Ｂｅｌｌ ｔｈｅ ｌｉｏｎｅｓｓ（ライオンちゃんの首に鈴）
その朝（２０）
リヴァース ２
１
「ええと、その、レオナ、個人情報は、この前書いて貰った書類で合ってるんだよな？」
ブチャラティが、探りを入れる眼でアバッキオを見やった。
「生年月日も出生地も家族の名前もみんなその通りだけど？ あたし、頭悪いからウソと
か吐きとおせないし」
「生き直したいってなら、名前ぐらい偽名を使ったっていいんだぜ？」と、眼が横へ動く
のをアバッキオは見とがめる。
「ああ、やっぱ偽名なんだ？ パンナコッタちゃん。あんたも親の顔に泥塗り組だったん
だ、へえ？」
日頃仲の悪い参謀に眼をやって、顎をあげて野良ライオンは驕慢に笑った。
「ええそうですよ。ぼくはなにしろ凶悪で頭の悪い小僧ですから。名門の家名は守らない
とね。でも、ホントの年を言ってもサバ？ って言われるようなひとには敵わないですか
ら。毎日魔女みたいに黒い服着て、眉間に皺寄せてると老けるのは早いですよ」と、フー
ゴの方も口が減らない。
「クソガキ！」
「文句があるなら川向こうへいってでもまたお商売始めたらどうですか？ ブチャラティ
に拾われなかったら酒とクスリでボロボロになって冬も越せずにのたれ死んでたくせに、
態度でかいんですよ！」
「このっ」とさすがに手が出そうになるのをリーダーが間に入って止めた。
フーゴは口をジッパーで留めつけられ、アバッキオは右手を手首から１０pのところで
切り離された。
「フーゴ！ 女性にそんなこと言っちゃいけないよ」
静かな青い瞳に見据えられて、フーゴは眼を伏せる。
「レオナも、こいつはうちの大事なブレインなんだから、脳味噌に衝撃与えたりしないで
くれよな」こちらは、フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。治せよ、とばかり
に右手をぞんざいにブチャラティの方に差し出している。
「仲良くしてくれよ、お願いだから」
困ったように微笑んで、ブチャラティは二人を元通りにしてやった。
２
アバッキオが夕食の仕込みに入った背中を見届けて、二人は密談に入った。
「やっぱり来月でよかったんだな」
「年明けからばたばたしてましたからね。でも、直前になる前に気がついて良かったじゃ
ないですか。２月は逃げるように過ぎるとか言いますから、はやめに手を打っておかない
と。サン・ヴァレンティヌスも過ぎたばかりだってのに、忙しいことですね」
「ああ」
肯いて見せながらも、ブチャラティはほくほくと顔が緩んでいる。
「祝ってやる必要なんか、ないですよ？ サン・ヴァレンティヌスも思いっきり外されたん
でしょう？」
１ヶ月も前からネアポリス中の文具店やらファンシーショップを見て歩いて吟味し尽く
したカードを、見るなりあの野良ライオンは屑籠へ叩き込んだ。その瞬間、何年ぶりかに
フーゴは自分のスタンドを呼び出していた。ナランチャが文字通り必死で羽交い締めにし
て止めてくれて、しばらくその痕が二の腕のあたりに残っていたものだ。
「でも、ありゃア口だけだって。腹の底じゃ喜んでたよ、おれには解るんだ」
夜になって、未練でそれを回収しようと屑籠をブチャラティが検めると、それは消えて
いた。きっと人目がなくなってからアバッキオが持ち帰ってくれたと信じたい。
「それ、あんたの心の中のドリームだったりしませんか？」
「……いや、大丈夫ッ、どこがって、子供に言えない方面でおれには確信があるッ」
「……へえ」
じゃあ、夜の方は巧く行ってるんだ。ああ、大人ってフケツ。
つめたい眼になってフーゴは引き下がった。
「で、何にするんですか？」
３月２５日がその野良雌ライオン様のお誕生日なのだ。
「どうしよう？」と、ブチャラティはのんきに小首を傾げて参謀を見た。
「ぼくに聞かないでください」
「だって、この前サイズ聞かないで指輪贈ったって言ったら、相談してくださいよって言っ
たじゃないか」
「言いましたかねぇ」
疲労感に押しつぶされそうな参謀だった。
「やっぱり、形に残るものを贈りたいじゃないか。女の好きなものってやっぱり光りもん
だろ？」
「あの女にそんな常識が通用するか……キッチンナイフは光りもんの範疇に入りますかね？」
「いや、そういう実用品じゃなくって、ロマンチックな方向で。女性を『あの女』呼ばわ
りはいけないぞ、フーゴ。おまえの方がそういうのにうるさいじゃないか、いつもは」
「淑女扱いに値しないと思ってるんで」
敬愛するリーダーを虚仮にしまくっているという点で、フーゴにはアバッキオは許し難
い存在なのだ。
「可愛いところもあるんだけどなあ」
うっとりとため息なんか吐かれると、もうどっと肩が落ちてしまう。
「今度予約入れときますから眼科行ってください、心からお願いします」
３
「ブチャラティが、あんたに誕生日プレゼントを考えてます。なんか欲しいものがあった
ら言ってください」
単刀直入に、夕食後の後片付けをしているアバッキオに近づいてフーゴは言った。
「別になにも」
「そう言わず。予算はこのくらい。なにか後に残るものをプレゼントしたいそうなんで。
結構なんでも買えそうでしょ？」と、電卓に数字を入れて液晶部分を見せる。
「それだけ出せるなら女でも買えば？ よっぽど楽しいと思うよ……ッ！」
一瞬にしてシンク下の扉を開けて逆手に抜き取ったキッチンナイフで、アバッキオの髪
が１０pほど切り飛ばされた。
「顔には傷はつけない。あのひとが悲しむから。次にそんなふて腐れたことを言ったら、
スタンドを使って骨にしてやる。
この予算で、あのひとがロマンチックな気持ちになって、あんたが少しは嬉しそうな顔
をできるものを３日以内に思いついてください」
顎をあげて、フーゴは凄んで見せたが、
「要らないったら、要らないんだよ。天才君、あんた女のこころがなんもわかっちゃいな
いんだね」と哀しそうな顔で微笑まれて、必殺技を外されて途方に暮れるヒーローの気分
を味わわされてしまった。
……なんなんだ、いったい……。
パッショーネは書類の多いファミリーだ。ボスは姿を現さないし、支部を預かるポルポ
は刑務所に収監中で、勢い書類でのやりとりが増えてしまう。ポルポの１の腹心として、
下町から山の手まで市街の大部分を仕切るブチャラティも、毎日回ってくる書類を捌くの
に苦心している。それでも、最近は左手に恋人を構う楽しみが出てきて少しはストレスが
減っているらしい。その夜も、日付も変わろうという頃まで彼は書類を読んでいた。
「……なあ、レオナ」
長いプラチナ・ブロンドを指で梳き下ろして、２度目にはいぶかしげにブチャラティは
問いただした。
「ここんとこ、髪の毛減ってないか？」
「そう？」
「今朝はもうちょっとすぅっと来たと思うんだが。今だと、てっぺんから指を引いてきた
らすっときて消えちまって……なんかあったか？」
細かい。
「服のジッパーにからんじゃって、しょうがないから切った」
実際そういうことはあったので、とくに迷わずに口が動いた。
「もったいない。言えよ、取ってやったのに」
書類に眼をやったままで、優しい男は言ってくれる。手はわしわしと横に頭を撫でてい
る。
「ん、次からそうする」
素直に肯いて、アバッキオはくすぐったいような顔になる。髪の一筋までも大切に思っ
てもらって。
……なんにも要らないんだよ、坊や。
些細なことにも心を配ってくれるひとがいて、ここは安らげる。
……ずっとここにいたい。自分のできることならなんでもするから。
だから、もうなんにもしてくれなくていい。
そういう気持ちを、どうして解ってくれないのだろう。
拾われライオンは床にずるずる坐り込んで、頭を「飼い主」の膝に押しつけた。
「ごめん、これ読んでしまうから。……今度は臓器売買ビジネスか、なんでもよく考えつ
く……」
優しい男なのに、住んでいるのは闇世界だ。生まれ育ってきた中の真っ正直な価値観と
それはあまりにも相容れなくて、今も彼女の胸を波立たせる。だから芽生え始めた想いを
認められない……。
黙ったまま、アバッキオは立ち上がってヴェランダへ出た。２月の夜空は、狩人のフィー
ルドだ。オリオンが棍棒を振り上げ、大犬、小犬が付き従う。大都市ネアポリスでは見え
る星の数も田舎より少ないが、初心者向けの１等星の多い冬の夜空は、まだまだ眼を楽し
ませてくれた。
……ブチャラティに拾われなかったら冬も越せずに酒とクスリでボロボロになってのた
れ死んでたくせに……
帰る家もなく見上げる冬の夜空はどんなふうに見えただろうか。今は、ガラス戸１枚を
戻れば暖かい部屋に、優しい男がいる。ありがたいことなのだ。
……とりあえず、なにを贈られても嬉しい顔はすることにしようか。
結局は屑籠から拾い上げて、自分の下着を詰めたバスケットの底に隠してある聖・ヴァ
レンティヌスの日のカードのように。第１関節のところで止まってしまったサイズの合わ
ない指輪のように。誰にも見せないところに隠しておくことになるだろうが。
「レオナ、冷えるよ」
ガラス戸が開いて、ブチャラティが姿を見せた。抱き寄せようとするのを、胸を突いて
身をかわす。また、強く入ってしまったようだ。一瞬だが痛そうな顔をした。
……手加減も、少しずつは覚えよう。
氷の人形と呼ばれていた身は、優しくされるのに慣れていなさすぎるのだった。
「拗ねるなよ。もう終わった。さあ、おいで」
挫けずに抱いてくる腕は、暖かい。
あとは愛玩物に徹して、蕩けてしまおうか。
一瞬気を抜いた瞬間に、抱き上げられ、ベッドまで運ばれた。
「もう眠いか？」
頭を撫で、髪を梳き下ろしながら一応、尋ねてくる。眼を開けて、その夜空のような濃
い青の眼を見つめ返しながら、言ってやる。
「あんたの好きなように」
じっと心の底まで見透かすような眼は、ふっと逸らされ、こめかみに、額に唇が当てら
れる。ぎゅっと頭を抱きしめた後は、手を離して、背を向ける。こちらの身に腕を絡める
ことも、厭わしかろうと堪えてくれる。はじめての夜も、そういうふうにこちらを尊重し
てくれた。
アバッキオは、身を起こして、男の耳に顔を近づけた。
愛とか、恋とか、そういうものより先に、この男がこの身から掘り出してくれたものを、
まずは味わっている。こんなこと、親が知ったら嘆かわしいと思うだろうか。数十キロの
先に今も徳高く暮らしているひとたちのことは今は忘れて、少しの羞恥は振り切って、吐
息に音を乗せてみる。
「……気持ちよくさせて？」
ゆっくりと、顔がアバッキオの方を向いた。
４
「……一応聞いてみたんですけど、なんにも欲しいものはないそうです。あんたほんとに……
解りました、聞きません」
午前中のパトロールの途中、カフェーで休憩をしながら二人はまた打ち合わせをしてい
る。
のほほんと光り輝いているリーダーの顔を見て、フーゴは徒労感に襲われた。
……ああ、こういうことで十分満たされているから、物質的なものはなんにも要らないっ
てことなのかな。恋をすると食欲がなくなるって言うし。
街に降りて、書物に拠らない勉強をさせてもらっている天才児である。
……それならもっと素直にしてればいいのに。いちいち突っかかるからブチャラティだっ
て不安になって、なにか形にしなきゃと思うじゃないか。
「あのひと恋愛経験なさそうですから、ふつうに一日オフにして、デートしてやるだけで
喜ぶかも知れませんよ？ ホント、ただレストランで食事とか」というふうに、守備範囲
外の問題を振ってもちゃんちゃんと妥当な答えを出してくるからこの天才児は重宝される
のである。
「ああ、そうか。いつも賄いを頼んでるから、たまには休ませてあげるのもいいな」
「カルダーラの店、予約しておきますね。好き嫌いはないんでしたね？」
「ああ、頼んだ」
「それでプレゼントの件ですが……ドック・タグなんかどうですか？ 結構そこら中で貧
血起こしてひっくり返ってるみたいですから」
前世紀の初めぐらいから、軍隊では一般化した認識票。姓名や所属、血液型や宗教など
を打刻して、戦死や戦傷のときに備えるのだが、この物騒な世の中では念のために身につ
ける一般人もかなりいるらしい。出回り始めたときから、犬の鑑札に引っかけて「ドック・
タグ」と呼んでいるのだそうだ。捨て犬同然に拾われた身という皮肉も込めてやったつも
りだが、自分の中にここまで辛辣な面があったことに、言ってしまってからフーゴはひや
りとする。意外や、ブチャラティは同意してくれた。
「ああ……まだフラッシュバックがあるみたいだ。可哀相に」
その辺はスルーしつつ、
「今は結構デザインとかが凝ったものもあるようだし。素材も吟味すれば十分プレゼント
になると思います」
「ありがとう。任せていいか？」
「え？」
気がつくと、フーゴはアバッキオ嬢のお誕生日祝いの実行委員にされてしまっていた。
おまけに、連絡先の入ったものを身につけさせたら！
どこに捨てても行き倒れてくれてもあの憎たらしい野良ライオンちゃんはこのうちに帰っ
てきてしまう！
とっさの意見とはいえ自分の出した案がとんでもないものだったことに絶望して、フー
ゴは額を机に何度も打ち付けた。
「よせよ、優秀な頭の脳細胞が減るじゃないか」
ご機嫌なリーダーは手をさしのべて、参謀の自傷行為をやめさせた。
非常に出来の良い参謀は、レストランを押さえた後、数店から見積もりを出させて検討
し、プレゼントの品を決定して発注を済ませた。盛大に自己嫌悪と闘いながら。
５
そして、誕生日当日、二人はめかし込んで出かけていった……。
「ちょ、待て、相席ってなんだよ？」
ブチャラティが狼狽えた。
「堪えてくれよブチャラティ、なんかあり得ないくらい混んでるんだ今夜。月末の週末だ
し。頼む！ 雑誌に出した懸賞のディナー券、よりにもよって今夜使うっておのぼりさん
もいて。お願いだ！ おれんとこは毎月ちゃんちゃんと払うもん払ってきてるはずだぜ？
その分１本サーヴィスしとくから！ この通り！」
「あたし、別にいいよ」
弱り切って頼み込むホール係の姿を見かねてアバッキオは短く言った。かえって二人き
りでムードが盛り上がりすぎると困ってしまうのだ。相席で、ふつうに上司と部下を装っ
て他の客と会話をしていた方がまだしもだ。
「助かります。本当に、ご厄介を掛けて済みません」
折り目正しい声が響いて、アバッキオは固まり、ゆっくりと振り向いた。その顔が、血の気を失っ
て震え出す。
「どうした？ レオナ」
「な、なんでもない。名を呼ぶな、い、いや、今日は名前で呼んでくれ。姓はまずい」
「さ、ステファーノ。こちらのお若い方とご一緒することになったわ」
華やかな笑顔でクロークにコートを預けて、連れと話をしているのは王冠のような豪奢
な金髪の中年女性だ。背筋が伸び、年は重ねているが若い頃はさぞかしと思われる美人だっ
た。不思議と懐かしい雰囲気を感じさせるが、第一印象はどこかの女王のような威厳だっ
た。
「無理を言って済みませんね。懸賞で当たった食事券なんですけど、どうしてもこの日し
か空かなかったので。せっかくのお若い方の楽しい語らいをお邪魔してしまって本当に済
みません」
にっこりと笑いながらも、眼は油断なく二人を観察しているようだった。
「いいえ、こちらはこの店と懇意なので。いつも無理を聞いてもらっているのでお互い様
です。食事は大勢の方が楽しいものですよ。１本なにか付けてくれるそうなので、一緒に
楽しみましょう」
ブチャラティが、愛想良く言った。
「女王様」とその連れは夫妻で、ネアポリス郊外の田舎町から出てきたと言った。どこか
で聞いた町だとブチャラティはぼんやり考えた。アバッキオは急になにやら恥ずかしがっ
てしきりに顔の前に髪を垂らして顔を隠そうとしている。
「こちらはおきれいな方ね。恋人さんなの？」と、その「女王様」は仕切る。
「いえッ……」と、アバッキオが声をうわずらせた。
「仕事を手伝ってもらってます」
短くブチャラティは答える。
「まあ、どんな？」
この質問は予期済みだ。表の仕事は持っていないが、かたぎと交流するときのために、
仕事に表向きのカムフラージュはしてある。
「ちょっとしたコンサルタントやトラブル解決のお手伝いを」
「まあ、皆さんのお役に立っているのね。偉いわ」と、「女王様」は眼を細めた。
「でも、お嬢さん、ちょっとお化粧が濃いんじゃないかしら？ お若い方があんまりにお
化粧が濃いのはいやな印象を持たれることもあるものよ」
「あ、……すみません」
らしくなく、アバッキオが小さくなった。
「ドレスも、ちょっと胸元が大胆すぎるんじゃないかしら？ 夜会でもないのにそんなに襟ぐりが大
きいのはかえってエレガントさに欠けるんじゃないかしら。その髪も、食卓では邪魔になるし、不潔
な感じも与えるものだわ……」
どんどん女王様はダメ出しする。中年女性の性かと思われたが……。
「クリスタ、よさないか。人様に余計なことを言うんじゃない」と、その夫がたしなめた。
「いえ、わざわざありがとうございます。以後気をつけます」
アバッキオが汗をかいて詫びている。ブチャラティは、
「ご忠告ありがとうございます。でも、おれは似合ってるからいいと思うんですよ。今日は記念日だ
し、張り切ってきれいにしてくれたんでしょう」と、礼を失しない程度に庇った。
「あら、ごめんなさいね。娘と同じ年頃だと思うとついついお節介をしたくなって……なんの記念日
かしら？ お付き合いの１周年？」
「彼女の誕生日なんです」
アバッキオが眼で必死になにかを訴えているのに気づかず、ブチャラティは致命的な個人情報を曝
してしまった。
「まあ、偶然。うちの家出した娘とおんなじ誕生日だわ、ねえ、ステファーノ」
「おや、そうだったかな」
夫の方はとぼけて見せたが、ブチャラティは歯車がぴったり合う音をしっかり脳裏に聞いていた。
父親はステファーノ、母親はクリスタ。ネアポリス郊外の田舎町の出身で！ 隣のアバッキオは失神
寸前に震えていた。
……ご両親か？
……Ｓｉ！
眼で尋ねると、泣きそうなまなざしで肯定してきた。
……フーゴッ！ この誕生日のサプライズ・プレゼントはサーヴィス過剰だッ！！
二人、きっと同じ台詞を胸中叫んでいただろう。
「すてきな偶然に乾杯しましょう。ねえ、ブチャラティさん」
女王様の涼しい目元は、そういえばこの２０才の誕生日を迎えたばかりのライオンにそっくりなの
だった。
「……お嬢さん、家出したんですか？」
ついついブチャラティは聞いてしまう。
「お恥ずかしい、仕事で失敗して、そのまま行方知れずになったのよ」と、母親はきびきびとしたしゃ
べりを続けながら、食事はちゃんと口に入れている。
「あら、どうなさったの？ 召し上がって。お若い方がちゃんと食べないのは良くないわ」と、アバッ
キオにもちゃんと目配りして。
「あ……はい」
恐ろしいほどの冷や汗にしとどになりながら、アバッキオはなんとかナイフとフォークを操ってい
る。
……このおかあさんにガッチリ締められて育ったんだなあ。親が怖いって、父親じゃなかったんだ。
ブチャラティは感慨とともに見守ってしまう。
「それじゃあご両親はご心配でしょう。若い女性がそんないつまでも行方知れずでは」と、知らんぷ
りで社交辞令を口にして。
「本当に。ただ真面目なだけが取り柄で要領の悪い子だったから、今頃はもう悪い人に騙されて、闇
の世界に身を落しているんじゃないかと気が気でなくって」
「でしょうね。いまは何かと物騒ですし」と、ブチャラティは話を合わせるが、
「そんな心配しなくていいッ……んじゃないでしょうか」と、アバッキオは暴発しかけて、それでも
途中から空気が抜けたようにしぼんで小声になる。
「どうかしら？ こちらのお嬢さんは、ご両親はどうしていらっしゃるの？」
「……田舎で元気にやってると思います」
それはもう元気に。夫婦で週末にディナーを楽しみにネアポリスに出てくるぐらい。
「それでもきっと、ご心配してらっしゃるわ。週に一度ぐらいは電話でもして差し上げたらどうかし
ら」
「そう……ですね」
眼を合わさないように、アバッキオは肯いた。
「変な話題になってしまったわね」と、母親は軽く笑って話題を変えた。
「うちのばかな娘の話なんかはもういいわ。あなた方のお話を聞かせて？ どうやって知り合ったの？
もう結婚の約束はしたの？」
「クリスタ、よさないか」
話題は変わったうちにはいらなくって、察しているのかいないのか、父親が慌てて遮った。
「酒場で知り合いました。実は、前々から憧れていたので口説き落としました。仕事で失敗して傷付
いてた時につけ込んだみたいになってますけど」と、ブチャラティが、聞こえがいいように事実を改
変する。
「まあ」
「今、一緒に暮らしてます」と、言い添える。
「ちょ、会ったばかりの方に言うことないだろ」
慌ててアバッキオが遮る。
「まあ。昔風の考えで言うなら、ふしだら」と、母親は言い捨てて眼を輝かせた。アバッキオはもう
テ−ブルの下に隠れそうに身をちぢこませている。
「クリスタ！」
父親はスルーされている。
「結婚はッ、申し込むつもりですッ。なんなら今、お二人を立会人に教会に行っても」と、ブチャラ
ティはムキになる。
「ブチャラティ！」
もうアバッキオは半べそだ。
「ブチャラティさん、それは、勇み足よ。女性の結婚についての思い入れを無視しちゃいけないわ。
こういうことは、順を追って、きちんと形を整えていかないと。こんな、偶然相席になった知らない
二人を立ち会いになんか、しちゃあいけないわ。ちゃんとご両親に挨拶に『来ない』と」
うっかり、母親の方も芝居を忘れかけている。
「そうでした。すみません。レオナも、ごめんな」
率直に謝ったブチャラティに、母親は機嫌良い笑顔を見せた。しかし、迫力のある美人だ。
「うん……」と、アバッキオも肯いてみせる。
「デザートが来たようだ」
父親が、巧い具合に雰囲気を変えた……。
突然、食器が割れる音が辺りに響いた。
「ふざけるなッ！」
ブチャラティの方からは視野に入っていた。中程のテーブルで、さっきから商談をしていたらしい
のが、どうも巧くいっていなかった。どんどん追い詰められる下請け側に比べ、発注側はかさにかかっ
て無理難題を言いかける。見ていて気の毒になるほどで、もうしがらみを切って自由に仕事を求めた
方がいいのではと、その場で漏れ聞いている皆が心を一つにしていた。
「あんたたちはいつもいつもおれたちをばかにしてッ……あれを期日までにあのレヴェルであげるの
におれたちがどれだけ苦労してるか解ってるのかッ！」
「解らないね。解る必要もない」
高慢さをむき出しに、発注側の男が葉巻に火を付けて、ゆっくりとふかした。
「畜生ッ！」
手近のテーブルナイフを手に、とうとう下請け側の男が発注側の男につかみかかった。
ひゅっ。
まずは、風を切る音だけがした。
次には、銃声。
その瞬間、優雅に会食していたはずの雌ライオンは、席を立って１流レストランのディナーの席で
ピストルを発射した男の腕をねじ上げていた。
「な？ なにをする……？ 正当防衛だぞ」
発注元の方の男は、身の危険を感じていたようだ。護身用に銃を持っていた。クロークで預けるの
が筋だが、それをやって命を代償に払うことになったと言う話には、こと欠かない。しかし、テーブ
ル・ナイフを手に激高して襲いかかってくる相手に発砲というのは、過剰防衛の範疇に入るのでは
ないか……。しかし、それを考えるのアバッキオの仕事ではない。
その追い詰められたネズミの方は、彼女の上司が取り押さえて、ナイフを腕からもぎ取ったところ
だった。
「お見事、レオナ」
からりと微笑まれて、少し気が逸れた、そこを逃さず、男はレオナの脇を突いて逃げ出そうとする。
「甘い！」
引いた一歩に重心を移し、握ったままの手を引き込んで一緒に倒れ込み、蹴上げるように男を背後
へ投げ飛ばす。
「決まった！ イッポン！」
「さすがだぜ！ アバッキオ」
「いいアトラクションだったな」
推移を見守っていた客達からは、やんやの喝采があがった。
「……騒ぎにしてしまって済まないな」
警察が呼ばれる間、ブチャラティはホール係に謝っていた。
「いいや」
黙って、ホールのケーキを載せたワゴンを押し出して、男は首を横に振った。
「こいつぁ店からの奢りだ」
豪華なデザートも満喫して、４人は食事を終えた。
「お若いひととご一緒して楽しかったわ。こういうハプニングもたまにはいいものね、ねえ、ステファー
ノ」
「……ああ」
背筋の伸びた「女王様」は、クロークでストールを出してもらって振り向くなり、まあ、と声を上
げた。アバッキオのドレスの脇が、脚の付け根当たりまで裂けている。まあ、あれだけ見事な投げを
うてば、当然。
「ああ、気にしないでください」と、アバッキオは後じさる、と、その１，２歩にも白い脚がなまめ
かしく見え隠れする。
「いけません、若い娘が！」と、かがみ込むと、そのストールを腰に巻き付けて破れ目を隠す。
「ちゃんと町の皆さんのお役に立っているのね」
「ええ」
「いいひとと一緒に暮らしているのね」
「ええ」
「たまには、電話でも、手紙でも出すといいわ」
「はい……」
小声の会話を、男達は気づいているのか。
「それではここで。どうぞお幸せに」
「楽しかったです。お気を付けて」
偶然知り合った同士は店を出て別れた。
「それにしてもこんな偶然……でも、うちの子にしちゃ美人だったかしら？」と、駅へ向かいつつク
リスタが呟くと、
「あんなきれいに決まるトモエナゲ、うちのレオナ以外にできるわけないだろ」と、ステファーノは
断言した。
その背をアバッキオが見送っていた。
……とうさん、かあさん、ごめんなさい……。
追いかけて、一緒に帰りたいのだろうか、本当は。緑したたるあの町へ。実直で、清廉潔白なひと
たちの家庭に。
……もう、戻れない。解ってる。
少しずつ、後じさりして、ブチャラティがキャッシャー係と立ち話をしている間に、アバッキオは
夜の街に消えていった。
６
「えーっ？ はぐれた？ 知りませんよッ！ 少なくともこっちには戻ってません！ サプライズだぁ？
知りません！ ぼくがなんだってそんなややこしいコトしなくちゃいけないんですッ！？
……はあ、レストランで捕物。やってくれますね。ドレス姿でトモエナゲ！？ なに考えてんだあ
のライオン！？ はあ、やっぱり思いっきり見せてましたか？ あんたもそんなこと喜ばないッ！
ああ、もうッ！ 解りましたッ！ ナランチャとぼくも出ますッ！」
電話を切るなりフーゴはナランチャを呼び出した。行き先は……ちょっと男には敷居の高いあるお
店。
行くあてもなく、彼女はその店のカウンターに、ずっと寄りかかっていた。ちょっと今日の偶然は
心臓に悪かった。いたずらでやったことではないだろうが、一言断って欲しかった。
……やっぱり気持ちはすれ違っているのだろうか。
心まで、預けきるには足りないのだろうか。
もう、あの男なしには明日のことなど考えられないのに。
憂わしげな美貌に、時おり男が誘ってくる。それを、手厳しく追い払う。また、背後に人が立った。
「困るな、あんたみたいなきれいなアマチュアにお商売されると、おれたちにお金払って立ってるプ
ロが困るんだ」
苦情がいったらしい。地回りが来たようだ。
「あたし……商売なんて、してるつもりは……泊まるところさえあればいいんで」と、そこまで言っ
たところで、前にもこんな会話をしたような気がしてきた。ふと見上げると、ブルネットのボブの男
が、夜空のような眼でアバッキオを見下ろしていた。
「泊まるところがあればいいのか？」
少し微笑んで、懐から出して来たリボンのかかった箱を開けた。チェーンの付いたシンプルなペン
ダントヘッドを取り出して、首に掛ける。
「……認識票？」
スターリングシルバーのプレートに、刻印されたパーソナル・データに眼をやってアバッキオは呟く。
「迷子札だよ、仔猫ちゃん。ほんとにあんたはよく迷子になる……あんたのうちはもうあそこなんだ
から、ちゃんと帰ってこなくちゃいけないよ」
そのまま抱き上げて、店を出た。アバッキオはその背にきつくしがみついた。
「あれ、フーゴも知らないってさ。ホントに凄い偶然」
「かあさんかも知れない。あのひとものすごく引きが強いの。神懸かり的に」
そんなことを囁き交わしながらフラットに帰り着くと、
「ほらッ！ やっぱり。ナランチャ、こういうひとたちのことは心配しても無駄だと言ったでしょうッ！」
彼らの頼れる参謀が、眼を三角にして立ちつくしていた。
「おかえりなさい。それではぼくたちからのプレゼントです」と、華やかなラッピングの小箱を手に
押しつける。
「ええ？ いいよ別に」
また、アバッキオは不愛想を装う。
「いいえッ！ 今日という今日は受け取ってもらいますッ！ なんですかッ、レストランの真ん中で
ドレスで思いっきり脚を広げて暴漢を投げ飛ばしたって！ あんたの下着の色かたちまで町中のいい
噂になってましたッ！ 着飾って出かける時はもっと土台からキメてくださいッ！ ブチャラティの
恥になるんですッ！」
「……って、これ、下着？」
「オレたちは見てねーからなッ！ フーゴが予算とこんな感じってだけ店のひとに伝えて選んでもらっ
たんだからなッ！」
真っ赤になったナランチャが言い添える。
「か、勘違いしないでくださいよッ！ こんなものを贈るからって、あんたに劣情を感じたりなんか、
全然してないんですからねッ！」と、言わずもがなのことをいってしまってどんどん天才児は顔を赤
らめる。
「へえ。フーゴ、ありがとね」と、足を進めるごとにドレスの裾の破れ目からちらちら見える白い脚
に、少年の眼は釘付けとなっている。
眼を細めて、蠱惑的な表情を作って、ご機嫌な雌ライオンは身をかがめて、素直でない天才児の頬
に唇を押しつけた。
ちゅううっと、ご挨拶にしては長めに頬を吸う。
パンナコッタ・フーゴは、顔をトマトのようにしてフラットの玄関先に腰砕けに坐りこんだ。
０３−０５−０９
＜おまけ＞
「でも、レオナが無事でやってることが判って良かったわ。さすが、妖精さん」
クリスタ・アバッキオ。自分の希望通りの未来を引き寄せる最強クラスのスタンドを持つ能力者。
本人は自覚しておらず、妖精にお願いして叶えてもらったと思っていて、ごくごくたまに、些細な
ことにしか使わない。
＜別解＞
「ですから、色は上品なクリーム色か、せいぜい淡いベビーピンクまで。足捌きが楽なようにハイレッ
グカットで。脇にはエレガントでかつ艶っぽい感じのレースをあしらって。もちろん、ケミカルレー
スなんて安っぽいもんじゃなく！ 最高級のものを。
それで通気性のいい、肌触りのよい素材に限ります。女性のあそこは清潔を保ってもらわないと」
「お客様、商品をお出ししますからご自分でお選びになってください（末恐ろしいわ、このコ……）」
ひとの恋人に穿かせるショーツに延々ダメ出しをするフーゴだった。
＜別解その２＞
「そんでアバッキオが、化粧が濃いとか露出が多いとかでおかんにビシビシダメ出し喰らって、大汗
かいて半べそになってたって」
じつは彼女のご両親に紹介されてブチャラティがたじたじだったという噂も街では広がってたりす
る。
「もう、そっくり。一目で判る。女王様みてーなおっかないおかん」
蛇足。
４００番のキリリクをいただいた「女アバッキオ」です。お楽しみ頂けましたでしょうか。
娘が冒頭２枚ぐらいを見て「ド・ツンデレ！」と吐き捨ててました。うん。ツンデレ書くの楽しかっ
た。女王様のようなアバママも。このひともしかしてドＳ？ でも、田舎の真面目なオバチャンとい
うことで。ドイツ系だし。家事とかびっちりこなしてそうな。
バファリンの半分は優しさですが、ブチャラティの優しさは９割９分ぐらいまでいってるんじゃな
いでしょうか。ブチャおねえさんとはまたちがうメロメロッぷり、巧く出せましたかどうか。
このフーゴはアバッキオには惚れてない。たぶん惚れてないと思う。惚れてないんじゃないかな……
まちょっと覚悟はしておけ（古い）。
何度もお商売云々と過激にあげつらってるが、フーゴが本当に問題にしてるのは不特定多数と交渉
を持ってたことではなく、今現在かわいげのある態度を見せてないこと。ブチャラティがこんなに想
いを示してるのに応えてないから腹を立ててるだけ。ブチャラティ命。
じゃあやっぱりパーペキ（Ｐｅｒｆｅｃｔでカンペキ）なブチャラティの恋人にそういう過去があ
るのが許せないんだろうか、そんな辛辣ないじめ方するなよ。って、やっぱり好きなコを苛める心理
なんだろうか。