ダ・カーポ
その朝（５６）
１
もういくつ角を曲がったことか。アジトからの帰り道を、ブチャラティは延々回り道し
ている。
それは、前のチームにいたときにギャングとして叩き込まれた護身の心得ではあるのだ
が。ただ家に帰るにしても、真っ直ぐ歩いたりはしない。ブロックごとにランダムに歩く
側を変え、横断歩道を急に走って渡る、またはやり過ごす。たまに逆行する、袋小路にわ
ざと入り込む、曲がり角ではさりげなく後ろに気を配る。身に染みついた、尾行よけのテ
クニックだ。
１歩後ろを付き従っている男も、それなりの教育を受けた身だから、途中から気がつい
たらしい。ぬかりなく、足音を消してきた。
……やるな……。
一昨日拾った男は、なかなか使い物になりそうだった。
とはいえ、うろうろと近所を３周もしているのは、なにも護身のためばかりではない。
……なにか一杯引っかけて気合いを入れたい！ だが、酒の上のことにしてしまうのは
まずい！
うわばみであるところの彼女は水割りの一杯ぐらいで理性を失ったりもしないのだが。
この日、見事にポルポの試験をクリアして自分のチームに配属を許されたプラチナ・ブロン
ドの男を拾ったのが酒場でだったので、ブチャラティはらしくなく思い悩んでいる。
本人は、腹をくくってギャングのチーム入りすることを認めた。なんという偶然か、ス
タンド能力者、しかも、生れつきの！ で、スタンド能力者として自分のチームに配属さ
れることになった。彼女のチームの少年たちとちょっとした歓迎会をやって、解散したと
ころだ。
そして、そのずっと憧れていた男を、自分のフラットに連れて帰る途中なのである。
……だって、昨日の今日でフラットは手配できていないし、だって、まだ海のものとも
山のものとも解らない人間をアジトに一人で寝起きさせられないし、もとサツだからって
監視するならわたしの手元に置いたほうがいいし……。
ぐずぐずと理由を言い立てる。即決で拾いに行って、チームに入れることにしたのに、
いざここにきて彼女は迷っている！
迷っているのだ。
もう、いくらなんでもいぶかしく思うころだろう。フラットの隣の花屋の色鮮やかな特
徴的な看板を、３度も通過した。ブチャラティは最後の景気づけに、思い立った場所を目
指した。
風のあたらない、倉庫の角。もう１年ほどもそこに場所を定めて動かないホームレス。
ブチャラティは、真っ直ぐ歩み寄って見下ろした。
「ジュゼッペさん……どうだ？」
低い声で尋ねる。眼下の男は、こんな暮らしなのに、不思議とこざっぱりしている。初
老の男は、眼を開けてからだをひと揺すりした。
「ああ、あんたか……。下り坂だね。明日には降るよ」
「そうか」
金色に光る硬貨を握らせる。すぐに彼女はきびすを返した。
「なんなんだ？ 天気予報？ あのおっさんは予報士なのか？」
１歩近づいて、彼女の連れは低い声で疑問をぶつけてきた。
「ああ、ただし、ローテクだ。昔事故に遭ったんで、低気圧が近づくと判るらしい。あと
はカンを磨いて、な……情報は金になるんだ、どんな種類のでも、それなりに」
「なるほどな……」
「野宿はもうさせないからな？」
ほんの少し笑みを見せると、年令なりの女性のようにも見える。２０才の、端正な顔の
リーダーは、なんとか家に男を招き入れる踏ん切りが付いたようだった。
２
「ポルポの秘蔵っ子」と呼ばれることに抵抗はないが、幼い頃から膝の上で彼からリーダー
として英才教育を受けてきたわけではない。彼女の天才参謀が、数学者が言うところのエ
レガントな解法、と感嘆するような個々の局面での的確な判断は、実のところ経験で培っ
てきた純粋な皮膚感覚の産物だ。必要最小限の手だてで、幾度も死地をくぐり抜けてきた。
それを、いちいちここにはこれを当てて、この情報をもとにこの方面にはこう気配りした
結果がこう出て……と細かな分析をやってあとで講釈と評価を求めてくるのはフーゴの方
だ。忙しい彼女はそれに８割ほどの真剣さで相手してやって、彼が自分なりの解釈でそれ
を身につけてさらに発展させて行くのを見守ってきた。
つまりは自分自身でこの地位を得たのだ。ほんの使い走りの小娘の頃から、注意深く、
上のものたちがどうやって立ち回っているかを観察して身につけた智恵だ。今となっては、
誰に教授を仰いでいるわけでもない。だから、自分の選択を誰に褒めてもらう必要も感じ
ていないし認めてもらおうとも思っていないのだが。
……わたしは間違っていない！ この判断は正しかった！
そう思いこもうとしている。じっさい、よいように事態は展開している。だが、彼女は
もうせっぱ詰まって助けを求める気持ちになっている。
誰か、誰か、前のチームのリーダー、優しくしてくれていたハンサムな兄貴分、山の手
の親身なリーダー、今はきっと商売の真っ最中の幼い頃からの親友、誰でもいい！ 助けて！
……これから先、どうしたらいいんだ！？
部屋は３階。階段をのろのろと登り尽くして、もうフロアの床が見えている。手が無意
識に鍵を探している。もう着いてしまう。ドアを開けて。ああ、心臓が口から飛び出しそうだ！
３
「中へ……」
ようよう招き入れる言葉も、最小限になる。もともと表情に乏しいから、引きつった笑
いもごまかせているらしい。
「掛けて……」
なんとかソファーまで案内し、掛けさせる。冷蔵庫から水を出して与えて、あとは、え
えと……。
逃げるようにバスルームに飛び込んで、距離を取った。大至急で、からだを磨き上げる。
待たせないように、混乱する自分を落ち着けるために、頭から湯を浴びて、自分の身体に
眼を落とす。
……ああ、貧相なからだ！ 幻滅させないだろうか、ちゃんと抱いて貰えるだろうか、
抱いて貰う！？
自分の意識をかすめた言葉にまた金縛りに遭う。心臓の音が水音にも増して頭の中に響
いてくる。
……やばい、どうするんだっけ、今まではポルポさんの言うとおりしていればよかった。
招かれれば近づいて、脱げと言われれば脱いで、開けと言われれば開いて見せて。
ブチャラティは湯を浴びながら力を失って、がくがく震えながら湯船の中に坐り込んだ。
……サンドラ！ サンドラ助けて！ どうすればいいの！？
今はきっと稼ぎ時。彼女の「ビジネス」をこなしている筈の親友に尋ねてみるわけには
いかなかった。
洗い髪にバスタオル一枚で恐る恐るバスルームから出てきたチーム・リーダーを見て、
さすがに新入りは顔に血を上らせた。彼なりに、これから起きることを予想していたらし
い。さっと目を逸らして、平静を取り繕う。
「済まない、ついいつもの格好で……」
これは、脈があるかな、と少し心を励まして、口は謝って見せた。
「あ、あんたの部屋なんだから、好きな格好を、すればいい……」
これは意外とうぶかもしれない。
グラスに水を注ごうとして、ボトルの口ががつがつとグラスを舐めている。
「ああ、そうさせてもらう」
ＴＶを背に、男の向かいのスツールに腰をかけて、身を乗り出す。ぎゅっとタオルで締
め付けて無理矢理に作ってきた谷間を見せつける。
「レオーネ・アバッキオ、ポルポさんの試験に受かったということは、おまえはスタンド
能力者なんだな？」
「あ、ああ、あのフーゴってやつが教えてくれた。なんか超能力なんだってな、あるぜ、
一応」
アバッキオはいよいよ眼のやり場に困って、水を注ぐことは諦めてボトルに蓋をした。
「見せてくれ」
ブチャラティは畳みかける。
「ああ」
ふよん、とテーブルの脇に青い人影が現れた。額にディジタルのカウンターを戴いた、
無機質な質感のヴィジョン。体格は本体を反映してか筋肉質のようだ。
「どんな能力だ？」
「その場にあったことを再生できる。時間を指定すればその時間まで巻き戻して」
「やって貰おうか。そうだな、一昨日の朝、８時頃ならどうだ？」
それは単なる思いつきだったのだが。
確かにカウンターは高速で巻戻り、瞬時に彼女は自分の姿に対面することになった。
顎に沿った長さのブルネットのボブ。まだ髪は結っていなくて少し寝乱れている。起き
抜けの下着姿で、ベッドルームから出てきて目の前を横切った。
いよいよ眼のやり場に困ったらしい能力者本体は、あんたの指示に従っただけだぜと口
の中で呟いた。
ご機嫌なブチャラティ’は洗面を済ませてまたベッドルームへ戻っていった。
「ほほう」
ブチャラティはとぼけた顔のままにそれを見守る。
クローゼットを開ける音がして、女ギャングはいつものスーツ姿になった。身支度をし
ながらも、ちらちらとベッドの中を窺う身振りが入る。ジャケットを羽織ってしまうと、
ベッドの上に身を乗り出してた。
「……殺して、くれ……」
聞こえてきた痛々しい寝言に、ブチャラティ’は眉をひそめた。
「…ハンサムさん、……まだ目覚めないのか。もっと眠っていたいか？
ゆっくりおやすみ。そして目覚めたら、ほんの数日でもいいからわたしと生きておくれ。
そして、あの真っ直ぐな輝くまなざしで、ほんの一瞬でいいからわたしのことを……」
そこまで言って、恥じたようにブチャラティ’は頭を振ると、そっと眠っているものの
頭のあたりに手を伸ばした。静かに撫でてみる。そして、次第にその髪の感触を確かめる
ようにつくづくと眺める。
「随分伸びたな……あんな潔い刈り上げだったのに。でも、ハンサムはトクだ。これも似
合うぞ、レオーネ。そうだ、ぴったりだ、獅子にはたてがみがあるものさ」
くすぐったいような笑顔が浮かぶ。
「おおそうだ、なにか食べるよな？ 用意しないと……」
身を起こして、ブチャラティの姿をしたスタンドはキッチンの方へ歩き去った……。
「ああ、もういいぞ」
かああっと赤面した能力者に手を振ってやめさせて、さりげなくブチャラティは自分の
頬に指を触れさせた。すこし、温かいかもしれない。恥ずかしいのはこちらの方だ、と思っ
たのだが、やはり顔には出ない質らしい。
「まあいい。そういうことだ。改めて言う手間が省けたな。そういえば、こういうことを
聞いたことがある。
……スタンド使い同士は惹かれ合う、と。
わたしも能力者だ」
顔を伏せていたアバッキオは、伸びた前髪の奥から淡い色の眼で彼女を見つめていた。
「レオーネと、呼んでもいいか？」
ブチャラティは身を乗り出していた。
「ああ……」
「レオーネ、……もう一度名を呼んでいいか？ レオーネ、レオーネ！ ああ、夢みたい
だ。おまえがここにこうしているなんて！」
手をさしのべて、ブチャラティはうっとりと言った。その眼は潤んできらきらと光って
いる。
と、アバッキオは突然立ち上がった。
「湯……使わせて貰っていいか？」
「……ああ、どうぞ、支度はしてある」
目を見張っていたブチャラティは、やっとのことで返事をした。
４
せっかくだから今のうちにドライヤーを使って。耳の横でモーター音がしているのに、
それより自分の心臓の音の方が大きいようだ。シャワーの水音も延々している。きれい好
きなのだろうか、長い。きれい好きなのはいいことだ。垢じみた、土埃にまみれた男でもずっ
と憧れていた男だったから気にはしなかったが、これからはやはり身ぎれいにしてくれた方が
いい。
……これからって。
やっぱり、これから、するんだよな……。
耳元でごんごん風が鳴っている。頬がどんどん熱くなる……。
「……明日は何時なんだ？」
隣の部屋からの灯りが遮られ、気がつくと、ドアのところに男が立っていた。ブチャラ
ティは灯りのついていない寝室でドライヤーを使っていた。
「え？」
慌ててスイッチを切って顔を男に向ける。結界が張ってあるように、アバッキオはそこ
に立ちつくしたまま入ってこようとはしない。
「あんまり、遅くならない方が、いいんじゃないのか？」
いつの間に手配したのか。ちゃんとおろしたてのＴシャツとスウェットのパンツを着込ん
で。合宿の消灯時間を告げに来たキャプテンのようだった。
「ああ、そうだな」
手早くブチャラティはドライヤーのコードをたぐった。途中で気がついて、尋ねてみる。
「これ、使うか？」
「いや、いい」
昔は刈り上げていたから、ドライヤーを使う習慣がないのかも知れない。これから習慣
を付けさせないと。寒くなるし、中途半端な長さだ、翌朝きっと後悔するようになるだろ
うから。
くすりと内心笑っている間に、アバッキオは背を向けた。向き直ったのは、ドアを閉め
るためだ。彫刻のような顔が、どんどんドアに隠れてゆく。
「じゃあ、おやすみ。
おれを拾ってくれてありがとう、リーダー。これから、よろしく」
うっかりブチャラティはドアがほとんど閉まるまでを見送ってしまった。慌ててスタン
ドを呼び出す。それは間に合ったらしい。
アバッキオの背後で、ソファーが、音を立てて二つに割れた。
一瞬でドアの隙間に足を挟んでそれ以上閉まらないようにすると、ブチャラティは笑み
を作ってドアを再び大きく開けた。彼女の方は健全な合宿のつもりはない。
「ああ済まない、うちにはベッドは一台しかないんだ。
どうぞ、こちらへ」
何事が起ったのかまだ把握しきれない新入りを、ブチャラティはようようベッドルーム
に連れ込んだ。
５
「……一昨日のことは、実はあまりよく覚えていない」
ベッドに押しやられ、尻餅をつくように腰掛けて、アバッキオは所在なさげに言った。
「ああ、そうだろうな」
かなり酔っていて、ひと暴れした後だったから、ブチャラティの一撃で沈んだ。それを
担ぎ上げてブチャラティはここまで連れ帰ったのだ。
「あんたのことを、殴ったのは覚えてる」
「あはは、フーゴに締められてたな」
ブチャラティは努力して笑顔を作ってやった。
「済まなかったな」
「それはもう謝って貰ってる」
ブチャラティはやや心から笑って軽くアバッキオの背を叩いてやった。
「それで……」
覗き込んだ顔に、アバッキオは手を伸ばしてきた。両の頬を、大きな手が捕まえる。ゆっ
くりと、唇が重なった。ブチャラティは視覚を遮断して、他の感覚で行為を存分に捉えよ
うとする。２人はゆっくりと身を倒した。
「こういうことで、いいか？」
ドアが開いたままで居間の灯りが点いたままだ。ほんの３センチの距離に、憧れの石頭
警官の顔がある。
「ああ、そういうことだ、頼む」
ブチャラティは、ゆっくりとその背に手を沿わせた。
……夢みたいだ、きれいなアバッキオ巡査、今ここにいて、わたしにキスしている。眼
を閉じるべきか、いや、見たい！ あのひとの指がわたしに触れているところを！
心音はまた耳を圧するほどに響いている。指が、これからここを狙うと赤外線の照準の
ように肌を滑って止まり、そこへ過たず唇が降ってくる。指、そういえば爪が短くなって
いる。
……切ってくれたんだ。
それは、女の身体を愛しむときの礼儀。
ブチャラティの胸にちいさな火が点る。と、タオルが外された、空気に触れて肌がひやっ
とする。アバッキオが姿勢を変える、ベッドがきしむ。吐息がかかる……汗ばんだ肌、荒
い息……なにか昔の記憶に引っかかる。それはまだ幼い頃。独り立ちしてしばらく、街の
衆にも舐められていた頃。小娘のチーム・リーダーはよく路地に引きずり込まれては不良
少年やチンピラどもの餌食になりかかった。その記憶が、今、蘇る！
「ブチャラティ……ッ」
擦れた声、目のいろが違う。のし掛かってくる男の体重！ 押しつけられる身体の中心
が熱を持っている！
こ の 男 は 、 欲 情 し て い る 。
「イヤッ！！」
６
気がつくと、アバッキオは吹っ飛ばされて床に転げ落ちていた。彼女の腹の上には、呼
び出されたスティッキィ・フィンガーズが上半身だけ出して身構えている。
「ブチャラティ……？」
「あ、ええと、スティッキィ・フィンガーズだ、わたしの、スタンド。さっき出し忘れて
たと思って……
……ご挨拶なさい」
黙ったまま、スティッキィ・フィンガーズが全身を表わして床に降り、膝を折った。
「ええと、よろしく」
アバッキオは、なんとか声を絞り出した。みぞおちに拳が決まったらしい、右手は胴体
の中心部を押さえたままだ。
「どうぞ、こちらへ……続きを」
スタンドを引っ込めたブチャラティは、平静を取り繕って両脚を揃えると、ベッドの開
いた空間を手で示した。
「……ああ、どうも」
のそのそとベッドに上がったアバッキオは、済まなそうに場所替えを要求した。
「右利きだから、そっちが」
「ああ、済まない」
ごそごそと入れ替わる。手はまた伸ばされる。また最初に戻って、厳かなキスからきま
じめに、行為が始まる。武骨な指が、白い肌を滑ってゆく……。
「……ッ」
また青い「守護霊」が現れた。アバッキオも心得て急所を庇って飛び退く。
「ごめん」
「痛くしたか？」
「そうじゃなくて……」
「じゃあ」また、最初から。そしてそれはまた停止し、再開する。何度も何度も。
「……イヤ、なのか？」
低い声で、耳元で事情聴取をしながら、ゆっくりと進めていく。
「そんなんじゃない」
「無理強いしたくないんだが」
「無理強いじゃないって！ 判るだろ！？」
半べそになって、ブチャラティは自分から、熱を持った下腹部を押しつける。こんなに
なるなんて、信じられない。やっぱり好いた相手との行為は違う……。
が、いよいよとなると身を固くしているのはアバッキオにやはり判ってしまうらしい。
なにより、彼女の強力な「守護霊」がすぐそこに腕組みをして見下ろしている！
「いいんだな……？」
とうとう、引き返せない線に来てしまったらしい。アバッキオは擦れた声で最終確認を
してきた。
「あ、どうぞ……大丈夫、我慢……、できると、思う」
ブチャラティもつい言わずもがなのことを言ってしまう。
「我慢ッてッ」
アバッキオはごくごく小さなため息を漏らすと、突っ伏して枕を抱えた。しばらくその
ままでいた後、顔を隠したままに、低い声が響く。
「フーゴが言ってたんだが、あんた、恋人いなかったんだってな」
「あ、ああそうだな、付き合った相手はないが……経験はそれなりにあるぞ？
好きな相手じゃなかったと言うだけで」
……好きな相手じゃなかった。
彼女にとってはそれは些細な事実だったが、それを聞いてアバッキオの色の淡い目はすっ
と細くなった。
「無理してるわけじゃない！ なにか？ わたしはからだを張っておまえをスカウトした
覚えはないぞ！ わたしは好きでおまえとこうしたいと思ッてッ！」
ブチャラティは身を起こして声を荒げた。
だが、からだが気持ちについてこない、いや、逆か。からだが出来上っているのに、深
層がそれを許さない。誰であっても自分のからだを自由にさせはしないという強固な想い
が残っているのだろう。
「ああ、もう！」
アバッキオはその額を掴んで枕に押しつけた。
「黙ってろ。もういい」
「……レオーネ？」
「黙ってろッて言った」
アバッキオはばさばさとブチャラティの身体を毛布で包んで、頭を抱え込んでぐりぐり
と撫でた。
「寝るッ」
宣言したら、もう、１分後には寝息を立てていた。そういえば、昨夜はポルポの試験で
一晩中ライターの火を守ったのだった。
……黙って寝かせてやれば良かった。
ブチャラティは反省して、自分も眠ることにした。もともと火の点きにくい身体だ。刺
激がなくなればすぐに平熱に戻る。
……温かいな……。
７
ジュゼッペはほんの少し外した。明け方、雷雨があったらしい。ブローノ・ブチャラティは
それを夢うつつに聞いたようだ。
……父さん、お願い……。
……フロラ、１０を過ぎた女の子が父親のベッドに入ってるなんてよそで言うんじゃあ
ないぞ、変な風にとられるからな。
……絶対ヒミツにするから。
……しょうがないなあ、この子は……。
父親は手を上げて毛布とシーツの間に隙間を作ってくれた。
雷の夜は、昔からどうにも苦手だった。前の艦長のアジトでも、理由をつけては寝ずの
番に加わってやり過ごしてきた。
……ポルポさん、光ってますッ。
……ああ、今夜は激しいな。
ポルポの屋敷にいるときは安心だった。
……雷の夜は、……何に気をつけたらいいでしょうか？
……ああ、出入りは雨の日がいいな。雷雨はうってつけだ。物音が消せるし、足跡や血
痕なんかの証拠も消えやすい。撃たれた後雨にも降られりゃ致死率は上がるし。表を歩く
人間がいないということは目撃者もいないということだ。
……解りました。……お守りします。
ぎゅっと服の袖を握りこんだのに目を留めて、ポルポは愉快そうに笑った。
……素直に怖いとしがみつけば可愛げもあるものを。まあ、おまえはそれでいいよ、ブ
チャラティ。この屋敷は大丈夫だ。避雷針もついているし、いつも完全装備の警備が２０
人は詰めている。安心しておやすみ。
……はい、ポルポさん……。
ポルポは安眠を保証してくれた……。
雷の夜のフーゴは素直だった。
……ブチャラティ、あの、手を握っていてくれますか？
……ああ。今日はよく降るな。
……落雷のエネルギーは植物になにかの刺激を与えるようです。アジアでは、落雷が実
りのきっかけを与えるともいわれていますし、ある種の茸は落雷のあと群生が見られるそ
うです。植物の育ちがよくなるという研究結果も報告されています……。
フーゴは恐れを隠すようにいろいろ物語ってくれた……。
……温かい。
ブチャラティは満ちたりた気持ちで目覚めた。
隣に人が寝ているのは久し振りだ。ポルポは脂肪のせいかいつもひんやりと冷たかった
が、この男は温かい。Ｔシャツの胸に頬を寄せる。
……もっと、じかに。
シャツをめくり上げて、素肌に触れてみる。張り詰めた筋肉、呼吸につれて静かに隆起
している。彼女はスタンドを使って、さらに内側を断ち割って見た。
健康な、思念の支配を受けずにただ全身を働かせるためだけに日夜働いている筋肉の固
まり。調子よく脈動して血液を送り続けている。じつに彼らしい器官と見えた。
……心はここにはない。恋をするのは大脳だ。
彼女にそういう知識を与えてくれたのは誰だったか。優しい兄貴分か、生意気できれい
な参謀か。
昨夜は焦ってうまく行かなかったけれど、きっと、近いうちに。
……この熱の全てをわたしに注いで。その眼差しを、わたしだけに向けて。
絶対、そうしてみせる。たった一日でも、そういう時間がもてたなら、今まで生きてき
たことに意味がある。
「レオーネ、なんでもしてやるからな」
まだ深い眠りの中にある男に、ブチャラティは口づけた……。
……眠り姫を起こすみたいだ。白雪姫はブルネットなんだっけ、肌は雪白、黒檀の髪、
リンゴの唇……。
本格的に身を起こして、きれいな男の全身を見下ろして検分する。もうはや自分のもの
になったつもりで。
……結構やつれたかな？ あの頃より頬の肉が落ちた。なんだか肌もがさがさして。栄
養のあるものを喰わせてやろう。ああ、鎖骨がきれいだな……。
昨夜のものとは何か違う胸の高鳴りを感じる。
……腹筋がきれいに割れてる。鍛えてたんだな……おや？
視線を次第に下げていって、彼女は彼の異状に気づいた。
……なんだ、やっぱり満足できてなかったんじゃないか。
彼のそのための器官は、半ば興奮状態を示していた。
……ごめんな、昨夜は満足させてやれなくって。
労るような気持ちで、彼女は撫でてやった。と、「彼」は敏感な反応を返す。
……あ、あらら、どうしよう？
ほんの少し、彼女は困惑した。心臓は、また急速に打ち始めた。
男が、横たわって、欲望を示している。それは、彼女が愉しませてあげるべき相手。な
らば、自分にはすべきことが判る！
ブチャラティは、目を輝かせて自分のすべきことを始めた。
８
徹夜明けで、ついうっかり寝過ごしてしまったアバッキオは、自分がとんでもないサー
ヴィスを受けているのに気づいて飛び起きた。
「ちょっと！ あんた！ なにやってるんだッ！」
「ああ、おはようレオーネ。よく眠れたか？ わたしはぐっすりだ。隣に好きな男が寝て
いるというのはいいな」
輝く青い眼に見下ろされて、アバッキオは慌てて辺りを見回し、現状を認識した。
「おれもゆっくりさせて貰ったが、あんた、それで、何やってるんだ、やめてくれよ」
「だって、昨夜なにもできなかったから。『彼』はご不満みたいだ」
「いいんだって、それは違うんだッ」
悲惨な育ちに似ずうぶなところもある、と昨夜認識したところのリーダーのしわざにア
バッキオはもう大混乱。
「違わないだろ？ な？ ヨくないか？ これ」
ブチャラティはゴキゲンで自分の知識と技術を披露している。
「いや、イイけど、そんなことあんたがしなくっても」
「いや、これでいいんだ。おまえはなんにもしなくていい。わたしが、おまえを愉しませ
てやりたいんだ」うっとりとブチャラティは行為に熱中する。
「いいから！ あんたはリーダーでおれを拾ってくれたんだからあんたがおれなんかに……ッ、
やめろ……」
抗弁するアバッキオは、寝起きの頭に目眩くような快感を突っ込まれてもう論理を組み
立てるどころではない。
「いいだろ？」
ブチャラティは念押しする。
「ちょ、待て、それはまずい、おかしいだろ、女の方が……アッー……」
抑え込まれて、アバッキオは満足に押し上げられてしまった。
「そんなに落ち込むことはないだろう？」
ブチャラティはもう３歩行っては振り返って、情人の機嫌を取る。しばらく放心状態の
アバッキオに支度をさせて、朝食を採らせ、オフィスに出勤するのは骨が折れたが楽しい
苦労だった。
「なにかしゃべってくれ。今日は服を買いに行こうな。おまえにしか着こなせないような
ビシーっとしたイケてる服を見立てて貰おう」
「…………」
「なあ、なあ、朝めしが気に入らなかったのか？ 済まない、料理は苦手で。じゃあ、昼
はちょっと張り込んでうまいものを食べに行こう。だから機嫌を直して……」
チームに迎えた憧れの石頭警官が荒んでしまったのには、自分も責任があるとはまった
く思いもよらないブチャラティだった。
（０８−０５−１０）
＜別解＞
彫刻のような顔が、どんどんドアに隠れてゆく。
「じゃあ、おやすみ。
おれを拾ってくれてありがとう、リーダー。これから、貴女の安眠は保証する」
ドアを完全に閉めて、ソファーを動かして封じた音がした。
「ちょっと、待てーッ！」
彼女を護ってやってという参謀の依頼にきまじめに応えた新入りは、それから３日、リー
ダーの寝室の前で寝ずの番をしてくれた……。
「おはよう、レオーネ。やっぱり夜はちゃんと寝た方がいいぞ」
４日目の朝、我慢が限界に来たブチャラティが明け方スティッキィ・フィンガーズでド
アを切り開いて、うっかり寝こけてしまった新入りをベッドに運び込んで……えーとあれ
これして、……結局なし崩しに彼は同じベッドで彼女の身を守ることになった。
＜蛇足＞
１周年記念だから大がかりな話を、とせっかくの生還パラレルなのに結局「伝説の中に
消え」させてしまって。何やってんだわたし。でも、時間軸がいったりきたりが売りのま
いねヴェルトなので、ここらで最初に戻ってみました。うん、「ダ・カーポ」は音楽用語
で、「始めに戻る」ですよね？ 結局本文中も、何度も「最初に戻る」ことになってしま
う不器用な２人でした。
彼らの「最初の夜」は、というお題でいろいろ話し合っていて、皆さんいろいろ萌えポ
イントを持って熱く語っておられるのに、わたしったら事後から話を始めちゃって、どう
しましょう。どうしてこういういいところを外すんだ自分。前ジャンルでも、プロポーズ
をいかに承知させるかなんていうところから始めてしまって、物語の作り方を間違ってま
すねえ。じれじれのなんたるかを理解しておらん。
さて、なかなか憧れだけでは恋には発展しないもののようで、かえってちょっと違う何
者かが入っていた方が燃え上がったりするようです。
沙翁（サー・ウィリアム・シェイクスピア）の言葉で例えるなら、
「憐情は恋情が眷属（けんぞく）也」。
当世風に言うなら、
「可愛いかもというのは恋のはじまりとしてアリアリ」……なにがアリアリだ。
お二人さんもそれぞれお互いの本性に萌えポイントを見いだせたようで何より。しかし
それをぶっ飛ばす幹部のトラウマ（＆性教育）でした。レオーネ君幸せな不幸ってこのこ
と？
「その朝」を書いたときにはちゃんと「できた」つもりだったのに。どうもアバッキオは
意識がなかったようですね。そして（深酒をすると意識がなくなって役に立たない）とブ
チャラティには刷り込まれたと。え？ 拍手お礼の話ですよ（ｃｆ．「ハムテルの法則」）。
深酒？ いいえ、あんたが殴ったからです。
「酒に酔った状態など抗拒不能の状態の相手と強引に姦淫した場合は準強姦」の言葉を幹
部に贈りたいと思います。イタリア共和国の刑法に準強姦の概念があるかどうかは未確認
ですが。……フーゴに知れたりするとネチネチいたぶられそうだな。