからキリシタン関係は
一通りさらっている。
「ああ、うん。なんか正式な分類だと、この縦棒、なんだっけ、竿？ の部分にお地蔵さん
みたいなレリーフが入ってて、それを聖母マリアとかに見立てて拝むようにしたとか、ア
ルファベットの組み合わせ文字みたいなのが彫ってあるものらしいんだけど、そういうの
とは違うの」
麻美がしれっと認めた。
「灯籠自体のシルエットがマリア様なんだッ」
クリスチャンは必死。
「そうそう。月の光が当たると、影がマリア様の姿に見えるってやつで、べつにマリア様
と思わなくっても、ボン・キュッ・ボンな女性のシルエットならスケベオヤジ十分喜ぶよ
ねって意味でセクシー灯籠」
「だからーッ！ そういういやらしい意味合いの形じゃなくってッ！」
アバッキオは頭から湯気を出す勢い。要するに、ヴォリュームのある上半身と、裾の広
がった長いスカートで、比較的に胴のところがくびれたように見えるだけの話。それも、
胸のところで幼子イエスを抱いているために、シルエットではヴォリュームがあるように
見えるのだ。
「『この灯籠は、当時多加良藩に預けられていたキリシタン大名高山右近が、初代藩主波
多野義家公に贈った品と伝わっています。光が当たるとこの灯籠の影が女性のように見え
ることから、キリシタンたちがマリア像の代わりに拝んだという伝説があります』ッ！」
と、大きな声で案内板の説明文を読んでやる。
「昼間見たら普通じゃん？」
ナランチャはつまらなさそうに言った。シルエットにならなければ、ただのみすぼらし
い石の積み重なった山だ。
「笠部分が小さいんです。火袋が比較的大きくしてあって、中台のところで一度絞ってあっ
て、竿を基壇と一体化させて末広がりに形作ってあります……これはたしかに珍しい形で
すね」
興味深そうにフーゴは見入っていた。
「そして月の光に照らされると、女性のシルエットになるんですか……」
「一定方向からの光に制限するために、周囲の立木も剪定のしかたが詳しく指定されてる
そうだ。ここらへんだけ、植え込み加減が込んでるだろ？」と、アバッキオは周囲を見上
げる。
「だが、今は夜は立ち入り禁止だから誰も見るものはいない」
ブチャラティが感慨深そうにその視線を追った。
「もったいないことだけどな」
アバッキオが応じると、
「最近はナイト・ツアーもやってるよ。完全予約制だけどさ。
高山右近が埋めたキリシタンの埋蔵金の隠し場所を表わしてるって都市伝説があってさ、
４，５年ごとに真に受けたバカがその辺掘り返すもんで、ここ、夜は非公開になったんだ
って」
麻美があっさり言って笑った。
「ば……かな」
アバッキオはあからさまに狼狽えた。
「麻美、レオーネがさっき言っただろ。何度改装したって？ これだけの庭を造るためな
らもうそこら中掘り返した後だろう。ここはロマンチストが多いな」
ブチャラティはうっすら笑った。夏休みに入ってまだ一週間だというのにもう「ひと夏
の冒険」は解決編への出口が見えてしまった。あとはどうやってわがままなスポンサーを
納得させるかだとブチャラティは考えている。とりあえず、調査期間は夏休み中引っ張っ
てデート代をむしろうと思っていたりして。
……と、この公園で一番の名所であからさまに日本人に見えない容姿の一団が大きな声
でそんなことを言い交わしているから、周囲は遠巻きに人だかりがしている。麻美を含め
て皆、水準以上の容姿で流暢な日本語だから、外国人タレントでも使って観光案内を撮っ
ているのかと、観光客達は得をした顔になっていた。
１０
「熱中症に気をつけなよー？ はい、休憩、休憩。お土産はココの他に大手門側の出口の
所にも大きいショップがあるからねー」
勝手知ったる文化財、麻美が一行を土産物屋に案内した。入り口は開放されているが、
１メートルも内部に入るとガンガンにエアコンが効いているのが解る。明るい店内には、
色とりどりの和風の小物が陳列されている。六華園のその月影灯籠のモチーフのキーホル
ダーやストラップ、卓上の小物類、観光地である新都を前面に出したもの、向山塗りを初
めとした地元の工芸の値の張らない小物、挙げ句には江戸情緒を感じさせる街と言うこと
で、とくに地元に縁のない千代紙や縮緬の小物まで揃っている。あとは、太閤記の重要登
場人物だからか、最近流行りの戦国武将グッズ……。
「新右衛門様が人気なのは良いけど、百歩譲っても伊達政宗や真田幸村は縁がないぞ！」
新都市民としてはアバッキオは複雑だ。
「ゲームのせいだよな」と、あやしげな薬草茶の試供品を周りの店員さんから勧められて
機嫌良く飲みながら、ナランチャ。
ナランチャはアバッキオのお下がりのゲーム機でちゃっかり自分用にその戦国時代絵巻
ゲームも買って、やっとクラスの仲間の話題について行けるようになった。
「ゲームで人気なのは新右衛門様じゃなくて、甥の京介様ですよ」
突っ込みながらフーゴはその横で和柄の文房具に目を奪われている。
「カッコイイよな？」
「あれは漫画からの逆輸入なんだよー、ホントの京介様はむさいオッサン」
麻美が笑って見せて、少年達は阿鼻叫喚。
「渋いオッサンだろ、夢を崩すな」
原作の時代小説までしっかり読んだブチャラティが笑ってたしなめた。
せっかくだからと、「六華園」の文字と６種の花の図案がデザインされているベタベタ
なペーパーウェイト買ってやろうとしたアバッキオは、じゃあお揃いにしようとブチャラ
ティに言われて真っ赤になっていた。
「あー暑くしちゃってスイマセン」
麻美がオバチャン店員たちに苦笑して見せると、
「いーえぇ」
「目の保養やわいねー」
オバチャンたちはにこにこしていた。
１１
……お土産にしたら綾子ちゃん、喜ぶかな。
フーゴはつい考え込んでしまっている。アバッキオ家のクリスマス会で偶然出会ったしっ
かりした少女は、見事に学園の中等部に合格した。ぼた餅を食べにおいでと招かれた（い
や、強制的に出頭させられた！）お彼岸に、また逢って、笑って合格を報告された。あか
らさまに憧れの籠もった眼差しを向けられ、フーゴも彼女の気持ちを知った。アバッキオ
家の人々も（主にローザ！）解っているようで、どうも行くたびにお膳立てされているよ
うな気がする。
……困るんだけど。そんな、ぼくは家を出された人間で。
フーゴは困惑している。学園内では、何人かの女生徒達から告白のようなこともされて
いるが、まるきり無視してきたのに。誰も、もう信じられない、誰とも、そんなきれいな
関係を結ぶことは有り得ないと思っていたのに。
……六華園のなんか、珍しくもないだろうけど、いや、かえって、地元の人は行かない
かも知れないし。
自分がちょっと笑って肯いてやると、この上なく幸せそうにしてくれるひとがいる、そん
な楽しみを知ってしまったら。
……やっぱり何かしてあげたいよなあ。
手を伸ばそうとして、そしてその手は寸前で止まる。
……でも、それで期待させてしまったら可哀相、自分はそんなきれいな人間じゃないし……。
保身のために、息子を売り渡した実の母のことが胸を過ぎる。ほんとうに、子供のいな
い資産家だと思ったのだろうか。跡継ぎにして貰えると思ったのだろうか。あんな用途に、
男の子を使うなんて思わなかったのだろうか。あのひとは世間知らずだから、そうかも知
れない……つい、甘い想像をしてしまう自分を、なんど笑って首を振ってきただろうか。
……いつかは神戸（あそこ）に帰るんだ、あの家のやつらに復讐を……？
今まで何かあると、挫けそうになる自分を燃え立たせるために唱えていた言葉を、久し
振りに思い出す。久し振りに。そう、忘れてしまっていた！ あんなに激しい怒りを！
………………帰らなくても、いいかな。
うちの子だから、と言ってくれたローザの温かい笑顔を思い出す。ちょっとデートして
キスしたぐらいで、向山では将来を誓い合ったと見なされるのだろうか。そうやって、ブ
チャラティみたいに向山の人間になってしまおうか。とりあえず、綾子と逢っているとき
は楽しい、ほんの少しの、年頃らしい楽しみを、自分もとりあえずは経験しておこうか……。
長く考え込んでいたフーゴは、和紙をいろいろ貼り混ぜにしたような絵柄のクリアファ
イルを選んで、買い求めた。
ふとそれを目に止めたアバッキオは微笑んだ。ナランチャも、肯いて見せた。
１２
「はーい次は新右衛門様が朝鮮でかっぱらってきた石塔にごあんなーい！
最近はそういうの、取り返しに来るアイコクシャが出てるから今見とかないとやばいよー」
麻美はいちいち辛辣だ。さすが、類は友を呼ぶ。
「え、あ、それは……」
「ばかな。そんなことを許したら大英もルーヴルも空っぽになるぞ」
なんと反応したものか固まってしまったアバッキオをよそに、慣れているブチャラティ
は笑った。
「難しい問題ですよね。バグダットやカイロじゃあ、暴動が起きたとき博物館も荒らさ
れて、その『貴重な民族の文化遺産』がそこの民によって奪われてしまいましたからね」
と、フーゴも遠慮せずに意見を述べる。
「……そんなの、買う奴がいけないんだッ」
アバッキオはとりあえず自分の良識の範囲内で決着をつけたようだ。
中学生以上による六華園見学会はそれなりに意義があったようで、フーゴはその石塔か
ら「奪われた文化財」についてのテーマでレポートを書くことに決めたようだった。
「おい……」
アバッキオはブチャラティにぎこちなく合図。
「バーカ、みんなと一緒の時にできるか。出直そう」
露伴から宿題をもらっている２人は、次の日もう出直して、管理事務所でいつどういう
ふうに月影灯籠の周りが荒らされたかについての詳しいデータを手に入れた。
「面白いな、犬も歩けば棒に当たるとはこのことだ」
ブチャラティは機嫌良く事件簿の写しをバッグの上から押さえた。
「でもそれじゃあ埋蔵金はないんだな……」
ちょっとアバッキオは残念そう。
「おまえも金が欲しかったか？」
「ロマンだッ！ それに、戦はともかく、自分の子孫のために隠した金がどこの誰とも判
らないやつの手に渡って、どういうふうに遣われたのかわからないってのも、秀吉はあの
世で寂しく思ってるかも知れない」
それはアバッキオじしんの感傷かもしれない。ブチャラティはその頭を、伸び上がって
ぽん、ぽんと叩いてやった。
「まあ、使い道については調べといてやろう。露伴先輩が
『じゃあ誰が何に遣ったって言うんだッ』って絶対逆上するから。
宿題が片付いたからっておまえと出かけないことはないぞ。かえって、どこへでも行け
るってことだ、心配するな」
「そういうんじゃなくってッ！」
「で、どうする？ 今日は目的を果たしたから解散か？ ああ、午後から練習あるんだっ
け？」
ブチャラティは猫の顔になって石頭を見上げた。
「……抹茶パフェってのがあるらしい。西の景観保存地区のカフェに」
露伴に触発されて、和風の夏のデザートの方向で情報を集めてきたようだ。アバッキオ
はボソボソと本日のオプショナル・ツアーについて提案する。
「よしよし」
また伸び上がってその頭を撫でてやって、ブチャラティはバス停に向かって歩き出した。
１３
露伴はほんとうにいろいろ目の行き届く男だ。ブチャラティはここへ来て舌を巻いてい
る。なんだかんだ言ってやはり土地勘もある大学の図書館の方を優先して、ついつい本を
探しに来てしまっているブチャラティだが、さすがにとうとうヘタを打った。アバッキオ
がマケンゲンのユースに顔を出している日だ。一人で閉館時間まで調べ物をしていて、遅
くなってからクラブハウス脇を通った。
そこで、捕まった。
大学の図書館を使うなというのは、そういう意味だった。
噂に違わず大学のサッカー部はそういう用途に部室を使っているようで、汗や泥だけと
はとても言えない、若い雄の生々しい精力の象徴が染みこんだようになっていて、真夏の
夕刻ではもう息をするのも不快だった。
「ああ、そういえはいたっけ、なんかイタリア人？ のコが。
結構美人じゃねえか」
ブチャラティを抑え込ませておいて、その男は見下ろして声を掛けてきた。
「そうッス。あの野郎、事件の後でハブにされてて、そんで屋上かどっかで一人メシして
てこのコとデキたって」
頭の方から声が降ってくる。両手は、この男が抱え込んでいるらしい。
「転んでもただ起きねえ。むかつくな」
そう言って、目の前の男はブチャラティの頭を掴んで、髪をむちゃくちゃにかき乱した。
「なあ、あんた。ブロー？ ・ブチャラティ？
おれ達はあんたの彼に貸しがあるんだ」
ゆっくりと、低い声でその男は嬲るようにブチャラティに声を掛けた。
「どんな貸しだ、聞いてないぞ」
ブチャラティも、低い声で応じた。虚を突かれたように男は口を半開きに静止した。
「あ、は、面白いコだな。
アバッキオがくだらねえことで切れて学校にチクったせいで、おれ達は迷惑したんだよ」
「逆恨みだろう？」
すぐさま返されて、また絶句する。
「なんでだ？ あの店からうちの部がものをいただくのはもう習慣になってた！ 向こう
も何も言ってこないってことは、そういうもんだと思ってたんだって！ それを、横から
入ってきたもんが偉そうに正義ぶってぶちこわしにして！
帯刀は目をやっちまってもうサッカー出来ねえんだぞ！」
「先輩のお名前は帯刀さんと仰るんですね」
真っ直ぐ、男を見上げてブチャラティは言ってのけた。
「おれじゃねえッ！」
「じゃあ筋が違うと思いますが。学年も、当時３年にしては貫禄がおありになる」
「ＯＢも迷惑したんだよッ！ スポーツ推薦がダメになって外の大学いけなかった奴もい
るッ！ そいつらが全部大学に来やがったから人数増えてレギュラー争いは厳しいし！
親はビビっておまえはやってないなとか日に何度も聞いてきやがるし、店に弁償するって
集金が何度も回ってきやがるし、それが洒落にならない額で！」
「それだけの被害を与えていたと聞きましたが」
「うるせえッ！」
「それでご用件は？」
たくさんの女生徒が襲われて、辱めを受けたと明らかに解る場所で、屈強な男達に身の
自由を奪われて、なお、こういう台詞を吐ける。この少女はなにものだ、とサッカー部の
男達は戦慄した。そして、今まで自分の筋力の強さだけで少女達を屈服させてきた男達は、
そのねじ曲がったプライドにかけて、それを恥じた。
プライドのねじ曲がった、心の邪な男が自分を恥じたとき、どうするか？
自分に恥辱を与えた存在を、全力でおとしめることでそれを雪いだ気になるのだ！
「アバッキオのやつにほえ面かかせてやる！」
シンプルな白いシャツの前あきを、引きちぎることで男は陵辱劇の幕開けにした。
「弁償してもらいますよ」
「黙れッ！」
腕を押さえ込んだ男の手に力が入る。と、のし掛かった男の右手がブチャラティの頬を
平手で張った。
１４
……あーあ。もうだめかなあ。
ブチャラティは冷静に状況を見つめている。
……こういうこともあるから、早くいただいてしまってくれって言ったのに。
こんな局面でも、アバッキオの顔を思い出すと胸に愛しさがこみ上げる。ブチャラティ
はふと唇を緩めそうになった。
……今頃、なにしてるかな……？
背中を一瞬強い摩擦が通った。身体の前面が涼しくなった。とうとう上は全部はぎ取ら
れてしまったようだ。
「意外とたいしたことねえか？ 外人ならもっと胸あるかと思ってたぜ」
これは侮辱。去年より随分サイズが上がったのに。まあ、もともとささやかだったから、
積み増し分を入れても「豊か」な方とは言い切れない……いやこの体勢だから。真っ直ぐ
上体を起こしてちゃんと下着を着ければそれなりに谷間だって……とブチャラティはまた
危機感のないことを考えている。その胸を好き勝手にいじられているというのに！
「おい、どんな気持ちだ？ 怖いだろ？ それとも感じるか？」
「べつに。ちょっとは痛いですかね」
「まだ言うかァーッ！？」
いきり立った男はクロプトパンツの前ボタンに手を掛けた。ジッパーが下がっていかな
いので、半開きの状態で無理に押し下げた。これは痛い。ショーツも一緒になってずり落
ちた。膝まで下げたところで脚を折り曲げて胸に当たるほどに上げ、目的の部分が目の前
に現れるように子分どもに押さえさせる。
「ハハーッ！ どうだ！？ 丸見えだぜ！ 少しは泣くか？」
べつに。こんなポーズ、経験あるから。
ブチャラティは冷めている。昔、ポルポのモデルをしていた頃、よく取らされたポーズ
だ。あの頃は、もっとロマンティックな服だった……。
……参ったな、本当。
あのバカは傷付くだろうか。また怒り狂って、今度こそ退学になるほど暴れるだろうか。
……やっぱり内緒だな。
それでも痛いのはイヤだから、自衛のために楽しいことでも考えることにするか。
……あのバカが相手ならヘタでも我慢するのに。
「ヤリまくってる割りにキレイだな……？」
男は自分の欲望を満たすよりこちらを辱めることを優先しているようで、つくづく見た
りいじり回したりして時間を取っている。
「余計なお世話だ」
やってないとは言わない。余計に興奮させてしまうから。
「ホラ、ホラ！ どうだ、感じるか？」
押し広げて、指を立て、囃し立てる。ああ、男なんてみんなやることは同じだ。
「ん？ なんだおまえ、もしかして……」
奥歯を噛んで耐えるのは痛みというより恥辱、突き立てても容易には指を受け入れない
様子に男はいぶかしげな声を上げた。
その時だった。
１５
ガラリ。
音が先だったか、光が先だったか。扉が開いた。
「……やめましょうよ、先輩」
息を切らしていたのに、声は投げやりに、彼は言った。
「なんだ、おまえか。
待ってろ、次はおまえにヤらせてやる。アバッキオの女だぞ？ ウサ晴らすには丁度い
いだろ？ 帯刀」
これが、あの。
ほんの少し色の付いたまだかけ慣れていない細身の眼鏡。突然の障害に、心を、生活を
荒れさせたりはしなかったのだろうか、まだスポーツマンの体型は保っている。卒業式の
日、アバッキオが胃を押さえながら必死で探して、追って、声を掛けられずに見送ったひ
と。あの時はまだ髪も黒いままで、こけた頬に小さな傷が残っていた。
その帯刀なら、アバッキオを、自分を憎んでも解る。ブチャラティはそう思って身を一
層固くした。
「べつに、いいッス。……くだらねえ」
言いながら、帯刀は近寄ってきた。
「やめませんか？ こんなこと。万引きぐらいって、万引きでもあれだけの騒ぎになったん
だ、女の子をヤったりって、今風当たり強いッスよ。ネットとか怖いの、知りません？
顔から住所から親の職業まで晒されて」
「しらねえよッ」
「新都も狭いッスから、あとがキツイッスよ？ おれもお情けで大学には入れて貰えたけ
ど、就職あるか……今必死なんスから」
投げやりな声は、説得というには無気力に聞こえた。
「おまッ！ 新都学園はッ、学園のサッカー部はここいらじゃ就職固くってッ……」
「そういうの、今通用しないんス。もう、古いんですよ……やめましょうよ。こういうの、
よくないス。先輩も解ってるんでしょ？」
「みんなやってるんだぞ！？ 今までだって、急にやめたらそっちがやばい……」
「そんなことないス。高等部も、嘘みたいにぴたっとやめてお利口さんになった。
……みんな、やめたかったんス。おれにはそれが解ってなかった……
今だって、おれべつに顔出しに来たんじゃないス。呼びに来た奴がいるんです。止めて
くれって……
なんか警察沙汰になったら、言うンスよ、そういう奴らが。おれはやめたかった、おれ
はそんなつもりなかった、先輩が、キャプテンがやれって言ったからって。そういうの、
……イヤでしょ？
やめましょうよ、先輩」
擦れた、投げやりのようで切々とした声だった。
事件の後は、帯刀キャプテンはサッカー部の連中とは一緒に行動しなくなった。視力を
失ったせいだと皆思っていたのに。
「ちぇ、つまんねえ……つまんねえなおまえら……」
男はどうと胡座をかくと、すっかり興ざめた顔で頭を振った。
「行けよ」
顎でドアを示す。
「すいません。ありがとうございます先輩。
……失礼します。おいッ」
帯刀は沈んだ声で応えた。
ブチャラティは、すぐさま立ち上がって服を直すと、小走りにクラブハウスを出た。
「ありがとうございました」
前ボタンは引きちぎられていたが、カバンかられいのショールを出して南の民族衣装の
ように巻き付けると、大きな結び目を前に垂らしてなんとか隠した。
……大丈夫、守ってくれる、いつだって。
やさしい手触りの絹を、そっと手で触れていた。
「間に合ったか？ 何もされてねえか？ そうか……
アバッキオに、そういうわけで、あんま悩むなって、言ってやってくれ」
静かな声だった。
「はい、ありがとうございます……」
「あは、泣くなよ……安心したか？」
街灯の下を通ったときにふと視線をくれて、帯刀は頬を緩めた。
「え？」
ブチャラティは自分の頬に手をやって、自分が涙を流していたのを知った。
「あ、なんか気が緩んで、すいません」
「明るいところまでは送るけどな、そら、そこ学生会館のカフェ。
もう勘弁してくれよ？」
「ああ、ありがとうございました」
手も挙げずに、すっと帯刀は離れていった。
１６
一礼して、明るいところで自分の姿をもう一度ざっと検めて、さらに化粧室を探してブ
チャラティは入った。
一瞬、あのまま辱めを受けて、そのことを知れば、アバッキオは自分のせいだと激しく
自分を責め、そして申し訳ないと一生大切にしてくれるだろうと思ってしまった。
女を暴力で犯す人間を冷たく軽蔑することは確かだが、そうされて激しく嘆き、自分を
見失い価値をなくしたように思う心の動きがない。アバッキオに対し価値を失うかどうか
をだけ配慮に入れ、失地を回復するにはと抜け目なく思いを巡らせてしまう。
そういうことを、取引のたねにできる人間なのだ、自分は。
鏡に映る少し青ざめて、頬を打撲で腫らした、しかしいつもと変わらず目を輝かせて、
打ちのめされてはいない女の顔を見て、ブチャラティははじめてしんから絶望した。
……おめでとう、レオーネ。おまえの美しい心は、皆が理解してくれる、帯刀キャプテン
も気にするなと言ってくれている。自分の信念のままに行動して、それが正しい道を外れ
ていない、ひとの共感を得る。
だが、わたしはおまえにふさわしい人間じゃない！
まっすぐ、人の善意を信じられる、他人を尊重して正しい道を迷わずに選び取ることの
できるおまえには、不釣り合いだ……。わたしは、イタリアにいた頃だって教会にはあま
り行かなかった。お祈りの言葉をそらで言えるなんて、そんな敬虔なクリスチャン、いま
どき、ついていけない……。おまえはそれでいいんだけれど。
ブチャラティはショールの端を握りしめたまま、しばらく涙が流れるに任せていた。
１７
「現場１００回というそうだな」
露伴は真新しい車で迎えに来て歯を見せた。もちろん初心者マークが付いている。
「ドライヴなら恋人さんをお誘いになった方がいいでしょうに」
「もちろん誘った。但し、日程的に貴様らを乗せてそこらを回るのが先になっただけだ」
「もしかして練習台ですか？」
アバッキオはもう逃げ腰だ。
「保険なら掛けてある。心配するな、そのためのドイツ車だ。
ああ、貴様らの席は後ろ……」
「それくらいの常識はあります」
すげなく言って、ブチャラティはさっさと乗り込んだ。
流石は高級車、足の長い２人が乗り込んでも足元には余裕があった。その足元に、クー
ラーボックスが用意してあって、
「かってに飲み食いしろ。休憩は適宜取るつもりだが」
缶コーヒーやら、紅茶のペットボトル。アバッキオ用に緑茶の飲料もあった。スナック
菓子類も少し。さすが、行き届いている。
免許取り立ての運転手は神経質にシートを合わせ、鏡をチェックしてベルトを締めた。
後席の２人も無言のうちにベルトを締めた。
「そこの番犬、ナヴィぐらいはしろよ？」
「付いてるるじゃないですか、立派なカーナヴィが」
後席に追いやっておいてそんな無茶を、とブチャラティが庇う。
「……見せてください」
アバッキオは少し胃を庇いながら助手席に広げてあったロードマップに手を伸ばした。
「蕪（かぶら）城は新右衛門様の隠居城で、こいつが置かれたおかげで蕪城（かぶらぎ）
市は賑やかになった。新都から車で１時間、元は文字通り蕪が植わっているような畑地で、
分類で言うなら平城。天守閣なんかはない統治用の城館で、戦国時代に実際に戦に使った
とかじゃあない。新右衛門様が亡くなった後は地味目に改装して幕府の目はごまかした。
早めに隠居した藩主の何人かはここへ入ったから、それなりに人口もあって、街も整備さ
れてる。
戦災に遭わなかった新都を文化都市として残した分、工場類はこっちへ持ってきたから、
産業都市として発展した。カブラギ・シャッターはここが本社だ。関連会社も含めれば、
この街の半分はカブラギの関係者だ。郊外は新都より近代化されてるぞ。空港もこっちだ
しな」
ハンドルを握りながら、ざっと露伴は解説する。流れるようにもう高速に乗った。
「親父が帰ってくる度にぶうぶう言ってますね。新幹線も通ってないのに空港まで遠いの
は辛いって」
「まあ、新都はそれでやってきたんだからしょうがない。よその県だって、そうそう一極
集中の所はないぞ」
ブチャラティがたしなめる。
「カブラギはもう世界のブランドだがなあ。
蕪城の方は、明治になって城を潰せという話が出て、取り壊されて、城跡が公園になっ
て終わりだ」
「え？」
アバッキオが聞き返した。そういえば、新都城は最近まで中に大学キャンパスがあって
よくニュースにも取り上げられていたが、蕪城市に城があるかどうかなんて、注意を払っ
たことなんかなかった……県庁所在地住みの人間は他の街には疎い。
「明治維新で、民心を一新するとか、佐幕派の反乱のときの根城になるのを防ぐとか、い
ろいろあって、城は取り壊されたんだ、全国で。ひとつの県に１つだけ残すって話で」と、
ブチャラティが捕捉する。１０才までイタリアに住んでた女の子に……以下略。
「神川城が取り壊しってなったらそりゃ新都の人間でも暴れるな」
アバッキオは唸った。新都は明治になってからつけた名だ。元は神川城。ほら、都市伝
説で、明治政府に逆らった藩の県庁所在地はもとの県名とは別だというやつ。明治以降、
おかげで地盤は沈下しっぱなしで、今はただの観光都市だ。
「そういうことだ。美波藩って支藩もあって、この南にまだ城はあったけど、それも」
日本海を右に見て高速道路は真っ直ぐ南西を目指す。
「左手だけ焼けるぞ？ タオルかなんか掛けとけ」
露伴がちらりと後席を窺った。
１８
「あ」
「なんだ？ トイレ休憩か？」
一級河川岩木川の標識を見て、アバッキオが声を上げ、露伴が反応した。
「あれ」
指さした先に、観覧車が揺らめいていた。今日も日本海側は熱暑。露伴には逃げ水が見
えている。
「『お魚ランド』の大観覧車」
「ああ、まだあったのか」
露伴は鼻を鳴らした。
「先輩も行きました？ うちは、オフクロがあそこはただの釣り堀だって言って連れてっ
てくれなくて」
「釣り堀だったのは昭和の半ばまでだ！ 熱帯魚や金魚も商っていて。バブルの頃にテー
マパークになったんだ！ 今は絶叫マシンもそれなりに入ってる！ ファミリー向けのぬ
るい遊園地だ！」
「行ったんですね？」
アバッキオの声がうらやましそうにしぼんだ。
「ああ、あれが」
それでアバッキオ家の子供たちには憧れの場所なわけだ。ブチャラティは得心がいった。
まあ、新都市内からはすぐにいける距離ではないし、他の公共交通機関のアクセスがいい
ようでもないし、新都の子供が誰もが行ったというわけではないのだろう。
「あそこの魚を全部スケッチしてやろうと、幾つのときだったかな……毎日通ったんだが、
さすがに親が音を上げて」
「毎日は大変でしょう」
アバッキオが肯いてみせた。
「全部買い上げてうちの池に放したんだ。成金はこれだから」と、露伴は鼻を鳴らした。
２人とも絶句した。
「ご、豪邸ですね」
想像して、アバッキオは池の大きさから家を類推する。ええと、岸部家の屋敷があるの
は市内のどのあたりだっけ……？
「池に入れたんじゃスケッチが大変でしょう」
ブチャラティが薄く笑った。
「さすがに池が溢れて、描けた分から知り合いに譲った」
「全部描けたんですか？」
アバッキオが呆けた顔のままに言った。
「さすがに間に合わなくて１０匹ほどは死なせたな。そうでなくても酸欠で大変なことに
なって……あれは思い出したくない」
「……そうですか」
アバッキオは怒ってるだろうなとブチャラティは察した。きっと幼い露伴も。露伴もそ
れを感じてか、乾いた声音で続けた。
「まだ相当いるから、食糧危機になったらうちの庭に釣りに来い。錦鯉はちょっとってメン
タリティなら勧めんがな」
「あはは、是非おねがいします」
ブチャラティは調子を合わせた。露伴が父を嫌う理由もなんとなく解った。
「池の主になってしまったのもいる。いつか描いてやらなくちゃと思ってるんだが。……
すごい大物の金の錦鯉だ」
「今度見せてください」
「姿を見せないんだ。相当通わないと無理だぞ」
声を上げて笑って、露伴はハンドルを切ってサーヴィス・エリアに入った。トイレ休憩
のあと、しばらくして車は蕪城インター・チェンジで高速を下りた。
１９
「どうだ、何か感じるか？」
蕪城址はまだ蕪城市の中心部だった。なんと言うこともない公園になっていたが。露伴
は駐車も危なげなくこなして、公園入り口に立った。
「感じるかって……」
アバッキオは居心地悪そうにしている。８月に入ったばかりの北陸の田舎町には、ただ
蒸し暑い熱風が吹き抜けている。今日も真夏日は確定だ。これは大変、ブチャラティに日
傘かなにかを、とかそんなことばかり頭を占めている。
「クリスチャンの感覚で、どうもこのへんは神秘的だとか」
「無理ですよ、先輩」
城の遺構は跡形もない。外周に石垣が残って、少し周囲より上がっているだけの、あと
は松がまばらな開けた場所というだけだ。
「暗号文の方はどうなってるんです？」
ブチャラティが助け船を出した。
「ああ、笑うぞ、ラテン語が解る人間に見せたんだが、あれはラテン語じゃなかった」
「またですか。今度は何語です？」
「ローマ字だ。まだヘボン式なんてものが編み出されてなかった頃で、手探りで日本語を
アルファベット表記してみたんだろう。立派に『暗号』になっていたぞ。あの頃は言語的
にもまだ中世の発音が残ってたらしいから、気がつかなかった」
「じゃあ解ったんじゃないですか！」
アバッキオが吼えるとすぐさま露伴はそらで暗号文を唱えて見せた。
「たいかうでんかのめいによりわうごんせんまいをうめぬ。おうてもんよこめいげつにか
うべをてらされたるまりやにたずぬるべし」
「太閤殿下の命により黄金千枚を埋めぬ。追手門横、名月に頭を照らされたるマリアに尋
ねるべし」
すぐにブチャラティが通訳した。
「追手門ってのは大手門のことでしょうね」
「だからここに立ってるんじゃないか。そら、クリスチャン、どこにマリアが見える？」
「先輩、ええと……」
答を既に知ってしまった恋人達は居心地悪そうに顔を見合わせた。
「マリアとはそれかァーッ！？ 月影灯籠の周りが良く荒らされるってのは聞いたことが
あったが、そういうことか」
話を聞いて露伴は絶叫するなりすぐにきびすを返して車のドアに取り付いた。あと５分
もこのままここにいたら熱中症確定と思われたのもあっただろうが。
「管理事務所で聞いて来ましたが、事件は９月から１０月によく起きるそうです」
「ふん、『名月に照らされたる』だからな、中秋の名月、旧暦８月１５日の月ということ
だ」
「意外とその『古文書』どこにでも流れてたんですね」
長居は無用、とばかりにばたばたと皆乗り込んで、車を発車させる。当然、エアコンは
最強にして。帰りは右側が日の当たる方だ、アバッキオが声を掛けてブチャラティにブル
ゾンを羽織らせた。
「それで、十五夜の月に照らされた月影灯籠のマリアの頭にあたる影の部分を掘れってこ
となんですね」
「でも、あれって高山右近の頃からずっとあの場所にあったんだっけ？」
アバッキオが遠慮がちに突っ込んだ。
「ああ知ってるッ！ もとは隠居所の蕪城の追手門脇に立ってたんだ！ 憚りがあるって
言って幕末までは菩提寺に移して隠してたんだッ！ 元あった位置の正確な記録は残って
ないッ！ 今まで六華園をほじくり返してた奴もご苦労なことだッ！」
「まあまあ。それじゃあ結局黄金の在処は解らないままということですね」
「ロマンじゃないか」
アバッキオはもともと他人の金に執着がない。
「先輩もこれでスッキリと東京脱出は諦めて、ここで若社長修行をすればいいじゃないで
すか」
口々に後輩たちは露伴の機嫌を取り結ぼうとする。
「ふん」
「免許取ってすぐベンツの新車を乗り回せるんですから、親父さんに感謝しなきゃ」
「後輩の分際で人に指図をするなァーッ！」
来たときとは真逆の荒っぽい運転で、今度は一般道を行くつもりらしい、ナヴィをちら
ちら見ながら露伴は車を走らせた……。
２０
「先輩もっと速度おとしてーッ！」
アバッキオが礼儀をかなぐり捨てて絶叫した。
「レオーネ、うるさい」
「法定速度を守ってかえって車の流れを滞らせるなと習ったぞ」
「それどこの自動車学校ですーッ？ おれ絶対行きませんッ」
ベンツは後席も３点型シートベルトで良かったなと切実に思っている。
「レオーネ、わたしはべつにこのまま事故で死んでも本望だが……うちの父は大野の市民
墓地に埋葬されてるんだけど」
「アアッ、親父さんの隣……そんな不吉なこというなァーッ！
先輩今の信号黄色でしたって！ 黄色は念のため止まれでしょーッ！？」
「気をつけて押し通れじゃないのか？」
「そこは一緒におまえのうちの墓に入ろうって言ってくれるべきじゃないのか？」
「えーッ親父のうちの墓ってイタリアにあるんじゃねえの？」と、２人はもう手を握り合っ
ている。
「そこのバカップル！ いちゃつくんならせめて口は閉じてろッ、気が散るッ」
「黙っていたらいいそうだ。じゃあ、レオーネ」とブチャラティがワルノリしてアバッキ
オの首を抱えて寄せる……。
「「待てーッ」」
「次ノ角ヲ右折デ目的地……」
空気を当然（？）読まずにカーナヴィが硬質な声を発した。
暴走の果てに車は停まり、待ちかまえていた笑顔の優しい若い女性と２人の美少年が手
を振って寄ってきた。
「露伴ちゃんすごい運転。レーサーみたいだったわ」
「待たせてしまって済まない。急な頼みを聞いてくれて嬉しいよ、玲美さん」
「だって、露伴ちゃんのお願いだもの。可愛い男の子とドライヴできて楽しかったわ」と、
居心地悪そうな２人を振り返って言う。背後には黒塗りの大きな車が運転手付きで控えて
いる。
「ねーちゃん！」
ナランチャは喜色満面。
「なんだ、先輩のお指図だったんですか。いきなり有無を言わさず連れ出されて、ぼくら
いよいよ売り飛ばされるのかと思って冷や冷やしましたよ」
フーゴは青い眼を輝かせて危ないことをしれっと言ってのける。２人とも夏の戸外への
お出かけスタイルで。
「皆さんがここに来たことがないって伺ったから。わたしたちも久し振り。今日は思いっ
きり遊びましょうよ」
にっこりと微笑まれて、皆、歓声を上げてお魚ランドのゲートをくぐった。
２１
昔ながらの釣り堀も、観賞魚の展示・販売コーナーも変わらずにあった。
「父が忙しかった頃、露伴ちゃんのお父様がわたしたちを連れてきてくださったの。まだ
タコさんの脚が上がったり下がったりするだけの乗り物と、宙返りしないコースターく
らいしかなかったけれど。
それなのに露伴ちゃんたら金魚の水槽に張り付いて、スケッチに夢中で全然一緒に遊ん
でくれなくて。それでおじさまが、全部買上げてうちに運ばせるからここでは子供らしく
遊びなさいっておっしゃって。
半分はうちの池にも入れてくださったんだけど、あんまり見に来てくれなかったわね」
昔を懐かしむ色になって、玲美の瞳は潤んでいる。
「さっきとは雰囲気の違う話になりましたね」
ブチャラティは冷静に言った。
「だめじゃんロハン先輩！ 女の子に寂しい思いさせちゃ！」
ナランチャがにかっと笑った。
「あ、でも、一番良く描けた金魚の絵は貰ったわ。ランチュウ。まだ部屋に飾ってあるの
よ」
ふんわりと笑って玲美が付け足した。露伴は顔を振って視線を外した。
「だから今遊びに来たんじゃないかッ」
乱暴な仕草で露伴は一日券をめいめいに渡した。
「そんなッ、払いますッ」
アバッキオがまた汗をかいた。
「うるさいッ、いいから払わせろッ」
アバッキオが話を振ったおかげで思い出したのだろう。露伴はムキになっていた。
「ロハン先輩ありがとーッ！ やっぱ最初は宙返りコースターだよな！」
ナランチャが真っ直ぐ駆けだした。
「ちょっと、ここのは、初心者でも大丈夫なんでしょうか」
北陸人は引っ込み思案だから、絶叫マシンといえどもあからさまに悲鳴を上げたりはし
ていない。くぐもった声がそれでも複数聞こえてくる大きなアトラクションを見上げてフー
ゴがいくぶん引いてみせる。
そんな大げさな最新鋭機ではない。大きな宙返りが一度、あとは、外周で大きなアップ
ダウンがあって、内周で急旋回を２，３度やったあと螺旋に２回転ほど回ってプラットフォー
ムに戻ってきて終わりのコースターだ。
「えー？ フーゴ初めて？」
「いえ、実家にいた頃どこかに行ったような気もしますが、なにぶんその頃は身長も足り
なくてああいう絶叫マシンには乗れなかったような気が……」
「じゃー乗ろーぜ！ 玲美ねーちゃんに感謝しよう！」
「あ、本当にお気遣いいただいて済みません。ぼくはちょっとしばらく全体を見てから……
ちょ、ナランチャッ！」
くどくど言っているうちにナランチャに引っ張って行かれてしまった。
この辺りで唯一の遊園地だ。平日の昼でもそれぞれのアトラクションに１０人ほど行列
が付いている。
「どうする？」
「これは、乗らなきゃダメだろ」
ブチャラティは機嫌良くアバッキオの手を引いて列についた。
「うふふ。わたしも久し振りに乗りたいな。ねえ露伴ちゃん？」
大きなつばの付いた帽子を手で押さえながら、玲美が微笑んだ。
「べつに反対する理由もない」
ぶっきらぼうに言って、露伴が進み出た。
２２
昔からあったという池には、足こぎのスワンボート。手こぎボートもちゃんとあって、
ナランチャとフーゴは勇んで乗ったはいいが、呼吸が合わず、ぐるぐるその場を回るばか
りで結局アバッキオとブチャラティに回収されてしまった。露伴は意外と上半身の筋肉も
発達していて、玲美を乗せて静かにボートを進めているのを遠目に見ると、さすがに似合
いのカップルに見えた。
タコ足の乗り物はまだまだ健在。
「乗ってみますか？」
「オッチャンにいい土産話ができるな」
弟たちは嬉々として乗り込んだ。
「次、パイレーツな！」
「ジェット・コースターは上下運動に遠心力だが、これは円運動に振り子、基本はブラン
コだよな、別次元の楽しみだ」と、ブチャラティは悠然と解釈を述べている。ナランチャ
はご機嫌。フーゴは蒼白、アバッキオは冷や汗。
「じゃーねーちゃん、コースターもっぺん行っとく？」
「ああ」
挫折組を置き去りにほいほいと乗りに行ってしまった。あとは、フーゴとアバッキオが
花壇の脇のベンチにへたり込んだ。
「なんか飲むか？」
「……炭酸以外で、すいません」
「ああ」
アバッキオがよろめきながらお茶を買ってきた。
「……女性って絶叫マシンが好きらしいですね」
恐る恐るフーゴが口に出した。
「好きだからって毎度毎度そればっかってこたァないだろ」
とりあえずブチャラティは、しょうがないなときらめく笑顔で言ってのけて、あっさり
ナランチャと行ってしまった。次はカルーセルだぞ、逃げるなよと言いおいて。
「今度誘ってみたらどうだ？ たしか駅前からシャトルバス出てたから」と、口に出した
あとで、お節介をしたとアバッキオは苦い顔になった。
２２
昼には大きなバスケット入りのサンドイッチ弁当が届けられ、皆は歓声を上げた。テン
トの中を熱風が吹き抜ける休憩所にはあまり長居ができず、冷房の効いたゲーム・コーナー
やお土産コーナーに移動してしまうのは人間の性……。
ゲーム・コーナーでは露伴が意外に射撃に強いところを見せていた。指先の繊細さ、目
の良さ、集中力、そういえば、射撃に必要な才能は持ち合わせているのかも知れなかった。
……いや、射撃だけじゃないな……。
ブチャラティは静かに天才芸術家を見つめた。
その後は、乗客をシャッフルして露伴の車には玲美、杉本家の車にはアバッキオとブチャ
ラティ姉弟。近くの海へ夕陽を見に行った。
大きな熱量をもった真夏の太陽が、ゆっくりと日本海に沈んでいく。荒波で砂を多く含ん
だ海水は、今日も濁ってベイジュに近い色だ。海が青いなんて思っているのは、太平洋側
の人間だとアバッキオがいつか言っていたとブチャラティはふと思い出す。
……あ、イタリア人もか？
幼い頃の記憶をたぐっている様子を察して、慌てて言い足した。
……そうだな。地中海も内海といえば内海だが、やはりわたしの田舎は綺麗な青い色を
していたぞ。
そう言ってやると、アバッキオはうっとりと返した。
……その眼よりか？
いいなあ、そんな綺麗な海の側で育ったのか、空も綺麗なんだろうな、行ってみたいな、
そんなことを言い重ねていた。
……え？ 行くんだろ？
その時自分は笑っていたと思う。新婚旅行はイタリアって言ったじゃないか。連れてっ
てくれるんだろう？ そう言ってやったら、息が詰まったような顔をして、黙って抱きし
めてきた。
……ああ、そうだよ、行くんだよ。絶対、おれたち結婚しような。
夕陽に焼かれて、顔がじりじり熱くなる。身体が火照ってくる。
アバッキオは、弟たちと砂浜に流木で絵を描いたり、砂山を作ったり穴を掘ったりして
遊んでいた。なんて無邪気な。
玲美がそれに子供みたいな顔で付き合っている。なんてきれいな笑顔。
なんてきれいな。
潮が満ちてくる。細かい波が立っている。それは夕陽に照らされて、黄金色に輝いてい
る。戯れている少年たちも、もう、逆光で細かな顔の造作は見えない。けれど、眩しくて
見ていられない。美しいに決まっている。大好きな人達。
探さなくてもいい。黄金はここにある。
うなり声がして、露伴が車に飛び込むと、スケッチブックを出してきて猛然と手を動か
し始めた。戯れる若人達を、遠距離から、近距離を切り取って、様々に写し取っている。
恐ろしい速さで。その手の端は、摩擦熱を持ってるんじゃないだろうか。
ブチャラティは、露伴に近づいて声を掛けた。
「先輩は、どうして東京に行きたいんですか？」
「あの提灯記事を見たろ？ 新都新報の。たかが高校生の卒業制作に、歯が浮くような美
辞麗句！ 子供の頃から！ 何をやっても！ ここにいたんじゃボクはダメになる！
聞いたろ？ 金魚の件も、そういうわけだ……彼女に不満がある訳じゃないが、子供の
頃から、……全てお膳立てされて！
ここにいたんじゃいつまでたっても、ボクは自分の実力を疑いながら狂おしく生きてい
かねばならんのだッ
名声が欲しいんじゃないッ！ ボクは描かずにはおれないんだ。それが受けようが、黙
殺されようがどうでもいいといえばいいッ！ だが、実力もないのに褒め倒されて天狗に
なっているとしたら、それを恥ずかしいと思う羞恥心くらいは持ち合わせているッ！ だ
から、調べて、学んで、せめて智で裏付けを得ようとせずにおれない自分の心弱さがまた
浅ましくも情けないッ！ ただ目的のものを正しく描き出したいのか、人にそしられるの
が怖いのかが混沌としていて分かちがたいんだ……イヤ知りたいッ！
ボクは、周囲のものに負担を強いて、ボクの全身全霊をもって志向し体現するものが絶
対的に価値ある芸術であるのかを知りたいッ！
いっそ才能がなければあっさり親の跡でも継いでやろうと思えるのにッ！」
日に焼けてか、露伴の顔は赤らんでいた。
「実力は、ありますよ。あのバカが認めてる。
心を偽ることを全くしない、ありのままに受け止めて、まっすぐ示そうとするあのバカ
が、先輩の絵を凄い、先輩はいいひとだって言ってます。
先輩の絵は、有職故実なんか知らなくてもそういう人間の心にちゃんと訴えかけてくるん
です。きっと、１００年後の人が見たって、凄さは解る。蛇が何本脚だっていいじゃない
ですか」
誰かに言って欲しかった言葉を受けて、露伴の顔が緩んだ。
「だって先輩に画壇のつきあいとか、画商の人にプロデュースしてもらって売れる絵を描
くとか、できるわけないですよ。先輩の絵って、気軽に買って応接間に飾れるタイプじゃ
ないですもん。でかいヌードとか、血まみれとか。
あれ結局学校が引き取ったんですよね？」
そこを、ブチャラティの容赦ない分析が刺し貫いた。露伴は凍り付く。
「先輩は偉大なるアマチュアでいいと思います。新都にいてください。先輩なら社長業も
バッチリこなせますよ。レオーネがお魚ランドの話をしてからすぐに手を打って、恋人さん
からうちの弟たちまでちゃんと招き寄せて、待たせないうちにちゃんと合流できた。即断
即決。埋蔵金調べにわたしたちを巻き込むときの見事な弁舌、必要な人材をすぐに選び出
して仕事を任せられるマネジメントの力。うらやましい資質ですよ」
「ブチャラティ……キミは」
被せるようにブチャラティは言った。
「モデルなら、いくらでも引き受けますから。
トップがしっかりしてないと、お家騒動のもとです。岸部産業は新都の筆頭優良企業なん
ですから、背負ってる人間の数はハンパじゃないです。新都のために、ぶれないでくださ
い。お願いします」
「……ふん。
見ろ。こんな夕陽、よそじゃあ見られない。新都の人間は美的感覚が鋭いんだ、ここに
限らない、そこら中に美しいものが溢れていて、それが普通だと思っているから。だから
外へ出て行かない……発展しないんだ」
「ええ。ほんとうに美しい街です。いいじゃないですか、それで。
じゃ。あんまり２人きりで話し込んでると恋人さんが気にするでしょう」
「礼は言わないからなッ」
「そんな。こちらが言いたいくらいです」
そう言いおいて、ブチャラティは浜辺で波に戯れる連れに近づいていった。
これで、露伴はアバッキオを頼りにするだろうか。アバッキオは露伴に恩義を感じてい
るから、露伴の方でも得難く思ってくれるならいい。露伴には良くしてもらったから、そ
れで少しは恩返しになればいい。自分がこの先ここから消えても、せめてそういう人のつ
ながりを残せるならいい。そういう黄金、埋蔵金を、埋めていけるなら。
この街で、ほんとうにいいものをもらったから。
ブチャラティは、眼を細めて、美しい人達をいつまでも見ていた。
とても、豊かな気持ちになっていた。
２３
台風が来ていた。もう夏休みも残り僅かだった。
あれからアバッキオ家で盆踊りに参加したり、肝試しをやったり。一族総動員で作った
という浴衣をプレゼントされて、ブチャラティ姉弟は感激した。
「ナランチャくんのは本家のおばあちゃんしか縫えんから、もう、張り切って何年ぶりか
でお針箱開けたって」
ナランチャはぜったい浴衣では着崩すだろうからと、甚平にしたのだ。
「ありがとうおばちゃん！ これ、流行りだよね！ おれ、着てみたかったの！」
小猿のように喜んで駆け回って、盆踊り大会の来賓席に出てきていた本家のおばあちゃん
にまっすぐ懐いていた。
「なーん！ おかげで、張り合いが出て、助かったんよ」
アバッキオがもう身体をちぢこませてお礼に行くと、そこのおばさんは丸い顔を綻ばせ
てばんばん背を叩いてくれた。
「パンナコッタくんのは外注に出したわいね」
アバッキオの母が眼を細めた。
「そんなご迷惑をかけて……？」
フーゴが汗をかいて頭を下げると、その袖を白い小さな手が引いた。
「お母さんとわたしとで手分けしてがんばりました」
綾子が頬を染めていたりする。
「ここのところのまつり縫いと、背中のところを真っ直ぐ縫うのがわたしの担当で。何遍
もやり直したんですよ」
「……ありがとう！」
目を潤ませて、しばらく言葉を探していたが、意を決して囁いた。
「今日は、大人っぽいね」
綾子が真っ赤になって俯いた。
花火も上がった。
「今日のは新都新報さんの花火大会。来週が、ライヴァルの北日本新聞の。張り合って県
下で毎週末どっかで上がってるらしいよ」
向山はそれを見下ろせる特等席、とアバッキオ家の物干し台にみんな集まって花火見物
をした。
「きれいだ。花火はすぐ消えるのがいいんだな……」
ブチャラティは呟いた。
アバッキオがそっと寄り添う。
それぞれに思い出を作ったいい夏だった。
「夏休みが８月３１日までなのは日本の常識だと思っていたが、東北の方じゃ違うらしい
な」
外はひどい吹き降りだった。雨天中止はこの男の頭にはない。出てきやすい市の中心部
のカフェで、露伴は仕立てのいい白いシャツに風情のある紬のジレを着ていた。もしかし
て、誰かの着物を壊して作ったのかも知れないとアバッキオはぼんやり見ていた。
「今はゆとりの反動で、授業数が足りないから前倒し開始がはじまってます。中等部は今
年から２６日はじまりだそうですよ。
とりあえず、これを」
ブチャラティがレポートにまとめた月影灯籠の事件簿をバッグから出して見せた。
「もう来週じゃないか、許せんな……」
露伴は受けとるとぱらぱらめくって流し見した。
「『多加良の泣き一揆』を知っているか？」
唐突に露伴は切り出した。
「ええと……暴力じゃなく泣き声を殿様に聞かせて窮状を訴えた……？」
アバッキオはしどろもどろ。
「宝暦年間だ。さすがに多加良も凶作で、やっていけなくなった農民達が、それでも穏や
かな土地柄だから、鍬や鋤を持ってお上に逆らうのは怖い、しかしもう喰うものはない、
せっぱ詰まって、城の東南にある山に登って、向かい側の天守閣に向かって泣き叫んで訴
えた。『ひだるいまいやぁ！ 米よこせまいやあ！ 喰わしてくれんかいやあ！』
さすがに殿様の耳に入って、飢饉の詳しい実情を報告させ。これはまずいと備蓄米を放
出した。農民は助かって、なんとか多加良藩としての飢饉の死者は最低限で済んだ。その
かわり、恐れ多いことと実行者は捕まって、処刑された」
いらいらと露伴は言葉を連ねた。ああ、喫煙者だとこのタイミングで煙草に火を点けるん
だろうなとブチャラティはぼんやり見つめていた。
２１世紀の芸術家は、いったいどんな嗜好品をたしなむのだろうか。
「あ、はい……」
アバッキオはマジメに聞いていたらしい。
「その犠牲的精神の一揆の実行犯たちを祀ったのがキサマの家の裏の寺なんだがなッ！？」
「えッ、あ、ああ、巽峯寺さん？ あ、そういえば……」
小学生の時、ラジオ体操で集まった近所の寺の隅に、朽ちかけた案内板が立っていて、
そんなようなことを書いてあったかも知れない。ゆとり教育のはしりで、郷土の歴史は時
間が削られてあんまりやらなかった。こんなこと、役に立つことはないと思って深く考え
ていなかった。
「向山ネイティヴと言うならもっと郷土史を真剣にやっておけッ！」
露伴はコピーした資料の束でばんばん机を叩きながら叫んだ。
２４
「それがなにか……」
ブチャラティの方は、馬耳東風といった面持ち。
「備蓄米を取り崩しただけであの年の飢饉を乗り切れたものか常々不審に思っていたんだ
が、これでわかった。
あの年の少し前、蕪城は改修工事をやってる。台風で追手門が倒れて。その時に掘り当
てたんだ、埋蔵金を。
一揆で処分したにしてはどうも時系列のおかしい死人が出てる。……蕪城の近くの寺の
記録をまた漁った」
忌々しげに、しかし吹っ切れたすがすがしさを滲ませて露伴は言ってのけた。
「先輩……」
「とうにお米に化けて新都の皆の口に入っていたんですね」
ブチャラティは微笑んだ。
「良いじゃないですか、それで」
アバッキオはつい口に出してしまっていた。
「戦に使って人がみんな死んじゃうより、飢饉のときに使ってみんな生き延びられた方が
ナンボかマシな使い方ですよ。それで良かったと思います」
「先輩が家出して東京で蕩尽するよりもね」
「くだらないッ！」
露伴はそこでいい感じに冷めてきたコーヒーをあおった。もう、コーヒーもホットがい
い季節。
「そう言うわけだから、調査はここで終了だッ！ 今までにかかった費用は請求書をまと
めて今週中にボク宛に提出しろッ。月曜以降は受け付けないからなッ」
「払ってくれるんですか？」
アバッキオは目を剥いた。大して調べていないから、六華園への交通費と入園料の他は、
ブチャラティと２人の飲食代ばかり……。
「この岸辺露伴が、自分の予期しない結果だったからといって調査費用をケチったりする
かッ！？ 相手を見てものを言えッ！」
「先輩、ここのケーキのお薦めは何ですか？」
最後に露骨にたかる姿勢を見せたブチャラティにアバッキオが冷や汗をかいた。
「おいッ」
「好きにしろッ！ マロン・ロールにはまだ早い。パッション・フルーツのムースが残り
少ない感じだったな……」
「じゃあそれを。レオーネ？」
「おれはいいです……」
「ふん。実に有意義な夏だった。だからいいんだ」
「そうですね」
２人は優雅に夏を締めくくっていた。
「そ、そうですか……」
正直者だけが、小さくなってコーヒーを飲んでいた。
１１−０８−１１
蛇足。
オリジナルのミステリ用の大ネタをとうとう下ろしてしまって、おかあさんもうオリジ
ナル書きに戻る気はないのね。でも、こんな穴だらけのネタはオリジナルで仕上げるのは
無理だから、まあいいでしょう。
金沢観光案内になっちゃったかもですが、結構フェイク入ってますから本気にしないで
ください。新都は北陸にある架空の都市です。
でも、兼六園のことじ灯籠はよく倒されるらしいのよね（ボソッ）。
豊臣家の軍資金がなくなったのは、あれは家康がうまくだまくらかして淀殿に無駄遣い
させたからだそうです。お寺を建てたり、ゴージャスな法事をやったりとかで（わたした
ちの考える無駄遣いとスケールが違う！）。戦争ってそういう所からやるものなんですね。
もう深謀遠慮にしびれる憧れるッ！
でも埋蔵金はロマンです（断言）。
お魚ランドでレオーネ君に言われて昔の記憶が蘇った露伴先輩ですが、それから玲美お
ねえちゃんに声を掛けてホントに合流できたのでしょうか？
だいたいの時間を書いてみます。
露伴車
新都 お魚ランド ＳＡ 蕪城 蕪城址
３０分 （通過）１０分
５分
２０分
５分
（一般道 ４０分）
お魚ランド到着 ： 露伴出発時点から１時間５０分後
玲美車
杉本家 ポルポ宅 お魚ランド
３０分
１０分
１０分
３０分
お魚ランド到着 ： 露伴出発時点から１時間２０分後
なんとかお魚ランドで合流できたみたいです。
それにしても、電話もらって３０分で支度したのね玲美おねえちゃん。
いきなり初対面の人にマンションに来られて１０分で支度して出た弟たちも凄い。
露伴先輩が画家じゃなくなってしまいそうです。
星新一（あのショート・ショートの！）が、星製薬というバリバリな大企業の創業者の
息子で、社長もやっていたという話を聞いていて、なんだっけ、夜の１２時までは毎日１
本ショートショートを書くという作家の仕事と、社長業を掛け持ちでやっていたという話
をどこかで聞いて、それをブチャから先輩に話してもらって、
「先輩だったらできますよ」と持っていくはずだったのに、念のため今調べたらそれは真っ
赤なガセネタだったのでした。誰よ〜！ おかあさんに嘘を教えたのは！
それで、急遽変更したのですが……露伴先輩が自信のないただのお坊ちゃんになってし
まいました。ごめんなさい。
イヤこのご時世、芸術で喰ってくのも大変。昔は子供も多かったから、長男にうちを継
がせて次男か三男が芸術家でぷらぷらしてってのもアリかも知れませんでしたが、今って
子供一人でももてたら幸せらしいし。それどころか結婚もできるかどうかって、……ホント？
玲美おねえちゃんも一人娘だったりしたら、いよいよ露伴先輩ちゃんと社長にならない
と……！（余計なお世話だ）
漫画家は金銭的成功が比較的しやすい芸術家なのかも知れません。いや、そんなにラク
でもないはずだが、とりあえず原作の岸辺露伴は金に困ってないな。４部以降の露伴につ
いては知らないのですが……。まあ「スラ猫」の露伴はそういうひとと思ってください。
こっちでもフーゴはオリジナル・キャラと恋をします。ナランチャ可哀相って、こっち
のナランチャは凄いですよ……ショットガンでＸＸＸ（ネタバレ禁止）！
さて、どこまで書けるかです。よろしければお付き合いください。