チキンレース・インヴィテーション
その朝（４５）
１
「いいですかッ？ 基本お行儀よくするに越したことはないですからッ。今回はグリマル
ディーニって言ってもチェーザレの招待ですから、応接の人間も表の方のスタッフ多いで
すしッ。あんまり怖がらせないことッ！」
ネアポリスは本格的に冬。朝から冷たい雨が降りしきっている。助手席に陣取ったフー
ゴは、案内をやりながらメンバーに今日のおしごとの注意点を延々しゃべり散らしている。
グリマルディーニ老の不肖の息子チェーザレが、この秋の老の引退に際して後継者とし
て指名されなかったことを残念に思っているのはほんの少数の本人のとりまきしかいない。
裏の仕事、ネアポリスの支部を取り仕切るのはポルポの腹心であるブチャラティというの
はリーダー会では全会一致の決定だった。
表の仕事はもう１０年ほども前からチェーザレがお飾りの社長で、副社長のアリギエリ
が取り仕切っているその体制は変わりないということで、混乱無く代替わりの権限委譲は
行われていったように見えた。
「チェーザレのことは社長って呼んでください。一応ね。チェーザレの奥さん、ガラテア
さんのことは奥様で。グリマルディーニさんは普段通りでいいと思いますが、奥さんのこ
とは大奥様。表側の大番頭のアリギエリが仕切ると思うんで、だいたいは彼に言って貰え
れば。
たぶん、なんか仕掛けてくると思いますから。注意して。むやみに喧嘩しないでくださ
い。なるべくグリマルディーニさんを立てる方向でお願いしますよ」
言葉を切って溜め息を吐いた隙に、後席に陣取ったミスタがのんびりと声を掛けた。
「そんで、この時期にチェーザレがおれたちみんなをご招待ってなによ？」
ネアポリス近郊、ヴェスヴィオ火山とネアポリス湾とを望む丘陵地にある別邸に、ブチャ
ラティのチームは招待されていた。
「一応のところは、だいたい引き継ぎがうまくいったってことで慰労です。グリマルディー
ニさんの持ってるちょっといい別邸に呼んで、美味しいご馳走を出しますよって。
……実のところは、正直解りません。様子を探ろうにもタルティーニが逃げ回ってて。
仕掛けてくると思ってたほうがいいと思います。ただ、グリマルディーニには能力者はい
ないんで、せいぜい寝込みを襲われてマシンガンの雨を喰らうか、酔い潰された挙げ句が
夜中に失火で不案内なお客様だけ不幸にも焼死ってところじゃないかと。あと、行き帰り。
この道細いですから気をつけて。
ああそこ、右です。もう敷地内に入りましたから」
「敷地内って、まだなんも見えねえぜ」
ハンドルを握っているアバッキオは目をすがめた。
「ここからまだ３０分ははかかるでしょう。もっとスピード落してください。脇から急に
牛とか出てきても避けられるように」
「牛かよ」
アバッキオがアクセルを緩めた。雨脚は随分強くなっている。確かに見通しは悪い。
「……ピストルズ出しといた方がいいかな？」
ミスタが後ろ手に拳銃のグリップを探った。
「だいじょーぶ、半径２０キロはなんもいねーよ。人間サイズ以上はね」
早手回しにレーダーを出したナランチャがニッコリと笑って見せた。
「人間のまとまってるのは１０キロ先だね。２０人……はいるかな？」と気軽に言っての
ける。
これはたいしたお招きだ。一同は覚悟を決めた。
「ガードレールを付ければいいんじゃないのか」
窓の外を見下ろしながらブチャラティが言う。舗装されていない私道で、タイヤが弾い
た小石が崖を転げ落ちていった。時々待避所があるっきりのやや広めの一車線が、崖に張
り付いてうねうねと続く山道だ。
「私有地ですからねえ。まあ、付ける金がないってことはないでしょうが」
「グリマルディーニって金持ちだよなーッ」
ナランチャがつくづく言った。
「だって、マフィア関係なく商売安定してるもんな」おれ、うちにいた頃からグリマルディー
ニは知ってたもん、とミスタが肯く。
「だから結構期待していいと思いますよ。建物も、調度も、出張で泊まるような安ホテル
なんかとはダンチですから」
フーゴが気分を盛り上げるように言う。
「じゃあ、火事の線はないだろ」と、常識人のアバッキオが言う。そんな、もったいない。
「じゃ、めしも！？」
ナランチャが目を輝かせる。
「じゅうぶん期待できると思うぞ」
ブチャラティも微笑んで見せた。
「……フーゴ」
アバッキオが低い声で隣をうかがった。ワイパーは最大頻度で行き来して視界を確保し
ている。
ひどい吹き降りになってきた。
「運転、ミスタに替わりますか？」
「いや、それは大丈夫だが、この雨いつまで降るんだ？ あの辺とか結構やばそうだぞ？」
雨でカーヴの時随分後輪を取られるようになっている。また大きく尻を振った。アバッ
キオが指したあたりは、路肩が急激に痩せていって道幅が一車線ギリギリになってしまっ
ている。
「ああ、確かに。行きは良くても帰りはどうでしょうね？ ま、携帯は通じるでしょうし。
帰りはヘリになるかもしれませんね」
実にあっさりと言ってフーゴは地図をしまった。プレッシャーを感じたアバッキオは黙っ
て身じろぎして坐り位置を直した。
「それより、道が直るまで長期滞在になるんじゃね？ グリマルディーニのじいさんとか
も来てるんだろ？」
ミスタが恐れを見せずに言った。
「それはもう、フルメンバーで。タルティーニやミッソーニは留守番でしょうけど」
「そういえば、日程に余裕を見て来てくれとか言ってたかな？」
ブチャラティはとぼ
けた表情を崩さない。
「一泊二日の気軽なお泊まりって感じじゃないかもしれませんね。下手すると１週間ぐら
いかかるかも」
「おいおい」
アバッキオが溜め息を吐いた。
「洗濯はして貰えると思いますけど？」
「冷蔵庫に肉入ってるんだ。明日帰ってすぐ焼いて食えるように下ごしらえしたやつ」
あんたは主婦かと言いたいのを堪えて、フーゴが言った。
「かかるようでしたら川向こうに連絡して処分してもらえばいいじゃないですか。すぐ焼
いて食えるんでしたら川向こうの奴らでもできるでしょ」
「そうだな」
あっさりと言って賄い係はハンドルを切る。もうカウンターを当てないとちゃんと曲が
りきれない。
「おろしたてのタイヤはいてきてよかったなー」
ナランチャとブチャラティの体重を受けて呻きながらミスタが笑った。
２
「あいにくの雨の中をよくお越しくださいました。みなさまお待ちかねでございます」
やっとたどり着いたグリマルディーニの別邸は、たしかにこういう用事でもなければ縁
のなさそうな豪邸だった。車寄せのところに立っていた初老の男性に、フーゴは助手席か
ら滑り出て挨拶した。
「こんばんは。お待たせしてしまってすいません、アリギエリさん」
その間に、車に取り付いた黒服の男性達がドアを開けてブチャラティたちを降ろし、ト
ランクに積んだ荷物をさっさと運び出している。運転席のアバッキオさえ引きずり出され、
車はどこかへ持って行かれた。
「奥様や大奥様もいらっしゃるご招待だというのにまったくくつろいだ出で立ちでありが
とうございます。晩餐の時にはそれなりの礼儀を示してくれるものと期待しておりますよ」
アリギエリは皺に埋もれた目は慇懃に感情をうかがわせず、剣呑な言葉を投げかけてく
る。
「えーっおれちゃんとオクサマたちに挨拶できるよ？」
ナランチャが明るい声を出してくれて、年長組は少し腹に込めた力を抜くことができた。
「可愛らしいことを仰る。どうぞこちらへ」
乾いた笑い声を上げて、アリギエリは先に立って歩き始めた。
「それなりの支度はしてきましたけどね。身一つできたわけでもあるまいに。アリギエリ
さんともあろうお方が早まったことを仰いますね」
フーゴが横に立って歩きながら一応の反撃を試みる。
「これは。わたしどもはまっとうな商売をいたしておるものとしての感覚を申してしまい
ましたかな。
下町で、気の荒い連中を相手に身体を使った仕事をしておられる方々には、動きやすい
格好こそが仕事着でありましたな。わたしどもにはとてもついていけないセンスやデザイン
ですが」
丁寧な物腰をしながらも、言葉で喧嘩を売ってくる。これが「表」の大番頭。
「まあそういうことだ。アリギエリさん、その分、ぱりっとしたときは見違えるぞ。こい
つらはなにせ街の連中にはモデルだと思われてるそうだから。お給仕の手が止まらないよ
うにメイドさん達はしっかり締めておいてくれ」
フーゴがキレるより先にブチャラティがにっこりと締めた。
「……ッ。そんな行儀の悪いメイド、当家におりますかどうか」
顔を見せずに突き当たりのドアに取り付いて、開け放つ。
「どうぞ。今茶を運ばせます」
部屋の中は光に溢れていて、乾いた、暖かな空気に満ちていた。
いつものアジトの１階と同じくらいの広さ。大きな丸テーブルの代わりに真っ白なクロ
スのかかったティーテーブルが３つ、距離をとってしつらえてあって、座り心地の良さそ
うなソファやアームチェアが配置してある。この季節なのに、抱えるほどの花瓶には色と
りどりの花が活けてある。
一同、ほっとして言葉が絶えた。
「チェーザレって奥さんいたんだ？」
お茶を持ってきたメイドが下がって、ミスタがお茶菓子のチョコレートをピストルズに
分配しながら言った。
「ミスタ、『社長』って言わないと。
ええそうですよ。二十歳かそこらでかたぎさんの結構いいうちから嫁いできて、すぐに
跡取りが生まれて。でも、大人しすぎてチェーザレ『社長』とは合わなくって、子供が生
まれてからはほとんどチェーザレ『社長』はうちに寄りつかなくなって、子供が赤ん坊の
頃に死んでそれっきり」
その子供も生きていればフーゴと同じ年頃というから、もう中年といっていい。
一昨年のアバッキオのローマ・デビューの時以来、フーゴはグリマルディーニの奥方に
気に入られていろいろ表にも出入りするようになっているから、グリマルディーニ家の事
情にも詳しくなった。日中呼びつけられてテニスやゴルフのお相手はさすがに勘弁して貰
いたいと思っているが、おかげでこの１年で身長が１０センチも伸びたので、奥歯を噛ん
で堪えている。最近は「フェリーニ上院議員のご令嬢」もついてくることだし。
「もってーねー！ 美人なんだろ？」
ミスタが腹の底から声を絞り出した。
「ええ。まだ若くって。２０代ぐらいにしか見えません」
「そんでフーゴにも似てるんだよな？ もしかして、おまえのオフクロの親戚かなんか？」
フーゴのかけたアームチェアの背のうしろから身を乗り出して顔を近づけて、若奥様の
顔を見かけたことのあるナランチャがさらりと言った。
「ガリバルディ家だよ？ ないない」と、らしくなくあっさりとフーゴは切り捨てた。
ナランチャが野生のカンで真実に迫ったらしい、とブチャラティの横に陣取って緊張を
解いていたアバッキオが耳に留めた。そのまま追求せずに、アバッキオは触れるか触れな
いかの距離の崇拝する恋人の気配で神経を休ませることに専念した。ブチャラティはそん
な恋人の髪を弄びながら、ねぎらいやら、ちょっとしたからかいの言葉を掛けている。二
人とも良識があるので、それ以上はしないと解っているからチームの皆も二人のソファか
らは距離を取ってやる。ミスタは、帰り道は自分がハンドルを握ってやろうかと一瞬考え
た。ほんの一瞬。
部屋へ案内するから晩餐のために身支度を整えるよう声がかかったので。
一行に用意された部屋は、想像以上の豪華さだった。
３
ブチャラティ・チームは男性全員がダーク・スーツ着用。リーダーは気合いを入れてイ
ヴニングだ。みんなうきうきとご招待を楽しむ気持ちになっている。
「なー、なんでネクタイなんか締めなきゃならねーの？」
正餐室への入り口でフーゴにネクタイを直されながらナランチャが音を上げた。
「魔法のヒモだからです。これ一本で、ギャングも紳士扱いして貰えます。ね？」と辛辣
に言い放って振り返って見るアリギエリは、表情をまったく皺の中に消し尽くしている。
「左様で。社会の規範に従うという意思表示でございますれば、きちんとした身なりとい
うものは相応のもてなしを受けるためのパスのようなものとお考えください」
フーゴが何か言い返すより先に、美しきネアポリスの守護女神はにっこりと一同をまと
めた。
「みんな、それぞれいい男っぷりでわたしは嬉しいぞ。じゃあ、紳士淑女として正々堂々
とご馳走になろう」
珍しく出して見せた真っ白の首から肩（デコルテ）に、繊細なプラチナのネックレスが
映えている。あのデザインはまさしく自分の贈った品だと思い至って、アバッキオは体温
がもう２度は上がっている。
「それではどうぞ」
アリギエリが扉を開けて正餐室へと招き入れた。
「うわ」
ミスタが絶句した。
「パラッツオ・レアーレだ」
ナランチャがネアポリスッ子らしく端的に言った。たしかに彼らの見慣れた王宮のよう
に天井が高く、白い大理石をアーチを作るように積み上げて窓を開けている。あいにくの
天候でカーテンは引かれ、外は見えないが、晴れた日にはきっと美しいネアポリス湾が遠
く望めることだろう。天井には絵が描かれ、クリスタルガラスをちりばめたシャンデリア
がきらめいている。
「違いますよッ。パラッツオ・レアーレも１９世紀の建築ですがこちらは」
フーゴが細かな建築様式の違いを指摘しようとするが、
「構わんよ。古い屋敷だ」と、グリマルディーニ老に鷹揚に遮られた。
「ご招待ありがとうございます。お噂はかねがね聞いておりましたがこんな豪華な建物で
もてなしていただけて光栄です」
どこで覚えたのだろう、ブチャラティが優雅に腰をかがめると、慌ててチームのメンバー
達はそれに習った。
「いや、今夜の招待主はチェーザレだ。儂も、客の一人だ」と、グリマルディーニ老は脇
の中年男を見やった。
チェーザレ・グリマルディーニ。決して見栄えが悪い男ではない。背も大きく、秀でた
額と鼻筋の通った高い鼻をした貴族的とも言える面差しをしているが、見るものが見れば、
目に理想の輝きがない、口に固い志が見えないと評するだろう。まさしくそういう心底を
した男だった。
「まァ、そろいもそろって、めかし込んだもんだ。下町の酒場を這いずり回ってるドブネ
ズミどもも、それなりの服を着れば見られるようになるもんだな。まあ、坐れよ。一生お
目にかかれねえような旨いもんを食わせてやる」
「チェーザレ」
横からたしなめるように、グリマルディーニの奥方が声を掛けた。
「オフクロだ。そっちが女房のガラテア。勝手にひとの家の中にまで首を突っ込んでくるん
じゃねえぞ、そこのガキ」と、右、左の女性を順に短く紹介すると、フーゴにぎらりと目
を光らせた。
「真ん中の女がブチャラティ。ネアポリスの新しい支配者様だ。あとはその取り巻き。左
からガンマンのミスタ、帳簿係のフーゴ、ブチャラティの右がそのヒモで用心棒のアバッ
キオ、右端が使いっ走りのナランチャ」と、悪意をもってチェーザレは紹介した。
「愉快な認識をしておられるようですね」
席に着いたブチャラティは余裕で対応する。
「短絡した認識のようじゃな」
グリマルディーニ老が穏やかに応じた。
「でもみんな美男美女でいいわね」と、奥方がおっとり微笑んだ。
「皆さん、どうぞよろしく」
少し緊張しているのか、淡い亜麻色の髪のガラテアは美人だったが表情が硬かった。
「始めろ」
ふんぞり返ったチェーザレが顎で命令した。
「艦長からお噂は聞いていたんですが、ほんとうに立派なお屋敷で」と、ブチャラティが
社交的な話題を振った。
「あァ、ここはたまにしか使わんからな。そう、ヴィットーレがチームを預かるようになっ
たときも招待したかな？」と、グリマルディーニ老が微笑む。
「ええ、なんですか……とても楽しい経験をしたと」
詳細は聞かせて貰えなかったらしい。ブチャラティは懐かしいひとの話を言外に聞きた
がる。ところが百戦錬磨の老人はそれには真っ直ぐ応えない。
「この屋敷は、ちょっと訳ありでな。『面白い』ことがよく起きるからたまにしか使えん
のさ」
「訳あり？」
アバッキオが敏感に反応した。
「のう、アリギエリ？」と話を振られた大番頭が、表情を崩さずに言った。
「１９６５年に表の商売での接待に使用いたしましたが、その時お招きしたお客様が、ご
到着の時は１０人でいらしたのに、恐ろしいことにご出立の時には人数が変わっていたの
でございます！」
「減ってたの！？」
「殺されたってのか！？」
ナランチャとミスタが身を乗り出した。
「１１人になっておいででした。忌まわしいことでございます」
「え？」
ミスタ含む年少組は虚を突かれた。
「大人のジョークだな」
アバッキオが鼻を鳴らした。
「喜び事じゃないか」
ブチャラティは微笑みさえ浮かべていた。ワインを注がれたグラスを卓上、指先で少し
滑らしつつ回している。
「そうじゃな」
グリマルディーニ老は愉快げにヒゲを揺らせた。
「だが、本当に減っていたこともあるぞ、ええと。……具体的にいつのことだったかは忘
れたがな」
「親父、可哀相に小僧ども怯えてるじゃないか。そんな話をして怖がらしちゃダメだろう」
チェーザレが口だけはやさしく遮った。
「ブチャラティ・チームの皆さんは幽霊がキライなんだから。なあ？ ヘンな噂のある物
件を調査に行かしたら、幽霊だなんだって大騒ぎして、壁をぶち抜いて泣いて逃げ帰って
きたんだよな？ ヴァチカンから坊主まで呼んで、大ごとにしてくれて。この先誰があれ
を借りるって言うんだよ。修理もこっちが持ち出しだし。なにが超能力者ぞろいの特殊チー
ムだ、ただ顔がきれいなだけの腰抜けの集まりじゃねえか」
壁をぶち抜いてしまったのは事実なので、皆、一言もなく縮こまった。
……そんなに言うなら責任取ってブチャラティに住んで貰いましょうかねえ。どうせも
うそろそろ一緒に住んだ方がいい頃だし。ネアポリス全市を見るなら川向こうの方がいい
し。
澄ました顔でフーゴは考えを巡らせていたようだ。
雰囲気が冷え切ったままにしばらくは食事が続いていた。
「なんか、おれの口には合わねえみてえだ」
アバッキオが、フォークを止めた。
「おや、そうか？」
ブチャラティがとぼけた顔で応じた。
「おまえは繊細だからな。緊張してるんだろう」
「安いものばっかり食ってる口には合わないだろうさ」
ホスト席からチェーザレがせせら笑った。
「なんか舌が痺れるぜ。おれなんかには日頃お目にかかれないような珍しいスパイス使っ
てるんだろうな」と、フーゴに目配せをする。
「ああ、アバッキオはあんまり凝った味付けしませんものね。慣れですかね」と表面を繕
いながら、フーゴはすぐさま思考を展開してゆく。
グリマルディーニ老がアリギエリに視線をやったが、大番頭は真っ直ぐ前を向いたまま、
主に対して視線を返さなかった。
「おい、あんたもそんなにばりばり食ってるんじゃねえ、女が、そんなきれいな格好して
ご招待されて、もりもり食っていいと思ってるのか」
声を険しくして、アバッキオがブチャラティに注意する。
「残す方が失礼だ。こんな美味しい豚、全部戴かないと」と、ブチャラティはご機嫌で皿
を空にしていっている。
「ねーさんこれ牛じゃねーかな？」
ミスタがのんびりと突っ込んだ。
まったく忠告を聞いて貰えなかったアバッキオがつい脱線した。
「あんた、最近腹出てるぜ。節制したらどうなんだ！」
「おまえの作るめしが旨いせいだ」
ブチャラティは取り合わない。
「そこ、ひとのうちで恥ずかしい痴話喧嘩しないでください」
作戦を構築する邪魔をされて、フーゴはつい冷たく突っ込んだ。
「このカトラリーはいいものですね、グリマルディーニさん。でも、今時銀のカトラリー
は手入れが大変でしょう？」と、余りにも冷えきった雰囲気を崩すためにかフーゴが話を
振った。
「えーッ、これって銀なの？ でもおれ悪いの引いたかな？ なんか曇ってるよ？」
応じたのは別の人間だったが。
「おやそうですか。ナランチャ、銀は化学変化を起こしやすい金属で、特にヒ素化合物の
検出には有益なんです。すぐに曇って異変を察知できるというので、昔から銀食器は貴人
の食卓には欠かせなかったんですよ」
「じゃーおれの皿にヒ素入ってる？ ヒ素って毒のこと？」
ナランチャは余りにも真っ正直に言わんとするところを理解した。
「バッ！？」
いきなりチェーザレがむせた。あからさまにアリギエリの顔を窺う。大番頭は彫像のよ
う。
「さあ？ ヒ素じゃなくてもふつうに空気に触れてれば銀は曇りますから。ぼくのもなん
だか微妙な感じですし」と、フーゴはさりげなくナイフとフォークを休めた。
「笑えねえ冗談だな」
アバッキオが露骨に身を椅子の背に投げ出した。両腕を組んで、これ以上はなにも口に
しないという意思表示。
「ミネラルウオーターをくれ」
ワインすら遠ざけた。心得た給仕は、目の前で封を切ってミネラルウオーターを注ぐ。
「そうでなくても、銀は殺菌作用がありますから、食中毒の防止にも効果があったでしょ
うね」
「へー、銀食器って財産なだけじゃなかったんだなー」
ナランチャがその「危険な」料理を無造作に口に詰め込みながら感心して見せた。
「趣味と実益、両方兼ねててお得ってやつです」
「フーゴも、アバッキオも、よさないか。まるでチェーザレさんがわたしたちに毒を盛っ
てるみたいじゃないか。そんなこと、あるわけないだろう」
いつものとぼけた顔を崩さずに、ブチャラティはフォカッチャを取って、ご丁寧に皿に
残ったソースまでぬぐって食べた。アバッキオはやめろと無言のうちに訴えていたが。
「その、ブチャラティ、恋人の忠告は受けたらどうなのかな？ やはり一番近くで見てい
る人間の言うことは確かなことだし。大好きな彼に嫌われたら困るだろう、な？」
グリマルディーニ老がさすがに止めようとしたが、笑って取り合わなかった。念の入っ
た拒絶にあってさすがにホスト側も食欲がない。グリマルディーニ老じしんも途中でナイ
フとフォークを置いた。
「ああ、もうお腹いっぱい。パンナコッタくん、おばあちゃんの食べ残しで悪いけれど、
食べて貰えないかしら？」
暢気な声が上がった。グリマルディーニの奥方だ。何事もなかったかのようににこにこ
とフーゴを見つめている。
「わあ、嬉しいです。ぼく食べ盛りだから。おばあさまぁ、横に行ってもいいですか？」
露骨に幼い声を出して見せて、フーゴが席を立った。給仕の男が、慌てて椅子を持ってく
る。カトラリーも、ぴかぴかに光ったものを新たに出して、念入りにぬぐって差し出した。
「あの、ナランチャ……くん？ わたしにも、ちょっとこれは量が多いの。食べてくれる？」
ガラテアさえそれに習ってナランチャを手招いた。
「わーい。おばさんありがとう！」
ナランチャが露骨に嬉しそうにガタンと立ち上がった。
「ナランチャ！」
フーゴがたしなめる。
「あ、ごめん、奥様」
「いいのよ、どうぞこちらへ」
その自然な様にガラテアは頬を緩ませた。
「あ、やっぱおんなのひとは笑った方がきれいだぜ。奥様も美人なんだからもったいねー
よ。社長シアワセだよなーこんなきれいで優しいオフクロさんと奥さんで」
あとは、屈託なくいただきまーすとナランチャは幾らも減っていないメインの肉にナイ
フとフォークを突き立てた。
「まあ」
「ほほ」
ご婦人方の頬が緩む。ほんの少し、テーブルには和やかな雰囲気が戻る。
ククっとグリマルディーニ老が笑いを漏らした。
「あ、ああそうだ。うらやましがれ、小僧」
仕方なくチェーザレが感情を見せない声で言った。
「いーないーな。
あ、おれもう食事はいーや。酒もらえます？」
ミスタがからりと笑って見せた。
「……クソッ！」
チェーザレは音を立ててカトラリーを使いながら食事を口に詰め込んだ。
ブチャラティは複雑な育ちのせいで出された食事を残せない性分だ。それを知っていて
毒を盛るというなら悪質だ。フーゴとアバッキオはあからさまに目に悪意を込めてこの日
のホストを睨み続けた。
「ダメじゃないか。女性のお客人には大きい方をお出ししないと」
デザートに至って、ブチャラティにはグリマルディーニ老自身のものを取り替えて供さ
れ、年少組はご婦人方から手ずから切り分けて貰って、一同は安全なものを口にすること
ができたと見えた。ミスタとアバッキオは結局手を付けなかった。
４
胃と心臓に悪い晩餐が終わって、各自は部屋に引き取った。ブチャラティとアバッキオ
は同室である。
「おいッ、あんたッ、ここへ来て食ったものをみんな吐けよッ」
アバッキオは血相を変えてブチャラティを備え付けのバスルームに連れて行った。一通
りの体操ができそうな広さも、金メッキのデコラティヴな蛇口や水栓、猫足の凝ったバス
タブも、石頭の目に入ってはいないようだ。
「いやだ、もったいない。あんな旨い……牛？ それに、吐くと胃液で歯が溶けるんだぞ」
ブチャラティは背のジッパーを引き下ろしながらけろりと言った。
「そりゃ心の病気とか胃炎とかで繰り返し吐いてた場合だッ！ １回吐いたぐらいで溶け
るかッ！ 絶対あの食事にはなんか混ざってたって！」
「さすが、チームの賄い係は味覚が鋭敏だ」
ドレス用のボディ・スーツを外してしまって一息入れたブチャラティはこともなげに言っ
た。
「フーゴだってなんかおかしいって合図してたじゃねーかッ」
そのほぼ裸の姿から視線を外しつつ、アバッキオは用意されていたバスローブを取って
やる。
「おまえたちがそうやって場を荒らすから、責任上こっちは平らげて見せなくちゃならな
くなったんじゃないか。もっと巧く立ち回ってくれ」と、それを羽織りながらブチャラティ
は背を向けてバスルームを出ると、続き部屋のドアを開けて奥へと足を進めた。
「毒なんか盛ってどうする。フーゴはああ言ったが、わたしたちが今夜ここへ来ているこ
とは支部のみんなが知ってる。なにかあったらグリマルディーニがやったってことは丸わ
かりだ。ポルポさんだってムショの中とはいえご健在なのにそんなことをやって、無事で
いられると思うほどグリマルディーニさんはバカじゃない」
「だが」
チェーザレはバカだ、アバッキオはそう続けようとした。
「見ろ」と、ブチャラティが遮る。
心なしか声が弾んでいる。
「お姫様のベッドだ！」
天蓋付のクラシックなベッド。クイーンサイズだ。頭に血が上っていたアバッキオは、
さらに逆上した。慌てて左右を見回すが、部屋に他にベッドはない。
「ここへ来て逃げるなよ。
そういえば、フーゴと二人でチームを始めたとき、山の手のトンマーゾさんが、お姫様
みたいな天蓋付ベッドをお祝いに買ってくれるって言ってたな」
「ハア！？」
「アジトの屋根裏に入れてくれるって。しばらくはちょっと期待してたんだが、それは、
わたしたちが仲良くするようにっていう嘘だった」
「なんだそりゃ」
アバッキオは毒気を抜かれる。
「ベッドが入るまでっていう約束でしばらくフーゴと一緒に寝起きしてて。おかげで冬は
あったかかったし仲良くなれたけど、春になる頃にフーゴが、ベッドの手配が遅れてるっ
てのは嘘だってどこからか聞いてきて、怒って自分でベッドを買って、衝立もどこかから
調達してくるし。あんまり露骨でちょっと寂しかったな」
当時１３のフーゴが紳士で良かったとアバッキオは胸をなで下ろした。
「ちょうど良かった」と、ブチャラティは自分の荷物の中から包装紙に包んだままの包み
を出してきた。
「おろしたての新品だ。お姫様のネグリジェ」
またアバッキオは顔に血を上らせる。透けそうなふわふわの素材に、ひらひらした飾り
のいっぱいついた裾の長い寝間着。それは純情な男のロマンを直撃した。
「慰労会だ。レオーネ、これでお姫様ごっこをやろう」
とろんとした眼で、ブチャラティが提案した。頬が紅潮して、ありえない色っぽさを発
揮している！ ズキュゥゥゥゥン！ と背筋を電撃が駆け抜けて、アバッキオは確信した。
盛られていたのは 媚 薬 だ！
「あんた、やばいぜ！ フーゴが言ってたろ、寝入りばなを襲われるかもって！ 正気に
戻れよ！」と言うアバッキオ自身も、なにやら身体が火照ってきてしょうがない。
「ああ、判るぞ。グリマルディーニのやつらには秋からずっと迷惑を掛けられている。テ
ロリストは見逃すし、ナターレは潰されるし。これぐらいの演出に乗ってやってもじゅう
ぶんお釣りが来るさ。大丈夫、これくらいなんともない」
ブチャラティはさっさと袖に手を通して見せながら、じつにいつもと変わらないように
言い張っている。
「なんともないわけがあるか！ 酔っぱらいだって自分でだいじょぶっていうやつはやば
いんだぞ！」と、言いながらもアバッキオはブチャラティに手を引かれると素直に従って
しまう。白い首にはまだネックレスがかかっていて、彼はそれから目が離せない。
「ちょ、あんた、それ外さなくていいのか？」
「え？ ああ。外してくれ」と言われても、太い指にはちいさな金具が摘みにくい。何度
も取り落として、摘み損ねて、時間がかかる。真っ白い首筋。脈打って、静かにいつもの
コロンが匂いを放っている。やっと外せたと思ったら、そこに口づけてしまっていた。
「な？ お姫様のセックスしよう」
静かな擦れ声で、ブチャラティがもう一度誘った。ひらひらのネグリジェの下で、ちい
さめの乳首がつんと立ち上がってきている。
「……お姫様は自分から跨ったりなんかしねえ」
必死で誘惑と戦いながら、アバッキオはやっとやっとで言った。
「ああ、うん、じゃあ、お上品にじっとしてる」
優しい、囁くような声が耳をくすぐる。
「あんた……」
ついうっかりアバッキオは目を見開いてしまった。
「今日ならできそうだ……な？」
青い青いネアポリスの海の目の色が、潤んで彼を見上げていた……。
……内鍵はちゃんと締めたっけ？ アバッキオはもう内なる欲求に抵抗できなかった……。
５
電子音がしきりに鳴っている。あれは携帯の着信音。取らないと。フーゴがなにか相談
だろうか。シマの方でトラブルがあって、留守番のタルティーニが指示を仰いでいるのか
も知れない。レオーネ、ちょっと携帯を取ってくれないか、レオーネ……からだが重い。
やっぱり盛られていたのは媚薬の類だったようだ。思いの外盛り上がって、昨夜は随分
歓を尽くしてしまった。いつもとは逆に体中を相手の思いのままにさせてやって恋人には
満足させてやれたとは思うが、あの悩みたがりのことだから、よその家で行儀の悪い真似
をしたとか、クスリを盛られてつい理性を飛ばしたとかを後悔してまた悩みまくるかも知
れない。このフォローはフーゴには任せられない。困ったことだ、いや、それもまた最近
は楽しい苦労だけれど。さあ、機嫌を取ってやらないと。レオーネ、顔を見せておくれ、
拗ねているだろうか、満足して機嫌良くしているだろうか、どの表情もみな愛しい……。
伸ばした手がなにやらぬるりとしたものに触れてもブチャラティは動じなかった。昨夜
は激しかったから、随分汚してしまったようだ。まあ、メイドはそれも仕事だから何も顔
には出さずに処理してくれることだろう。少しの話題は提供するにしても、同室に割り振っ
たのは招待したチェーザレの側だし、こちらはポルポにも認められた恋人同士だ、なにも
憚ることはない……。しかし、そのむっとする匂いに違和感を感じて、フロラ・ブローノ・
ブチャラティは眼を開けた。赤い、ぬるつくその液体は、ベッドの上に広がっていた。
「レオーネ？」
慌てて身を起こすと、恋人の姿はそこにはなかった。
天蓋付のクイーン・サイズのベッドは血の海だった。
「レオーネーッ！？」
ブチャラティは跳ね起きた。手探りに携帯を取ってつなぐ。
「ブチャラティ、起きてます？」
「ああ、フーゴおはよう。どうした？」
「もう朝食戴いちゃいましたけど。あんた、一昨年アバッキオとローマ行ったとき、２人
で踊って盛り上がって、翌朝は朝も食べないで２人して寝坊したんですって？ グリマル
ディーニさんが、だから起こさないでやれって言ってくれましたけど、昨夜なんか危ない
こと言ってたから一応心配で。身体とかどうもないですか？」
長々としゃべるフーゴの話を聞き流しながら、ブチャラティは続き部屋やバス・ルーム
まで見て回ったが、求める人影は見つからなかった。
「フーゴ」
「なんです？ もう１０時ですから２度寝は許しませんよ」
「アバッキオがいない。そちらに行っていないか？」
ブチャラティは早口になる。
「いませんよ。来てたらこんないやみは言いませんって」
「そうか。アバッキオがいないみたいだ」
「え？ 鍵掛けて寝たんでしょうね？」
「ああ、そこのところは大丈夫。ところが、アバッキオがいない。おまけに、ご丁寧にベッ
ドが血の海だ」
「え？ ちょっと！ 開けてください、あ、待って、開ける前にあんたちゃんと服を着て
ください」と言われてブチャラティは、自分が素裸のまま部屋中を歩いていたことに気づ
いた。まったく行き届いた参謀どのだ。
手早く洗面を済ませて身支度を調えると、ブチャラティはドアを開け放った。
「ブチャラティ！ 大丈夫？」
待ちかまえていたナランチャが駆け込んでくる。
「ああ、わたしは何ともない。だが、アバッキオがいない、この通りだ」と、多少は体裁
を繕った寝乱れたベッドの上を示す。
「ええと、その、なんだか昨夜は盛り上がって」と、さすがにいつもの通り言語明瞭とは
いかない。
「ああ、今朝、アリギエリが吐きましたから」
フーゴが訳知りがおに肯いた。
「え？ なんて？」
「『お客様へのおもてなしとして、仲良くなりたくなる薬を多少お食事に混ぜさせていた
だきました』って。ふざけるなって言ってやりましたよ。ぼくら未成年なのに」
「それは余計なお世話だったな」
「ナランチャが、意味を詳しく知りたがって困りました。端的に、性的に興奮を促す薬だっ
て言ってやったら、
『あーそれでおれ変な夢見たのかーッ、良かったーッ、おれ奥様のこと好きになっちゃっ
たかと思って焦ったぜ』って朝食の席で絶叫してくれて」とフーゴが肩を落した。
「絶叫なんかしてねーだろッ」とナランチャが真っ赤になって突っかかる。
「変な夢の内容までしゃべらなかったならいいんじゃないか？」と言ってやりながらもブ
チャラティは気が気でない。すぐさまこの頭の切れる参謀に恋人の行方と安否を言い当て
て貰いたい。
「ま、死んではいないでしょう。殺したなら、これ見よがしに死体は置いていくはずだ。
一応屋敷の内外も探して貰いますが……外は当分無理かな？」
「無理って？」
「気が付きませんでしたか？ いっそうひどくなってます。道はどうももう不通みたいで。
……着替え、どのくらい持ってきました？ 化粧品とか、足りなくなりそうなもの、あ
ります？」
「着替えは特に。携帯の充電器だな」
化粧品についてはなくなってもなんとも思わないようだ。
「それはこちらに。いよいよクローズド・サークルですね」
「なんだ？」
「推理小説で、ありがちのシチュエーションです。嵐で山荘や孤島に客が閉じこめられて、
どんどん死んでいくんです。犯人はもしかしたら、この中にいるかも知れない。次は自分
が被害者かも知れない。登場人物達が精神的に追い詰められていく様を楽しむ……話です
かね。謎を解くのもおおかたは巻き込まれた客の一人の探偵役なんですがね。それで『閉
じた輪（クローズド・サークル）』。たぶん、艦長がしたちょっと楽しい経験ってのも、
そういうんじゃないですか？」
「さあ、どうかな」
「アリギエリやグリマルディーニのオヤジさんの態度も、なんか思わせぶりだったでしょ？
たぶん、そういうふうにひとを脅かして楽しむ趣向です。
……だって、ホントに殺ったりとか、してないでしょう、あんた」
「もちろんだ。しかし、困ったな」
「どうしました？」
「何かあったら絶対守ってやると言っていつもその気にさせているのに、守ってやれなくっ
て、もうやらせてくれなくなったらどうしよう？」
じつに真面目な顔をして、もしかしたらこの上もなく真剣に困っている様子のリーダー
に、フーゴは徒労感を感じた。
「でも、密室なのは確かだから、警察なんか呼ばれたらわたしは重要参考人だな。チェー
ザレがかさにかかって警察を呼ぶなんて言い出したら止めろよ？」
「冗談でしょう？ マフィアの家でそんなことやったらいい笑いものですよ。そこは大丈
夫」
「ってことはだな、フーゴ」
「なんです？」
「我々が謎を解いてアバッキオを救い出してやらねばならんということだ。ふふ、昨夜は
こっちだったが、今日からは向こうがお姫様だ。泣いてないといいが」
「泣いてるかも知れませんね」
余りにもふがいない自分に絶望して。ああ、そのフォローは金輪際やりたくないなあと
フーゴは心中嘆息した。
「怪我はしてないと思う。あれは肉の処分場かなんかで貰ってきた、固まらないように処
理をしてある血だ」
「判るんですか？」
「冷え切ってるのに固まってなかった。さすがに、いくらいつも全身舐め回してるからっ
て、血の味でやつのかまでは判らない。だが、ひとの血なら何度も浴びてきたんだ。それ
くらいは判る」と、薄く笑ったブチャラティの顔にフーゴは背筋の冷えるのを感じた。
「やあぁっと起きてきたか、お客人。ひとんちだと思って気ぃ抜いてんじゃねえぞ」
廊下をやってきたチェーザレが顎をあげてブチャラティを見やった。
「社長」
アリギエリが、耳打ちする。
「へえ。おい、ひとんちで大胆な痴話喧嘩やってくれたな？ どこへ隠した？」
愉快そうにチェーザレが肩をそびやかす。
「社長！」
フーゴが最後の礼儀を守って抗議の声を上げる。
「だってよ、部屋は中から鍵がかかってたんだろ？ 一緒に中にいた人間が犯人に決まっ
てるだろ。あとの始末はうちのもんが引き受けるにせよ、さっさと出しといてくれよ？
今は気温が低いからいいが、腐ってくるとことだ。まったくひとんちでよお」
「わたしはやってない」
「晩餐の席で痴話喧嘩やっておいてか？ ブローノ・ブチャラティ、おまえがなんか超能
力持ってることくらい表の人間だって知ってるぜ？ おまえが殺って、なんか訳のわかん
ない力で死体を外に出したんだろ？ おれたちかたぎの人間にまで迷惑掛けてくれんなよ
な」
「わたしじゃない。社長、チェーザレさんこそ、趣味の悪いお遊びはやめて、いじわるし
ないでやつを返してくれ。今まで通り、表の仕事はあんたに任せる、それは約束したはず
だ」
ブチャラティは辛抱強く、冷静に話しかけた。
「あァ？ 今まで通りだと？ なんでうちの商売についておまえみたいなメスガキが指図
する筋合いがあるんだ？ 黙ってろ。
この屋敷は本当になんか出るんだ。２０年前にはおれの女が朝起きたら息してなかった
ぜ？ おまけに腹の中には赤ん坊が居てな。宿泊２名のところ生存者１名で死人が２人出
たぜ。
言っておくぞ、この屋敷では簡単な計算が成り立たない！ そういう恐ろしい屋敷なの
さ！ ここは」
言い捨てるなり、チェーザレは身を翻して去った。
顎に手を当てて考えを巡らせていたフーゴが、ブチャラティが表情を窺ってきたのに目
を留めて頬を緩めて見せた。
「じゃあ、チェーザレもこの屋敷は怖いってことですね。艦長からは何も聞いてないんで
すか？」
「愉快な目に遭った、それだけだ。艦長はああいうひとだから、素直に怖かっただの腹が
立っただのは口に出さないんだ。それだけに……」
「ああ、それね」
一度振り返って、チェーザレ達が立ち去ったのを確かめて、フーゴは「惨劇」のあった
部屋へブチャラティを招くと、壁に近づいていろいろ検分した。
「ここです。ちょっと、スティッキィ・フィンガーズを出して開けてみてください」
「ここか？」
トゲを戴いた青い人影が現れて、美しい壁紙に彩られた壁を裁ち割った。果たして、そ
の裏にはちょうど廊下に平行してひとが一人余裕で行き来できる空間があった。
「こういうお屋敷にはね、使用人が上のひとに姿を見せないでお世話のために行き来する
ための通路があるんです。出入り口もね。
ですから、密室がどうとかについてはまったく気に病む必要はありません。かえって、
このうちの人間が関わってる可能性は大です」
「ふええ、フーゴ、さすがだな」
ミスタがあからさまに顔を輝かせた。
「ぼくんちもこんなかんじでしたし。
それに、この古さでこんな山奥に建ってるのはヘンですから、一度バラしてここまで持っ
てきたんだと思います。最新の『防犯機器』は入ってると思ってたほうがいいですよ。きっ
とこの会話も聞かれてると思った方が」
フーゴは声を低くして付け加えた。
……じゃ、スタンドで会話した方がいいかな？
スティッキィ・フィンガーズが思念を飛ばしてみせた。
……今後はね。
フーゴの背後にすぐさま紫の人影がかたちを取って、肯いて見せた。
「……スミスさんってしゃべれるのかなあ」
ナランチャが頭を傾げた。
「この機会にコミュニケーションとってみたら？」
暗い雰囲気を吹き飛ばすように、フーゴがナランチャに笑いかけた。
６
囚われの王子様のお目覚めはもっと早かった。
規則正しい生活のおかげで、いつもとほぼ同じ時刻に目覚めた彼は、じぶんの両手両足
がアームチェアに縛り付けられているのに気づいた。
「なッ！？ おい、フロラ！？」
「お静かに、色男さんよ」
目の前に、撃鉄を起こした自動拳銃を突きつけられて、アバッキオは完全に覚醒した。
目の前の男は、見覚えがない。昨夜の邸内でも、何度も出かけたグリマルディーニのオフィ
スでもだ。表側の裏スタッフなのかも知れない。表側の裏とはなんだ、とアバッキオは自
分で自分に突っ込んだ。
「ちょっとゲームに参加して貰うためにあんたをこっちに預かった。静かに協力してくれ
れば何もしねえ。あんたのだいじなおネエちゃんにも、怪我させたりはしねえ」
窓のない小部屋で、各種のモニターの光だけに照らされて男は静かに立っていた。
「だったら！」
すぐさま拳銃が口に突っ込まれて、アバッキオは強制的に黙らせられた。
「あんた、超能力者なんだってな？ 過去を自由に見られる千里眼。ちょっとそれは今回
邪魔なんだ。おネエちゃんにもちょっと怖がって貰うために、あんたに消えてて貰うだけ
だ。解るな？」
黙って、アバッキオは顔を上下に動かした。
「よし。モニターはこれだ。見えるだろ？ おネエちゃんも、小僧どもも無事だよ。
雨はまだ降ってる。これはおれ達がやったんじゃねえよ。天気予報は見たけどな。来る
途中の道が崩れちまったが、雨がやんだら重機を入れてすぐ通れるようにする。もう手配
済みだ。なに、食料は十分あるし、明日には上がるって話だ。この屋敷ではよくあること
だから、不便はさせねえよ」
手近のワゴンを引き寄せると、１４インチほどのモニターに、ブチャラティの様子が映っ
ていた。血の海になったベッドでまだ夢うつつのようだ。風邪を引かせぬように、血の部
分を避けて夢見る佳人にはちゃんと羽布団が被せてある。
「どうやっておれをここに運んだ？ あのひとになんかしてねえだろうな？」
「ああ？ 鍵なんぞいくらでもあるさ。それに、この屋敷はいたずら用の屋敷だしな。秘
密の通路ぐらい作ってある。そこを通って。この部屋も、表からじゃ入っちゃこれねえぜ」
と、男は胸を反らせた。
そんなこと、能力者相手に威張っても無駄だ。ブチャラティが起きたら、ムーディ・ブルー
スでここまで案内させて、スティッキィ・フィンガーズで切り開けば一発だ。
「言っとくが、失礼な真似はしてねえよ。おれ達は別に、あのおネエちゃんに恨みがあっ
てのことじゃねえんだ。旦那さんもな。そこんとこは、あんたに証人になってもらいてえ
のもあるのよ」と、剣呑な気配を察してか男は声をひそめた。
「昔、艦長にもやって、あとですんげえ嫌な顔はされたけど、あのお方も漢（おとこ）だ
から、後には引かなかった。これは、グリマルディーニの一家に認められるための試験み
たいなもんよ。悪気はねえんだ。だからあんたも、暴れたりはしねえでくれ」
アバッキオは溜め息を吐いて緊張を解いた。それを察して、口に入れた拳銃が引き抜か
れる。
「腹減ったろ？ 今なんか出すから」
「それより歯を磨きてえ」
まじめな大男はムチャを言って「誘拐犯」を困らせた。
「そんなこと言って、おれが気を抜いたら逃げる気だろ」
「愚問だな」
言ってからアバッキオは、自分が素直すぎたことに気がついた。
「じゃあできねえ」
男はそれを察してにかっと笑った。笑うと妙に愛嬌がある。
「口をゆすぐぐらいにしとけ。ほれ、水。こっちのコップに吐けよ」
悪意がないというのは本当らしい。男は、かいがいしく世話を焼いてくれた。
「黒幕は誰なんだ？」
昨夜の残りだろうか、少し固くなったフォカッチャをかじりながらアバッキオは尋ねた。
「旦那さんじゃあねえ」と、短く男は答えた。それなら、チェーザレということか。チェー
ザレならブチャラティに怪我をさせないというのが解らないが。と、そこまで考えて、ア
バッキオはさらに尋ねる。
「昨日の薬はなんだったんだ？ やっぱ、媚薬か？」
「ああ、なんか、『とっても仲良くしたくなる薬』だとよ。ただ、睡眠薬も少し入ってる
から、ゆっくり眠れたろ？ 混ざるとちょっといやな後味が出るとか言ってたが、あんた、
よく気がついたな？ だが、ホストに恥かかしちゃいけねえよ」
「命が賭かってるときに恥とか気にしてられるか。薬なんざ、盛る方がいけねえだろうが」
おまけに、ブチャラティは食事を残せない性分なのを知っていて。やはり厳しい目つき
になるアバッキオである。
「アレルギーとか、ヘンな反応出ることだってあるんだ、むやみにひとに薬盛ったりするん
じゃねえよ」
「はいはい。あんた、まじめなギャングだねえ」
かたぎのスタッフにしみじみ言われて、アバッキオは落ち込んだ。
そのうち、ブチャラティが目覚めて、騒ぎが始まった。
「あんまりうろたえてねーな、おネエちゃん。もしかして、あんたそんなに愛されてねー
の？」
何気ない台詞にアバッキオは打ちのめされる。
「ああ、そうかもなッ」
……細かいことでいちいち感情乱されないでくださいッ。昨日今日あんたらのことを見
たバカどもが勝手に言うことであんたがいちいち傷付いたりなんて、馬鹿らしいじゃない
ですか。もっとどっかり構えてなさいッ。
淡い色の髪の参謀のキンキン声がすぐさま耳に響いてきて、アバッキオは愉快な気持ち
にすぐなれた。今の自分がすることは、情報収集。状況がつかめたら、こんなやつを出し
抜いてムーディ・ブルースを出して連絡を取ることは容易だ。
アバッキオは、黙って体力の回復を待ちつつ様子を探ることに専念した。
７
「まあこの屋敷にはよくあることだぜ。日程に余裕もって来いって言ったはずだよな？
食いもんはたっぷりある。留守番はタルティーニがいるんだろ？ たまには仕事を忘れ
てのんびりしろよ」
チェーザレは余裕で昼食の席に現れた。
「そうですね。では遠慮なく」
ブチャラティもいつものとぼけた顔で応じた。雨はまだ続いている。
……本当に道がふさがったかどうか、見に行かなくていいですか？
パープル・ヘイズ経由でフーゴが質した。
……アバッキオが質に取られてるんだ。通れてもしょうがない。こういうゲームなんだ
から、終わるまでは向こうの言う通りにした方がいい。
ブチャラティもスタンドを出して返事をした。
「旦那様」
アリギエリが現れて、紙片をグリマルディーニ老に手渡した。老人はちらとそれに目を
留めて、顔色ひとつ変えずにポケットに落とし込んだ。
「雨に降り込められることには慣れておるからの、この屋敷の遊戯室はなんでも揃ってお
るぞ？ せっかくだから遊んでみてはどうかな？」
食後、グリマルディーニ老は押し黙る主催者側と招待客の間を取り持つべく提案してく
れた。
「こいつらにビリヤードができるのか？」
チェーザレは鼻を鳴らした。
「ＴＶゲームというのをわしは見てみたいのだが。せっかく買ったのに箱から出しもして
いないんじゃよ」
「もってーねーよ、それ、グリマルディーニさん！」
「ナランチャ！」
すぐさま声を上げるナランチャをフーゴがたしなめた。
とりあえずその気にはなったので、一同は遊戯室へ移動した。
一昔前までの遊戯と言えば、カード。ビリヤード台のある部屋に続いて、飴色に輝く寄
せ木細工のカードテーブルが用意してあった。
「カードですか」
「フーゴ、出番だぜ」
ミスタがフーゴの肩を叩いた。
その脇には、緑のラシャもまぶしいカジノ仕様のブラック・ジャック用テーブルもある。
「噂は聞いてるぜ、天才君」
チェーザレの目は楽しそうに輝いている。
「シャチョーもカジノじゃあスターなんだろ？ なんか異様に強いって聞いたぜ」
ミスタが剣呑な目つきでチェーザレを見上げた。
「金に糸目を付けずに遊んでおるからな」
グリマルディーニ老がさらりと言った。
「別に、オーナーの息子だからと言ってディーラーどもには花を持たせる必要はないと言っ
ておる。正々堂々イカサマなしで強いんじゃ」
勝っても負けてもじぶんの懐は痛まない。純粋に度胸の勝負ならどれだけでも大胆にな
れるだろう。ひとの心理を読む少しの努力と才能は必要かも知れないが。
自分は絶対安全なところに身を置いて、大金を前に心の抑制を失って破滅していく人間
を見るのがこの男は好きなのであった。
「ここでそのカジノ・ディールでも完璧にカウンティングをやってのけるその頭脳を披露
してくれよ。たまにはフル回転させないと錆がつくぜ？」と、かさにかかってチェーザレ
は挑発した。
「なに、そこら辺の小僧ども相手に意気がるしかできねえってわけでもねえだろ？ それ
とも、美人の奥様の前じゃああがっちまってできねえ？」
「そんな、社長、子供相手にムキにならなくてもいいじゃありませんか」
ブチャラティがやんわり間に入った。
「ああそうか。子供だもんな。神経衰弱ぐらいにしておこうか？ なあ、パンナコッタくん？」
「そうですね、みんなで楽しめるように、オールド・メイドはどうです？」
いっそ無邪気に、天使の顔の少年は悪意を全く感知しなかったように言った。
「オールド・メイドだと？」
「ええ。２枚ずつ同じランクの札を捨てていくあれです」
簡単で、多くの人数で遊べはするが、ブラフや作戦の通用する余地のない純粋に子供向
けのゲームだ。
「デッキを２つ使って、奥様や大奥様にも入っていただいて。その方がみんなで楽しめる
じゃありませんか」
「まあ、嬉しいわ」
グリマルディーニの奥方がおっとりとした声を出した。
「そうしていただけるかしら。皆さんで楽しみましょう」
ガラテアも儚げな笑顔を浮かべた。
すぐさまカードテーブルを２つ寄せて、グリマルディーニ老を除く７人がテーブルを囲ん
だ。
封を切ったばかりの国際規格の新品のカードを２デッキ、テーブルに丸く広げてフーゴ
がもったいぶって言った。
「一応ルールの確認を。ジョーカー２枚を入れたデッキから、ハートのクィーンを１枚だ
け抜きます。残りのカードは全員に同じ数になるよう配ります。順に隣のひとからカード
を一枚引いて、同じランクの札があったら場に捨てる。なかった場合はそのまま自分で持
つ。手に持っているカードがなくなれば抜けます。これで、最後には、スペードかクラブ
かダイヤのクィーンが１枚残ることになります。いずれにしても最後までカードを持って
いたひとが負け。よろしいですね」
「確認するまでもねえだろう！」
チェーザレは吼えた。
「まあまあ。一応ですから」と、テーブルの上に丸く広げた片方のデッキに指を滑らせて、
ハートのクィーンを選び出すと、一同に見せてテーブルの上に伏せた。
指先一つでそのデッキのカードを全部起こしてテーブルの上に揃えて立てると指先で摘ん
でもう片方の全部揃ったデッキに重ねて……
「ちょっとぼくには無理かな？ ミスタ、頼みます」と、天使の笑顔で傍らのミスタに振っ
た。
「ほいよ」と、ミスタが受け取って、シャッフルする。
「デッキ２つはきついな。じゃ、配りますよ、ほい、ほい」
大きなミスタの手でも１０７枚のカードは扱いかねて、おっかなびっくりながら、磨き
上げられたカード・テーブルの上を新品のカードが滑っていく。
「じゃあ、大奥様からどうぞ、右回りに」
両手に持ちきれないほどのカードを配られて、皆、取り落としそうにしつつも手札から
同位のカードを選び出して場に捨てていった。
「あら、このハートのクィーンはいいのよね？」と、ガラテアがおずおずとクィーンのペ
アを出す。
「ええ、それはもうひと組の方のクィーンです。ですから、同じカード同士のペアもあり
得るわけですね、今回は」
フーゴが微笑んで見せた。あ、おめーそんな顔もするんだ、ナランチャが意外そうにつぶやいた。
「あら、大変、こんなところにまだあった」
チェーザレから１枚抜いた「大奥様」が、手札の中からダイヤの９を摘み出した。
「ペアがもう一つできたけど、いま出したらダメかしら？」
「ええどうぞ。一人頭１４，５枚は配られている計算になりますからね、うっかりもしま
すよね」
外面のいいフーゴというのをチームの一同は目の辺りにしてしまって、言葉少なだ。
「はい、上がり」
ただお互いのカードを引いていくだけのゲームで、手加減のしようもないのに、ご婦人
方が先に上がっていく。
「わたしも」
「お先に」
「うわ、ジョーカー！ ってここにもあるんだよねーっと。これでオレ上がっていい？」
ナランチャがご機嫌で両手を晒した。
「どんどんお尻に火が点いてきましたね」
フーゴは余裕で微笑んでいる。手の中にはまだ１０枚ほどもカードを残している。
「なんでジョーカーでやらなかったの？ ふつうオールド・メイドってジョーカーでやる
だろ？」
きれいなメイドにお茶を勧められて、ナランチャがどぎまぎしながら心持ち身を反らし
て言った。
「そこは、こんなクラッシックな遊戯室に敬意を表して、オリジナルのルールで」と、フー
ゴはもったいぶってみせるが、チームの仲間は誰も信じない。なにかを仕込んでいるはず
だ。
「ダイヤのクィーンが可哀相じゃないですか」
フーゴがぽつりと言った。
「ハートのクィーンを抜いたら、最後にはひとりぼっちのクィーンが残ります。別にそれ
は、クラブやスペードのクィーンの可能性もあるんですが。
ダイヤのクィーンは、可哀相なクィーンなんですよ」
「なんでよ？」
フーゴに最後のカードを引かせて上がりになったミスタが目を輝かせて聞いた。
「カードの絵札にはそれぞれモデルがいることになってます。スペードのキングはダヴィ
デ王、ハートはカルロ大帝、クラブはアレッサンドロ大王なんです」
チェーザレに向き直ったフーゴは、無造作に１枚引いた。
「面白いな、皆それなりの王者だ。それでダイヤは？」
眼はドアのところをじっと見ながら、ブチャラティが乗ってきた。
「ダイヤはユリウス・カエサル」
「誰ソレ？」
ナランチャが無邪気に尋ねた。
「ローマ皇帝になり損なった男じゃよ」
愉快げに、グリマルディーニ老が捕捉した。
「暗殺されるんだよな？ 『ブルトゥス、おまえもか』」と、ミスタが言った。
「そうそう」
「じゃあ、ダイヤのクィーンはクレオパトラなの？」
「大奥様」が興味を持って聞いてきた。
「いいえ。その辺は史実とは違って。ラケルなんですよ、旧約聖書の」
「ヘンだわ」と、おっとり首を傾げてみせる。
「実際の夫婦はいないんです、カードの中には」
「夫婦して有名な王様っているのにね」スペインのフェルナンド王とイザベル女王、オー
ストリアのフランツ皇帝とマリア・テレジア女帝。連合王国のウィリアム王とメアリー女
王。
「でも、そういう王様よりカードの成立の方が古いらしいですから」
「でも、マリー・アントワネットがハートのクィーンになってるデッキみたことあるぜ？
おれ」
山になっている場に捨てられたカードをかき寄せながらミスタが口を挟んだ。
「それはデザイン・デッキ。スートと数字が判ればいいんですから、基本、カードのデザ
インなんて自由なんです。出してみますか？ ネアポリス支部限定カード。ハートのクィーン
がブチャラティになってるやつ」
「ばかな」
和やかに会話をしつつ、最後の二人の手札は減っていっている。フーゴが引いたのはハー
トの１０で、フーゴは１０のペアを捨てた。ちょっと手を振って、広げると、開いたカー
ドは残り４枚だった。
「ダイヤのクィーンが可哀相なのは、ええと、ああここにあった。夫たるダイヤのキング
が、標準デザインでは横顔になっていて、ダイヤのスートを見ているんです。巧くできて
るでしょ？ ダイヤは元が金貨ということになってます。お金にしか興味がない。他のキン
グは前を向くか、半身になっていて、奥さんにも目配りをしているのに、ダイヤのクィーン
はほったらかしなんです」と、フーゴは空いた手でミスタが寄せたカードの中から場に捨
てられたダイヤのキングのカードを出してきて皆に見せた。
「まあ、ほんと」
「カエサルは女たらしの浪費家だったそうじゃな」
グリマルディーニ老がチェーザレに眼をやっていった。チェーザレというのは、カエサ
ルのイタリア語読みである。
「エジプトの女王と浮き名を流すぐらいには」と、ブチャラティがまたあらぬ方を眺めて
いる。本心では、スティッキィ・フィンガーズで屋敷中を切り開いて見たいようだ。
「男たるものそれぐらいやってみてえ」
ミスタがにしゃにしゃ笑った。
「ミスタッ」
フーゴが声を低くしてたしなめた。どうも、チェーザレの名に引っかけて、当てこすり
をやっていたらしい。
「まあ、パンナコッタくん、それは余計な気遣いかも知れないわよ」と、「大奥様」が優
雅に紅茶を飲みながら言った。
「ジャポネの男性は企業戦士とか言われて、仕事にしか興味がないみたいに言われてるけ
れど、そういうひとにもちゃんと奥さんがいるのよ。そして、そういうお金しかみてない
ひとの奥さんは寂しくって死にそうかって言うと、これが違うのよ」
ちょっと指をたてて振って見せて、丸顔のひとの良さそうなおばあちゃんは話し出した。
「『亭主元気で留守がいい』って言って、奥さん達は相性の合わない旦那をほっといて勝
手に趣味に生きてるのよ。ジャポネの奥さんは手先が器用だから、キルトの大会なんかで
も独特の感性と見事な仕上がりでいつもみんなびっくりさせられるのよ。
コーラスも！ ある程度のジャポネの奥さんは誰でもベートーヴェンの合唱付を楽譜を
見ずに歌えるんですって！ ドイツ語でよ！ この前新オペラハウスにジャポネの合唱団
が来ていてびっくりしたわ。みんなアマチュアの普通の家庭の奥さんや学生なんですって。
プロに引けを取らなかったわよ。スポーツやダンスのサークルも、そういう元気な奥様
でいっぱいなんですって。
ジャポネじゃなくっても別に勝手に楽しくやってるわよ、みんな」
「と、いうことだそうだ。女性はたくましいぞ」
ブチャラティがいつものとぼけた顔で締めた。
「だってよ、お坊ちゃん」
チェーザレがせせら笑った。フーゴからクラブのジャックを引いて、ジャックのペアを
捨てる。もう、残り２枚、手の中にはその「可哀相なダイヤのクィーン」がある。クラブ
とスペードのクィーンはもう出ている。これをフーゴに押しつければ勝ちだ。
……あれ？ こんでいいんだっけ？
ミスタはフーゴの残り枚数を見て、不審に思った。背後に回って、そのやけに多い手札
の中に、キングのペアが既にあるのを見て表情を消して納得した。それから、いつすり替
えたのだろう、ここにあるはずのないカード！
……なんか仕込んでる訳ね。参謀殿はカードもただやらねえな。
「さあ、残り２枚だ。どっちを取る？」
チェーザレは勝ち誇って２枚のカードをＶの字にしてフーゴの鼻先に突きつけた。
「じゃあ、こっちにしましょうか」
チェーザレの目を覗き込んでいたフーゴは、無造作に１枚を引いた。
……勝ったッ！
チェーザレの手には、「カエサル」、ダイヤのキングが残った。
「ああ、クィーンが来ましたね。じゃあ、クィーン同士お友達と一緒にしてあげましょう。
ずっと待ってたんですよ」
こともなげに言うと、フーゴはダイヤのクィーンを手札の中のハートのクィーンと対に
して場に捨てた。
「あれ？ じゃあこれはもういいか。ぼくも上がりです」
手に残っていた、既にペアになっているスペードとクラブのキングを捨てた。
「ばかなッ！ ハートのクィーンはもう出たはずだッ」
「そうだったかしら？」
「大奥様」がとぼけた。
「オフクロッ」
「随分カードがいっぱいあったからこんがらがったよな」と、ナランチャが笑う。
「ハートのクィーンは最初からここにある……おや？」
グリマルディーニ老がめくってみたカードはいつの間にか増えていて、ハートのクィーン
の上にはハートのキングがぴったりと重なっていた。
「ほっほっ。ハートのキングとクィーンはお熱いようじゃ」
「ひとりぼっちのクィーンが可哀相だと思って、ハートのキングが勝手に出て行っちゃっ
たみたいですね。『可哀相なカエサル』になってしまいました」
「最後までカード持ってるやつが負けだったよな？」
チョコレートを摘んでいたナランチャが躍り上がった。
「こんなイカサマッ！ 小僧ッ！」
「勝手にカードが歩いていったものはどうしようもない。フーゴがハートのクィーンを抜
いたのはみんな見たじゃろう？」
「クィーンでした」
ガラテアが静かに証言した。
「この手癖の悪いガキどもが！ おれはもうたくさんだ！」
チェーザレが椅子を蹴立てて退席した。廊下を大股で歩きながら、従ってきたアリギエ
リに指図する。
……予定通りだ。次はあのガキをヤれッ！
……ミスタ、余計な真似しないでくださいよ。
澄ました顔で紅茶をすするフーゴから、パープル・ヘイズが浮かび上がって腰に手を当
ててミスタを見下ろす。
……えーナンデーッ？ フーゴ助かったロ？
場のカードの中からハートのクィーンを回収して、残りデッキがミスタの手に渡る前に
既にすり替えられていたハートのキングの下に入れたのはピストルズ。
「カードでさえちゃんとクィーンのところに出かけていくのに、うちのハートのキングは
いったいどうしたんだろう？」
ブチャラティの呟きに応えるものはいなかった。
８
晩餐の席に、チェーザレは姿を現さなかった。今夜は平服で、という指示だったので、
皆はいつもの服だ。
「今夜は余計な味付けはなしにさせた。ブチャラティ、腹一杯食べていいぞ」
グリマルディーニ老が、ホストのくせに晩餐を放り出したチェーザレの代わりに真ん中
の席に着いた。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
「昨日も美味しかったぜ」
ナランチャが屈託なくフォークとナイフを手に取った。
「アバッキオ、どこに消えたんでしょうね」
フーゴは平然と切り込んだ。
「ふむ」
グリマルディーニ老は身に覚えがないのか、表情を変えない。
「アリギエリ、どうなの？ この屋敷では消えたひとがいたかしら？」
「大奥様」がおっとりと話を振った。
「わたくしがお仕えしております間には、この館で行方が知れなくなってそれきりという
方はいらっしゃいません。ただ、この屋敷は街でのしがらみを忘れていただくための場所
ですので、ちょっとした趣向をこらしたおもてなしをしたということはございます。お客
様の昨夜の食事に多少の演出をいたしましたのも、慰労というこの度のご招待の目的を考
えてのことでございます」と、アリギエリは慇懃な姿勢を崩さない。
「余計なお世話です」
フーゴが短く噛みついた。
「フーゴ、よせ。食事がまずくなる」と、ブチャラティは食事の手を止めずにたしなめた。
「ブチャラティさんはほんとに健啖家なのよね。お料理をするひとも冥利に尽きるでしょ
う」
「大奥様」がブチャラティの皿に目を留めて眼を細めた。
……味オンチなんだけどね。
リーダーの名誉のために沈黙しながらも、ブチャラティ・チームの３人は同じ言葉を脳
裏に浮かべていた。
食事を終えて、サロンで少しの社交的な会話をしたあと、一同はまた部屋に引き取った。
ブチャラティは部屋を変えてもらったが、やはり続き部屋のある一番いい客間だ。昨夜
の部屋とは対称な作りになっていて、少し頭がこんがらがる。
しばらくひとりで椅子にかけていて、ブチャラティはフーゴに携帯電話をかけた。
「フーゴ、わたしは今思ったんだが、この屋敷じたいがスタンドということはないかな？」
「大胆な発想ですね」
ベッドに横たわりながら、目だけを動かして監視カメラの位置を探っていたフーゴが次
を促した。
「客の中で、ご招待の雰囲気を壊した人間をちょっと懲らしめるみたいなカンジの。アリ
ギエリさんがああ言ったということは、ひと死にまでは出てないってことだろ？ ただちょっ
と、超自然的な出来事が起きるってことじゃないかな？」
「なるほど」
超自然的な出来事のうちには、処理をした家畜の血をどこからか調達するというものは
入るのだろうか。フーゴは人間のいたずら説を採りたい。別に、超自然的な出来事を否定
しているわけではないが。……なるべく考えたくない。
「そうなると、次のターゲットはおまえだぞ。ホストをあれだけやっつけるなんて。まあ、
こっちはスッとしたが、招待客としてはまずいだろう。アバッキオの昨夜の態度もお行儀
いいとは言えなかったし」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「そこでだ、フーゴ、今夜はこっちで寝ないか？」
ネアポリスの新しい支配者は真面目な声で言った。
「ブチャラティ、正気ですか？」
「暖房は効いちゃいるが、この季節にだだっ広い部屋に独り寝なんて寒いじゃないか。こ
のところ温かい思いしかしてないから、広いベッドも逆に困る」
実のところは怖いのだろう。
「たまに手足を伸ばして寝たらいいじゃないですか。アバッキオも時々言ってますよ、自
分が横にいたら狭いだろう、遠慮してリラックスできないんじゃないか、たまにはひとり
で伸び伸び寝かしてやりたいって」
「そんなこと言ってるのか。しょうがないやつだ」
声音に少しの照れが混じった。
「とりあえず、今夜はクィーンサイズだ。おまえがいてもじゅうぶん手足を伸ばせる。頼
む。なんにもしないから」
「なにが『なんにもしないから』ですッ！ 嫌ですよ、あとでぼくアバッキオに殴られる
じゃないですかッ！」
跳ね起きて、フーゴは携帯に向かって怒鳴った。
「大丈夫だ、おまえなら。昔は一緒に寝てたって昨夜言ってみたが、なんとも言ってなかっ
たぞ」
とぼけた顔のままに、ブチャラティは平然と話を続ける。
「ちょっとッ！ なんてこと言うんですッ！ やめてくださいッ！」
アバッキオの嫉妬を恐れてフーゴは髪を逆立てて叫んだ。
「いいじゃないか、子供の頃の話なんだから」
「子供扱いしないでくださいッ！ くだんないこと考えないでさっさと寝るッ！ 夜更か
しは美容の大敵ですッ」
フーゴは叫んで通話を切った。と、またすぐに呼び出し音が鳴る。
「とっとと寝なさいッ！」
「まァ、フーゴ、ご挨拶ね。ちょっとつきあいなさいよ」
掛けてきたのは、彼の敬愛する上司ではなかった。
「ルチア！？ ごめんッ、いまちょっと取り込んでて。うん、なに？」
ベッドから飛び降りて直立不動になった天才児は、頬を赤らめて携帯にかじりついた。
「ねえ、あんた今グリマルディーニのおじさまの別邸にいるんですって？ ヴェスヴィオ
火山の見えるところ」
「ああそうだよ。道が崩れて閉じこめられてるのさ。耳が早いね」
「そこっていつもなにか起きて帰れなくなるのよね。それでカップルができたり、決定的
な喧嘩をして別れたり。裏の名所なの」
「やっぱりそうなの？ しまった、タルティーニよりきみに聞くんだったよ」
「うふふ。あたしも小さいころそこにしばらく泊まったわ。内装とか、ちょっとすてきよ
ね？
西の方に泊まってるの？ それとも東？ 部屋は２階？ 客間の、奥の主賓室からいく
つめ？」
「東館の方の２階。奥から３つめかな？ ブチャラティは昨夜はこっちだったんだけど、
ちょっとしたアクシデントで西の方の主賓室に変わったよ」
「ああ、東ね。３つめなら、ちょっと、ヴェランダに出てご覧なさいよ。今夜は雨も上がっ
ていい星月夜だわ。一緒にオリオン見ましょ」
声に招かれるように、フーゴはカーテンを開けてヴェランダに出た。広い。シングルベッ
ドを置いて脇を余裕で通れるほどの幅がじゅうぶんにある。
「ちょっといい広さでしょ？ そこの、ええと、右側の手すりの、端から数えて支柱の３
本目あたりが動くようになってるの。判る？」
フーゴは指示されるままに、支柱を数え、右側の３本目の上に手を当てた。彫刻を施さ
れた石造りの手すりが、少し体重を掛けると確かに動くようだった。
「ああ、動くよ」
ごとり、ごとりと低い音をさせて石が揺れ動く。
「そう。その手すりを、上にちょっと持ち上げると回るようになってるから、下の支柱を
軸にして時計と反対回りに回してみて？」
「ああ、回る、回るよ、ルチア」
フーゴは携帯を顎で支えて両手で石の手すりにとりついた。
「ええ、そこね、落とし穴になってるの」
「えッ！？」
フーゴの立っていた辺りがぱっくりと口を開けて、少年参謀の姿はかき消えた。
「なにやってるんだこのアホウ！」
手錠をされて裏のご招待部屋に連れてこられたフーゴを見て、アバッキオが髪を逆立て
た。各所に備え付けられた監視カメラでフーゴの失態はしっかり目撃していた。
「面目次第もありません」
したたかに尻を打ったフーゴは痛みもあって言葉少なだ。
「誰からの電話だったんだ！？」
「……ノーコメントです」
ぷい、と顔を横に向けて、フーゴは黙秘した。
「ま、次には参謀のぼくちゃんをってのはもともとの予定だったしな。自由はないが、適
当にのんびりやっててくれや」
フーゴを回収に行ったもう一人の「誘拐犯」が、ポットから温かいコーヒーを注いでフー
ゴに勧めた。
アバッキオも納得して従う様子を見せたので、一応かたちだけ手錠はされているが、部
屋から出されないだけで、ＴＶを見たり、携帯ゲーム機を貸してもらったりといい待遇。
食事もそれなりのものを与えられていた。
「無事で何よりです」
アバッキオの様子をさっと見て、短くフーゴは言った。素裸で連れ去られて、まず風邪
の心配をしたのだが、ちゃんとお仕着せのワイシャツと地味なスラックスを着せてもらっ
ていた。
……心配してましたよ。
あとは、顔を背けあったまま、スタンドでの会話。
……ああ、済まねえ、だらしなくて。
……薬まで盛られたんじゃしょうがないでしょう。あんたが暴れてくれたおかげで、次
からちゃんと気をつけて貰えてるみたいですし。
……グリマルディーニさんたちはノータッチみてえだな。
……どうでしょう？ とりあえず奥様たちは。
……黒幕は一応屋敷内だ。指示はインカムできてるみてえだが。あ、ムーディ・ブルー
スで案内させんの忘れた。
……なにやってるんですかあんたは。ああ、それであのひと今日一日中きょろきょろし
てたんだ。
……後遺症だッ。頭が痺れたみてえでスタンド出せなかったんだって、夜になるまでッ。
……歓の尽くしすぎなんじゃないですかッ？ ほんとに、ひとんちで、行儀の悪いッ。
なにが天蓋付のベッドですか、たまに広いフィールドに出たからって張り切っちゃって、
もう！
……いや、それはその、なんだ、……面目ない。
ムーディー・ブルースはうなだれると、薄くなって消えた。
可哀相になってフーゴは言った。
「きのうのブチャラティ、きれいでしたもんね」
「あァ」
二人、思い描いている姿は別々である。
翌朝。
「ブチャラティ！ フーゴがいねえよッ！ ヴェランダに続く窓が開いてて、ベッドに寝
た気配がねえッ」
ドアを開けるなりナランチャが駆け込んできて、広すぎるベッドを持てあまして寝付か
れなかったブチャラティは頭をかいた。
……ほら、だから言わないことじゃない。
アバッキオとフーゴを失って、ブチャラティは両腕をもがれた形になった。
「なあ、どうする？ フーゴいなくっておれら大丈夫？」
状況認識と作戦を頼り切っていた相棒が消えて、ナランチャはパニックを起こす。
「ねーさん、トイレ以外はおれとナランチャが側を離れないようにするから」
ミスタが、臨戦態勢の眼になった。
９
朝食の席で、ブチャラティが単刀直入に言った。
「ゲーム・オーヴァーはいつだ？」
アリギエリの答えは慇懃だった。
「仰ることの意味が解りかねます」
「いつ２人を返してくれるんだっつうことだよ！？」
珍しく、ミスタが声を荒げた。
「ご招待中に起きた『不思議』は、滞在が終わる頃には決着がつくものでございます。今
まではそうでした。ですから、工事が終わりまして、道が開かれましたら自然とお揃いに
なるかと存じます」
直立不動の姿勢は崩さずに、アリギエリは答えた。
「本当に工事ってやってんの？ 見に行っちゃうよおれ」
ミスタは剣呑な視線でアリギエリに近づくと、無遠慮にその肩に手を掛けてじっとその
顔を見つめた。
「ねーさん、ちょっとこっち来てこのおっさんの顔舐めてやんなよ」
「いやだ。ここから見てても判る。汗もかいてない。まったく真っ正直に思ったことをしゃ
べってるだけだ」
淡々とブチャラティは栄養を摂取することに専念している。文字通り、腹が減っては戦
はできぬ、だ。
「ただ、確かめさせてくれ。二人は怪我をしていないな？ 安全なところでちゃんと食べ
て、生命維持に必要なことはさせてもらっているだろうな？」
「多少の行動の制限はあるでしょうが、ご無事かと存じます」
その顔をじっと見つめていたブチャラティは、向き直ってグリマルディーニ老に質した。
「艦長の時はどうでした？ 取り乱したりはしなかったと思いますが」
「耳栓が必要じゃったかなあ」
百戦錬磨の老人は、頭を軽く振って答えた。
あの大音声で繰り返し粘り強く怒り、脅し、交渉したらしい。
「心配じゃろうなあ、ブチャラティ。すまんが、この屋敷はわしの支配も及ばんのじゃ」
口だけは謝ってみせるが、強かな老人の表情にはこれっぽっちも真心が籠もっていなかっ
た。
雨の上がった冬の日、外は少し気温が上がって、残り少ないブチャラティ・チームは外
に出て、屋敷の周りを少し検分した。
「こっちが最初の夜わたしたちが泊まった部屋だ、あ、どうも。いいお屋敷ですね」
庭のそこここに、何気なく庭師やメイドが立って監視をしているのでブチャラティはい
ちいち挨拶する。
「ねーさん、このうちやっぱすげえ上げ底になってるぜ。外から見たら両翼２００メート
ルはあるのに、中の廊下はおれ、１５０歩で行き止まりになったぜ？」
「ミスタの一歩は何センチだ？」
「まー身長の半分として９０かね？」
「じゅうぶん隠し部屋が作れるな。……実はそろそろ妖精さんが出て秘密の部屋に案内し
てくれるものと思ってるんだが」
「妖精さんが元気ならねー。ねーさん、ホントにやつら元気だと思う？」
「怪我はしていないまでも、眠らされてる可能性はあるな」
「あ、レーダー出す？」
やっとじぶんのスタンドの特技を思い出したナランチャが右目の前にレーダーを呼び出
した。
「だーめだ。いろんなところに４，５人ずつ固まってる。アバッキオ色とかフーゴ色とか
してりゃいいけど、メイドさんとかコックさんとかまでいれたら２０人だぜ？ 無理！」
と、すぐさま顔を左右に振った。
「……目的、なんだと思う？」
ミスタが声を落して聞いた。
「フーゴにそれを聞こうと思って昨夜ご招待したんだが、ヘンに気を回されて断られてし
まった。最近やつもお年頃で困る」
「いやーねーさんの部屋に夜一人で行くのはやっぱなんか遠慮するぜ。アバッキオ留守だ
し、ハハハッ」
すぐさまミスタは笑いに紛らわす。
「艦長もご招待されたんだろ？ そんで無事帰ってきたんだろ？ じゃ、たちの悪いいた
ずらでいーんじゃね？」
レーダーを見ながら屋敷の外回りを行って帰ってきたナランチャが無造作に言った。
「引き継ぎの慰労っていうかー、よくもこのおれをさしおいて跡取りになりやがッてーッ
ちょっと恐い目見せてやるーッて」
「やはりそれか？」
ブチャラティはとぼけた顔のまま言った。
「ねーさん、単純すぎ」
ミスタはさすがに引いた。
「艦長も、もと軍人に勤まるのか、とか、言われたらしいし。能力者といっても、一般人
には有り難みが解らないからな」
「じゃー、どーしたらいいの？」
「黒幕を納得させたらいいんじゃないかな？ グリマルディーニさんの後継者としてふさ
わしいと」
ブチャラティは伸びをするふりで屋敷の窓をちらりと見る。囚われの二人が自分たちを
見つけて合図をしてこないか期待している。
「どーやんのそれ」
真似して背伸びをしながら、ナランチャが尋ねた。
「さあ？」
「黒幕ってそもそも誰？」
続けざまにナランチャは尋ねる。
「グリマルディーニさんとか？」
「奥様だったりして。わたしの可愛いチェーザレちゃんが後継者よッつって」
ミスタが右手を曲げて左手と身体の正面でクロスするように立ててストレッチをしなが
らふざけた。
「ないない！」
ナランチャが破顔する。
「アリギエリさんはどうだろうか。グリマルディーニさんにも御しきれない感じだが」
「アリギエリって結局どういうひと？ 表ってよくわかんねーんだおれ」
ミスタが両腕を頭の後ろで組んで背を反らした。
……表の大番頭って言ったでしょ。５つほどあるグリマルディーニさんの会社のほとん
どを仕切ってます。みんな業績はいいですから、やり手といえるでしょうね。
ふっと現れたパープル・ヘイズの姿に、皆はぎょっとした。
「フーゴ！ 無事か？ アバッキオは一緒じゃないのか？」
続けざまにブチャラティが問いを発した。スタンドを出すのも忘れている。
……すみません、不覚でした。アバッキオも一緒にいますが、会わせる顔ないそうです。
「バカだな。余計なことを考えないで顔を見せてくれ。怪我はしていないか？」
……かすり傷一つないですよ。食っちゃ寝して太ったみたいで。あんたらひとんちで盛
り上がりすぎでしょう、彼、消耗してスタンドも出ないって。
……出るッ！
急にムーディ・ブルースも現れてみんな失笑した。
……アリギエリがくさいというのには同意です。彼は大番頭ですが、執事じゃないです。
こんな裏の人脈の招待に腕を振るう立場の人じゃない。今必死でぼくらの見張りをして
るひとを引っかけて情報引き出してますが、いままでこういう「ご招待」の時には必ずし
きってたそうです。なんでも、このうちのもともとの持ち主の家柄だそうですね。
……なるほど、それでしかけには詳しいわけだ。
冷静になったブチャラティはちゃんとスタンドで会話している。
……ぼくとルチアのことも、ファミリーの方にはばれないようにしてるから、表のスタッ
フ経由でばれたとしか考えられないんだよな。しかし、ぼくをはめるなんて、ルチア、覚
えてろよ……と、フーゴは何系統にも頭を分けて考えを巡らせている。
……忠誠心の方はどうだ？ チェーザレに心酔してて、今回のことでチェーザレにかわっ
てわたしたちに害をなそうとするような感じか？
……小さいころから彼の後ろ盾にはなってたみたいですが。あんまりあのひと感情を出
さないんで、判らないらしいんです。もしかしたら、実の息子のように思ってるかも知れ
ない。
……それで、横からグリマルディーニさんの後継者になったわたしに怒りをたぎらせて
いると？
ブチャラティの顔は感情をうかがわせない。どんな負の感情をぶつけられても、その姿
勢には揺るぎがない。彼女の部下達がリーダーとして密かに誇るのは、そういう強さだ。
……可能性の話だけです。今のところは。
……どう思われてもしょうがないが、問題は、どうしたらゲームを終わりにしてくれる
かだなあ。
……ブチャラティ、肉、頼む。
ムーディー・ブルースが片言で恥ずかしげにお願いした。
……あ、ああ解った、電話して早めに処分してもらうことにする。
……気にするところはそこじゃないでしょうッ！
パープルヘイズがぴしゃりと言った。どこか、屋敷の奥まった辺りで、本体たちもそう
いうどつき漫才をしているだろうと想像して、ブチャラティ・チームの自由な方のメンバー
はしぜん、頬を緩めていた。
その夜も豪華な食事を振る舞われて。ミスタは自分にあてがわれた部屋に急いでいた。
来訪時から眼を付けていたきれいなメイドに、今夜部屋にうかがいますと囁かれたのだ。
「やっぱさーせっかくのご招待だから、こういうアバンチュールもないとね」
ご機嫌でシャワーを使って、うきうきと来客を待つ。
果たして、ドアはノックされた。
「ミスタ様？」
満面の笑みでミスタはメイドを迎える。シンプルな私服に着替えた彼女は、年相応の娘
に見えた。
「こんなはしたない真似、いつもはしないんです。でも、あの、お客様が男らしくって素
敵だから……勇気を出してみました」
少しの恥じらいを見せて、か細い声で囁く。
「うれしーよ。もっと勇気出しちゃって。じゃあ、こっち来てみようか」
「ええ……」
彼女は足を進めて、ミスタの腕の中に入る。
「つかまーえた！」
ふざけてミスタがおおげさに抱きすくめる。キスを待つ顔になって、彼女の両腕がミス
タの首筋に絡みつく。
「……ッ！」
「……捕まえた」
一瞬の早業で、麻酔薬を入れた注射がミスタの首筋に突き立っていた。
「……面目ねえ」
アームチェアに両手を縛り付けられた状態で目覚めたミスタが、左右を見回して開口一
番つぶやいた。
「……もしかして、ぼくらとっても女性に弱いと思われてませんか？」
憮然としてフーゴが言った。
「そこはナランチャの活躍に期待しよう」
眉間の皺を隠そうともせずにアバッキオが低い声で言った。
１０
「ミスタも消えたみたいだ」
朝食の席でブチャラティが静かに告げると、ナランチャは泣きそうな顔をして肯いて見
せた。
遊戯室の真新しいゲーム機は今や梱包を解かれ、ようやっと役に立っていた。野生動物
のように全身で警戒感を示してブチャラティに貼り付いているナランチャの気を紛らわせ
るために、大奥様も奥様もおっかなびっくりコントローラーを扱って、レースやシューティン
グに誘ったのだ。
「オッタービオが生きていたら、わたしたちもこんなことをする機会があったかしら」
奮戦虚しく最後の機体が爆発炎上して、詰めていた息を吐いたガラテアがあえかな微笑
みでナランチャを見やると、素直な少年は荒んだ気分のままに首を振った。
「１４，５にもなって親とゲーム喜んでやる男なんていないよ、おばさん」
「ナランチャ、そういうおまえは幾つだっけ。１７？ １８？」
すかさずブチャラティは場をつなぐ言葉を入れた。勘のいい少年は恥じて黙りこんた。
「……でも、フーゴはその辺ハッキリしてるから、嫌だったらいろいろ理屈をつけて断る
よ。絶対しねーよ。でも、大奥様たちに誘われたら断らねーでいそいそ出かけるから、嫌
じゃねーんだよ。そこんとこは」
小声になって、ナランチャがぼそぼそと言い出した。
「少し休憩しましょう。根を詰めると眼に悪いらしいです」
ブチャラティが言って、お茶を頼んだ。
「そんなにフーゴが奥様方と親しくさせていただいてるとは思いませんでした」
聖誕祭休暇のあとのミスタの嘘から始まったトラブルはアバッキオの出奔という大事に
いたって、隠居したグリマルディーニ老には随分世話になった。その交換条件としてフー
ゴの貸し出しが始まったとブチャラティは認識していたが、死んだ孫に面影の似ている少
年には、夫妻は前々から眼を付けていたらしい。
「うちでお預かりしていた頃から、もうちょっと構ってあげたかったんだけれど、あの頃
はその、パンナコッタくんも心が落ち着いていなくて、ちょっと、そっとして置いた方が
いいと言われていたの」
なにしろ行く先々で使用人やら間男やらを半殺しにしていた頃だ。それも、スタンドな
しで。いくら天使のようでもちょっと手の出しようがなかったことだろう。
「ブチャラティさんと一緒にチームを始めたって聞いても、心配で」
「あの頃はわたしも毎日毎日生きていくのが精一杯で。皆さんに心配してもらっていたと
は思いもよらず、今になって思い知って、感謝しているところです」と、ブチャラティも
昔を懐かしむ顔になる。
「でも、今は随分いいカンジになって。チームも落ち着いて、ポルポさんにも認められて、
うちのひともお仕事を任せていいと思うようになって」
「本当に、ありがとうございます、光栄です」
ブチャラティは折り目正しく礼を述べる。そういえば、そのグリマルディーニの仕事の
引き継ぎの慰労という名目の招待だった。
「今の様子なら、あの子の両親も安心なんじゃないかしら」
遠くを見る眼になって、ガラテアがうっかりと漏らした。どうも、本当に両親と繋がり
があるようだ。
「今日は随分暖かなようです。なにかスポーツの設備はないんですか？ 外で身体を動か
した方がいいようです。……なんだか太ったみたいで」
ブチャラティが、慌てて話題を逸らした。
「テニスコートもあるにはあるけど。午後はちょっと出てみましょうか？」
「大奥様」がにこにこと応じた。
運動神経のいい少年は、少しの手ほどきでもうフォアハンドで自在に球を打ち返すよう
になった。ブチャラティも、空振りが２回に１回から３，４回に１回になってきている。
「まあ、さすが」
「パンナコッタくんもテニスが上手で」
少し息が上がる程度に留める奥様方のテニスのお相手は彼らには簡単。
気持ちよく汗をかいたところでまたお茶になる。
「そういえば、どんな用事にお供してるんですか？」
「テニスとか、ゴルフとか。劇を見に行ったり、絵を見に行ったり」
なるほど。仲間はずれを寂しそうにしていたナランチャも、聞くなり自分には無理、と
首を振って見せた。
「お行儀が良くて、なんでも巧く合わせてくれるから皆さんに好評なのよ」
フーゴはずいぶんとうまく猫を被っているらしい。
「おかげでパンナコッタくん目当てでお嬢さん達がよくついてきてくれるようになったっ
て言われるの」
「お義母さま、それは内緒でしょう」
「あら、そうだった」
「あ、いーな、若い女の子も来てるんだ？」
しょぼんとしていたナランチャがまた眼を輝かせる。
「でも、みんなに公平に親切に愛想良くしているだけよ。心配ないわよ」
そのへんの噂話のコントロールは、それはブチャラティより大奥様の方が巧みだった。
「ナランチャくんはいつもどんなことをしているの？ 差し支えない範囲で、教えて？」
気を使って話を振られて、ナランチャは少しブチャラティを窺う顔つきになった。
「奥様方がびっくりされない程度に」と、ブチャラティが肯いてみせると、
「じゃ、おれのとっときの話ね。
おれ、オフクロが死んでから、全然おやじに構われなくなっちまったの」と、悲惨な少
年期の話から語り起こす。心優しいご婦人方が胸を痛めるような話はさらっと済ませて、
二人が興味を持つパンナコッタ少年がナランチャを拾ってくれた辺りを身振りを交えてお
おげさに話す。
「年は同じぐらいなのに、向こうはビシーッとスーツでキメて、背筋も真っ直ぐにして歩
いてるのが、おれのことつかまえて、レストランに真っ直ぐ入っていって、そこで食事し
てるブチャラティに言ったんだ。誰にも文句付けさせねえって迫力で。
『こいつにスパゲティを食べさせたいんですが、構いませんねッ』って」
感嘆のため息が上がる。
「そしたらそのひとが、ブチャラティが、ああいいよとも、もっともだともなんとも言わ
ないで、すぐそこへ来た自分のスパゲティを、すぐさまおれに食わしてくれたんだよ。温
かい、アルデンテのスパゲティを。あんなにうまいめしは初めてだったよ」
黙って肯いたご婦人達の眼が、ブチャラティに注がれる。温かい、賞賛のまなざしだ。
「それで、そのあとおれを病院に連れてってくれたり、おれが軽い気持ちで子分になりた
いって言ったのを叱ってくれたのもあって、おれはこのひとについてくって決めて、ポル
ポさんの試験を受けてチームに入れたんだけどさ」
けろりと話を継いで、ナランチャは眼を光らせた。
「チームに入ったら、おれの仕事はパトロールだった。シマを一日に何度も行き来して、
困ってることがないか、面倒を起こしてるやつがいないか見張って、ブチャラティに教え
たり、自分でヤキを入れたりするんだけど、そのうちなんかヘンだって気づいたんだよ」
まだ幼さを残した顔にはいたずらっぽい笑みが戻っている。
「パトロールにはブチャラティもついてきてくれることが多かったけど、いろんな銀行の
集まってる交差点のとこ。サツのやつらも毎日立ち番してるあの角、よく通るなーッて、
思うようになって」と、思わせぶりにブチャラティを見やるが、当のブチャラティは気づ
いていない。
「ジューヨーキョテンってことなのかなって思ってたんだけど、なんか、日によって違うん
だ。すっと通ってそれっきりの日もあるし、なんか急にだーっと駆け抜けて、そのあと念
のためつってもう一回通る日もあるし、しまいにゃゆーっくり３回も通る日もあるし。こ
りゃいくら何でもおかしいって」
「あらあら？」
大奥様が感づいて、愉快そうに眼を輝かせた。ブチャラティは、まさか、といったふう
に眼を見開いている。
「そのうち、フーゴには内緒だぞ、なんていってジェラート奢ってくれるようになって。
よっく考えてみたら、それって、必ず立ち番のお巡りがおんなじやつの時なんだ。いっぺん
そのお巡りがおれの脚の怪我、手当てしてくれた時なんて、ブチャラティ舞い上がって、
そいつが触ったおれの頭撫でまくりで一日ぽーっとしてたよ」
「ナランチャッ！」
手に取ろうとしたカップをがちゃつかせてブチャラティが声を上げた。
「えーいーだろ？ うちのシマの連中はみんな知ってるぜ？
それが、めっぽういい男だつっておばちゃん連中に人気で、ガキ大将のニッコロとかも、
取っつきにくいけど、けっこー親切なお巡りだって、なんか頼み事のときはあのお巡りの
時を狙っていくんだとか結構地味に評判だったんだ。
そんで、フーゴともどうしようかとか言ってて、ポルポさんにばれたらブチャラティお
仕置きされるかもとか心配してたんだけど、おれたち」
「……それは心配をかけて悪かったな」
耳まで赤くなってギャングの幹部候補生は蚊の鳴くような声で言った。
「こっちのひとに相談したら上にまでバレちまうかもだし、あの頃はまだおれ山の手のひ
ととかそんなに知らなくって、ほんとどうしようかと思ってたら、そいつなんかやめちまっ
たとかで急にいなくなって。安心は安心だったんだけど、ブチャラティがあからさまにしょ
ぼーんとして」
「まあ！」
ご婦人達が微笑ましげに目を見張る。
「してない！」
ブチャラティはもう身をよじって声を上げる。
「してたって！ そりゃ、がんばってなんもないように見せてたけど、おれ達にはバレバ
レだったって！
そんで、ある日、朝、フーゴが真っ青な顔して、ブチャラティが壊れたって。男を拾っ
て、チームに入れるって言ってるって。それが、なんとあのお巡りで、巧い具合に能力者
で、そんででかい図体してアジトにふんぞり返ってて、なんでもやるぜって。
嘘だと思ったら、ホントにトイレ掃除から雑用こなして、そのうちおまえらもっとちゃん
とめしを食えとかいってキッチンに入ってめし作りだして。これが、芋の皮も剥けなくて、
大丈夫かと思ってたらどんどん上達して、しまいにゃフーゴの誕生日にパイ焼いてくれて。
ブチャラティの誕生日はすっごいタルトで」
「それは立派だこと」
節度を守りながらも楽しげに笑いこけて、「大奥様」は言った。
「すてきなロマンス」と、ガラテアも同意する。
「……まあそういうわけで幸運でした」
ブチャラティは観念して言った。
「日頃の行いが良いせいよね」
ひとのよい大奥様はそう言って締めた。
ブチャラティはなんとか和やかな雰囲気を作るのに貢献したということで自分の感情を
落ち着かせた。得意げなナランチャには拳骨をひとつくれてやって。
滞在４日目が暮れようとしていた。
「毎晩ご馳走を頂けるのは嬉しいのですが、消えた連中にも食事は出していただけている
のでしょうか？」
ブチャラティは油断なく確認する。
「まったく同じものとまでは参りませんが、そこそこのものはお出ししておると思います」
アリギエリはまったく動じない。消えたメンバーが自分の監視下にあることを認めてし
まっているが。
「社長は？ ここ１，２日はお目にかかれていませんが」
チェーザレは部屋に籠もって酒を飲んでいるらしい。愛人を呼び寄せるわけにもいかな
くなったのでせめてもの憂さ晴らしのようだ。
「面目ない。ホストとしての役目も果たせぬようでな。昨夜叱って置いたのじゃが」
グリマルディーニ老の顔を憂いが過ぎった。
「こちらにも失礼な振る舞いがあったことですし。お気になさいませんように」
とぼけた顔はそのままに、ブチャラティは社交的な言葉を繋いでおいた。
「ナランチャ、今夜はたぶんおまえの番だから注意して。そうだな、わたしの部屋へ来る
といい」
食事を終えて部屋に引き取って、ブチャラティはすぐさまナランチャに電話を掛けた。
「えーいーの？ あとでおれアバッキオに殴られたりしねー？」
ナランチャは一応遠慮しつつも無邪気に喜んで見せた。
「ムーディー・ブルースも寄越さないやつに言われる筋合いはない。こっちの身を守る必
要もあるんだから、使える能力者には側にいてもらわないと。いいな？」
「うん、行く」
ご機嫌でナランチャは通話を切った。べつにそんなあとで修羅場になりそうなことは期
待しちゃいないけれど、不安だと言ったらブチャラティは寝付くまで抱っこぐらいはして
くれるかも知れない。
……きみはいくつなんですか？
遠慮ない言葉をいつも浴びせてはいても、ブチャラティを大切にすること中世の騎士の
ようなフーゴはあとでつめたい眼で見るかも知れないけれど。
最初の夜以来部屋を替えたブチャラティの主賓室は、廊下のずっと向こうだ。ナランチャ
は薄暗い廊下にちょっとびくつきながら、足音を立てないように歩いていった。
「レオーネ！ レオーネどこだ！？」
とうとう忍耐が限界に来て、ブチャラティは屋敷中をスティッキィ・フィンガーズで殴っ
て回っている。どの壁を断ち割っても、目指す人影は見えてこない。
「……ッ！！」
奥まった辺り、使用人のたまり場のさらに奥の壁を切り開くと、見慣れたプラチナの髪
が床の上に広がっていた。
大きな身体はなく、ただ、首だけが。
様々なものを見たであろう眼は、むごたらしく焼き潰されていた。
……痛かったろうに。
端整な顔は、血で汚れていた。
ブチャラティは、屈んでそれを拾い上げるとそっと口づけた。
……何日ぶりだ？ こんなにおまえと離れているのはあれから初めてのような気がする
よ。どうして相手の言うことを鵜呑みにして、真剣におまえのことを探さなかったのだろ
う？ 体裁を繕って、平気な振りをしていたのだろう？ 大切なひとを返してくれと訴え
なかったのだろうか……
ブチャラティは、アバッキオの首を左手に抱えて歩き出した。
手当たり次第に屋敷の壁という壁を切り開いてゆく。チェーザレの部屋の奥に、亜麻色
の髪の少年が横たわっていた。その顔を持ち上げてみると、青い眼のあるべきところがぽっ
かりと開いていて、白い丸々とした蛆がぼろぼろと零れ出た。さまざまに毒のある言葉を
吐いた口からも、おぞましい幼虫が滝のように這い出てくる。
遅かった。
どうして悪意を感じ取れなかったのだろう。
どうして行動をすぐに起こせなかったのだろう。
……ごめん、置いていく。
残る二人を捜さなくてはいけないから。
ミスタは割り振られた部屋の中にいた。
蜂の巣にされてもその顔は愉快そうで、両手は一杯に広げられていた。
後悔のない生を楽しめただろうか。
それでも短すぎる。
見開いたままの目蓋を、そっと閉じてやった。
ナランチャを示すものは、いつも腰に巻かれていたオレンジの布だけだった。
客用寝室からまっすぐ主賓室への廊下の真ん中は、爆撃で大きな穴が開いていた。黒い
靴、バンダナの切れ端、首に巻き付くストラップ。あとは散り散りの肉片。ついさっきま
で小癪に話していた可愛い部下。幾度か経験のある、ひとの肉の焦げた匂い。
自分の大切なもの達は、皆、永遠に去ってしまった。
昔の記憶が蘇る。突然に断ち切られた絆。目の前で斃れてゆく仲間達。恐ろしい銃撃、
アジトの建物自体が痛みに身をよじっているような震動。ジッパーの中の亜空間に、自分
だけ逃れてやり過ごした虐殺の瞬間。
やめて、やめて、やめて。
これ以上自分から取り上げないで。やっと作った自分の居場所、笑えるところ、心安ら
ぐ仲間達。なにより大切な自分の宝物。
……おまえはシマを引き継げ。
つながっているのは性器でだけ。このひとのことは、頼りにも、尊敬もしてはいない。
ただ命令に従って、自分のできることをするだけ。どんないやらしい、おぞましいことも。
立ち止まって考えている暇はなく、必死で死なないように立ち回っただけ。それ以上のこ
とがついてきたのは、たぶん運だろう。周囲のひとが噂するような、特別な感情はどちら
も持っていない、おそらく。
……はい、ポルポさん。
これからもずっと、自分はこの男の腹心であり続けるだろう。この先誰と組んで仕事を
するにしても。誰に身体を許すにしても。
……グリマルディーニの後はおまえに任せよう。ネアポリス全市がおまえの下に入る。
……はい、ポルポさん。
……もう、報告には別のものを寄越してもいいんだぞ。年かな？ そんなに色事に興味
がなくなった。おまえも、勝手に相手を選べばいい。こちらに気を遣うことはない。
……はい、ポルポさん。
死にたくないと思った。父を抱えて、父を殺させないために、自分が死なないために必
死で知恵を絞った。そして、しゃにむに組織のために働いてきた。
その結果が、これだ。
「返して！ シマなんか要りません！ 地位も低くてもいい！ 仲間を返して！ 大切な
ひとたちを返して！ やっとできた居場所なんです！ 大切な……何物にも代え難い……
返してください！」
やっと声が出て、その声でブチャラティは目覚めた。アームチェアに、坐ったきりだっ
た。もう夜は明けていて、ナランチャに掛けた携帯に応答はなかった。
５日目の朝。正餐室の長テーブルに、招待客側はブチャラティだけになった。
１１
「とうとう今朝はわたしだけのようです」
微笑んで挨拶され、さすがにホスト側は表情に困っていた。
「粘りましたね、あの女。さすがは艦長の秘蔵っ子。反応は真逆だけど、同じだけの日数
を堪えきりましたよ。じゃあ、お客人たちを解放しますか？」
モニターで正餐室の様子を見ていた「誘拐犯」が、インカムで「黒幕」に指示を請うた。
「そうだな」
正餐室の手前で、朝食の目配りをしていたアリギエリが眼をすがめた。この日も、ホス
トの席は空いている。その席を埋めるように、グリマルディーニ老とご婦人達が、にこや
かにブチャラティに話しかけて虚しい和やかさを作りだしている。
「艦長は、それは大物だった。その名の通り、海軍では大佐をつとめ、ひとつの艦（ふね)
をまとめ上げたひとかどの人物だった。あの事故で右手を失い、少しの人命も失った責任
を取って船を下り、軍を辞めたあと、ポルポさんが手を尽くして迎えた人材だった。
その艦長も、しまいには部屋に閉じこもって顔見せなくなったというのに。
僅か２０才かそこらの小娘が、にこやかに笑顔まで見せて、同じだけの日数を堪えて見
せただと！？
……ポルポさんの判断は正しいと認めざるをえないようだな」
「ええ、さようで」
「だが、わたしは社長、チェーザレ様にお仕えしてきたのだ。あの方がまだ高校生だった
頃から、旦那様のお言いつけで、ゆくゆくはネアポリスを支配する方にと差配してきた。
若い頃にありがちな不始末も、全てわたしが片を付けて差し上げた。あのご立派な旦那様
の血を引くお方で、間近にあの芸術的でもある生き残りの手腕を見ておられるのだから、
きっと強かな事業家になられることと期待して、なんでも言うことを聞いて差し上げてき
た。それが、どこの馬の骨とも知れぬ小娘に、ポルポさんのお気に入りとはいえ、旦那様
がやっと育てあげたこのネアポリスのシマをくれてやらねばならないなんて！ そうだろ
う？ 誰が真に旦那様の後継者としてふさわしいか、示してもらわねばならないだろう？」
アリギエリの声はもはや抑制を失っていた。
「ええ、ですからもうじゅうぶんなのでは？」
「延長戦だ。お客人には今しばらくご辛抱いただけ」
「はい？」
「内容は追って指示する」
「ちょっと、副社長？」
「だめじゃんかよ、おまえまでねーさんの側を離れたりしたら」
人質部屋ではミスタがナランチャを締め上げている。
「だって、曲がり角んところでいきなり袋かぶせんだぜ、ここんちのやつら！」
こぶを作った頭を庇いながら、ナランチャが泣きそうな声を上げた。
「意外とローテクって効くんですよね」
フーゴは無意識に尻をさすっている。
「さすがに堪えてんな、あいつ」
モニターでブチャラティの顔を確認してアバッキオがつぶやいた。
「顔には出てませんけどね」
「悪い夢見たんだろうな」可哀相に、という呟きは、口の中だけに響いた。
１２
「それで、ゲーム・オーヴァーはいつ頃になりそうかな？ いくらなんでも道は直った頃
だろう」
ブチャラティは顔を合わせる度に催促する。
「急がせておりますので、これからはスピードアップいたしますよ。お要り用なものはで
きるだけお届けしますから、今しばらくご辛抱ください」
アリギエリの慇懃な姿勢は崩れないが。
女が途切れてご不自由しているのはチェーザレ様だった。
「開けろ！」
千鳥足で、ガラテアの寝室に入り込む。もう１０年ほども寝室は別で、夫婦らしい交渉
は途切れているのだが、とうとうメイドに無理矢理言うことを聞かせるのにも飽きて、使
えるものはなんでも使う境地に至ったようだった。
「なんのご用でしょう？」
表情を硬くしながらも、ガラテアは姿勢を正して応対した。
「たまに相手をしてやろうと思ったのさ。おまえもこんなへんぴなところに閉じこめられ
て暇だろう？」
「ブチャラティさん達といろいろお話をしてそれなりに楽しんでいますわ」
「あんな馬の骨とおまえのようなお嬢さん育ちが、話が合うものか！」
「いいえ、いろんなお話が聞けて楽しいです」
「優等生な答えだな」
「いいえ、あんなちいさな子が、苦労して必死に生きてきたという話を聞くのは少しはショッ
クでしたが、世間というものを知る術になりました。あなたも部屋に籠もっていないで参
加なさればよい……」
平手打ちがガラテアを黙らせた。
「小賢しい！」
「恥ずかしいとはお思いにならないの？ まだ日も高いうちからお酒を上がって。招待者
としての責任も果たさずに。
ああ、どうしてお父様はあなたをわたしの夫とお決めになったのでしょう！？」
大人しいと思っていた妻の反撃に、チェーザレは狼狽えた。痛いところを突かれてもい
る。
「ああ、おれは、おまえとおれの父親が決めたおまえの夫だよ」
顔を怒りに青黒くしたチェーザレは、ガラテアを突き倒すと荒々しく当初の目的を果た
した。
その様子はモニターで人質部屋にも流れていた。
「あーあ。男の屑だな。ねーあんたらこーゆーのがお頭で恥ずかしくねーの？」
礼儀を守って画像からは目を逸らしても、高性能のマイクは女のからだをいたぶる音や
罵声、すすり泣きをちゃんと拾って届けている。それを眉尻を下げて聞きながら、ミスタ
がもう気安くなった監視のスタッフ達に話を振った。
「止せ」
アバッキオが不快感を全身に漲らせて短く制した。
ナランチャとフーゴはお互い向かい合って仲良く耳を塞ぎ合っている。
……枷が外れたらどういう発散の仕方をするんでしょうね、フーゴは溜め息混じりにア
バッキオを見守っている。
敵地で一人ずつ味方が減ってゆくというストレスを与えて反応を見るという趣向であろ
うというのはもう解った。ブチャラティ一人になっても堪えきったということで、今朝か、
そうでなければ今晩にでもゲーム・オーヴァーになるものと思ったが、使用人の動きを見
るにそうでもないようだ。
アリギエリが予定外の動きを見せ始めると、危険だ。
フーゴは静かにより注意深く観察を続けた。
１３
晩餐の席には、やっとチェーザレが姿を見せた。が、ガラテアが現れない。
「ふて腐れてるんだろう。構うな！」
チェーザレが吐き捨てるように言ったので、さらに人数の減った晩餐が始まった。ブチャ
ラティは黙って食事を口に詰め込んだ。
「ここんちのめしも悪くはねーけどさ、アバッキオ、あんたの手料理食いてえ。ねーさん
もそう思ってるぜ」
手錠をしたままの手で、小さく切り刻まれた肉をスプーンで寄せて口に運びながら、ミ
スタが言った。材料も調理も良いが、人質の身なのでさすがにナイフとフォークを使わせ
てはもらえない。
「黙って食え」
アバッキオが短く応じた。
晩餐の後は、ブチャラティはすぐさま部屋へ引き取った。
「監視係」たちに少しのどよめきが上がる。眼を上げたミスタがちょっと笑った。
「見ろよ、色男」
「ひとの女を下種な目で見るんじゃねえ。殺すぞ」
着替えのタイミングと察して、殺気をほとばしらせてアバッキオが顔を上げる。と、こ
の夜のブチャラティは、持参の「お姫様ネグリジェ」ではなく、アバッキオが部屋着に持
ち込んだシャツを直に着込んでいた。自分で自分を抱きしめるように両腕をぴったりと巻
き付けて、残り香を探すように眼を閉じて息を吸うさまは、凄艶なようすがあった。
……アバッキオ、あんた幾つ喰らわす？
ｂPがアバッキオの目の前に浮かんでいた。
……なんのことだ？
アバッキオも、瞬時にスタンドを出した。
……ゲーム・オーヴァーになったらあの黒幕じいさん一発殴ってやんなきゃ気が済まね
えと思ってるんだけどさ、おれ。
愉快そうに、その眼は笑っている。
……今のねーさんの顔見せてもらったら、もーいーかなって気もするし、あんな顔まで
させちまって、どうしてくれようって気もしてる。だから、あんたに聞こうかと思って。
……理由を聞いてだな。相応の理由がなかったら、半殺しだ。
……ぼころうぜ。
ナランチャがエアロスミスを頭の上で旋回させながら鼻息を荒くしている。
……命までは取る必要ないですよ。
フーゴはパープル・ヘイズを浮かばせて素っ気なく言った。
……フーゴは優しいネエ。と、ｂPが飛びすさって息を吐いた。
……恩を着せてやって、あとあと死ぬまで飼い殺しです。
フーゴは心中呟いていた。参謀として、早めの退場を企図されることは自分でも納得が
いったのだが、恥をかかされた恨みは大きい。
……いったいなにを目的としているんだろう？
大番頭ともあろうものが、このような悪ふざけを仕込んだ目的について、フーゴは頭を
忙しく働かせて考えていた。
６日目の朝、事態は急展開する。
「あのォ、奥様がいらっしゃいません」
朝食の席に、メイドが当惑顔で報告した。
１４
「まだかかるんですか？」
「そのようじゃの」
ブチャラティはとぼけた顔で、グリマルディーニ老は温和な顔を崩さずに会話した。
またしても、ガラテアの寝室は血の海で、見に行ったチェーザレはそのまま部屋に引き
こもった。
「あらあら、それじゃあ次はわたしかしらね？」
「大奥様」が暢気な声を出した。
「よしなさい、縁起でもない」
まったく、縁起でもなかった。
グリマルディーニの奥方も、昼食までに姿を消した。
「巻きが入っておるようじゃ」
顔色も変えずにグリマルディーニ老はスパゲティを平らげた。
「ご心配でしょうに」
ブチャラティも速度を合わせて食べ終えた。
「ブチャラティ、次はわしじゃろうから言っておく。
この期に及んでなにも取り乱しておらんおまえをわしは買っておる。このふざけた『お
楽しみ』とやらがなくてもな。じゃが、これを経験してさらにわしはおまえを尊敬さえす
るようになっておる。
わしのシマをおまえに譲ることになんの異存もない。むしろ、誇らしくさえ思う。ポル
ポさんのご意向に従いなさい。それが皆にとって良い道じゃ。
艦長は５日を堪えきった。今回と同じじゃ。連れてきた子分どもを夜ごとに隠して精神
的重圧を与え続けた。最後には怒鳴り疲れて部屋に閉じこもりはしたが、最後の子分が消
えて１昼夜堪えきった。おまえも、同じだけ堪えきったからにはもうそろそろアリギエリ
から合図がある頃と思っておったが。
……あれにはチェーザレを任せておいたから、チェーザレに思い入れがあってのことか
も知れん。滅多なことはないと思うが、気を引き締めていけよ」
「……ありがとうございます」
慎重に返事をするブチャラティだった。
晩餐の時間になって、案内されて正餐室に赴いたブチャラティを迎えたものは、誰もい
なかった。
がらんとした正餐室で、たった一人の招待客に晩餐は礼儀正しく供され、客は堂々と虚
しい食事を平らげた。
「社長はどうしているのかな？」
ぽつりとアリギエリに尋ねた。
「お部屋に。お誘いはしましたがどうしても独りがいいと仰せられて。お客様には失礼を
いたしております」
「ご無事ならいい。……旨かった。ごちそうさま」
森閑とした６日目の夜が過ぎた。７日目の朝になって、ブチャラティは寝坊した。いつ
までたっても案内がなかったのである。さすがに空腹に堪えかねて、昼近くに正餐室に顔
を出したが、一応の支度がされていただけで、人気はなかった。監視のカメラに一言断っ
て、ブチャラティはそれに手をつけた。
正午が過ぎてもさらになんの案内もなかったので、ブチャラティは邸内を調べ始めた。
それまではメイドや使用人がさりげなく要所要所に立っていたのに、この日はまったくそ
れがなかった。声を出してチーム・メイトやグリマルディーニ家の人々の名を呼んでみた
が、応えはなかった。
厨房を調べると、５日分の保存食料と食べ方を示した紙が残してあるきりだった。６日
目以降どうなるのかについては指示はなかった。
ご丁寧にブレーカーを落していったらしい。陽が落ちた冬の邸内で、なんとか見つけた
懐中電灯を手に、パニックを起こしているらしいチェーザレの怒号の響く部屋を目指して
ブチャラティは歩き出した。
「ガラテア！ 意地を張ってないで出てこい！ オフクロ！ いるんだろ？ 親父！ 親
父よぉ！ ナニ考えてるんだよ、悪ふざけが過ぎるぜ！」
……この男はもう４５じゃなかったかな、ブチャラティはそんなことを考えながらドア
をノックした。
「アリギエリ！？ 開いてるぜ！ いったいどんな趣向だ？」
泣き笑いのような声が響いてくる。
「ブチャラティです、社長。新展開みたいですね。スタッフもみんな消えました。屋敷の
中はわたしと社長の二人きりになってしまったようです」
「………………まさかだろ？」
長い間の後で、擦れ声でチェーザレの問いが返ってきた。
「残念ながら。腹がお空きではないですか？ 食事は厨房にあります。懐中電灯を持って
来ました、どうぞ」
慌てて身なりを整える音がして、チェーザレは姿を現した。
「気が利くな。行こう。案内しろ」
二人は厨房へ行き、主にブチャラティが働いて、なんとか温かい食事を採ることができ
た。
「お部屋まで送ります。その後はこれはわたしが持っていきますが、よろしいでしょうか？」
唯一の光源を手にして、ブチャラティが一応の確認を取った。
「ああッ、持って行けよ」
「暖房が切れているかと思いますが、社長はお休みになれますか？」
「構うなッ」
「失礼しました。ではよい夜を」
礼儀を守ってブチャラティは辞去した。あとには闇が残された。
「アリギエリーッ！ どこにいるんだーッ！？ これはなんの真似だッ！？ 灯りを付け
ろッ！ エスプレッソッ！ 風呂を使いたいんだおれはッ！」
叫び声がブチャラティを追ってきた。
「そっちは寒くないか？ ちゃんと食べてるな？」
主賓室に戻ると監視カメラの位置に向かってブチャラティは声を掛けた。
「お休み」
ひらひらと手を振って見せて、リーダーは堂々と眠りに落ちた。
「ねーさん大物」
「ですよね」
「やっぱブチャラティってすげえ」
「まったくだ」
抑えた嘆息が上がって、それは「監視役」たちに制せられた。
……お静かに。もう少しで仕上げだそうですから。
１５
８日目になって、また雨が降り出した。
朝、勝手に厨房を使って、なんとかオムレツを作るとカンパンや少しのハム類、サラダ
とは言いたくない洗ったレタスをむしって盛っただけのボウルと温かいだけがご馳走のエ
スプレッソをワゴンに乗せて、ブチャラティはチェーザレの部屋へ行った。
「社長、朝飯です」
憔悴しきった顔が、彼女を出迎えた。
「毒が入ってるんじゃねえだろうな？」
「ああ、そういうこともありましたね。……あいにく手持ちがありませんので」
とぼけた顔で、じつに素直にブチャラティは言ってのけた。
「もらおうか」
チェーザレは招き入れて、カーテンを開けて窓際のテーブルの席にどかりと坐った。
ワゴンの上を見て、苦労知らずのぼんぼんはあからさまに溜め息を吐いた。
「おまえ、これがひとに食わせるオムレツか？ こんなものしかできなくて、よく男に愛
想を尽かされないものだな」
「恐れ入ります。わたしも同意見です」と、皿を下げようとすると、
「食ってやるよッ」と、チェーザレはさっとフォークで掬い上げて目をつぶって飲み下し
た。
「これはなんだッ？」と、カンパンを指で弾く。
「カンパンですが……気をつけて。腹の中でふくれます。朝食なら３つも食べれば」
「難民じゃねえんだぞッ」
「残念ですが」
ブチャラティは淡々と口に運んでいる。
「こんなに厚くプロシュートを切るやつがあるか、ひとんちの食材だと思って。しかもこ
の切り口！ シェフがあとで泣くぞ」
ぎざぎざに波打った生ハムは、とりあえず見栄えよく切れた方をチェーザレに供したの
だったが。
「相済みません、不慣れで」
涼しい顔は崩れない。
「まあいい」
黙ったまま、朝食は続いた。
「この先、どうなるんだ？」
立って窓の外を透かし見ながら、チェーザレが言った。
「さあ。社長こそ、アリギエリさんからなにかお言伝（ことづて）があったのでは？」
「無えよ」
雨脚はまた強まっている。午前中だというのに、もう薄暗い。
「おまえはいいよな。超能力者なんだろ？ ぴぴっとなんか飛ばして、仲間と連絡取れるん
だろ？」
「一応元気ではいるようですが、今朝は連絡が取れません。社長のご家族のことも判りま
せん。……そんなに便利なものでもないんです。食事も睡眠も必要です。過去のことも未
来のことも読めません。殴られれば痛いし、仲間を失えば悲しい」
「それでも、殺し合いならおれが負けるな」
振り向いて、静かな声に殺気を忍ばせてチェーザレは言った。
「純粋にいまここでというならそうかも知れません」
ごくごく素直にブチャラティは応えた。まっすぐに相手の目を見返してはいるが、同時
になにも見ていないようでもある。
「ホント、猫みてえな女だよおまえは」
足を踏み出して、右の手を真っ直ぐに伸ばし、猫の仔を押さえつけるようにブチャラティ
の細い首を掴んだ。そのまま真っ直ぐに足を進め、寝乱れたベッドの上にしなやかな身体
を押しつける。わざわざベッド・ルームに運ばせたのにはそういう意図があったものと見
える。
とくに抵抗はなかった。
「おれの女になってみるか？ フロラ・ブローノ・ブチャラティ。そういうことで手を打っ
てやってもいい。おまえが裏を、おれが表を。それでおまえがおれを尊重してくれるって
なら、おれの顔も立とうってもんだ」
屈み込んで、ギリギリいっぱい顔を近づけて、チェーザレは囁いた。
「貧相なガキだと思っていたが、育ったもんだ」
右手はそのままに、左の手が、脇から持ち上げるように胸を掴みしめた。
「ポルポとは切れたんだってな？ じゃァ構わねえだろ？」
「お勧めはしません」
ブチャラティの声は揺るがない。
「『お勧めはしません』？ 『嫌です』じゃなくてか？」
かさにかかって、チェーザレはスーツの胸元を引き破った……と思った。が、その左手
の感覚が消えた。まるで、腕の途中から切り離されたように……。
「あまり愉しめないと思うからです。あなたもわたしも」
一瞬のうちに身を起こしたブチャラティは、テーブルを片付けるとワゴンを押してチェー
ザレの部屋を出て行った。ふと気づくと、チェーザレの左手の感覚は戻っていた。
「シャチョー命拾いしたね」
ミスタがにかっと笑って見せた。
「ペンチ、持ってきたほうがいいんじゃね？ そこ詰めとかねーともう意味ねーよ」
一瞬のうちにアバッキオの手錠の鎖の真ん中のコマはギリギリ一杯まで引き延ばされて、
あと１ミリも開けば両腕が解放されそうになっていた。
ナランチャははっきりエアロスミスを出していたし、フーゴは机の上からかすめ取って
いたペンを逆手に握りしめていた。
「ヒッ……」
慌てて「監視係」が再度ペンチで挟んで詰めた鎖のコマは金属疲労で崩れ、がちゃりと
アバッキオの両腕は自由になった。
「いい。ルールに従う。……あのひとに危害を及ぼさないならな」
アバッキオは剣呑な光を目にためて、両腕を組んで椅子に座り直した。
「オッサン、ひとのしつけを云々する前にチェーザレをちゃんとしつけろよな」
ナランチャが聞こえよがしに言った。
意趣返しというわけではないが、昼はブチャラティは自分の分だけを用意して食べた。
ジャケットはボタンが飛んだだけで、被害はキャミソールの方だったのでよかった。こ
の先洗濯をしてもらえなくなるのはきついなと涼しい表情の下で考えている。
１６
昼下がり、さらに事態に進展があった。
甘い匂いがどこからか漏れ、壁の中から明るい笑い声が響いてくる。
「まあ、美味しそうだこと。これが例の、ブチャラティさんのお誕生日のタルト？」
「じっさいうめーんだって。おばあちゃんも食べなよ」
「タルト・カプレーゼ、実物は初めて見ました」
「門外不出ですからね。珍しいと思いますよ」
「わしはカプリ島で食べたかな。あの時はまだずっと駆け出しのただの鞄持ちで」
「あの歴史的会談に居合わせたのかい？ じーさん」
「まさかじゃよ。ただのかたぎの鞄持ちで、社長のお供で戦後訪れた時じゃ。わしをそん
な魔法使いほどの年寄りと思ってくれるなよ？」
「失礼しました。ミスタッ、口に注意しろッ」
「旦那様は鞄持ちから身を起こしてこれだけの実業家におなりになって」
「すげーよ、グリマルディーニさん」
どうやら「消えた」人間たちは壁の向こうでティー・タイムを楽しんでいるようだ。ド
ルチェを提供したのが自分の愛するパートナーであることを悟ってブチャラティは少し眉
をひそめた。アリギエリも楽しげに会話に参加しているようなのも解せない。
こちらにお裾分けはないものか、少し口いやしい気持ちがこみ上げてブチャラティは厨
房をのぞいてみたが、こちらは使っていないらしい。洗った食器が籠に伏せてあるきりだっ
たので、ブチャラティはそれを拭いて食器棚にしまった。
チェーザレはどうしたのだろうか。
これ以上気を遣ってやる必要を感じなかったので、ブチャラティは部屋に戻って、よう
よう思い出して肉を処分するようタルティーニに電話を入れた。
「タルティーニさん、やられたよ。こんなに長くかかるならどうして言っておいてくれな
かったんだ？」
「ええ？ いつもなら５日で片がつくんでやすがね。ああ、今ちょっと取り込んでますか
らまだしばらくそっちで骨休めしててくだせえ。片がついたらちゃんと報告はしやすから、
ご安心を。
道？ ああ、道ね、ええ、今きれいにしてますよ。帰りは片手運転でも帰ってこれます
や、はは。
あのねえ、あの屋敷は、そういう上品なイヤガラセをやってくる屋敷なんでさ。そんで、
我慢比べをするんでさ。チキン・レースの代わりに、どれだけ神経をすり減らす滞在に堪
えきれるかのゲームをするんで。姐さん、負けねえでくだせえよ。シマの面倒はあとひと
月でも見ますから。アリギエリに一泡吹かしてやっておくんなせえ」
思っていた以上に参っていたらしい。あれこれとりとめもない話をしてしまって、通話
を切って振り向くと、ティー・テーブルの上に冷めかけたエスプレッソと、タルト・カプ
レーゼのお裾分けがあった。
「レオーネッ！？」
飛び出したが、廊下に人影はなかった。
「いただくよ。ありがとう」
つぶやいて、ブチャラティは心づくしの差し入れを味わった。
囚われの人々はいっそう仲良くなったようだ。さっきからきれぎれに歌声さえしている。
いずこぞ 喜びの日 命の花咲きし日
虚しや 愛の幸 誓いし言の葉も忘れられて
なにとて我が身は 昔の日々を夢に追いつつ
かほどに苦しみ 悶えねばならぬか
かほどに苦しみ 悶えねばならぬか
か細いが透明な音色のメッツオ・ソプラノ、ガラテアだろう。たぶんなにかのオペラ・
アリアだから。それにしてもきわどい歌詞の歌だ。夫の心変わりを憂える妻の歌なんて、
オペラにあるものなのかとブチャラティは舌を巻く。
歩く速さのアリアは最初の歌詞に戻ってまた同じメロディを繰り返す。上がり下がりの
ある音程が女心を反映しているようで切ない印象を受ける。おや、違うメロディに入った。
いつか この想い君に通うて
再び昔の楽しき春を 呼び返せようか
ああ 楽しき春を 呼び返せようか……
今また この胸に もう一度呼び返せようか
もう一度 この手に 呼び返せようか 今また！
決意を経てか曲調が替わると、テンポは上がり、弾むような明るい動きを見せる。技巧
的なメロディが上がったり下がったりの忙しい動きの末に、恐ろしいほどの高音を伸ばし
てみせるようになった。それが、絹糸をぴんと張ったように艶やかに伸びる。自信なさげ
だった前半とは別人のようだ。切れ切れだった声が、ちゃんと息が繋がってプロの歌手の
ようなドラマ性を持った歌声になっている。曲の持つドラマ性にも寄りかかっているのだ
ろうが、歌っている本人の心もなにか動きがあったのかも知れない。
壁の向こう側は、やんやの喝采だった。
「すげーよ、奥様。なんか元気が出たカンジ！」
ナランチャが喜色満面で拍手した。
「後半のドラマチックさは本職顔負けでした。伴奏なしで音をまったく外さなかったのは
すばらしい！」
フーゴがもっともらしく肯いてみせる。
「ガラテアは音楽学校に行きたかったのよね？ 今もレッスンを続けているのよ」と、
「大奥様」がにこにこと自分のことのように嬉しそうに言った。
「レッスンの日だけは本当に生き生きとして」
ああ、このひとにそういう楽しみがあるなら良かった。ナランチャ達は痛ましいような
目で見てしまう。
「ちょっと、声が高くないからやれる曲が少ないんですけど。伯爵夫人のアリアなんて、
わたしが歌うとそのまんま過ぎて皆引いてしまうんですが」と、ガラテアは面はゆそうに
した。
……ああ、それは、やはり。
歌詞の内容については触れないようにしていた「聴衆」たちは微妙な顔つきになる。し
かし、オペラの花形はソプラノだから、名曲はソプラノ向けが多いのだ。有名な「カルメン」
もメッツオ・ソプラノだが、楚々としたかんじのガラテアにはよっぽど似合わない。
「でも、伯爵夫人はまだ懐かしむ昔があるからましですわ。わたしにはそれすらもない……」
悲しげに顔を伏せられて、若い連中はおたついた。
「じゃー、こっちもお礼に歌います！ ネアポリスッ子なら絶対これッ！ きれいな奥様
に元気になってもらっちゃおう！」
素晴らしきかな 陽の光り輝く日
嵐の後の澄んだ空よ
ミスタが朗々と歌い始めると、ナランチャが顔を輝かせて合わせた。誰もが歌える、ネ
アポリス民謡。アバッキオとフーゴも、顔を見合わせて、小声で続いた。
祭りの日にそよ吹く 爽やかな風よ
素晴らしきかな 陽の光り輝く日
それよりなお輝く いまひとつの光
わがきみの 麗しのその面（おもて）
わがきみの 麗しのその面
超有名なサビの部分は、９０年代からサッカーのワールドカップの度に３大テノール歌
手がコンサートをやって派手に伸ばしているのがよくＴＶなどで流れるから、少年達も遊
びの席では伸ばしっこをして遊ぶ。
「オオーォォォォォォォ？」
ナランチャとミスタが目で制し合って伸ばし続ける。
「オォオォオォオォオォオォオォー ソーレェミィーオー！」
年の功でミスタが勝った。息を切らしてナランチャが屈み込む。アバッキオとフーゴが
笑って勝者に拍手を送る。ミスタは両手を挙げて喝采に応え、最後まで歌いきる。大人達
は手を打って受けた。
……なんで急に騒ぎ始めたんだ？
ムーディー・ブルースが出て参謀に質した。
……ええとね、中国の故事にあったんですよ。古代の王朝が力を失って、戦乱の世に、
二人の英雄が現れて覇を競った。その最終局面、片方の天才肌の、でもそれだけに性格に
いろいろ問題があった方の英雄がとうとう追い詰められたときに、夜、周囲から歌が聞こ
えてきたんですって。嗚呼、敵軍はここまで迫っている、もはやこれまで、いや、まだ戦
える、そう味方と話し合っていたときに、彼は愕然と気づくんです。敵兵が歌っている歌
に覚えがあることを。それは、かれの故郷の歌だった。故郷から連れてきた兵は既に大方
捕らえられて敵軍にある、自分の味方はもうほとんど残っていないことに。
超人的な身体能力を誇っていた彼もとうとう心が折れて、そう時をおかずに自殺したそ
うですよ。
パープルヘイズが姿を現して、たいして時間もおかずに答えを思念にして飛ばし返した。
……孤立感を深めてもらおうってことじゃないですか？
……折れるかな？ あのひとが。
……さあ、どうでしょうね？ とりあえず、奥様は元気になったみたいじゃないですか。
フーゴは自分と同じ、淡い亜麻色の髪の女性を優しい目で見やった。
雨はいっそう激しくなっていた。雨雲の中で太陽は沈んだようで、館内はゆっくり冷え
ていった。しかし、壁の向こう側は電気が生きているようなので、すぐさま命の心配をす
るほどではない。
ブチャラティはペットボトルの空き瓶を見つけると、お湯を沸かして即席湯たんぽにし
て腹に抱えた。
壁の向こうでは楽しげな晩餐の音がしている。肉を焼く匂いまで漂ってきて、サラミを
丸のままかじるブチャラティは随分荒んだ気持ちにさせられた。お湯も出ない。冬だから、
もう一日ぐらいシャワーを浴びなくてもしょうがないか、とさっさと寝るつもりになって
いる。
寂しい食事の後始末をして、ブチャラティは厨房を去りかけた。
「冗談じゃねえ！ おれは忙しいんだ！ いつまでもこんなところにいられるかッ！」
玄関でチェーザレの叫び声がしたかと思うと、車の発進する音が続き、猛スピードでそ
れは追いつけない距離に去っていった。
ブチャラティはひとり取り残された。
１７
「さて、どうしたものかな？」
ひとつ頭を振ると、部屋へ戻った。ふと気がついて、最初の夜に使った部屋に行ってみ
る。そこはもうきれいに取り片付けられていた。血の匂いはまだ少し残っていた。
と、目の前に、ムーディ・ブルースが現れた。額のカウンターは高速で巻き戻っている。
ゼロを示すと同時に、裸でベッドに横たわるアバッキオの姿になる。
抑えた声が周りからし始めた。
……大丈夫、ぐっすりおやすみだ。
……たっぷりお楽しみだからな、朝まで目ェ覚まさないだろ。
……そうか？ 途中で因縁付けたときには焦ったけどな。幾らも食べてなかったんじゃ
ないか？
……まあ、こっちのお姐さんが目を覚まさなきゃいいんだから。……案外可愛いネグリ
ジェの好みしてるな。
……おいッ、失礼なことすんなよ？ ネアポリスの支配者さまだぞ？
……しかし、でけェ図体しやがって、うおッ……畜生、持ち上がらねェ……そっち持っ
たか？
……あァ、大丈夫。音させねえようにな。
アバッキオは車いすに乗せられたようだ。椅子に掛けた姿のまま、滑るように移動して
いく。部屋の、廊下側の壁をすり抜けていった。ブチャラティはスタンドを呼び出してそ
れを切り開く。
「スティッキィ・フィンガーズ！」
使用人用の秘密の通路が口を開けた。そこに入り込んだブチャラティは、待ちかねた妖
精さんの道案内を追って秘密の部屋を探しに行った……。
急に目の前は明るく、温かくなった。
「おめでとう、ブチャラティ。おまえは『生き延びた』よ」
グリマルディーニ老がグラスを掲げていた。
「心細かったでしょう、もう大丈夫、ゲームはおしまいよ」
「大奥様」が、温かい笑顔を見せた。
「皆、無事か？」
ブチャラティは彼らに挨拶もそこそこに、チーム・メイトの安否を確かめた。
「どこも怪我はしてねえぜ」
アバッキオが窮屈そうに借り物のシャツとスラックス姿で両手を広げて見せた。
「いいえ、彼はちょっと手首をすりむいてますよ、手錠でね」と、フーゴが皮肉に笑った。
「ねーさん、面目ねえ。この借りは今度ちゃんと返すよ」
ミスタが片目をつぶって謝ってみせる。
「ブチャラティ、アバッキオがおしゃべりつっておれのこと拳骨で殴った！」
ナランチャはすかさず言いつけた。
本当に、いつも通りの彼らで、ブチャラティは心から安堵の笑みを見せた。
「ブチャラティ様。この度の趣向はお楽しみ頂けましたでしょうか？ この屋敷の『試し』
を乗り越えられましたからにはお客様は当家の忠誠を捧げるにふさわしき方。グリマルディー
ニの表の職員も、裏の構成員も、等しくあなた様にお仕えすることをここにお誓いいたし
ますぞ」
アリギエリが膝を折って恭しく宣誓した。
「なんだって？」
ブチャラティは面食らってグリマルディーニ老を見た。
「左様。もともとは表の人間におまえさんを紹介するためのイヴェントだったんじゃがの、
アリギエリがおまえさんに惚れ込んでしまっての。延長戦でチェーザレ本人におまえさん
の方が器が上であることを認めさせることにしたんじゃ」
「社長は、……いいんですか？」
「おう、そうじゃ」と、その時、山の向こう側から大きな物音が聞こえてきた。スリップ
の音、聞き苦しいブレーキの音、大質量のものがぶつかる音、木の折れる音……それらが
続けざまに。
「事故を起こしたようでございますね」
「うむ。ブチャラティ、おまえが冷静で良かった。タルティーニから連絡は受けておった
のじゃが、おまえが借りたあのレンタカーな、クアルトのリュリが手を回しておって、ブ
レーキに細工がしてあったそうじゃ」
クアルトというのは近郊の街で、リュリはそこのチームのリーダーだ。たいしてブチャ
ラティの昇格に異は唱えていなかったのに。ブチャラティはさすがに息を呑んだ。
「そういえば、来る途中も相当お尻を振ってましたけどね、あの車」と、フーゴがすぐに
応じた。
「登りだったから、そんなにブレーキ踏まなかったけどな」と、アバッキオが顔を青ざめ
させた。
「じゃから帰りは引き留めて、道がきれいになってからタルティーニに迎えに来させよう
と思っておったのよ。チェーザレが、行儀の悪いことをしおって。お客様の、それも女性
を放り出してホストが逃げ帰るなんて、前代未聞じゃ。まったく嘆かわしい」
「あのー、じゃーシャチョーのこと迎えにいってやらねーと」
ミスタが寒そうな顔をして言った。
「おお、そうじゃ。ついでに半年ほど入院してもらうと助かるの。アリギエリ」
「かしこまりまして」
大番頭は、一礼して手配に行った。
……ブチャラティがどうしても帰るって言ってたらどうしたんでしょうね。やはりその
まま行かせて事故を待ったんでしょうか。さすが、このじいさんは抜け目がない。チェー
ザレが事故ったのも、リュリを潰す口実に使うつもりですね。
背筋に汗をかきながら、フーゴはこの老人に対する尊敬を新たにしていた。この最後ま
で気を抜かずしぶとく立っている強かさを見習わなくては。
悲壮な決意をしている参謀をよそに、再会した恋人達は地味に心を通わせていた……。
「ブチャラティ、火の側に来いよ。温かいもの食べないか？ あんた、ほんと強いな」
「ああ、そうさせてもらう。ああ、あれ、旨かった。ありがとう。元気が出たよ」
ブチャラティはようやく顔を緩ませている。
「フーゴのリクエストでな。レシピ書いた紙はうちだったからちょっとおっかなびっくり
だったが、なんとかなった」と、少しアバッキオは照れる。
「ムーディ・ブルース出してやればよかったんだ。ルイサさんに実地で教えてもらったん
だろ？」
「いや、やっぱりかたぎさんの前でそれはまずいだろう」と、石頭は素でそんなことを言う。
「見えないんだから一緒だ。そうだ、なんで今日の今日まで出さなかった！？」
「だって、こういうゲームだって言うから、場所を知らせたら反則かなって、みんないろ
いろ準備してて大変だったみてえだし」
「バカ野郎！ こっちの身にもなってみろ！」
……気がつくと喧嘩になっていて、フーゴは溜め息を吐いた。
別邸からの帰り道で事故を起こしたチェーザレ社長は入院、全治６ヶ月。どうも悪い後
遺症が出そうだと言うことで、離婚してガラテアは実家に帰った。レッスン仲間と交際を
深めて、春には再婚の運びだと聞く。グリマルディーニの表の商売は、実際切り盛りをし
ていた副社長のアリギエリが昇格して社長となった。
「奥様、好きなやつがいたんだなあ。フーゴ、知ってた？」
噂を聞き込んできたナランチャが、フーゴに話を振った。
「ああ、そういえば、新年の挨拶に行った頃、大奥様から相談されてたかな。可哀相です
よねって相槌ぐらいは打った覚えはあるけど」
「それでこんなこと計画したりとかしねーよな、おやっさんたち」
「ちょっ、そんなこと、いくら何でも……実の息子なのに、でも、あのじいさんならやり
かねない、一度転んだら絶対両手になんか掴んで立ち上がる人だから……うわあ」
フーゴは頭を抱えた。
「あーそんで、おやっさんから伝言。アリギエリももう年でモーロクしてきたっぽいから
フーゴに表の仕事少し引き継ぎたいって。来週から一日３０分でいいから顔出してって」
「あ、の、くそじじい！」
とうとう、フーゴは白旗を揚げてテーブルにつっぷした。
「わたしはな、チェーザレ様にずっとお仕えしてきたよ。旦那様によくしていただいた分、
それ以上にな。だが、忠誠を捧げるに値しない人間に忠誠を捧げるのは、とても、虚しい
ことだ。それに気づいてしまったときどうするか、おまえ達はまだ若いから、それについ
て今から考えておいた方がいい……」
アリギエリの言葉を、ブチャラティがしみじみ思い出すことになるのは、この年の春、
４月。
０７−１２−０９
おまけ。
事前協議。
「アリギエリさん、向こうにはＩＱ１５２の参謀がいるんですぜ？ あの坊やの上を行く
ような作戦がおれ達に立てられますかね？」
「大丈夫だ。こっちにはフェリーニ上院議員のお嬢さんがついてる。向こうさんはちゃん
と大学も２年で出てる。あの坊やが１ヶ月で退学になったところをな」
タイミング良くフーゴに電話が掛ったのはそういうわけ。ルチアはノリノリでスーパー
ヴァイザーをやりました。
そんでもって事後協議。
「まったくあんたたちは行儀も悪ければ頭も悪いッ！ ハリウッド映画じゃあホラーでも
サスペンスでも、こういうシチュエーションで物語開始早々いろごとを始める男女っての
は真っ先に血祭りに上げられるものだっての知らないんですかッ！？」
フーゴが目を三角に説教した。
「面目ない」
アバッキオは素直に小さくなったが、
「知らない。映画なんか見たことない」
とぼけた顔でブチャラティは答えた。
「………………アバッキオ！ これから週に一度は必ずオフを上げますからこの仕事中毒
にとりあえず一般常識程度の映画や劇や物語を仕込んでやってください！」
しばらく唸っていたフーゴは可哀相な朴念仁に問題を丸投げした。
蛇足。
こんなに長くなっちゃってすいません、一度書いてみたかったクローズドサークル系。
ゲーム・マスターのいる「なんちゃって殺人事件」だったってのは涼宮ハルヒとか、東野
圭吾とかにもありましたね。ウィキペディアに詳しい定義が書いてあって、面白かったの
で良かったら読んでみてください。あー、これってあの作品のこと言ってる！ ってうれ
しくなったり（でも、ネタバレになるから作品名まで書いてないあたりのフェア・プレイ
精神が嬉しい）。
「パラレル」でやったチェーザレ失脚と表の商売はフーゴに継がせたい意向というのをま
とめて書いておきたかったので。あと、気がつくとパッショーネがただの町内会の互助組
織になってたので、一応は怖い組織なんだよって。わたし時代劇好きだったからなあ、ど
うもつい「め組」の皆さんみたいになっちゃって。
ガラテア奥様が歌ってたのはモーツァルトの「フィガロの結婚」から伯爵夫人のアリア。
文中言ったとおり、歌詞が微妙なので、既婚者が歌うのはお勧めしません（ｗ。
ミスタさんとナランチャが歌ったのは「オー ソレ ミオ」（さびで判るつうの）。へ
え、こんな歌詞だったんだって、この前「Ｃａｔ ＆ Ｄｏｇ」で調べたから。