困ったお客
その朝（２７）
１
「……だから、これが顔を洗うやつで。髭剃りのフォームにそのあと顔に付ける化粧……
水？ それから化粧落としに、日焼けしないように塗る下地……」
アバッキオが、口ごもりながら洗面台の上に並んだチューブやボトルの説明をしていく。
微笑んでそれを見つめている彼の大切な女性は、逆らえないオーラを出して、眼で先を
促しながらそれを黙って聞いている。
「多すぎると、思わないか？」
アバッキオの説明を聞き終わって、にこやかにそう言った。
きちんと毎回蓋は閉めて、順番を崩さずに並べている。決して雑然とはしていないが、
物理的に数が多いと言われれば、そうかも知れない。これでもひとのうちの洗面所だとい
うことを心得て、必要最低限にしているのだが。
横に並んだこの部屋の正当な住人の化粧品類に比べたら、それは多いだろう。ふだん化
粧をしないブチャラティは、化粧落としさえ手の届くところに出していないのだ。
自分のフラットにはヘアケアやスキンケアのグッズがもっと溢れているということがこ
のきれいな恋人に知られたらもう生きてはおれないかも知れない！
「フーゴは石鹸きりしか使ってなかったぞ、それもわたしと共用で」
そんな、まだ髭も生えないお伽の世界の住人と一緒にしなくても。それに、一緒に暮ら
していたのはまだ１３，４の頃だったと聞いている。
……おれだってその年頃は水でばしゃばしゃやるだけだったさ！
という反論は、心の中だけにして。
「解った。ちゃんと毎日片付けるようにする」
眼を伏せて、顔を背け気味にアバッキオは引き下がった。とりあえず、そろそろ日焼け
の心配の要らない季節だろう。冬だって紫外線は変わらず降ってきていると、ドラッグ・
ストアのお姉さんに言いくるめられたのだが。
「そういう問題じゃないんだ」と、その頬を掴んで彼の上司はそれを許さなかった。
「そんなにきれいにしてどうしようって言うんだ？」
愉快そうに、青い眼をきらめかせて覗き込んでくる。
「……どうもしねぇよ」
少し開けた口の中で、ブチャラティの舌が蠢いているのを見て戦慄し、アバッキオは言
葉を選んで言った。
きれいにしていないとブチャラティに捨てられると啖呵を切ってしまったせいで、化粧
品を薦められると断れないのだ。店員にはノルマがあるというのも知っているので、他に
金の使い道のない男はついついむげにできずに買い求めてしまう。
「そんなにがんばらなくっても、素のままでおまえはきれいなんだがなあ」
舐められるのは頬ではなくて、口の中だったので、アバッキオは少しホッとする。
「バカを言うな」
やっと顔を離して、とりあえずたしなめる。
「素性が知れたっていいじゃないか。恥ずかしいことなんかないんだから」と、ブチャラ
ティは真っ直ぐに顔を見つめてくる。
日頃素顔で勝負をしている女にそういうことを言われると、アバッキオも弱い。
「いや、だが、やはり……」
「じゃあ、せめてこの顔色が悪く見える口紅だけは今日はやめておけ」
「顔色……悪いか？」
「な？ 周りも心配するから」
もう街のものは慣れてしまったのだが。このあたりはギャング歴７年の年季がものをい
う。
「……あ、ああ」
とりあえず押しきって、ブチャラティは機嫌良く洗面所を出た。
「おや、もうこんな時間だ。さあ、もう出よう。フーゴがいないから早めに行って支度し
ないと……」
２
サラダ用のレタスはとりあえずいいとして。紫タマネギは今日で使い切れることだろう。
あとはジャガイモと人参、今日はフーゴがいないからブロッコリーを出しても文句を付け
るやつはいないな、とアバッキオはなんとなくフーゴの出張先を遠く望んだ。魚は買い物
の間に店の親爺に下ごしらえをして貰ってるし、あそこはなにかと気が利いているからそ
の魚を煮込むためのハーブもちゃんとつけてくれると思う。本日の買い物リストを心中で
復唱して、休憩でもするかと彼は市場の真ん中の噴水横の広場を目指した。
観光客はあまり紛れ込まない、地元の人間が毎日の買い物に訪れる市場。噴水脇の少し
開けた辺りで小学生がフライング・ディスクで遊んでいる。ずいぶん温かくなってきたか
ら、少年達も外で遊びたがるようになっている。
……こりゃあ、ナランチャはパトロールの後当分帰ってきそうにないな。
そして、帰ってきたらもう「飯まだ？」しか言わない。
……手際よくやらないといかんな……。
「レオーネ！ 混ざってくれよ！」
目ざとく少年達が声を掛けてくる。
「ただの投げっこだろ？」と、無愛想な色男は取り合わない。
「ちげーよ！」
「ディスク・ベースボールだぜ。新（あ）ったらしーんだから」
「ピッチャーいらねーから人数少しでもできるんだ」
「グラブもバットもいらねーし」
少年達は、もうこの男の本性を知っているから怯まずに口々に誘いかける。
「今度な」
短く言い捨てて、一杯のカプチーノを手に、テラス席に腰を落ち着ける。その日の夕食
の段取りを頭の中で付けてゆく……筈が、だいたいのところはしぜん、恋人の姿を思い描
いてムーディー・ブルースに頼らないリプレイを楽しんでいる。それも込みで、彼にはた
のしみな休息の時間。
……おれ、またなんかしくじったかな？
化粧でもしてみたら、と言い出したのはブチャラティの方だったというのに。
それとも、なにか事態の変わることがあって、それではまずくなってきたというのだろ
うか。自分は臨機応変というのが苦手な質だから、その微妙で大切な時期を見誤って、ま
ずいことになっているのだろうか。
……あいつはそういうの敏感だからなァ。
育ちのせいもあるだろう。周りのオトナの顔色を窺って、うまい立ち回りを考えて考え
て生きてきた。
従うに越したことはないのだろう。
風が出てきたようだ。背中の髪が吹き乱されて、もう片手では押さえきれない。
……髪については何も言われなかったな……。
じつは、さすがにこれは自分でももてあまし気味だ。寝るときに下に敷かれると動けな
くなる。だが、そのきれいな恋人がご機嫌でそれを弄びながら、
「ライオンに添い寝して護ってもらっている気になる」とうっとり言うものだから、彼は
手間を惜しまず伸ばしている。
……護ってもらっている。
そんなことを言ったのは、そのときだけだ。本人も気づいていない深層心理ということ
はないだろうか。フーゴは試験に付き合ってくれたときから、
「あのひとを護ってやってください」と言っていたが、本人はふだんはそんなことを期待
してはいないようだ。いつも心を配って、どちらかと言えばこちらが護ってもらっている。
居場所を作ってもらって、気を遣ってもらって、優しくしてもらって、護ってもらって。
ふと漏らしてくれた本音にも気づかないままで。
……いつまでもこれじゃあまずいだろう。
この夏にミスタがチームに加わって、自分の立ち位置というものを見つめ直したときに
もそれを肝に銘じたはずだが、どうも方向転換の苦手な性分で、具体的にはなにも行動を
起こせていない。
……まったく情けない男だよ、おれは……。
風が強くなってきた。噴水の飛沫が、顔の辺りまではねかかるようになっている。残っ
たカプチーノを飲み干して、紙コップを握りつぶすと、アバッキオは席を立った……。
「ニッコロ、うまいぞ！」
「させるかぁーッ！ オーライ、オーライ」
「おまえら、こんなところまでなんだ、遊びは広場へ行ってやれ」
「風で流れたんだってば、オッサン固（か）てーこと言うなよ」
「そこまでいったらホームランだよ、噴水気をつけろよ！」
「いやッ！ 捕れるッ！ 捕ったらアウトだニッコロ！」
ディスク・ベースボールをやっていた少年が、ディスクを追って踏み込んできた。
「ちょ、レオーネ、邪魔！」
「あァ？」
飛び込んできた少年が、手を伸ばす、その先は噴水。
「バカ野郎！」
無意識に追った手が少年の襟首を捕まえようとする。一杯に手を伸ばして、それは果た
される。が、既に上体は噴水の上に乗りだしてしまっていて。
バッシャーーーーーーーーーーン！
ネアポリスの下町フェデリコ市場の中央噴水に、盛大な水しぶきが上がった。
下町のいいところで、すぐさま毛布だ火だ、うちでシャワーを、着替えを出せ、うちの
亭主のならサイズは合うはずよ、ココア飲んでけ、いや今すぐあつあつのミネストローネ
が出ると皆が集まってくる。
「ハハハッ、やったなウンベルト、ちょーファイン・プレイ」
毛布でぐるぐる巻きにされながらココアをふうふうしている飛び込み少年に、ガキ大将
のニッコロが笑いかけた。
「ちぇ。あれは捕ってたんだからな。アウトだぜ、ニッコロ」
「ザ、ン、ネ、ン、でしたぁー！ 捕った野手がボールごとフェンスを越えたらそれはホー
ムランなんだぜ、ウンベルト。なー？ イチロー？」
彼らの間に野球を持ち込んだ日本人駐在員の子供に話が振られる」
「アア、ソウダヨ、ホームラン、ホームラン」
ネアポリスに来て半年という少年は、黒い眼を光らせて、片言のイタリア語で肯いて見
せた。
「風邪ひくなよレオーネ。買い物の品は今ナランチャとミスタに取りに来て貰うから」と、
親爺が声を掛けたのに、滅多にないチャンスとおかみさん達に寄ってたかって連れ去られ
ながらも、
「魚……ホルへの店で今、中出してもらってるところなんだ。忘れんな」と言ったのは天
晴れだとおかみさん達の間で噂になった。
３
上から下まで借り物の服になって、
「頭から風邪引くんじゃないよ」と、ニットのキャップまで被せられてアバッキオはアジ
トまでの道を急いでいる。立てた襟に深く顎を埋めて、眼だけを不機嫌に光らせて、
……時間が押してンだ。声かけて来るんじゃねえ。といったオーラをためらいもせずに
発散させている。彼を知る街の衆は、黙って道を空けていく。
と、中にはそうでないものもいた。
やはり、不機嫌そうに書類を入れた大ぶりのトートバッグを振りまわす寸前まで手を振っ
て、キャリアとおぼしき女性が通りの向こうから真っ直ぐやってきた。長さは肩に掛かる
くらい、輝きに乏しい、淡い色の金髪を、風になびかせて。眉間には美貌を損ねる縦皺を
刻んで。高い鼻の下には、紅い唇が引き結ばれている。
真っ直ぐ、真っ直ぐ歩いていた機嫌の悪い二人は、真っ向からぶつかった。
「あんた左」
「あんたが避けろよ」
「女性に譲んなさいよ」
「マンマになら譲るがな」
「あんたのマンマなら女性に譲れって言うわよきっと」
「おれのマンマに逢ったことがあるのかよ」
「あったらどうする？」
「言ってろ」
急いでいる筈の二人は、仁王立ちしたまま言葉でやり合い始めた。
「オルシーニさんッ！ 勝手に出歩かれては困ります」
駆け寄ってきたのは見覚えのある「若いの」。川向こうの客か、なるほど、威勢がいいはずだ。こ
の姿を見られたくなくて、アバッキオは肩をそびやかして去りかけた。
……オルシーニ、か……あのうちの女はどれもあんな強（つ）えぇのかな。と、アバッキオは聞き
覚えのある名に少し唇を緩める。
「あ、アバッキオさんどうもー！ 今日はオフですかぁ？」
続いて追いついた新前が、目ざとく見つけて能天気に声を掛けた。
「え？ あ、ロベルトッ、このバカッ！ いつでもどこでも挨拶していいってんじゃねえんだ、場合
を弁えろッ！
……どうもッ」と、先に声を掛けた方がかしこまった。
「ああ……どじ踏んだんだ。忘れてくれな？」と、そこら辺の家から借りたネルのシャツやらケーブ
ル模様を編み込んだセーターやらを着込んだ姿を軽く見下ろしてアバッキオは言った。
「いえ、お似合いですッ」
「いや」と、本格的にアバッキオは逃げかける。その姿を上から下まで見て、気の強いオルシーニ嬢
が呟いた。
「アバッキオ……って、レオーネ？」
そういえば、その声にも覚えがある。上背のある体格、淡い色の金髪、皺の寄りやすい額、威厳を
感じさせる大きな眼……。
ほら、素顔を曝して歩くとこれだ。関わってはおれない。いよいよ大股で歩き出す、ところを長い
腕が伸びてキャップを奪おうとする。弱点を知っているいまいましい年上の女（ひと）！
「待ちなさい。あんたこんなところにいたんだ？」
「……マティルデ、あんたこそ。ローマにいるんじゃなかったのか？」
秘密を曝されまいと、アバッキオはしっかりと両手でキャップを押さえた。
「仕事よ。この先のちょっとした商売をやってるうちに『システム』を入れるんで出張」
「そりゃよかったな。おれはこれから仕事だから」
「どんな仕事？ みんな心配してるんだから、ちょっと聞かせなさい」
雰囲気を察して、グリマルディーニの若い衆は引き下がった。
「おい、困る……」
「何が困るのよ」
大柄な美人は、いともたやすくアバッキオを拉致してしまった。
……おれの魚！ いいスズキだろって、ブチャラティに食わせてやんなってホルへがッ……。
悪いことに、携帯は水没して壊れてしまっていた。
口紅を引かないで歩いただけでこれだ。やっぱり化粧をして素顔を隠すに越したことはない。
「嫁に行ったって聞いてたぜ」
「別れたわよっ！ どいつもこいつもどうしてこの国の男はだらしないのかしらッ！」
……いや、あんたといい、うちのオフクロといい、女の方が強すぎるんだって。
心持ち肩身を狭くして、アバッキオはホテルのティールームに坐っていた。
「で？ 市警をやめたあたりのいきさつは聞いたけど？ なんで帰ってこなかったの？」
「いいじゃねぇかその話は」
「あんたって見栄えはまあまあいいけど、不器用だから、ジゴロもできない。いいとこ酒場の用心棒。
でも、さっきの様子じゃ、そこら辺のちょっとした姐御が可哀相に思って、ヒモにしてくれてる……
ってとこかしら」
……Ｓｉ（仰せの通りでございます）。
アバッキオは舌を巻いた。
「やあーだ、当たり？」と、マティルデは笑いこけた。
「なにその髪？ おばさんが見たら絶対切れって言うわよ」
「……いいだろ別に。気に入ってるんだ」
「あからさまにまともな職業についてないって格好が？」
「変わりたいんだ」
「へえ？」
「あんたは変わらないな」
年下の自分を子分にして、振りまわして。なんでも目標を決めたら真っ直ぐぶつかって。失敗して
も、けろりとしている。心配した自分の方がばかを見るだけだ。
「おれ、賄いをやってるんだ。食事時は困る」と、アバッキオは立ち上がった。
「まあ！ あんた、リンゴも剥けなかったくせに！」
マティルデが目を剥いた。
「なんでもままじめに取り組めばなんとかなる」
「そんなにいいひとなの？ アナベラよりも？ ちょっと逢わせて」と、眼を輝かせて、身を乗り出
してくる。
「困る」
慣れているので、アバッキオは短く拒否した。
「まあーあ！ レオーネ、このマティルデさんにそんな口を利けるわけ？」
「どのマティルデさんだ？」
腕を組んで、アバッキオはがんばった。
「あんたの下半身の面倒を見てやったこのマティルデさんをよ！」
マティルデは取り合わない。キラキラした眼で威圧する。
「そんな言い方をするなッ」と吐き捨てて背を向けかけるアバッキオの手を、マティルデの手が捉え
た。
「そういうこと、言うわけ？」
もともとの背が高いところへ、８センチのヒールだ。かんたんに首を捉えて、キスをしてきた。こ
の女（ひと）との間にそんな関係があったことはない。純然たるイヤガラセだ。
「おいッ！」
こんな人目のあるところで。振り払って、アバッキオは辺りを窺った。あからさまに皆、見ていな
かったふりをする。一応ビジネスクラスだが、上等のホテルだ。この辺りはグリマルディーニのシマ
で、街の衆に見られることはないが。
「そんな恐いの？ その姐御」と、マティルデはせせら笑った。
「かたぎにはそんなムチャはやらないが……」アバッキオが絡むと、どうなるか。
……そういえば、焼き餅を焼かれたことなんか、なかったかも知れないな。
一瞬弱気が萌すのを、胸を張って追いやった。
マティルデを振り切って帰ると、空腹を堪えかねたミスタとナランチャが、なんとかパスタを作っ
て食べたらしかった。キッチンは荒らされ放題だった。心配していた魚は、「魚→ブチャラティが喜
ぶ→ダメにするとアバッキオが怖い」という関係を正しく導き出せたようで、細心の注意を払って冷
蔵庫に保管されていた。これは翌日に回すことにした。
「あー、んー、とりあえず腹はふくれてるから、なんか摘むもん程度でいーぜ」と、恩に着せるふう
はないミスタに怒鳴り散らすこともできなかった。
とりあえず忌々しい思いをカッティング・ボードにぶつけて、アバッキオは遅れに遅れた夕食の支
度に取りかかった。ブチャラティは、ボスから各支部へ早いうちに対応するよう言ってきた案件のこ
とで夕食どころではなかったので、賄いが数時間行方不明になっていたことから知らなかったようだっ
た。
買い物の荷物とともに、アバッキオ本人がグリマルディーニのところの客に拉致されたとまでナラン
チャとミスタには伝わっているようだ。なにより大事な夕食が遅れたというのに、たいした不平不満
は言ってこない。どこ行ってたんだよ、なにやってたんだよという正当な質問も、彼らは控えている
ようだ。
ブチャラティに余計な心配を掛けまいとしているらしい。
今はフーゴも留守だから。何か起きたら仲裁役がいないのでは大事になるかも知れない。
傍若無人に振る舞っているようでいろいろ細かい心配りをしてくれている二人を見直す気持ちになっ
たアバッキオだった。
……あとでちゃんと説明するからな……。
携帯は出張中のフーゴが文句をタラタラいいながら手配してくれたらしい。もし、これをやったの
がミスタやナランチャなら、フーゴが出張中なのに余計な手間を掛けさせるなとガミガミ言ったのは
自分だろうと思うと、情けなさが身にしみた。
４
翌日の昼前には、グリマルディーニから使いが来て、
「昨日のお客人が、あんたに繋いでくれと仰せなので。大事な用で来て貰ってるんで、ご機嫌を損ね
ないように、お願いします」と声を低くしてアバッキオを呼び出した。
「食事時は困るって言ったろッ！」
それでも呼び出されたら断れない。絶対服従が身に叩き込まれている。突っ込まれるのが怖いので、
化粧は落してきた。
「だから早めに言ってやったじゃないの。支度だけはして出てこられたでしょ？」
「ああッ」
「じゃあ、ランチつきあいなさいよ」と、恐るべき押しの強さである。
「あんた、昼飯を一緒に食う相手もいないのか？」
それでも、もう二十歳を過ぎてこれくらいの口は利けるようになった。
「もう３日もあのうちに缶詰でインストールなのよッ！ いくら昼は外出できるからって、気が滅入っ
てしょうがないわ！ せめてあんたの顔っていう潤いがないとやってられない！」
「ユーザーさんのうちにはあんたの好みの男はいないのか？」と、せっかくの機会に、アバッキオは
情報収集の真似事をする。マティルデはコンピュータ技術者だ。グリマルディーニはとうとう他地区
に先んじて支部内のＩＴ化に踏み切ったらしい。
「番頭が結構好みかしら。でも、たまにしか顔を見せないわ。毎日顔を出していろいろ細かくチェッ
クを入れてくるのがそこんちのお坊ちゃんだかなんだか知らないけど生意気なクソガキで！ ほんと、
いちいち細かくてイヤになっちゃう！ オトナの仕事に首突っ込むんじゃないわよ！
『オルシーニさん、こことここはほとんど同じ処理なんですから、サブ・モジュール化して外へ出し
た方が効率的なんじゃないでしょうか？』なんて、聞きかじった構造化プログラミングかなんかの知
識出してきて！ ああ、うるさいったらないわ！
それが、一緒に検収試験やってる事務方のひとたちがその坊やに絶対服従で！ 追い出せって言っ
てもこっちの言うこと聞きやしないんだって！ もームカツク！」
「……マティルデ、あんたの仕事って守秘義務ないのか？」
ネタを振っておいてなんだが、機関銃のようにまくし立てるのにアバッキオは腰が引ける。
「あるわよ。だからって、人間なんだから仕事やってる間にいろいろ堪るもんはあるわよッ！ あん
た、他言無用よ？」
「ああ、おれについてはそれは安心してくれていいが……」こんなに大きな声でしゃべっていて、大
丈夫なのかとアバッキオは思う。
「ちょっとした商売って言ってるけど、あのうちなんかヤバイわ。あっち方面かも知れない。別に、
データの中身を見たって訳じゃないけど、家の中の雰囲気がね。どういう職種なのかわかんない若い
のがいつもウロウロしているし。あんたみたいなのに面識のある若いのはいるし」
それは優れた洞察力だ。グリマルディーニは昔からの地方組織だから、表向きの不動産会社やらふ
つうの商事会社などを持っている。その陰で、マフィアとしての仕事を行う組織を作りあげているの
だ。
「ファイルのセキュリティも厳重にって依頼だし。なにを商ってるんだか。あんたも気をつけなさい
よ？ 関わり合いにならないように」
「ああ、やつらは川のこっちの、いい街が縄張りだから」
「あんたは？」
「おれの彼女は、川の向こう側の、下町のひとだよ」
「ふうん……やっぱ逢わせなさいよ」
「昨日みたいないたずらするんじゃちょっとな」
アバッキオは憮然とする。
「じゃあ、どんな感じかだけでも」
ナイフとフォークを使いながら、眼を輝かせてマティルデは質問を浴びせてきた。
「幾つ？ 美人？ なにやってるひと……？」
……なんでひとの色恋の話は女を元気にさせるんだろう。
「ここの勘定はあたしが持つから。じゃあ、明日もこの時間にここに来なさいよ？」
洗いざらいしゃべらせておいて、ご機嫌で伝票を取ってマティルデは立ち上がった。
「それか、もっと美味しいランチ食べさせる店があるなら調べといて」
「知らねぇよッ」
仲間に作り置きのものを食べさせておいて、自分だけいいものを食べたのでアバッキオは後ろめた
い。
「レオーネ」
察したのか、マティルデがまた眼を細めた。
「なんだよ！？」
「腰が引けてる」
実際そうだったので、アバッキオは心底へこんだ。マティルデは独特な香水を付けているので、あ
まり近くによると移り香がしてブチャラティに心配を掛けないか気がかりなのだ。
せっかくのホテル・ランチも胃にもたれるだけの色男だった。
５
忙しいブチャラティは、結局３日目になるまで気がつかなかった。化粧をしなくなったのも、ちょっ
と脅し過ぎたかと思っていて。この日はアバッキオに午前中、別の用事が立て込んでいたので事前に
支度ができなくて苛ついていたのを、お互いのためにミスタが、
「たまには外で食うよ。気にしないで行ってこいや」と送り出していた。
「今日もか……なにかわたしはアバッキオの機嫌を損ねるようなことをしたかな？」
正午だというのに何も載っていない食卓を見て、ブチャティは首を傾げて見せた。まだ、微笑んで
はいる。まさか、化粧をやめろと言ったせいじゃないだろうなと冗談のように思っていて。
「まさかぁ」
ナランチャが短く否定した。
「あれだろ？ フェデリコ市場の噴水におっこちて以来だから、ウンベルトのおっかさんがお詫びに
昼ご馳走してくれてるとかじゃねーの？」と、ミスタが穏便に穏便にと推理を披露する。
「３日もか？ それに、アバッキオに食事時に出られるとこっちが困るのを知っていてわざわざ誘う
か？」
ブチャラティは無意識に顎に手を当てた。
フーゴがいたら、特に頼まなくてもチームのみんなの所在はだいたい掴んでいて、
……今日はいつもの雑誌が出る日だから本屋にでも寄ってるんでしょう。
……３ヶ月越しで口説いてた彼女とデートだって、先週から浮かれてました。
……もしかして、アンナさんに捕まってるかも知れません、あんたがこの前彼女がお裾分けしてく
れたカボチャのプリンを褒めたから。自分でも作ってみるつもりかも、などと見当を付けてくれる。
そしてそれはだいたいのところ当たっているのだ。
じつのところ、ちょっと外聞をはばかる場所だったりするとアリバイを作ってやって地味に恩を売っ
ているのもこの天才児なのだが。その辺はブチャラティも追求しないでいる。
「でも、どーしても断れない用事だよな。女とかじゃーねーよ」と、ナランチャが言った。
「解るのかよ」と、ミスタが笑う。
「解るよ。ブチャラティにムチャ言われて、嬉しいんだけど困ったーってときは、どんな顔したらわ
かんなくってしょうがなく怒った振りとかしてるけど、今日とかはホントに泣きそうな怒り顔だった
じゃん。迷惑なんだけど断れねーんだよ」と、澄んだ眼でナランチャは言った。
「へー」
ミスタは感心する。
「じゃあ、やつのことは今晩ゆっくり締め上げることにして、昨日一昨日と冷たいものを食べさせた
詫びにわたしが今日は奢ろう」
微笑みを浮かべて、チーム・リーダーは提案した。
「やったー！」と、ナランチャが満面に笑みを浮かべる。
「どこ行く？」
ミスタも、雑誌を放り出して生き生きした表情になる。
「ちょっと歩くけど、タルティーニがなんかすげえ薦めてた店があるぜ」と、肩にはやばやとピスト
ルズを出して留まらせている。
「今からだと丁度空いてきた時間になるよ」と、ナランチャが掛け時計を見上げた。
「じゃあ、そこにしようか」
皆が気分を盛り上げてくれようとしているのが解るので、ブチャラティも、笑って出かける支度を
した。
６
「なんか、ちょっといい店があるんだって。そのお客さんのところの番頭が教えてくれたから、今日
はそこ行こう」と、逢うなりマティルデは提案した。
「マティルデ、なあ、あんたいつまでかかるんだ？ この仕事」
ミスタには借りができてしまった。アバッキオは真剣に困った顔になっている。
「今週中には上がる予定なんだけど。あのいまいましいクソガキが邪魔しなきゃね」
「できれば明日からは一人で食ってくれ。……会社からは何人付いてきてるんだ？」
「５人で来てるけど。あたしの次席で来てる奴がまたいけ好かないやつで、一緒に空気吸ってるのも
イヤなんだって。お願い、レオーネ。あたしにあと１２時間働く活力を分けてよ」と、珍しく下手に
出てくる。
「おれと飯食ってそんなもんが出るのかよ……
夜中の１２時まで働くのか？ コンピュータ技術者ってのは」
今更気づいたように、アバッキオはその疲れの目立つ目元や頬の辺りに眼をやる。
「だから、せめて８時上がり、あとはネアポリスの夜を楽しむつもりでスケジュール組んできてるっ
てのに、そのボーヤがいちいち邪魔するから時間がかかるんだって！」
「同情するよ」
と、歩いていくと、そのリストランテにたどり着いた。予約しておいたらしく、マティルデが名を
告げると、
「もうお着きでございます」と案内係が恭しく囁いた。
「誰と待ち合わせだ？」
アバッキオは身構えた。
「パパよ」と、言うときにはマティルデは既に腕をしっかり捉えている。
「マティルデ！」
逃げかけて失敗したもと不良警官はすっかり青ざめている。
「何言ってるの！ おばさんを呼ばなかっただけ感謝しなさい！
……単に前からパパとは一度逢う約束だったのよ。あたしだってふだんローマに行ったきりなんで
すからね、せっかく近くまで来たんだから……」と、絶対者に見据えられ、アバッキオはしおしおと
従った。
「なんて格好だ！ レオーネ！」
ビヤ樽のような体格の年上の近親者に叱りつけられ、アバッキオは頭を垂れた。
「おじさん、お久しぶりです」
「クリスタが怒っているのはな、おまえが賄賂を取って汚職警官になったことでも、おまえのせいで
先輩を死なせたことでもない！ そんなことは、このご時世、警官をやってりゃ多かれ少なかれ誰で
も経験することだ。子供みたいにきれい事しか見てこなかったマヌケなおまえには予想できなかった
かも知れないがな。おまえのオフクロさんは、ちゃーんとお見通しだったんだよ。
クリスタが許せないのは、たかがそれくらいのことで、子供の頃から夢だった警官って職を、１年
も保たないで辞めちまったことだよ！ せっかく試験にも受かったってのに、何をやってるんだ。
人間、生きていくってことは、どうにもならない重荷を背負って、泥にまみれてそれでも歯を食い
しばってそこで堪えることなんだよ。子供の頃に話して聞かせただろうがよ？ この世の果てには、
アトラスという大男がいて、たった一人で天を支えているんだって。普段は誰もそのことを気に掛け
ないが、その男にしかできない大切な仕事だ。それが、男の仕事ってもんだ。
それを、ほんの入り口でつまづいたぐらいで、地上の苦悩を一人で背負ったような気になって、バ
カ野郎が。
それで、なんだ、おまえは帰ってきたいのか？ ここで何かの仕事にありついたんじゃないのか？
その仕事もまた、親に言えない仕事だからって捨てて逃げ帰るのか？」
「おじさん、違います！」
大人しく頭を垂れていたアバッキオが、瞬時に眼を光らせて口を開いた。
「パパ」
マティルデが間に入る。
「偶然見つけて声を掛けたのよ。おばさんも心配しているようだから、ちょっと今何をしているかだ
けでも知らせてって。もう、レオーネは大丈夫みたいよ。ね？」
ああ、このひとは子供の頃からそうだった。いつもは大人ぶって、自分やイトコたちをまとめて手
下にしていたが、大人達が頭から彼らを叱りつけると、前に立って彼らを庇ってくれた。
「ありがとう、マティルデ。
おじさん、逃げて帰ろうなんて、思ってません。今は、この街で、小さいけれどおれの場所があるん
です。晴れがましい仕事じゃないけど、おれにしかできないことが」
眼を見て、背筋を伸ばして、一度転落した男は、一族の年長者にはっきりと宣言していた。
「ふん。ならいい。クリスタにはおれから言っておく」
「もういいひともいるんだしね」と、マティルデがいたずらっぽく笑って付け足した。
「なに、そうか？ 美人なのか？」と、そこはイタリア男で、すかさず眼を輝かせて乗ってくる。
「……そりゃもう」
「眼のきれいな女か？ 胸のでかい女か？ それとも尻の？ 脚のきれいな女って線もあるな」
「眼も、胸も、尻も脚もきれいだが、なんといっても心がきれいだ」と真顔で言うのに、
「ねーえパパ、これですもん」と、マティルデが首を振ってみせる。
「おまえそれは褒めるところのない女に言う言葉だぞ」
「いやほんとうにそうなんだって」
食卓の和んだ様子に、ようやっと最初の皿が運ばれてきた……。
……というテーブルを傍から見ると。
「いやーなんかいいカンジ。きれーなねーちゃんとその親だよなーあれ。
なんだこんなにやけた野郎は！？ うちの娘と交際したいって、冗談じゃないッ！
待ってパパ、このひと、根はいいひとなのよ。ね？
おれはたしかに道を間違いましたが、このひとに出会って生まれ変わったんです！ これからまた
まともな道に戻ります！ どうか交際を許してください！
おお、そうかね？ うちの娘と恋に落ちて正しき道に目覚めたかね？ そうだろうそうだろう。
ええ、お嬢さんの美しさは正義の鏡のようです……」と、ミスタが声色まで使って勝手に芝居仕立
てに話を作った。
「ちょ、ミスタそれやばいって！ ジョーダンキツイ……」とナランチャがおろおろする。
「……誰が引きが強いのかなぁ。ここはやっぱり当事者のわたしだろうか」
とぼけた口調ながら、ブチャラティの視線が揺るがないのを見て、ナランチャが真っ先に逃げ出し
た。店の外へ出て、携帯を使う。
「フーゴッ！ 一大事だ！ 助けてくれよーッ」
「ナランチャ、今回のはうちの支部の根っこに関わる重大な出張で、そうそう連絡してくるなってブ
チャラティも言ってたじゃないですか」
口では迷惑そうにしながらも、よその家に出張って神経の参る仕事に疲れていた天才児は、すぐに
先を促した。
「だって、ブチャラティが、アバッキオが飯の支度ほっぽらかして女と逢ってるところ目の辺りにし
て、……『アルジンヌ』！ タルティーニがこないだソースといい酒の揃い具合といい店の雰囲気と
いい、堪んねえって言ってたリストランテ！ おまえが食べに来る前に崩壊しちまうぜ！」
「はぁ？ アバッキオが浮気？ ありえません。きみも浮かれてたとかは思わなかったんでしょ？
どういうひとなんです？」
見たままを告げると、灰色の脳細胞をしたポワロの弟子は、長くため息を吐いた後で言った。
「この夏、アバッキオの偽物が出たとき言ってませんでした？ せっかく個人情報を曝してくれたん
だから、２度は言わせないように覚えておいてやらないと。
背が高くて、色の薄い真っ直ぐな金髪で、目のいろも薄いんでしょう？
眼つきは偉そうで、額には縦皺が寄っていて、いつ見ても機嫌が悪そうな。……ああ、なんかぼく
そのひとに見覚えがあるような気がします。
だから、もうお嫁に行っていておかしくない年頃の！ ひとが聞いて意外に思わない程度にはアバッ
キオに似ている！
あのアバッキオが絶対服従で。年は上に見えるんでしょう？ 下半身の面倒って、おむつのことで
しょ？ ちょっと意地悪なものいいをする女性なら絶対ネタに使いますよそれくらい！
イトコさんなんじゃないですか？」
７
「マティルデ。従姉だ。……と、フィリッポおじさん。オフクロの、妹の旦那だ」
場の異様な雰囲気に、アバッキオは訳も解らずあっさりと紹介した。
……なんか、地響き聞こえねーか？ 周りの客避難させた方がよくね？
……ああ、ゴゴゴ……っての、聞こえるよな。スタンド使いにしか聞こえねえってこと、ねえよな？
フーゴの推理を聞いて席に駆け戻ったナランチャが、ミスタと囁き交わした。
「あら？ こちらがその眼も胸もお尻も脚もおまけに心がサイコーにきれいな姐御？ 若いのね。高
校生かと思ったわ」と、席を立ったマティルデが顎を挙げて言い放った。
「マティルデ？ おい、ケンカを売るなよ」と、アバッキオが狼狽える。
無駄にケンカを売ってくる美人には慣れているブチャラティは、かたぎさんに構ってもしょうがな
い、とばかりに少し微笑んで受け流す。
「話が大きくなってるのかも知れませんが。アバッキオを今うちで預かっています。ブチャラティで
す」
「レオーネは図体ばっかりでかくて顔だけはきれいだけど、ほんと気が小さくてクヨクヨ悩んでばっ
かりで。とても大それたことができるやつじゃないけど、お役に立てるのかしら？」
「それはもう。細かいところによく気がついて、ささいなことも少しもおろそかにしないし。いざと
なったときの徹底した仕事ぶりは、いつも尊敬してるんですよ」
にこやかに応じながらも、コントラバスの通奏低音のような胸を締め付けてくる音はやまない。
知らず、ミスタとナランチャは手を取り合っていた。
「ふん。
どうぞお席に。食事にいらしたんでしょう？」
浮気の現場に乗り込んだつもりなら、ザンネンでしたーというイヤガラセをたっぷり込めている。
「ええもちろん。どうぞそちら様も久し振りのご親戚の語らいを楽しまれて」
まったく悪意を無視し尽くして、ブチャラティは笑顔で背を向けた。
「従姉だぞ、ホントに従姉なんだって。年はおれより６つか７つ上で、ローマでシステムの仕事して
たのが結婚して、離婚して。今仕事でこっちに来てるんだって。それがすげえ偶然……」
食事の後、外で待っていたアバッキオは、ブチャラティを追いかけて、右に顔を出したり、左に立っ
て他の人間を遮ったりしながら、立て続けに言い訳する。
「ムキにならなくたって見れば判った」
ブチャラティは、いつもの感情を窺わせない声で言った。
「そうか？」
「見れば一目瞭然のところを隠すからいろいろ勘ぐられるんだ、バカ」
「一目瞭然か？」
「当然。なにか？ わたしがかたぎさん相手によそのシマで取り乱してなにか暴れるとでも思ったの
か？ 見くびられたものだな」
……だって、じゃああの地響きはなんなんだよ？
黙って従いながら、ナランチャとミスタは心中突っ込んだが、
「あ、ああそうだな。あんたは冷静だよな」と、素で納得するアバッキオになんだかつまらないもの
を感じたのか、信号待ちで急停止したブチャラティは、黙ってその頬をつねりあげた。
「解るんだからな。嘘吐いても。ホントなんだからな」
その意図するものが解らないなりに、アバッキオは黙ってされるままになっていた。
……な、舐めるかと思ったーぁ！
後ろで無駄に消耗しているミスタとナランチャだった。
８
さて、とんでもないランチを終えて仕事先に戻ったマティルデは、詰所にしている客間に呼び出さ
れた。
「ピラミッドとか、大切な宝物を納める王家の墳墓を作った後は、盗掘を防ぐためにどうするか聞い
たことありますか？ オルシーニさん」
生意気なオッタービオ坊ちゃんが、プログラム・ソースのシートをめくりながら話を振ってきた。
「工事を請け負った工人達を殺して口封じ、ですね。でも、それは建設後にメンテの要らない土木の
お話。あたし達をここで殺すと、メンテナンスができなくて困るのはお客様ですよ」
負けるか、とマティルデは胃の前に手を置いて庇いながら笑顔を作った。
「そのためにぼくが延々立ち会って、ある程度のことは解るようにしてきたんですけど。ぼくだって
ちゃんと仕事があるってのに、こんなに長い間缶詰になって。ホント迷惑したんですから」と、どう
見てもまだ高校生なのに、生意気なことったら。
「あら。これでも大車輪で務めさせていただきましたけど？ 余計な足を引っ張る子供がうろちょろ
しなかったらもう１日は早く上がってましたわ、きっと」と、マティルデは眼を光らせた。
「じゃあ、お聞かせ願えますか？
一週間に一度、夜にプログラムを走らせるのはどういった目的ですか？」
「ご説明したと思いますけど？ 大切なファイルのバックアップを取って、不測の事態に備えるため
です」
「その大切なファイルというのはどこで判断するんです？ アクセスの頻度ですか？ アクセスした
人間の階級？」
「大切なというのは、この場合はシステム全体にかかります。お客様を大切に思っているというわた
くしどもの心がそう言わせているのであって、特定のファイルのことを表わしているのではございま
せん」
「では、このプログラムの目的を教えてください。仕様書が見つからなくて。ソース・シートも納品
されていなかったので、こちらからファイルを開けて勝手に打ち出したんですけど」と、オッタービ
オと名乗っている天使のような顔の少年が、青い眼を長い前髪の奥からきらめかせて言った。
「そんなプログラムがありましたか？」
手に取ったソース・シートは恐るべき内容だった……。
「週に一度、上位アクセス権者の触ったファイルの内容をコピーして、暗号化して電話回線を通じて
うちの外へ送信するようになってますね？ この先はどこだろうな？ おたくのデータベースですか？
こういうサーヴィス、お願いしてましたっけ？」
「まさか！」
マティルデは青ざめた。申し開きのしようもないスパイ・ウエアだ。
「データのセキュリティは厳重にって、お願いしてましたよね？」
アームチェアに脚を組んで、美少年のシステム統括者は笑った。
「直ちにプログラムを全部検めさせていただきます！」
「それと、挙動不審な部下の方をひとりお預かりしてるけど、事情は警察でしゃべって貰った方がい
いですか？ うちにもちょっとそういう『保安部』がいますけど。
タルティーニさん、どうぞ」と、ドアの外に声を掛けると、『番頭』が、彼女の次席を拘束して入っ
てきた。
「『坊ちゃん』、吐きましたぜ。こいつ、どこでもこういう小細工をやってるんで、とくに対抗……
『会社』の息がかかってるってことはなさそうです」
「おや、うちの『保安部』は早手回しだ。どうします？ 警察とはあんまり仲が良くないんですよ、
ぼくんち」
「彼の処分は、こちらにお任せを。ただちに作業に取りかからせて戴きます」
完全に負けを認めたコンピュータ技術者は、震えながら言葉を絞り出した。
「ええ、お願いします。ヘンな真似をなさると、うちから出られなくなりますよ。一生」
にっこりと笑って、『オッタービオ坊ちゃん』は席を立った。
それからの活躍で全てのプログラムを洗い、自供を待たずにさらに２，３のスパイ・ウエアを検出
し、冷や汗しとどになりながらそれらを削除して再度の検収試験を終え、なんとか期日にシステム管
理者のサインをもらうまでにこぎ着けたのはオッタービオも感心した。
「じゃあ、おじいさまにサインを戴いてきます」と、スーツの裾を翻してオッタービオが部屋を出て
行って、マティルデは肩の荷を下ろしたつもりになって軽い気持ちで背後の若い「社員」に声を掛け
た。
「それではそのマシンを落してくださって結構です」
その「社員」は、妙に間延びした声で応じた。
「ええっ、これ、ここから落しちゃっていいんですか？ 配線とか繋がってますけど？」
一緒に検収テストをやっていた事務方の社員ではないようだが、緊張の糸が切れていたマティルデ
は、つい深く考えずに返事をした。
「ええどうぞ。もう大丈夫です」
「あ、おれやります。よいしょっと。コンピュータって、もっと精密機械だと思ってました。最後に
こんな試験もするんですね」
……こんな試験……？
いやな予感がして振り返って見たそののんきな若いのは、手を伸ばしてせっかく設置したこのうち
のサーヴァーの本体をラックから引きずり出して、物理的に、床に投げ落していた……。
「お客様ッ！？」
「ロベルトォ〜〜〜〜ッ！？」
魂（たま）ぎる悲鳴が上がった。
「なんでこいつがここに紛れ込んでるんだよッ！」
「撤収のお手伝いをするようにってタルティーニさんのご指示で」
「触るなッ！ サーヴィスの方に任すんだ！」
呆然と立ちつくすマティルデたちの前で、事務方と雑用との間で短いやりとりがあった。
「す、すいません、あいつはまったく触ったこともなくって」
泥人形のように固まったまま、一連の動作を見守ってしまっていた事務方の職員のリーダーが冷や
汗をかきながら言った。
「基本的な用語もご理解いただけてなかったんですね。こちらも気がつきませんで」
全くの棒読みな台詞をマティルデが吐き出した。
「あの、……直りますよね？」
「それをただいま調査中です。ハードディスクが破損していなければ、インストールしたプログラム
類は大丈夫かと思いますが、最悪、検収のやり直しはあり得るかと」
「検収書類はまだお渡ししてませんから、追加で料金は発生しないかと思うんですけど」 腰は低い
が、さすが事務方、契約関係はきっちり締めてきた。
書類を手に戻ってきていたオッタービオは、自分のいない間の成り行きを耳元で説明され、引きつっ
た笑顔を浮かべた。
「これは残念。もうしばらくお付き合いをすることになりますね。それとも、もう心が折れてしまわ
れた？」
ジャコモ・グリマルディーニとサインの入った書類は、用心深く後ろ手に隠した。
「とんでもない！ もちろん３月２０日までのお約束ですから、本日中にお引き渡し致しますわ！」
横目で戸棚に飾ってある装飾過多の時計を見やる。まだ午前中だ。あと１０，いや１１時間取れる……。
「できないことをできると仰ると、あとあと苦労なさいますよ？ ご承知かも知れませんが、うちは
警察とはあんまり仲が良くない業種なんです。でも、約束はとても大切にする……」
前髪の奥の目のいろが深くなる。さすが、生まれついてのマフィアの御曹司、とマティルデは一目
置く気持ちが芽生える……。しかし、負けられない。スパイ・ウエアはこちらの社員の管理不行き届
きだが、検収の最後にハードを物理的に壊すというのは客側の落ち度だ。ここで恩を売って失地を取
り戻しておかないと、この「業種」の客では永遠にしゃぶり尽くされる。
「世間の波に揉まれたこともないガキがッ！ 口の利き方に気をお付けッ！ デス・マーチの１度や
２度経験しないシステム技術者なんて危なっかしくて使えやしないわよッ！
大の男でも三日で人相の変わる修羅場を経てこの仕事は一人前になるんですからねッ！
あんたたちッ！ 明日の帰りの高速鉄道の切符はもう取ってあるんだからねッ！ 気合い入れてい
くよッ！」
とうとう客に対する礼儀をかなぐり捨てて、マティルデ・オルシーニは咆吼した。
あっけにとられたオッタービオは、一瞬のちにニヤリと笑うと、彼らを監視するために席に着いた……。
９
多少の筐体のへこみと傷は原因が客側にあると言うことで我慢させると、ハードディスクの方は幸
いたいした障害がなかった。通り一遍の動作テストでなんとか再度の検収を通し、もともと予定され
ていた打ち上げの晩餐会が定刻で行われた。危機を乗り切ってすっかり意気投合した下っ端同士は、
熱い握手を交わしてお互いの健闘を讃えあっている。
食事の後は、酒の席になって、未成年のオッタービオは自分の部屋に引き取った。と、そのドアが
叩かれた。
「オルシーニさんが、坊ちゃんにご用がおありだそうで」
べつにぼくのほうはないんですが、と口の中で呟きながら顔を出すと、頬を上気させた彼のよく知
る男によく似たキャリア女性が挑むような目をして立っていた。
……やられっぱなしは性に合わないんだ。
と、言ったかどうか。
「お坊ちゃんはさすが。プログラム言語を少しかじったぐらいで、あれだけの規模のシステムからス
パイ・ウエアを見つけ出すなんて、ふつうありえませんわ」
「このうちの基礎に関わるシステムなんで。本当はよその人間を入れたくないんですが、さすがにコン
ピュータはそうもいかなくて。しかたなく一夜漬けしたんですよ」
「まあ、ご謙遜！ でも、ある程度はご自分で見られた方が、今後も心配がなくていいでしょう？」
「メンテナンス契約は結んでたと思うんですが、もうこんな恐ろしいうちには来たくないと？」
「それは、お互い、今後顔を合わせる機会が少ないに越したことはないでしょう？」
お互い答えたくない質問には、逆質問で返す。交渉術のＡＢＣだ。
「はっきりものを仰る方だ」
オッタービオの方が、先に譲った。
「教えて差し上げましょう。今夜一晩で。お坊ちゃんほどの素質があれば、ある程度のシステム管理
者にはすぐなれます」
いちいちローマからひとを呼びつける手間と金、またしても余計なものをくっつけられないかとい
う監視の手間を考え、そして、天才児としてのプライドをくすぐられてオッタービオはマティルデの
申し出を呑んだ……。
ローマから来ていたバツ１の、一応美人のうちには入る２０代後半のコンピュータ技術者の女性が、
打ち上げの夜に坊ちゃんの部屋を訪れて、一晩出てこなかったという噂は、密かにグリマルディーニ
の家で語り継がれた……。
１０
その翌朝、徹夜明けの美少年は下町の中心から少し外れた小さな家を訪れていた。もとはちょっと
したリストランテ。今はこの街を締めるマフィアのチームがアジトにしている……。
「おう、お疲れ、『オッタービオ坊ちゃん』。着替えてから来れば良かったのに」
どさり、という彼には珍しい音を立てて椅子に掛けたのを見に来て、アバッキオが笑った。昨日ま
での仕立ての良いお坊ちゃんスーツのままアジトに顔を出したのだ。
「アバッキオ、あんたのイトコさんって、心底サディストですね。おまけにタフだ」
ネクタイを緩めて襟元を開けたフーゴは、お茶貰えますかと赤い目を瞬いた。
「ああ、今日帰ったのか」
「１０時の高速新線で。お互い当分顔合わせなくていいようにって、システム管理者の突っ込んだ研
修受けさせられましたよ。一晩中！」
「見込まれたな、フーゴ」
「ああ、フーゴ、話はグリマルディーニさんから聞いた。よく務めてくれた！ 一週間も！ 寂しかっ
たぞ」と、オフィスから飛び出てきたブチャラティはややサーヴィス過剰に言って、おおげさに胸に
抱いてその頭をぐりぐり撫でてやる。
「おれも！ アバッキオはヘンだしさー。電話も禁止って、どんな缶詰だったんだよ？」
ナランチャがふて腐れる。
「おかげでスパイ・ウエアをくっつけられることは防ぎましたから。ホント、我ながら上出来でした。
当分プログラムは見たくないです」と、フーゴは目を押さえた。
「なんか今夜は好きなもん作ってやるよ。おまえ、特に嫌いなもんもねえけど好きなもんも言わなくっ
て。ワガママ言っていいんだぞ？」
アバッキオは仲間はずれだった天才児に気を遣う。
「いえ、いいです」と、フーゴはかぶりを振った。
「とりあえず、ブルーベリー。フーゴがプログラム勉強するんで出張してるって言ったら、市場のお
かみさんが、目にはこれだってさ」と、用意してあったボウルをアバッキオは差し出した。
「ありがとうございます」
疲れた顔に微笑みを浮かべて、フーゴは手を伸ばした。
「『オッタービオ坊ちゃん』って、なによ？ そのカッコ！ 最初迷子でも紛れ込んだかと思ったぜ」
見慣れないお坊ちゃん服をいたずらしながら、ナランチャが尋ねる。
「グリマルディーニさんのところの、赤ん坊の頃に死んだ孫の名前です。丁度年回りが近いらしくっ
て。向こうに詰めっきりになるし、子供のぼくにそんなに権限があるのはちょっと見、おかしいからっ
て、グリマルディーニさんと相談して」
「うちに入れてもいいんだが、こんな下町に大規模なネットの設備ってのも不審に思われるし、回線
とかのことも考えると、もともと商売もやってるグリマルディーニさんのオフィスの方が都合が良くっ
てな」と、ブチャラティが種明かしした。
「ぶっちゃけ向こうのじーさんがフーゴを気に入ってるってことだろ？」
フーゴ好みに濃いめに出した紅茶をサーヴしてミスタが横から口を出した。
「それもある」と、ブ
チャラティが微笑む。
「この業界で生き延びてきたひとですし、ただのお年寄りじゃない深みがあって、お話しを聞くのも
興味深いですね」とフーゴが肯いた。
「って行儀良く相手してやるから懐かれるんだよ」と、ミスタがにかっと笑った。
「今日はオフで良かったんだぞ。まあ、ゆっくり休め」と、ブチャラティが言いおいてオフィスに籠
もった。ミスタとナランチャがパトロールに出ていった。
「ぼくだってね、………………つまんなかったですから」
小声で言って、フーゴは椅子に身を預けた。徹夜明けに。部屋に戻って着替える間も惜しんで。ま
っすぐ皆のいるアジトに顔を出したのはそういうわけ。
「……アバッキオ、あのね、キッシュ・ド・ロレーヌって解りますか？」
遠慮がちな声がさらに続いた。
「あァ？ 聞いたことはあるかな？ タルトみたいなあれだろ？」
「ええ。ケースはたぶんパイ生地で。炒めタマネギとたぶんベーコンに、卵液を注いで、チーズを載
せて焼くんだと思うんですけど……できます？ 買ったのでもいいんですけど。この辺はあんまりや
らないみたいで。うちのシェフが、得意で、たぶんかあさまの家の方の料理で……」
「そんだけ聞けば解った。ご期待通りに行くかわかんねぇけどな」
「お願いします……」
消え入りそうな声に、アバッキオは黙って肯いてやった。
「ねえ、それでぼくの目の加減でしょうか、あんた今日化粧がやけに濃くないですか？」
その言葉に、アバッキオは露骨に狼狽えた。
「あ、ああ、なんか２，３日前からな、あいつが……」
突然の方針変更にアバッキオも驚いたのだが。
「やっぱりおまえはバッチリ化粧をしていた方がいいな」と、彼の顔を捕まえるなり、目の周りにも
頬にもキツイ色を塗りたくった。
「あんたがそう言うならいいけど……」
恋人には逆らわない色男である。
「口紅を引かないで歩いただけで従姉さんを引っかけるんだもんな……虫除けだ。おまえの素顔はわ
たしだけが知っていればいい」
顔を背けて早口に言い捨てて行ったので、ブチャラティがどんな顔をして言ったのかは見られなかっ
たのだけれど。それをフーゴに告げるアバッキオは、身をもじもじとよじり倒して照れまくっていた。
「あーあ！ ぼくが孤軍奮闘してたってのに、これですか！？ 嫌になっちゃう……」
毒舌も尻すぼみになって、とうとう天才少年の緊張の糸が切れた様子に、アバッキオは頬を自然に
笑む形に動かして、毛布を取りに行った。
（０２−０７−０９）
蛇足。
「ねー今度はどんな話ー？」と娘に聞かれて、返事は、
「アバッキオの池ポチャ」
ただ落ちただけではすまないのでした。
その昔の「テディ・ベア」だったかな、お坊ちゃまのいつも七三でガッチリビジネスマンスタイルで
固めてるお付きのにーさんが、トニックを切らして、おまけに顔を覆うグラサンも割られちゃって、
仕方なく髪を流して素顔で歩いてたら、昔の不良仲間に見つかる、というネタをやってたので。昔な
じみに見つかるにはこれぐらいしないと、と。
今回登場の新キャラはドＳなアバッキオの従姉でした。単に、ブチャラティが焼き餅を焼いたらあ
のジョジョ名物のゴゴゴというＢＧＭ（ＳＥ？）が流れるというネタをやりたかっただけ。小説では
難しかったです。「理由」で出した「もう嫁にいった割と似ているイトコ」ネタの回収。ここ掘れば
うわう。
あ。マティルデが最終夜にフーゴとやってたのは本当にシステムのお勉強です。ええホント。
「お坊ちゃん」と何かに付けぶつかって終いには仕事場を飛び出してしまったオルシーニさんと、ま
だ子供なのに大人の仕事になにかと口を出してくるオッタービオ坊ちゃんと、それから導入したばっ
かのぴかぴかのマシンを床に投げ落とす新人のロベルト君と、困った客は一体誰でしょう？ という
お話。
グリマルディーニ老は、もともとディアボロが台頭する前からネアポリス一帯を仕切ってた地方マ
フィアで、先見の明があって、こりゃこいつについた方が無駄な血も流れないし、と早めにポルポ経
由でパッショーネ傘下に入った、という後付設定。いいの、どうせオリジナル・キャラだし。ポルポ
の配下は数人〜１０数人のチームに別れているっていうのを後で思い出してつじつま合わせをした結
果がこれ。
ポルポが死に、ディアボロが消え、ブチャも昇天し、結局年寄りが一番長生きした。彼も諸行無常
を噛みしめていることだろう。
ブチャラティの腹心としてよくグリマルディーニに出入りしているフーゴは、そちらでもある程度
受け入れられているだろうと妄想。
ジョルノ加入以降のことがなければ、じいさんはぼんくらな実子に見切りを付けてフーゴを養子に
とって後を任せるつもりがあったっぽい。
「パラレル」でも、やっぱりジョルノと出会ってしまって怒濤の９日間に突入、ほんの少しの留守の
つもりでグリマルディーニに預けられてそのまま両親を失って、アンジェラはグリマルディーニをお
じいちゃんと思って育って、１５になった年に（トリッシュみたいに美人で気が強くておまけにスタン
ド持ちで）、
「あんたのせいであたしの両親は亡くなった！ あの人達を踏み台にしてのうのうとマフィアのボス
に収まってるあんたを許せない！」とかいってボス・ジョルノの前に現れる……なんてことを妄想し
てたりして。そして「その朝」シリーズは、両親の話をせがまれてタルティーニとかがまとめた話、
というメタ（っていうの？）な設定とか……。妄想過多。
そろそろイタリアンな名前のストックが尽きてきて大変。
チェーザレ（カエサル）の息子がオッタービオ（オクタビアヌス）ってローマ皇帝繋がりのネーミン
グは我ながら上手く言ったと思ってるけど（偶然）。
おまけ
「幾つ？ 美人？ なにやってるひと……？」
来たか、とアバッキオは観念した。
「年は、おれと同じと言ってた。二十歳。もちろん美人だ。おれの主観的なもんじゃなく、町一番の
美人だ。警察にいた頃から有名で、あいつが道を通るのがみんな張り番やってる時の楽しみだった。
髪は額縁みたいなブルネットで、顎までのボブにして小さな顔を縁取ってる。背はおれより一回り
小さくて、丁度この腕の中に抱き込める。神様があつらえてくださったみたいに丁度いいんだ。
目の色はネアポリスの海の色。それを、びっしり生えたまつげが縁取ってる。鼻は、小癪に尖って
る。唇はぽってりしてるかな。軟らかくて。舌はびっくりするぐらいよく動く！ ホント、小さいこ
ろから大人の中で苦労しただけあって頭の回転が速くてひとを動かすうまい言葉がすぐに紡ぎ出せるん
だ……」
……このコ、こんなによくしゃべる子だったかしら？
少し話し出せば、堰を切ってそのきれいな恋人について話し尽くそうとする従弟の頬を緩め切った
姿に、マティルデは舌を巻いた。
「デザートだぜ？ マティルデ」
自分を拾ってくれた極上の美人の恋人がいかに自分を大切に想ってくれているかについて熱く語り
きったアバッキオはいぶかしげに皿を勧めたが、
「あんた食べなさいよ。もうお腹いっぱい」
その従姉はすっかりあてられて食欲をなくしていた。