Ｃａｔ ＆ Ｄｏｇ
その朝（４１）
その朝シリーズ４０作記念作品 猫幹部特別篇
夏の名残は街から消え去り、美しい穏やかな季節もゆっくりと去ろうとしていた。人間
も立ち入ることをためらう下町の、裏も裏。饐えた匂いと、山と積まれた塵に囲まれて、
かれはその生を終えようとしていた。
かつては輝いていた、人間のために狩りをし、獲物を追うための犬種。ただ一度の迷い
から大きな失敗をし、仲間の命を犠牲にして生き残った。
レオーネ、百獣の王の名を与えられ、期待を受け、それに応える能力を持つことを誇り
に思い人間のために仕えることだけを胸に生きてきた男が、今は虚ろに目を開いて、有明
の月を見上げていた。
美しかった長い被毛は汚れ、もつれて輝きを失っていた。群れを離れこの街に流れ着い
てからは野犬たちに繰り返し襲われ、治りきらない傷をあちこちに抱えていた。四肢はじん
わりと冷えてゆくのに、それらの傷の部分が熱を持って痛み、まだその部分の神経の生き
ていることを主張した。その痛みを感じなくなったら、お別れだ。
かれは、自分の好きだったものを次々思い返して、それらにお別れをすることにした。
仲間達と訓練のために駆けめぐった芝生。青いいい匂いがした。人間に褒められるとき
のくすぐったい温かい手。頬をすり寄せてくるときに感じた人間の頭に付けているものの
人工的な匂い。あの頃はいやだったのに、なんと懐かしく優しく思い起こされるのだろう。
冷たくて澄んだきれいな水。いい匂いの花。空き時間によく遊んでくれた背の高い人間。
ああ、自分は投げたディスクを追って、空中でキャッチするのが得意だった……。
うっとりと眼を閉じそうになって、慌ててかれは眼を開く。眼を閉じると、思い出してし
まう。自分を庇って死んでしまった仲間の姿。腹を食い破られてはらわたを露出したむご
たらしい死に様。忘れられないむっとする血の匂い……。
カラーン……。
ゴミの山から、空き缶が一つ転げ落ちて静まりかえった巷に音を立てた。
今にも閉じそうだったかれの目が、山の上を見つめる。そこに、一匹の猫がいた。
有明の月を背負って、しなやかな肢体はまだ若いと見えた。
「あなた、もうだめなの？」
女のようだ。抑えた声は、明け方のしじまによく通った。
かれは無言で認めた。
「わたしはあなたを知ってる。あなたは強かった。輝いていた」
今はそうではない。
かれは心中付け足した。
霞む目には、白い猫と見えたが、その姿をつぶさに見ようという意志が萌すと、その背
に大きな黒い斑が散っているのが月明かりでも見えた。
「生きなさい。あなたはまだ十分生きてはいない」
何を勝手な、とむかっ腹を立ててかれはその猫を見上げた。
自分の身に何が起きたのか、知っているのか。知っていたらそんなことは言えまい。仲
間を目の前で失ったのだ、自分のせいで。こんな自分、生きている意味も資格もないでは
ないか、そう言ってやりたくて、かれは身を起こそうとしていた。
動……く？
「動くのね」
猫は滑るように下りてくると、かれの横に身をかがめて、傷口を舐めてくれた。どんな古
い傷も、探し出して、いたわってくれた。じんわりと、かれの身体に熱が戻ってきた。
「動くでしょう。生きて。わたしと一緒に来て」
「行ってどうする？ おれはなんの役にも立たない、生きていても仕方のない身だ。生き
る資格がないんだ」
かれはふて腐れて見せた。
「あなたは生きることに意味がいるの？ 資格がいると思っているの？」
青い瞳はつやつやとガラスのように光ってかれを見つめていた。
「仲間が！ いつもおれをかばってくれていたスフォルツァがおれのせいで死んだんだ！
しくじったのはおれなのに！ おれなんかのためにッ……！」
言葉はそれ以上続かず、白い犬はただ嗚咽していた。
斑の猫は黙ってかれを舐めて毛繕いを続けてくれていた。
「わたしは仲間が欲しい。わたしたちの仲間は子供が多くて、周りの群れに舐められて、
いつも脅かされている。やつらを恐れさせる強い仲間が欲しい。仲間になってくれると嬉
しい。あなたに居場所をあげましょう。
凍えているなら、熱を上げましょう。飢えているなら、食べ物を。
けれどそれ以外のものは、自分で探して」
「解……った」
「ほら、ご覧なさい、新しい日が始まる。また一日、あなたは生きなくてはならない」と、
猫は白みかけた東の空を鼻の先で示した。ほっそりとしたシルエットをかれは美しいと思っ
た。
「ああ、そうだな」
「そうしたら、また思い出が一日増える。そうやって、過去を増やすの。ほんの少しでも
昨日よりいい日を生きて、いい過去を積み重ねて行くの。そうすれば、……いいじゃない？」
いい過去。そんなものが、もう一度自分に訪れるだろうかと犬は考えた。
「いきましょう」
猫が立ち上がった。しなやかに長い尾が揺れた。
「ああ」
少しよろめいたが、かれは立ち上がって胸を反らせた。とりあえずは、昨日よりはいい一
日が、始まろうとしている。
猫と犬とは連れだって路地を歩き去った。
ＢＧＭ：メモリー ミュージカル「キャッツ」より
（２９−１０−０９）
蛇足。
もふり猫幹部にはアバッキオをよしよししてあげて欲しいとのリクエストにお答えして。
でもよしよしというよりなんかＳッ気がありそうで猫幹部はキ☆ケ☆ン！
それにしてもがんばって文学的にしてみたのに最後の最後スケベ心でこの世につなぎ止
められた犬ッキオ……どうしてこうなるの？
ちなみに猫と犬とじゃそのあとがありようがないですが……いや、ブチャ猫の場合、シー
ズンが来たらしれっと、
「十分いけそうな気がするが……わたしはおまえ以外とはいやなんだが、だめか？」とか
誘いそうでコワイ（いや自分の妄想力がコワイ）。
猫幹部は女言葉で。背中に大きく「！」の模様の黒斑ということでどうでしょう？ やっ
ぱおでこは真ん中分けかなー？
それで結局どうなるかというと……
おまけ。
「……ッ！？」
かれは目を疑った。かれの「恋人」が、寝そべって、腹の前にオレンジの毛並みの仔猫
を遊ばせている。うっとりと見守るそのまなざしは優しく、まさしく慈母のそれと見えた……。
……いやまだそんなに日は経ってないし。おれたちに赤ん坊なんてできるわけないし。
じゃあやっぱり、そうだよな、こんなきれいな女みんなが放っとくわけないよな……と、
思いは脳裏を様々に駆けめぐりながらも、かれは言うべき言葉を失って立ちつくす。
「どうした？」
かの女はかれに気づいて瞳を巡らせた。青い、ガラス玉のような……
見る間にかれは距離を詰められていた。
「ナランチャだ。あれでも春が来れば１才になる。うちの群れのなかで一番すばしっこい」
向こうで遊んでおいで、とかけてやる声は優しかった。
「はーい」と、無邪気に言って茶虎の仔猫が去る。かれはそれを見送ってしまって目が逸
れた。良く見れば、仔猫といっても十分育っている。とても生まれたてという感じではな
い。
「え？ ああ、そうか……」
ホッとして、誤解を恥じる心の隙にかの女はかれの首にかじりついて引き倒した。前脚
で動かぬよう恐ろしい力で固定しつつ、後ろ脚の連打で腹を強かに蹴る。猫族共通の必殺
技だ。容赦なく爪も立てている。
「あた、た、た、痛いって痛いーッ」
「おまえは、わたしが他の男に身を任せたと思っただろう？」
冷たい声が決めつける。
「思ってな、いーッ！」
無様に悲鳴を上げさせられて、かれは腹を見せた。キャン、と白旗を声で揚げる。
「判るんだぞ」
わざと、ざらざらした舌で鼻の頭を舐め上げた。
「ヒッ」
「そんなこと、夢にも思うな。忌々しい」と、もう、その背の感嘆符の形の美しい黒い斑
を見せつけて去っていた。
……ってやっぱりドＳな猫幹部でした。やっぱり尻に敷かれとるし。野良猫の群れに食
客でもボルゾイの野犬が混じってたら怖いよねー？ 幹部ズルイです。なんて恐ろしいネ
アポリスの下町。