媚態
その朝（２４）
どうも二人はケンカしたらしい。
もともとオフィスや町中でいちゃついたりする彼らではないので、その事態が明るみに
出るには時間がかかったが。
食事の時も、その日の仕事が終わって解散するときにも、目も合わせず、口も利こうと
しない。
「もしかして、やばい？」
「さあ？ こんなこと初めてじゃないですか？」
「初めて？」
ミスタが面白そうに身を乗り出してきた。
「ダメですよッ、面白半分にかき乱したりしちゃ！」
「解ってるって。でも、そりゃいい傾向じゃね？」
「どうしてですかッ！？ 仲良くしてても迷惑なのに、スタンド使って痴話喧嘩でもされ
た日にはここが半壊するかも知れませんよ？」
フーゴはすっかり心配性になって、余計なことにいろいろ気を回している。
「だって、ムーディー・ブルースはケンカ向きじゃねーじゃん。ケンカには使わねーよ。
それに、この間ので解った。アバッキオはねーさんにベタ惚れだから絶対手は挙げられねー」
ミスタが冷静に分析した。
……それは最初の時フーゴがきっちり躾けたからなんだけど……。
ナランチャは説明しておくべきかちょっと悩んだ。
「それで、気がついたらとっても胃に悪い冷戦がはじまっていたというわけなんですね？」
みんなでこのことについて対策を講じるべきだと判断したのか、フーゴが状況を整理し始めた。
「何日前だっけ？」
「一緒に出勤しなくなったのは１０日前からです」
「でもそれって、女のあれじゃねーの？」
ナランチャも言いにくそうに指摘する。もうこれで１年の仲だから、そういう毎月のス
ケジュールまでチームメイトは把握している。
「ぼくもそうだと思ってたんですけどね……」
きっかけはそれもあった。
「入って行け」
ブチャラティが、玄関先で手を取って、引いた。
「いや、今日はいい」
月に一度の具合の悪い時期だ。もう１，２日は控えた方がいい筈だった。たまにゆっく
り脚を伸ばして寝かせてやろうと、昨夜もアバッキオは自分のフラットで休んだのだが。
「別にどうしてもおまえがほしいって訳じゃない。この雲行きだ、泊まっていけ」
優しく微笑んで、ブチャラティは抱いてきた。
「いや、いい」
アバッキオが突っ張るのも大して珍しくないことだった。いつもなら、２度目か３度目
には渋々といった振りで招き入れられるのだが。
この日は珍しくアバッキオが頑張った。
「この状態でもいろいろ愉しませてやれることは解ってるだろ？ 遠慮するな。わたしだっ
ておまえと一緒がいいんだ」
「いいって言ってるだろッ！ おれだってたまにはひとりで考えたいこともあるッ！」
「それがやばいから言ってるんじゃないか。一人で考えていてもいいから身体はこっちに
おいとけ」
アバッキオは余りにも心の持ちようが健全なため、一人で悩ませておいても首を括った
り自傷したりという方へはいかないのだが、どうもこのトラウマ持ちの情人に入れ込みす
ぎていろいろやばい話を聞きかじってしまった女ギャングは、危ない想像をたくましくし
てしまったらしい。
微笑んで、距離を詰めて首を引き寄せた。
くちづけてしまえば、あとは意のままと言うように。
それがまた繊細な男の神経を逆撫でした。
「なめるな！」
アバッキオは首を突っ張って、姿勢を気をつけに戻すと吼えた。
「そうムキになるな。まるで自分の部屋に女でも待たしているようじゃないか」
かろうじて微笑みを守ったまま、ブチャラティが冗談に紛らわせようとする。
「あんたはッ！ ……言うに事欠いてソレかよッ！」
アバッキオはもうあからさまに腹を立てて、大股に部屋を出て行った。階段を駆け下り
てゆく靴音さえ大きく響いていた。
間の悪いことに、その翌日から秋雨が降り続いている。
最初は詫びを入れて精神的フォローをしてやろうとしていたブチャラティも、念の入っ
た拒絶に疲れ果て、ならばと意地になっているところもある。
アバッキオの方は、ただでさえ雨の日は鬱に入り込んで危ないのに、自己嫌悪やらよう
やく育ってきた想いを否定された情けなさやらで全身に暗雲をまとわりつかせた暗さだ。
すれ違うチンピラどもが避けて通り、赤ん坊が泣き出す迫力で、チームにもこっそり苦
情が回ってきている。
「どーにかなんねーの？ あれ」
ナランチャがため息を吐いた。
「でもサ、いい傾向だと思うんだけど？」と、椅子の背に思い切り寄りかかって両腕を頭
の後ろで組んで、ミスタはあくまで明るい。
「なんでさ？」
「だから、今までは、ケンカも出来ねーほど遠慮してたんだろ？
聞いたらサ、おれが
入るまで、アバッキオほとんど笑ったこともなかったって？ それが、アバッキオも、こ
れはイヤ、これ以上は入ってくんなって言って、ケンカになったんだとしたら、それはそ
れで本音が出せるようになったってことじゃん」
「そういう見方もありますか」
フーゴが目からウロコといったようにミスタの顔を見やった。
「まー、ブチャラティあいつに構い過ぎってところあったしな」
ナランチャも肯いて見せた。
「これを機にいい方へ転がってくれるといいんですけどね」
「いろいろ相談しに行ってるみたいだぜ。昨日はパトロールの帰り、例のサンドラさんと
こでおれ先に帰されたし」
「あのひとに相談って……また余計な方向に話曲がりそうな気もしますけど」
「なーそのサンドラ姐さんって要するにこの街のナンバーワンってホント？」
ミスタが身を乗り出して来て、話題は変わった。と、
「飯。……呼んでこい」
アバッキオがタイミング良くキッチンから大皿を持って現れ、顎でオフィスを指し示し
た。
「あ、ああ。今呼んでくる」と、ナランチャが腰を上げた。
イライラしていても料理に手は抜かない賄い方は、今日はトマトに情熱をぶつけたらし
い。みじん切りトマトがサイコロ以下のサイズにされてサラダを彩っていた。
怒っているのなら別行動を取ればよいものを、それが義務とでも言わんばかりにアバッ
キオはブチャラティをフラットまで送る。それがまた、今までのは愛情からではなく上司
に対する義務として行ってきたのであり、今日これからもそれは義務として続けると言っ
ているようで、ブチャラティは切ない気持ちになる。
この日もドアを開けて入ったブチャラティが振り向くと、
「それではまた明日」と、慇懃な挨拶をしてアバッキオは背を向けた。
口を利いてくれるようになっただけましか。
ケンカの後の２日ほどはまったく口も開かなかった。
……そりゃあ、浮気を疑ったのは悪かったが、１０ヶ月ほどもほとんどニコリともしな
かったんだぞ、他に好きな人がいるんじゃないかぐらい思ったっていいじゃないか。
時系列をごたまぜにして自己を正当化している。どうも、冷静さを欠いているようだ。
……まだ降りそうなのに、大丈夫なんだろうか……。
窓から帰る姿を見送ろうとして、ブチャラティは上空に「それ」を見た。
間一髪、もう店じまいしたカフェーの軒先に飛び込むことができて、アバッキオは吐息
した。と、そこへ携帯の着信音が忙しく鳴った。ブチャラティからだ。迷わず繋いだアバッ
キオの耳に、雨音に消されながら悲鳴が届いた。
「レオーネッ！ お願いだ、ここへ来てくれッ！ 助けて……」
頭を覆って駆けだしたアバッキオの姿を、稲妻が照らし出した。
「おいッ！ フロラ！ 大丈夫か！？」
大きく玄関のドアを開けて飛び込むと、がくがく震えていたブチャラティはよろめきつ
つしがみついてきた。
「ああ、無事着いてくれた。済まなかった。おまえが雷に打たれる可能性についてはうっ
かり考えなかった……」と、恐ろしい力で腰の辺りに身を寄せる。アバッキオは、身をか
がめてその背を抱いた。
「あんた……？」と、問いかけようとする間に、また青白い光が夜空を裂いて、間髪入れ
ずに大音声がとどろく。ガラスが揺れ、地響きが応えた。
「イヤッ！」
スレンダーな背が、大きく震えた。
「近いな……」
とりあえず呟いた声に、また反応する。
「そんな恐いことッ……」
「まァ部屋の中なら大丈夫だろ……」と、アバッキオは床に腰を下ろしてしまって、本格
的に恋人を腕の中に抱き込んだ。
雨が降り始めた。窓を打つ音が激しくなる。
「フーゴが、だめなんだ。それで、昔から……」
ブチャラティは話し出す。
……主語間違ってねぇか？
指摘しないままに、アバッキオは聞き役に徹した。
……人類はまだ雷を克服していないんです。
ギリシャ・ローマのゼウスやユピテルにはじまって、雷神というのは各神話に於いて必
ずと言っていいほど地位を占めています。最高神であることも多い。それだけ、雷の破壊
力を人類は恐れてきたんです。北欧のトール、インドのインドラ。日本では、讒言により
失脚した反主流派の大臣が雷神になって、自分を追った政敵を宮廷、天皇の眼前で直撃に
よって殺したとか。
あれだけの膨大なエネルギーを、活用することも、うまく避けて無害化することもでき
ていないんです。それは、根源的な恐怖を覚えてもしょうがないでしょう……。
アジトの屋根裏でふたり、寒さと恐怖に震えながら、そんなことを、天才はとつとつと
語って自らの醜態を繕ったらしい。それは、まだブチャラティ・チームが子供二人で、街
の大人達に軽んじられながら細々とやっていた頃の話。
やせっぽちの少年と少女のギャングは、二人で身を寄せあって、自然の脅威やらなにや
らと戦ったのだろう。
「へえ」と、言ったそばからまた雷鳴がひらめいた。ひっ、という押し殺した声が瞬時に
上がり、しがみついてくる手の力が強まる。ざあ、という雨粒が地を叩く音が強まり、風
がそれを吹き散らして地面の上に縄をしならせたような銀の曲線が描かれる。水滴は強烈
なエネルギーに千々に砕かれ、霧になって周囲に襲いかかる。大嫌いな雨なのに、なぜか
今日は愉快な気分をそそる。
「この時間ならまだナランチャが一緒にいるだろうから、フーゴは心配ないだろうけど」
と、一応は配慮をして見せる。
「フロラ」
アバッキオは低い声を出した。
「な、なに？」
「たとえ今年１６のフーゴでも、この状態で他の男の話してるんじゃねぇよ」
脇を持ってブチャラティの顔をずりあげながら、アバッキオは不敵に笑ってその顔にく
ちづけた。
「なんか今日はイイみたいじゃね？」
翌朝。ナランチャが２階のオフィスに眼をやって小声で言いかけた。
「昨日の雷雨が効いたみたいです」
表情を動かさずに、フーゴは言った。
「だって、雨の日をどうするかでケンカしたんだろ？」
「あんまりひどい雷雨だったから、ブチャラティの方が怖がって、アバッキオが鬱に入る
余地がなかったみたいです」
ご機嫌なブチャラティが、心配掛けて済まなかったと朝、顔を合わせた時にかるく事後
報告したのだ。
「ブチャラティって雷コワイひとだったっけ？」と、ナランチャは首を傾げて見せた。い
つも冷静沈着な彼のヒーローは、そういう、ふつうにひとが恐がりそうなものできゃあきゃ
あ言ったりすることは絶えてないはずだった。
「まさかそんな。子供みたいな。ぼくは電化製品に影響が出るのが心配なだけで。自然現
象ですよ」と、フーゴは言わずもがなのことを垂れ流している。
「あー。女の、虫コワイとかきゃー雷がーとかは結構媚態（コケットリ）だよな」と、ミ
スタが訳知りに笑った。
「ナニソレ？」
ナランチャが曇りのない目で問い返す。
「男と女の罪のない嘘ってこと」と、ミスタがウィンクして言った。
「です」
書類から眼を上げずにフーゴが相づちを打った。
まあ、これでリーダーとその恋人の仲がうまく行ってくれれば、彼らもとくに文句はな
いのだった。
「きゃー雷がとか、嵐が怖いから泊まっていってとかで、男と女は新しい局面に入る訳よ。
そうやって、人類は繁栄してきたわけ。雷サマサマだよな」
雨が上がったこの朝は、空も、街も清々しい輝きに満ちている。ミスタが立っていって、
窓を開け放って空気を入れ換えた。
（０１−０６−０９）
蛇足。
たしかにうちのアバッキオは女々しいが、雷に怯えて泣き叫んだりまではしないだろう
と思って。ここは、ブチャおねえさんにお願いした。
コケットリであろうというのが大方の認識だが、さて、そこまで黒いのもどうかなと。
今までは、おねえさんとして上司として弱みを見せずに突っ張ってきたブチャラティだ
けど、今は弱い面を見せてもいいひとがいるということに気づいて欲しい、そこで安らい
で欲しい。上から、配慮を見せて優しく優しくしてやるよりも、弱いところを見せて頼っ
てやることの方がアバッキオの為になることもあるだろうという方向でご理解いただきた
い。それって「北風と太陽」の逆？
でも、誘って断られたからって浮気を疑うなんて、ブチャおねえさんそこは最低でしょ
う。
もうネタ切れかと思ったんだけど、まだまだなんか出てくるもんだ。今後ともお付き合
いねがいます。リクエストもどうぞ。