お煙草はこちらで
その朝（７５）
風呂上がりの親友はゴキゲンだ。ちょっと軽いアルコールを入れて、彼女用のバスロー
ブ姿でゆったりとアームチェアに身を沈めた。
「ああ、貰うぞ」
一言断って、側のテーブルのシガレットケースに手を伸ばす。
……おや。
最近はもうやめたと思ったのに。
サンドラは黙って火を点けてやった。そこは世界一古いサーヴィス業のプロだから。
「ポルポさんはなんて？」
親友が自分を訪れるのは、支部長への報告のあとと決まっている。サンドラは注意深く
話を向けた。
「ああ、喜んでくださったよ。これでコリオリの背後関係が分析できるって。実力行使は
もっと後になる……」
紫煙の行方を目で追いながら、そのポルポの秘蔵っ子は言った。
「すぐに出入りにはならないんだね？」
夜の蝶は重ねて尋ねる。
「ならないさ、大丈夫」
心配性だな、サンドラ、とフロラ・ブローノ・ブチャラティは笑って見せた。
まだ組織を脅かすまでには至っていないが、ネアポリスを狙ってきている新興勢力だ。
背後関係を正しく掴んで対応しなくてはならない。
イタリア南部最大の都市は、昔からマフィアに狙われてきた。ここ数十年は、表の商売
も堅調なグリマルディーニが巧く立ち回ってさまざまな小ギャング・グループをとりまと
めて表面を取り繕ってきていた。そして、イタリア全土を恐怖で支配する新興勢力パッショー
ネの台頭に正しく対応し、その傘下におさまることでうまく表向きの平和を維持してきた。
かれらが知る最近で一番の「出入り」は、親友、フロラ・ブローノ・ブチャラティがそ
の名を高からしめた２年前のシチリアの組織との抗争。親友の属していたチームは壊滅し、
下町とはいえ昼日中からアジトが襲撃されて廃墟にされた。支部長のポルポさえも残党に
屋敷を襲われ、側に侍っていたブチャラティにあやういところを救われるという羽目にな
り、責任を取るかたちで刑務所に入って身を守ることになった。
ネアポリスの市民として暴力抗争を恐れる気持ちを親友は察して配慮してくれたのかも
知れないが。
サンドラが案じているのは親友の身だったりする。
だって、おくてのブチャラティはやっと恋を実らせたところなのだから。
「どうなんだい？ 彼」
「ああ、結構使えるな」
ほんの少し唇を緩めて見せるのにサンドラはホッとする。
「奴は煙草もやらないらしい。ギャングになったんだからって今更吸い始めて、一口吸っ
て咳き込んだりするんだ」
「それは」
カワイイじゃないか、と言いさして、せっかく親友の惚れた相手をくさすことになって
は、とサンドラは言葉を切って様子を窺う。
「カワイイだろ？」
そこまで察して、ブチャラティも相好を崩して見せる。ああ、もう、ベタ惚れだ。サン
ドラはほんとに幸せな気持ちにして貰う。
「あんたはいつ覚えたんだっけ？」
「ここでだ、１５だったかな？ お手が付いたんだからっておまえが面白がって薦めてく
れたんじゃないか」
「おや、そうだったかい？」
「わるいことはみんなおまえが教えてくれたよ」
片眼をつぶってみせるのは、他の誰にもみせぬ顔。
「なんてことを。ひとのせいにして」と、その、恐ろしいネアポリスの下町のチームリー
ダーに、夜の蝶は拳を振り上げ、振りおろす。もちろん、リーダー様も打たれるままには
ならないで応戦し、女同士で遠慮のないふざけあいになる。
「艦長はそんなの許さないおひとだったからねえ」
「ああ」
……こらッ！ 娘ッ子がそんなもの、なんだ！？ やめろ！ 火の用心！
われ鐘のような声をブチャラティは懐かしく思い出す。
「なんか間違った過保護だったよね」
珍しく、懐かしむ顔をして見せたのにサンドラは胸を突かれながら言う。女らしい恰好
はさせなくて、でも、昔ながらの規範には厳しく従って。幹部候補生と言いながら、全然
「ギャングの女」らしい育て方じゃなかった。料理当番だってさせていたはずなのに、全
く身につかなかったのは一体どうしたことだろう？
「間違いってのはなんだ」
「だって」
艦長が、田舎に置いてきた娘とブチャラティを重ねて見ていたのは勘のいいものは気づ
いていた。こっそり積み立てを持ちかけられた地元銀行の営業とか、女同士しかできない
相談に乗ってやるよう頼まれた山の手のリーダーの恋人とか、もちろんサンドラ本人も、
仲良くしてやってくれとこっそり小遣いを貰ったり気配りして貰っていた。本人は気づい
ていないかも知れないが、余計なお世話の親心で、このやせっぽちの少女は危険な下町で
辛うじて平穏な少女時代を送ることができたのだった。
「ポルポさんだって、ダメだッて言ったんだろ？」
「ああ、ポルポさんは色気より食い気だから」
舌がバカになるから薦めない、そんなことを言われた気がする、とブチャラティは呟い
た。
……若い女の舌がニコチンの味だなんて、色消しだ、わたしは好かないな。さ、おいで。
そう言って、愉しげに唇をむさぼられたのだったっけ……。
そしてその頃は、ポルポの意向に背くことを何より恐れていたから、そのほんの一言で
恐れ入って、煙草に手も触れなくなってしまった……。
「いいじゃないか、たまにここで一本やるくらい」
ゆっくり、そう言ってブチャラティは煙草をふかしている。味を楽しむより、煙を目で
追うのが目的のようだ。
「しょうがないコだね」
サンドラは立ち上がった。親友をベッドに誘い、転がしておいて、その肌に保湿クリー
ムを塗り延ばしていく。
「親とか、固いことを言う先生とか、上司とか、そういうのがいないってことじゃないか？
女が煙草を楽しめるって。
……自由のシンボルだな」
そういうブチャラティの顔は、得意げだ。
「フロラ、恋人を忘れてる。あんたの彼も、女が煙草をやるの好きじゃないタイプかもよ？」
「おや、それは気がつかなかった」
ブチャラティはおどけたしぐさで残り少なくなていた煙草をもみ消した。
それからいろいろ女同士の会話をしながら身体の細々したメンテをして。
帰り支度をするブチャラティが、ほんの少し髪についた煙草の匂いを気にする様子を見
せたのに、日本からの直輸入のデオドラント・スプレイを吹き付けてやって、サンドラは
囁いた。
「……やっぱりあんたは、吸わない方がいいよ、似合わない」
「なんだ、そんなこと言って」
ブチャラティは窺うような顔になった。
「吸うなら、ここでだけにしな」
そんな、昔を懐かしむ後ろ向きの顔なんて、人に見せちゃいけない。これから、どんどん
出世して、幸せにもなるというのに。
「ああ、……解ったよ」
頭の固い恋人もいることだしな、そう笑って、ブチャラティは凛々しいギャングの顔に
なった。
「またおいで、フロラ。ほんと、これからあんたには運が向いてくるんだからね、もっと
どーんと女を出していいんだよ！」
「出さないよ」
笑って、サンドラの親友はまた巷に出て行った。
１８−０１−１２
蛇足。
「Ｓｍｏｋｅ ｏｎ ｔｈｅ ｗａｔｅｒ」その後。
じゃあブチャラティはいつ煙草を覚えたのか。やっぱり初めての男が煙草を教えるもの
なのか（昭和の伝説だよそれ）。
でも、ブチャラティは怖いリーダーが睨みを利かせてたからそういうかたぎの女の子ら
しくないことは怒られそうだなーとか考えてたら、そういうフロラ時代をちょっと思いつ
いちゃって、サンドラさんに回想して貰いました。
非喫煙者なので、煙草のどこがいいのか分かんない。ごめんなさい。でも、大人になっ
たら吸うのが当たり前って社会もあるんでしょうね。そういう、大人の男の格好良さの小
道具としての煙草（の描写）は、好きなんだよなあ。
８０年代の作品が今映像化されて、今のルールでは煙草を吸わせられないっての見ます
と、ちょっと残念にも思います。
３部アニメの承太郎さん（アヴさん復活シーンの「アヴドゥル、火を」）はかっこよかっ
た〜
あ、食事当番もやらされてた筈のフロラがお料理できなくなったのは、たぶん、この子
にお料理をさせると（食べさせられる）みんなが不幸になると思ったフランチェスコか誰
かがそのうちどんどん当番を代わってくれるようになったんだと思ってください。今思い
ついた。