女神は金髪がお好き
その朝（４７）
１
春、３月も末になれば、そよ風は花の香り。陽射しもぐんと和らいで、復活祭の日にちも心でカウン
トダウンを始めようというもの。秋に一年越しの恋を実らせたチーム・リーダーは毎日もううきうき
で、今朝は会議の１時間も前に出かけていった。川向こうに出るついでにちょっと楽しい寄り道があ
るらしい。そういうリーダーを見るのも、少年達には心和むようだ。
留守番の参謀殿が、帳簿整理の傍ら気安く携帯を受けた。番号は川向こう、グリマルディーニのオ
フィスからだったので。昔気質のチンピラたちは、２０世紀が終わりかけた今でも固定電話を使いた
がる。
「え？ ちょっと、なんですって！？ もう一度言ってください！ あんたら自分とこのオフィスの
真ん前でよくもそんな真似を！ それでもパッショーネのバッヂもらってるギャングですか！？
それで病院は！？ はい、はい結構。当然です。加害者は押さえてあるんでしょうね？ え？ なん
ですか？ ぼくに言い訳してどうなるんです？ こんな子供相手に恥ずかしくないんですか？ 知り
ませんそんな事情。はぁ？ いいですよ、そちらに伺ってグリマルディーニさんに直接お聞きしましょ
う？ ええ。ああ、うちの白いライオンさんを連れて行きますけどいいでしょう？ ええ、当然。飼
い主の一大事ですから。あのひと暴れるとスゴイですよ？ あんたらカラビニエリと同じ鍛え方して
ますか？
え？ 車？ 要りませんよ。自分の足で歩いていきます。あんたらなにかっちゃ車使ってるから身
体が鈍っちまってるんじゃないの？ ちょっと、電話で長話しててもしょうがない。いますぐ支度し
て出ます。じゃあ３０分後に逢いましょう」
立て板に水でしゃべり倒したフーゴは、途中から話の内容を察して顔を覗かせていた賄い係に顔を
向けた。
「ブチャラティが、車にはねられました。どうも頭を打ってるみたいで。サンジェルマン記念病院に
運ばれたって。やったのは観光客らしいんですが、どうも、厄介な人間らしくって。とりあえず、入
院に必要なものを」
「解った」
一瞬で顔を蒼白にして、アバッキオはキッチンに戻った。メニューはすぐさますぐできるもの一人
前に変更。賄いも板についてそういう対応も取れるようになってきた。
「厄介ってのはどういう意味だ？ どっか敵対組織か？」
「その線も一応は捨てきれないんですが。違います。なんていうか、ＶＩＰっていうのとも違います
が……著名人（セレブレティ）？」
「なんだそりゃ」
「とりあえず、今の案件では、富豪のどら息子です。オーストリアだったかな？ チェーザレの新し
い遊び仲間らしいですよ」
「ああ、なるほど」
周囲の眼を引かない程度の早足で歩きながら、短く情報伝達を行って、ブチャラティ・チームのメン
バーはグリマルディーニのオフィスへ急いだ。ナランチャは、５分で拵えたランチをあてがわれてお
留守番。
２
「フーゴ、思いっきり言ってくれたな。わしの耳にも聞こえてきたぞ」
グリマルディーニ老
は穏やかに客人を迎えた。そのままグリマルディーニ専用車の座席に押し込んで、病院へと出発する。
「なにかのお間違いでしょう。年も上、キャリアも上の方を電話口でやりこめるなんて、ぼくはそん
な不作法をしたりはしませんよ」と、フーゴは見え見えのしらをきった。
「ブチャラティは軽傷じゃ」
一番彼らが知りたいであろうことから語り起こした。さすがはネアポリスで表裏両方でひとに仰ぎ
見られる成功を成し遂げた男である。
「知ってのとおり今日は役人どもと表の会合があっての。早めに解散になって、ブチャラティがうち
の玄関から出たところを、突っ込んできた『お客さん』にやられた」
「やられたって、そんな、あのひとがそんな不覚をとるなんて……」
なにか別の事情があったんじゃないかとフーゴは言外に尋ねる。
「役人に会うんで、珍しくスカート穿いとったからの。ちょっとタイトで、足捌きが窮屈じゃったか
な？」
横に乗り込んでいたアバッキオに眼をやって、グリマルディーニ老が軽く言った。
「なにやってんだ……」
フーゴはうめいた。今までは、表の会議に出るにしたって、いつもの限りなくワンパターンのパン
ツ・スーツ以外着ていったことはないというのに。
「春じゃからの。やっぱりご婦人は華やかな服を着たくなるんじゃろ。眼福じゃった」
のほほんとウインクをくれて、グリマルディーニ老は表情を改めた。
「問題は、その『お客さん』が予想以上にお人好しで、怪我を負わせた若い女性に非常に親身になっ
て下さっていることじゃな」
「看病にこと寄せて口説きに掛ってると？」
「まあそうじゃ」
アバッキオが忌々しげに溜め息を吐いた。
「あとは、意識は戻っておるようじゃが、表の会議の連中と一緒じゃったんで、『ベアトリーチェ・
ブガッティ』嬢はどうも記憶が混乱しておるようじゃ。病院も、うちの息の掛った病院には入れられ
なんだし」
本名を偽った状態で声を掛けられて、すぐさま切り替えて混乱が収まるわけはない。ひごろ年令以
上の胆力を見せつけるブチャラティといえども、姓名を偽って潜入調査を行う情報部員としての訓練
を受けたわけではないのだ。
「悪いことに、恋心を燃え立たせた加害者さんが付きっきりで。込み入った話はできそうにないんじゃ。
ちょっとこれはわしも手に負えん」
「グリマルディーニさん、引退を決めたら粘りが足りなくなったんじゃありませんか？」
恐れずにフーゴが助手席から突っ込んだ。後部座席のアバッキオとハンドルを握ったタルティーニ
がハラハラしている。タルティーニはとりあえず信号待ちの間にポットから紅茶を注いで配った。か
ぐわしい香りが場を和ませることを期待して。
「頼りになる後継者がおると見定めたからにはのう」
余裕の表情でゆっくりと紅茶をすすってグリマルディーニ老は言ってのけた。
「アバッキオを連れて行けば、愛の力で全ては解決するんじゃないかと思うんじゃが、ロマンチック
すぎるかね？」
「期待するだけならただですしね」
短く斬って捨てて、フーゴはとりあえずその最近出た新しいブレンドの紅茶に口をつけた。柑橘系
の香りが華やかな茶の香りを引き立て、脳細胞を活性化させる……。これはいい。アジトにも入れて
おこう、と天才児は判断を下した。
「……一応、その加害者さんのデータ、伺っておきましょうか？ 言っておきますけど、うちのリー
ダーは面喰いですから、商売上の『お客さん』だから袖にするなとか言うのはなしですよ？」
「そこがちょっと苦しい。
オーストリアのぼんぼんでな、名前はエーリヒ・アッ……ぺル？ ベルガーでいいのかな？ フー
ゴ、読んでくれんか？」
子音の多いアルプスの向こうの言語はイタリア人には発音しづらい。貰ったビジネス・カードをグ
リマルディーニ老はシート越しにフーゴに渡した。
「ああ、アップフェルベルガーですね。貴族とか、それに類する家ではないようですが……聞いたこ
とない」
ぼそりと付け加えるのも、フーゴなら重みがある。
「ああ、ぼんぼんといっても親父が戦後のどさくさでいろいろやって大きくなったようなもので。わ
し同様の成り上がりじゃよ。情報産業を握って最近さらに力を付けた」
「なにに価値を置くかに拠りますが。古いというだけで格式に縛られてその日の食にも事欠く貴族も
いますし。当時の世界のほぼ全てを手に入れたようなアレッサンドロ大王にせよ、ナポレオンにせよ、
長生きして領土を保ったとは言えませんし。最後まで立っているのが強いと見るなら、グリマルディー
ニさんは２０世紀から２１世紀初頭においてイタリア全土でも最強クラスなんじゃないでしょうかね」
と、フーゴはしれっと老人に花を持たせる。
「跡を継がせるものがいないのは同じじゃよ。今のうちに打てる手は打っておかんとな」
あくまでさりげない応酬に表情に困っていたのはアバッキオだけだったようだ。
「親爺さん、それで、そのアッペルなんとかは、ブチャラティさんの周りをウロウロさせといて安全
なんですかい？」
アバッキオの代わりにタルティーニが気を利かせて尋ねた。
「まあ、とくに対立組織のヒットマンというようなことはない。金に不自由しておるようではないし」
「ただ、けしかけられて、いやがらせ程度に送り込まれた可能性はあります」
「ふぉふぉ、気を回すのう」と、隠居を決めた老人は余裕だ。
「社長の方はどうですか？ 引退の件は社長もご存じなんですよね？」
「だからとて、あのチェーザレにブチャラティにちょっかいを出す器量があるものか」
「いやがらせ程度でも？」
「まあ、話のネタに振る程度じゃな。……ジャポネの言うところの、『強風が吹けば桶屋が繁盛する
ことがある』？」
とりあえず地味なイヤガラセにはなっている。
案外その線かも知れない、とフーゴは心中嘆息した。
「ただ、これはまだ未確認なんじゃが……」
グリマルディーニ老が、表情を窺わせぬ顔で呟いた。
「なんです？」
「このアッペルベルガー、プレイボーイらしいの」と、勝手に名前を簡略化してしまった。
「はあ？」
「去年は１年で恋人を８５人作ったそうじゃ。今年は３桁を目指して、それで国を出てネアポリスに
出てきたらしい」
「ケッ」
とうとうアバッキオが吐き捨てた。
「そういう意味では、危険じゃ。わしはいまどきの流行りは知らんが、わしが見ても結構いい男だと
思うぞ」と、持ってきた書類の束の中から顔写真を出してくる。
波打つ蜂蜜色のブロンドの髪をミディアムな長さのうちに自然な感じに整えた、甘めの顔のハンサ
ム。緑がかった眼は温かい光りをたたえて微笑んでいる。背も高く、すらりと引き締まった体つきで
アバッキオとはまた別系統の美形と言えた。
「……プレイボーイなんですか？」
フーゴが、アバッキオの方を見ないようにして危ぶんだ。
「どうじゃ？ カルロ」
現場に居合わせたタルティーニに、グリマルディーニ老が印象を尋ねた。
「チャラかったっすよ」
タルティーニは吐き捨てた。
「普通の女性なら、引っかかるんじゃないですか？ この顔で、ちょっと見優しい態度が取れるんで
しょ……？」
フーゴがなおも確認した……。
アバッキオの方から、どうでもいいから早くブチャラティに逢わせろというオーラが色濃く発せら
れてきたのを感じて、一同は以後の情報交換と対策協議は手早く済ませた。
３
ナース・ステーションに寄ってきたグリマルディーニ老がにこりと笑って見せた。
「ちょっと『気遣い』しておいたから、Ｂ．Ｂ．の安眠は確保してくれるそうじゃ」
「夜這いをかけられる心配はないと言うことですか。どうだか」
フーゴが通訳した、吐き捨てるように。どうりで、通り過ぎるときに、似合わないドルチェの匂い
が濃密に漂っていると思った。と、足を進める毎に今度は花の香りが強烈に漂ってくる。
「……どうか心を安く持っテ。ここにいる限り、あなタに心配はさツェまツェん。退くツな毎日に舞
い降りてくれタぼくの女神、あなタが全テを思い出しテも、なにも思い出ツこトがデきなくテも、ぼ
くがあなタを想う気持チは同ズィでツ」
なにかの演劇の台詞かと思うような大げさな言葉遣い、アクセントもイントネーションもまあ間違っ
てはいないし、文法も正しいが、子音が目立ってなんとも耳障りなしゃべりは、たしかに外国人のも
のらしかった。
「失礼しますぞ。シニョリータの事務所のスタッフをお連れしました」
グリマルディーニ老が声を掛けて、ドアを開けさせた。
すぐさま、温室か花屋のような香りの奔流が溢れだした。
とても病室らしくない部屋だった。
……うちより広いぜ。
アバッキオはブチャラティのフラットと一瞬比較して舌を巻いた。
サンジェルマン記念病院はもとより金持ち専用で、患者に快適に入院生活を過ごさせるために最新
の設備を備えていた。壁紙もちゃんと抗菌素材で心和むような色柄のものを各種研究成果を反映させ
て貼っているし、カーテンやその他室内調度も明るい雰囲気にまとめてある。ＴＶも新聞全紙サイズ
のものが距離を取っておいてあるし、スピーカーも、さりげなく光っているロゴタイプは有名メーカー
のものだ。防音は行き届いているが、念のためにヘッドフォンの装備もある。枕元の読書灯のわきに
は寝ながら読むために本を留めつけるアームも用意されていた。部屋に入る手前のスペースには機能
的な洗面設備も用意されている。医療の面でも、最新鋭といっても過言でないだけの設備があるよう
だ。
面会人のための椅子も、ちゃんとしたアームチェアで、けが人は電動ベッドの背もたれを上げて身
を起こして、延々口説き文句を垂れ流す加害者に手を取られてぼんやりしていた。
「Ｂ．Ｂ.！ 大丈夫なんですか？」
フーゴがまず飛び出した。
「ああ、……こんにちは。いつお目に掛りましたっけ？」
少し首を傾げて微笑んで、そして少しの遠慮を眼に乗せて、そのひとは呟いた。
不敵な天才児が少しの間、固まった。
「アッペルベルガーさん、容態は変わりないようじゃな」
グリマルディーニ老は、加害者の名前を省略形で通すつもりのようだった。
「ああ、いらっチゃい、チニョーレ・グリマルヂーニ。いえ、大丈夫、ご覧になっテいテ下ツァい、
ぼくの愛の力デ、チニョリータをもトのようにチて見ツェまツよ」
「さあ、それはどうかな？
Ｂ．Ｂ.、身体はどうかの？」
「ああ、グリマルディーニさん、恐れ入ります。少しこぶができたぐらいだって、さっき言われたと
ころじゃないですか。少し寝ていれば大丈夫ですよ」
こちらには、やや元通りの笑顔を見せる。
「ツァあ、チニョリータ、果物をドうぞ」
金で雇った看護人がもうついていて、皮を剥いて持ってきた林檎を、けが人に勧めた。それを受け
取って、満面の笑みでオーストリア人はけが人の前に差し出した。
「ええ、……いただきます。どうもありがとう」
見舞客が微妙な顔をする中、彼女は表情を変えぬままにそれにフォークを立てて、ゆっくり食べ始
めた。
……ブチャラティって……？
……ああ、おまえさんも気がついておったか？
……わりに公然の秘密でやすな。
見舞客たちは黙ったまま目交ぜをする。
罪の果実というからか、入院中の凶事を思い出させるからか、もっと幼い頃の記憶からなのか、ネ
アポリスの女幹部候補生は林檎が苦手だった。表向き好き嫌いを表わさない慎重な彼女のちいさな弱
点。あれほどの健啖家で、食べ物に頓着しない彼女が、顔色は変えず、言葉にも出さないが、林檎だ
けはほんの少し時間をかけて食べる。
だから、彼女に近いものたちは、同じように言葉に出さずに認識していつもは気遣ってやっている。
ブチャラティは林檎が嫌いだと。
「もうひとツいかが？ 爽やかな香りが立チ上っテ、側にいるぼくも気分がすっきりチまツ」
能天気な色男が勧める。
「ええ、ありがとう」
静かに応えて、もう一切れに手を付けた。ゆっくり、ゆっくり、佳人が林檎をかみ砕く音が特別室
に響いた。
「もっトドうぞ……可愛らツィい。ウサギが人参をかヂるよりもまダ繊細な音がツィますね」
ゆっくりと、手が次の一切れに伸びた。
「おい、それはいったいなんの拷問だ？」
アバッキオの唸るような声が響いた。
「シニョーラ、この果物は医者の指示か？」
恋の能天気な波動を垂れ流している男を無視して、アバッキオは看護人に質した。
「いいえ。こちらのシニョールのお心遣いです。こちらに果物の大きな籠盛りを。病人には林檎が良
いと思ったのでわたしが選んでお剥きしました」
「アランチャだってあるだろう！ 熱もなけりゃ腹をこわしてるんじゃないんだから別に林檎じゃな
くちゃならんことはない！」
「ええそうですが」
中年女性の看護人はゆっくりと瞬きして、事態を受け止めかねているようだった。
「アランチャはないのか？」
「あります。お剥きしますか？」
「おれがやるッ」と、アバッキオはナイフを引ったくってオレンジの皮を剥き始めた。柑橘系の香り
が立ち上る。
……ブチャラティの香りだ。
なんとなく、フーゴはほっとしていた。色気に乏しい佳人は、花の香りより柑橘系の香りを好んで
纏っていた。髪を編まないで垂らしたままで、ゆったりした女性らしいネグリジェで花の香りをさせ
ていると、とてもブチャラティとは思えない。そう、その名の通りの花の女神（フロラ）のようで……。
へそに対して真横に切って、２分割した実を、アバッキオは房が山形を見せるようにスライスして
いく。果物屋のおかみから習ってきたスマイルカットだ。ブチャラティは笑顔を見せて受け取った！
「ありがとう。この切り方は食べやすいな。アランチャは好きだ、アランチャ……
フーゴ、ナランチャはどうした？ 来てないのか」
眼を輝かせて両手を口に持っていってかじりついていたブチャラティが、ふと眼をまっすぐフーゴ
に向けて尋ねた。
「ええ！ ええ、ナランチャは留守番です。なんだ、思い出したんですか。てっきりぼくは……」
咳き込んで言うフーゴに眼を細めて、彼女は被せるように言った。
「フラーゴラもあったぞ。わたしはいいからお上がり。
彼にフラーゴラをやってください。甘いものが好きで。初対面の時も、テーブルの上のパンナコッ
タ・デラ・フラーゴラばかり見ていた」
「ちょっとッ！ なんだってあんた今そんなこと言うんですッ！」
真っ赤になるフーゴをよそに、どんどんけが人は昔の話を蒸し返す。
「この前誕生日にミルフィーユ焼いて貰ってうるうるしてたろ？ 見ものだったぞあれは！ おまえ
も年相応なところがあるんだな」と、愉快そうに笑う。それは今までの、透明ではあるが儚げな笑顔
とは大違いで、恋に浮かれる異国人はさらに新たな魅力を見いだして頬を薔薇色に染めていた。
「ああ！ チニョリータ！ アラバスタの彫像に血が通っタのを今、目の辺りにツィまツイタ！ なん
トいう僥倖！ あなタはツォんなに生き生きト笑うこトができタのでツね。ピュグマリオンの故事は
現実に起きるものダっタトは！ ぼくは今、ステファン王に並びまツィタ！
ツォれでは、ぼくのガラテア、これから毎日ツォの笑顔をこの目に受ける喜びをぼくにお与え下さ
い。
ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーのいうトころの、
【ソノ眼差シモテ、ワガ冷静ナル胸ノ内ニ細波ヲバ投ゲ込ミタル乙女ヨ】！
ぼくの過失はあなタが理由です。認めます。あなタがぼくにハンドルを誤らせタのです。デすから
ぼくにその過ちを償わせてくだツァい！」
眼を潤ませて、彼は椅子を降りて膝を折ってブチャラティに求愛していた。
その間、ご機嫌なけが人は濡れタオルでアバッキオに手を拭いて貰っていたが。
「ああ、ア……ベルガーさん？ そんなに思い詰めないで。良くある事故です。こんなに気を遣って
いただかなくたって」
きょとんと、ブチャラティは言った。
……昔ッからこのひとはニブかったしなあ。
タルティーニは表情を消して嘆息していた。ポルポの保護がなくなっても身を守ってこられたのは、
素手であらゆるものを切り裂く超能力もさることながら、このほとんど神業なエロスの炎の鎮火の才
能あってのことだった。
……コマされることはなさそうでやすな、こりゃ。
かれは一安心したが。
「ああ！ エーリヒとお呼び下ツァい愛チいひト！」
異国人は一人で盛り上がっていた。
「それで、グリマルディーニさん、器用で気の付くのが入りましたね？ 彼は？」
ありがとう、と微笑んで労って、グリマルディーニ老に目を向けると、心からの愛を捧げられてい
る最中の佳人は残酷に尋ねた。
「ブ……Ｂ．Ｂ．ッ！」
フーゴが悲鳴を上げた。
「彼って、Ｂ．Ｂ．そこの男はおまえさんのところのスタッフじゃぞ？」
さすがのグリマルディーニ老も引きつった声をあげた。
「旦那さん、あんまり刺激されると。危険ですから」
タルティーニがよそ行きの言葉で低くたしなめた。
「ああ、……すまない。ええと、ここまで出てるんだが。
いつから来て貰ってるんだったっけ？」
哀しげな微笑みを浮かべて、彼女は詫びを口にした。そうして、少しの質問を言葉にする。
「Ｂ．Ｂ．！ 秋からです！ あんたほんとに判らないんですか！？ アバッキオですよ！ アバッ
キオ、ふて腐れてないでちょっと明るい方を向いて、ちゃんと顔を良く見せてやってッ……！」
「フーゴ、おまえさんが取り乱しちゃいかんだろ」
静かに諭されて、フーゴは我に返って小さく口の中で失礼を詫びた。
「……済まない」
アバッキオの白い顔をじっと見ていた記憶喪失者は、途中から怯えたように顔を背けた。
「頭痛がします。グリマルディーニさん、厄介を掛けますが今日はこれでお引き取りいただけますか？」
身をよじってベッドに手を突き、向こうを向いて頭を枕に載せてしまった。
「ああッ！ チニョリータ！ チニョーレ・グリマルヂーニ！ 患者を刺激チないでくだツァいッ！」
「ああ、すまなんだな、Ｂ．Ｂ．今日のところはゆっくり休んで。また様子を見に来る。 アッペル
ベルガーさんも、あんまりしつこくしないでやってくださらんか？ お気持ちはＢ．Ｂ．にも十分伝
わっておるようじゃし」
「アア！ 解っていまツとも！ チニョーレ・グリマルヂーニ！
ぼくトしたこトが、この春の光溢れるネアポリスに来テはしゃいでチまっテいるようデツ。何もか
もが輝いている……トくに、彼女を一目見テからは」
「フーゴ」
一人で盛り上がっている色男を無視して、横になった佳人は長いつきあいの参謀を手招きした。
「ちょッ！ あんた……」
両頬にキスをされて、珍しさにフーゴは総毛立った。だが、目的は密かな指示だったようだ。
……彼に気配りしてやってくれ、済まなかったと。だめだ、本当にわたしは今、随分思い出せない
ことがある。
両耳に代わる代わる囁いてきた。
……だが、わたしはブローノ・ブチャラティ。そこのところは大丈夫。さっきはちょっと混乱して
ただけだ。解るな？
黙ってそのネアポリスの海の色の瞳を見返して、フーゴは肯いて身を翻した。
４
車を断って、ブチャラティ・チームの２人は歩いて帰った。雲がゆっくりと流れて、太陽を遮った。
石畳の街角が、ひととき無彩色に陥る。
「済まながってました。あんたのこと、大切なひとだってことは解ってるみたいです。だからそんな
にしょげないでくださいあんたって、さっきのメンバーじゃあ一番新しいですし」
「………あァ」
「自分の名前がブチャラティだってことも、解ってるみたいです。お役人連中が一緒だったんで、い
つもの偽名のままで通すしかなくて。ちょっと、タイミング悪かったですね」と、黙りがちに衝撃を
押し隠すアバッキオの気分を引き立てるためにフーゴは饒舌になる。
「あァ」
「でももったいなかったですね。あのスーツ、おろしたてでしょ？ 会議に出るからって経費で落と
して、そのうちあんたとどっかに行くんだと思ってたのに、砂まみれにされちまって。あれだけはちゃん
と弁償して貰いましょうね」
「あァ、うん……
しかし、アランチャ食ってナランチャ思い出すか？ どんぴしゃだったな」
淡い笑みが、ようやく白い顔に浮かぶ。
「ええ。だから言ったでしょ、匂いは記憶に結びつくって。あんたももっと近くへ寄って、その髪の
匂いでも嗅がせてやれば良かったのに」
来る前に、入院の支度を調えるため、彼らはブチャラティのフラットに寄っていた。
「とりあえずの着替えと、洗面用具。なるたけ使い慣れたものを。五感、特に嗅覚に訴えてもとの記
憶を取り戻しやすくするんです。基礎化粧品とコロンも。ああ、あんたはなにつけてます？ 髪とか
肌とか。それもついでに。ホントに意外なもんで記憶が戻ったりするそうです。
山の手の、もうなくなったチームの出来のいい方の副官さんが階段から落ちたときは、なんだった
かな、おっかさんのリゾットの匂いで記憶が戻ったとか聞きましたよ。なんかハーブの使い方が独特
とかで。
……かかりそうならなんか料理でも差し入れたりして貰うかも知れません」
てきぱきと指示しながらフーゴは笑って見せた。
「……あんまりヘンなところに引っかからないでくださいね？ 今までは副官ってことでぼくが管理
してただけです。そろそろあんたにも鍵を渡してると思ってました。かえって、ぼくから取り上げて
あんたに渡すとぼくが焼き餅を焼くんじゃないかとか考えたんじゃないですか？ あのひと」
キーリングから、ブチャラティのフラットの鍵を選び出してドアを開けたのはフーゴだった。アバッ
キオは、まだ鍵を貰っていなかった。
「どうせいつも送ってくるんだしとかいって、なんにも考えてないってのもあのひとならありそうだ
し」
重ねてフォローする。
「あァ、……いや」
「シーズン的に、まあ、いろいろ考えてるのかも知れません。ホント、タイミング悪かったですね」
もしかして、と考えて、フーゴは途中で無理矢理に話を打ち切った。
ぬか喜びをさせてもまずいし。
でも、ブチャラティがうきうきとなにか準備していたのは確かだ。
……絶対悪いことにはならないさ。
フーゴはこのところ、神というものの存在を信じてもいいかという気持ちになってきている。
回想を打ち切って、フーゴは口を開いた。
「『写真』もいろいろ撮ったけど、とくに悪いものは見つからなかったそうですから、あの能天気な
オーストリア人に勘定を持ってもらって少し休養取ればいいんです、あのひとも」
「そうだな」
少し、顔が上向きになったのをみとめてフーゴが笑いかけた。
「それにしても。覚えてないなら覚えてないなりにさっそくグリマルディーニさんにチェックいれま
したよね？ 聞いてました？ ブチャラティはほんとにあんたみたいのがタイプだったんですねえ」
「バッ……」
照れてかぶりを振ったアバッキオのプラチナの髪が、三月の陽光に光った。
ブチャラティがこの男を拾った頃は、傷んでぱさぱさしていた感じだったが、今は手入れが行き届
いて、本当にきれいだ。
そういえば、最初の頃ブチャラティは自分の亜麻色の髪も珍しがってしきりに頭を撫でてきた。ネ
アポリスは南イタリアなので、たしかにブルネットの方が多数派だけれど。
……淡い色の髪の方が好みなのかな……？
そういえば死んだ父親も、明るい栗色の髪をしていたと聞いた覚えがあった。
……あれ？ じゃああの男ももしかして危ないのかな？
アルプスの向こうから来た男は、蜂蜜色のブロンドだった。
「ちょっと、再生してみませんか？ どういう状況だったのか、ぼくも見たいです」
フーゴは静かに提案した。返事も省略して、アバッキオがスタンドを呼び出した……。
……なにも、そんなところから。
……ああ、ちょっとついでに向こうの商店街に用事があるんだ。ふふ、ちょっと野暮用。だからも
う行く。大丈夫だって。ほら、例のオペラハウスの工事の件だ。グリマルディーニさんの引き継ぎの
顔つなぎだから、今日のわたしは『ちょっとしたコンサルタントをやってるベアトリーチェ・ブガッ
ティ』様だ。どうだ？ キャリアの女性に見えるか？
ご機嫌でオフィスを出るところのブチャラティだ。スカートを摘んでポーズを取ってみせる。別に
こんなところから再生を始めなくってもいいのに。それでも、ドレス・アップした恋人の姿を見て和
みたい気持ちもあるのだろう。フーゴも、華やいだブチャラティを見ることができて胸が温かくなっ
た気がする。グリマルディーニ老も言っていた、眼福と。親しい女性が幸せそうに華やいでいる姿を
見るのはいいものだ。
……それにしても、ほんとにこのひとブチャラティのこと好きになってくれたんだよなあ。
ほんの少し眼を細めてスタンドが象って見せているブチャラティの姿を追っているアバッキオを横
目で見て、フーゴはしみじみとした気持ちになる。
傷付いて、泥に塗れて荒んでいた彼をブチャラティは拾い上げて、甘やかしすぎるほどに愛情を注
いで立ち直らせた。見ていてこちらが切なくなるほどの入れ込みようで、それがうまくいかないよう
に見えたときにはこちらの胃まで痛くなった。それも、年が改まり、季節が春へと向かうにつれて明
るさが見えてきて、恋人達の行事もかれらなりにいろいろあったがなんとかこなして、やっと本格的
な甘い季節を迎えるものと思ったのに。
ブチャラティが、アバッキオのことを忘れてしまうなんて。
あり得ない。
２人を見守ってきた人間として、確信を持ってフーゴは結論づけた。
追ってきたブチャラティの記録は、今は銀細工の店に入っていった。注文してあった品が出来上がっ
てきたらしい。ブチャラティは蕩けそうな顔で受け取って、代金を支払った。包装とリボンを確認し
て、しっかり胸に抱いて店を出る。と、スタンドの右手が出て彼女の胸のところにジッパーを貼り付
けてつまみを引いた。
一番安全な、秘密の金庫。
彼女はいろんなものを自分の身体の中に入れて運んだりもするけれど。
ジッパーを閉じてしまって、そこを右手で押さえてブチャラティははにかむようにひとり笑った。
「往来で、なにやってるんだ」
アバッキオが、照れ怒りに赤くなった。
「あんた、２５日には素直に嬉しそうな顔してやって下さいよ？」
２人して話を振ったときには余りにも色気のないものをリクエストしてきて意気消沈したものだが、
結局ブチャラティは自力でふさわしい誕生日のプレゼントを思いついたらしい。この白いライオンに
は、銀細工のアクセサリーはさぞ似合うことだろう。
「解ってるッ」
アバッキオは顔を背けて吼えた。
ご機嫌なベアトリーチェ・ブガッティ嬢、今日のところは、はグリマルディーニのオフィスに入っ
ていった。
会議の間は早送りして、出てくるのを待つと、役人どもと何事か会話しながら現れた。
……ブ……Ｂ．Ｂ．危ない！
……なにやってるんだ、止まれ！ 皆さんは下がって！
……シニョーラ！ Ｂ．Ｂ．聞こえないのか！？
車のエンジン音。声がかかる。ブチャラティ’は一瞬棒立ちになり、左右を確認して庇うべき人物
のないことを見てのち、足を踏み出そうとしてタイトなスカートの裾幅に足を取られて車にはねられ
た……。
「なんで一瞬遅れたんですかね？」
「さあな。最後だけもう一回見るか？」
「ええ、お願いします。ぼくちょっと今度はこっちの角度から見てみます」と、フーゴは通りの反対
側に移動した。
再度確認して、フーゴはアバッキオの視線を受けて溜め息を吐いた。
「とりあえず、スカルラッティさんには次からあのひとのスカートはタイトにしないよう言っときま
しょうか」
「だな」
せっかくの細い脚がもったいないことだけれど。
５
ナランチャは話を聞いて安心したけれど、翌日には逢いたがったので連れて行った。
「ブ……Ｂ．Ｂ．に見とれてうっかりＢ．Ｂ．のことはねちまったんだって？ そんでかっさらって
病院入れて口説きたおしてんの？
それってチンピラがよく女の子さらうときの手だよな？ やられたのがグリマルディーニさんちの
前じゃなかったら、介抱しますとかいってずっと遠くまで連れてかれて、Ｂ．Ｂ．もうヤられてた？」
ベッドの脇に貼り付いてなつき倒しているナランチャは、実に真顔で純粋に問うた。図星を指され
てかオーストリア紳士は硬直してしまっている。
「済みません、うちの事務所のコたちはあんまりいい育ちじゃないんで。
違うぞ、ナランチャ。エーリヒは紳士だもの。すぐこうやってこんなにいい病院に入れてくれたし。
わたしだって、おまえを病院に入れたときには、眼を治してやりたい、こんな小さな子が身体を心
配されないことがあってはいけないと思った、ただそれだけだっただろ？」
Ｂ．Ｂ．は真顔で謝って見せて、ナランチャにも説教をくれた。
「あ、そっかー。よかったな、アッペルベルガーさんいいひとで。
でも、それとＢ．Ｂ．がアッペルベルガーさんの恋人になるかどうかは別だからな」
「え、ええもチろん。けれド、ぼくはこの想いがベアトリーチェに届くこトを信じていまツよ」
なんとか体勢を立て直した紳士は虚勢を張って見せたが、
「ムリ」
ナランチャに切り捨てられた。彼は、悩みたがりのうっとおしい賄い係を自分の上司の理想の恋人
と思い定めてしまっていたので。
「ちゃんと食べてます？ もし入るようだったら、彼から差し入れ」と、フーゴがまだ温かいスフレ
を出した。
「結構いいものを出して貰ってると思うが。別腹だ、いただくよ」
穏やかな微笑みを見せた佳人は、姿勢を正した。
「ノーラさんのレシピだと、きび糖を使うんですって。だから素朴な感じに仕上がるって……解って
ないでしょ？」
味オンチのリーダーを知り尽くしているフーゴは、そこまで期待していない。五感を刺激、なんて
言ったからか、アーモンドスライスをたっぷり被せてぱりぱりさせている。香ばしい香りがこちらま
で漂ってきて、フーゴも生唾を飲み下した。
……ちゃんと準備してあるッ。お見舞いにちゃんと行ってきたらおまえらにも焼きたてを食わして
やる。
ナランチャはもう出がけにハッキリねだっていて、アバッキオは手を腰にビシッと言っていた。
「ああ、いや、旨いよ。ノーラさんって、あのひとだろ？ 魚料理の巧い」と、そういう細かいとこ
ろはちゃんと思い出している。
「……彼は今日は来ないのか？」
小声になって、尋ねてくる。
「あんたが昨日傷つけたからじゃないですよ。留守番。『オフィス』空っぽにできないから」
ほら、やっぱり気にしてる。フーゴはほっとして記憶喪失の女性を見やった。
「彼って……なんかいいな。背が大きくて。強いんだろう？」
「ええと、はい、腕っ節の方は」
余計なことは言うまいと思う参謀だった。
「背筋がしゃんと伸びてる……こんな商売をしてるのに。
……おかしいな、どうしても彼のことを考えるとヘンなんだ、良く思い出せない」
「ああ、彼は新入りの方ですから。記憶が新しいんですよ、ぼくらのより」
「うん、だけどそういうんじゃなくて、この辺がブランコに乗ってるみたいになる」と、Ｂ．Ｂ．は
ネグリジェの胸を右手で押さえた。
……あーえーとそれはもしかして。
フーゴは表情に困った。
「考えすぎちゃいけないってお医者さんやエーリヒに言われるんだが、気がつくと彼のことを考えて
しまってる。彼の気を損ねちゃいけない、大切にしなきゃいけないってことは解るんだ……彼は何者
なんだ？ 上の方から回されてきたのか？」
……いやそうじゃなく。
ややフーゴは拍子抜けした。
「あんた、そこまで解ってて自分で気がつかないんですか？」
「……もしかして、個人的理由で彼を気にしてた、の、か、な？」と、ブルネットの美人はフーゴの
顔をじっと見つめてくる。彼の表情、汗の掻き方から彼の感情が読めるかのように。
「恋なんでしょうね。いいじゃないですか、自分の気持ちに気づいたのなら、これから彼を口説いて
みたら？ アルプスの向こうからのお客さんなんかに構ってないで」と、ちょっとかわしてみる。彼
女が自分の特技を思い出しているか確かめてみるために。
「ばかな！ ありえない」
意外や、彼女は笑って否定した。それは、恋を知る前の、去年の春の彼女の笑顔のままだった。
「あり得ないって、Ｂ．Ｂ．」
「この仕事をしていて愛の恋だの、大丈夫かフーゴ？ わたしはもうほとんど記憶は戻ってるんだぞ？」
だって、一番大切な記憶を欠いたままで？
いつもの特技を使えば、フーゴがしれしれと嘘を吐いてからかっているのが判っただろうに。
もしかしたら、スタンドも復活していないのかも知れない。
ああ、ほんとうに、そこでナランチャを余裕であしらっている金髪の男が邪魔だ！
「恋なんて、あり得ない、あのひとと並んで歩いたり、手をつないだり……抱きしめられたりなんて、
想像できないッ！ ああ、でも、どんな感じだろう、あんな背の高いひとに抱きすくめられてキスなん
かされたら！？ 今抱えてる案件の大事なところみんな忘れてしまいそうだ！」と、耳まで赤くなっ
て頬に手を当てて身体をよじりまくっている恋する乙女の姿を呆然と見守りながら、フーゴはさらに
苛めてみる気になっていた。
「キスどころか、あんたが彼を拾って来たんですけど。
あんたの部屋のベッドの中に、あのプラチナブロンドの男が寝てるのを見たときにはぼくは天地が
ひっくり返るかと思いました」
「ベッドッ！？ フーゴッ、バカを言うなッ！？」
絶叫したベアトリーチェ・ブガッティは無意識に身を乗り出してフーゴの顔をつくづくと眺めた。
更に近寄って、生暖かい柔らかい舌が頬を撫でてくるのを知ってフーゴは喜びさえ感じた。
「……嘘は吐いていない」
その言葉に、フーゴは安心した。
全てを思い出して羞恥がこみ上げてきたようで、フロラ・ブローノ・ブチャラティは急にベッドに
横になると羽根蒲団を頭からひっかぶった。
「そんな、ばかな、うわあ、なんてことをやってるんだわたしは……レオーネ、どうしよう……」な
どとブツブツ呟いている。
「特技も思い出せてるみたいですね、ついでに」と、フーゴは自分の横に相棒を呼び出して浮かばせ
た。
「見えます？」
「ああ……何を言いたいかは解る。
そこが問題だ、フーゴ。なにも見えない。こっちもさっきからやっているが、スティッキィ・フィン
ガーズが出てこない」
「……見えないんですね？」
らしくなく、パープル・ヘイズがべろべろばあ、とやって見せて、蒲団の下から青い眼を光らせて
いるブチャラティがなんの反応も見せないのを知ると、背を向けてお尻ペンペンまでしてみせた。異
状に気づいてこちらを見ていたナランチャが目を剥いただけだった。
「わかりました。とりあえず持ち帰って善後策を考えます。あんたはここでゆっくり食っちゃ寝して
体力を温存しててください。なんにもないとはいえ、頭打ってるんです。３日は絶対安静です」
「解った」
「重要書類とかは、山の手を吸収して増えたんでこの暮れにみんな外のそれなりの場所に移して保管
してありますから、あんたのプライヴェイトな貴重品だけです、このまま出てこなくって困るのは」
「ああ……それで訳も解らず焦ってたのか、わたしは」
「特注品だったんですか？ とりあえずは期日までに別のものを調達すればいいでしょう。手配しま
しょうか？」
「ああ、いや……とりあえず３日安静にして様子を見よう。……見たのか？」
と聞いてくるのは、アバッキオのスタンドの能力もきちんと思いだしているということだ。フーゴ
はいっそう安心した。
「心配だったんで。なんだってあんな不覚を取ったんです？
ああ、あんた今度からスカート禁止ですから」と、フーゴは一段階禁止事項を強めた。足捌きのい
いフレアーの、すぐには下着が見えたりしないようなミディ丈なんかならいいじゃないかと思ってい
たのだが。
「それはその……まあいいじゃないか。解った、スカートはもうはかない」
蒲団の中のブチャラティはしゅんとしたようだった。
「ミケーレ、きみ、病気はもういいんでツか？」
病室を出るときにのんびりと声を掛けられても、フーゴは無視した。
「アッペルベルガーさん、どなたかとお間違えのようじゃな。あの子はわしの古い友人のところの次
男坊なんじゃよ」
しらを切ったフーゴの代わりに、グリマルディーニ老がフーゴの素性を隠蔽した。
「へえ。ミラノの有名な家の末っ子にそっくりでしたが。ああいう天使みたいな子がこの世に２人も
いるなんテ、さすが、ミケランジェロを生んだ国でツね」
「２人といないというほどでもないじゃろう。特に血縁関係はないが、うちの不肖の息子の嫁もあん
な感じで。なるほど、今度２人をモデルに聖母子像を書いて貰うことにしよう。いいアイディアを戴き
ましたな」
グリマルディーニ老が無理矢理に話を逸らした。なかなかくせ者だ、この客は。
ブチャラティの記憶が戻ったからには、招かれざる客を長居させておく必要はない。フーゴは策略
を巡らせた。
「ああ、グリマルディーニさん？ すいません、例の実習ですが、今夜から始めさせていただいてい
いですか？」
歩きながら、携帯で電話をして、もう手を打っている……。
６
「なーそんで朝帰りだぜ？ オフィスに出てきてからも電話掛けまくりだし。アバッキオ、絶対ブチャ
ラティに言いつけようぜ？」
３日目、もう慣れたサンジェルマン病院への道を、２人は早足で歩いている。
「やつには金庫番の仕事があるからな。なにか海外で動きがあったのかも知れん」
アバッキオは、ブチャラティの記憶が戻ったと知らされ、少し情緒が安定した。
「でもすんげーうきうきしてたぜ？ 絶対なんか女がらみだって」
「だからペナルティで留守番でいいじゃねえか」
今日は留守番はフーゴ。着替えなどはアップフェルベルガーが最高級品を用意していて、心配する
なといっているが、彼女に下心を持つ男の用意した下着を着せるというのも不愉快、とフーゴとアバッ
キオの意見が一致したので毎日差し入れに行っている。本人は、ひごろ眼にする品とは段違いにラン
クの違う高級品を眼の保養にしていたりするのだが。……しょうがないから２人はへそくりをはたい
て、彼女の御用達の店で手に入るレヴェルの最高級品を貢ぐことでなんとかなだめている。
……しかし、かかなくてもいい汗をかいたことだ。
ナランチャはこういう機会でもないと入れないので虚心に楽しんでいたようだが。
「あ、エーリヒ」と、ナランチャはもう懐柔されて、テラス席でお茶をしていたアップフェルベルガー
に手招きされて飛んでいった。
「やあ、毎日ごくろうさまデツ」
緑がかった眼を優しく細めて、アップフェルベルガーは挨拶した。
「ドうぞ。今日も容態はいいみたいデツ。随分記憶が戻ったらチいデツね」と、向かいの席を勧める。
「ああ。あんたにも世話になったな」
「ちょっとご相談が。ああ、ナランチャ、ベアトリーチェとお話があるなら先に行っテいて構いまツェ
んよ」と、色男は笑顔を少年に向けた。
「あ、じゃー２人でゆっくりどうぞッ」と言うなり、ナランチャは着替えを入れたバッグを小脇に駆
けていった。
「ドうぞ」
重ねて言われ、アバッキオは席に着いた。
「あなタタツィは、あまりお写真を撮らないんデツね。記憶喪失の方には、まヅみんなデ撮っタお写
真をお見ツェツるものダト思いまツィタが」
「あいつは容姿にコンプレックスがあるんだ。こちらが気にするなと言えば言うほど意固地になって。
それに、おれたちはあんまりそういうことをしないようにしてる。誰かと密接な繋がりがあると知
られることが、次の仕事に差し支えることもあるんでな。
あんた達みたいな著名人？ だって、親密な交際をしてる相手がいると公表されるのはいやだった
りするだろう？」
アバッキオは、しゃべりすぎないように心がけながら返事をする、誠実に。
「経歴も、見事に隠ツァれテる。うちの調査部が２日半かかりまツィタ。
ベアトリーチェ・ブガッティ。１９７７年９月２７日生まれ……若く見えまツね。１０代かと思っ
てましたよ。
ネアポリスの下町に生まれ、小中高トそこの公立に通っテタこトになっテまツ。へえ。彼女は生粋
のネアポリスっ子じゃないと思っテタんでツが。……もっト南の方の、海の方の響きを言葉の中に感
じまツェんか？
中学生の時に両親が事故で死んデまツが、奨学金を取っテ、大学はええト、ローマデツか？ ２年
で出テる。優秀だっタんでツね？
トころが、これを裏付けるものはなにもない。記録はありまツが、高校デ、大学デ彼女ト一緒ダっ
タというひトは出テこない。誰も。
こチらをドうぞ」と、情報産業の跡取りは別の紙束を出してきた。
「フロラ・ブローノ・ブチャラティ。こチらに行き着くのは相当大変だっタみタいでツ。
１９８０年９月２７日生まれ。マキーシー、と読むんデツかね？ この地名は。小ツァな漁師町で
ツね。両親は５才の時に離婚、父に引き取られる。１９９２年に父はマフィアとトラブルを起こツィ
テ刺ツァれ、九死に一生を得るものの……」
アバッキオは立って、長い腕を振るってその書類をアップフェルベルガーの手から散らした。風が
味方して、その報告書を吹き散らして紙くずに変えた。
「そういうことは、あいつ自身から聞く。あんたも、そうした方がいい」
怒りを抑えた、静かな声だった。
「では、こチらはあなた自身に聞きまチョう。
レオーネ・アバッキオ。１９８０年３月２５日生まれ。おや、来週お誕生日デツね。
ネアポリス近郊ムカーイの生まれデいいデツか？ おや、懐かツィい。あそこツい最近まで電気が
来てなかったデチョう？ 電話も。うチの大叔父の山荘があっテ。煩わツィいこトがあるト、わざト
あそこへ籠もりに行くんデツ、音信不通になれまツからね」
「おれが物心つく頃にはどっちもあったッ！」
アバッキオは髪を揺らして一喝した。取り合わずにアップフェルベルガーは続ける。
「そのド田舎の出デ、国家警察の採用試験に合格。研修は上の下デ修了。実務にツいて３ヶ月まデの
勤務評定はＡ。カラビニエリトの対抗戦で署長表彰もらっテますね。タダし、その後急降下。賄賂を
取るようになっテ、相棒のスフォルツァ巡査の殉職で再起不能になっテ退職……ってことになっテま
ツけど、ホントかな？ 密命を帯びテ、潜入捜査トか、チてまツェん？」
「そんな器用な質じゃない」
眼を覗き込まれて、アバッキオは短く否定した。
「パッショーネの、下町のチームリーダーがチきりにモーション掛けテきテるの、ほんトに気がつい
テなかっタ？」
「知らん！」
「へえ。じゃあ普通に自由恋愛で？ 元警官がイタリア全土に勢力を持つファミリーの、ネアポリス
の支部長の代理人の情人になっタんダ？ さすがイタリアは情熱的な国デツね」
天を仰いでからからと笑って、アルプスの向こうから来た男はずばりと斬り込んだ。
「じゃあ、引いテください。任務ヂゃないのならいいデチョう？」
「なん……だと？」
「彼女のこトを想うなら、引いテくだツァい。ここらで裏世界に顔の効くお友達が欲チかっタんダ。
２０才やそこらデ、どこのチンクタンクのバックアップもなくコンサルタントって、変ダト思っタ。
マフィアの支部長の愛人ダっタトはね。どうデツ？ 彼女、あっチの方は巧いの？」
「関係ないッ、あいつはほんとに自分の才覚だけでッ」
アバッキオは逆上して叫んだ。春の陽光に、風になびくプラチナの髪の一筋一筋がきらきらと光った。
「はは、あり得ない。僅か１２の、きれいな女の子が。この犯罪都市デ。
彼女に決めテ貰いまチョうか？ 才覚のある女性なら、いよいよ選ぶのはぼくの方デチョうよ。オー
ストリア最大の情報産業を握っテいる、アップフェルベルガーの後継者タるぼくをね」
立ち上がって、テーブルに身を乗り出して相手を見据えていたアバッキオは、なにも言わずに背を
向けた。待ちかねたブチャラティが、恋人を呼んでくるようナランチャにお願いしていて、すばしこ
いメッセンジャー・ボーイが、さっきからこちらを心配そうに見つめていたので。
「なあ、なあアバッキオ、エーリヒと喧嘩したのか？ ブチャラティを譲れッてか？ 聞かなくてい
いぞ、あんたのほうがいい男だからな？ ブチャラティだって絶対あいつのこと好きになんかなんねー
よ」
ナランチャは細かい足取りでアバッキオについて回り、病室へと案内しながら機嫌を取るように小
声で話しかけてくる。
「気を遣わなくていいッ」
「だって、……言いつけるみたいで嫌だけどさ、あいつ、昨日おれにジェラート奢って味方に付けよ
うとしてたけどさ、……金の使い方がなんかイヤなんだもん」
「イヤってのはなんだ？」
「チップの渡し方が嫌みでよ？ 小銭を落としたら、拾わなくていいっていうんだ。そんなものを拾
うのが惜しいって。
ブチャラティは、このままなくなったら世界の損失だからとかいって、新品のスカート穿いてても
はいずってでも探すって言ったら、レディはそんなことするもんじゃないって。それを拾って集めて
生活する階級のやつがいるから、落としてしまったらそれはそいつにくれてやる分だって」
「そうか」
「おれはそういうの、確かに拾って集めて食い繋いでたほうだからさ。そりゃ、落として忘れててく
れた方がいいけど。なんかさ、イヤじゃん」
「そうだな」
アバッキオも、１ユーロどころか１チェントも計算が合わないのはイヤな方だ。警官時代は細かい
お釣りを嫌って、すぐさま募金箱に突っ込む同僚もいたが、アバッキオは必ずそういうのはポケット
に入れてちまちま数え、貯めておいてミサの後やクリスマスの時になどまとまった額を献金するなら
いだった。
「フーゴにも言ったら、フーゴのやつも笑ってくれてさ。フーゴも最初は１ユーロを集めるのも苦労
したって言ってくれたのに……途中からなんか怖い笑い方になって。そのまま夜川向こうのオフィス
に行っちまって、そんで帰ってこなかったんだよ」
「なんだそりゃ？」
「解かんねえ」
アバッキオは、地震を予知して怯える小動物のような少年の頭を無遠慮にかき混ぜて不安を払って
やった。
７
もう健康状態に太鼓判を押されたブチャラティは、暇さえあればイメージトレーニングをしている。
ジッパーを、頭の中に思い描いて、そのつまみを持って、思い切り引き開ける。
「スティッキィ・フィンガーズ！」
なにも目の前には浮かんでこず、指先にも冷たい金属の感触が伝わってこない。本当に、スタンド
能力が消えてしまったのだろうか。
……艦長も、死線をさまよって、目覚めたときにはスタンドがなくなっていた。
前任のチーム・リーダーの姿が眼に浮かんだ。
やっとチームを纏めることができたのに。シマを治めて、認められて、トンマーゾの遺した山の手
も吸収して。秋にはネアポリス全市を掌握するというのに。
うっかりして、事故に遭ってしまったばかりに。
このところ浮かれてしまっていた自分を、心から反省した。
自分にスタンドが発現したときのことを思い出す。
……ここまで肉がないと惨めな気持ちになる。もう食べるところが残っていない鶏の骨を未練がま
しくしゃぶっている貧乏人のような。
ひどい言いぐさだと抗議することすら許されなかった。
女としての基本の魅力さえない自分。なんの後ろ盾もなく、この南イタリア最大の犯罪都市で生き
ていかねばならない……。
スタンドが欲しい。
心の底からの希（ねが）いだった。
今は、地位を築いている。フーゴや、ナランチャやアバッキオのおかげで。自分はもう食い物にさ
れることを恐れるただの小娘ではない。
なら、もうスタンドがなくても生きていける？
ブチャラティは、じっと自分の手を見つめていた。
「スティッキィ・フィンガーズ！」
青いトゲのついたヘルメットを頭に戴き、体中のそこここをプロテクターで覆ってジッパーのモチー
フを身につけた、自分の相棒。もう逢えないのだろうか。
「超能力は、戻らないんデツか？」
背後にアップフェルベルガーが立っていて、ブチャラティはどきりとした。
「な……に？」
ゆっくりと、振り返る。時間を取って、掛けられた言葉のすべてには答え尽くさない。神秘的な雰
囲気をつくるためのテクニックだ。しかし、アップフェルベルガーは、実に冷徹にそれを無視した。
「別にそれでも構いまツェん。
ベアトリーチェ、いいえ、フロラ。あなタが欲しい。
僅か１９才ト少しデ、ネアポリス全市を掌握するあなたの頭脳ト手腕が。
あなタには最高の贅沢ト女トしての目眩くような快楽をあげる」
「え？ ちょッ」
「医者はもう運動をしても良いと言っタ」
長身の男は大股にベッドに歩み寄ると、身を起こしていたブチャラティの両肩を押さえ込んだ。
「チョっト運動をしテみようか？ 大丈夫、無理強いはツィない、欲しくなるまデ待っテあげるから」
と囁くと、反論をキスで封じた。開けかけていた口に、すぐさま舌が割り入れられる。無言のうちに、
渾身の力を込めた諍いがなされている。
「解っていて、わたしを狙ってぶつけてきたな？」
なんとか顔を押しのけて、ブチャラティは問うた。
「ええまあ少しは。チェーザレは遊び仲間デツが、女を融通し合うほどデはない。なにか訳があると
いうのはうツうツ察チていまツィタ。
報告書が届いタのは昨日。さツが、ファミリーの情報隠蔽工作は念が入っテいまツィタ。
デツから、あなタに惹かれタのは事実。デも、今はあなタの頭の中を手に入れタい」
「お断りだ。わたしは自分でこの地位を手に入れた。今更誰にも支配される気はない」
「自分デ？ あなタもそんなこトを信じテいるのデツか？ あなタが１５の時からポルポの愛人をやっ
テいタのは公然の秘密ダ。うチの情報部に２日半デ調べがツく程度の」
「それを」
「彼にも秘密だったんデツか。彼は顔に出やツいタイプデツィタね。紙のように白かっタ、文字通り」
余裕の表情を作って、アップフェルベルガーは見下ろした。ブチャラティを。
ベッドの上で、得意げな男に見下ろされる。いちばんブチャラティが嫌悪した状況が出来上がって
いた。
「解りまツね？ ２１世紀は情報の時代ダ。情報を握っタものが支配ツる。ソヴィエトが崩壊ツィテ
１０年。まダまダ東欧は激動デツよ。情報が、欲チいデチョう……？ お互いに、協力ツィ合えるト
思いまツェんか？」
パッショーネのボスは、情報を支配の切り札に使っている。自身のことは秘したまま、イタリア全
土を恐怖で支配し続けている。ボスに対抗するには、強い切り札が必要だ……？
「あなタヂュうぶんきれいダし。可愛がっテあげまツよ。ずっト、長く……」
黙ってしまったブチャラティに抵抗の意志が消えたと見て、オーストリアの放蕩息子はのし掛かっ
てきた。
……いやだ。
ブチャラティはまっすぐその緑の眼を見返して心を決めた。
わたしが身体を許す相手はおまえではない。淡いプラチナの髪の。繊細な心を強靱な身体に隠し持
つ白いライオン！ 一度は心の中から消え失せても、その真っ直ぐな優しい心で再びちゃんと現れ出
でた愛しいひと。
ブチャラティは強く願う。生き延びたい、自分の心と体、誇りを守りながら！ 何者にも屈せず頭
を上げて生きていくために、今この時、スタンドが欲しい！
「スティッキィ・フィンガーズ！」
黄金の光の中で、ブチャラティは自らの相棒と再びまみえていた。
「しばらく、わたしの相棒。助かったよ。これからもずっとわたしの側にいておくれ（スタンド・バ
イ・ミー）」
顎を断ち割られて吹っ飛んだ放蕩息子が起き上がろうとすると、病室に彼の側近が駆け込んできた。
「若社長！ 本国で会社がたいへんなことに！ 即刻ホテルにお戻り下さい」
「クーデターでもあったというのか？ 親父なら巧く切り抜けるさ」
ドイツ語での会話は、ブチャラティには聞き取れなかった。
「いいえ、我が社の株価が暴落中で。明日にも経営破綻の危険性があります」
「そんな、うちは持ち株会社化している。会社単体の株価が下がったぐらいで一気にどうこう行くわ
けが……」
「それが巧妙な投機筋の策略のようで。トーキョーかシンガポールで、誤注文を装った大量の安値売
りが始まったのに連動して世界中で……」
「待て、帰って聞く！ なんだってこんなタイミングで……ミケーレ！？」
恐怖に顔を強ばらせて、誘惑者は破滅のラッパを吹いた天使の名に思い至った。
厄介な客が去って、ブチャラティは身支度を整えながら、ふと気がついて独りごちる。
「……彼はこの病院の勘定は済ませていってくれただろうか？」
８
「チェーザレめ、ほんとうにやっかいな客を呼び込んでくれて、今度という今度は本当に愛想が尽き
たわ」
グリマルディーニ老はぶつくさいいながら退院の手続きにやってきた。アップフェルベルガー・グ
ループは経営破綻の危機に瀕し、当然、特別室の勘定は踏み倒していったらしい。
「これだからマフィアの女になんか関わりたくなかったとか、どの口が言うんだっていう捨て台詞で
したぜ、野郎」と、タルティーニが口を歪める。
「チンピラでも言わねーよ、そんな安い台詞」と、ナランチャが肯いた。
「しかし、どうやって一日でオーストリア最大の情報産業を経営破綻に追い込んだんだ？」
荷物持ちにやってきたアバッキオが問うた。特異な事件はもう新聞のトップ記事になっている。
「ええ、丁度シンガポールの方で、注文を間違えて億単位の株を１ドルで売りに出すっていう事件が
あったらしいんで、それに便乗して、狼狽売りに見せかけてどんどん空売りの注文を浴びせて。もち
ろん、代理人を使ってロンドン・シティやフランクフルトやニューヨーク、地球の裏側のトーキョー、
シンガポールまで場所を散らして、万が一にも尻尾を掴ませないように配慮して」と、したり顔でフー
ゴが答えた。「注文ミス」というのもフーゴの仕込みであろうと一同は背筋を冷やす。
株も商品であるから、売り手が多ければ値が下がる。見せかけの売り注文を皮切りに、全世界で株
が下がっていくようイメージ操作をしてアップフェルベルガーの株を紙くずにしてしまったというこ
とだ。夜遊びどころか、一晩中、地球の裏側のマーケットにマネー・ゲームの指示をしていたという
わけである。
「今流行りのプログラム売りの条件に引っかかるように芸術的に値を操って、関係ない投資家にまで
片棒を担がせおって。最小の投資で最大の効果を得たというやつじゃ。
株の手ほどきは始めておったんじゃが、そろそろ実際のマーケットで売り買いの練習をと思っておっ
たところを、企業グループをひとつ潰すなんて、空恐ろしい手腕じゃ」と、グリマルディーニ老が兜
を脱いだ。
「でも、空売りでの仕手戦ですからグリマルディーニさんにはそうとう資金のご負担いただいちゃい
ました。すみません。そのうち地味に稼いでお返ししますから」
フーゴはしおらしげに頭を下げるが、
「といっておきながら、へそくりでヘッジもちゃんとしておった癖に。まったく末恐ろしい堕天使じゃ。
ほとぼりが冷めた頃に洗ってちゃんともとの口座に返しておいてくれよ？ こっちは財務警察が来
たらとぼけておくから。
見所のある若いのにちょっと自由にさせたら情報産業に突っ込んで大穴開けた、しばらく謹慎させ
とくって言っておくからの」
グリマルディーニ老は愉快そうだ。
「ご厄介をお掛けします」
種明かしをされてブチャラティは冷や汗をかいた。
「それじゃあの」
ネアポリス市街を２分する川の上で、さりげなく、グリマルディーニ老たちが去った。ナランチャ
も、フーゴの手を引いて、２人にさせてやろうとする。
「ブチャラティ、あれを」
フーゴが気がついて声を掛けた。
「ああ、その、まだ早いが、何かあると大変だから今ここで渡しておく」と、ブチャラティが胸に手
を当てた。彼女のスタンドが現れて、ジッパーの引き手を引く。胸に現れた亜空間から、彼女は心づ
くしのプレゼントを取り出して手渡す。
「誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう。
それで、あの、それには、これを付けて欲しい……」と、また左の尺骨の辺りを開けて、小さな鍵
を出す。
「わたしのうちの、鍵……いつでも、思い立ったときに来てくれ。そして、自分の家として過ごして
くれ。今度のようにわたしが斃れたときは、わたしのものは全ておまえが管理してくれ」
それは、ほんとうにパートナーとなった証。
ブチャラティは、うつむいて、ほとんど真っ赤になりながら、手を差し出していた。
アバッキオは、黙ってそれを受け取った。立ったまま無造作にその包装を取り払って中のきらきら
輝くキーリングを取り出すと、貰ったばかりの鍵をそこに通して指に引っかけて回した。
「きれいだ……気に入ったぜ。大切にする」
心なしか小さくなっていたブチャラティが、顔を輝かせて伸び上がった。それを、アバッキオは持
ち上げるように両手で抱き寄せる。
「きれいで優しい、そしてなにより強いフロラ。あんたが好きだ。大好きだ。ありがとう、本当に最
高の贈り物だ」
傾き始めた春の陽を受けて、２人はしばらく橋の上で抱き合っていた……。
「それで、なんだって自分に向かって車が飛び込んでくるってのに棒立ちになってたんだ？」
「ああ、それ、ぼくも聞きたいです。やっぱり、なんか仕掛けてくるって解ったんですか？」
しばらく離れていたフーゴが、２，３歩駆け寄って重ねて問うた。
「ああ、いや、確かに眼は合ったんだ。それで………
きれいな金髪のいい男だなってちょっと見とれてて」
ブチャラティはとうとう観念して白状した。
「ブチャラティッ！」
フーゴはすぐさま叱りつけた。アバッキオは黙って顔をうつむけて歩き出した。ブチャラティは慌
てて言い訳しながらそれを追う。
「いやそんな、キレイだなって純粋に思っただけで、触ってみたいとか本人と会って話がしたいとか
までは全然……
本当だって！ わたしは男とそういうことを考えたことは一度もないッ！
彼にだって、３日も口説かれ倒したが結局断ったし！ 抱かれたいとか思ったのはレオーネ、正真
正銘おまえだけだッ！」
沸き起こる歓声と口笛にはたと気がつくと、もういつもの横丁まで来ていて、通りには街の衆が出
ていてにやにやとブチャラティの一世一代の告白を聞いていた。
「バッ、バカヤローッ！」
アバッキオは髪を逆立てていよいよ早足に歩き去る。
「なにを往来で絶叫してるんですッ！ ナランチャ、行きましょうッ」
フーゴまで顔をトマトのようにして、ナランチャをせき立てて行ってしまった。
途方に暮れたブチャラティが街の衆にいじられていると、彼方からプラチナブロンドのライオンが
すっ飛んできて、彼女の手を捕らえるなり、
「なにトロいことやってんだ！」と一言叫んで、また駆け足で彼女を連れ去った。
隠れ面喰いとかねてから噂のあったブチャラティだが、さらに特記事項が付いて、「隠れ面喰いの
金髪趣味」と決まった。なんにせよ、本人の宣言通り身持ちが堅いのでネアポリスの下町の女神の人
気が落ちることはない。
（３０−１２−０９）
別解。
「ブチャラティッ！」
ブチャラティは慌てて言い訳しながらそれを追う。
「いやそんな、キレイだなって純粋に思っただけで、触ってみたいとか本人と会って話がしたいとか
までは全然……
本当だって！ わたしは男とそういうことを考えたことは一度もないッ！ 彼にだって、３日も口
説かれ倒したが結局断ったし！ 抱かれたいとか思ったのはレオーネ、おまえだけだッ！」
……本当に「抱かれたい」って思ったことあるんですかッ？ 「抱きたい」じゃなくて？
フーゴは突っ込みたかったが、紳士としてそれは口に出してはいけないと思って忍耐力を総動員し
て我慢した。
別解その２。
……いやだ。
ブチャラティはまっすぐその緑の眼を見返して心を決めた。
ブチャラティは強く願う。生き延びたい、自分の心と体、誇りを守りながら！ 何者にも屈せず頭
を上げて生きていくために、今この時、フィニッシュ・ブローが欲しい！
「ウィニング・ザ・レインボーッ！」
七色の柱がブチャラティの胸元から突き立って、アップフェルベルガーは部屋の端まで吹っ飛んだ……。
えーと、おかあさん「リンかけ」（「リングにかけろ」：「聖闘士星矢」の車田正美による前衛的
ボクシング漫画）世代のひとなので、必殺のアッパーカットというとこれを思い出します。技の名前
を叫んで腕を振ると敵がババーンと飛んでゆくという漫画のお作法を作ったのはたしかこのひと。
蛇足。
わーい、「その朝」シリーズだけで年内５０作達成！
ブチャおねえさんもおかあさんも恥のかき納めと言うことで。
本当に、しょうもないグランドロマン（ｗ にお付き合いいただきありがとうございました。
２次創作ものの王道、記憶喪失をやってなかったと思って、記念すべき５０作目はこうなりました。
やっぱでも、小指と小指が赤い糸で結ばれてるカップルはすぐもう一度恋に落ちるなり思い出すな
りしなくっちゃねー♪
自分の素性を知ってると匂わせた相手には容赦ないフーゴでした。華麗な仕手戦……のつもりが、
書いてみたら意味不明になってました。なんかしらん、高度な株価操作をして破産に追い込んだと思っ
てください。やっぱ、額に汗して働け。
調べたら、東京証券取引所で６１万円でひと株のところ間違えて６１万株を１円で売りに出して大
騒ぎになったのは２００５年のことでした。うん、似たような騒ぎが２０００年のシンガポールであっ
たんだと思ってください。オネガイ。
イタリア人の名前が尽きて、どうせよそものだから外国人にしちゃえとばかりにオーストリア人に
しちゃいました。アップフェルベルガーって、直訳すると林檎山。そりゃ、ブチャラティはイヤだろ
う。ドイツ語話者っぽくタ行を目立たせてみましたが（ハリポタの炎のゴブレットに出てきた東欧の
選手みたいに）、目障りなだけでした。まあこんなこともあるさ。
ブチャラティが林檎を嫌いな理由についての漫画が青野魁さんのところ→noa*noa
（ジョジョ部屋からリンクをたどっていってどうぞご覧ください）にありました。名作です。