猫の好物
その朝（３６）
グリマルディーニ老が、追求してきた。
「おまえはどんな席でも、なにを出されても無理やりに口に運んでいる子だった。当然満
腹しているだろう場合でも、残すと言うことをしなかった。うんと若い頃は、厄介になっ
ている身だから。独り立ちしてからは、他に食うものがなかったから。おまえはいったい
旨いと思ってものを食べたことがあるのか？」
男として絶対やってはいけないことを恋人に対してやってしまったアバッキオは、けじ
めとして頭を丸めて、よそのチームに移るべくグリマルディーニに身を寄せていたのだが、
晩餐の席でブチャラティの深層心理に関わる話が出たので眼を上げて彼女を見やった。
「食べています。このラムは旨いです」
……おいおい、これはラムじゃないぞ。
心中突っ込むと同時に、奥方からも同様の突っ込みが穏やかになされた。
……結構味オンチなんだよな、自分で作らせてもなんか微妙だし、おれの料理はかな
り失敗してても全部食べてくれたし……。なんだ、単にそういう性分だったのか。
さすがに愛する女性に対して「口いやしい」という言葉は使えないアバッキオだった。
ありがとうと微笑んで、毎度毎度ぺろりと平らげてくれて。その行いは、生きている資
格がない、ここでしか生きていけないと打ちのめされていた身に自信を付けてくれ、もし
かしてよほどの好意を抱いてくれているのではと夢を持たせてくれていたのだが。
「……アバッキオ、それで、まだ怒ってるのか？ だって、グリマルディーニさんは大切
な客としか言わないし、わたしはここ３日というものほとんど寝てなくて目が霞んでたし、
だいたいすごいイメチェンだ、なんで勝手に髪を切ったりするんだ？
あ、どうもご馳走になりました。ホントにありがとうございました……」
後ろめたさからブチャラティは口数が多い。テーブルの向かい側の自分を完全に無視し
てくれたのは、寝不足で目が霞んでいたからだと解ってアバッキオは胸をなで下ろしたと
ころだ。怪我をした手が動かせないからムーディー・ブルースを出して食べさせてもらっ
ていたのに解らないなんて、ちょっと信じられなかったが。憎いのはしょうもない抗生物
質を出した薬局だ。まだ顔には肌が突っ張った感じが残っている。グリマルディーニの
若いのが出て行って落とし前を付けてくれたようだが、このまま腫れが引かず、そのため
ブチャラティに見放されてしまったら自分でも一発喰らわしてやろうかと思ったくらいだ。
サロンに移動して、グリマルディーニ夫妻が気を利かせて部屋を出ていったのにも気が
つかないで、アバッキオが黙礼したのに慌てて振り向いて後出しのお礼をなんとか口に出
した。
「３日も絶食したあとで急にあんないいものを食べたから胃が重いんだ」
端的に言って、また黙り込む。
お互いのために一緒にいない方がいいんじゃないかとまで思ったが、離れてみると、恋
しいし、心配だし、あそこまで言ってくれるし（でも、好きなようにヤらせてくれるって
のは嘘だと思う）。
……本当なら今すぐにも帰りたい。
しかし、自分の特徴をあの髪だけで捉えていたのかと思うとなんだか泣きたいような
気持ちになるし。抗生物質のせいで顔が変わったから興味を失ったのではないというの
は明言してくれたから少しホッとしたが。
「わたしもだ。……心配させるなよ」
アバッキオの腰掛けた二人がけのソファに、ブチャラティは近寄って、屈み込んだ。
「とにかくあれで、ミスタを一時の気持ちで処分しなくてすんで助かった。ありがとう」
手を取って、真っ直ぐ目を見つめて言った。
「座れよ」
アバッキオは顔を背けて、少し脇へ詰めて横を空けた。
「ありがとう」
ブチャラティは、手を握ったまま、かさばるスカートを扱ってそこへちょこんと座った。
「めかし込んできやがって……」
アバッキオの八つ当たりはヘンな焼き餅になった。
「気合い入れて着飾って来いって話だったから。フーゴも、たぶん気分転換させてくれるん
だろうから行ってこいって。
見合いなのかと思って。それは断るつもりで」
「あァ、それで途中からひとをガン無視してくれたのか」
まさかブチャラティがこちらを見誤ると思っていなかっただろうから、グリマルディー
ニ老も焦ったことだろう。猫にも劣ると言いたい気持ちもわかる。奥方がこちらの名を間
違えて紹介したのはわざとでないにせよ。
「もう戻ってくるつもりはないのか？」
ブチャラティは切なげに眼を覗き込んでくる。例の特技を使っているのだろう。さて、
なんと答えるべきか。
「手、あんまり強く握らねぇでくれ。あれでこじらして、熱出したんだ」
ひびの入った腕で、必死で身をよじるブチャラティを抑え込んだのだ。なんでもなくて
も筋肉痛ぐらいは起こしているところだ。
はっとして、ブチャラティが手を離した。
「すまない……」と、顔は殊勝にうつむけたが、目はじっと表情を読み続けている。
「しばらく、こっちに厄介になる。この腕じゃあ、役に立てねえし」
アバッキオは、顔を背けたままに言った。
賄い係が休むと皆困るだろうか？ それでも、適当に作って食べる程度はみんなできる
はずだ。ブチャラティは……金同様、ないならないで人徳でそれなりになんとかなるのだ
ろう。絶対に残さない嗜みがあれば、皆、気分よく食べ物を貢いでくれそうだし。
「ちゃんと、三度三度喰えよ？」
下宿をはじめたばかりの学生を相手にするようなことをつい言ってしまう。ミスタとは
表現の仕方が違うが、やはり、イタリアの田舎のそこそこのうちに育った者としては、食
は生活の基本だ。
「ああ……おまえが支度してくれるのに慣れてしまったから、ここしばらくはみんな調子
が狂ってたな」
「そりゃ、悪かったな」
口だけで謝った。
「おまえの料理が食べたい」
ブチャラティが肩に額を当ててきた。
「外食してくれ」
アバッキオは素っ気なく言った。温かい重みが心地よい。
「陸の魚の料理はおまえの方が上手い」
ぐりぐりと額を擦りつける。おいおい、今夜はバッチリ化粧をしてるんだからやめてくれ、
とアバッキオは内心汗をかく。
「山の方の出なんでな」
マスやらヤマメなら。烏賊なんてネアポリスに出てきて初めて食べた。泣きそうな思い
であの皮を剥いたのは春だったか。イカスミのスパゲティは好評で、みんなの笑顔に疲れ
が吹っ飛んだ。
「……やっぱ魚の方が好きなのか？」
「だって漁師町だもの！ 肉なんて、祭りの時だけだった！ 小学校に上がる前からみん
な釣った魚を自分で料理しておやつにしてたし！ だから活きが良ければスシにも抵抗な
いんだ！」
急に顔が生き生きする。胃が重いんじゃなかったのか。だれかがこの女（ひと）のこと
を猫だと言っていた。抱こうとするとするりと逃げて、なにを考えているか解らない。い
つもひとと違うところをぼおっと見ているって。それは、ひとそれぞれ印象というものは
違って当たり前で、自分がこの女を猫だと思うのはこんな時だ。と、アバッキオは愉快で
優しい気持ちになる。
「スシ、喰ってみたいのか？」
「一度二度はある。刺激的だった。そういえば、フーゴが雑誌を見せてくれたんだが、握
るスシじゃなくて……」と、媚びる目になった。ええと、ナターレに「バッボ・ナターレ
（サンタさん）」にお願いしたいおもちゃがあると言うときの子供の顔。
「セルクルにライスを詰めてマリネしたマスを上に載せて押し固めたスシがあるそうだ。
ケーキみたいだった。それなら作れそうって思ったんだが……」
グリマルディーニ老が言うとおり、ブチャラティは食べ物に執着しない。何を出しても
旨い旨いと言って食べ、まずくても残さない。何が食べたいかと問うても特に変った物は
挙げない。嫌いなものもあるようだが、フーゴやナランチャに押しつけ損なうと、ゆっく
りゆっくり、特に顔色も変えずに食べている。自分から口にはしないが、たぶん、豆と林
檎。好物も同様。ねだってくるなんて、よっぽどのこと。
「作ってやるよ」
つい、アバッキオは言ってしまった。
「あんたは作らなくていい、むしろ作るな。材料に申し訳ない。フーゴに、詳しい材料と
か調べてもらっといてくれ」
「ああ！」
ブチャラティは露骨に目を輝かせた。
「なるたけ早く腕を治して帰ってきておくれ」
「ああ、……うん」
うまく乗せられてしまった。まあいい。とにかく自分は、猫でも、別の世界の人間でも、
この可愛い女が好きなのだから。
と、ノックの音がして、この邸の主人が現れた。
「ブチャラティ、車の準備ができたが？」
途端に、ブチャラティが泣きそうな顔をした。
「あの、ええと、まだ少し話し足りないというか……」
「なるほど。そうじゃろ？
もう遅いから泊ってゆきなさい。急なことでちょっと、寝室は用意できないが。
お客人、ちょっとこの子と相部屋にして貰って構わんかね？ 介護人の代わりに」
「えっ……、ええ、はい、どうぞ、こちらも助かります……」
つい、アバッキオは
答えてしまっていた。この期に及んでも、この堅物は年長者の前では結婚前の男女が同じ
部屋に泊るわけには、などと格好を付けたがる。グリマルディーニさんに気を遣わせて、
とブチャラティは渋い顔になる。教会に行くのはもっと先にしても、とっとと指輪を買わ
せなくては、とブチャラティは今年の目標を決めた。
「じゃあ、もうしばらくそこで待っておってくれ。向こうに連絡だけは入れておいて貰お
うか。フーゴが心配しておると悪いからな。ああそれと、ブチャラティ、傷に障るような
ことは、せんようにな？」
老人は、茶目っ気たっぷりに片目をつぶると、扉を閉めて行ってしまった。
ブチャラティは思い出したように携帯を取り出すと、ご機嫌でフーゴに外泊宣言をした……。
「バッ……あんた、なんでそんな浮かれてるんだ」
アバッキオは腫れ上がった顔をさらに赤くして狼狽える。
「だって、嬉しいもの」
ブチャラティがごくごく率直に言って、花が咲くように笑った、と思った次の瞬間には
アバッキオは距離を詰められていて、キスを受けていた。ソファがぎしっと鳴った。抵
抗はしない、傷に障るから。結局自分は死ぬまでこのきれいで不思議な女に支配されるの
だろうとアバッキオは達観した。
蛇足。
ブチャ猫の好物は結局ライオンさん、と言うお話。
「雨のあとには」で、ブチャラティのあだ名が「ポルポの猫」っていう話をしたので。ブ
チャラティは、性格はともかく身のこなしは猫科だろうと。
「セルクル（丸型）にライスを詰めてマリネしたマスを載せたスシ」というのは、富山名
物ますのすし。駅弁の女王です。あれは押し寿司だから正式に作るには時間がかかるけど
（笹の葉が手にはいるかも微妙）、略式には寿司飯さえ作ればあとはスモークサーモンで
いけそう。黄色いピーマンにケッパーでも散らせばきれいでしょう。そこらへんが「ケー
キみたい」な由縁。アバッキオはこういう、分量だけキッチリ量って手順を踏めばできる
料理というのが得意そう。ただただ根気の要るオニオングラタンスープとかホワイトソー
スとかも確実にこなす。ま、烏賊のわたを抜いたり魚を捌いたりも、自分が言い出したこ
とだから！ って涙目になりながらなんとかやりそうだけどね。結局なんでもできるって
こと？
寿司屋に連れてってくれたのはたぶんポルポ。何喰わせてもイヤそうだからオジサンも
気を遣っちゃって大変（手前と喰うのがイヤなんだということに思い至らないのがまたオッ
サン！）。その辺は気を遣って言わないが、きっとそう言うことだろうとアバッキオも思っ
てる。大人の男と女は大変。
しかし、なんで太らないんだブチャラティ！ きっとスタンドがカロリー喰うのね。
けじめを付けるために頭を丸めるってのは西洋ではない感覚らしいんだけど。ブチャラ
ティに執着されてたから伸ばしてた髪を切ると言うことで、もうブチャラティの愛玩物を
やめるという意思表示として切ったんだとでも思ってください。当然、「頭髪の生えてい
ない部分」は漢らしく見せて歩いてて、グリマルディーニの若い連中に尊敬されたり（戻っ
てからは……ブチャラティ、カツラ買ってくれたかなあ？）。
きっと、「リーダーを暴行しちまった」ってのもただぶん殴ったんだと単純に思われて
いるかも。ま、女を殴って落ち込むってのも日頃の行いからさもありなんとか思われてそ
う。うちのアバッキオはそういう男。
猫の好物は魚かって、そんなことない、お山の猫はトリとかネズミとかを食べると思う
けど。アバッキオお山の子なら知ってるはずだけど……。
おまけ。
「ホント、あのひとは猫だな。スシつくってやるっていったら露骨に機嫌直しやがった」
アバッキオが照れ隠しにフーゴに言うと、
「アバッキオ、猫は別に魚じゃなきゃならないってことないですよ。小さくてちょろちょ
ろするものならなんでもご機嫌で追っかけます」
フーゴは自分の問題発言に気がついていなかった。
「なーブチャラティ、アバッキオ帰ってきたんならミスタももう帰ってくるー？」
二人の背後を小さくてちょろちょろする可愛い少年が駆けていった……。